からめ

『娼婦のムスコ』(強気攻め×気弱受け)



 バーに備わった大理石のトイレ、その限られた狭い空間で。数分前まで繋がっていた相手。タカは異性愛者だった。
 そうした用途に使われやすいこの店のトイレには消臭機能と洗浄器具、コンドーム自販機まで都合良く備わっており、現在、事後の匂いの消臭中。洗浄は軽くだけ。

 ウ゛ーンと固いものの揺れるような、消臭の音が響く個室の中で、セネカとタカは近い距離。先程一緒に掻いた汗は、みるみると冷えて行っている。タカは遠い目で、壁の一点を見つめながら無言で、セネカを不安にさせていた。額にそっとキスをしてみたが、無反応。どうしたことか。
 全てが済んで、軽い片付けを終えて一息をついて。その顔を見たら、何かを失ったような顔で、呆然としていた。

 タカは華奢な身に優しげな顔と、陰気な色気を持ったセネカの好みど真ん中で、一目見ただけで体中の好意スイッチを押された。全身から大好きオーラを放って迫ったら、それが伝わったらしい、最後まで応えてもらえた。タカはセネカによって、同性愛の世界を知った。
 初めてのことで、驚いたり怖がったりする気持ちはわかる。しかし事は全て済んだのだ。今は、何だこういうものだったのか、と安心の一つでもする時間じゃないのか。行為中のほうがまだ余裕を持っていたような気がする。
 先程までのタカには、セネカの手管に流されて行くのを楽しんでいるような風があった。笑い声を上げたり、微笑んだり、時々戸惑いは伺えたが、拒絶の色はなく。快楽に弱い性質なのだろう、最初とは思えない程、しっとりした色っぽい反応を見せ、セネカを満足させた。だから、この反応は予想していなかった。
 今のタカは、青い顔で震えている。被害者のような顔つきで、何かに怯えている。……強姦したみたいじゃねぇか。


「タカ」

 呼ぶと、顔は向けてくれるが視線を合わせない。

「合意じゃなかったのか、今の」
「いや、合意だったよ。大丈夫。俺が悪い。あの、びっくりしただけだから。
 自分がこんな肉欲に弱いと思ってなかったから」
「男同士も良いだろ」
「他人事ならね」
「あ?」
「ごめんなさい」

 怯えたような顔で見上げないで欲しい。気分が悪い。頬を抓ってやると、顔を振って嫌がった。

「俺がおまえの初めてか?」

 聞くと、カッと頬を染め、耳を塞いだ。

「おい、どうなんだよ?」

 塞がれた耳に向かい確認。男同士、やっちまったもんはしょうがねぇだろう。おまえはこっち側に、もう来たんだ。

「ノーカウント」
「あ?」
「ノーカウントで、酔ってたからってことで、なかったことにしてくれないかな?!」
 
 ……。なんだそりゃ。

「駄目?」
「つまりおまえ、やり逃げする気か?」
「えっ?!」

 憎たらしい程に、顔の色を失って俺から逃げようと壁に寄ったその反応。最低すぎるだろ。
 ヴィンチでは宗教の戒めがあり、睦言を一度きりの関係で終わらす輩は少ない。

「俺が誘って、おまえが応えた!
 二人で責任被ったよな?
 身体だけで終わらすのか?」
「そん?! え?!
 いや、申し訳ないけど、そのつもり。
 ていうか、言い方酷いよ。俺は……」
「一ヶ月ぐらいはお付き合いしてくれるもんだろ、こういうことしたからにはよ」
「そういうもんなの?」
「そういうもんだ」
「え?! 知らなかった! そんなの」
「やっただけの関係とか、寂しいだろ」
「まぁ、うん、でも、行きずりの人と最後までしたなんてバレたら、俺……」
「最低かてめぇ」
「いやっ、あの、駄目なんだよ、俺の場合。
 俺は、もっとしっかりしなきゃダメなんだよ。お見合いとか……、ちゃんと、家同士が納得してる関係じゃないと、結べないんだ」
「一目惚れを信じねぇタイプなんだな」
「……色々あるんだよ、そういうわけで、俺のことはもうこれっきり、一回だけの相手として考えて欲しい」

 興の醒めることを。

「よくなかったのかよ?」
「それは聞かないで。
 でも、俺は訳があって軽い関係は結べない。
 俺は、肉欲に溺れるわけにはいかないから。
 溺れやすい自覚があるから尚更……。
 貴方は上手な分、危険。
 これ以上関っちゃ駄目だと思う。
 しょっちゅう、して欲しいと思うようになってしまうかもしれない」

 きゅん、と咽喉から胃の間、心臓の周辺がどよめいた。

「い、良いじゃねぇか。俺はおまえにならいくらでも欲情できる。求められたら、いつでも応じられる」

 顔を近づけて、熱っぽく訴えると、タカは唇を噛み、目を潤ませた。

「求めるようになんか、ならない」
 
 事後特有の怠惰な色香を漂わせ、吐息と一緒に喋る。欲望の熱が、盛り返して来ていた。もう一度繋がりたい。純粋に、そう思った。

「取り敢えず場所変えるか?」

 場所を変えて、今度はもっとじっくり。

「いや、だから、もうこれっきりで終わりだって」
「終わりって何だよ」
「終わりは終わり、おしまいってこと」

 見かけの柔らかな印象に反して、頑固なタカの内面に、頭が痛い。好みど真ん中で、身体の相性も合って、文化レベルも近そう。少し喋っただけだが、恐らく性格も良い。

「タカ」
「ごめんね」

 答えをはっきりと提示されたが、これで終わりにはしたくない。

「ごめんは言うな」
「ごめん」
「とにかく場所変えるぞ」
「話聞いてた?」
「水買って来る、待ってろ」

 一先ず作戦を練るため、セネカは現場を離れた。店の隅に置いてある自販機には、飲み水から毛布、大人の玩具、アイスクリーム、流行小説、ボールペン、と雑多な商品が並んでいる。
 毛布とアイスクリームが売り切れていて、ボールペンが残り一本。硬貨を入れて飲み水を選ぶボタンを押し、商品を待つ間に作戦を立てた。
 よし、これならイケるという案を二つほど思い浮かべ、意気揚々と戻った。しかしその頃には、タカの元にはタカの兄、ミノスが駆けつけており、セネカの作戦は実行前にたち消えた。
 当然セネカはミノスを恨んだが、このミノスは後日、セネカにとって大いにプラスの働きをしたのだった。ミノスはセネカを、タカも住まう自宅に、招待したのである。

「ああ、セネカ・マグラン!
 よくいらしてくれた!!」

 よく晴れた日の午後、タカの家に踏み込んで、一番に駆け寄って来たのは、タカの兄、ミノスだった。目を輝かせて、頬を染めて、セネカを迎えたミノスの顔は、無邪気な少年のよう。
 セネカは高級兵士という職にあり、その職は子どものなりたい職業ランキング、十年連続一位だった。

「兄さん、ほら、時間でしょ」

 何やら用があるらしく、ミノスはタカに急かされながら、玄関口から、玄関の外へと身を移動させて行く。セネカを出迎えるついで、
自分も外出するところだったようだ。

「話はまた今度ゆっくりと」

 適当にあやすと、ミノスは大きく頷いた。

「ええ、是非! 絶対に!!」

 そうしている間にも、タカに背を押され、車に乗り込み去っていった。

「気の良い兄貴だな」
「闘技マニアなんだよ」

 将を射んと欲すれば先ず馬を射よ。
 セネカはミノスを全面的に頼り、今この場に居る。おみやげに闘技関係のグッズまで持参して、我ながらあざとい。

「家の者が席を用意してくれたみたいだから、二階の庭園まで来てもらえるかな…?」

 タカはセネカと視線を合わすことなく、屋敷の中にセネカを引き入れた。屋敷は一目では全体が掴めぬ程、巨大で神殿のようだった。
土地の広い場所であることを利用して、敷地内にいくつも人口の森を作っている。使用人が暮らしているらしいカラフルで小さな家々がぽつぽつと、森の景色に映えていた。
 屋敷は卵色の太い柱と、真っ白な壁に、明るい色の花が付いた植物の蔦が絡まり、見事に美しい建物だった。
 タカの家はセネカの住むヴェレノの隣地域、フィオーレの端、ヴロヴナという領土の中心地にあるヴロヴナ屋敷であったのだ。タカはヴロヴナ家次男だった。
 トイレの精だとかプロの娼夫だとか、随分なイメージを抱いた後の衝撃。貴族というオチ。
 セネカの血にも一応、名家が混じっているので、気後れはないが驚いた。
 そうか。だから、あんな空気を。
 端々で感じた、タカの身を取り巻く薫るような重圧、あれは気品だったのだと後になってわかった。一目見た時、脳裏に浮かんだ喩え。何かの「精」みたいだ、とは、また夢見がちな感じ方をしたものだ。

 ヴロヴナ屋敷二階、見事な庭園が目の前。タカは薄手の服を着て、襟元にむっとするような色香を漂わせていた。あの繊細そうな顔で、愛しげに庭を眺めている。
 今日のタカは庭の精だ。
 セネカはタカを視界に入れながら、この美しい景色も、タカが居るからこそ良く見えるのだ、などと恋に浮かれたことを思う。
 すっかり心を奪われている。
 今日、少しでも好印象を植え付け、次の約束を交わそう。
 ヴロヴナ屋敷二階には、長く広いベランダの庭園が続いており、その丸い中心部に、テーブルと椅子の並んだ茶会の席があった。
 主だった使用人と、近隣の名家らしい客が混ざって、セネカを歓迎し、輪の中に招き入れる。珍しい客が訪れるというだけのことで、お茶会を開く貴族趣味。

「ヴロヴナ家当主の御血筋に対し、トイレの精はなかったな」

 雑談に二人しかわからない話題を。
 耳元に囁くと、タカは困ったような微笑をして、何の返事も寄越さなかった。

「ヴロヴナといったら、ヴィンチ王族の遠い親戚だろ?」

 さぞ血統に対し誇りを持っているだろう。タカが初めて会った日に、セネカを冷遇したのは、セネカがタカを「トイレの精」だと思ったせいかもしれない。

「無礼を許せよ、馬鹿なんだ俺は」

 謝ると、タカは首を振った。

「俺なんかトイレの精だよ、実際」
「おい、むくれるなよ、もう間違ったりしない」

 誓うと、何が可笑しかったのか、タカは、ふふふと笑って口元を隠した。

「何か変なこと言ったか?」
「いや? 血筋ねぇ……そればかりだね、うちは、資産や規模、土地、どれを取ってもフィオーレじゃ二流だし、人格者を輩出した歴史もない。
 ただ、血筋だけが売りっていう、情けない家だ」
「家が嫌いなのか?」
「大好きだけど、評価はしてない」

 セネカは貴族事情にあまり詳しくはないが、
ヴロヴナはヴィンチに寄ったフィオーレの端という土地柄もあって、開発が遅れていたはずだ。
 セネカが知識を辿っていると、タカが顔を近づけて来た。少し照れる。

「ヴロヴナの地は、ヴィンチに近いでしょ?
 だから当主一族も、住人もヴィンチの風習を、悪習ごと大事に守り続けてる。
 考えの古い、閉じた人間が多い。発展途上というより、発展する気がない、ただの貧しい地域なんだ」
「でも、美しいな」

 ヴロヴナの地は美しい。来てみてわかった。

「そうだね、綺麗さなら……。
 フィオーレにも負けない自信がある」

 タカはやっと笑った。眉を下げて目を細め、キラキラと金髪を輝かせて。ふわりと盛り上がった頬にキスをしたい。顔を近づけたら、ぐっと手で押し戻された。

「やっぱりお血筋ですねぇ」

 使用人の一人が、笑いながら発言した。
 セネカが目を向けると、彼女は初老の顔を、
優美に綻ばせていた。

「ミノス様から伺いましたが、タクオ様もついに人を誘惑する術を身に付けられたとか……」

 タクオとはタカの本名であるが、セネカは最初にタカから聞いた、タカの名を定着させていた。

「そんな術を身に付けた覚えはないよ……」
「まぁいやだ、勘違いなさっては……。責めてなどいませんよ、お血筋ですから、仕方がないものと心得ております。貴方はもう次男ですし、ご自由になさってください」

 使用人の席もきちんと用意されたお茶会で、彼女は使用人の中、一番の席に居た。恐らく女中頭。ヴィンチの風習である、屋敷を一家に見立てた暮らしを享受しているらしい。使用人は屋敷の中、家族のように扱われる。

「何の話だ?」

 セネカの質問に、彼女は周りに目配せした。
何人かの若い女中が、おろおろと彼女と、タカを見比べた。

「タクオ様の産みの方はカラツボの高級娼婦でございます」
「娼婦……」
「ええ、ですからこちらにはお呼びできず、タクオ様は最近まで、産みの方のお顔をご存知なかったのですよ」
「それは可哀想だな」

 横目でタカを見ると、タカはすっと目を伏せた。

「ええ、そりゃぁ、可哀想ではありましたが、我々働き手としても、誰も彼もヴィンチの名家から参じてますからねぇ、カラツボのようなところからいらっしゃった方が屋敷内におられてはやりにくいですし、お父上のご判断に感謝していますわ。
 タクオ様には、可哀想でしたけど」

 すました顔で、何という発言をするのか。
 耳を疑いつつ聞いていると、ふいにタカが溜息をつき、椅子の背から身を起した。

「ミナさん、俺の話なんか暗い雰囲気を作るだけだから、もっと最近の、明るい話題はないかな」
「明るい話題ですか、そうですねぇ、ミノス様がいらっしゃったことなどは?」
「……明るいね」
「本当、ミノス様は私どもの未来に光を与えて下さったわ」

 ミノス・ヴロヴナはタカの兄として、二、三年前、突然その名を貴族会に示した。と、セネカは今日に向けて学習していた。
 タカはミノスが来るまで、長男として育って来て、ミノスが現れた途端、次男になり家の相続権を失った。

「どうなることかと思っていたもの、それまでは、……ねぇ?」
「……」
「タクオ様だって不安でしたでしょう?
 ヴロヴナの取り得など血筋だけですもの」

 すらすらと、聞いている第三者さえ不快になるような、挑発的な言葉を吐くこの者は、自分が使用人という立場を理解できているのか。何を考えているのか。

「母を悪く言うのはやめてくれないかな」
「あら、悪くなんて言ってませんわ、敬意を持ってますわ、娼婦の血だって、悪いものじゃありませんよ、勿論。現に貴方はその血を立派にご活用なさって、こんな素敵なお客様を呼ばれたでしょう?」

 どっと笑い声。五人居る使用人と近隣の名家らしい二名の客。全員がタカを侮辱する冗談に、心地よさを覚えている。
 何だこいつらは、この場所は。

「俺にもわかる話をしろ」

 不愉快のあまりに、厳しい声を出すと、やっと笑い声が止んだ。

「ああ、申し訳ありませんセネカ様。
 伝わりにくい冗談でしたね」
「こんな冗談のどこが面白いんだ」
「すみません」

 初老の女中頭は、頭で納得して、心で納得しない、という様子で何かそわそわとしている。

「タクオ様がもう少し、しっかりお話のできる方でしたら、私共も黙っているのですが、この通り……、少々頼りないお方でしょう?
 本当にミノス様が来た時は救われたんです。
ただそれだけの話で」

 タカの暗い顔が、少しだけ悔しそうに歪んだ。この女中頭は、何故そこまで自分の主人筋であるタカを侮辱したいのか。

「この方は父の恋人として、長く父を支えて来られたんです」

 セネカの疑問を察したのか、タカは女中頭に掌を向けて衝撃の事実を知らせてくれた。

「まぁ昔のことを」

 女中頭は照れたように、口に両手を当て周りを見た。周りに居る中年代の女中仲間が微笑む。

「ですから私達とは、格が違うんですよ、ミナさんは、ねぇ」

 中年代の、ふくよかな女がタカに対し同意を求めて来た。まるで、妾腹の子に対し、正当な夫人を敬えとでも言いたげである。

「いつもこんな感じなのか?」

 抽象的な質問を投げると、一同はぽかんとして顔を見合わせた。

「うんざりしたでしょ」

 タカが返事をくれたので、頷く。するとタカはほんのりと笑って腰を上げた。

「俺は少し席を外すね」
「え?!」

 ここに俺を置いていくなよ。

「やぁー、遅れた遅れた」

 そこに、下の庭から続いているらしい螺旋階段を、一同が席を設けているベランダの庭まで大男が登ってきた。

「すいませんね、庭師クレオです」

 ごつい手をこちらに差し出しながら、男はふとタカを見た。

「どうした、座れ」

 確かにその言葉は、命令だった。
 庭師がどうして、タカに命令をするのか。

「実は私、彼の義理の父になりましてね」
「は?」
「彼の母親のタクシリアはね、良い娼婦でして、通っているうちに娘が」

 かっとなり、殴ったが問題はないだろう。
 この庭師は恐らく、タカの事情をわかっていて、タカの母親に近づいたのだ。

「俺も大概悪党だが、おまえ等は下衆だ」

 罵ることには慣れているが、罵られるのには慣れていないらしい、使用人達の顔には戸惑いが浮かんでいた。

「何するんです、急に」

 庭師は頬を押さえながら、セネカから逃げるよう、タカの横に行った。

「聞いているんですよ、俺ぁ、ミノス様からあんたのしたこと、うちの息子に手出しなさったそうですね?!」

 黒い土のついた手で、がしっとタカの肩を持ち、庭師セネカを睨んでいる。

父親として、許せませんな!」

 タカの細い肩を、砕くのではないかという力の入れ方。庭師はタカの肩を掴んだまま、セネカに唾を飛ばした。
タカの肌の白さが、庭師の手を一層汚れて見せる。その手を離せよ。
 詰め寄って力ずく、引き離そうと足を出した。

「いい加減にして下さい」

 と、そこで小さな声だったが、タカがクレオに抗議をした。クレオから逃れ、うんざり顔をつくり、セネカを気遣うように見た。

「あっ?」
「妹とは仲良くしています、貴方は妹にとって良い父親だ。しかし、貴方に俺を支配する権利はない」
「おいおい、そんな寂しいこと言うなよ、家族だろ?」
「いいえ、俺にとって貴方はただの……」

 タカの言葉の途中で、庭師を気絶させた。
 茶会は騒然となり、大変、と女中頭が呟いて皆がガタガタと席を立つ。人が気絶するような事件があまり起こらないらしい、田舎の屋敷内は、騒々しい悲鳴と足音に包まれた。

 使用人たちが、やっと使用人らしく事態の収拾に取り掛かるのを横目に、俺はタカの手を引いた。

「一対一になれる場所は?」
「俺の部屋かな」

 てっきり屋敷の中にあるのかと思ったタカの部屋は、屋敷の外、森の中にあった。
 使用人の家々に混じり、ひっそりと小さい。
 どうしてこんな迫害を受け続けておくんだ。
鼻につんとしたものが込み上げ、守ってやりたい、という思いが胸を覆った。
 部屋についてすぐ、後ろから抱きしめると腹に蹴りが入った。

「ごめんね失礼な人ばっかりで、気分悪くしたかな」

 蹴られた腹を摩りながら、部屋の中を見渡すと、所狭しと本が積まれていた。

「皆、暇だからああなっちゃうんだと思う。
 うちはもう少し何か仕事を増やさないといけない」
「……、最後の男は何を考えてあんな態度なんだ?」
「あの人は、この家で一番血筋がよろしくないから、俺の義理の父親ってことで地位をつくりたいんだ。困った人だよ」
「……」
「この家は血筋が全てなんだよね。誰も彼も、どこかの名家の次子で、家の伝手でうちに勤めに来てるんだ。
 格の順に仕事まで決まる。あの女中頭のミナさんはヴロヴナの分家筋で、弟さんはヴィンチ王室にお勤めだから、皆の尊敬を一心に集めてるよ」
「実力は、あるのか?」
「そんなのは二の次、大体、難しい仕事もあまりないし。失敗をしても俺に怒られるだけだから。家の雑務の管理は俺の仕事なんだ」
「おまえそれでいいのかよ」
「俺は趣味さえ邪魔されなければ何でも良いよ。母親が娼婦だって事実はどんなに頑張っても消せないし、必要最低限、求められた仕事だけはこなして、後は架空の世界に慰めてもらう」
「架空の世界?」

 部屋中に溢れる本を見回しつつ聞くと、ふふふ、と笑い声が返った。

「架空は良いよ、只管綺麗で、嫌な人の居ない世界に行くことができるから」
「えげつない読み物もあるだろ」
「そういうのは読まなければ良い。
 俺は幸せな話が好き」
「例えば?」
「例えば、えっと、ちょっと待ってね」

 言うと、タカはセネカの立っていた横にすいっと寄った。目当てのものがその位置にあるらしい。ごそごそと本を探すタカの身がすぐ近く。抱きつくと、やはり蹴りを入れられた。

「これ」

 手の上に、どさっと落とされた分厚い本。
 きっと中には字がびっしりなのだろう、吐き気を催す。セネカは本が苦手だった。

「物語はもちろん、登場人物が皆優しくて、思いやりがあるんだ。途中はらはらすることが多いけど最後は凄く幸せで。読み終わった時なんか、俺もこの中に入れてって、泣きながら本に頼んだぐらい」
「むなしくなんねぇのか? こういうの読んで」
「ならない、夢が膨らむ」
「ふーん」
「誰も可哀想な人がいないんだよ」
「そんなのは現実じゃないだろ」
「現実より良い世界なんだ」
 
 頬を染めた顔で、はしゃいで架空世界を賞賛するタカの口を力づくで塞いだ。舌を押し込むと、どんどんと肩を叩かれたが、かまわない。気遣いより腹立たしさが勝っている。目の前にある現実、セネカより、架空世界に、タカは心を預けていて。単純に妬けた。
 本棚に押し付けると、上から数冊、絵本がばさばさと落ちた。薄い服の上から乳首を見つけて、指の腹で摩る。

「ンうっ……、ふ」

 出来た芽を摘んだ瞬間に、びくんと腰を逸らした身は、またあの陰気ないやらしさを孕んでいた。
 塞いでいた口を離すと糸が伝い、はぁ、と熱い息が二人の間を暖めた。

「強姦でもする気なのかな?」

 嫌な言い方をして、タカは目を細めた。首の横にキスをして、腰を引き寄せる。

「合意に持ち込むにはどうしたらいい?」

 じっと見つめて聞くと、タカはぽぉっとした顔になった。

「……なかったことに、してくれるならいいよ?」
「なかったこと?なんでそんなっ」
「内緒にしてくれるなら」

 内緒って。

「なかったことに、できるなら」

 とろんとした目をして、息を吐くように囁かれたらもう、頷いてしまう。

「内緒にするならいいのか?」
「うん、ふふ、……俺とやりたい?」
「……やりたい」
「俺も貴方とやりたい」

 ごぽっと口一杯に心臓が出た。胸が痛い。ついで、急激に血の集まった下半身も。

「ねぇ、誰にも言わないで?」

 下がった眉が、懇願の顔を作る。妖しく艶かしい雰囲気に気圧されて言葉が出ない。黙っていると、タカはセネカの頬を両手で包み、二つの親指を使って、セネカの下唇をなぞった。天然でこんな行動を取るのなら、こいつは相当な……。

「タカ? っおい」

 楽しげに、淫魔のごとく顔を近づけて来る、その眼光に捉えられ、身動きができない。

「言わない? ね?
 言わないって言って、早く……っ」

 ああ、目が回る。

「言わな……」

 従った途端に、タカはこちらの鼻に噛み付いた。それから舌でぬらりと、その側面を舐め上げ、興奮した笑い声を出し機嫌良く抱きついて来た。なるほど、娼婦の息子……。

「良い人だ、良い人、貴方は良い人」
「おまえはちょっと怖いやつだな?」

 思わず言ってしまった。
 すると、タカはふっと声を漏らし、こちらの首に腕を回すと、二人の顔と顔を近づけ、息のぶつかる距離まで来るとニタリと微笑んだ。その、上と下が重なった睫の具合や、頬の柔らかそうな盛り上がり、細められた目の、
艶やかな迫力などが、思考を停止させた。
 体中の血が沸騰。殺す気かこの野郎。
 担ぎ上げると、ひゃぁっと楽しそうな声を上げた。

「誰が良い人だ、くそっ!」

 喚きながら、タカを部屋の隅にあったベットに放り、被さる。くすくすと笑われ、耳に噛みつかれた。耳に舌が入って来る感触に、ぞくぞくと腰を震わす。勢いにまかせ、向こうの背を摩り、尻の肉を掴む。ぐにっと手に馴染む感触。

「やわらけぇ」
「ふ……、そう?」
「なんでこんなっ」
「もっとやわらかくして」

 耳の中にペトリと、張り付くような声。

「了解」

 手に、ぎゅっと力を入れて、もみしだくとくすくすと、また笑い声が上がる。

「ははっ、あっ……、ふふ、あっ」

 腿の内側にも手を伸ばすと、首に縋りついた腕に力が入った。

「ぁ、いっ……、アッ、ふ、……くすぐったい、ぁ、はは!」

 笑う声の合間、嬌声に興奮する。

「服の前、開いて」
「え?」
「服の前」

 頼むと、ぼんやりと見つめられたので、乳首を見たい、と率直に望みを言う。少し汗ばんだ、互いの身体の薫りが空間を埋めていた。

「……うん、いいよ?」

 幸せそうな顔で、素直な声。微笑みを浮かべながら、するすると前を肌蹴るその指にキスをする。今、こんなに愛しいと思う気持ちを、数分後にはなかったことにしろと?
 そんなのあんまりじゃないか。

「ア……っ」

 現れた乳頭に吸い付くと、高い声が上がった。

「俺、なかったことにすんの、ヤになって来たんだけど」

 呟くと、じゃぁ今すぐやめる? と、容赦のない返事が来た。やめられるわけがない。

「くそっ」

 腹立ち紛れに、むきだしの乳頭を少し強い力で、舐めたり歯で潰したりと、こねくり回した。

「ぁ、力つよ、い……っいたっ……、んア」

 ついで、下部にも手を伸ばし、芯の入り始めた熱いものに指を絡ませ、くにゅくにゅと扱いてやる。

「んはっ……ン、んっ、やっ」

 ビクビクと身を揺らすタカの動きが、雑念を振り払い、本能を研ぎ澄ましてくれる。

「タカ」
「ぁ、……あぁ、っはっ、はぁ、ああ、っン」

 息と声を同時に出して、身を捩るタカの顔が、どうなっているのか気になる。

「タカ」

 手でコリコリと、小さな粒や勃起しはじめたものを弄りつつ、ちらりと目をやった。

「んうっ……ふ、ぁ……っ、ん」

 こちらの手の動きに合わせ、声を出しながら、タカは与えられる快楽に集中していた。眉を寄せ、うっすらと口をあけて宙を眺めている。

「あっ、あ……ん、はぁ、あっ、アッ」

 細かく声をあげて、快楽を訴えてくる。その様に、ぎゅっと股間を刺激された。

「タカっ」

 切羽詰って呼ぶと、にこりと恥ずかしげに笑う。おまえは本当に素人か。
 欲望に訴えかける顔、声を熟知しているように思えた。

「なぁ、自分で触ってみろよ」

 タカの細く白い手を、タカの胸に運びながら言うと、タカは困ったように目を伏せた。

「ちょっと恥ずかしいかも」
「全部忘れて、なかったことになるんだろ?
 ならやれるだろ」
「……」

 ほんのりと頬を染めてから、タカはするりとした指を、自分の乳首にひっかけた。

「んっ」

 それから摘んで、擦る。

「ッん……ふ、ぅン、ん」

 繊細な顔を歪め、上品な青年が自分の乳首を捏ねる。その様は淫らを絵に描いたようだった。

「もっと思い切って抓れよ」
「んっ!……こう?」

 摘んでいるタカの手ごと、乳頭を舐め、吸った。

「ウぁ、……は、ァァ?!」

 ちゅ、と粘着質な音が響いた。

「アッ……」

 仰け反った身を押さえ込み、ぐっと歯を立てる。

「ん、っは!?ぅぅ、は、ぁ、痛っ」

 熱い息と悲鳴。タカの嬌声は耳に絡みつくようで、非常に性感を刺激する。なるほど娼婦の血筋、と再び思ったが、絶対にそれは言ってはいけない気がした。

「ぁァッ……!」

 ピュ、と小さく飛沫が飛んだ。タカのペニスが精を放った。

「乳首だけでイッた?」
「……うん、凄く良かったっ」

 胸を上下させて、荒い息を吐きながら、タカは生理的な涙をぽつぽつと落とした。頬にキスをすると、ふふ、と笑う。こういう風に、これからも、交わることができたら良いのに。

「挿れていいのか?」
「うん、欲しい」

 金属音と笑い声を混ぜ、互いのベルトを外し、行為用の座薬とコンドームを尻ポケットから出す。

「ゴム頼む」
「うん」

 とろりとした顔で、タカがコンドームの用意を進め、その間に俺は座薬を出しタカの足の間に挿れた。
 ゼリーに覆われているそれは、する、とタカの内部に飲み込まれて行き、中で溶けて挿入をやりやすくしてくれる。

「指挿れて慣らすか?」
「いらない、中ウズウズしちゃってるから。指じゃないのが、すぐ欲しい」

 言いながら、タカは自然な動作で、ゴムを被った俺のものにキスをして見せた。

「は、さすが」

 言ってしまってから、しまったと思ったがもう遅い。タカは少し驚いた顔をしてから、諦めたように、今度はそれにしゃぶりついた。あっという間に、それはかたくなってそそり勃った。
 タカの腕をつかんで、仰向けに転がすとのし掛かる。

「んっ、ぅん、く……っ」

 ぬっと締め付ける感触はあったが、引っ掛かることなく、スムーズに入っていく。俺のものをのみこんで、タカは俺の一部になった。

「うぁ、ンん、……ふっ、ン」

 眉を下げた顔が、快楽に染まって歪んでいる。苦悶の表情に、喜びが滲んでいる。

「タカ」
「ぁ、ん……ひっ……っ」

 ぼろぼろと涙を溢し、目を瞑る顔に、ふっと息を掛けた。タカは俺の息で、ぱしっと目を開くと、困った顔になった。

「気持ちいいか?」

 聞いてみると、タカは少し驚いた顔をして、少し考えてから頷いた。凄く、と小さな声で呟き、ふわりと笑った。

「……俺、これ好きかも」

 幸せそうに綻んだ顔に、また、あの恐ろしさを感じる。今までで一番幸せそうな顔。こいつはこうしている時が、一番幸せなのかもしれない。

「ぁ、……んは、んぅ……、んっ、あ」

 動きを開始すると、少し苦しそうにして、しかしすぐに気持ちよさそうに顔の筋肉を緩める。目を閉じて、行為に神経を集中する。

「いいか?」
「いっ、ん、いイ、ぁ、あっ、あっ」
「タカ」

 名を呼ぶと、うっすら目を開く。
 目に溜まった涙をぽつんと落とし微笑む。大きく動くと息を止めて、ンっと眉間に皺を寄せ、ビクビクと身を震わせた。はぁ、と熱い息。

「タカ……」
「ん」

 顔と顔の距離が近く、甘い雰囲気が心地よい。額にキスをしてやると、タカは目を瞑った。次の動きを待っている。

「もう少し動く」
「うん」

 俺が終わるまで、当然付き合う気だ。こういう心構えが嬉しい。

「ちょっと激しくするけど」
「うん、大丈夫」
「悪いな」

 言いながら、ぎりぎりまで引き抜いて、突く。

「はン!」

 タカの眉間にしわがよる。またぎりぎりまで引き抜く。

「あっ!」

 突くと、身を屈めてよがってくれる。
 
「エロイ身体だな」

 思ったことを単純に口にして、また出来上がってきたタカのものを掴んだ。手の中に馴染むよう、熱くて固い存在は他人の生の象徴。
タカの脈がわかる。

「ゥはっ、ぁっ!や、ぁぁ、やぁ、っん、ン」

 腰を動かしながら、手の内のものも摩る。
タカはぼろぼろと涙を溢しながら、身を捩って善がった。

「ひ、はん、ぁぁ……、う、ウ」

 身の内をセネカのものが動くたび、声を上げる。

「ウく、……ん!んんっ……くうっ」

 真っ赤になりながら、はぁはぁと息を吐いて。

「タカ」
「あっ」

 すぐに快楽に意識を持っていかれるタカは何だか切なかった。そんな風に、タカを憐れに思った瞬間、強い快楽に襲われた。

 換気扇の回る部屋の中で二人きり。
 タカは部屋の隅に、不貞腐れたように寝転がっていた。

「どうして俺はこうなの?最低かも、自分嫌いになりそうかも、すでに嫌いだけど、さらに嫌いになりそうかも」

 ぼそぼそと、涙声の呟きを聞いて、聞かぬふり。片付けをする間は、ふふ、と盛んに笑い声を漏らす幸せなタカだった。それが、部屋から事後の雰囲気が消え、外の森から、鳥の鳴き声などが入るようになってから、タカは前回同様、みるみると青ざめて行き、よろりと部屋の隅に行くとそうなった。

「もうやんないって誓ったのに、結局、俺は娼婦の息子なんだよ、あんな気持ちいいなんて、肉欲って凄いよ、絶対的だよ、勝てるわけないじゃん、誘惑されたら、もうっ」
「その台詞は俺を褒めてるのか?」
「わからない、現実って残酷」
「現実じゃねぇとヤれねぇだろ」
「架空の住人同士のニャンニャン見てた方が楽しい」
「ニャンニャン?」
「トツさんに何て言おう、ずっと断わり続けて来たのに」
「おい、誰だよトツサンって」

 タカの小さな部屋の中、テーブルに着いている俺の目は、瞬時に写真物などを探した。
 驚いたことに、部屋には写真が一つもない。
 恋人や友人の顔を見ないで暮らしてやがるのか、こいつ。

「トツさんは友達」
「友達……、……俺は?」
「いやらしい友達」
「恋人じゃねぇのか?!」
「恋人じゃないよ。あなたに俺は勿体ない。あなたもあなただ。俺で妥協しちゃ駄目だよ」
「だ、きょ……う?!
 いや、してねぇ!
 むしろ望んで……」
「テモテさんのこと好きな癖に」
「っっっ?!」

 ヒヤリと、飛び上がり掛けた。胸の内を全て知られているのかと思った。双子の兄パウロを溺愛する世話係。セネカの世話係でもあるのだが、テモテはパウロだけを可愛がった。
 テモテはパウロセネカ、誰も見分けられなかった双子を見分け、パウロだけを見つめた。それは幼い頃から、ずっと変わらない。セネカはいつも、パウロに付きっ切りのテモテに、かまってもらおうと必死だった。
 ずっと、永遠に叶わない恋。
 テモテに対する、特別な想いを殺しながら、
何人か恋人を作り、別れ、これまで生きて来た。

「いつ知って……? 誰、に?!」
「噂でね、ほら、ミナさんの弟は、ヴィンチのお城勤めだから」

 セネカは元、ヴィンチ王室兵士だ。

パウロセネカの双子兵士と、その世話係がよく揉めるって、セネカが世話係に突っ掛かるという話を聞いてたんだ。パウロばかり贔屓するなって言って、貴方は同性愛者だし、可能性はあるなって」
「……う」
「真実だったんだっ」

 きゃぁ、と口に両手を当て、タカは黄色い声を出した。やられた。誘導尋問にかかった。しかし、これから恋人になるかもしれない人間の、過去の恋愛話に色めき立つなんて。
 もしかして、セネカはタカにまったく意識されていないのか。
「俺、セネカさんは一回ちゃんとテモテさんにアタックしなきゃ駄目だと思うんだよ」
「……、さっきまで俺達何してたか覚えてるか?」
「何もしてなかった」
「……っ」
「何もしてなかったよね?」

 ぐっと圧を感じたが負けるものか。

「交わってたろうが、濃厚に!!」
「っ……!」

 かぁ、とタカは頬を染めた。

「なかったことにしてくれるって言ったからやったのに、嘘つき!!」
「なんでなかったことになんかしなきゃなんねーんだよ」
「約束したのにっ!」
「でも実際、やったろ、健全に、楽しく!!
 精力的に!!」

 行為をなかったことにする意味が、セネカにはよくわからない。

「やってない」
「突っ込まれてアンアン言ってたろうが!」
「どちら様の話?」
「っ……てめぇ! マジでなかったことにする気かよ」
「なかったも何も、何の話なのか、ちょっとよくわかんない」
「ざっけんな」

 腹が立って勢い良く立ち上がると、部屋の隅、不貞寝しているタカの上に乗った。

「うわ重っ?! ちょっとどいて下さい」
「この尻で! 俺の、呑み込んで喜んでたろうが!」

 バシンと、タカの尻を叩いて、言い寄るとタカは顔を隠した。

「俺は何も覚えてない」
「じゃぁ、思い出させてやるよ、もっぺんやりゃいいか?」

 タカの身体の温度が感じられると、もう、肌を合わせたくなる。

「タカ」

 性欲に伴って、愛情も加速して来ていた。

「ごめんね」

 しかしタカにとって、セネカは肉体だけの相手らしい。真剣な顔をされ、じわりと額に汗が浮かぶ。

「俺が肉欲の誘惑に勝てれば、こんなことにはならなかったと思うんだけど、勝てなかった」
「こ……っの、淫売野郎、娼婦みたいな抱かれ方しやがって」

 嫌な気持ちになるような言い回しをしてやって、それでもまだむかむかする。

「ごめんなさい、肉欲に弱くて、ご迷惑お掛けしました」

 タカが素直に謝り、それがまた勘に触った。

「もしかしてだけどよ、俺達はこれで終わりとか言う気か?」
「終わりにしておいた方が良いと思う」

 この野郎。

「じゃぁ、金払う」
「……、……何言ってんの」

 部屋の隅に掛けた上着を取り、懐から財布を出す。

「待って、やめて、本気で!」

 財布からごっそりと紙幣を出して、バサッと塗すように投げつけた。

「嫌だ、絶対受け取らない、ふざけるなよ!
 俺がどういう血筋なのか知ってる癖に酷い!こんなの酷い!!」
「最初の客になれたなんて気分が良いな、また買いに来てやるぜ」
「待って!いらないから!!今すぐ返す!」

 喚くタカに背を向けた。
 タカを傷つけたことで、どうにか理性を保つ。

「待てよ馬鹿!!」

 紙の間から、手が伸びて来たが、さらりと避ける。それから蹴り技が来たが、やはり避けて、逆に肩を突き、腹に一撃を入れた。
 タカは舞う紙幣の中、倒れこんで呻いた。

「嫌だ! 買われたなんてバレたら!
 何て言われるか?! 立ち直れない!
 こんなの嫌だ! お願い持って帰って!
 全部拾って帰って!」

 タカは痛みで身動きができないようで、床にうずくまって泣いていた。今、誰かが来たら、紙幣の中で蹲っている、惨めな姿を目撃されてしまう。

「兄貴でも呼ぶか?」
「絶対にやめて」
「それともあの嫌な女中頭を?」
「っ」

 ふ、と音を立てて、本格的に泣き始めた。ちょっとやり過ぎた。反省してしゃがみ、紙幣に手を伸ばした。そこで部屋の鍵が、ガチャリと開けられた。タカの兄が、合鍵を使って入って来たのだ。俺もタカも呆然と見上げて、さらに悪いことに、兄の後ろには、ルカス・フィオーレ。眉間に皺を寄せ、部屋の有様を見た。

「何があったんだ?この部屋は」

 タカの兄が、タカに聞く。俺は静かに、自分のした事を悔いていた。

「何も」

 タカが、短く応えた。
 何もなかった、という言葉。それは俺の怒りを誘発する起爆剤になりつつあった。
 嘘をつけ。
 タカの答えは、せっかく反省をしていた俺の怒りを、呼び覚ました。

「おまえの弟が、客を取った現場だ」

 かっとなって言うと、ミノスは連れて来たルカスに目をやり青ざめた。

「お母様が喜ぶな」

 何を言うかとおもったら、一番言ってはいけないことを。ルカス・フィオーレの発言に、
その場の全員が凍りついた。タカの顔が盛大に歪み、俺は申し訳なさで、また反省を始めた。

「そんな顔をするな、君の母は、喜ばせるに値する人物だぞ?
 客との間にできた子を一人も堕胎することなく、全員、無事に十五歳まで生かしている。その重い肉体労働で稼いだ金を、みなしごのため、屋根のあるシェルターをつくる運動に寄付したりと、人間の鏡だよ。
 多くの権力者を虜にし、人道的な判断をするように優しく導いた。俺の父が、かの内戦を踏み留まったのも、君の母が諭してくれたためだ。
 だから俺はあんなに立派な娼婦を母に持つ君のことを、愛しく思う。あの人の息子であるというだけで、無条件に信頼できるほど、君の母は優れた人だ。
 カラツボでは国家から表彰さえされている。
 君は息子だから、この事実は当然、知っているだろうが」

 想像もしなかった話。
 人は驚くと、何故か聞き返してしまう。
 わかっていて、もう一度聞こうとする。

「ぇ?」

 タカも例に漏れず、顔を涙でぐしゃぐしゃにしながら、小さな声で聞き返した。

「君のお母上は立派な方だと言ってるんだ。
 数多の実力者の、身体だけでなく、心まで癒し、良い方に導いて社会貢献をしている。
 高級娼婦でありながら客を地位で選ばず、
 どんな男との間にできた子でも、
 深い愛を持って接し、躾も怠らなかった。
 俺の母も娼婦だが、現役の長さなども含め、君の母の足元にも及ばないよ。君は偉大なお母上を持っているのに、この場所では随分、苦労したようだ、職業差別が横行する屋敷内を、変えてやったらどうだろう。
 こうして当主が堂々と客を取ってやるところから始めるのも、良いと思うぞ」
「ルカス様、俺は、そんなこと……」
「ん?」
「そんなこと知りませんでした。
 知らずに、昨年、お金を渡して、母に、娼婦をやめてくれと頼んだっ」
「ああ、だから引退されたのか。まだとても美しかったから疑問だったのだが、息子の頼みだったのだな」
「……母は」

 紙幣を睨みながら、タカは唇を震わせた。

「き、汚くないんですね?」
「そんな酷い言葉をよく口にできるものだな」
「……すみません、ずっと、汚れ者と教わって来て」
「調べてみたら良かっただろう?
 自分の母親が、どんな人間なのか、娼婦の中にも良いものと悪いものが居る、悪いものが悪いイメージを作るから差別を生むが、良いものの存在を無視してはいけない」
「すみません」
「よく知るのが怖くて調べるのを怠ったのか?」
「……はい」
「その気持ちは俺にも覚えがあるな、程度が同じかはわからないが、俺の父と母は、悪い噂しか残さずに他界した」
「そうだったんですか」
「二人を認めるまでには、俺も、それなりに時間が掛かった」
「ルカス様でも……?」
「あぁ、……遠くにあるものは全体がよく見えるが、近くにあるものは、どうしても目につく一部に気をとられる」
「……」

 戸口で突然始まった、ルカス・フィオーレの説法に、タカは夢中になっていた。
 ルカスはこの日、セネカを訪ねてヴロヴナ屋敷に来たらしく、セネカの部下にあたるリャマ・ビクーニャの引き抜きを、セネカに便宜して欲しいということだった。
 その要求は丁重にお断りしたが、ルカスのため、セネカは何かしらの役に立ってやりたいと思った。なぜなら、ルカスはこの日、まったくその気なく、セネカとタカを決別させるのを防いでくれた。タカがルカスの話を聞いて、身売りに対する考えを改めたのだ。
 よって、タカは時々、セネカに買われるのを受け入れるようになった。買う男と買われる男という関係ではあったが、タカを抱くことができるなら、セネカは満足だった。
 回を増すごとに、タカはイキイキとして、セネカを受け入れるようになった。いつ、セネカを恋人にしてくれるのだろうか。セネカの期待は、タカの笑顔の向こうに消えて行くばかりだった。


2012/04/18