『かわいそう』(野心家兄×無気力な腐男子弟)
私生児として生まれたが、父代わりの伯父がいた。
母は優しく、母と俺を家に置いていた伯父一家は温かだった。俺は恐らく、弟より恵まれて育ってきた。
「タクオ、鍵を外せ!!」
弟の引篭もった小屋の戸を叩きながら、俺はどうしてこの弟に構いすぎるのか考える。引け目だ。引け目があるのだ。俺は恵まれて育って来た。
「兄さん……声大きいよ」
中から眉を下げ、顔を出した弟は具合でも悪いのかと聞きたくなるような浮かない顔をしている。最初の頃は見たままに、具合でも悪いのかと聞いていたが、弟のこの眉を下げた顔は単なる不満顔なのだ。今はもう騙されない。
「出掛けるぞ」
「……え~? ……どこに?」
弟は小屋の戸を少ししか開かず、俺を撃退しようと身構えている。
兄が訪ねたというのに、兄を部屋に入れないとはどういうことなのか。
「ヴェレノ駅西口にあるバー『根のもと』……聞いたことあるか?」
「知らない、ていうか俺……お酒苦手だし」
「苦手?」
「……うん」
「十五を三年も過ぎておいて、まだ苦手だと?
たいした玉無しだ、飲んで慣れろ」
「慣れないよあんなの……くさいもん。
ていうか、飲めない人に無理させちゃダメなんだよ!
だから……あの、俺は……無理しちゃダメなの、バーなんか行かない」
「…家の用事だぞ、おまえも来い」
「お酒飲みに行くのが家の用事?」
「会食だ、来月の下旬に我がヴロヴナ領西ヴロヴナ十番に店舗を構えて下さるフラグ家との親睦」
「……フラグの人なら、俺は同学年のアンガス君と仲良くしておくから。
今日は……」
「そのアンガス君が来るんだ」
「……えっ?! アンガス君が来るの?」
途端に弟の顔が、キラキラと輝きだす。
「どうした、仲が良いのか?」
「いや、普通だけど、麗しい面構えしてるよね」
「なるほど」
「兄さん、粗相のないようにね」
「おまえこそ」
「俺は行かないもん」
「いい加減にしろ!」
大声を出すと、きゅっと目を瞑って弟は怯えた。陰気な艶のある顔で下から伺うように俺を見る。わざとやっているのだろうか。
「娼婦のような仕草をするんじゃない」
「言い掛かり……」
恥じらったふりをして媚を売る、完璧な角度にくらりとした事を誤魔化す。弟の母親は伝説をいくつも持つ腕利きの娼婦だった。
「おまえがそんなだから血筋がどうだなどと使用人どもに好き放題言われるんだ。おまえはっ、もっと堂々と男らしくできないのか」
「そんなこと言われても……、普通にしてるだけだし」
「とにかく早く仕度しろ」
「だから、行かないから」
「アンガス君が来るんだぞ?!」
「それは美味しいけど……兄さんにはトツさんが居るし。
アンガス君にはもう相手がいるし」
「わけがわからん」
弟の言い訳は、時々文脈が読めない。
「アンガス君と仲良くなれるチャンスじゃないか」
「そうなんだけどさっ、緊張するんだよ!
兄さんに連れていかれる場所、いつもいつもっ…!
何かっていうと兄さんは俺を叱るし。
もう何ていうか、ストレスが溜まっ」
「アンガス君が来るぞ!」
もうこれしか、弟を説得する方法が浮かばず叫ぶ。すると、弟は頬を染めた。そんなにか。そんなにアンガス君が好きか。
大多数の人間は、共通して見目の良い者が好きだが、弟は殊更に見目の良い者が好きである気がする。さらに、可愛らしいものを好むし、美麗なものに歓声を上げる。夢見がちな物語や演劇を楽しむし、弱い物への同情が過ぎる。女のようだ。多忙な父親に放置され、女中達に育てられたせいなのか、元来の性質なのか。弟の趣味は女趣味だ。
「五分で仕度しろ」
「そんなの無理だよ……、それにまだ行くとは言ってな、」
「しろ」
ぐずる弟の肩を押して、強引に小屋に押し入ると、クローゼットを勢い良く開けた。
「うわっ?! 何?!」
小屋にはこのクローゼットの他、勉強机や本棚、ベットまで揃っていて狭苦しい。自室の機能を全てこの小屋に移している弟は、長い時間をここで過ごす。使用人のように、屋敷から離れた場所で暮らしている。
俺が嫡男として、弟を押しやったのだ。
俺の姓はつい最近までフィオーレで、母親がフィオーレ一族の出だった。フィオーレ一族とはこのあたりを治める当主の総領、貴族が集まって地域社会を作るこの「フィオーレ」地域のまとめ役だ。フィオーレ一族は、フィオーレにおいて最上位の格を持ち、俺はフィオーレの親戚筋という身分で、
伯父の一家の元、暮らしていた。
それがある日、ヴロヴナ家長男であると知らされて、急遽ヴロヴナの財産を受け継いだ。俺が屋敷に来るまでは、弟は長男として、屋敷の中心で暮らしていたという。俺が来て一ヶ月経つと、弟の居場所は屋敷から消えた。
しかし、こんな小さなみすぼらしい離れで生活させられていることに、弟は不満を漏らさない。我がヴロヴナの屋敷は、四方を森に囲まれ、屋敷から離れたこの小屋は、森を一つ挟むのだ。
こんな場所に追いやられて、まるで追放じゃないか。
逆の立場だったら……俺がもし弟の立場だったら、当たり前のように兄の暗殺を企てただろう。俺は父に何度も、弟がこの場所で暮らしていることを意見したが、突然家にやってきた、他人のような長男の立場は弱く、聞き入れられなかった。
「兄さん、お願い。やめて。服は自分で探すからゴソゴソしないで。
ほんとやめて」
クローゼットの中には簡素な衣服だらけ。
しかも、クローゼットであるにも関わらず、その面積の半分は何か大きめの本のようなものを収納しているらしい紙袋で埋められていた。大方画集だろう。つくづく趣味が合わない。
「もっとちゃんとした服はないのか?」
「ないよ、そんな派手なとこ行かないし。だから俺は留守番……」
「途中で買えば良い。フラグの店で買おう、せっかくだ」
「そんな高い服いらないよ、似合わないし」
「誰がやると言った。俺の持ち物にするんだ。
時々おまえに着せるために買う」
「んん……」
弟は不満顔。しかし、自分で言ってみて自分で感動。
「そうだ、そうしよう!
これからも俺が、俺のために、おまえの服を買おう。
おまえに任せると、すべてこの類になってしまうとわかった」
クローゼットを指差すと、弟は少し頬を染めた。
「どうせ……」
「何だ?」
「……何でもない」
それから、渋る弟を車に乗せヴェレノ駅に。
駆け込んだフラグの店、『アンガス』で弟の服を揃えた。
アンガス・フラグは店に自分の名をつけ、子どもにも「アンガス」と名をつけて名前を代々襲名させる、という計画を練っていた。ブランドのようで良いだろうと。
生まれたその時に将来の職業を『アンガス』の経営に決められてしまう我が子を哀れだとは思わないのか。などとは、口が裂けても言えない。
「うーん……」
弟に着せた服を前、俺は唸って腕を組んでいた。
正直言って、似合わない。驚く程、立派な服を着こなせない弟に、俺は困惑していた。細すぎるせいか、暗い雰囲気のせいか。ふいに店の奥から、勤めを終えた風のアンガス君が現れた。弟を人目見て、首を傾げる。
「アンガス・フラグ・ジュニア、良いところに」
声を掛けると、アンガス君は人受けする笑顔を浮かべ、握手を求めてきた。
「買い物ですかミノス・ヴロヴナ。
あまり夢中になって、約束の時間を忘れないで下さいよ」
「大事な約束だ、忘れるわけがない!」
軽い冗談を交わし、近づきの挨拶。
アンガス君の視線が弟に移ると、弟はさっと顔を背けた。
「タクオ!」
強い声で呼ぶと、弟は困ったようにこちらを向いた。
「タクオ君、どう?その服?」
聞かれて、弟はぎこちない笑みを浮かべる。
「ぜんぜん俺なんかが、着れるようなものじゃないね」
「どうだろう、色が悪いだけじゃないかな」
アンガス君は手馴れた動きで店の端、ディスプレイ下のスペースから色違いの一着を取り出した。色を変えると、その服は急に弟の身体の一部のようになった。
*
ざわざわと人で溢れる店内は、男性客九割、女性客一割。夕刻の顛末をアンガス君の父、今日の接待相手に話しながら、俺は弟を用心して観察した。というのも『根のもと』が特殊な店であるため。
上流の同性愛者達が集うのだ。
俺はこうした店にはもう慣れていたが、過去には、ちょっとした油断で不合意の経験をしてしまったこともある。
男女が絶対の組み合わせである意識がある店では、あまりないこと。
しかし移動中に店の説明をしておいたおかげで、弟は店についてから、特に取り乱すこともなく、店の中に溶け込んでいた。
何人か弟に絡む者が現れたが、アンガス君が上手くやり過ごしてくれていた。こうした店の雰囲気が、初々しい神経を麻痺させてくれることを、俺は知っていた。
俺がアンガス君の父、フラグ氏と談笑している間、弟はアンガス君と話をしており楽しそうに笑っていた。連れて来て良かった。弟の顔も、ヴロヴナの顔なのだ。俺はもちろん、弟も人脈を広げる必要がある。俺は弟と共に、ヴロヴナを大きくして行きたいと思う。
これまで嫡男として生きて来ただけあり、弟は家の雑務を素早く片付けてくれる。父や使用人も、大きな事については俺に声を掛けるが小さな事については弟に声を掛ける。弟の補佐は、ヴロヴナに必要なのだ。
「タクオ」
「はい」
声を掛けると暗い照明でもわかる真っ赤な顔で、弟は返事をして来た。
「アンガス君と話は弾んでいるのか?」
「それなりに」
アンガス君は微笑んで、俺を向いた。
「ミノス・ヴロヴナ、タクオ君は本当にヘテロなんですか?」
「ん?」
「さっきから凄くソワソワきょろきょろして、可愛い男の子やかっこいい男性が来ると、すーっと目で追いますけど?」
それは……。
「妖しいな、タクオ、その気があるのか? おまえにも?
俺は女もいけるから別に構わないぞ、血筋は心配するな」
「いや、あの、俺は……本当にそんな、男の人とそんな、考えたことないから」
「今日考えてみるといい」
「だから違うって」
「ふふ、兄弟仲良いねぇ~」
「いや、そんな、普通だろ? ね、兄さん」
「はは」
アンガス君の明るい反応に助けられ、場が和やかに収まる。会話で俺が他所を向いたのをきっかけに、フラグ氏がそっと俺の手に手を添えた。断わる理由もなく、微笑を返した。後日は二人だけになりそうだ、などと考えてから、これまで一体何人とこうして関係を持って来たのか。数えるのも面倒な昨今の外交事情に想いを馳せる。
弟はこうした縁の結び方を、どう思うだろうか。弟にもいつか、このような縁を作る方法をそれとなく覚えてもらいたい。
ゆっくりと折を見て、拒絶反応が起きないよう注意を払って教えて行く。まずは好みだろう相手を宛がうのが良い。アンガス君はどうだろう。フラグの家なら根神信仰がある。縁のための関係を結ぶのには慣れているのでは。考え始めた頭を叱り、今はまだ早いと唱える心に従う。時間がないわけではないのだから、焦らずに。そう心に決めた矢先、事件は起こった。
原因は弟が大量に飲酒していたことにある。
それもフラグ氏とアンガス君が帰るのを、見送れない程に。
「大丈夫ですよ、若者は失敗を沢山した方が良い」
トイレから帰ってこない弟を、フラグ氏は笑って許してくれたが、俺は許せなかった。何をやっているのか。あの馬鹿は。怒りのままにトイレを覗くと、個室が一つ閉まっている。
「タクオ!!」
声を掛けるとグスリと泣き声が漏れた。
「何をしてる」
「反省」
「反省よりまず、謝るべきことがあるな?!」
「俺、知らない男の人とやっちゃった」
「そう、まずは知らない男の人に……ん?!」
「お酒の勢いで、なんか楽しくやっちゃった」
「楽しかったなら良かった」
「もうね、最低なんだけどね、その人とは、今日始めて会ったんだよ?
トイレで!! 気持ちの確認とかもしないで、好きにもならないで、いきなり、いきなりやっ……やっちゃうとかぁ! ひどくないこれ? おかしいよ? それでもっと酷いのがっ、ぜんぜんやじゃなかったんだよ俺、あの人がどんな人とか知らないで、やれちゃったよ、会ったばかりの……!
どういうこと?
血筋かなぁ…?」
「相手が好みだったんだろう?血は関係ない」
「好みだったかなぁ、覚えてないなぁ……。
何にもわかんなくても良いやって思ったの」
弟の母親は、凄腕の娼婦だ。それを、弟が意識していないわけがない。弟が普段あまりにも口にしないから、いたわるのを忘れていた。
「おまえは酔ってたんだ」
何と声を掛ければ良いのか、俺は不合意で事に及ばれた後、一ヶ月以上落ち込んだ。未だに思い出すと吐き気がする。弟は合意であったようだが、
ショックを受けている。何と声を掛けようか。
「俺、たぶん……母さんと同じ仕事できるんだろうな」
いくらか声が低くなっているのが危険だった。
やけになってもらっては困る。
「本当にそう思っているのか?」
「……うん、きっと誰とだってやれるんだ」
「俺ともか?」
何を口走っているのかと思った頃にはもう戸が開いて、カバーの掛かった便座の上、衣服の緩い弟が笑みを浮かべていた。
「できるよ、多分」
ふわんと纏う空気に、商売女の薫りがした。
「冗談だ」
顔に焦りが滲む。弟は完全に自暴自棄になっているし、俺は誘惑されている。誰か、……誰か助けてくれ。このままでは。
「オイ、そこは今、使用中だぜ」
ぐっと首根を掴まれて気が付くと、壁に頬を押し付けられていた。
アウレリウス一種に匹敵する、ジェキンス寮班長をやっていた俺が簡単に壁に押し付けられている事実に驚いた。何者か知らないが良い度胸だ。
反撃に足技を駆使すると、向こうは飛び技で応じた。そして腹に重い衝撃が走る。目に見えぬ速さで手技を使われた。認識できたのは相手の肩。咽喉に苦いものが沁みたが、飲み込んで身を前に出し、防御。
「兄さん、こっち」
弟の囁きに、個室に逃げ込もうとした肩を掴まれる。
「だからそこは使用ちゅ……兄さん?」
相手は驚いたようで、俺の肩を掴むとまじまじと俺を見た。俺もまた相手を見ると、非常に見覚えのある顔。
「セネカ・マグラン?」
セネカは現在ヴェレノ最高兵士アウレリウスのトップだ。思わず息を呑んで、じろじろとその顔を見た。個室の入り口を挟んで対峙したその顔は、マグラン一族にしては優美だ。ヴィンチの血が入るだけで、こうも変わるのか。
フィオーレの当主専属兵士ゴドー・ジェキンス。
ヴェレノのアウレリウス第一近衛。
ヴィンチのモーセ第一団長。
国によって最高兵士の名は違うが、総じてトップは一般的に兵と名の付く職にある者の、憧れの存在だ。
旧ジェキンス班長の俺はもちろんセネカに、現ヴェレノのアウレリウス第一近衛である彼に興味津々だった。まして、俺は兵士マニア。
自分の身も兵士として鍛えたが、何より有力な兵士、特殊能力を持った兵士、環境により強くなる兵士や弱くなる兵士、エンターテイメントが得意の兵士、引退した兵士、若手兵士から養成所の注目株、伝説の兵士と、兵士それぞれの特色に想いを馳せる事が何より楽しいのだ。
「どうして、ここに?」
思わず呟くと、大理石でできている美しいトイレット空間に自分の声が響いた。セネカは気だるげに個室の中、着乱れた弟をじっと見てから、俺を邪魔者とばかりに一瞥し、眉間に皺を寄せた。
「非番の時、遊んじゃ悪ぃのかよ」
「悪くない!」
何という幸運。
セネカは俺の反応に、不思議そうな顔をしてから、弟に顔を近づけた。
「こいつホントに兄貴か? 全然似てねぇけど?」
「母親が違うから」
「ふーん」
弟の頬にするりと手を添えて、自然な流れで弟にキスをするセネカを見ながら、弟がやってしまったという相手が彼なのだといよいよ確信した。随分な大物を釣ったじゃないか。
「よくやった、タクオ!」
「何?」
セネカ・マグランは最高兵士の地位を受け継いで日が浅く、外部からやって来たおかげで謎が多い。そのため、何が彼を惹き付けるのか情報が少なく、財界や一族勢力がこぞって声を掛けていたのだがどこも目覚ましい成果をあげていなかった。捉えるのが容易ではない相手だった。
「何って! セネカ・マグランだよ、何時の間に知り合ったんだおまえ!」
でかした、と次に続けようと思って、大声を出したのに弟はさっと青くなった。
「セネカ・マグラン?」
長い沈黙の後に、確認するような声。
「現在のヴェレノ最高兵士トップだ!! 第一近衛アウレリウスの!」
「その肩書きはわかるけど、誰が?」
「そこにいる彼が! そっくりさんで無ければ!
いや、強さがそれを証明しているんだが!
俺はこれでも、フィオーレ次期最高兵士候補として、リニー・シェパードと共に声を掛けられていたんだぞ、つまり、俺とここまでやりあえるのがその証拠なんだ、弟よ! 彼はセネカ・マグランだ! タクオ、よくやった!! これも何かの縁だ、連絡先でも教えてもらえ!!」
「でも、セネカは……、リャマ×セネカ……だから。
俺はリャマ×セネカを邪魔したくは……?ない?っていうか?
そもそもセネカに、こういうところで遊んでるイメージはないんだけど、ついでに、やっちゃったってことは、リャマさんに対して浮気させちゃったことになるし、まず、俺のなかでセネカは受けだったのに……!」
「意味がわからん!!!」
兄弟の会話を聞きながら、セネカは悠々と弟の至る場所にキスを降らせている。肩などには噛み付いて見せたりして、俺に対する遠慮などは欠片も見せなかった。
「それで、おまえの兄貴は何時帰るんだ?」
「兄さん……、アンガス君達は?」
「帰った」
「俺達ももう帰る?」
「そうだな」
「おい」
兄弟の会話に、セネカが割り込んでくる。
「帰るのは兄貴だけにしろ」
「えっ、なんで?!」
「セネカ・マグラン、うちの弟を気に入ってくれたのは良いが、弟はこれまで男に免疫がなかったんだ。今日はここまでで解放してやってくれないか?」
「……次は何時来るんだ?」
「次?」
セネカに聞かれ、弟は宙を睨む。
「次は、次なんて……ないというか、あの、お互い忘れましょう……!
こんな萌えない関係」
「俺は燃えたけどな」
弟は恐らく立ち上がろうとして、よろめいてセネカの腕の中に納まった。セネカは弟の頬にキスをして、俺を見た。
「ヴェレノは良い所だな」
弟を俺の手に返す瞬間に、ふっと笑い、続けた。
「俺の居たヴィンチでは、同性愛者が蔑まれていた。
俺は男しかダメだから大変で……。悩みを打ち明けられる唯一の相手、双子の兄貴は異性愛者だったし、やりきれなくて。抑圧されて、怒りばっかりたまって……なんか色々辛かった。ヴェレノでは男が好きでも、堂々としていられる」
「……」
セネカについてわかったこと、同性愛者。
「良かったら我が家に来ませんか?」
「今から?」
「今からでも後日でも」
「明日午前仕事だから、後日で」
「日取りは?」
「こいつが居る時」
「……連絡します」
「連絡……じゃぁ、これ」
帰りのタクシーで、俺はセネカから貰った名刺を手にはしゃいだ。弟は苛立たしげに、兄さんウルサイと呟いた。それから、少し目を潤ませた。
「兄さんは俺を、あの嫌な家から解放してくれた。
だから俺は兄さんには恩を感じてて、あんまり逆らわないようにしてたんだ。でも、今日行ったようなところにはもう行きたくないよ、肌に合わないから、ストレスが溜まる。
知らない人とやっちゃったのも凄くショックだし」
やはりまだ早かったか。拒絶反応が出たか。
「失敗したな」
呟いて弟の頭に手を伸ばした。少し撫でる。
「怖い思いをさせて悪かった」
「……うん、別に怖くはなかったけど」
相手が大物だったのが救いだな、と言おうとしてやめた。
弟の頬が、涙でぬらぬらと光っていたためだ。行く筋も流して、唇を噛んでいる。まずい。これは医者に掛かるレベルか。楽しんだんじゃなかったのか。
「兄さんは俺のこと、見下しているよね?」
「は?!」
「兄さんは俺のこと、見下してるでしょ?」
「何を根拠に?!」
急な展開だった。
ずっと心の読めなかった弟が、本音のようなものを聞かせてくれようと口を開けたのに。俺は身構えて、頭ばかり働かせた。しかし、弟の言葉に狼狽して良い返しが思い付かない。
「わかるんだよ、空気で。
無駄に優しいし、俺が、何したって余裕だっ。
俺のこと少しも意識しない、俺がヴロヴナの家を巡って、戦いを挑んで来るなんて考えもしない、だってできないもん、兄さんの血にはフィオーレが、俺の血には……。
俺が兄さんに勝てるわけないって、わかってて俺に優しいんだろ?
俺はあんたにとってどれぐらい安全だ?
家の者が誰一人、俺とあんたと争った時、俺に靡かないのをわかっててっ、あんたは……!」
そこまで喋ってから、弟は自分の口を、自分でも信じられないという顔をして手で覆った。
「ごめん忘れて」
「タクオ……」
「こんなこと考えてない。
俺は別に何も……、兄さんに勝とうとか兄さんと戦おうとか……。
考えてないよ」
「わかってる」
「ただ兄さんがあんまりにも、見下してくるからっ」
最後の言葉は涙声で高く上がり、弟はそれから先を喋れなくなった。俺は従兄弟のマルクスが、俺に優しかったのを思い出した。俺に父が居ないのを気にしてくれた。だが、俺はそれを気にして欲しくなかったのだ。
まるで俺が欠けているようじゃないか。
俺は確かにマルクスとは違った立場に居たが、それが俺とマルクスの幸不幸を決めているわけじゃない。対する、当主息子のルカスは普通だった。
俺に良いところがあれば良いと言い、悪いところがあれば悪いと言う。
俺は乱暴者だったから、良く友人を泣かせていた。
ルカスは強烈にそういう俺を非難したが、マルクスは庇った。
庇った理由は簡単だ。俺に父親がいないからだ。父親がいなければ、悪さをして良いのか。俺はマルクスに、差別されていた。優しい差別と、意地悪な差別。どちらも不愉快だ。俺はマルクスが俺に甘いのを良いことにマルクスと仲良くしていたが、心の底ではマルクスを嫌っていた。
当時、その嫌悪の感情が何故起こるのかわからなかったが、今わかった。
そういうことだったのか。
「タクオ」
「何?」
「俺が間違ってた」
「え?」
「俺は、……俺を、おまえより恵まれていると思っていたんだ、これまで」
「……」
「だからおまえには、強く出ないようにしていた」
「……え? ……強く出てなかったの?あれで?」
「明日からは強く出る、おまえに普通に接する」
「……」
「俺とおまえは違う人生を歩んできた。それだけの話だ。
血のことは、気にする人間を軽蔑しろ」
などと俺が言っても無理がある。俺はそれを気にした事がない。だが、言うしかないのだ。それが俺の考えなのだ。
「ありがとう」
弟は小さい声で呟いて、少し頬を染めた。
この日から、弟が家に居る日を連絡すると、セネカ・マグランがやって来るようになった。
2016/6/22