からめ

『娼婦のムスコ』(強気攻め×気弱受け)



 バーに備わった大理石のトイレ、その限られた狭い空間で。数分前まで繋がっていた相手。タカは異性愛者だった。
 そうした用途に使われやすいこの店のトイレには消臭機能と洗浄器具、コンドーム自販機まで都合良く備わっており、現在、事後の匂いの消臭中。洗浄は軽くだけ。

 ウ゛ーンと固いものの揺れるような、消臭の音が響く個室の中で、セネカとタカは近い距離。先程一緒に掻いた汗は、みるみると冷えて行っている。タカは遠い目で、壁の一点を見つめながら無言で、セネカを不安にさせていた。額にそっとキスをしてみたが、無反応。どうしたことか。
 全てが済んで、軽い片付けを終えて一息をついて。その顔を見たら、何かを失ったような顔で、呆然としていた。

 タカは華奢な身に優しげな顔と、陰気な色気を持ったセネカの好みど真ん中で、一目見ただけで体中の好意スイッチを押された。全身から大好きオーラを放って迫ったら、それが伝わったらしい、最後まで応えてもらえた。タカはセネカによって、同性愛の世界を知った。
 初めてのことで、驚いたり怖がったりする気持ちはわかる。しかし事は全て済んだのだ。今は、何だこういうものだったのか、と安心の一つでもする時間じゃないのか。行為中のほうがまだ余裕を持っていたような気がする。
 先程までのタカには、セネカの手管に流されて行くのを楽しんでいるような風があった。笑い声を上げたり、微笑んだり、時々戸惑いは伺えたが、拒絶の色はなく。快楽に弱い性質なのだろう、最初とは思えない程、しっとりした色っぽい反応を見せ、セネカを満足させた。だから、この反応は予想していなかった。
 今のタカは、青い顔で震えている。被害者のような顔つきで、何かに怯えている。……強姦したみたいじゃねぇか。


「タカ」

 呼ぶと、顔は向けてくれるが視線を合わせない。

「合意じゃなかったのか、今の」
「いや、合意だったよ。大丈夫。俺が悪い。あの、びっくりしただけだから。
 自分がこんな肉欲に弱いと思ってなかったから」
「男同士も良いだろ」
「他人事ならね」
「あ?」
「ごめんなさい」

 怯えたような顔で見上げないで欲しい。気分が悪い。頬を抓ってやると、顔を振って嫌がった。

「俺がおまえの初めてか?」

 聞くと、カッと頬を染め、耳を塞いだ。

「おい、どうなんだよ?」

 塞がれた耳に向かい確認。男同士、やっちまったもんはしょうがねぇだろう。おまえはこっち側に、もう来たんだ。

「ノーカウント」
「あ?」
「ノーカウントで、酔ってたからってことで、なかったことにしてくれないかな?!」
 
 ……。なんだそりゃ。

「駄目?」
「つまりおまえ、やり逃げする気か?」
「えっ?!」

 憎たらしい程に、顔の色を失って俺から逃げようと壁に寄ったその反応。最低すぎるだろ。
 ヴィンチでは宗教の戒めがあり、睦言を一度きりの関係で終わらす輩は少ない。

「俺が誘って、おまえが応えた!
 二人で責任被ったよな?
 身体だけで終わらすのか?」
「そん?! え?!
 いや、申し訳ないけど、そのつもり。
 ていうか、言い方酷いよ。俺は……」
「一ヶ月ぐらいはお付き合いしてくれるもんだろ、こういうことしたからにはよ」
「そういうもんなの?」
「そういうもんだ」
「え?! 知らなかった! そんなの」
「やっただけの関係とか、寂しいだろ」
「まぁ、うん、でも、行きずりの人と最後までしたなんてバレたら、俺……」
「最低かてめぇ」
「いやっ、あの、駄目なんだよ、俺の場合。
 俺は、もっとしっかりしなきゃダメなんだよ。お見合いとか……、ちゃんと、家同士が納得してる関係じゃないと、結べないんだ」
「一目惚れを信じねぇタイプなんだな」
「……色々あるんだよ、そういうわけで、俺のことはもうこれっきり、一回だけの相手として考えて欲しい」

 興の醒めることを。

「よくなかったのかよ?」
「それは聞かないで。
 でも、俺は訳があって軽い関係は結べない。
 俺は、肉欲に溺れるわけにはいかないから。
 溺れやすい自覚があるから尚更……。
 貴方は上手な分、危険。
 これ以上関っちゃ駄目だと思う。
 しょっちゅう、して欲しいと思うようになってしまうかもしれない」

 きゅん、と咽喉から胃の間、心臓の周辺がどよめいた。

「い、良いじゃねぇか。俺はおまえにならいくらでも欲情できる。求められたら、いつでも応じられる」

 顔を近づけて、熱っぽく訴えると、タカは唇を噛み、目を潤ませた。

「求めるようになんか、ならない」
 
 事後特有の怠惰な色香を漂わせ、吐息と一緒に喋る。欲望の熱が、盛り返して来ていた。もう一度繋がりたい。純粋に、そう思った。

「取り敢えず場所変えるか?」

 場所を変えて、今度はもっとじっくり。

「いや、だから、もうこれっきりで終わりだって」
「終わりって何だよ」
「終わりは終わり、おしまいってこと」

 見かけの柔らかな印象に反して、頑固なタカの内面に、頭が痛い。好みど真ん中で、身体の相性も合って、文化レベルも近そう。少し喋っただけだが、恐らく性格も良い。

「タカ」
「ごめんね」

 答えをはっきりと提示されたが、これで終わりにはしたくない。

「ごめんは言うな」
「ごめん」
「とにかく場所変えるぞ」
「話聞いてた?」
「水買って来る、待ってろ」

 一先ず作戦を練るため、セネカは現場を離れた。店の隅に置いてある自販機には、飲み水から毛布、大人の玩具、アイスクリーム、流行小説、ボールペン、と雑多な商品が並んでいる。
 毛布とアイスクリームが売り切れていて、ボールペンが残り一本。硬貨を入れて飲み水を選ぶボタンを押し、商品を待つ間に作戦を立てた。
 よし、これならイケるという案を二つほど思い浮かべ、意気揚々と戻った。しかしその頃には、タカの元にはタカの兄、ミノスが駆けつけており、セネカの作戦は実行前にたち消えた。
 当然セネカはミノスを恨んだが、このミノスは後日、セネカにとって大いにプラスの働きをしたのだった。ミノスはセネカを、タカも住まう自宅に、招待したのである。

「ああ、セネカ・マグラン!
 よくいらしてくれた!!」

 よく晴れた日の午後、タカの家に踏み込んで、一番に駆け寄って来たのは、タカの兄、ミノスだった。目を輝かせて、頬を染めて、セネカを迎えたミノスの顔は、無邪気な少年のよう。
 セネカは高級兵士という職にあり、その職は子どものなりたい職業ランキング、十年連続一位だった。

「兄さん、ほら、時間でしょ」

 何やら用があるらしく、ミノスはタカに急かされながら、玄関口から、玄関の外へと身を移動させて行く。セネカを出迎えるついで、
自分も外出するところだったようだ。

「話はまた今度ゆっくりと」

 適当にあやすと、ミノスは大きく頷いた。

「ええ、是非! 絶対に!!」

 そうしている間にも、タカに背を押され、車に乗り込み去っていった。

「気の良い兄貴だな」
「闘技マニアなんだよ」

 将を射んと欲すれば先ず馬を射よ。
 セネカはミノスを全面的に頼り、今この場に居る。おみやげに闘技関係のグッズまで持参して、我ながらあざとい。

「家の者が席を用意してくれたみたいだから、二階の庭園まで来てもらえるかな…?」

 タカはセネカと視線を合わすことなく、屋敷の中にセネカを引き入れた。屋敷は一目では全体が掴めぬ程、巨大で神殿のようだった。
土地の広い場所であることを利用して、敷地内にいくつも人口の森を作っている。使用人が暮らしているらしいカラフルで小さな家々がぽつぽつと、森の景色に映えていた。
 屋敷は卵色の太い柱と、真っ白な壁に、明るい色の花が付いた植物の蔦が絡まり、見事に美しい建物だった。
 タカの家はセネカの住むヴェレノの隣地域、フィオーレの端、ヴロヴナという領土の中心地にあるヴロヴナ屋敷であったのだ。タカはヴロヴナ家次男だった。
 トイレの精だとかプロの娼夫だとか、随分なイメージを抱いた後の衝撃。貴族というオチ。
 セネカの血にも一応、名家が混じっているので、気後れはないが驚いた。
 そうか。だから、あんな空気を。
 端々で感じた、タカの身を取り巻く薫るような重圧、あれは気品だったのだと後になってわかった。一目見た時、脳裏に浮かんだ喩え。何かの「精」みたいだ、とは、また夢見がちな感じ方をしたものだ。

 ヴロヴナ屋敷二階、見事な庭園が目の前。タカは薄手の服を着て、襟元にむっとするような色香を漂わせていた。あの繊細そうな顔で、愛しげに庭を眺めている。
 今日のタカは庭の精だ。
 セネカはタカを視界に入れながら、この美しい景色も、タカが居るからこそ良く見えるのだ、などと恋に浮かれたことを思う。
 すっかり心を奪われている。
 今日、少しでも好印象を植え付け、次の約束を交わそう。
 ヴロヴナ屋敷二階には、長く広いベランダの庭園が続いており、その丸い中心部に、テーブルと椅子の並んだ茶会の席があった。
 主だった使用人と、近隣の名家らしい客が混ざって、セネカを歓迎し、輪の中に招き入れる。珍しい客が訪れるというだけのことで、お茶会を開く貴族趣味。

「ヴロヴナ家当主の御血筋に対し、トイレの精はなかったな」

 雑談に二人しかわからない話題を。
 耳元に囁くと、タカは困ったような微笑をして、何の返事も寄越さなかった。

「ヴロヴナといったら、ヴィンチ王族の遠い親戚だろ?」

 さぞ血統に対し誇りを持っているだろう。タカが初めて会った日に、セネカを冷遇したのは、セネカがタカを「トイレの精」だと思ったせいかもしれない。

「無礼を許せよ、馬鹿なんだ俺は」

 謝ると、タカは首を振った。

「俺なんかトイレの精だよ、実際」
「おい、むくれるなよ、もう間違ったりしない」

 誓うと、何が可笑しかったのか、タカは、ふふふと笑って口元を隠した。

「何か変なこと言ったか?」
「いや? 血筋ねぇ……そればかりだね、うちは、資産や規模、土地、どれを取ってもフィオーレじゃ二流だし、人格者を輩出した歴史もない。
 ただ、血筋だけが売りっていう、情けない家だ」
「家が嫌いなのか?」
「大好きだけど、評価はしてない」

 セネカは貴族事情にあまり詳しくはないが、
ヴロヴナはヴィンチに寄ったフィオーレの端という土地柄もあって、開発が遅れていたはずだ。
 セネカが知識を辿っていると、タカが顔を近づけて来た。少し照れる。

「ヴロヴナの地は、ヴィンチに近いでしょ?
 だから当主一族も、住人もヴィンチの風習を、悪習ごと大事に守り続けてる。
 考えの古い、閉じた人間が多い。発展途上というより、発展する気がない、ただの貧しい地域なんだ」
「でも、美しいな」

 ヴロヴナの地は美しい。来てみてわかった。

「そうだね、綺麗さなら……。
 フィオーレにも負けない自信がある」

 タカはやっと笑った。眉を下げて目を細め、キラキラと金髪を輝かせて。ふわりと盛り上がった頬にキスをしたい。顔を近づけたら、ぐっと手で押し戻された。

「やっぱりお血筋ですねぇ」

 使用人の一人が、笑いながら発言した。
 セネカが目を向けると、彼女は初老の顔を、
優美に綻ばせていた。

「ミノス様から伺いましたが、タクオ様もついに人を誘惑する術を身に付けられたとか……」

 タクオとはタカの本名であるが、セネカは最初にタカから聞いた、タカの名を定着させていた。

「そんな術を身に付けた覚えはないよ……」
「まぁいやだ、勘違いなさっては……。責めてなどいませんよ、お血筋ですから、仕方がないものと心得ております。貴方はもう次男ですし、ご自由になさってください」

 使用人の席もきちんと用意されたお茶会で、彼女は使用人の中、一番の席に居た。恐らく女中頭。ヴィンチの風習である、屋敷を一家に見立てた暮らしを享受しているらしい。使用人は屋敷の中、家族のように扱われる。

「何の話だ?」

 セネカの質問に、彼女は周りに目配せした。
何人かの若い女中が、おろおろと彼女と、タカを見比べた。

「タクオ様の産みの方はカラツボの高級娼婦でございます」
「娼婦……」
「ええ、ですからこちらにはお呼びできず、タクオ様は最近まで、産みの方のお顔をご存知なかったのですよ」
「それは可哀想だな」

 横目でタカを見ると、タカはすっと目を伏せた。

「ええ、そりゃぁ、可哀想ではありましたが、我々働き手としても、誰も彼もヴィンチの名家から参じてますからねぇ、カラツボのようなところからいらっしゃった方が屋敷内におられてはやりにくいですし、お父上のご判断に感謝していますわ。
 タクオ様には、可哀想でしたけど」

 すました顔で、何という発言をするのか。
 耳を疑いつつ聞いていると、ふいにタカが溜息をつき、椅子の背から身を起した。

「ミナさん、俺の話なんか暗い雰囲気を作るだけだから、もっと最近の、明るい話題はないかな」
「明るい話題ですか、そうですねぇ、ミノス様がいらっしゃったことなどは?」
「……明るいね」
「本当、ミノス様は私どもの未来に光を与えて下さったわ」

 ミノス・ヴロヴナはタカの兄として、二、三年前、突然その名を貴族会に示した。と、セネカは今日に向けて学習していた。
 タカはミノスが来るまで、長男として育って来て、ミノスが現れた途端、次男になり家の相続権を失った。

「どうなることかと思っていたもの、それまでは、……ねぇ?」
「……」
「タクオ様だって不安でしたでしょう?
 ヴロヴナの取り得など血筋だけですもの」

 すらすらと、聞いている第三者さえ不快になるような、挑発的な言葉を吐くこの者は、自分が使用人という立場を理解できているのか。何を考えているのか。

「母を悪く言うのはやめてくれないかな」
「あら、悪くなんて言ってませんわ、敬意を持ってますわ、娼婦の血だって、悪いものじゃありませんよ、勿論。現に貴方はその血を立派にご活用なさって、こんな素敵なお客様を呼ばれたでしょう?」

 どっと笑い声。五人居る使用人と近隣の名家らしい二名の客。全員がタカを侮辱する冗談に、心地よさを覚えている。
 何だこいつらは、この場所は。

「俺にもわかる話をしろ」

 不愉快のあまりに、厳しい声を出すと、やっと笑い声が止んだ。

「ああ、申し訳ありませんセネカ様。
 伝わりにくい冗談でしたね」
「こんな冗談のどこが面白いんだ」
「すみません」

 初老の女中頭は、頭で納得して、心で納得しない、という様子で何かそわそわとしている。

「タクオ様がもう少し、しっかりお話のできる方でしたら、私共も黙っているのですが、この通り……、少々頼りないお方でしょう?
 本当にミノス様が来た時は救われたんです。
ただそれだけの話で」

 タカの暗い顔が、少しだけ悔しそうに歪んだ。この女中頭は、何故そこまで自分の主人筋であるタカを侮辱したいのか。

「この方は父の恋人として、長く父を支えて来られたんです」

 セネカの疑問を察したのか、タカは女中頭に掌を向けて衝撃の事実を知らせてくれた。

「まぁ昔のことを」

 女中頭は照れたように、口に両手を当て周りを見た。周りに居る中年代の女中仲間が微笑む。

「ですから私達とは、格が違うんですよ、ミナさんは、ねぇ」

 中年代の、ふくよかな女がタカに対し同意を求めて来た。まるで、妾腹の子に対し、正当な夫人を敬えとでも言いたげである。

「いつもこんな感じなのか?」

 抽象的な質問を投げると、一同はぽかんとして顔を見合わせた。

「うんざりしたでしょ」

 タカが返事をくれたので、頷く。するとタカはほんのりと笑って腰を上げた。

「俺は少し席を外すね」
「え?!」

 ここに俺を置いていくなよ。

「やぁー、遅れた遅れた」

 そこに、下の庭から続いているらしい螺旋階段を、一同が席を設けているベランダの庭まで大男が登ってきた。

「すいませんね、庭師クレオです」

 ごつい手をこちらに差し出しながら、男はふとタカを見た。

「どうした、座れ」

 確かにその言葉は、命令だった。
 庭師がどうして、タカに命令をするのか。

「実は私、彼の義理の父になりましてね」
「は?」
「彼の母親のタクシリアはね、良い娼婦でして、通っているうちに娘が」

 かっとなり、殴ったが問題はないだろう。
 この庭師は恐らく、タカの事情をわかっていて、タカの母親に近づいたのだ。

「俺も大概悪党だが、おまえ等は下衆だ」

 罵ることには慣れているが、罵られるのには慣れていないらしい、使用人達の顔には戸惑いが浮かんでいた。

「何するんです、急に」

 庭師は頬を押さえながら、セネカから逃げるよう、タカの横に行った。

「聞いているんですよ、俺ぁ、ミノス様からあんたのしたこと、うちの息子に手出しなさったそうですね?!」

 黒い土のついた手で、がしっとタカの肩を持ち、庭師セネカを睨んでいる。

父親として、許せませんな!」

 タカの細い肩を、砕くのではないかという力の入れ方。庭師はタカの肩を掴んだまま、セネカに唾を飛ばした。
タカの肌の白さが、庭師の手を一層汚れて見せる。その手を離せよ。
 詰め寄って力ずく、引き離そうと足を出した。

「いい加減にして下さい」

 と、そこで小さな声だったが、タカがクレオに抗議をした。クレオから逃れ、うんざり顔をつくり、セネカを気遣うように見た。

「あっ?」
「妹とは仲良くしています、貴方は妹にとって良い父親だ。しかし、貴方に俺を支配する権利はない」
「おいおい、そんな寂しいこと言うなよ、家族だろ?」
「いいえ、俺にとって貴方はただの……」

 タカの言葉の途中で、庭師を気絶させた。
 茶会は騒然となり、大変、と女中頭が呟いて皆がガタガタと席を立つ。人が気絶するような事件があまり起こらないらしい、田舎の屋敷内は、騒々しい悲鳴と足音に包まれた。

 使用人たちが、やっと使用人らしく事態の収拾に取り掛かるのを横目に、俺はタカの手を引いた。

「一対一になれる場所は?」
「俺の部屋かな」

 てっきり屋敷の中にあるのかと思ったタカの部屋は、屋敷の外、森の中にあった。
 使用人の家々に混じり、ひっそりと小さい。
 どうしてこんな迫害を受け続けておくんだ。
鼻につんとしたものが込み上げ、守ってやりたい、という思いが胸を覆った。
 部屋についてすぐ、後ろから抱きしめると腹に蹴りが入った。

「ごめんね失礼な人ばっかりで、気分悪くしたかな」

 蹴られた腹を摩りながら、部屋の中を見渡すと、所狭しと本が積まれていた。

「皆、暇だからああなっちゃうんだと思う。
 うちはもう少し何か仕事を増やさないといけない」
「……、最後の男は何を考えてあんな態度なんだ?」
「あの人は、この家で一番血筋がよろしくないから、俺の義理の父親ってことで地位をつくりたいんだ。困った人だよ」
「……」
「この家は血筋が全てなんだよね。誰も彼も、どこかの名家の次子で、家の伝手でうちに勤めに来てるんだ。
 格の順に仕事まで決まる。あの女中頭のミナさんはヴロヴナの分家筋で、弟さんはヴィンチ王室にお勤めだから、皆の尊敬を一心に集めてるよ」
「実力は、あるのか?」
「そんなのは二の次、大体、難しい仕事もあまりないし。失敗をしても俺に怒られるだけだから。家の雑務の管理は俺の仕事なんだ」
「おまえそれでいいのかよ」
「俺は趣味さえ邪魔されなければ何でも良いよ。母親が娼婦だって事実はどんなに頑張っても消せないし、必要最低限、求められた仕事だけはこなして、後は架空の世界に慰めてもらう」
「架空の世界?」

 部屋中に溢れる本を見回しつつ聞くと、ふふふ、と笑い声が返った。

「架空は良いよ、只管綺麗で、嫌な人の居ない世界に行くことができるから」
「えげつない読み物もあるだろ」
「そういうのは読まなければ良い。
 俺は幸せな話が好き」
「例えば?」
「例えば、えっと、ちょっと待ってね」

 言うと、タカはセネカの立っていた横にすいっと寄った。目当てのものがその位置にあるらしい。ごそごそと本を探すタカの身がすぐ近く。抱きつくと、やはり蹴りを入れられた。

「これ」

 手の上に、どさっと落とされた分厚い本。
 きっと中には字がびっしりなのだろう、吐き気を催す。セネカは本が苦手だった。

「物語はもちろん、登場人物が皆優しくて、思いやりがあるんだ。途中はらはらすることが多いけど最後は凄く幸せで。読み終わった時なんか、俺もこの中に入れてって、泣きながら本に頼んだぐらい」
「むなしくなんねぇのか? こういうの読んで」
「ならない、夢が膨らむ」
「ふーん」
「誰も可哀想な人がいないんだよ」
「そんなのは現実じゃないだろ」
「現実より良い世界なんだ」
 
 頬を染めた顔で、はしゃいで架空世界を賞賛するタカの口を力づくで塞いだ。舌を押し込むと、どんどんと肩を叩かれたが、かまわない。気遣いより腹立たしさが勝っている。目の前にある現実、セネカより、架空世界に、タカは心を預けていて。単純に妬けた。
 本棚に押し付けると、上から数冊、絵本がばさばさと落ちた。薄い服の上から乳首を見つけて、指の腹で摩る。

「ンうっ……、ふ」

 出来た芽を摘んだ瞬間に、びくんと腰を逸らした身は、またあの陰気ないやらしさを孕んでいた。
 塞いでいた口を離すと糸が伝い、はぁ、と熱い息が二人の間を暖めた。

「強姦でもする気なのかな?」

 嫌な言い方をして、タカは目を細めた。首の横にキスをして、腰を引き寄せる。

「合意に持ち込むにはどうしたらいい?」

 じっと見つめて聞くと、タカはぽぉっとした顔になった。

「……なかったことに、してくれるならいいよ?」
「なかったこと?なんでそんなっ」
「内緒にしてくれるなら」

 内緒って。

「なかったことに、できるなら」

 とろんとした目をして、息を吐くように囁かれたらもう、頷いてしまう。

「内緒にするならいいのか?」
「うん、ふふ、……俺とやりたい?」
「……やりたい」
「俺も貴方とやりたい」

 ごぽっと口一杯に心臓が出た。胸が痛い。ついで、急激に血の集まった下半身も。

「ねぇ、誰にも言わないで?」

 下がった眉が、懇願の顔を作る。妖しく艶かしい雰囲気に気圧されて言葉が出ない。黙っていると、タカはセネカの頬を両手で包み、二つの親指を使って、セネカの下唇をなぞった。天然でこんな行動を取るのなら、こいつは相当な……。

「タカ? っおい」

 楽しげに、淫魔のごとく顔を近づけて来る、その眼光に捉えられ、身動きができない。

「言わない? ね?
 言わないって言って、早く……っ」

 ああ、目が回る。

「言わな……」

 従った途端に、タカはこちらの鼻に噛み付いた。それから舌でぬらりと、その側面を舐め上げ、興奮した笑い声を出し機嫌良く抱きついて来た。なるほど、娼婦の息子……。

「良い人だ、良い人、貴方は良い人」
「おまえはちょっと怖いやつだな?」

 思わず言ってしまった。
 すると、タカはふっと声を漏らし、こちらの首に腕を回すと、二人の顔と顔を近づけ、息のぶつかる距離まで来るとニタリと微笑んだ。その、上と下が重なった睫の具合や、頬の柔らかそうな盛り上がり、細められた目の、
艶やかな迫力などが、思考を停止させた。
 体中の血が沸騰。殺す気かこの野郎。
 担ぎ上げると、ひゃぁっと楽しそうな声を上げた。

「誰が良い人だ、くそっ!」

 喚きながら、タカを部屋の隅にあったベットに放り、被さる。くすくすと笑われ、耳に噛みつかれた。耳に舌が入って来る感触に、ぞくぞくと腰を震わす。勢いにまかせ、向こうの背を摩り、尻の肉を掴む。ぐにっと手に馴染む感触。

「やわらけぇ」
「ふ……、そう?」
「なんでこんなっ」
「もっとやわらかくして」

 耳の中にペトリと、張り付くような声。

「了解」

 手に、ぎゅっと力を入れて、もみしだくとくすくすと、また笑い声が上がる。

「ははっ、あっ……、ふふ、あっ」

 腿の内側にも手を伸ばすと、首に縋りついた腕に力が入った。

「ぁ、いっ……、アッ、ふ、……くすぐったい、ぁ、はは!」

 笑う声の合間、嬌声に興奮する。

「服の前、開いて」
「え?」
「服の前」

 頼むと、ぼんやりと見つめられたので、乳首を見たい、と率直に望みを言う。少し汗ばんだ、互いの身体の薫りが空間を埋めていた。

「……うん、いいよ?」

 幸せそうな顔で、素直な声。微笑みを浮かべながら、するすると前を肌蹴るその指にキスをする。今、こんなに愛しいと思う気持ちを、数分後にはなかったことにしろと?
 そんなのあんまりじゃないか。

「ア……っ」

 現れた乳頭に吸い付くと、高い声が上がった。

「俺、なかったことにすんの、ヤになって来たんだけど」

 呟くと、じゃぁ今すぐやめる? と、容赦のない返事が来た。やめられるわけがない。

「くそっ」

 腹立ち紛れに、むきだしの乳頭を少し強い力で、舐めたり歯で潰したりと、こねくり回した。

「ぁ、力つよ、い……っいたっ……、んア」

 ついで、下部にも手を伸ばし、芯の入り始めた熱いものに指を絡ませ、くにゅくにゅと扱いてやる。

「んはっ……ン、んっ、やっ」

 ビクビクと身を揺らすタカの動きが、雑念を振り払い、本能を研ぎ澄ましてくれる。

「タカ」
「ぁ、……あぁ、っはっ、はぁ、ああ、っン」

 息と声を同時に出して、身を捩るタカの顔が、どうなっているのか気になる。

「タカ」

 手でコリコリと、小さな粒や勃起しはじめたものを弄りつつ、ちらりと目をやった。

「んうっ……ふ、ぁ……っ、ん」

 こちらの手の動きに合わせ、声を出しながら、タカは与えられる快楽に集中していた。眉を寄せ、うっすらと口をあけて宙を眺めている。

「あっ、あ……ん、はぁ、あっ、アッ」

 細かく声をあげて、快楽を訴えてくる。その様に、ぎゅっと股間を刺激された。

「タカっ」

 切羽詰って呼ぶと、にこりと恥ずかしげに笑う。おまえは本当に素人か。
 欲望に訴えかける顔、声を熟知しているように思えた。

「なぁ、自分で触ってみろよ」

 タカの細く白い手を、タカの胸に運びながら言うと、タカは困ったように目を伏せた。

「ちょっと恥ずかしいかも」
「全部忘れて、なかったことになるんだろ?
 ならやれるだろ」
「……」

 ほんのりと頬を染めてから、タカはするりとした指を、自分の乳首にひっかけた。

「んっ」

 それから摘んで、擦る。

「ッん……ふ、ぅン、ん」

 繊細な顔を歪め、上品な青年が自分の乳首を捏ねる。その様は淫らを絵に描いたようだった。

「もっと思い切って抓れよ」
「んっ!……こう?」

 摘んでいるタカの手ごと、乳頭を舐め、吸った。

「ウぁ、……は、ァァ?!」

 ちゅ、と粘着質な音が響いた。

「アッ……」

 仰け反った身を押さえ込み、ぐっと歯を立てる。

「ん、っは!?ぅぅ、は、ぁ、痛っ」

 熱い息と悲鳴。タカの嬌声は耳に絡みつくようで、非常に性感を刺激する。なるほど娼婦の血筋、と再び思ったが、絶対にそれは言ってはいけない気がした。

「ぁァッ……!」

 ピュ、と小さく飛沫が飛んだ。タカのペニスが精を放った。

「乳首だけでイッた?」
「……うん、凄く良かったっ」

 胸を上下させて、荒い息を吐きながら、タカは生理的な涙をぽつぽつと落とした。頬にキスをすると、ふふ、と笑う。こういう風に、これからも、交わることができたら良いのに。

「挿れていいのか?」
「うん、欲しい」

 金属音と笑い声を混ぜ、互いのベルトを外し、行為用の座薬とコンドームを尻ポケットから出す。

「ゴム頼む」
「うん」

 とろりとした顔で、タカがコンドームの用意を進め、その間に俺は座薬を出しタカの足の間に挿れた。
 ゼリーに覆われているそれは、する、とタカの内部に飲み込まれて行き、中で溶けて挿入をやりやすくしてくれる。

「指挿れて慣らすか?」
「いらない、中ウズウズしちゃってるから。指じゃないのが、すぐ欲しい」

 言いながら、タカは自然な動作で、ゴムを被った俺のものにキスをして見せた。

「は、さすが」

 言ってしまってから、しまったと思ったがもう遅い。タカは少し驚いた顔をしてから、諦めたように、今度はそれにしゃぶりついた。あっという間に、それはかたくなってそそり勃った。
 タカの腕をつかんで、仰向けに転がすとのし掛かる。

「んっ、ぅん、く……っ」

 ぬっと締め付ける感触はあったが、引っ掛かることなく、スムーズに入っていく。俺のものをのみこんで、タカは俺の一部になった。

「うぁ、ンん、……ふっ、ン」

 眉を下げた顔が、快楽に染まって歪んでいる。苦悶の表情に、喜びが滲んでいる。

「タカ」
「ぁ、ん……ひっ……っ」

 ぼろぼろと涙を溢し、目を瞑る顔に、ふっと息を掛けた。タカは俺の息で、ぱしっと目を開くと、困った顔になった。

「気持ちいいか?」

 聞いてみると、タカは少し驚いた顔をして、少し考えてから頷いた。凄く、と小さな声で呟き、ふわりと笑った。

「……俺、これ好きかも」

 幸せそうに綻んだ顔に、また、あの恐ろしさを感じる。今までで一番幸せそうな顔。こいつはこうしている時が、一番幸せなのかもしれない。

「ぁ、……んは、んぅ……、んっ、あ」

 動きを開始すると、少し苦しそうにして、しかしすぐに気持ちよさそうに顔の筋肉を緩める。目を閉じて、行為に神経を集中する。

「いいか?」
「いっ、ん、いイ、ぁ、あっ、あっ」
「タカ」

 名を呼ぶと、うっすら目を開く。
 目に溜まった涙をぽつんと落とし微笑む。大きく動くと息を止めて、ンっと眉間に皺を寄せ、ビクビクと身を震わせた。はぁ、と熱い息。

「タカ……」
「ん」

 顔と顔の距離が近く、甘い雰囲気が心地よい。額にキスをしてやると、タカは目を瞑った。次の動きを待っている。

「もう少し動く」
「うん」

 俺が終わるまで、当然付き合う気だ。こういう心構えが嬉しい。

「ちょっと激しくするけど」
「うん、大丈夫」
「悪いな」

 言いながら、ぎりぎりまで引き抜いて、突く。

「はン!」

 タカの眉間にしわがよる。またぎりぎりまで引き抜く。

「あっ!」

 突くと、身を屈めてよがってくれる。
 
「エロイ身体だな」

 思ったことを単純に口にして、また出来上がってきたタカのものを掴んだ。手の中に馴染むよう、熱くて固い存在は他人の生の象徴。
タカの脈がわかる。

「ゥはっ、ぁっ!や、ぁぁ、やぁ、っん、ン」

 腰を動かしながら、手の内のものも摩る。
タカはぼろぼろと涙を溢しながら、身を捩って善がった。

「ひ、はん、ぁぁ……、う、ウ」

 身の内をセネカのものが動くたび、声を上げる。

「ウく、……ん!んんっ……くうっ」

 真っ赤になりながら、はぁはぁと息を吐いて。

「タカ」
「あっ」

 すぐに快楽に意識を持っていかれるタカは何だか切なかった。そんな風に、タカを憐れに思った瞬間、強い快楽に襲われた。

 換気扇の回る部屋の中で二人きり。
 タカは部屋の隅に、不貞腐れたように寝転がっていた。

「どうして俺はこうなの?最低かも、自分嫌いになりそうかも、すでに嫌いだけど、さらに嫌いになりそうかも」

 ぼそぼそと、涙声の呟きを聞いて、聞かぬふり。片付けをする間は、ふふ、と盛んに笑い声を漏らす幸せなタカだった。それが、部屋から事後の雰囲気が消え、外の森から、鳥の鳴き声などが入るようになってから、タカは前回同様、みるみると青ざめて行き、よろりと部屋の隅に行くとそうなった。

「もうやんないって誓ったのに、結局、俺は娼婦の息子なんだよ、あんな気持ちいいなんて、肉欲って凄いよ、絶対的だよ、勝てるわけないじゃん、誘惑されたら、もうっ」
「その台詞は俺を褒めてるのか?」
「わからない、現実って残酷」
「現実じゃねぇとヤれねぇだろ」
「架空の住人同士のニャンニャン見てた方が楽しい」
「ニャンニャン?」
「トツさんに何て言おう、ずっと断わり続けて来たのに」
「おい、誰だよトツサンって」

 タカの小さな部屋の中、テーブルに着いている俺の目は、瞬時に写真物などを探した。
 驚いたことに、部屋には写真が一つもない。
 恋人や友人の顔を見ないで暮らしてやがるのか、こいつ。

「トツさんは友達」
「友達……、……俺は?」
「いやらしい友達」
「恋人じゃねぇのか?!」
「恋人じゃないよ。あなたに俺は勿体ない。あなたもあなただ。俺で妥協しちゃ駄目だよ」
「だ、きょ……う?!
 いや、してねぇ!
 むしろ望んで……」
「テモテさんのこと好きな癖に」
「っっっ?!」

 ヒヤリと、飛び上がり掛けた。胸の内を全て知られているのかと思った。双子の兄パウロを溺愛する世話係。セネカの世話係でもあるのだが、テモテはパウロだけを可愛がった。
 テモテはパウロセネカ、誰も見分けられなかった双子を見分け、パウロだけを見つめた。それは幼い頃から、ずっと変わらない。セネカはいつも、パウロに付きっ切りのテモテに、かまってもらおうと必死だった。
 ずっと、永遠に叶わない恋。
 テモテに対する、特別な想いを殺しながら、
何人か恋人を作り、別れ、これまで生きて来た。

「いつ知って……? 誰、に?!」
「噂でね、ほら、ミナさんの弟は、ヴィンチのお城勤めだから」

 セネカは元、ヴィンチ王室兵士だ。

パウロセネカの双子兵士と、その世話係がよく揉めるって、セネカが世話係に突っ掛かるという話を聞いてたんだ。パウロばかり贔屓するなって言って、貴方は同性愛者だし、可能性はあるなって」
「……う」
「真実だったんだっ」

 きゃぁ、と口に両手を当て、タカは黄色い声を出した。やられた。誘導尋問にかかった。しかし、これから恋人になるかもしれない人間の、過去の恋愛話に色めき立つなんて。
 もしかして、セネカはタカにまったく意識されていないのか。
「俺、セネカさんは一回ちゃんとテモテさんにアタックしなきゃ駄目だと思うんだよ」
「……、さっきまで俺達何してたか覚えてるか?」
「何もしてなかった」
「……っ」
「何もしてなかったよね?」

 ぐっと圧を感じたが負けるものか。

「交わってたろうが、濃厚に!!」
「っ……!」

 かぁ、とタカは頬を染めた。

「なかったことにしてくれるって言ったからやったのに、嘘つき!!」
「なんでなかったことになんかしなきゃなんねーんだよ」
「約束したのにっ!」
「でも実際、やったろ、健全に、楽しく!!
 精力的に!!」

 行為をなかったことにする意味が、セネカにはよくわからない。

「やってない」
「突っ込まれてアンアン言ってたろうが!」
「どちら様の話?」
「っ……てめぇ! マジでなかったことにする気かよ」
「なかったも何も、何の話なのか、ちょっとよくわかんない」
「ざっけんな」

 腹が立って勢い良く立ち上がると、部屋の隅、不貞寝しているタカの上に乗った。

「うわ重っ?! ちょっとどいて下さい」
「この尻で! 俺の、呑み込んで喜んでたろうが!」

 バシンと、タカの尻を叩いて、言い寄るとタカは顔を隠した。

「俺は何も覚えてない」
「じゃぁ、思い出させてやるよ、もっぺんやりゃいいか?」

 タカの身体の温度が感じられると、もう、肌を合わせたくなる。

「タカ」

 性欲に伴って、愛情も加速して来ていた。

「ごめんね」

 しかしタカにとって、セネカは肉体だけの相手らしい。真剣な顔をされ、じわりと額に汗が浮かぶ。

「俺が肉欲の誘惑に勝てれば、こんなことにはならなかったと思うんだけど、勝てなかった」
「こ……っの、淫売野郎、娼婦みたいな抱かれ方しやがって」

 嫌な気持ちになるような言い回しをしてやって、それでもまだむかむかする。

「ごめんなさい、肉欲に弱くて、ご迷惑お掛けしました」

 タカが素直に謝り、それがまた勘に触った。

「もしかしてだけどよ、俺達はこれで終わりとか言う気か?」
「終わりにしておいた方が良いと思う」

 この野郎。

「じゃぁ、金払う」
「……、……何言ってんの」

 部屋の隅に掛けた上着を取り、懐から財布を出す。

「待って、やめて、本気で!」

 財布からごっそりと紙幣を出して、バサッと塗すように投げつけた。

「嫌だ、絶対受け取らない、ふざけるなよ!
 俺がどういう血筋なのか知ってる癖に酷い!こんなの酷い!!」
「最初の客になれたなんて気分が良いな、また買いに来てやるぜ」
「待って!いらないから!!今すぐ返す!」

 喚くタカに背を向けた。
 タカを傷つけたことで、どうにか理性を保つ。

「待てよ馬鹿!!」

 紙の間から、手が伸びて来たが、さらりと避ける。それから蹴り技が来たが、やはり避けて、逆に肩を突き、腹に一撃を入れた。
 タカは舞う紙幣の中、倒れこんで呻いた。

「嫌だ! 買われたなんてバレたら!
 何て言われるか?! 立ち直れない!
 こんなの嫌だ! お願い持って帰って!
 全部拾って帰って!」

 タカは痛みで身動きができないようで、床にうずくまって泣いていた。今、誰かが来たら、紙幣の中で蹲っている、惨めな姿を目撃されてしまう。

「兄貴でも呼ぶか?」
「絶対にやめて」
「それともあの嫌な女中頭を?」
「っ」

 ふ、と音を立てて、本格的に泣き始めた。ちょっとやり過ぎた。反省してしゃがみ、紙幣に手を伸ばした。そこで部屋の鍵が、ガチャリと開けられた。タカの兄が、合鍵を使って入って来たのだ。俺もタカも呆然と見上げて、さらに悪いことに、兄の後ろには、ルカス・フィオーレ。眉間に皺を寄せ、部屋の有様を見た。

「何があったんだ?この部屋は」

 タカの兄が、タカに聞く。俺は静かに、自分のした事を悔いていた。

「何も」

 タカが、短く応えた。
 何もなかった、という言葉。それは俺の怒りを誘発する起爆剤になりつつあった。
 嘘をつけ。
 タカの答えは、せっかく反省をしていた俺の怒りを、呼び覚ました。

「おまえの弟が、客を取った現場だ」

 かっとなって言うと、ミノスは連れて来たルカスに目をやり青ざめた。

「お母様が喜ぶな」

 何を言うかとおもったら、一番言ってはいけないことを。ルカス・フィオーレの発言に、
その場の全員が凍りついた。タカの顔が盛大に歪み、俺は申し訳なさで、また反省を始めた。

「そんな顔をするな、君の母は、喜ばせるに値する人物だぞ?
 客との間にできた子を一人も堕胎することなく、全員、無事に十五歳まで生かしている。その重い肉体労働で稼いだ金を、みなしごのため、屋根のあるシェルターをつくる運動に寄付したりと、人間の鏡だよ。
 多くの権力者を虜にし、人道的な判断をするように優しく導いた。俺の父が、かの内戦を踏み留まったのも、君の母が諭してくれたためだ。
 だから俺はあんなに立派な娼婦を母に持つ君のことを、愛しく思う。あの人の息子であるというだけで、無条件に信頼できるほど、君の母は優れた人だ。
 カラツボでは国家から表彰さえされている。
 君は息子だから、この事実は当然、知っているだろうが」

 想像もしなかった話。
 人は驚くと、何故か聞き返してしまう。
 わかっていて、もう一度聞こうとする。

「ぇ?」

 タカも例に漏れず、顔を涙でぐしゃぐしゃにしながら、小さな声で聞き返した。

「君のお母上は立派な方だと言ってるんだ。
 数多の実力者の、身体だけでなく、心まで癒し、良い方に導いて社会貢献をしている。
 高級娼婦でありながら客を地位で選ばず、
 どんな男との間にできた子でも、
 深い愛を持って接し、躾も怠らなかった。
 俺の母も娼婦だが、現役の長さなども含め、君の母の足元にも及ばないよ。君は偉大なお母上を持っているのに、この場所では随分、苦労したようだ、職業差別が横行する屋敷内を、変えてやったらどうだろう。
 こうして当主が堂々と客を取ってやるところから始めるのも、良いと思うぞ」
「ルカス様、俺は、そんなこと……」
「ん?」
「そんなこと知りませんでした。
 知らずに、昨年、お金を渡して、母に、娼婦をやめてくれと頼んだっ」
「ああ、だから引退されたのか。まだとても美しかったから疑問だったのだが、息子の頼みだったのだな」
「……母は」

 紙幣を睨みながら、タカは唇を震わせた。

「き、汚くないんですね?」
「そんな酷い言葉をよく口にできるものだな」
「……すみません、ずっと、汚れ者と教わって来て」
「調べてみたら良かっただろう?
 自分の母親が、どんな人間なのか、娼婦の中にも良いものと悪いものが居る、悪いものが悪いイメージを作るから差別を生むが、良いものの存在を無視してはいけない」
「すみません」
「よく知るのが怖くて調べるのを怠ったのか?」
「……はい」
「その気持ちは俺にも覚えがあるな、程度が同じかはわからないが、俺の父と母は、悪い噂しか残さずに他界した」
「そうだったんですか」
「二人を認めるまでには、俺も、それなりに時間が掛かった」
「ルカス様でも……?」
「あぁ、……遠くにあるものは全体がよく見えるが、近くにあるものは、どうしても目につく一部に気をとられる」
「……」

 戸口で突然始まった、ルカス・フィオーレの説法に、タカは夢中になっていた。
 ルカスはこの日、セネカを訪ねてヴロヴナ屋敷に来たらしく、セネカの部下にあたるリャマ・ビクーニャの引き抜きを、セネカに便宜して欲しいということだった。
 その要求は丁重にお断りしたが、ルカスのため、セネカは何かしらの役に立ってやりたいと思った。なぜなら、ルカスはこの日、まったくその気なく、セネカとタカを決別させるのを防いでくれた。タカがルカスの話を聞いて、身売りに対する考えを改めたのだ。
 よって、タカは時々、セネカに買われるのを受け入れるようになった。買う男と買われる男という関係ではあったが、タカを抱くことができるなら、セネカは満足だった。
 回を増すごとに、タカはイキイキとして、セネカを受け入れるようになった。いつ、セネカを恋人にしてくれるのだろうか。セネカの期待は、タカの笑顔の向こうに消えて行くばかりだった。


2012/04/18

『トイレの精』(強気攻め×気弱受け)


 同性愛者の自覚があり、同性愛者の集まる店に行った。
 二十も中頃、故郷ヴィンチでは父親になっているのが普通、という年齢で、俺は「恋人」に飢えていた。ヴェレノは同性婚が認められているし、真面目に「相手」を探すのもいいかと思った。

 赤っぽい照明がゆらめく店内とは打って変わり、淡く白い光を放つ大理石が壁になっているトイレ空間。高級店というのは、細部に拘るものなのか。太古の神殿と見まごう手洗い場の景色に感心していた俺の目の前、手洗い台に腰を掛ける、何かの「精」のような青年が居た。

 青年は華奢で見目が良く、陰気な艶を持っていた。見惚れて立ち尽くしている俺に気づくと、困ったような顔で、下から覗くような視線を寄こした。笑いかけると、じっと見つめて来る。
 横に座ってもかまわないだろうか。
 そろそろと近づいて、腰を並べる。
 傍で観察すると、優しく脆そうな顔の作りや、今にも折れそうな身体全体などが、とにかくこちらの性欲を刺激する。何者だろうか。プロの人だろうか。
 俺は性的に盛り上がることが、難しいタイプの人間らしく、なかなか興奮することなどないのだが。先程から身体の端々が熱い。血の回る速さが異常だ。後でどんな額を請求されても良いから、とにかくこの欲を叶えてもらいたい。どうすれば。

「もしかしてトイレの精?」

 混乱して妙なことを口走ってしまった。

「はい」

 肯定の返事が来るとはな。ノリの良い奴だ。

「悪かった、冗談だ」

 言いながら笑う。こちらが笑えば、笑い返してもらえるかと思ったが、
トイレの精は無反応。

「少し酔ってるんだ」

 言い訳にも無反応。

「なんかここ、居心地良いから、いっそ、このトイレの精になりたいよね」
「あ、いや、何ていうか、何かの精っぽい、と思ったから、見た時」
「何かの精?」
「なんか神聖な雰囲気、つぅか」

 ふふ、と鼻に篭った笑い声を上げ、トイレの精はやっと眉を下げた。笑顔に悩殺され、天を仰ぐ。そしてまた視線を戻すと、ばちりと目が合う。ダメだもう、見てると……。
 昔から我慢というのが苦手で苦手で。欲望にすぐ負けてしまう。
 この時も秒で負けた。
 トイレの精の、唇の傍に口付ける。殴られたら押さえ付けて。いや、こんな壊れそうな相手に暴力なんて。でもこれ程、やりたいと思う奴に出会えたのに。

「駄目だよ、俺は違うから」

 精は殴って来たり、暴れたりはしないで顔を背けた。少し長めの金髪が隠していた首の隙間が現れて、いよいよ俺の内側に、火が着いたのが感覚的にわかった。何としても、得たい。

「付き合いで来てるの、ヘテロなんだ。
 そういう行為には応じられない。
 ごめんね紛らわしくて、酔いを醒ましてただけ」

 やはり、下から伺うような目で、自分が男に不慣れであることを暴露するトイレの精、無防備にも程がある。大丈夫か。

「名前は?」
「え?」
「偽名でいい、思い出に残す」
「思い出……? そんな大層なこと何も……」
「おまえが凄く好みだ、出会えて嬉しい、話ができて浮かれてる」
「……、タカ」
「タカ?」
「タカ」

 こちらは確認のふりをして、こっそりと向こうの腰を持ち、悦に入っているのだが、タカはそんなことには気づかず、名乗るのに精一杯。なるほど、この世界をわかっていないぞこいつは。隙があれば、ぐいぐい責めて来る相手からの、逃げ方を知らない。あんな雰囲気を醸しておいて、不慣れだと?

「タカ、指にキスは? 駄目か?」
「指?」

 返事を待たずに口付け、そのまま指の股を舐めた。男に免疫のない人間が、急にこうした行動に出られると、停止することを知っていた。タカも例に漏れず、口を小さく開けて声にならない声を上げ、固まっている。狙い時。今度は唇にする。舌を入れると、さすがに抵抗の手が背中を叩いた。

「指って」
「次は首」

 腰を摩ってやりながら、首、耳の下、服の上から乳首、と早いペースで濡らして行く。

「待っ、だから、俺は違っ、んっ」

 服の上から、腿を噛んだ。タカは目を丸くして、俺を見ていた。自分の服に、俺の唾液が沁み込んでいくのを感じているだろうタカの内側で、壁の崩れる音。できない事と、できる事を仕切っていた壁が崩れ、できる事が一つ増えた瞬間。
 タカは熱い息を吐いた。いける奴だ。
 異性愛者だと言い張っていても、ふとしたことをきっかけにこちらに来る者が数多い。俺はタカを引き入れることに成功した。

「タカ、唇に噛み付いたら殴るか?」
「噛み付くのはやめて、痛いのは嫌だから」
「舐めるのは?」
「……」
「イイ?」

 即座に拒否できないのは、期待の現われだ。怖いもの見たさに、経験してみたくなったのだ。これから起こることがタカにとって悪い事じゃないよう、努力したい。癖になって、俺と二度目や三度目をこなしてくれたらイイ。

「こんなとこじゃ駄目だよ」

 積極的な台詞が、タカの口から出た。丁度良く人の足音が近づいて来たので、俺達は個室に入った。




0:34 2012/04/12

『かわいそう』(野心家兄×無気力な腐男子弟)

 私生児として生まれたが、父代わりの伯父がいた。
 母は優しく、母と俺を家に置いていた伯父一家は温かだった。俺は恐らく、弟より恵まれて育ってきた。

「タクオ、鍵を外せ!!」

 弟の引篭もった小屋の戸を叩きながら、俺はどうしてこの弟に構いすぎるのか考える。引け目だ。引け目があるのだ。俺は恵まれて育って来た。

「兄さん……声大きいよ」

 中から眉を下げ、顔を出した弟は具合でも悪いのかと聞きたくなるような浮かない顔をしている。最初の頃は見たままに、具合でも悪いのかと聞いていたが、弟のこの眉を下げた顔は単なる不満顔なのだ。今はもう騙されない。

「出掛けるぞ」
「……え~? ……どこに?」

 弟は小屋の戸を少ししか開かず、俺を撃退しようと身構えている。
 兄が訪ねたというのに、兄を部屋に入れないとはどういうことなのか。

「ヴェレノ駅西口にあるバー『根のもと』……聞いたことあるか?」
「知らない、ていうか俺……お酒苦手だし」
「苦手?」
「……うん」
「十五を三年も過ぎておいて、まだ苦手だと?
 たいした玉無しだ、飲んで慣れろ」
「慣れないよあんなの……くさいもん。
 ていうか、飲めない人に無理させちゃダメなんだよ!
 だから……あの、俺は……無理しちゃダメなの、バーなんか行かない」
「…家の用事だぞ、おまえも来い」
「お酒飲みに行くのが家の用事?」
「会食だ、来月の下旬に我がヴロヴナ領西ヴロヴナ十番に店舗を構えて下さるフラグ家との親睦」
「……フラグの人なら、俺は同学年のアンガス君と仲良くしておくから。
 今日は……」
「そのアンガス君が来るんだ」
「……えっ?! アンガス君が来るの?」

 途端に弟の顔が、キラキラと輝きだす。

「どうした、仲が良いのか?」
「いや、普通だけど、麗しい面構えしてるよね」
「なるほど」
「兄さん、粗相のないようにね」
「おまえこそ」
「俺は行かないもん」
「いい加減にしろ!」

 大声を出すと、きゅっと目を瞑って弟は怯えた。陰気な艶のある顔で下から伺うように俺を見る。わざとやっているのだろうか。

「娼婦のような仕草をするんじゃない」
「言い掛かり……」

 恥じらったふりをして媚を売る、完璧な角度にくらりとした事を誤魔化す。弟の母親は伝説をいくつも持つ腕利きの娼婦だった。

「おまえがそんなだから血筋がどうだなどと使用人どもに好き放題言われるんだ。おまえはっ、もっと堂々と男らしくできないのか」
「そんなこと言われても……、普通にしてるだけだし」
「とにかく早く仕度しろ」
「だから、行かないから」
「アンガス君が来るんだぞ?!」
「それは美味しいけど……兄さんにはトツさんが居るし。
 アンガス君にはもう相手がいるし」
「わけがわからん」

 弟の言い訳は、時々文脈が読めない。

「アンガス君と仲良くなれるチャンスじゃないか」 
「そうなんだけどさっ、緊張するんだよ!
 兄さんに連れていかれる場所、いつもいつもっ…!
 何かっていうと兄さんは俺を叱るし。
 もう何ていうか、ストレスが溜まっ」
「アンガス君が来るぞ!」

 もうこれしか、弟を説得する方法が浮かばず叫ぶ。すると、弟は頬を染めた。そんなにか。そんなにアンガス君が好きか。
 大多数の人間は、共通して見目の良い者が好きだが、弟は殊更に見目の良い者が好きである気がする。さらに、可愛らしいものを好むし、美麗なものに歓声を上げる。夢見がちな物語や演劇を楽しむし、弱い物への同情が過ぎる。女のようだ。多忙な父親に放置され、女中達に育てられたせいなのか、元来の性質なのか。弟の趣味は女趣味だ。

「五分で仕度しろ」
「そんなの無理だよ……、それにまだ行くとは言ってな、」
「しろ」

 ぐずる弟の肩を押して、強引に小屋に押し入ると、クローゼットを勢い良く開けた。

「うわっ?! 何?!」

 小屋にはこのクローゼットの他、勉強机や本棚、ベットまで揃っていて狭苦しい。自室の機能を全てこの小屋に移している弟は、長い時間をここで過ごす。使用人のように、屋敷から離れた場所で暮らしている。
 俺が嫡男として、弟を押しやったのだ。

 俺の姓はつい最近までフィオーレで、母親がフィオーレ一族の出だった。フィオーレ一族とはこのあたりを治める当主の総領、貴族が集まって地域社会を作るこの「フィオーレ」地域のまとめ役だ。フィオーレ一族は、フィオーレにおいて最上位の格を持ち、俺はフィオーレの親戚筋という身分で、
伯父の一家の元、暮らしていた。

 それがある日、ヴロヴナ家長男であると知らされて、急遽ヴロヴナの財産を受け継いだ。俺が屋敷に来るまでは、弟は長男として、屋敷の中心で暮らしていたという。俺が来て一ヶ月経つと、弟の居場所は屋敷から消えた。

 しかし、こんな小さなみすぼらしい離れで生活させられていることに、弟は不満を漏らさない。我がヴロヴナの屋敷は、四方を森に囲まれ、屋敷から離れたこの小屋は、森を一つ挟むのだ。
 こんな場所に追いやられて、まるで追放じゃないか。
 逆の立場だったら……俺がもし弟の立場だったら、当たり前のように兄の暗殺を企てただろう。俺は父に何度も、弟がこの場所で暮らしていることを意見したが、突然家にやってきた、他人のような長男の立場は弱く、聞き入れられなかった。

「兄さん、お願い。やめて。服は自分で探すからゴソゴソしないで。
 ほんとやめて」

 クローゼットの中には簡素な衣服だらけ。
 しかも、クローゼットであるにも関わらず、その面積の半分は何か大きめの本のようなものを収納しているらしい紙袋で埋められていた。大方画集だろう。つくづく趣味が合わない。

「もっとちゃんとした服はないのか?」
「ないよ、そんな派手なとこ行かないし。だから俺は留守番……」
「途中で買えば良い。フラグの店で買おう、せっかくだ」
「そんな高い服いらないよ、似合わないし」
「誰がやると言った。俺の持ち物にするんだ。
 時々おまえに着せるために買う」
「んん……」

 弟は不満顔。しかし、自分で言ってみて自分で感動。

「そうだ、そうしよう!
 これからも俺が、俺のために、おまえの服を買おう。
 おまえに任せると、すべてこの類になってしまうとわかった」

 クローゼットを指差すと、弟は少し頬を染めた。

「どうせ……」
「何だ?」
「……何でもない」

 それから、渋る弟を車に乗せヴェレノ駅に。
 駆け込んだフラグの店、『アンガス』で弟の服を揃えた。
 アンガス・フラグは店に自分の名をつけ、子どもにも「アンガス」と名をつけて名前を代々襲名させる、という計画を練っていた。ブランドのようで良いだろうと。
 生まれたその時に将来の職業を『アンガス』の経営に決められてしまう我が子を哀れだとは思わないのか。などとは、口が裂けても言えない。

「うーん……」

 弟に着せた服を前、俺は唸って腕を組んでいた。
 正直言って、似合わない。驚く程、立派な服を着こなせない弟に、俺は困惑していた。細すぎるせいか、暗い雰囲気のせいか。ふいに店の奥から、勤めを終えた風のアンガス君が現れた。弟を人目見て、首を傾げる。

「アンガス・フラグ・ジュニア、良いところに」

 声を掛けると、アンガス君は人受けする笑顔を浮かべ、握手を求めてきた。

「買い物ですかミノス・ヴロヴナ。
 あまり夢中になって、約束の時間を忘れないで下さいよ」
「大事な約束だ、忘れるわけがない!」

 軽い冗談を交わし、近づきの挨拶。
 アンガス君の視線が弟に移ると、弟はさっと顔を背けた。

「タクオ!」

 強い声で呼ぶと、弟は困ったようにこちらを向いた。

「タクオ君、どう?その服?」

 聞かれて、弟はぎこちない笑みを浮かべる。

「ぜんぜん俺なんかが、着れるようなものじゃないね」
「どうだろう、色が悪いだけじゃないかな」

 アンガス君は手馴れた動きで店の端、ディスプレイ下のスペースから色違いの一着を取り出した。色を変えると、その服は急に弟の身体の一部のようになった。

 ざわざわと人で溢れる店内は、男性客九割、女性客一割。夕刻の顛末をアンガス君の父、今日の接待相手に話しながら、俺は弟を用心して観察した。というのも『根のもと』が特殊な店であるため。
 上流の同性愛者達が集うのだ。
 俺はこうした店にはもう慣れていたが、過去には、ちょっとした油断で不合意の経験をしてしまったこともある。
男女が絶対の組み合わせである意識がある店では、あまりないこと。
 しかし移動中に店の説明をしておいたおかげで、弟は店についてから、特に取り乱すこともなく、店の中に溶け込んでいた。
 何人か弟に絡む者が現れたが、アンガス君が上手くやり過ごしてくれていた。こうした店の雰囲気が、初々しい神経を麻痺させてくれることを、俺は知っていた。
 俺がアンガス君の父、フラグ氏と談笑している間、弟はアンガス君と話をしており楽しそうに笑っていた。連れて来て良かった。弟の顔も、ヴロヴナの顔なのだ。俺はもちろん、弟も人脈を広げる必要がある。俺は弟と共に、ヴロヴナを大きくして行きたいと思う。

 これまで嫡男として生きて来ただけあり、弟は家の雑務を素早く片付けてくれる。父や使用人も、大きな事については俺に声を掛けるが小さな事については弟に声を掛ける。弟の補佐は、ヴロヴナに必要なのだ。

「タクオ」
「はい」

 声を掛けると暗い照明でもわかる真っ赤な顔で、弟は返事をして来た。

「アンガス君と話は弾んでいるのか?」
「それなりに」

 アンガス君は微笑んで、俺を向いた。

「ミノス・ヴロヴナ、タクオ君は本当にヘテロなんですか?」
「ん?」
「さっきから凄くソワソワきょろきょろして、可愛い男の子やかっこいい男性が来ると、すーっと目で追いますけど?」

 それは……。

「妖しいな、タクオ、その気があるのか? おまえにも?
 俺は女もいけるから別に構わないぞ、血筋は心配するな」
「いや、あの、俺は……本当にそんな、男の人とそんな、考えたことないから」
「今日考えてみるといい」
「だから違うって」
「ふふ、兄弟仲良いねぇ~」
「いや、そんな、普通だろ? ね、兄さん」
「はは」

 アンガス君の明るい反応に助けられ、場が和やかに収まる。会話で俺が他所を向いたのをきっかけに、フラグ氏がそっと俺の手に手を添えた。断わる理由もなく、微笑を返した。後日は二人だけになりそうだ、などと考えてから、これまで一体何人とこうして関係を持って来たのか。数えるのも面倒な昨今の外交事情に想いを馳せる。
 弟はこうした縁の結び方を、どう思うだろうか。弟にもいつか、このような縁を作る方法をそれとなく覚えてもらいたい。

 ゆっくりと折を見て、拒絶反応が起きないよう注意を払って教えて行く。まずは好みだろう相手を宛がうのが良い。アンガス君はどうだろう。フラグの家なら根神信仰がある。縁のための関係を結ぶのには慣れているのでは。考え始めた頭を叱り、今はまだ早いと唱える心に従う。時間がないわけではないのだから、焦らずに。そう心に決めた矢先、事件は起こった。
 原因は弟が大量に飲酒していたことにある。
 それもフラグ氏とアンガス君が帰るのを、見送れない程に。

「大丈夫ですよ、若者は失敗を沢山した方が良い」

 トイレから帰ってこない弟を、フラグ氏は笑って許してくれたが、俺は許せなかった。何をやっているのか。あの馬鹿は。怒りのままにトイレを覗くと、個室が一つ閉まっている。

「タクオ!!」

 声を掛けるとグスリと泣き声が漏れた。

「何をしてる」
「反省」
「反省よりまず、謝るべきことがあるな?!」
「俺、知らない男の人とやっちゃった」
「そう、まずは知らない男の人に……ん?!」
「お酒の勢いで、なんか楽しくやっちゃった」
「楽しかったなら良かった」
「もうね、最低なんだけどね、その人とは、今日始めて会ったんだよ?
 トイレで!! 気持ちの確認とかもしないで、好きにもならないで、いきなり、いきなりやっ……やっちゃうとかぁ! ひどくないこれ? おかしいよ? それでもっと酷いのがっ、ぜんぜんやじゃなかったんだよ俺、あの人がどんな人とか知らないで、やれちゃったよ、会ったばかりの……!
 どういうこと?
 血筋かなぁ…?」
「相手が好みだったんだろう?血は関係ない」
「好みだったかなぁ、覚えてないなぁ……。
 何にもわかんなくても良いやって思ったの」

 弟の母親は、凄腕の娼婦だ。それを、弟が意識していないわけがない。弟が普段あまりにも口にしないから、いたわるのを忘れていた。

「おまえは酔ってたんだ」

 何と声を掛ければ良いのか、俺は不合意で事に及ばれた後、一ヶ月以上落ち込んだ。未だに思い出すと吐き気がする。弟は合意であったようだが、
ショックを受けている。何と声を掛けようか。

「俺、たぶん……母さんと同じ仕事できるんだろうな」

 いくらか声が低くなっているのが危険だった。
 やけになってもらっては困る。

「本当にそう思っているのか?」
「……うん、きっと誰とだってやれるんだ」
「俺ともか?」

 何を口走っているのかと思った頃にはもう戸が開いて、カバーの掛かった便座の上、衣服の緩い弟が笑みを浮かべていた。

「できるよ、多分」

 ふわんと纏う空気に、商売女の薫りがした。

「冗談だ」

 顔に焦りが滲む。弟は完全に自暴自棄になっているし、俺は誘惑されている。誰か、……誰か助けてくれ。このままでは。

「オイ、そこは今、使用中だぜ」

 ぐっと首根を掴まれて気が付くと、壁に頬を押し付けられていた。
 アウレリウス一種に匹敵する、ジェキンス寮班長をやっていた俺が簡単に壁に押し付けられている事実に驚いた。何者か知らないが良い度胸だ。
 反撃に足技を駆使すると、向こうは飛び技で応じた。そして腹に重い衝撃が走る。目に見えぬ速さで手技を使われた。認識できたのは相手の肩。咽喉に苦いものが沁みたが、飲み込んで身を前に出し、防御。

「兄さん、こっち」

 弟の囁きに、個室に逃げ込もうとした肩を掴まれる。

「だからそこは使用ちゅ……兄さん?」

 相手は驚いたようで、俺の肩を掴むとまじまじと俺を見た。俺もまた相手を見ると、非常に見覚えのある顔。

セネカ・マグラン?」

 セネカは現在ヴェレノ最高兵士アウレリウスのトップだ。思わず息を呑んで、じろじろとその顔を見た。個室の入り口を挟んで対峙したその顔は、マグラン一族にしては優美だ。ヴィンチの血が入るだけで、こうも変わるのか。

 フィオーレの当主専属兵士ゴドー・ジェキンス。
 ヴェレノのアウレリウス第一近衛。
 ヴィンチのモーセ第一団長。

 国によって最高兵士の名は違うが、総じてトップは一般的に兵と名の付く職にある者の、憧れの存在だ。
 旧ジェキンス班長の俺はもちろんセネカに、現ヴェレノのアウレリウス第一近衛である彼に興味津々だった。まして、俺は兵士マニア。
 自分の身も兵士として鍛えたが、何より有力な兵士、特殊能力を持った兵士、環境により強くなる兵士や弱くなる兵士、エンターテイメントが得意の兵士、引退した兵士、若手兵士から養成所の注目株、伝説の兵士と、兵士それぞれの特色に想いを馳せる事が何より楽しいのだ。

「どうして、ここに?」

 思わず呟くと、大理石でできている美しいトイレット空間に自分の声が響いた。セネカは気だるげに個室の中、着乱れた弟をじっと見てから、俺を邪魔者とばかりに一瞥し、眉間に皺を寄せた。

「非番の時、遊んじゃ悪ぃのかよ」
「悪くない!」

 何という幸運。
 セネカは俺の反応に、不思議そうな顔をしてから、弟に顔を近づけた。

「こいつホントに兄貴か? 全然似てねぇけど?」
「母親が違うから」
「ふーん」

 弟の頬にするりと手を添えて、自然な流れで弟にキスをするセネカを見ながら、弟がやってしまったという相手が彼なのだといよいよ確信した。随分な大物を釣ったじゃないか。

「よくやった、タクオ!」
「何?」

 セネカ・マグランは最高兵士の地位を受け継いで日が浅く、外部からやって来たおかげで謎が多い。そのため、何が彼を惹き付けるのか情報が少なく、財界や一族勢力がこぞって声を掛けていたのだがどこも目覚ましい成果をあげていなかった。捉えるのが容易ではない相手だった。

「何って! セネカ・マグランだよ、何時の間に知り合ったんだおまえ!」

 でかした、と次に続けようと思って、大声を出したのに弟はさっと青くなった。

セネカ・マグラン?」

 長い沈黙の後に、確認するような声。

「現在のヴェレノ最高兵士トップだ!! 第一近衛アウレリウスの!」
「その肩書きはわかるけど、誰が?」
「そこにいる彼が! そっくりさんで無ければ!
 いや、強さがそれを証明しているんだが!
 俺はこれでも、フィオーレ次期最高兵士候補として、リニー・シェパードと共に声を掛けられていたんだぞ、つまり、俺とここまでやりあえるのがその証拠なんだ、弟よ! 彼はセネカ・マグランだ! タクオ、よくやった!! これも何かの縁だ、連絡先でも教えてもらえ!!」
「でも、セネカは……、リャマ×セネカ……だから。
 俺はリャマ×セネカを邪魔したくは……?ない?っていうか?
 そもそもセネカに、こういうところで遊んでるイメージはないんだけど、ついでに、やっちゃったってことは、リャマさんに対して浮気させちゃったことになるし、まず、俺のなかでセネカは受けだったのに……!」
「意味がわからん!!!」

 兄弟の会話を聞きながら、セネカは悠々と弟の至る場所にキスを降らせている。肩などには噛み付いて見せたりして、俺に対する遠慮などは欠片も見せなかった。

「それで、おまえの兄貴は何時帰るんだ?」
「兄さん……、アンガス君達は?」
「帰った」
「俺達ももう帰る?」
「そうだな」
「おい」

 兄弟の会話に、セネカが割り込んでくる。

「帰るのは兄貴だけにしろ」
「えっ、なんで?!」
セネカ・マグラン、うちの弟を気に入ってくれたのは良いが、弟はこれまで男に免疫がなかったんだ。今日はここまでで解放してやってくれないか?」
「……次は何時来るんだ?」
「次?」

 セネカに聞かれ、弟は宙を睨む。

「次は、次なんて……ないというか、あの、お互い忘れましょう……!
 こんな萌えない関係」
「俺は燃えたけどな」

 弟は恐らく立ち上がろうとして、よろめいてセネカの腕の中に納まった。セネカは弟の頬にキスをして、俺を見た。

「ヴェレノは良い所だな」

 弟を俺の手に返す瞬間に、ふっと笑い、続けた。

「俺の居たヴィンチでは、同性愛者が蔑まれていた。
 俺は男しかダメだから大変で……。悩みを打ち明けられる唯一の相手、双子の兄貴は異性愛者だったし、やりきれなくて。抑圧されて、怒りばっかりたまって……なんか色々辛かった。ヴェレノでは男が好きでも、堂々としていられる」
「……」

 セネカについてわかったこと、同性愛者。

「良かったら我が家に来ませんか?」
「今から?」
「今からでも後日でも」
「明日午前仕事だから、後日で」
「日取りは?」
「こいつが居る時」
「……連絡します」
「連絡……じゃぁ、これ」

 セネカから名刺を受け取り、自分のものをセネカへ。

 帰りのタクシーで、俺はセネカから貰った名刺を手にはしゃいだ。弟は苛立たしげに、兄さんウルサイと呟いた。それから、少し目を潤ませた。

「兄さんは俺を、あの嫌な家から解放してくれた。
 だから俺は兄さんには恩を感じてて、あんまり逆らわないようにしてたんだ。でも、今日行ったようなところにはもう行きたくないよ、肌に合わないから、ストレスが溜まる。
 知らない人とやっちゃったのも凄くショックだし」

 やはりまだ早かったか。拒絶反応が出たか。

「失敗したな」

 呟いて弟の頭に手を伸ばした。少し撫でる。

「怖い思いをさせて悪かった」
「……うん、別に怖くはなかったけど」

 相手が大物だったのが救いだな、と言おうとしてやめた。
 弟の頬が、涙でぬらぬらと光っていたためだ。行く筋も流して、唇を噛んでいる。まずい。これは医者に掛かるレベルか。楽しんだんじゃなかったのか。

「兄さんは俺のこと、見下しているよね?」
「は?!」
「兄さんは俺のこと、見下してるでしょ?」
「何を根拠に?!」

 急な展開だった。
 ずっと心の読めなかった弟が、本音のようなものを聞かせてくれようと口を開けたのに。俺は身構えて、頭ばかり働かせた。しかし、弟の言葉に狼狽して良い返しが思い付かない。

「わかるんだよ、空気で。
 無駄に優しいし、俺が、何したって余裕だっ。
 俺のこと少しも意識しない、俺がヴロヴナの家を巡って、戦いを挑んで来るなんて考えもしない、だってできないもん、兄さんの血にはフィオーレが、俺の血には……。
 俺が兄さんに勝てるわけないって、わかってて俺に優しいんだろ?
 俺はあんたにとってどれぐらい安全だ?
 家の者が誰一人、俺とあんたと争った時、俺に靡かないのをわかっててっ、あんたは……!」

 そこまで喋ってから、弟は自分の口を、自分でも信じられないという顔をして手で覆った。

「ごめん忘れて」
「タクオ……」
「こんなこと考えてない。
 俺は別に何も……、兄さんに勝とうとか兄さんと戦おうとか……。
 考えてないよ」
「わかってる」
「ただ兄さんがあんまりにも、見下してくるからっ」

 最後の言葉は涙声で高く上がり、弟はそれから先を喋れなくなった。俺は従兄弟のマルクスが、俺に優しかったのを思い出した。俺に父が居ないのを気にしてくれた。だが、俺はそれを気にして欲しくなかったのだ。
 まるで俺が欠けているようじゃないか。
 俺は確かにマルクスとは違った立場に居たが、それが俺とマルクスの幸不幸を決めているわけじゃない。対する、当主息子のルカスは普通だった。
 俺に良いところがあれば良いと言い、悪いところがあれば悪いと言う。
 俺は乱暴者だったから、良く友人を泣かせていた。
 ルカスは強烈にそういう俺を非難したが、マルクスは庇った。
 庇った理由は簡単だ。俺に父親がいないからだ。父親がいなければ、悪さをして良いのか。俺はマルクスに、差別されていた。優しい差別と、意地悪な差別。どちらも不愉快だ。俺はマルクスが俺に甘いのを良いことにマルクスと仲良くしていたが、心の底ではマルクスを嫌っていた。
 当時、その嫌悪の感情が何故起こるのかわからなかったが、今わかった。
 そういうことだったのか。

「タクオ」
「何?」
「俺が間違ってた」
「え?」
「俺は、……俺を、おまえより恵まれていると思っていたんだ、これまで」
「……」
「だからおまえには、強く出ないようにしていた」
「……え? ……強く出てなかったの?あれで?」
「明日からは強く出る、おまえに普通に接する」
「……」
「俺とおまえは違う人生を歩んできた。それだけの話だ。
 血のことは、気にする人間を軽蔑しろ」

 などと俺が言っても無理がある。俺はそれを気にした事がない。だが、言うしかないのだ。それが俺の考えなのだ。

「ありがとう」

 弟は小さい声で呟いて、少し頬を染めた。

 この日から、弟が家に居る日を連絡すると、セネカ・マグランがやって来るようになった。



2016/6/22

『味方以上、敵未満』(面倒見の良いオラオラ系×変人権力者)

 ルカスの部屋にはいつも、乾いた果実のような品の良い薫りが、ほんのりと漂っていた。木製の家具が多く、茶系の配色で固められたその部屋には円形の棚が部屋を仕切るように置いてあった。

 交錯して差し込む美しい光を眺めながら、枯れた深い森の中に居るようだな、とぼんやり思う。
 ルカスはキケロが訪ねると微笑して出迎え、身体を許す。
 過去、力づくで作った関係。
 キケロに敵対し憎しみを含んだ目を向けていた、キケロの事で一杯になっていた、あの頃のルカスはどこに行ったのだろう。今のルカスは、死体のように従順で、てろりと目の前に転がったままキケロを認識してくれない。


 ふとした事後、目を閉じて隣に横たわるルカスの首筋に手を当ててみた。また脅威になれば、少しは意識して貰えるだろうか。
 ルカスの中に、留まる術がわからない。
 均整の取れたルカスの横顔に視線を注ぎながら、溜息をついた。

「穴があく」

 ふいに、耳に響くルカスの声がして、見つめていた寝顔の目が開いていた。

「あまり見つめられると涎を垂らせない」
「垂らしてるところ、見たことねぇぞ」
「おまえが見ている間は、気をつけているんだ」
「あのなぁ、俺は女じゃねぇからそんな台詞喜ばねぇ」

 呆れながら、半分照れながら言うとルカスはふっと笑った。

「最近、見分けがつかなくてな」

 息の詰るような怒りが込み上げたが、ぐっと飲み込んで鼻水を拭いた。

「曇りか」

 遠くを見るルカスの砂色の瞳がサラサラと小さく光っている。窓から入った白い光が下がり目と高い鼻に当たって、その周辺の空気に輝きを与えていた。
 ルカスは雰囲気のある色男だが、キケロはルカスの外面より内面に比重を置き慕っている。
 確かにはじめは歪めたら迫力が出そうな顔だと、そんな理由で絡んだが、今は違う。ルカスの根底にある優しさや、強がらざるを得ない、忍耐に慣れた寂しい心に寄り添いたいと考えている。
 ルカスの顔に惹かれ、ルカスと寝る女どもと一緒にされたくない。

 窓の外で、庭師が草木に水を撒く音がして急に空間に現実味が湧いた。
 ふいにするりとキケロに向けて動いたルカスの、瞳に胸が騒ぐ。
 ルカスの視線は艶かしい。

キケロ……」
「何だよ」
「もう帰れ」
「あ゛?!」
「用は済んだろう?」

 無慈悲な笑みと共に提示された関係。
 快楽を施しあうだけの、淡白な繋がり。

 特別扱いと愛情を貰えた過去の地位、ルカスの恋人に戻りたくて足掻いている現在。また、細かく表情の変わるルカスの横に立ちたい。

「好い加減、俺に落ち着けよ」

 呟くと、またかという顔をされて落ち込む。

「おまえは、自由恋愛の中でこそ楽しく生きて行ける男だと思っていたが。
 もし、この関係がおまえを苦しめるというなら俺はおまえの下半身を諦めよう」
「かは……」
「もし恋愛をしたいなら、他所で頼む」

 手が出そうになって必死で堪え、精神的外傷で起こる持病の頭痛に顔を顰め、歯を食いしばる。

「これからエリックが来るんだが、同席するか?」
「エリック??」
「相談することがある」

 じわっと背に汗が滲んだのは、嫌な予感がしたため。

「ロゼ・コープスの件か?」

 当たりをつけて聞くと、ルカスは黙った。的を得てしまった。ルカスはロゼをフィオーレに欲しいとエリックに言うつもりなのだ。

「俺があいつに負けると思ってるんだな」
「彼は恐らく天才だ」

 近頃、躍進しているコープス家の養い子はキケロに軽い恐怖心を植え付けていた。

「今伸びてるからって、これからも伸び続けるかはわかんねぇぞ」

 ルカスの傍に居たくて、代々その名を受け継ぐフィオーレ当主専属兵士「13代目のゴドー・ジェキンス」を目指しているキケロを、ルカスは全く気遣わない。
 将来、フィオーレの当主として「ゴドー・ジェキンス」を従える立場にあるルカスは、ゴドーは闘いの天才から選ぶという仕来たりをそのまま受け入れて、秀才止まりのキケロを容赦なく無視していた。
 キケロとルカスの友人であり、元の名もゴドーで武力の天才という条件を揃えたあの素晴らしい、ゴドー・コープスをエリックに取られてしまったルカスは今、渋々、ゴドーに変わる天才を探していた。

 そして、ついにここ最近、頭角を現した天才、ロゼを見つけた。
 ロゼは貧国で虐待を受けて未発達な身体をしていた所為、当初は目立たずに成長していたが、基本的な筋肉がついた途端に爆発的に実力を伸ばし、ついにキケロのすぐ下まで来た。もう、上かもしれない。

「ゴドーやトートの動きを知っているおまえならわかるだろう、才能は残酷だ。俺がどんなにおまえに肩入れしたところで、どうにもならない」

 断言されて、やっと自覚する。心のどこかで予感しながら不安を避けるために、大丈夫だと己を信じ込ませて来た。
 その幻が打ち砕かれ、いよいよスースーと首の後ろが冷えた。

「俺が負けるとか、本気で思ってんのか?あんなお嬢ちゃんによ」

 ロゼはその名の通り女のように繊細で愛らしい顔をした男だった。
 しかし実力は本物だ。
 数ヶ月前に格下の試合として、穏やかな気持ちでロゼの闘いを見ていたのが嘘のよう。今は闘技にロゼが出る度に、恐ろしい速度で成長するその姿に焦らされて心を乱される。

「ロゼはおまえよりも強くなる。彼は天才だ。
 筋力がついてからの伸びがここまで早いのは異様だよ。腐ってもコープスだ。おまえは強いが秀才の域を出ない」

 確かな評価に、きゅっと喉が詰まった。口の中が痛い。
 重さが全て床に吸い取られていくような、血が足りないような、クラクラした頭で現実に耐える。

「おまえが俺の護衛を目指して、努力してくれていたことを知っている。
 だが、努力ではどうにもならない事が世の中にはある。おまえの人生における二度目の試練だな。一度目はエリックの心が手に入らないとわかった時、二度目は今、俺の隣に立てない事がわかった時。
 耐える強さを身につけて欲しい。応援できることがあればいくらでも言え。癇癪を起こし、騒いで苦しむか。静かに耐えて苦しむかの違いだ。結局苦しむことは同じなら、誰にも迷惑を掛けないよう平和的に苦しもう。弱音には俺が付き合ってやる」

 淡々としたルカスの言葉に頭の中がごちゃごちゃと考えを巡らせた。
 蘇るのは泣き叫ぶエリックに無体をした記憶。エリックの怯えた目や、苦しみの顔。同時に幼い頃の、キケロに懐いていたエリックの無邪気な愛情を思い出す。
 キケロに裏切られたエリックの辛さを想像すると、胃に爆発するような痛みを覚える。
 キケロは過去エリックを熱烈に愛し、それが叶わないとわかって薬物に手を出し理性を飛ばし、エリックを襲った。
 エリックを苦しめて己も狂い、騒ぎを起こした過去。
 思い出す度に死を願う程、神経が衰弱する。

「ロゼがフィオーレに来るとは限らないだろうが」

 何とか出た、平常な声色で疑問を口にした。

「エリック次第だ」
「あ゛?」
「エリックが行けと言えば来ると思う。
 ロゼはエリックの命令になら、いくらでも従う」
「おい、それって、まずくねぇか?
 ヴェレノ子息に言うなりの奴が、フィオーレ次期当主の命預かるとか」
「俺はエリックになら、裏切られて殺されても構わない」
「エリックはそんなことしねーと思うけどよ」

 結局、ロゼはフィオーレに来るだろう。エリックにはゴドーが居る。

「マット・コープスは何て言ってるんだよ」
「彼はエリックの意思を尊重するだろう」
「リニー・シェパードはどうした?」
「リニーには、また最終審判を担当してもらう。
 ロゼの実力を常に図るジェキンスとして、ロゼが倒れたら次期ゴドーとして、活躍してもらう」
「ハッ、可哀相なリニー・シェパード!なまじ強いばっかりに!
 変なプライドと目標を持っちまった秀才って立場、俺と同じだな」
「……そういう言い方はよせ。俺には伝統を守る役目がある。
 リニーも納得してくれている」
「そーかよ」

 今にも吐いて気を失いそうな身体の不調に耐える。
 頭痛で世界が曲がっていく。

 ルカスには立派な考えがあって、だから、こんな酷い決断をくだされても文句は言えない。けれど何を考えてこんな風にキケロやリニーを苦しめるような結果を出すのか。

「俺はいつかおまえに殺されるかもしれないな」
「あ゛?」
「殺されるとしたら、おまえにが良いな」

 口を動かしながら、まどろみ、またベッドに沈んだルカスの首に手を掛けた。

「いつかじゃなくて、今にしてやろうか」

 冗談を言うと、ルカスは小さく頼むと返した。悪かった、と眉を寄せて呟くルカスの声は暗い。何か黒くて重い毒の入った、良くない玉のようなものが咽喉からコロリと取れたような気がした。

 後になって、フィオーレの議会で最後までルカスがロゼの登用を拒否し、キケロを推していた事がわかった。正当な血筋を持つ、後ろ盾のない次期当主に与えられるのは、責任と他人の決定のみ。
 自分で決めた事さえ飲み下して自分の意志として、貫く事の出来ないキケロにとって、他人の決めた事を、それが鋭利な尖りのある石でも飲み込んで、どんなに苦労しても、決定を実現させなければいけない立場は地獄だった。冷えた頭が、真っ先に責めたのは自分の実力不足。

 ロゼが台頭して来た時、三倍に増やしたメニューは五倍に。二倍にした負荷を八倍にしよう。そうして、せめてキケロを最後まで推していたルカスの意志を正しい意見に見せるのだ。

 朝のトレーニングルームで電話を掛けたらルカスはやたらと機嫌が良く、昨日のキケロの勝ち試合を褒めて来た。アウレリウスの個人練習ホールは、良く音が響くので、学校の教室程しかない広さの中、キケロはルカスの声に包まれた。
 あの技は何だ……?前より力がついたな!
 疲れるのが遅くなった!
 芸術闘技の勉強もしているのか……?
 頭が良いから向いているだろう。必要なら資料を用意しようか?

 ルカスの言葉は、キケロを好いていた。

 恋人でなくなったルカスのつれない態度に目を潰され、見えなくなっていたのだが、友人としてのルカスはキケロの味方だった。



2016/6/22

『傷心旅行』(ぼんやりモテ男×平凡)




 俺って実は暗いのかなと一時期悩んだりもしたが、一人行動が好きという事実は今も昔も変わらず。一人は楽。一人は自由。一人でいるのが良い。一人最高。

 しかし、人にはどうやらオーラというものがあるらしく、一匹狼的な、近寄りがたいような雰囲気を持っていなければ、一人きりになることは難しい。苛められるような一人になるのは避けたいが、できたら一人で行動することを認められた、一人行動キャラになりたかった。
 残念なことに、俺はとにかく平凡な、仲間オーラの持ち主で、気を抜くとすぐに友達が横にいた。
 人気者の類では決して無い。華とかは、特に無い。単に、気楽に声を掛けられる、一緒に時間を潰す相手として最良のオーラを放っている。つまり仲間オーラ。多くの人が、話が通じそうな奴だなと感じる雰囲気を、俺は持っているらしい。
 とにかく、よく人に話し掛けられる。初対面の人に安心感を与えるという面に関して、俺の右に出る者は今のところいない。

 そういうわけで、周りに人の居る環境下で一人になるのは難しい。

 話し掛けられたのを無視してまで一人になろうとするのもアレなので、
雑談を受け付ける。受け付けたら最後、大体いつも誰かと話をしている羽目になる。話をするのは嫌いじゃないので、別にいいのだが、一人の時間が足りない。意図的に一人になろうとしなければ、一人になれない。

 最近あった辛いことを克服するためにも一人になりたくて。苦労して作った一人の時間。貴重なので誰にも邪魔されたくない、やっと得た一人時間。にも関わらず今、俺の隣には怠惰で艶っぽい猫科の色男、チェコ・トルーニが居る。

 部活に休み届けを出し、友人の誘いを断りぬいて兄のチョッカイを切り抜けて作った自由な日。日帰り一人旅に出るはずが、一泊二人旅になってしまった不思議。何が起こったのか。

 チェコはみっしりと、質の良い動物的な筋肉を体中につけた細身の兵士で、学生をやりながら訓練寮に入っている。そして今は訓練を休んで、何故か今リオネの横に居る。何故だろう。

 爽やかな朝の空気の中で、チェコの首に纏わりついている癖のある黒髪が、後ろめたくなるぐらい淫らで思わず目を背けた。

「どこに行くの?」

 どこに行こうか。行くところは沢山ある。ここは観光地だ。

 フィオーレの古い農村、有名な映画の舞台になったおかげで牧場などが公園として整備され、観光地になっているこの場所。バルディ・フィオーレ。誰だって一度は訪れているだろう。観光客のルートは大体決まっている。牧場、撮影跡地、地元商店街、簡易闘技場、美術館、ホテル。これ等を適当に選んで回る。

 冬の青々とした空を見上げながら、白く刺すような太陽の光に目を細めた。二人の立っていた高い丘は、駅を背にバルディの地を見渡せた。気持ちの良い場所だ。

「まずは牧場かなあ」

 独り言のように呟くと、うん、と簡潔な返事があった。

 朝、リオネ宅最寄の駅前で待ち伏せしていたチェコは一言、リオネが一人旅に出るって聞いて、と呟いてちゃっかりついてきた。せっかく作った一人の時間に割り込まれ、はじめは腹を立てていたのだが、チェコは横に居ても、リオネが大切にしている「一人」の空気を壊さない。それどころか、一人でいても道行く人に決まって話し掛けられるリオネの気安さを打ち消し、誰かの邪魔を排除してくれる存在となってくれた。
 チェコとなら、二人でいてもいい。一人でいるのと同じくらい楽だ。

 チェコはどこか自然に近いというか、他者の存在感を発揮しない不思議な男だった。リオネが意図せずに他者を寄せ付けてしまうのと同じで、チェコは恐らく意図せずに、他人の一人空間にそっと侵入することのできる才能を持っていた。

 例えば一人暮らしの女性が、気ままな独身生活のお供によく猫を飼うというが、猫という生き物は一人でいるのが好きな人間と相性が良いらしい。チェコはこれまでも、リオネが一人で過ごすために確保していた様々な時間に気がつくと侵入して来ていた。

 横を見てみると、いつもの景色。チェコのハッキリした顔立ち、下がり眉。最近良くチェコと一緒に居る気がする。

「あ」

 斜め掛けのショルダーを回しガイドブックを取り出した。

「これ忘れてた」
「……うん」

 チェコの返事はとにかく単調。人と話をしているというより、動物の反応を得ている感じ。
 本をチェコに渡すと、チェコは嬉しそうに口端を上げ、パラパラ捲った。牧場のところを、じっと見る。何かに注目する時の癖なのか、唇を突き出している。上唇にペンが一本は乗るだろう。大人っぽいイメージのあるチェコの幼い仕草が面白くて、突き出ているチェコの唇を、指で摘んでみた。

「唇出るの癖?アヒルになってるぞ?」

 含み笑いをしながら指摘してやると、チェコは少し驚いた顔をし、他意のない流し目で俺を捕らえた。それから、摘まれていた唇を引っ込め、唇を摘んでいた俺の指に軽いキスをし、笑った。死ぬほど良い男の表情で。

「っ」

 そうか、これが良い男か。

「おまえ……っ、よく……今のみたいな、できるよなっ?!」

 熱の集まった頬を冷ましながら、動揺を隠せずに言及した。
 凄い……。
 凄いと感心はしたけれど、常識が口を動かす。

「男相手にっ……、さ?」
「やだった?」
「その聞き方はずるい……」
「先にやったのはそっち」
「俺のは普通のボディタッチだろ?!」
「リオネじゃなかったら怒る部位だけどね、唇とか」
「怒るのおまえ?……意外」
「結構神経質」
「まじで……?」

 目を丸くして聞くと、チェコはガイドブックから目を離さず、ふふふ、と笑う。なんか今日機嫌いいな。

「リオネ」

 名を呼ぶと同時に目を合わせる反則技。獲物を見つめる猫の目。この目に何人も、射止められるのを見てきた。チェコの目は、瞬きが遅いのだ。そのせいで形の良い三白眼をいつも目蓋が少しだけ塞いでいるように見え、る。それが妙な迫力を作り、性的な引力になっていた。

「……な、何?」

 名を呼ばれてから、二秒しか経っていないのに間が持たない。

「俺のことどう思ってる?」

 どう?

 チェコは、チェコを愛する女達の影響もあり俺の中で完全に男性の代表、男という性のイメージだ。男として、敵わない男とでも言おうか。同性としての、嫉ましさを通り越して何だか、凄いというか、かっこいいというか。俺はそうはなれないけど、おまえが「そう」ある様子は素敵だと思える。男の色気を湯気のように、もうもうと体から出している感じ。

「色男だなって思ってるけど」
「そういう質問じゃねーよ」
「えっ」
「だから、あの、……俺のこと好きになってくれたりする可能性はあるの?ないの?」
「あー」

 そっちか。と心の中で舌打つ。
 一ヶ月前、俺は長年の片想い相手、エリック・ヴェレノに振られていて、
深い落ち込みが二週続き、二日学校を休み、五キロ痩せた。食欲はまだ戻らない。減り続ける体重とエリックに恋した日々の思い出が相変わらず俺を苦しめている。

「ごめん」

 チェコは淡白に謝った。

「リオネが大変な時に、自分の気になることしか聞けない奴でごめん」
「いや、いいよ、普通気になるだろ、……ごめん、早めに答えだす」
「……うん」

 俺はその場にしゃがみ、話の弾みでぶり返した失恋の痛みを噛み締めた。もうエリックのことを、想ってはいけない。そんなの嫌だ。抑えても湧き出るエリックの様々な表情や発言。行動背景、持ち物、遠目に見た姿などなど。蘇っては痛みになり、襲って来る。

「リオネ」

 胸が冷温火傷しそうだ。背を摩られて宥めてもらっている。人間と猫から、病人と付き添い人に。チェコは俺の背を摩りながら、俺の前にしゃがんだ。

「忘れるためでもいいよ、俺はエリックと違ってリオネのこと好きだから、悲しめたりしない」
「忘れるためとかおまえに悪いよ」
「変なとこ真面目なんだよな、大丈夫だって俺は……、リオネに構ってもらえるだけで嬉しいから、俺、慰みの浮気相手とかよくやってたからさ、辛いの助けるの得意なんだ」

 チェコの艶っぽい顔が、良く見えないと思ったら視界が涙でぼやけていた。足元をすり抜けるような木枯らしが吹いた。リオネの身体を覆うように、リオネを温めているチェコの体温がとてもありがたく、愛しかった。


2016/6/21

『おそろい』(ぼんやりモテ男×平凡)

 自分の欲望には気づいているが、求めたら困らせると分かっている。
困らせてまで求めようとは思わない。横に居てくれればそれで良い。

 待ち合わせ時間の十分前。
チェコとリオネは二人きりで立っていた。

「どうかエリックとゴドーさんが、二人一緒に来ませんように」

 待ち合わせ場の、フィオーレ駅二階時計塔下。
コーンスープの缶で手を温めながら、リオネが正直な願いを口にする。
エリックを想っての言葉だというのは気に入らないが、恋心に振り回されている様子が可愛い。

「うん」

 適当に返事をする。

 チェコとリオネ、エリックとゴドーの組み合わせでレジャーに行くのは初めてのこと。約一ヶ月前、ジェキンス寮長に呼び出され、チェコは合宿前の下見係に指名された。素泊まり代が一人分だけ出る。
 だいたい、この係に選ばれた者は、自腹で仕事をレジャーに進化させる。
チェコも友人を誘い、下見をレジャーに変貌させた。一人分の旅費を、四人で分けて遊びに行く。渡された下見表の項目をチェックさえしてくれば、
問題ないのだ。

「おはよう」

 待ち合わせの五分前、エリックが後ろから声を掛けて来た。振り返ると、エリックは駅内ショップから出て来るところだった。ゴドーを従え、ふわふわしたコートのポケットに手を入れて。

「二人一緒に来たな」

 リオネへの嫌がらせ、指摘するとリオネはむっと口を閉ざした。寒さで赤くなっているリオネの耳を掴む。

「いてっ……?!……何?!」
「俺達も二人一緒に待ってたから、おあいこ」
「っ……」

 目を見開き、息の詰ったような顔をしてリオネは眉を下げた。
 エリックがにやにやとこちらを観察して来る中、チェコは列車が着いたり去ったりしているホームに目を落とした。
 これから乗り込む特急が到着したのだ。

「……来た、ガザ・パスカル号」

 薄茶に白の縦じま、緑の傘が描かれた特急がホームの端に泊まっている。
 有名な推理小説の主人公、ガザをモチーフにした特急。フィオーレがまだヴィンチの一部であった頃の都、パンセが舞台だ。
 今は古都となったそこへ、これから四人で向かう。

 特急の中で食べる弁当を調達してから特急に乗り込むと団体旅行とかち合って席がなくなってしまった。油断した。

 興が削がれて落ち込み掛けたチェコの横、

「着いたら食べればいいよな、外、良い天気だし」

 リオネが明るい提案をした。
 チェコはリオネの、こうした細かな気遣いが好きだった。


 冬の空は低く、澄み切った青。
 降りたフィオーレの古都は、はじめて訪れても不思議とどこか懐かしさを感じさせる独特の空気に包まれていた。
 中等部の修学旅行で来た時以来の、歴史と景観の街に深く息を吐いた。
 ヴィンチの一都市でしかなかった、過去のフィオーレの面影。ヴィンチ王家を招くために作られた宗教施設や、ヴィンチ色の強い背の低い家々を見渡して、異国感に浸った。

 街を観光して歩いてから宿に着く。
 管理人から鍵を貰って、人気のない施設に灯りをつけた。

 森に一歩踏み込んだ場所に立っているこの白い長屋が、今回のジェキンス寮合宿で使われる宿泊施設だ。
 月に一度掃除をしにやって来る人はいるものの、普段は人気のない森の中にひっそりとしているらしい建物はそこで静かに眠っていた。シンと冷え切った森と対峙するように、長屋は温かな雰囲気を内部に宿していた。曲線の多い装飾のおかげか、ふんわりと落ち着く。

「うわっ、うちじゃん」

 建物を見た時、エリックが笑いながら感想をもらし、ゴドーが困った顔をした。

「俺のうちな」
「ゴドーのうち」

 ゴドーの住む草原の長屋は、フィオーレの元公共施設だった。
 みてみてゴドー?窓の縁!模様まで一緒!とはしゃぐエリックと、窓の縁に模様なんかあったか?と首を捻るゴドーには敢えて絡まず、チェコは事務的に寮生が泊まるための部屋数を確認し、機器に不備がないかを確認し、与えられた仕事をきちんと片付けた。

 せっかくなので一人一部屋を贅沢に使おうと荷物を置き、結局リオネの部屋に四人が集まった。


「この宿、殺人事件が起きそうだよね」

 エリックが呟いて、ゴドーが鼻で笑った。
 テレビをつけ、複数人が寝られるよう長く広く作られたベッドの上に胡坐で座って寛いでいたところ。一m間隔で、七人は寝れるだろうベッドには沢山のシミやほつれがあった。

「誰もいなくて広くて、街と離れててさ、たぶん第一被害者はゴドー」
「言うと思った」
「絶対死ななさそうなのに死んじゃう」

 古都に触れたせいか、エリックの頭はガザの小説にかぶれていた。
 リオネが、手を上げる。

「俺犯人!」
「うん、犯人ぽい、じゃぁリオネ犯人で……。
 チェコはー……、駄目警察官でしょ、俺が探偵」
「おいしいとこを!」
「ふふっ」

 楽しそうなリオネとエリックに和む。
 ゴドーがあくびを一つ。チェコもつられた。
 まだ四時なんだなと言いながら、ゴドーがテレビのチャンネルを変えて行くと、奇跡的なタイミングで十年ぐらい前に放送された古めかしいガザのドラマ再放送に出会った。

「うわ、ガザ!」
「見よう見よう」

 エリックとリオネがはしゃいでテレビに向かう。
 ゴドーとチェコは、顔を見合わせた。

「闘技でも行くか」

 宿の近くには、有名な練習施設があった。

「はい」
「おまえ最近力付いたよな」
「そうですか?」

 褒められて嬉しくなり、笑みが湧く。
 ゴドーと一対一ができるのはありがたい。
 強者との戦いは、成長に繋がる。

 練習から帰るとエリックが居なかった。
 ゴドーの携帯が鳴り、ゴドーが外に引き返す。
 そうだ。リオネはエリックが好きなのだ。二人きりにしては、いけなかったのだ。異様な部屋の雰囲気を前にして、チェコは苦いものを飲み込み、眉を寄せた。

「リオネ」

 部屋にポツンと残されたリオネは、声をかけても反応しなかった。

「何かしたのか?」

 責めているつもりじゃない。聞きたいだけ。チェコチェコで、リオネが好きだった。

「……した」

 簡単な返事が来て、心臓が緊張した。横に座る。

「何したんだ?」

 リオネは答えない。リオネは冗談で、エリックに対し襲うぞと脅しを掛けることが多かった。エリックがリオネにきつい物言いをすると、怒った勢いでリオネはエリックを詰った。
 エリックも悪いのだ。リオネに対し、辛く当たる。酷い言葉を投げる。
 だけど襲ってはいけなかった。エリックへの罪で、リオネが穢れるのは嫌だ。しかし、もうリオネはよくないことをしてしまったのだ。
 むなしくなり、顔に手を当て息を吐いた。
 立ち上がって、部屋に鍵を閉めると座っているリオネの前に立った。
 放心しているリオネの顎を掴んでキスをすると、リオネは慌てて顔を背けた。耳の後ろ、首、とキスを落としベッドに押す。

チェコ……」

 元気のない嗜めを無視して覆いかぶさる。

「なんでこのタイミングで仕掛けてくんの」
「仕掛ける気なんかなかったけど、なんか腹立って」

 色々と力の入らないようであるリオネの緩い抵抗。
 リオネはチェコの胸を腕で押しながら宙を見ている。時々咽るような表情をしてぐっと唇を噛む。

「リオネ」

 呼んでも返事がない。
 もぞもぞとこちらに背を向けたリオネの下肢に手を伸ばす。服を割って、リオネのものに直接触ってしまった。背中がきゅっと痒くなって、胸が熱くなる。

「リオネ……」
「だから何で、こんな時っ」
「こんな時だから」

 苛ついた声が出た。
 リオネが、エリックを抱いてしまった。リオネはエリックに、良くないことをした。エリックのせいで、リオネが穢れた。リオネのものを摩る。

「わっ」

 触られた時は反応しなかったくせに、擦られた途端に背を曲げて、リオネは驚いた声を上げた。

「っ、ちょ、チェコ、あの、ちょっ……、ちょっと、おい」

 慌てる首の後ろにキスをし、背に額と頬をつけた。
 リオネの体の匂いと、骨の感触、体温が顔の敏感な膜から情報として、こちらに入って来る。心地良い。リオネのものを扱く手の力を緩める。

「痛かった?」
「痛くは、そんな、でも一旦やめて」
「なんで」

 会話しながらも、やわらかに、リオネのものを弄っている手に幸せな感触。リオネ以外のものだったら触るのも嫌だが、リオネのものならいくらでも触っていたい。というか、口に入れたりしたい。が、それはしたら怒られる気がする。しげしげと見つめたいが、嫌がられるだろう。こうして触るのがギリギリのラインだ。

「……っん、……う」

 口を押さえているリオネの顔が、苦悶に染まっていき、ゾワリと震えが来た。この手が、この反応を作っている。もはや文句を言う余裕がないリオネの頬に口付け、刺激を強くした。

「っ」

 リオネの身が揺れ、ぬるりと指先が粘った。
 その粘りを使って、もっとそれを甚振ろうと、竿をにゅるにゅるとしごくと、リオネの切羽詰まった手が胸を押してきた。

チェコ!」

 胸を押されても、あまり打撃じゃない。
 弄り続ける。ぎゅっとそれを握ると、リオネは小さく、ぁ、と鳴いて背を丸めた。その姿に興奮しキスを仕掛ける。深いもの。
 リオネの息を、食事するように刻んで頬張り舌や唇の感触を味わい尽くす。
 困らせてまで、やらなくていいと思っていたのに。
 リオネがやりたいならやらせるのでも良い。
 いちゃつきたい、という程度だった。

 いちゃつきたいけれど、リオネが望まないなら、いちゃつかなくてもいい。一緒にいられれば。そんな健気な気持ちでいた朝が嘘のよう。リオネと性的な接触を、もっとしたい。

「リオネ」

 名を呼ぶと、リオネは目を閉じた。それから眉間に皺を寄せた。

「俺、告白して、ふられたばっかなんだよ」

 リオネの声は高く震えていた。
 涙が目の内側から、外側まで流れるとぽたぽたと落ちた。

「ふられた人間、襲うなよ馬鹿っ」

 全身を氷の弾丸で撃たれたような、衝撃に頭が真っ白になった。

「襲ったんじゃ?!」
「襲われてるけど?」

「ごめん」

 体を離すと、リオネの体温に温められていた部分が、水に触れた後のように熱を奪われて冷え、寒くて仕方がなくなった。

「ごめん」

 二度目の謝罪を口にして、手を洗いに行く。
 濡れタオルを作って戻り、リオネに渡した。

「ふられたらもう、好きでいちゃ駄目なのかなぁ?」

 リオネはさっき流した涙の上から、新しい涙を流して嘆いた。

「時間戻らないかなあ、言わなきゃ良かった」

 掛ける言葉が見つからず、横に座る。リオネはタオルを使い終えると、それを洗いに立った。戻って来て、ベッドにうつ伏せに倒れた。

「俺もふられようか?」

 チェコの気持ちを、リオネは知っている。

「おそろいになってくれるわけだ」

 リオネはうつ伏せの状態から、顔だけチェコを向いて笑った。

「うん」

 リオネの目にまた涙が溜まる。

「ゴドーさんより、俺のほうが絶対、……俺のほうが、エリックのこと好きなのに」

 エリックの何がそんなに良いのか。
 あんなに激しい性格では、一緒に居て疲れるだけじゃないか。チェコはリオネの優しさや気遣いが好きだし、さっぱりした癖のない顔が好きだ。美しいが毒々しい、魔の色香を放つエリックの見た目に、引き込まれて戻れなくなった者は多い。リオネ以外にも、エリックに嵌っている人間は大勢居る。
 だが、リオネのようにエリックの傍で、エリックのあのきつい言動に付き合おうという者は少ない。そう考えると、リオネはエリックを好きだという人間の中でも、より、エリックを好きな人間なのだろう。
 どうしてリオネだったのか。
 エリックに嵌る人間は大勢居る。リオネ以外の誰かが、リオネの立場になってくれたら良かった。

「エリックに、絶交しようって言われた」
「なんで」
「俺が、エリックのこと好きなのが怖いって」
「しろよ絶交、おまえには俺がいるし、もういいだろエリックは」
「もういいって思いたいよ」

 ついに裏返った声で嘆きだしたリオネを、たまらずに片腕で抱き寄せた。肩に腕を掛ける、友達の慰め。チェコがリオネを襲ったことに対する咎めはまた今度になるだろう、今のリオネは自分の心を鎮めるので一杯一杯だ。

「リオネ」

 ゴドーの声が戸の向こうでした。

「はい」

 さんざん深呼吸をした後、やっと落ち着いて、リオネが返事をした。

「大丈夫か?」
「はい」

 それだけのやり取り。
 ゴドーが去っていき、リオネの目にまた涙が溢れる。リオネの肩をぎゅっと掴んでやると、リオネは少しだけ表情を和らげチェコを見た。

「ふられるって凄い辛いよチェコ、いいの?おそろい、なっても?」

 涙声と、泣き顔に胸が痛む。どうしてリオネがこんなに悲しまなければいけないのか。

「おまえの辛いの、どうにかしてやりたい」

 思ったままを伝えると、リオネはまたボタボタと涙を溢した。

「せめて理解してやれたら、ちょっとは落ち着くかと思って。さっきから掛ける言葉見つからないから……同じ状況になったら、どういう言葉掛けてやったらいいのか、わかるかなって」

 ゆっくり、思いの他だらだらと気持ちを伝えた。
 おそろいにしようかと申し出ておきながら怯えていた。ふられたくはないが、ふられるしかリオネを慰める方法が思いつかない。苦しいだろうけれど、リオネのためなら。

「……ありがとう、でも、今はちょっと答え出せない、まともな状態じゃないから、……慰めて貰うために、自分を好きになってくれた奴ふるなんて、カッコ悪いし……もっとよく考えさせて」

 ぽろりと救いの言葉。ああ、良かった。安心が顔に現われた。
 リオネが笑った。チェコも笑った。笑う顔が見れて、やっと安心する。

チェコって面白いよな」
「そうか?」
「……凄く、面白いやつだよ」

 そう言って、はにかんだリオネを心の底から好きだと思った。

「どうせおそろいにするなら、泣き顔じゃなくて、笑顔がいいよな」

 リオネはいつでも前向き。
 チェコも前向きに、リオネからの返答を待とうと思う。



2016/6/21

『ダッシュ』(ぼんやりモテ男×平凡)

目の前で。
すぐ目の前でカルロがエリックに引っ付いている。
エリックは黙って引っ付かれている。

俺がやったら怒るんだよね。


見るものを焼く勢いで、二人を睨んでいたら、

「リオネ不機嫌」

横でチェコがぼそりと呟いた。


エリックはチェコの言葉を気にせず、リオネをないもののような態度でページを捲った。せめてこっち向けよ。
座ったエリックにカルロが被さって、エリックとカルロは雑誌を見ていた。

「なんで?」

チェコはリオネを横目で覗きながら、白々しい質問を投げて来た。

「わかるだろ」

エリックにカルロが引っ付いているから。
エリックがそれを許しているから。
俺がやったら怒るくせに、カルロには怒らないから。

「ん……」

チェコはリオネの顔を見て、下を向いて、エリックにチラッと目をやった。

「わかんない」

意図して、わかろうとしない。
というチェコの意思を感じて顔を顰める。

チェコはリオネに懐いていた。

人間を愛しているわけではなく、ただその注意を向けておきたいために人間に構う猫のよう。チェコは気まぐれに人に懐く。これまでリオネは、チェコが懐くのは女だけと思っていた。
懐かれた女は、大体、チェコの持つ奇妙な色気にやられてのぼせ、チェコに構い倒し、チェコに飽きられて捨てられる。
リオネ……男友達に懐く、というパターンは初めてだ。

エリックの雑誌を捲る手が止まって、その細く滑らかな指が移動する。
ゆるく丸く、握られて、頬杖。

「リオネ、居心地悪いからあっち行って」
「え……」

「変な目で見ないで」

「……見てない」
「見てなくても、俺には、ちょっと不快な視線だったの」
「な……!」

かっとして、言葉を失う。

愛しくてたまらない存在から、無碍にされる苦しみを、こいつは味わったことがあるのか。

悔し涙を堪えて顔を隠すように、ぎゅっ、とエリックに抱きついてみた。
ビクッとエリックの身が震え、脇腹に肘鉄の痛みが食い込む。

「ちょ?!リオネ乱心!俺挟んでる俺挟んでる」

カルロごと抱きしめたので、感触はまばら。カルロが暴れて逃れた。
と、同時に頬に拳骨が来た。エリックに殴られた。
跳ね飛ばされ、教室内の全てと視線が合う。
チェコが庇うよう抱きとめてくれて、どうにか転ばず。

パシンと音がして顔を上げる。

チェコがエリックをぶっていた。


「え?!」
「わっ」

俺、カルロが短い悲鳴を上げた。
チェコとエリックはあまり仲良くない。
そんな二人がぶつかるのは宜しくない。

「抱きついたくらいで殴ることないじゃん」

チェコの主張に、

「俺の勝手」

エリックの答え。


「おまえちょっと自意識過剰」
「君みたいな鈍感にはそう映るかもね?でも俺は、リオネが怖いんだよ」
「わけわかんねぇ、リオネが何したんだよ」
「欲情してるから、俺に」
「はっ!……だからそれが自意識過剰だって……!おまえ見てると苛々する!」
「じゃぁ見なければいい、……俺に、関わらなければいい」
「そんなのわかってる、それができたらいいけど」

勝者はエリック。チェコはリオネを見た。
助けて欲しそうだが、どうしたものか。

「二人とも仲良くしろよ」

咄嗟、出た言葉にチェコは顔を顰めた。

「まぁ、ダダも最初はこうだったよな」

カルロが場を和ませようと、軽い声を出した。
カルロの明るい表情に、教室が視線の包囲を解いてくれた。
四限の自習時間は、まだ始まったばかりだった。
皆、この一時間半、何をしようか考えるのに忙しい。


「あ、リオネこれ」

エリックが唐突に、折畳んだ紙を取り出した。
受け取って開くと、お菓子のレシピ。
エリックの趣味は料理で、前にエリックの作った菓子を、家に持ち帰ったら母親が気に入り、レシピをもらって来て、と頼まれた。

「ありがと!」

「うん、さっきは流れで嫌な言い方してごめん」
「いいよ、本当のことなんだろうし」
「まぁね、あ、気を悪くしないでね、早く他に好きな相手探して」
「あの、口癖みたいにフるのやめてくれる?なんか麻痺しそうだから」
「……」
「俺、うざい?」
「別に」
「ホント?!」
「友達じゃん」

太い縄が目の前にドン、と落ちて来たような。
エリックの澄んだ青の目がじっと見てきていた。
呆然とその目を見返している隙に、手から何かをもぎ取られる。
気が付けば、レシピの紙を、チェコに奪われていた。

「え?」
「これ、捨てるから」

そう言って、チェコは足早に教室の出口に向かった。

「え!ちょっ!」

追いかける。前を行くチェコが走り出して、舌打つ。
ああもう、手の掛かる奴。

チェコ!」

名を呼ぶと、振り返ったチェコの顔は曇っていた。

「返せよ!!」

ぐん、とチェコの速度が増し、焦る。
階段を降りようと、曲がったチェコを追った先、ジェキンスの寮生であるチェコの身体技に、あっと息を飲まされた。
階段の手すりを飛び越えて、一段下の階段の手すりに、さらにその下の手すりに。

チェコは一階まで、階段をショートカットしてしまった。
対するリオネはまだ三階。

見失う。

エリックがくれた、エリックの書いた字が書いてある、エリックがリオネのために作成したものが、捨てられてしまう。

チェコの真似をして、手すりを飛び越える。
ヒヤリと嫌な予感がして、腕に力を込め、手すりにぶら下がる。
下の手すりまで、二m程。

綺麗な着地を、できる気がしない。

踏み外したらどうなる。
手すりは幅細く、滑る。目が回る。階段の、規則正しい景色がリオネの心臓をどくどくと鳴らした。

「何してんだ馬鹿」

下から、チェコの怒鳴るのが聞こえた。

「手、離すな、今そっち行くから」

そうだ、もし怪我をしてもチェコが居るなら、救急処置なりしてくれるし、人も呼んでもらえる。
安心したら、急に、手すりが近く見えた。
思い切って、手すりに降り、バランスを取る。
チェコは階段を使って登って来ているらしい、カンカンと音がする。
登って来たチェコが、あっ、と声を上げて逃げ出した。
リオネは手すりに腰を掛けて、悠々とチェコを待っていた。

人間に騙されて、驚いた猫の後姿。
可笑しくなり、笑いを抑えながら、追いかけた。
この時間は移動教室が多く、空の教室が目立つ。
通り過ぎた授業中の教室の中に、ダダの姿があった。
目が会って、手をふると怪訝な顔をされた。

廊下を歩いていた教師の叱りを受けながら、高庭に出た。

あまり来たことのない、いつもは女子生徒で溢れている高庭。
二階の右端から行ける、噴水が綺麗な、洒落た空間。
二階より長い一階の屋上を利用している。
緑に囲まれて、花々が一年中咲いている。
風が吹いて、花の香りを運んだ。
空をバラバラとヘリが飛んでいる。
授業をしている教室もある学校の緊張感に襲われる。
背徳感と、高揚。

リオネはチェコを追い詰めた。
チェコは紙をしまった手を後ろに隠して後退し、大きな体を前のめりに、左右を見た。そして、紙をポケットに仕舞うと今度は前進。
前進されると、急に不安になり、リオネは逆に後退。

「リオネ」
「返せよ」
「なんで逃げるんだ」
「返せ」
「止まれよ」
「返す?」
「返す」

チェコがまた一歩、こちらに来る。
この焦燥感は何だ。

チェコ?」

目の前に来たところで、たまらずに名を呼んだ。
瞬間に抱きつかれ、驚いて言葉を失った。
何だ何だ、何が起こってるんだ。

「俺だって抱きつきたい」

耳もとで、チェコの高いとも低いとも取れぬ、わがままな響きを持つ声がして、腰が痺れる。冬の朝のような、例の、冷たい香りがする。
チェコにこの香水を送った女は、今どこで何をしているのだろう。
猫の気まぐれに付き合って、捨てられた女は。

「キスするけどいい?」

鼻先で、猫科の男は許可を求めた。

「駄目」

駄目に決まってる。

「なんで」
「駄目だから」
「きもい?」
「きもくはないけど変、っていうか、ん、きもいか?」
「きもいのかよ」
「難しいな」
「どっち?」

少し顔を離して、間近で見つめられる。
チェコは無表情に、黒い目で、リオネを観察して来ている。
リオネの次の動きを待っている。
猫のよう。獲物をじっと、夢中で、眺めている。

「きもいっていうか、駄目?」
「俺は駄目なの?」
「は?」

俺は、の「は」とは。
他は良いのに俺は駄目、という意味だ。

そうか、そういうことか。

チェコはリオネの男色に触発されている。
ふらふらと何を考えているのかわからない男、チェコは、その実何も考えていない可能性がある。これまでもうすうす、チェコは単純なのかもしれないと感じていた。その確信を得た。
チェコは男色というものを、リオネを通して知った。
リオネがエリックに恋をする様や、ブルーノを買う様を見て、どういうものだろうと興味を抱いたのだ。

「リオネ……」
「っ」

つん、と唇に唇が当てられた。そのまま唇を舐められる。
どう反応しようかと迷っていたら、目の前に悪戯っぽい猫の微笑。

「駄目なのにしちゃったけど、怒る?」

呆れて、全身から力が抜けた。この男……。

「お」

喋ろうとして開いた口の中に、舌が差し込まれた。がっつりだな。
背に回された手が、ぎゅっと身を締め付けてきた。

深いキスを終えて、チェコは少し満足気にリオネを解放した。

「なんかスッキリした」
「あっそう」
「あっそうって」
「さっき言いかけたことだけど」
「ああ、何?」

怒らない?って質問に答えてやろうというんだぞ。
何、じゃないだろ。

「怒らないからお金貯めろ、ブルーノさん紹介してやるから」
「……」

す、チェコが寂しそうな顔をして、まずいことをした気分になる。
初心者にいきなり男娼はまずかったか。

「いや、冗談」
「うん」

チェコは、リオネにその道を求めている。
リオネが引き摺りこんだようなものだから、当り前かもしれないが。
このままではチェコと恋人同士のような関係になってしまうんじゃないか。チェコに限って、そんなことはない気がする。でも。

もしそんなことになったらエリックが喜ぶ。
リオネがエリックを諦めたと。
そんな場面嫌だ。泣いてしまう。

「俺は、抱くのしかできないよ?」
「だ、そんなことまで考えてねーから」

やってしまえば気が済むだろうかと提案したら一蹴された。
良かった、友人と肉体関係を結ばずに済みそうだ。
そうだろう、少し興味がある程度ではキスで満足だろう。
これでチェコの気まぐれも近々終わり、またエリックに甚振られる日々に戻る。憂鬱だ。

リオネに懐いてくるチェコ
チェコの存在は、リオネを慰める。
気が付かなかった。チェコは、リオネを癒していた。

「おまえのこと好きだな」

チェコが呟くので、

「うん……、俺も」

答える。

「あ、変な意味じゃなくて」

慌てて付け足す。

「うん」

チェコの表情からは、気持ちが窺えない。
何を考えている?

結局授業の終わりまで高庭で過ごし、教室に戻るとエリックとカルロにダダが加わっていた。そして、リオネとチェコの追いかけっこについて二人から事情を聞き、にやにやした。

「リオネはもうチェコとくっつけよ」

何を言い出すのか。エリックの前で。

「デカブツ同士、お似合いだよ……顔の位置が近くて、キスしやすいんじゃない?」

エリックもにやにやしている。泣きそう。
カルロはチェコとリオネを交互に見て、にまっと笑った。

「そういや前にさー、リオネ、チェコのことかっこいいって、やたら褒めてたよな!」
「っ」

今、ばらすなよ。今。

「そー!チェコみたいな色気があればとか……」
「いや、まぁ、……言ってたけど他意はねーし!
 何だよくっつけばって、俺が男で好きなのはエリックのみだし」

ばん、とエリックが机を叩く。

「白けた、話題変えよ」
「っ」
チェコも照れちゃって顔赤いし」

振り返ると、本当に顔の赤いチェコが居た。
ぎょっとして、カルロの肩に捕まった。

「かっこいいとか、言われ慣れてないから」

チェコが言い訳し、ダダがけっと鼻を鳴らした。

「歴代彼女は言ってくれなかったの?」

すっかり吸い辛くなった空気に参りながら、リオネは質問した。
チェコは事実もてていたし、かっこいいという言葉が似合う。
友達の欲目かもしれないが、街中で「ああ、かっこいい人だ」と思えるぐらいには雰囲気がある。

「かっこいいとか、言われたことない」
「へー」
「猫っぽいって言われる」
「ぶっ」

思わず噴出して、鼻が出た。
確かに猫っぽい、とエリックが言う。

猫っぽいチェコの、猫っぽい仕草。
手に、すりっとチェコの手が寄って来た。
心臓が跳ねて、思わず避ける。
避けたのに寄って来る。どくどくと脈が。
少し意識してしまっている。当たり前だ。
高庭でいちゃついた後だ。

手の中に、紙が入れられた。


あ。


返してもらうことを忘れていた。



0:50 2011/12/08

『禁煙』(平凡×男娼、ぼんやりモテ男×平凡)

 

「はァ?!何時からだよ?!」

 

 大学部と高等部を結ぶベンチの喫煙スペースで、ブルーノ・フランクは甲高く叫んだ。リオネが禁煙に成功したことに腹を立てての大声。

 鼻に皺を寄せて、片眉を上げている。リオネにとってブルーノは兄の友人であり、怒りっぽいが優しい、優しいが不道徳な俗っぽい先輩。第二の兄だ。

「自制心あってごめん」

 にやにやと謝ると、ますますブルーノは不愉快そうな顔をした。ブルーノは狐のようにつりあがった目とガリガリの体躯がマニア受けし、過去、売春でたいそうな稼ぎを誇ったという。リオネも何度かお世話になっている。

「何使ったんだよ?」

「何も、普通に我慢」

「聖人か」

 学園の広大な敷地を埋めているのはほぼ緑で、高等部と大学部の間を走る森の中の小道は爽やか100%。ヒーヒーやらキィキィ、チー、ピーと鳴いている鳥の声は自然に溶け、耳に心地良い。

「禁煙いいよ?自由になれるよ?喫煙所チェックの日々とおさらばだよ?薬局行けば一粒0.1fぐらいの禁煙のクスリあるし、ブルーノさんもそろそろやめたら?」

 提案してみると、元男娼は色素の薄い眉をくねらせ、唇を尖らした。

「煙草なくしたらヤクに流れる、俺の周辺のクズ具合舐めんな」

「……」

「ヤニ吸ってるから手ぇ出さないで済んでるみたいなとこあるからな」

 ブルーノを含めた兄の友人、たまに使われていない自宅の倉庫に屯する面々の柄の悪さを思い出した。肩の力が抜ける。呆れを通り越して、人の世の儚さ的なものを感じた。どんな生き方でも、人は生きていけるのだ。

 女の子を好きにならなきゃいけないとか、遅刻はしちゃいけないとか、サボっちゃいけないとか、テストでそこそこの点を取っておかないと、とか。自分で自分に課している『いけないこと』に縛られる生き方は果たして良い生き方なのか。

 などと思考してみたが、実際はあまり縛られてもいなかった。ただ、縛られるべき、と思っている。縛られていない事に後ろめたさを感じる。

 ブルーノや、その仲間たちのような、だらけて好き放題する生き方もあるのに。今を楽しむ生き方、というものが果たしてどこまで悪いものなのか。考えていたら、鳥の声が止んだ。一斉に止む時がたまにある。静けさは冷たい風になって頬を撫でた。

「長かったのになぁ、おまえに煙草の味を覚えさす道のり」

 ブルーノは、真面目なリオネを不真面目な道に誘うのが好きだ。リオネは溜息を付き、ブルーノの頭を撫でた。短い髪の柔らかい手触り。毛の短い動物の頭のよう。そのまま頭の後ろ、首の裏、背中の始まりにそっと手を移動させた。

「ブルーノさんもさぁ、せっかく親御さんと再会して大学入れたんだから、法に触れるもの扱う仲間とはさぁ、そろそろ縁を切ったらどうかなあ、うちの兄貴みたいに……刑務所入りたいの?」

「ふ、やらしい触り方して説教してもなあ。どうしたお客さん欲求不満か?禁煙やめて偉いから10fで手ぇ打つぜ」

 鳥がまたさえずりを開始して、急だったせいか五月蝿く感じる。悪いことは大体ブルーノから教わった。煙草とサボリとゲームの裏技、スピードの出る乗り物の運転。男色。

「前から思ってたけど、年下にお金で買われるの……何とも思わないの、ブルーノさんって、プライドとかないの?」

「は、おまえの金はおまえの親の金だろ、おまえが稼いだもんじゃねぇ。何とも思わないね。おまえから貰ってんじゃなくて、おまえの親から貰ってんだから……家庭教師代だな」

「なるほど、うちの親、教育熱心が過ぎるね」

 小憎らしい第二の兄に、欲望が萎む。ブルーノから手を離し携帯を取り出す。どうしてもエリックと話をしたくなった。エリックの声は、煙草の煙に似ている。麻薬の方が近いかもしれない。

 器機の向こうは、エリックを呼ぶ音。

 明日登校するまで、17時間ある。今、声を聞けなかったら明日まで聞けない。出てくれ。出てくれるだけでいい。

『はい』

『エリック?』

『ん、何』

 欲は簡単に膨れる。会えたら嬉しい。

『今暇?』

『暇じゃない』

『あ、そう』

『ごめんね、それじゃ』

『あ、待っ』

『何』

『なんでもない』

『じゃ』

 くっくっくっくっく、と忍び笑うブルーノの足のスネを蹴る。

「痛ぇ!」

 電話を切ると、ブルーノはスネを押さえ少し涙目になっていた。

「DVとか何時覚えたよ、そういう不健全な客は相手にしねーんだよ俺は、も、ぜって買われてやんねぇ!てめーなんざエリック・ヴェレノに飼い殺されてんのが似合いだわ」

 容赦のない悪人の、頬をつねる。つねると間の抜けた幼い顔になるブルーノに再びその気になった。つねのをやめて唇に指を伸ばす。

チェコじゃん」

 指でなぞろうとした唇が動いて、湿った歯茎に触ってしまった。予期せず手についた唾液は気味が悪いもの。顔をしかめ、手を引っ込めた。

「どうも……」

 チェコがブルーノに挨拶をしながらやって来た。横に並ぶと香水の薫り。

四代ぐらい前の彼女にプレゼントされ、なかなか無くならないらしい。

 すっかりチェコと同化した香水は、冬の朝のような冷たい印象で鼻に届く。

「なんか今、二人とも変な空気だったような……?」

「あぁ、……スキンシップ、なぁリオネ」

「え、まぁ……」

 チェコは何を考えているのかわからない顔で、じっとこちらを伺って来た。目が合ってもお構いなし。リオネが逸らすまで逸らさない神経。自分は一切、探らせない面を被りこちらの情報だけ攫おうとする。対抗して作り笑いをして、さっさと視線を逸らす。

「エリックが遊んでくれないんだよ」

 一応、話を振って、輪に入れる。

 男の友人であるエリック・ヴェレノを、リオネが性的な意味で好きだという事は、公表している。フィオーレは当主の一族が代々男色家だからか、フィオーレ領内にある学園内はそうした文化に寛容だ。

 だから軽く、こうして愚痴が溢せる。愚痴らないとやっていられない辛い事、リオネの中で恋愛はそういうものに分類されてしまった。

 エリックから解放されたら、二度とするものか。

「エリックはもう諦めろ」

 チェコは勝手な命令を下した。

「諦めたいよ」

「女紹介する」

「……いらない」

「男の方がいいか?」

「エリックがいい」

「……」

「もうやめよう、この話」

 チェコはエリックの話になると微妙にそわそわする。恐らく気持ち悪いのだろう。男にとって、男と男の関係ほど生理的な嫌悪を感じるものはない。危機意識だろうか。自分がどう思われるか、というところはどうでもいいけれど他人を不快にさせるのは忍びない。

「とか言って、また急に声が聞きたくなって電話しちゃうんだろ?リオネ君、一応忠告しておくと、鬼電は立派なストーカー行為だぜ」

 しかしブルーノはリオネの意図を読まず、エリックの話を蒸し返した。チェコが嫌がっているのがどうしてわからないのか。チェコの思考はわかりにくいが、感情は案外わかりやすい。動物をあやす感覚に似ている。純粋な心で観察すれば、自ずと答えに触れられる。

「だから、その話はもう終わり」

 苛々した声が出た。

「事前に約束をとりつけろよ、長くお喋りしてぇならさぁ」

 リオネとチェコ二人が不快を訴えているのに、ブルーノは気が付かない構わない。

「……事前の約束とか、カルロやダダもついて来るじゃん」

「あー……」

 ブルーノはマイペース。空を向いて適当な相槌。

「ついて来んなって言えば?」

 チェコの助言に表情が強張る。

「言えたら苦労しねーよ」

 両手で顔を包みしゃがむ。カルロとダダを煙たがったらエリックに嫌われる。二人にも悪い。ただでさえエリックエリックと四六時中唱えていて迷惑なのに。四人でいるのも楽しいのに。どうして二人きりになろうとするんだ。二人きりになったところで何が起こるんだ。

 排他的な感情はかっこわるい。心狭い。……でも沸き起こる。

 とにかく、どうにかしてエリックを独り占めしたい。そう思っている自分を軽蔑する。エリックが関わると苦しくなるばかりだ。

 はぁ、と溜め息をついてしゃがむ。

「もぉ、ほんと、きっつい」

 しゃがむと土が近くて、目の前を蟻が二匹通った。

「お~い、そんな落ち込むなよなァ、マジ思春期めんどいわ」

 ブルーノが頭に手を置いてきて、我に帰り恥ずかしくなる。やってしまった。癇癪を起こして座り込んだ。困った奴すぎて目も当てられない。恐らく、耳が赤い。顔ももちろん赤い。

「なぁ元気出せよ、サービスすっから、な、可哀想な片思いファイター価格5f!まじ五歳分は値段下げたわ、この歳の男娼そんな安く抱けねーよ?しかもこんな上玉をさぁ?」

「うー」

 唸ってぐずぐずする。ブルーノの甘い声が嬉しかった。

「おまえが余裕ねーと慌てるんだよ。なぁ、立て。悪かったよ、話蒸し返して。話題変えようとしてたのにな」

 あー、やっぱわざと蒸し返したのか。見上げたやな奴だな。くそ。

「なぁ」

 急にチェコの薫り。視線をやると、隣にしゃがんでいる。目と鼻の距離に、チェコの雄々しくて癖のある顔があった。

「うわっ?!わっ?!」

 驚いてよろめき、二の腕を掴まれる。いや、この体勢で助けられるわけないだろ。一緒に転ぶと予感したが裏切られ、チェコの訓練で鍛えられた腕は一本だけの力で、ぐっとリオネの体重を支えた。

「おまえ俺にこないだ、友達の女と寝るの注意したよな」

「え?ああ」

 支えてからの、突き放し。土に尻を擦って、何となく屈辱的。

「おまえが男買ってるってどういうことだよ、なんか腑に落ちねぇんだけど」

「はぁ?!あー、……あれは」

 ヒリヒリとした空気。チェコが怒っている。表情には出ていないが、肌に伝わる。エリックと同じ、静かな怒り方だ。エリックは不快を示す時は派手だが、怒る時は静かで得体が知れない。その得体の知れなさに、リオネは心を乱される。感情を噴出すべき場面で、静かになる人間の内側に引かれる。

 初めてチェコの顔をまじまじと見た。表情を読み取るため、感情の信号を受け取るため、情報を得るためだけに見てきた顔の細部に目を留める。少しだけ下がった眉の付け根が色っぽい。何か言いたそうに、うっすらと亀裂の入った口、唇は薄い。眼光は普段の十倍になって、瞬きのない眼球が揺れていた。数秒じっとりと見詰め合って、やっとチェコが沈黙を破った。

「何か言え」

 促され、ああと口を動かす。

「えっと、俺は、何つーか……、おまえの相手……ライプニッツさんだろ、あのコ、おまえのこと好きじゃん。そういうさ、どっちかが片思いの状態で、っていうのは、なんか理不尽っつーか。俺とブルーノさんの間には何もないけど、おまえとライプニッツさんの間には、ライプニッツさんの心があるじゃん、何か、その状態よくないと思うんだよ、不平等なんだよ」

「え?俺リオネ好きだけど?」

 ふいにブルーノが笑い混じりに主張しだして、場がさらにこんがらがる。チェコの顔がかつて見たことのない程、驚きで歪んだ。額に一斉に浮かんだ汗が、ぷつ、と落ちた。何をそんなに動揺しているのか。

「リオネはぁ、ふふ、気づいてなかったみてーだけどぉ?俺リオネ愛してたんだわ実は、なぁ、大変だなー!俺等の間にも何かあったなー?理不尽だなー?!」

 楽しげなブルーノの前、チェコは土に膝をついてぐったりしている。

「あの、ブルーノさん……、ヘテロの友達が非常に深刻なダメージ受けてるからこれぐらいで……」

「だってよ、おまえの倫理よくわかんねー、愛のないセックスはアリで愛のあるセックスはナシか」

「そこら辺はほんと微妙なんだけど、ライプニッツさんに勝手に自分重ねちゃって……もしエリックが男で俺が女だったら絶対俺エリックに好きにさせちゃってる、とか」

「もし、つかエリック・ヴェレノは男な」

「あ、そうだった!いやでも、ほんと……片思いファイターは辛いばっかなんで……肉弾戦くらって瀕死になってるかもしんない同胞のことは助けたいと思うっていうか」

「肉・弾・戦!!!」

 ブルーノが叫んで、爆笑した。

 こうなってしまっては、もう何を言っても笑われるだろう。黙るしかない。高等部と大学部の中間にある森のなか、ブルーノの笑い声が木々に染み込んでいった。

 

 

 リオネの父親はヴィンチの古い企業で働き、母親は自転車屋を営んでいた。赤字続きの自転車屋が黒字を出すようになったのは、貸自転車を始めてから。兄の提案だった。

 店と連結した家で母子が暮らし、父は週末に帰る。

「ただいまー」

 ラジオの音と小物、工具。植物に溢れた店の中、雑誌を膝に置いて紅茶を飲む母親が埋もれていた。

「おかえり、あ、フランク君こんにちわ」

「どうも」

 貴族達の保有する歴史ある館がまとまっているこの土地には、年に150万人超の観光客が訪れる。中央駅から降りてすぐに始まる商店街の外れ、シュトール家の営む自転車屋は、地元の人間が買ってくれる自転車で二割、その修理でもう二割、観光客への自転車の貸し出しで六割の売りを作っていた。

 自転車屋というより、貸し自転車屋として機能しているといっても過言ではない。

「あのぉ、貸し自転車って……」

 観光客らしい、女の子二人連れが店を覗いた。

「あらいらっしゃい、造花がついてる奴が貸し用だから、好きなの選んで」

「造花?あ、可愛い!」

「あれ乗り心地良さそう!」

 女の子が壁の高い位置に掛けてある黄緑を指差す。リオネは慎重にそれを壁から外し、女の子の横に置いた。

「あ、ありがとうございますぅ~」

 少し甘えた声で礼を言われたので、お返しにニッコリ営業スマイルを送った。

「これうちの息子、良かったらコイツも借りてやってー、彼女募集中なのよー」

「えぇ?!」

「わぁ~!モテそうなのに~!」

「LINE教えて貰えば」

「ちょっとやめて~!」

 女の子達の楽しそうな悲鳴に、少し誇らしくなってブルーノを見た。ブルーノは母親が紅茶の脇に置いていた菓子の瓶からマカロンを取り出していた。

「母さん、おやつ取られてるよ」

「やだ!フランク君の馬鹿!いつもあたしの楽しみ奪ってぇ!」

「ロゼさんダイエット中だろ」

「したほうがいいのはわかってるけどぉ!!あっ、あっ、ちょっとぉ、駄目!クランベリー味はっ……!駄目よぉお!」

 母親の悲鳴の中、堂々と紅色のマカロンを口に運ぶ。そして薄茶のものを一つ手に持って、勝手知ったる店の奥に進んでいく。

「フランク君!!!」

「ごちそうさまでーす」

 母さんごめん。明日マカロンをお土産に買って帰るからね。リオネは胸を痛めながら、ブルーノの後に続いた。

 ブルーノは、リオネが見知っている人間の誰にも媚びない。媚びているところを見ない。ということを指摘すると、人を見てるだけだと言う。媚びるべき相手には媚びる、と臆面もなく言う。

 うちの母親は媚びるべき相手じゃないのか。

 親を馬鹿にされたようで悲しかったが、怒ったところでブルーノは変わらない。

「ロゼさんイイなぁ、癒されるわ相変わらず」

 先を行くブルーノの軽口に、複雑な心境。

「寝ないでね」

「馬鹿」

 ブルーノは女にも身体を売る。

「まぁ、母さんブルーノさんのこと嫌いだから、たぶん大丈夫だと思うけど」

「弱ったな~、女の嫌いは好きってことだ」

 振り返ったブルーノの顔には、小憎たらしい笑みが貼り付いていた。

 

 家の敷地内、店の裏にある新しい倉庫に対し、昔使われていたきりの古い倉庫は森の中。子どもの頃は秘密基地に使っていたが、今は兄の遊び小屋と貸し、兄弟暗黙の了解で使われる連れ込み所に変化を遂げていた。敷物が三枚とウェットティッシュや液体瓶。他、必要なものがさりげなく揃えられている。

 時計を見ると17:30だった。エリック、カルロ、ダダ、チェコと揃ってゲーム大会の約束があった。秘蔵のAV公開もある。色々悩んで、兄のコレクションからえげつないゲイものを持って行くことにした。リオネ秘蔵の男女ものは、女優が全てエリックに似ている。

「っ……、っん、は……ん、ン」

 ブルーノは元プロで、穴の準備を自分で整える。閉じられた腿の間に挟まった細い手首が、生き物のようにぬるぬると動いてブルーノ自身の穴を慣らしていた。

「俺、やるよ」

 指を二本穴に入れて、くちくちと水音を鳴らす手。動く手の中央、盛り上がっている骨にキスをする。

「やらせて下さいだろ?」

「やらせて下さい」

「でもなぁ、自分でやんねーと逆にこう、具合がなぁ……?」

 ぶちぶちとぼやくブルーノの手を、穴から抜いて、良く液体で濡らした自分の指を代わりに穴の中にそっと入れる。最初の頃に、遠慮と恐れでゆっくり進めて遅いと殴られた。次に勇気を出して早く進めたら、その場では高い声を上げて善がってもらえたが、後になってペースを崩されたと怒られた。

「おっせぇ……」

 耳元で呟かれ、困る。

「ペース崩していいの?」

「いー、早く」

許しが出たので、中指を全て埋めた。

「っぁ……あ……!」

 ブルーノは湿った嬌声をもらし、リオネの背に爪を立てた。

「ん、その辺りで、ひろげろ……っ」

 指示に従い、二本入れていた指を広げる。

「フぁ……、ンう」

 尊大な態度で、歯に絹を着せない。俺様兄貴のブルーノが、弱そうな声で呻く。互いの、はぁ、はぁ、と余裕のない息遣いが興奮に繋がる。

「曲げて……?」

 命令が、懇願に。

 快楽信号が腰に響き、下半身が出来上がった。指を曲げる。

「は、……ん!ぃあ、……アッ」

 トタトタ、と落ちて来たブルーノの精液が熱くて可愛らしい。釣り目を閉じて、眉間に皺を寄せ、放出の余韻に浸る顔を眺める。

「入れていい?」

「まだ」

「……まだ?」

「持ち物の体積ぐらい把握しとけ」

 リオネのものを入れるには、解し足りないらしい。ブルーノは舌打って、さっさと自分の手で解しに掛かってしまった。

「駄目だ、やっぱ勝手が違うわ」

 不機嫌そうな横顔にキスをすると頬を抑えられて、牽制された。

「気が散る」

「……はい」

 ブルーノの容赦ない言いぐさにエリックが被る。エリックも言いそうだ。ブルーノとエリックは、神経の図太さが似ている。

 似ているから、リオネはブルーノを買ってしまう。

 ブルーノの誘惑に負けてしまう。

「リオネ」

 名を呼ばれて、準備が整った体に近づく。ブルーノは指で穴を広げ、入れやすいようにしてくれていた。

「失礼します」

 思わず敬語。

「んぁ……っ」

 ブルーノの高い声。

「ぁぁ、う……っかふ、……ァっ」

 ブルーノの喘ぎはいつも掠れて苦しそうだった。ぬいぬいと迫ってくる逆排泄に、いやいやをして目元に涙をためる。玄人の癖に、悲愴感を漂わせて抱かれる歳上の男を、労るよう抱き締めると抱き締めかえされる。

「ぁん、……っく、ゥ」

 太いものを細い管に、慎重に挿し込んでいく。

「っはあ、はぁ、ぁ、ぁ、ふッ」

 途中まで来たところで、止めて互いに休む。

「やっぱ男は楽で気持ちいいわ」

 ブルーノが白けたことを言うので眉を下げる。

「そんなこと言ってると激しく動くよ」

「駄目、無理、腰辛くなるだろ、健康的に行こうぜ、この後チノとデートなんだよ、よろよろじゃかっこつかねーから」

「かっことか……つけるキャラだっけ」

「惚れてる相手にはつける、あんまついた試しねーけど」

「ていうかさ、かっこって、どうやってつけるの?」

「適当に、おすまし顔してりゃつくと思ってってけど?エリック・ヴェレノに通じるかは謎だな?……」

「んんんーっ」

「……まぁまぁ、出すもん出して元気出せ」

 会話を打ち切り、行為に集中。少し乱暴に抜き差しすると、息と嬌声の二つを荒げ、ブルーノは乱れた。汗の滴る細い身体が熱を持ってくねる。

「ブルーノさん、えろい」

「えろくなきゃ困んだよ」

 首の後ろに腕を回され、重さに安心する。ブルーノは今、年下の可愛らしい男の子に夢中だった。可愛らしいといっても、それは外見だけの話で、中身は底意地の悪い我侭な坊ちゃまだ。一度だけ会ったことがあるが、もう二度と会いたくないと思えるぐらいには、嫌な少年だった。

 

「じゃぁな」

 ブルーノの声に見送られ、先に来た電車に乗り込む。

「リオネ」

 名を飛ばれて振り返ると、チェコが座席に座っていた。

「うわ、偶然」

「この時間は本数、少ないから」

 階段近くの車両に、人は集中する。この列車に乗ると丁度良く待ち合わせの時間に着くので、当然の鉢合わせだった。

「せめて15分おきになってくれればいいのにな」

「私鉄使えば5分おきになるじゃん」

「私鉄は高ぇ」

チェコって意外とケチだよね」

「倹約家なんだ」

 まばらな乗客数。夕方のノボリ列車。チェコの隣に腰掛け、携帯を開く。グループLINEを開くと、カルロとエリックが既に楽しげな会話を繰り広げていた。遊びの集まりに合流する前の、はしゃいだ様子が微笑ましい。

「リオネ、携帯好きだよな」

「は……?……ああ、まぁ」

 リオネをじっと見つめながら、チェコは例の怪しげな魅力のある顔に、にやりと色気のある笑みを浮かべた。そして、長く節ばった手をかこかこと動かしてチェコとリオネ二人のトーク上に『俺も携帯好き』と告白してきた。

『なんで』

『内緒話ができる』

『あー、それは確かに、……あっ、AV何系持ってきた?笑』

『普通の、……リオネは?』

『おい、そこはちゃんと答えろよ、……俺は兄貴の拝借してきた!素人ものだから、最初ちょっとえぐいやつ』

『え、それ大丈夫?合法?』

『うん、演じてるの童顔のベテラン』

『うわー……、萎えるー』

『おい』

 LINEのトークを見ながら、クスクスと笑い合う。

『そーいや、あれ、さっきの狐顔の先輩とさ?リオネってマジでガチな関係なん?』

『んー?ガチっていうのは、付き合ってるかどうかっていう?』

『いや、それは違うってわかるんだけど……』

『ヤってるかどうか?』

『そのあたり』

『内緒』

「おい」

「だっておまえ、気持ち悪いって顔すんじゃん?」

「そんな顔したことないけど」

「いやいや、してます!そんな顔してます!しょっちゅうしてます!こんな感じ、こう、眉間に皺を寄せて!」

 顔面を作ってみせると、チェコはやっと思い当たったようで渋い表情になった。

「それはエリックがお前に当たり強くてウゼェってなってるだけ」

「ん?」

「……俺、エリックよりリオネの方が好きだし」

 好きだし、と発言する声が妙に清んでいて照れてしまう。いつの間にか目的地に到着していた。

 駅にはカルロとダダが、手を振って待ち構えていた。

 

 

 近づくと吸い込まれそうになる存在。

 金の細い髪がさらさらと額を出したり隠したり。その滑らかな頬のラインに手を当てられるなら何でもする。静かな海の泡波のような優雅さで、睫がぱさりと鳴った。

「リオネ邪魔」

 通路の反対側から来たエリックに見惚れて立ち止まっていたところ。エリックの苛立ちで正気にかえった。壁に張り付いて道を開ける。

 エリックの家で、徹夜のゲーム大会が開催されていた。リオネは兄の影響で日常的にゲームをするので、集まった面子の中では強い方。エリックはどんな技を使っているのかわからない程、強い方。それでいて普段は全くゲームなどしないというのだから憎い。

 エリックとリオネがずば抜けて強い中、カルロ、ダダ、チェコのレベルは平行していて、チェコが少しゲーム慣れし腕を上げてきた所だった。

「出かけるの?」

 玄関に向かうエリックの後ろ姿に声を掛けた。手洗いに立った帰り。リオネがリビングに戻る道を進んでいたら、エリックがリビングからやってきてリオネの正面を塞いだ。

「うん、トイレットペーパーを買いに」

「大事だね」

「リオネがトイレ行ったので思い出したんだ。良かったよ、大の方じゃなかったみたいで」

「えー?やめてよ、聞いてたの?」

 ふざけて茶化すと、エリックは笑った。

「勢いありすぎじゃない?大音響で家揺れてたよ、うち壊れるかと思った」

 笑みで綺麗な弧を描いた唇が柔らかそうだ。目元から楽しそうなエリックの表情がリオネを喜ばせた。なんでもない会話をしているだけで満たされる。リビングに目をやると、三人はゲームに夢中だった。チェコがこちらに気が付いて、チェコの持ちキャラが画面の中で死んだ。

「ちょっと出て来るね」

 三人に向かい、声を掛ける。

「え、リオネついて来るの」

 エリックが玄関から声を上げた。

「駄目?」

「……駄目」

「なんで?」

「からかわれるだろ?」

 エリックの目線が、チラリとリビングをなめる。カルロ、ダダ、チェコが揃ってこちらを向いていた。

「ホテル寄って遅くなるなよー」

 ダダが薄笑いを浮かべて冗談を投げてきた。

「リオネいっけー、キスぐらい許してくれるって」

 カルロが当然、乗っかって来る。二人のテンションは、ゲームで大分高められていた。

「手繋ぎ縛りで行って来いよ、手ぇ離したら罰ゲームで」

「それいいじゃん!」

 グループ公認の片恋が冷やかされる。恐らく何も起こらないだろうお使いの道に夢が広がる。エリックと手を繋げる妄想で照れていたらチェコが立ち上がった。

「俺もゲーム飽きたから、行こうかな」

「ばっ?!馬鹿ぁー!チェコ!こら!」

「空気読めチェコ!」

 ダダとカルロが、チェコの足に纏わりつく。

「あ、じゃぁ行って来る」

「おい」

 チェコを振り切るよう玄関に向かう。エリックが居ない。しまった!置いて行かれた!しかしめげない。

 慌てて靴を履いて走って追いかける。エリックの家がある草原の長屋は、丘に挟まれた谷の道を通らなければ繁華街に着かない。谷は一本道だ。全力疾走。

 なかなか追いつかない。

 不安になって、速度を上げる。心臓がバクバクと音を立てている。耳に風の唸り声。早く並びたい。一秒でも長く一緒に歩きたいのに……。恐らく前を行くエリックも走っている。リオネに並ばれないよう、きっと全速力で。

 エリックはリオネの想いを拒否している。

 いっそ存在を嫌ってもらえれば楽なのに、エリックはリオネを友として好いていた。それがリオネを狂わせる。もしかしたら、が消えない。

 

 目の前には24時間営業の雑貨屋兼、ディスカウントストアがもう現われていた。

 目的地だ。ああ、片道を潰されてしまった。出入り口で待っていたら、会えるだろうか。出入り口は三方向にある。上手く避けられて、帰り道さえ一緒に歩いてもらえないかもしれない。リオネがついてこようとしているのをわかっていて置いて行き、あまつさえ走って追いつけないようにする男だ。

 不安に駆られて店内に入り、エリックを探した。

 まっすぐトイレットペーパーコーナーへ。いない。

 頭が真っ白になって、エリックという人物が幻のように感じた。リオネの空想した美しい妖精だったんじゃないか。

 頭がふわふわした状態のままレジを見る。脳内には、はっきりとイメージされている可憐な立ち姿は、果たしてどこにもいなかった。

 撒かれた……。

 少し泣きそうになりながら薬局の広い店内を見回す。いない。LINEとメールと電話で攻撃してみたが、無反応だった。

 そこで、出入り口前の柱に背を持たせ掛けて、沈んだ心を慰めるため明るい妄想を展開させた。待っているリオネに気づいたエリックは、まず顔を顰めて、やっぱり追って来たと呟くだろう。それから、……キスはしないよ、と冗談を言って。

 手を繋ごうとしたら、それもなしとこちらの手を叩く。悪戯っぽい呆れ半分の微笑。想像して胸が熱くなった。

 夜を照らす店の明かりは、夜に向かうエリックの後ろ姿を……その白く細い首を不健全に照らすだろう。あの女めいた男の独特の骨格。色気を放つ背を、腰を、うっすらと闇の中に浮かび上がらせるだろう。そんな幻想のような後姿を晒しながら、手にはトイレットペーパーが握られているのだ。

 生活用品を手に持ったエリックと並んで家に向かうなんて。同棲気分だろうな。妄想の中の自分が、ひたすら羨ましい。

 

 ふとして、エリックからはどのように見えるのかが気になって店のガラスに反射した自分を見た。走ったせいで、前髪が少し真ん中で開いて脇に寄っていた。お坊ちゃんぽい。慌てて無造作に直す。汗で一部が額に張り付いていて気持ち悪い。

 髪を直したら今度は顔つき。優しそうと言われることが多い。優しそうとは気弱そうと同意語だ。ぐっと口を結ぶ。ましになったろうか。うん、全然駄目だ。心境のせいかいつもより不安気で、幸が薄そうな様子。

 無害な顔の造りをしているから、それなりに身長があるにも関わらず、ほうっておくとすぐ情けない雰囲気の男になってしまう。

 格好って、どうやってつけるんだ。チェコのようにドッシリした、妙なオーラが出ている落ち着いた男に憧れる。余裕のある立ち居振る舞い、

ぶれない意志。発言力。分別がありそうで、寄りかかりたくなるような。そんな男。

 時計を見ると30分経っていた。

 完全に、避けられて先に帰られた。

 追いかけたけど入れ違っちゃったよ、と帰ったら笑いながら言わないと、相当に可哀想と思われてしまう。入り口で30分も待っちゃったと続けて、おどけてみせなければ。

 30分?!まじで!と悪気のないカルロに突っ込まれて、むなしさに襲われるんだろうな。だせー、とダダが軽口を叩くだろう。エリックには気持ち悪がられ、チェコには軽蔑されるかもしれない。胃がグスグスと痛み出した。

 エリックと並んで歩きたかったな。

 綺麗な横顔をチラチラ見たり、荷物を持つと言って、馬鹿にしないでと叱られたかった。冗談を言って、笑いあいながら二人きりの空気を吸いたかった。辛いのはエリックが、そんなリオネの願いが叶わないよう努力した点だ。

 じわりと、涙が出て恥ずかしくなる。180を越えた体格もそこそこの男が、避けられたぐらいで泣くな。置いて行かれた時点で悟れ。嫌がられていたのに追いかけて撒かれて、泣いていたのでは本当にもう。俺って奴は。

 鼻を啜り、手で目を擦る。上を向いて両手で顔を覆い、気持ちを静める。うわぁ。情けねーぇぇ。頼むから涙とか鼻水とか顔の赤みとか、キッチリ引っ込んでくれよ。引っ込まなかったら失踪しよう。このまま家帰ろう。ちょっと急用で家呼ばれて、とか色々ワケは作れる。

 10分。薬局のトイレで顔を見ると目が赤い。ちょっとホントにどうしよう。前から涙腺は緩いほうだけど。こんな些細なことで泣いたのとか絶対バレたくない。

 芳香剤の匂いが鼻を刺激して、また鼻水。

 携帯が鳴った。チェコから。

『はい』

 鼻声が出て、ぎょっとして咳き込む。

『迷子?』

『なんねーよ』

『遅いから』

『風邪引いて』

『ん、よくわかんない、早く帰って来いよ』

『寒い』

 こうなったら、風邪で早引け作戦だ。

『どこ居るんだ?』

『薬局』

『動けないぐらいだるいの?』

『えーっと、うん、だったけど、ちょっとよくなったから、もう帰るわ』

『あとちょい待ってて、荷物持ってってやるから、俺も帰るわ、送る』

『いやいいよ、ポケット財布入れっぱで来たからこのまま帰れる、荷物は今度取り来るし、そっちまだゲームしてんの?』

『おまえがいないとつまんねぇ』

『ふ、ありがと、じゃぁチェコチェコでうまく抜けて、俺はこのまま消えるからさ、伝えといて』

『誰に』

『エリックに』

『帰ってねぇぞ』

『え?!』

 奇跡のようなタイミング、トイレに備え付けられた扉型の戸がバンッと勢い良く開き、エリックが登場した。

『え?あれ?!エリック居た!!』

『状況がよくわかんねぇ』

『ご、ごめん、また掛ける』

 気が動転して、声が震えた。

 通話を切ると、トイレの中には戸の揺れるワンワンとした振動音のみ残った。

「先に帰るのは可哀想かなって思って、おまえが帰るの待ってたの、30分も粘るんじゃないよ馬鹿」

 苛ついている一方で艶やかな、暖かい声が耳を一杯にした。 エリックは目を細め、一瞬だけ笑った。そしてくるりと踵を返した。あっという間にディスカウントストアの出口を通過したエリックに、慌てて追いつく。リオネは半ば無意識に、いつも冷たくて細くて滑らかなエリックの美しい手を掴んだ。迷子が親の手を二度と離すものかと握るような強さで、手の感触を確かめた。

 ふいに目の下に手を当てられて、何かと思ったら近距離に芸術的な美貌。

「泣かせてごめんね」

 首を傾げて、微笑を浮かべながら何て台詞を。肺の中にすぅっと煙の入ってくる心地を思い出す。エリックという存在によって酷使されてきた心臓は、今まさに壊れるのではないかと心配になる速さで鳴っていた。

「手の力強いよ、指痛い」

「エリック逃げるもん」

「逃げないよ」

「好きです」

「うん……ありがとう」

「まだ好きでいいですか?」

「駄目です、他当たって?」

 はっきりした返事に、鈍く頷く。エリックは苦々しい表情で、真っ直ぐリオネを見上げていた。

 リオネ自身だけでなくエリックも苦しめるこの気持ちを、一刻も早く断たなければ……。

 

 

 

2016/2/24

 

『無味無臭』(ぼんやりモテ男×平凡)

 

 

 フィオーレ所有の岩山の切れ間を風がビュウビュウと走り抜けていた。

 どこもかしこも泥と灰の色をした走行訓練場。夜間訓練のラストは、ここを終着点にする走行訓練といつも決まっていた。岩肌にはり付いて乱れた呼吸に振り回されている者、帰り支度を始める者、闘技場に個人的な練習をしにいこうと約束を取り付けている者。

 チェコ・トルーニは兵士らしい巨大な身を岩肌に立たせ、風にいじられている癖のある猫毛をゴツゴツとした手で押さえた。眠そう、と人から指摘されがちな目を細め星空を見上げる。

 ふとして、ある友人の顔が浮かんだ。

 中等部で同じクラスに居て、学力の近さから仲良くなった。学園は学力別にクラスを編制するので、テストの点が近ければ近い程、教室移動などで顔見知りになる。

 高等部は案の定同じクラスになった。学園からクラス名簿を含む案内書類をもらいに行った時、名簿の中に名前を見つけて、嬉しくてその帰り自転車を早漕ぎして事故に遭いかけた。

 リオネ・シュトールという男は、薄茶の髪と目が柔らかな印象をつくる、好青年と言えば好青年かもしれない。癖の無い性格と顔で文武の力量も中の上、人に不快さを感じさせる要素はゼロだが、ある人間がある人間に感じる近さだとか気が合うだとか、気になるだとかの属性というか、磁石力、その者にとっての「誰か」を引き寄せる力が弱い。個性の欠如と断言してしまうと乱暴な、無難という言葉があまりにも似合う、無味無臭の男なのだ。

 だから誰とでも仲が良い一方で、特別な誰か……一番仲が良いという人間が出来ない。無味無臭の空気みたいな奴だ。チェコは、このリオネの一番仲の良い人間にあわよくば自分がなれないかと思っていた。

 そう思いながら、チェコは中学時代リオネを同グループの遠くから眺めていた。チェコは彼女と二人の行動が多い上、同性にあまり好かれるタイプではなかった。チェコにとってリオネは盾のような存在で、リオネを通じて、男社会と繋がっていた。

 普段付き合いが悪いくせに、気になる集まりにはリオネが親友を作らない所につけこんで、リオネの親友のふりをして参加した。人の良いリオネはチェコにグループのイロハを一々教えながらチェコがその集まりで楽しめるよう世話をやいてくれた。

 色欲の強いチェコにとって、男の付き合い程、面倒なものはない。しかしたまに男同士の冗談が飛び交う明るい場所に存在したくなることがある。

「どうした?ぼんやり突っ立って?」

 ふいに声を掛けられて、振り向くとゴドー・ジェキンスが居た。将来の上司だが今は歳の近い先輩。

 ゴドーは黒い髪と黒い目を持つ肩のしっかりした大男で、いつもこの人には絶対に適わないと思わせる人間的な巨大さがあり、後輩の尊敬を集めていた。

「帰らないのか?」

 見るとあたりには、もう誰も残っていなかった。ゴドーはチェコの、よく「何を考えているのかわからない」と言われる顔を見て首を傾げた。

 何を考えているのかわからなかったのだろう。

「何か、あるのか?」

 大雑把な質問に、対する答えはイエス。何かある。自分でも良くわからないもやもやがある。

「エリック・ヴェレノは、結局、リオネをどうしたいんでしょう?」

「さぁ、……あいつの考えてる事は、俺にはわからん」

「リオネが……可哀想です」

「……そうだな、あいつもエリックに相当やられてるからな」

 平凡を地で行くリオネ・シュトール……チェコの大好きな優しい友は現在エリック・ヴェレノという、美貌の男に惑わされていた。

 はぁ、と溜息をひとつ。

 寂しいのだな、と自覚した。リオネをエリックに取られてしまった。エリックにやたらと反感を覚えるのはそのためか。

「エリックが嫌いなのか?」

「や、嫌いというか……前にも話しましたけどリオネが可哀想で」

「あぁ……」

「ほら、エリック・ヴェレノにはもう……ゴドーさんっていう立派な相手がいるじゃないっすか、それなのにあいつ尽くしちゃってるっつぅか。

 あんま、気ぃ合ってないのにエリック周辺でなんかごちゃごちゃ、こないだも、う、うんこの落書き見せて来たんすよね……うんことか喜ぶタイプじゃなかったのに……なんか、……そういうの、なんかモアーッとしちゃって。……エリック周辺の、カルロとかダダとかあそこらへんの笑い、あいつとはちょっと違うんですよ。面白いけど、それはあいつらだから面白いんであって俺等はもっと……もっと静かだし、なんか……あんなの違うっつーか。俺と喋ってる時は……あ、まだ結構あいつ普通に俺のとこ来るんですよね、やっぱあいつらのとこだと疲れるみたいで……、で、やっぱ俺と居る時はもっとこう素なんすよ、だるいのをだるいまんまにしとくみたいな、無理にアホなこと言ったりしねーし、うんことか落書きしてみせたりしないんすよ。それが俺等なんすよ」

「でも見せてきたんだろ」

「……見せてきました……、しかもその後言ったんです「うんこ」って、……笑っちゃったんすけど、笑った後こうモアーッて、何だ今の、って、……何か、……らしくねーなって、もう……こう、モヤモヤして、うぜーんすよ」

 ゴドーは下を向きながら、耳だけこちらに傾けていた。腹の中にあったものをいざ吐き出してみると、恥ずかしいぐらいリオネへの執着が言葉の端々に現れていて呆れた。

「うんこ」

 ゴドーが呟いて、地面を見るとうんこが描かれていた。

「っ」

 思わず噴出して口を抑える。

「おまえも好きじゃねーか」

「男は大概好きだと思います」

「俺は普通だな」

「俺も普通ですけど」

「……乱入したらどうだ」

「は?」

「カルロ君やダダ君が反対してもリオネは受け入れてくれるんじゃないか、リオネと一緒に居たいなら、おまえもあのグループに入れば良い」

「……邪魔じゃないすか」

「邪魔?」

「あいつは、ほら、エリック・ヴェレノに近づきたいわけだから」

「おまえ、さっき自分で言ったこと忘れたのか?エリックには俺が居るからリオネは脈のない相手に尽くしてるって、それが可哀想なんだろ?だったら止めてやれ」

「……ああ」

「俺のためにも」

「なるほど」

「リオネは好青年だからな」

「確かに、あいつと女取り合うのは嫌っすね」

「女じゃないが」

「尚更タチ悪いっすよ、あいつ同性ウケいいから」

「近頃学校の話をやたら楽しそうにするから心配だったんだ、楽しいのはいいが、楽しそうすぎると不安になる」

「ゴドーさんも根回しとかするんすね」

「するつもりじゃなかったが、せっかくだからな……まぁ、何だ、頼んだ」

「頼まれました」

 ゴドーの頼みなら、とチェコの心は踊った。理由があれば動きやすい。

 

 翌日の教室で、エリックグループは静かだった。金髪碧眼、美貌のエリック・ヴェレノを囲むのは陽気なそばかす男カルロ、毒舌太っちょのダダ、平凡な好青年リオネ。みんな揃って沈黙している。

 チェコがリオネに声を掛けて、グループに一瞬入って来るのはいつものことなのだが出て行かない。

 カルロがチェコに遠慮をして喋らず、ダダが苛々しエリックがリオネをちらちらする。

チェコ?」

 リオネに全てが託された。リオネがチェコに伺いを立ててきた。ここが正念場だ。

「仲間……入れて」

「……ん?」

「はぁ?!」

 ダダが大声を出し、カルロが盛大に困り顔を作った。

「何かお前ら、いつも面白そーにしてるじゃん、彼女と別れてから孤独でさ」

チェコも孤独とか感じんだ」

 カルロの声はどこか上滑り。

「リオネも居るし」

「じゃリオネと二人で居ろよ、俺おまえ苦手なんだよ」

「克服して」

 ダダの主張に、緩く噛み付く。

「俺、チェコ居てもいいよ」

 まさかのエリックの助け舟。カルロがダダを伺った。カルロの顔は困り顔から、好奇心に輝く顔になっていた。

「まじかよ」

 ダダがうんざり声を出し、チェコはこの闘いの勝利を確信した。

 

「ダダはさ、エリックの時も結構あからさまに嫌いとか言ってたんだよな、でもカルロがエリックかまってる間になんだかんだほだされてったから、おまえもカルロと仲良くしてたらいんじゃないのかな、ていうか、寂しいなら、しばらく俺一緒いようか」

 昼休み、購買に向かう廊下でリオネは相変わらずの優しさを発揮してきた。

チェコはさ、どうせまた彼女できて付き合い悪くなると思うし、そうなったらこっちが寂しい感じになるだろ、俺そういう空気苦手で……ってか、エリックがおまえに影響されて彼女作ろうとか考えたら厄介だし!なんて腹黒いこと考えてたりもするんだけど、どう?」

「や、それは、セフレ作ったからたぶんしばらく、大丈夫」

「……えー?」

「俺が彼女つくんの性欲でだし、これからは友情優先でやってく気だから、……おまえと一緒にいたい」

「え、ってか、セフレって誰?!あの、もしかして?!」

「わかるだろ」

 過去に3回、告白を受けていたが面倒くさそうな性格が嫌いで断っていた女友達の顔を、リオネと一緒に思い浮かべる。リオネはチェコの事を何でも知っている。

「わかるけど、それどうなんだよ?!俺そういうの微妙かも!なんか好きじゃねぇわ」

「おまえほんと好青年な」

 昼の廊下は賑やかで明るい。軽口のつもりでだった言葉に、リオネは返事をしなかった。黙ってしまったリオネの心が怖い。嫌われたのだろうか……。その考えにヒヤリと足の裏が冷えて、地面から浮いたような心地になった。

 買い物を済ませてもまだ無言のままの帰り道。こんなに嫌われることに怯えたのは初めてだ。

「ごめん」

 食堂と校舎の渡り路、コンクリートの日陰道。渡り路を囲む木々が音を吸い込むのか人通りの割に静かな道で、咄嗟に謝った。

「あの、なんか俺、悪かったよな?ちょっと不真面目だったかも、なんか、言われて気づいた。やめるから、不真面目なこと、……」

 気に入らないなら、なおすから。嫌いになったりしないで欲しい。

「いいよ別に、おまえの好きにしろよ」

「そういう突き放した言い方すんなよ」

「突き放した言い方?」

「なんか不安になるから」

 前を向いていて、ふいにこちらを向いたリオネは笑っていた。

チェコってさ、なんか俺に懐いてるけど、なんで?」

 懐いてるなんて、思われていたのか。

「おまえに構われるのが心地よかったから、かな」

「俺、そんなにおまえに構ってたっけ」

「構ってたよ、構うなら責任持って永久に構えよ」

 

「リオネ」

 

 ゴドーの声がして、チェコとリオネは自然と背筋を正した。

 

「お、チェコも一緒か。悪いけど今からバスケ部集合掛けてくれ、おまえ学年部長だろ?」

「はい」

「このメモの内容で連絡網」

「はい、あ、えっと」

 買った昼食と財布と、ハンドタオルを手にしたリオネが慌てだしたのでハンドタオルと荷物を預かる。

「さんきゅ」

 リオネは礼を言いながら、ゴドーからメモを受け取った。

「頼んだぞ」

 ゴドーは素早く去っていき、リオネはメモを見つめた。

「先輩の字、相変わらずだな」

 メモには、でかくて力強い文字が躍っていた。荷物は教室に着いてから返そう。考えた矢先に、リオネはやんわりと荷物の受け取りをしようとして手を伸ばしてきた。

「いや、いいよ教室で」

「や、悪いから」

 メモを尻ポケットに突っ込んで、受け取り準備万端。

「はっくし」

 妙なタイミングでクシャミが出た。鼻水もバッチリ出た。

「うわ鼻水、タオルだけ今度でいいわ、使えよ」

 言われて、鼻にタオルを当てた。ほんのりと蜂蜜の薫りがした。

「ん?」

 鼻を拭いてからリオネの肩を嗅いだ。同じにおい。

「なんか、蜂蜜?っぽいにおいしね?」

「うち、母親蜂蜜狂だから」

「無臭じゃなかったんだな、おまえ」

「え、くさい?」

「くさくはない」

 無味でもないのかもしれないが、それは噛んでみないとわからない。

 

 

 

2016/2/22

『衆人環視』(隠れオネェ×気弱男子)

 

 クドさんの首は太くて力強い。堅い骨の芯があって、少し熱い。馬乗りになって首を絞める体勢でそれを確認する。

「わかった、ありがとう」

 背を叩かれクドさんから降りると、クドさんは空を蹴り起き上がって遠くを見た。

「どうですか?」

「感覚は掴んだ」

 フィオーレ駅からバスで10分、駅前の簡易闘技場は夕方6時が混雑のタイミングで、僕たちの部屋を覗く人々の数からしてそれがわかる。皆、夜7時からのメイン試合を観に来たのだ。

 試合前に身体をほぐすため、または試合のない闘技士の練習場として、闘技場の一角には透明な仕切りのある幾つかの調整室がある。その一室に今、二人の男が入っていて。一人は人気闘技士のクドさん。一人はその付き添い、高校三年生一般人、僕。

 見学者にはクドさんの姿を見て足を止めた一般人と、ランキング上位者であるクドさんをわざわざ見に来ている他の闘技士達がいて、ガラス張りは人の顔で埋まっていた。

「やっぱクド格好良いわー」

「一緒にいる奴が子どもみてぇに見えるし」

「同じ男とは思えねーよな、俺等もクドの近く行ったらあんなんなっちゃうのかなー」

 イメージトレーニングを終え、筋力維持のメニューをこなし始めたクドさんの傍、記録用の機器を手に突っ立っているだけの耳に嫌でもギャラリーの声が届く。

「アレ何だ、弟子か?」

 アレ。

「あー、だとしたら、良く面倒見るよな、アレはヤバイ

「どう頑張っても芽ぇ出ないぞ?あんなの」

 あんなの。

「まさかの恋人だったりして」

「ゲイだもんなー、案外そうかもな」

 そうです。

「理解できねぇー!」

「ゲイって筋肉が好きなんじゃねぇの?」

「知らねぇよ」

「あんなんがいいのかよ?」

 そこで突然、メニューを止めたクドさんが話込んでいた二人の元、脚を進めた。仕切りの透明な板をコンコンと軽く叩く。軽口を叩いていた二人が青ざめた。皆の視線が集まり、緊張感が生まれた。

『恋人に文句を付けられるのは気分が悪い。やめてくれ』

 注意され、二人は額に汗を浮かべた。

「すみません」

「聞こえてるとは思わなくて」

 透明な壁の内と外はマイクとスピーカーで繋げられている。その場に居辛くなった二人が出て行くのを見ながら、僕は尻から腿に掛けて、軽くなったような感覚を味わった。弱者として生きて来た僕には理解できない流れ。嫌なもの、嫌な相手に追い立てられるのが日常。今のように、逆に相手が逃げて行くなんて。

「クドさん、そんな気を遣って頂かなくても……」

 消えそうな声で、やってしまった自己卑下。本当はありがとうと。身が縮まる思いをしていた。庇ってくれたんだねクドさん、大好き。と言いたかった。クドさんは苦い笑みを浮かべ、メニューに戻った。

 気を遣って頂かなくても、なんて。僕は庇われる程の者じゃないのに、というニュアンスだ。実際、そう思う。しかし、クドさんは僕を好いてくれているのだ。好きな人が自分に自信を持っていなかったら、その人を好きだと言っている自分は何なのか。そんな気持ちになるだろう。僕はクドさんを不愉快にしてしまったかもしれない。些細な事で、暗い気持ちになってしまう僕を、僕は大嫌いだ。

「センダック」

 呼ばれて、顔を上げるとクドさんは笑っていた。

「もうおまえを苛める奴はいない、俯くな、顔を見ていたい」

「……」

 ひゃぁぁあ、という声が周りで聞こえた。部屋の音が筒抜けになっていることを思い出した。クドさんのファンが身悶えていた。

「いいなぁ!俺もあんなん言われてぇ~!」

「なんでゲイなのよクドさぁんん!!」

 男女混ざった歓声に、複雑な心境。クドさんはどこに居ても愛されている。クドさんが好きな人達から見て、僕は憎たらしい人攫いだ。クドさんを独り占めしてしまう仇だ。

「僕、もうここには来ないよ」

「……」

「皆がクドさんのこと好きすぎて、不安になっちゃうよ」

 野次の飛ぶ覚悟で発言すると、ひゅぅー、と低い声で囃すような反応。ヒソヒソした息の中、静まり返ったギャラリーは何かを期待している。クドさんが困ったような顔をして動きを止め、僕を見ていた。嫌な予感がして数秒後、衆人環視の元、クドさんと僕はキスをしていた。正しくは、クドさんが僕にキスをしていた。

 

 

 

2016/2/20

 

隠れオネェ×気弱男子のとある日。

クドさんは最近ゲイをカミングアウトしました。

今回、クドさんのおねえ調が書けなくてしょんぼりです。

たぶん、キスの直前、

彼の心中は「やだちょっとまじ可愛いんだけどこの子、

 どうしてくれんのよ、いいの?!やっちゃっていいの?!

 もうやるわよ!引かれたってやるわよばああああ!」

だったと思います。