からめ

『泣いた青鬼』(尽くし系強面×恋多き紳士)



 『怪PR社』の営業部フロアは、第一第二第三を壁でハッキリと分けている。しかし透明に透き通ったその壁は、音こそ遮断されているが、誰がどんな動きをしているのか見渡せるようになっていた。

 個人プレイヤーの多い第一営業部は今日も人影がなく、人海戦術が得意の第三営業部はどうやら集団行動を乱した誰かが誰かに叱られており、それをチームメイトらしい者達が見守っている。
 青鬼の治める第二営業部は、個人プレイヤーが多いものの、それなりにチームでの仕事も多いので雑談で盛り上がっている者達がちらちら居る。
「青鬼さん、これ、大変なゴシップ写真、見つけちゃいましたよ~」
 のっぺら坊種の自由人、野平によって、さっそく青鬼も雑談に巻き込まれた。
 昭和30年頃の街中スナップ写真である。白黒テレビが出た頃だ。写真の中央には、気難しい顔をした老人、人の姿をした青鬼が孫と手を繋いで映りこんでいた。
「これ、青鬼さんですよね?実装ですか?」
 パソコンのデスクトップに送られて来た写真に、青鬼は目を細めた。
「こないだ休暇を取った時のものだな」
「え、それじゃぁ……」
「ああ、実装はしていない、人の皮を被っている」
「記憶ごと人をやってたんですか?」
「せっかくだからな、両親も人を選んだ」
「贅沢ですね~」
「戦争が起こって散々だったが」
 妖怪の休暇は、肝無しで生活が出来る「人になる」事である。『人の皮』は高額だが良いものは百年もつし、その間、人のように生きられるため、妖怪として働かないでいられる期間を設けられる。
「あ、確か、赤鬼さんと一緒にお休みされたんですよね?」
 雑談の中に、牛鬼が紛れて来た。
「そうだ、あいつから誘って来て、私は付き合いだったんだが、あの男……戦争で人の皮を失ってな、何を思ったか未練がましく人として生きている私に取り付いて来て、おまえもさっさと休みを終わらせろと……まったく身勝手な」
「そいつは身勝手ですね」
 苦笑する牛鬼に、そういえば、と野平を見つつ話を振った。
「おまえらも最近、二十年ものぐらいの『人の皮』を使って、揃って休んで来たばかりなんだろう?」
「あぁ~、そうですね、最近まで。楽しかったですよ~」
 星の数程いる妖怪同士、長寿といえど顔見知りになる機会は少ない。
 野平と牛鬼は江戸中期から交流を深めていたらしいが、青鬼はこの二人に出会ったのは、二人が会社に入って来てからだ。
「幼子の目線は久しぶりで新鮮でした」
「牛鬼は中学の先生に悪戯されたよね」
「おい、余計なことばらすな」
 衝撃の過去を他人に暴露された牛鬼が、顔を赤らめたところで、牛鬼の営業補佐、小豆がやって来た。
「皆さん仕事してください」
 牛鬼や野平と違い、小豆は真面目だ。
「それと青鬼さん、赤鬼さんがお呼びです」
 透明な壁の向こう、第一営業部の赤鬼がこちらを見ていた。
 溜息をついて席を立つ。きっとまた身勝手な話を振られるのだろう。

 『怪PR社』は2001年に設立された若い会社で、それなりの規模に成長して来てはいるが、妖怪世界の目で見るとまだまだ赤子のような会社である。
 科学技術が人の世で発達するのに従って、人の心が妖怪から離れていった近年、人の心、妖怪用語で言うところの『畑』から取れる肝が不足し始めた。妖怪達は、人の肝を取るための知恵を出し合い、計画的に行動を起こすようになった。これまで、個人単位で行っていた収穫を集団単位で行うようになった。人の世を真似、会社を作り、利益を出す方法を考えるようになったのだ。
 青鬼は平成に入るまでずっと妖怪会社への勤めを渋っていた妖怪であり、妖怪社会人としては新米だ。野平や鎌立、狼山などに比べれば、長く勤めているものの外に出れば赤子のような扱いを受ける。

「よぅ、青いノ」
 赤鬼はギラリと鋭い黒目で青鬼をひと睨みすると、黒い部長椅子に背を預けた。地位は同じなのだから、席を立って出向かえるべきだろう、とばかりに戸の傍で待っていると手招かれる。
「席を立て赤いノ、私はおまえの部下じゃないぞ」
 赤鬼のもとに歩みを進めながら抗議すると、赤鬼はふんと鼻を鳴らし、消えた。
 ルノアールでいいか?と耳元に声が聞こえ、赤鬼が妖力でさっさと移動した事がわかる。
「妖力の無駄使いだ、妖力車か徒歩で行け、東武バスでも良い」
 赤鬼は川越駅前マインにあるルノアール、喫煙席で、人間のサラリーマン客に混じり寛いでいた。ジャラジャラした金属で全身を飾り、高いスーツを着て、あの酷い目つきで周囲に睨みを利かせている赤鬼の姿を、青鬼は恥じていた。どこからどう見ても極道者である。
「妖力車は嫌いだ、気味が悪ぃ」
 鼻と眉間に皺を寄せて、煙を吐き出す赤鬼から煙草を取り上げる。
「妖怪の癖に、何を人ぶっている」
 赤鬼の吸いかけを肺に送ると、肝の薫りがした。
「肝入りか?人のブランドだが?」
「最新の技術で肝を混ぜてる、良いだろ」
「箱で寄越せ」
「横暴な」
 話をする場所に妖怪の店ではなく、いちいち人の店を選ぶところも鼻につくが、自分は人の文化に通じている風を前面に押し出し、実際に人の文化を取り入れる妖怪技術にアンテナが高いところも、気に食わない。赤鬼はいつも人の世ばかり見ている。
「この煙草を今度サンプリング販促したいんだが、規模がでかい」
「うちから何人か貸し出せというんだな」
「さすが話が早ぇや、牛鬼か野平を貸せ」
「どちらも駄目だ、うちの目玉になる大型案件を抱えている」
「鎌立は?」
「駄目だ、野平と組んで、超大型の案件を抱えている」
「傘本は?」
「初めての中型案件と格闘中だ」
「鵺……」
「野平や鎌立と共に超大型を進めている」
「おい、お互い扱うもんは大型ばかりなんだ、そこんとこを少し妥協してくれねーと」
「狼山なら都合できるが?」
「ド新人じゃねーか、いらねぇよ」
飛頭はどうだ」
「うちの風紀が乱れる」
「巨乳は嫌いか?」
「貧乳派だ」
 互いに、話が逸れたと思ったために一呼吸を入れて、フワフワとした椅子に背を預けた。平安時代には、敵対する陰陽師に使役され、闘った事もある仲だが、今は互いのために協力する立場にある。赤鬼との関係は時と共によく変わる。
「それなら、玉天狗はどうだ?」
「企画部に移動するんだろ?」
「十二月まではこっちにいる、今は引継ぎの作業がメインで、新規の仕事はない」
「玉天狗か……」
 うん、と唸って考え込んだ赤鬼に、青鬼は言いたい事があった。玉天狗は青鬼に気があり、ちょっかいを掛けて来る。おまえは、その事をどう思うのかと。自分達は何度か蜜月を過ごしたが、いつも年月と共にその愛は風化した。気がつくと互いに別の相手がいたりして、あまり長続きする事はなかった。今はどういう気持ちでいるのか。玉天狗の気持ちを知ったら、赤鬼はどんな反応をするのだろう。青鬼が昭和の時代に、「人」をやった際の赤鬼は酷かった。青鬼が結婚した女や娘、孫の前にしょっちゅう現れて、青鬼は呪われていると吹き込んだ。おかげで妻や娘、孫に恐れられた青鬼は孤独になり、時折姿を現しては自分を抱く赤鬼の虜になった。死んで妖怪の記憶が戻ってからは、自分の「人」休みを台無しにされた事に気がついて赤鬼を恨んだが、その恨みも五十年経った今は消えた。あの時、自分に憑りつく程、自分に執着を見せた赤鬼は何を思っていたのか。今、その気持ちはどうなっているのか。
「天狗は好かんか?」
 苦い顔の赤鬼に問うと、赤鬼は口をへの字にした。
 それから、「好かん」と素直に認めた。「私も好かん」と笑うと、少し考えて言葉を選ぶ。
「だが、玉天狗は仕事が出来る、きっと役に立つぞ」
 我侭だがな、と心の中で付け加える。勝手な赤鬼と我侭な玉天狗が、どのように協力体制を築くのか見ものだな、などと悠長に構えて、青鬼は玉天狗を赤鬼に貸す事に決めた。
 ガヤガヤした声が聞こえ顔を上げると、午前中の買い物帰りと見える客などが、ルノアールの薄暗い店内に入って来ていた。
「良い時計だな」
 ふいに指摘されて目をやると、腕の時計は十二時を指していた。青い腕にピッタリ収まっている銀色の腕時計は人の職人が拵えたもので、細かな装飾が施されている。人として死ぬ時一緒に焼いてもらい、こちら側に持って来たものだ。
「やらんぞ赤ん坊」
「いらんわ青二才」
 そこで、憎まれ口を叩き合う青鬼と赤鬼の席に、ちょうど人間が割り入って来た。体の中に、人間が侵入して来る気持ち悪さといったらない。こういう時、見えている側と見えていない側で、どちらが不快を覚えるかというと、もちろん見えている側だ。人間には青鬼や赤鬼は見えていないが、青鬼や赤鬼には人間が見えている。自分の半分まで入って来た老婆に、赤鬼は舌打ちして席を譲った。
 妖怪店員が申し訳なさそうにしているので、大丈夫だと一声掛けると会計を済ませた。

 『怪PR社』は妖怪メトロ『時の鐘駅』直結のオフィスビルに入っており、贅沢にも地上に近いB1~B5階を丸々使っていた。オフィスビル自体はB29階まであり、妖怪メトロと通じる最下階は壁と床が透明で、地下に栄える妖怪都市が見下ろせるようになっている。
 午後八時。遅い帰社になったなと腕時計を見てから、青鬼は今日あった事を振り返った。午後の営業は上手く行き、受注に繋がる予感がした。また忙しくなる。問題は午前中、赤鬼に相談された内容だ。玉天狗に何と言って説明しようか。
「青ノ旦那」
 早口で呼ばれて、振り向くと第一営業部のマネージャー、鶴種の鶴 永吉(つる えいきち)が窓辺の歓談ソファから立ち上がった処だった。人の世の夜景にも似た、闇の中を蠢くカラフルな光の景色、妖怪都市を背にした鶴は映画俳優のように軽やかにこちらに歩いて来る。
「鶴……」
 待ち伏せされていたらしい。
「チョイとお時間頂けますかぃ?」
 詰められる事がわかっているので、時間など一秒も与えたくない。しかし、そこは大人である。何だ、と短く応じた。
「昼にうちの大将から相談を受けたろう」
 妖怪都市のネオンに照らされた鶴の整った顔は、幻想的で美しく、目に心地が良い。しかし油断してはならない。鶴は赤鬼の右腕だ。
「私の人選が気に食わないんだな?」
 当たりをつけると口端だけツイと上げ、御名答、と目を細めた美男子は腕組みをして、さらに近づいて来た。
「うちの状況を考えた上での判断だ、覆る事はない」
 昔から綺麗なら、男でも女でもぺろりと平らげて来た色好きの青鬼にとって、鶴はつい気を許したくなってしまう対象であり、困った相手だった。近い距離から上目遣いにされ、ほだされそうになった自分を叱り、睨む。
「怖い顔したって駄目だぜ旦那、アンタだって知ってるだろ、うちの大将と玉天狗は敵同士だ」
「敵同士とはまた旧時代的な!確かに鬼種と天狗種は不仲だが、そこは現代人として、互いに尊重し合えば乗り越えられる、現に私と玉天狗はこれまで上手くやって来た」
 種を越えて力を合わせようという、妖怪協定の思想を盾に言葉を作ると、鶴の目は怒りを宿し一瞬煌めいた。誤魔化しが通じない男である。
「おいおい、しらばっくれるなよ、そういう問題じゃないんだ、うちの大将も玉天狗も、揃ってあんたに気があるだろう、二人は牽制し合ってる」
「おまえの妄想に付き合う気はない」
「こっちこそあんたの逃げ口上なんざ聞きたかねぇさ、俺はただ第一が荒れるのを防ぐために、こうしてあんたを待ち伏せたんだよ、玉天狗以外の奴を寄越せ」
「無茶を言うな」
 これは話が長引くと互いに悟り、黙ってフロア内に併設された喫茶に足を運んだ。
 改めて正面で向き合うと、真っ直ぐに引かれた眉や細い目、睫ひとつひとつの傾きなど、丁寧に作られた人形のような鶴の顔は、一瞬ぎょっとする程美しい。和装の肌蹴た胸元なども妙に性的だ。
 赤鬼が弱っていた幕末の頃、陰間をしていた事もある癖に、鶴はあまり男の目を意識しない。自分の見た目を客観視して、出来たら肌を隠す格好をしていて欲しいものだが、これは赤鬼が口を酸っぱくして言っているらしいので、青鬼は触れないでおくべきだろう。
「なぁ青ノ旦那、俺は何も牛鬼や野平、鵺を貸せと言っているわけじゃねぇ、鎌立か傘本……あの辺りだ」
 頼んだアイスコーヒーに、次々とガムシロップを入れながら、鶴は行き成り本題に入った。
「五つも入れるのか?」
 咽喉が痛くなりそうな味を想像して指摘すると、鶴はキョトンとして甘いのが好きなんだと漏らした。
「鎌立ならうちの大将のお気に入りだし、組んでる相手は鵺と野平だろ?あの二人なら鎌立の抜けた穴ぐらい埋められる」
「鵺は最近、お子さんの調子が悪いそうで忙しくあまり頼れない、野平は次期マネージャーだ、玉天狗から引継ぎの仕事を受けるので忙しい、実質、鎌立が色々と動き回っているんだよ、勘弁してくれ」
「それじゃぁ、傘本の持ってる案件、狼山辺りに引き継げねぇのかよ」
 ミルクも二つか、とうんざりした思いで鶴の手元を睨みながら、青鬼は窓の外、妖怪タウンの煌びやかな光を見つめた。壁も床も透明なせいで四方から入って来る七色のネオンが、静かな空間を賑やかに錯覚させる。
「傘本は今、ようやく掴んだ中型案件に対峙してる、最後までやらせてやりたい」
「チッ、妥協って言葉を知らねぇな」
 鶴は不貞腐れたような顔をして、ドロドロのアイスコーヒーを一口飲むと、懐から手帳を出しパラパラと捲った。
「それじゃぁ残るはアンタだな、手下(てか)に調べさせたんだが、毎週木曜の朝に定期訪問しているC客が居るだろう?」
 手下を『てか』と呼ぶ鶴はいつになったら補佐と言い方を直せるようになるのか。岡引の時代が長かったのがいけないのか。
「C客だとしても入ると大きい会社だ、疎かにする事は出来ない」
「大丈夫だ、俺が責任を持って定期訪問してやる」
「……」
「その代わり、あんたは今回の煙草サンプリング案件の方に、うちの大将と一緒に訪問してくれ。新規取引でKPIの設定もまだなんだ。第二と協力してこなすのに、無理のないような握りをしてきてくれ。玉天狗と大将で訪問したんじゃ先方の前で喧嘩しかねないからな」
「成る程」
「それでよぉ、余計なお世話かもしれねぇが、こうして毎週のデート時間確保してやった事だし、さっさとくっついてくれないか、大将はアンタに前の「人」休みで酷ぇことしたの気にしててよ、臆病になってるんだ、ここはアンタがひとつ大人になって、男心汲んでやってくれ」
「……か、勘違いしてくれるな、私と赤鬼は!」
「好い加減、腹決めてくんねぇと、俺が大将とっちまうぜ」
「……」
 悔しい事に、言い返す言葉が思い浮かばず、呆然としていたら伝票を持っていかれた。目下の者に奢られるなどと慌てて席を立ったが時は遅く、鶴はあっという間に支払いを済ませてしまった。
「おい、これを」
 札を出したが緩く笑われて撒かれてしまい、鶴はもう帰りだったらしい、メトロの方面に去って行った。艶かしい後姿に、ヒリヒリと焦燥感。長く赤鬼の傍で、赤鬼を支えてきた鶴に本気を出されたら、という恐怖が、青鬼をその場に縫い付けられたように立ち尽くさせた。

「よぅ、青いノ」
 問題の木曜朝、赤鬼は相変わらずのやくざな格好で、JR王子駅すぐの飛鳥山公園をふらついていた。妖怪メトロ『飛鳥山公園』駅から昇り出てすぐ、時間も早いしと園内に足を進めたら二歩で出会った。
 顔に似合わず、小動物好きである赤鬼の足元には、数匹の猫がじゃれついていた。
「その毛玉ども、何とかならないか?」
 反対に青鬼は愛らしい小動物が苦手であり、頬がひきつくのを押さえられなかった。
「何だ、蛇は飼いならす癖に」
「蛇には毛がない」
 生理的な問題だ。
「ちょっと待て、それじゃぁ写真だけ」
 大きな手で足元の猫を救いあげると、一匹を肩に、一匹を手に乗せて顔を近づけ、ポーズを取る。撮れという事か。
 要望に沿って、iPhoneで撮ってやると赤鬼は素直に猫を茂みに返した。一匹が名残惜しそうにニャーニャーと鳴いてついて来たが、赤鬼が相手にしないとわかるとトボトボと帰って行った。
 飛鳥山公園は植物が多く、広い道はジョギングする人間や、木々に挨拶廻りをする妖精で溢れていた。頂上の売店裏に妖怪メトロの出口がある関係で、JR王子駅までは公園を降りていく必要があった。
「撮った写真だが、どうする、送るか」
 鳥の鳴き声や木々の囁き、妖精の笑い声が自然の道を包んでいる。気持ちの良い空気に毒されて、横を歩く赤鬼の手を握ってしまいたいな、などとらしくない事を考えた。
「あー、鶴に送信してくれ、俺の方にはいらん」
 そこで、チクリと一刺し。
「どういう事だ?」
「あいつ、オッサンと猫って題名でフォルダ作ってるんだ、コレクションに加えてやろうと思ってな」
 鶴は第一のマネージャーであると同時に、赤鬼の補佐でもある。普段、行動を共にしているせいで、赤鬼と猫の組み合わせを多く見かけ、その度に撮った写真が溜まって行ったのだろう。強面の赤鬼と愛らしい猫のミスマッチに、上機嫌で携帯カメラを構える鶴の姿が想像でき、これまでは何とも思わなかった心が、少しだけ萎縮した。
「美人補佐にからかわれて好い気になっているんだな、格好悪い事この上ないぞ赤鬼、鼻の下をのばしすぎておかしな顔にならんよう気をつけろ」
 猫と赤鬼の写真を眺めながら、憎まれ口を叩くと赤鬼の顔は一気に不機嫌になった。
「いいから送っとけ、青二才」
「ぐずるな赤ん坊、朝からおまえと顔を合わせているこっちの身にもなれ、景色はこんなにも爽やかなのに、私の心はどんよりと暗い」
「ふん、嫌われたもんだなぁ、……まぁお互い様だがよ」
 何故か、今日はいつもより口が辛い。
「大体、おまえは鶴に尻に敷かれすぎだ、色魔人め」
「あ゛ぁ?!」
 長く生きているせいか、同じ相手と何度もくっついては別れを繰り返す。その度に、辛く苦しい思いをしたり、喜びでおかしくなりそうになったりする。いつになったら淡々と冷静に、恋路と向き合えるようになるのか。
「うちの飛頭には身だしなみを注意する癖に、鶴にはあんな格好でふらふらさせて、身贔屓も大概にしろ」
飛頭は女で鶴は男だ、並べるな、……それに、俺は鶴にだって忠告してるぞ、あんまりその、誘うような素振りを見せるなと」
「誘う?」
「あれは一時期、陰間をやっていたからな、変な色気がついちまって、ちょっと弱ってんだ、無意識なんだろうが、こう、つい目で追っちまうような仕草が多いというか」
 敵は思いの他、進軍していたようである。
「そりゃぁ赤ん坊、てめぇが鈍感なだけだ、事実、鶴はてめぇを誘ってるんだよ、一回抱いてやれ」
 なるようになれと、葉っぱを掛けると、赤鬼は苦虫を噛み潰したような顔で、顔の前で手を振った。
「ねぇねぇ、鶴とはもう百年も前に終わってる、幕末の頃は確かにそういう関係にもあったがな、お互いもう何とも思っちゃいねぇはずだ、俺が攘夷で力を使い果たして消えかかった時、陰間してまで復活さしてくれた時は、鶴程の相手はこの先現れねぇとか何とか思ったが、明治に入った途端、よりによって西洋妖怪と浮気されてな、ありゃぁ苦い思い出だ、陰間の奉公だって、単に股のゆるいあいつの性に合ってただけかもしんねぇしよ」
「長年の相棒に何て言い草だ」
「相棒なんて綺麗な仲じゃねぇよ、腐れ縁だ」
 幕末の頃といえば、青鬼は赤鬼と共に攘夷に明け暮れていた。この頃の青鬼には人の恋人があり、鶴と赤鬼に関係があろうが、なかろうがどうでも良いという立場だった。しかし、今は二人が気になって仕方がない。この感情は、いくつになっても厄介であり不愉快であり、青鬼の苦手とするところだった。

「やっぱり、大将と青ノ旦那に商談行かせて、正解だったな」
 鶴が満足気に、商談記録を手にニヤニヤしている。自分の采配に満足し、悦に浸っているのだ。鶴の掌の上で転がされている気分になり、青鬼は溜息をついた。
「おっと幸せが逃げるぜ」
 鶴は目敏く青鬼の溜息に反応すると、ひらりと記録用紙を青鬼の前にかざした。
「いやぁ、さすが青ノ旦那だぜ、商談の流れは全て大将の望みのままだ、アンタが口を挟んだ形式が一つもない、第二に振られる仕事の量ぐらいか?アンタならこういう対応してくれるって思ってたよ、アンタは補佐の同行って決めたら、とことんお口にチャックしてくれるタイプの男だ、玉天狗じゃそうはいかねぇ、こいつはこうだって閃いた事は口にしないと気がすまねぇからな」
 小会議室はテーブルが低く、向かい合う相手の足元まで見える。和装の隙間から覗く鶴の艶かしい足が気になって、先程から青鬼は書類に集中できずにいた。
「鶴さん、太腿見えてます」
 盗み見る青鬼を他所に、玉天狗が指摘した。
「ほらこれだ、見えてんじゃなくて見せてんだよばぁか」
「誰に見せてるんですか?」
 鶴の隣に腰掛けた玉天狗は、芸術家風の髭をぴくぴくさせながら、じっと鶴の美しい腿を見つめた。歌謡曲を良い声で披露しそうな玉天狗の風貌を、ダンディと褒める女怪社員は数いるが、青鬼は賞賛出来ずにいた。すらりと背が高く、優しい玉天狗であるが、頑固で我侭という悪い側面ばかり知っている身としては、あまりオススメできない物件である。
「青鬼さんを誘っているなら無駄ですよ、彼は僕以外には興味がないんですから」
「決め付けるな、さっきからムラムラしている、鶴は一回私に抱かれた方が良いな」
「青ノ旦那、セクハラって奴ですよ、俺はもう陰間は引退してんだからね」
「冗談だ鶴、気分を害したなら謝る」
 青鬼と赤鬼、玉天狗並びに第一の数人が絡む大規模な煙草サンプリング案件は、『鬼加工株式会社』からの発注である点から社内では「鬼煙草案件」と呼ばれていた。月一で大規模な会合を開き、全国展開に向けて動いている。会合前にこうして、青鬼と玉天狗、赤鬼と鶴の四人で簡単な打ち合わせを行っていた。
 赤鬼と共に臨んでいる毎週木曜朝の商談内容を、玉天狗や鶴に情報共有し、会合は二人が資料を作成して進行する。
「何がセクハラだ馬鹿っ鶴、そんな色魔みたいな格好してやがるからだろ、変な目で見られんのが嫌なら明日から洋装で来い」
 この間、青鬼に指摘された事を気にしていたのか、いつになく強い口調で、赤鬼が鶴を嗜めた。
 驚く青鬼と玉天狗を前に、鶴は少しばつの悪そうな顔をして黙り込むと、するりと出ていた足を着物の内側に引っ込めた。社内の妖怪の半分はまだ和装で、鶴のようにだらしない格好でいる者が二割。鶴が叱られる言われはないのだが、意識してしまう側としては、鶴が堅い和装かいっそ洋装になってくれると助かるのだ。
「よく言った、赤いノ」
「貴方が言わなければ僕が言っていましたよ」
 青鬼と玉天狗の賞賛を得て、赤鬼は少し得意顔になり、わかったな、鶴、と年頃の娘の父親のように言った。
「糞オヤジが」
 鶴がぼそりと反撃したが、皆、聞こえなかったふりをした。

 「鬼煙草」案件もついに終盤、長かった下準備を経て、ついにサンプリング販促が開始された。各地の地下施設でのイベントと、居酒屋やカラオケ店を中心とした喫煙者へのキャンペーンガール派遣が行われ始めたのだ。データを揃えた上で動いているため、そこまでの不安はないが広告効果は水物である。青鬼は休日を使って、地下施設のイベントに繰り出した。ロック歌手のライブの合間に宣伝を入れ、その場で配るのと会場の脇に数個用意するのとで手を打っている。昔はテレビや映画でCMを流したり、ポスターで宣伝する事が出来たが、煙草の規制が厳しくなり、こうした地道な活動がメインになってしまった。喫煙人口が限られて来たというのも原因の一つで、あまり派手に広告をうつ予算もない。こんな処まで人の世の影響を受けなくても、と喫煙者である青鬼は思う。
「休みに呼び出して悪かったな」
「もとから来る気だったから気にすんな、こっちこそすまねぇな、うちの大将、だらしねぇもんで」
 今日、赤鬼は昼から酒を飲み潰れてしまい、結局夕方に開始するこのイベントに足を運んだのは青鬼と鶴のみだ。会場の盛り上がりを一段高い関係者見学席から眺めつつ、横にいる鶴の洋装に、胸騒ぎを覚える。
 鶴は赤鬼に叱られてからというもの、洋装で出勤して来ており、赤鬼に対する思いの深さを見せ付けられたようだった。
「もう和装はしないのか?」
 身勝手なことに、また鶴の艶かしい和装が見たくなって着た青鬼は、休日の和んだ空気の中で、つい聞いてしまった。
「大将に叱られるからな」
 しょんぼりした鶴の横顔に、そんなにも赤鬼を、と危機感が募った。青鬼は赤鬼に禁止されたぐらいで、自分の自由を諦めたりする玉ではない。しかし鶴は違う。鶴は赤鬼に従順だ。鶴には勝てないかもしれない。失恋の予感がして咽喉奥が震えた。
「でも、青ノ旦那が見てぇってんなら、話は別だ」
「何?」
「帰りに寄ってかねぇかい、家ではこれまで通り和装だからよ」
 赤鬼に想いを寄せる者同士、語らうのも良いかもしれない。
 頷くと、鶴は緩やかに笑った。絵に描いたような形の良い目が、細められて黒目がちな瞳が煌く。負けても仕方がない、鶴は綺麗だ。

 イベント終了後、売り切れたサンプリング煙草のコーナーを見て、青鬼は恋敵である事を忘れ、鶴と手を叩き合い喜んだ。コンサート会場で配られた煙草は全てはけ、サンプリング企画の一つは成功した。
 二人は近場で一杯飲み、ほろ酔い気分で酒を買って鶴の家に向かった。赤鬼に想いを寄せている身として、迂闊に他人の家に上がるべきではないとちらりと想ったが、相手は鶴だ。
「青ノ旦那、俺の家はこの真下だ」
 銀座五番出口からすぐ、今は洋菓子屋が入っているビルの前で鶴が止まった。下に沈むと、閑静な妖怪高級住宅地が現れた。でんとした面構えの日本家屋が立ち並ぶ一帯に、気後れして少し酔いが醒める。鶴の家はその中の一つで、なかなかの大きさだった。
「随分、立派な家だな」
「おぉ、陰間時代に客から貢がれたんだよ」
 表玄関から入るとすぐに広い庭が見え、見惚れていると、鶴はさっさと家の中に入ってしまい、慌てて後を追う。
「これだけ大きいと手入れが大変だろう」
「休日に色々やってくれる人を雇ってんだ、好い加減、固定資産税がきついから手放そうかとも思ってるが」
 ちゃぶ台の置いてある広い部屋に通され、腰を落ち着けると、すぐ傍に日干しして取り込んだばかりという体の布団が見えて緊張した。
 鶴にその気はないだろうが、布団というもの自体を意識してしまう浅はかな自分がいて、思わず目を逸らした。逸らした先で、洋装を脱ぐ鶴が見えてまた目を逸らす。
「懐かしい薫りがする、……良い家だな」
 正面のちゃぶ台を睨みながら、苦し紛れに言葉を吐き出すと、ぱさりと鶴の服が落ちる音が返って来た。
「そうだな、俺ぁ江戸時代、岡引だったから、こんな良い家で暮らすことぁなかったが」
 帰り道で買った酒を取り出して、煽る。酔ってしまえば、多少の事故にも良い訳が出来るだろう。まして鶴は陰間だった。いや、鶴に手は出さない。そんなつもりで上がりこんだわけではない。
「でも、ああ、大将の家なんかこんなだった気もするなぁ」
「同心時代か」
 思わず低い声が出たのは、『人の皮』を被って同心をやっていた赤鬼を思い出したからだ。今の世程、肝の取れ辛い時代でもなかったのに、何を人に化けて遊んでいるのかと軽蔑していた頃だ。
「大将は今も昔も人好きだ、アンタが人だった頃、何度も抱きに行ったのはあんたが人だったからだろうね」
 薄々、勘付いていた事をずばりと指摘されて、青鬼は急に、何か確信していたものを崩されたような気分になった。やはりあの時、赤鬼が青鬼を求めたのは、青鬼が人だったから。現に、今の赤鬼は青鬼に何もしてこない。それは青鬼がもう人ではないから。
 酒が廻り、心が弱くなっている。ポロポロと涙が零れだして弱った。鶴にこんな無様な姿を晒したくない。ぐいっと袖で涙を拭い、一瓶をラッパした。
「おいおい青ノ旦那、ヤケ酒は体に悪ぃよ、大将が勝手なのは昔からだ」
 着替えの途中で、止めに来た鶴の姿は目に毒だった。和装の帯が緩く、腹まで見える。鶴の体は痩せているくせにふんわりして、触り心地がよさそうだった。
「鶴……」
 名を呼ぶと、優しく手から酒瓶を奪われ、あやすように頬を撫でられた。本能が理性に勝ち、鶴の体を畳に押し倒すと、ふわりと花の薫りがした。
「誘惑が過ぎるぞ、この陰間」
 わざと嫌な言い方をしてやると、鶴は艶やかな笑みを浮かべて、青鬼の首に腕を絡めて来た。
「やっと落ちたな、このむっつりスケベ、一度アンタとやってみたいと思ってたんだ」
 なるほど、股がゆるい。
 赤鬼の言葉を思い出しながら、鶴の唇を吸おうと、顔を近づけたところでぴたりと迷いが生じた。
 赤鬼に自分が失恋するのは良い、だが、赤鬼を支える鶴を赤鬼から奪うのはどうなのか。
「ギブアップだ」
 そこで、どこからともなく声がして、思わず鶴から顔を離した。
 広い和室の奥、襖がガラリと開いた。
「遅ぇよ大将、俺の操、奪われそうだったぞ」
「陰間が良く言うぜ」
 赤鬼が襖の向こうから現れ、鶴がそれを当たり前のように受け入れる。青鬼は恐らく、嵌められた。
「どういう事だ、赤いノ? 鶴? 返答次第じゃ妖怪大戦争だぞ」
 怒りを抑えて聞くと、赤鬼が溜息をついた。
「いや、その、俺はだな、真実の愛って奴をだな」
「大将、きめぇ」
 補佐にスパリと切られて、赤鬼は口をつぐんだ。
「鶴、翻訳を頼む」
 鶴から身を離しつつ、乱れた衣服を整えた。酒の酔いが一気に醒めて行くのがわかる。
 自分でも意識しないうちに、青鬼は怖い顔になっていた。
「いや何、大将がなかなか青ノ旦那に素直じゃねぇからよ、ちょいと喧嘩になってな? このままじゃ青ノ旦那を玉天狗に取られちまうぞって脅したんだ、そしたらこの阿呆、それでも良いとか抜かしやがる、もう青ノ旦那の気持ちを無視した行動は起こさねぇって」
「……」
 なるほど、確かに「人」休みで赤鬼が青鬼に行った無体は許される事ではなかった。しかし、最後には青鬼も赤鬼を認め、愛していた。
「青ノ旦那が選んだ相手が、青ノ旦那を幸せにすんなら自分は身を引くってよ、そんな健気な玉かよ、だからこっちもかっとなってよ、俺が青ノ旦那をタラし込んでもかって言ったら、ああと言った」
 段々と話が見えて来て、怒りが呆れに変わっていく。
「じゃぁどこまで我慢出来んのか、我慢比べだってんでそこの襖に仕舞ってやったんだ」
「で、お前等が今にもおっぱじめようってトコで、俺が悲鳴を上げたってわけだ」
「だから言ったんだよ、あんたは青ノ旦那を誰かにやるなんて事、絶対できやしねぇんだ」
「うるせぇ鶴、黙ってろ」
 全てが仕組まれていたとしたら、いつから、どこまでだろうか。ここまでして一体、何が楽しいのか。疲れ過ぎて考えがまとまらない。
「何をやってんだ、おまえらは二人して」
 力の抜けた声で呻くと、二人は声を合わせて、だっておまえ(アンタ)が玉天狗なんかと噂になるから、と応じた。
「玉天狗は念者だ、私も良い年をして抱かれる趣味はない」
「でも大将には抱かれるんだろ?」
「それは……」
 鶴の指摘に、口篭ると赤鬼が足早にやって来た。
 ぎゅっと手を掴まれて、心臓が五月蝿く鳴り始めた。誘惑に流される感覚とは違う、独特の緊張感が漂う。
「青鬼、俺はな、本当はずっと……永遠におまえと恋仲でいたいんだ、けど、おまえがいつも俺に飽きて他に行く、おまえはお互い様だと思っていたようだがな、俺はおまえの気持ちを察していつも身を引いてたんだよ、先の「人」休みの時は心底悪かったと思ってる、だけどあの時は、この鶴がな、直前に西洋悪魔と消えちまって、俺は……鶴にまで背を向けられて、気がおかしくなってたんだ、それでおまえと一緒に人の世に逃げたのに、おまえは俺じゃない奴と添い遂げようとしやがるから」
「何を言ってる」
 確かに人であった時、青鬼は同性の赤鬼に惹かれていた癖に、許婚の女と結婚した。愛していたわけではない、そういうものだという気持ちで夫婦になった。赤鬼が戦争で死んでからは、女の生んだ子を愛し、時が作った愛着で女も愛し、幸せに人として生きていこうとした。赤鬼に惹かれたわけや、赤鬼から送られていた愛の言葉を深く考える事なく、赤鬼を思い出の中に仕舞い、省みなかった。だから赤鬼は現れた。
 赤鬼はあの時も、襖の中で我慢比べをしていた。そして、我慢出来なくなり、飛び出して来たのだ。人の前に現れるという事は、妖力の強い赤鬼といえど、かなり疲弊する仕事だったろう。
「俺はおまえの気の多さを知っている、どこまでも続く妖怪の命の果ての無さを知っている、ずっと同じ相手は辛かろう、だから、心に余裕がある時は、おまえの好きにさせてやりたかった」
「まぁ、浮気も一種のプレイだよなぁ、っつぅか、大将は大将で青ノ旦那が他行ってる時は愚痴りつつも楽しんでたじゃねぇか、別の妖怪で」
 外野から野次が入り、はっとして我に返る。
 赤鬼の言葉が本当なら、青鬼は随分と勝手な男になってしまう。浮気はお互い様だと開き直っていた青鬼にしてみれば、寝耳に水の話である。
「あぁ、鶴、おまえに手を出したのは失敗だったな、あの浮気は辛かったぞ」
「大将は粘着質過ぎんだよ、ありゃ悪かったな、反省してる、だから今こうして荒療治だけど手ぇ貸してやってんだろ」
 鶴は相変わらずの艶姿で、ちゃぶ台に腰を掛けて二人を見守っていた。
「良かったら俺ん家好きに使えよ、俺ぁ飛頭ちゃんに遊んでもらう、陰間やってからもう男はからっきし駄目になってなぁ、女が一番だよ、結局のところ、おっぱいがないと生きていけねぇ」
飛頭は牛鬼が好きなんじゃなかったか?」
「おぉ、本命はもちろんな、だが遊び相手ってんなら合格点もらってんだ、色男はお得だろ?」
 はは、と高らかな笑い声を上げ、鶴が退散していくのと、赤鬼がぐっと身を乗り出すのは一緒だった。
「おい、よせ、今はそんな気分じゃない」
「さっきまで鶴に盛ってたろう」
「念者と若衆じゃ立場が違うだろう、心の準備がだな」
「俺が若衆をやっても良い」
「それはちょっと、その気になるのに問題が」
「ならおまえが若衆をやるしかないだろう」
 やる以外ないのか、という突っ込みは通じず、実に六十年ぶりに、青鬼は赤鬼と交わった。途中、あらゆる時代の赤鬼との思い出がぶり返し、赤鬼の言うように、確かに、青鬼の心が赤鬼から離れる事の方が多かった事実に驚いた。赤鬼が本当に何度も何度も、青鬼を思い身を引いていたとしたら、青鬼は何て酷い男だろう。青鬼にその事実を悟らせる事なく、それを繰り返し続けて来た赤鬼の、何て健気な事だろう。
「何を泣いてる」
 言われて気がつくと、目から涙が零れていた。行為が終わったものの、体は重なったままだった。鶴を抱こうとした畳に、布団を敷いて行っていた。人の家で何をやっているのかという冷静な考えが頭を過ぎったが、それよりも、赤鬼の事について、青鬼は反省しなければならない事が多すぎた。
「思い出していたんだ、確かに俺ばかり、おまえに飽きていた」
「ああ」
 思い出の中で、浮気をされた覚えが一つもない。いつも青鬼が他に気をやった、その後で赤鬼にも相手が出来ていた。それでいて、青鬼が一人になった時、いつも赤鬼は寄り添って来た。
 あれは、タイミングを見計らっていたのだ。
「しつけぇ男は嫌いだろう」
「好みじゃないが、おまえなら別だ、限界が来るまで耐えるんじゃない、おまえはもっと俺に文句を言うべきだった、怒るべきだった、やきもちぐらい妬け」
「おまえは気が多い男だからな」
 最初は確かに、赤鬼は怒っていた気がする。それが何時の頃からか、するりと別れられるようになった。赤鬼も視野が広くなって良かったと勝手な事を思っていた。赤鬼は耐えていただけだった。
「悪かった、赤鬼、俺は酷かった」
「酷かったのは俺だろう、おまえの人休みを台無しに」
「もういい、よせ」
 赤鬼の言葉を聴けば聴く程、胸が苦しくなった。
 気の多い青鬼に惚れたばかりに、妖怪の命が果て無いばかりに、惨い苦しみを与えてしまった。赤鬼がやたらと『人の皮』を被って、記憶を失い、人の世に逃げて行く訳がわかった気がした。



2016/07/11