からめ

『鶴に恩返し』(尽くし系強面×恋多き紳士)

 少し肌寒くなった飛鳥山公園で。
「鶴を片付けろ」
 不穏な台詞を恋人から吐かれた。白い朝の陽光が眩しい。
 赤鬼は日向の石段に尻をつき、肩や膝に一杯に乗った猫達の体温でふやけていたが、青鬼は薄色の秋用コートを着込み身を固くしていた。
「どういう意味だ?」
 暗殺なら得意だが相手が鶴ではな、とふざけると青鬼は困ったように笑った。
「場所を変えよう」
 暗殺、片付ける、過去身近だった言葉は遠い歴史の影。平安の世、戦国の世、大戦下、確かに隣で息をしていた死という獣はどこに隠れてしまったのか。ここ五十年程、姿を見ない。

「私は彼を殺せと言っているんじゃない、きちんと振れと言っているんだ」
 赤い窓枠が愛らしいカフェで、若い主婦客の遠巻きな視線に晒されつつ、大柄な男二人は顔をつき合わせた。
「振るも何も鶴と俺は何でもねぇ」
「そう思ってるのはおまえだけだ」
 潜めた低い声で吠え、青鬼は身を乗り出して来た。
 眉間に皺を寄せて凄む青鬼の形相は恐ろしいが、赤鬼と鶴の関係を気にして怒っているのだと思うと自然、口元が綻ぶ。
「何だよ、おまえがそんなに気にするとは思わなかったぜ」
「鶴はおまえを今でも愛しく思っている、そういう相手の居る男と恋人関係で居るのは心地が悪いのだ」
 青鬼はハッキリした口ぶりで、鶴の気持ちを決め付ける。
「おい、鶴にも選ぶ権利があるだろうがよ」
「ああ、彼なら選取り見取りだろう。それなのにどうしておまえなのか?」
 そう言って腕組をした青鬼が、ううんと首を傾げた拍子、青鬼の白銀の髪がサラリと流れた。その瞬間、赤鬼はフワフワとした楽しい気持ちになった。
「なぁ青いノ、ヤキモチは嬉しいが……」
「ヤキモチではない」
「……いいから落ち着いて聞け青二才。まず、おまえも言ったようになぁ、俺のようないい加減な親父に、鶴が好意を抱いているわけがねぇだろうが」
 赤鬼は鶴を陰間だの陰険だの、貶すのが大好きだが、根っこではこの上もなくイイ男だと思っている。自分には勿体無かったのだと過去にされた浮気も、許す事が出来るぐらい。だからこそ、もう二度と振り回されたくない相手なのである。二度と好きにならないと心に決めている。
「それに、あいつは根っからの陰間で、ろくでなしだ、俺の方も願い下げなんだよ」
 よりによって、赤鬼を半殺しにした憎い悪魔と惹かれ合っていたなんて、信じたくなかったし、信じられなかった。陰間をする鶴はいつも辛そうだったのに、鶴が辛そうだからこそ、体は奪われても心は赤鬼のものだったのに。あの時、消えかかって身動きの出来ない赤鬼の手から、するりと逃げ、悪魔の元に走った鶴を赤鬼は百年許せなかった。
 通じ合っていた時の愛情の深さは、裏切られた時に胸を抉る傷の深さに比例する。あの残酷な心変わりを思い出すと、赤鬼は今でも腸が絡み合って、固結びを作りそうになる。
 ふいにカフェの窓に映った自分の顔に、憎しみが貼り付いたのが見えて、慌てて表情を繕った。そんな赤鬼を、青鬼は心配そうに観察しながら、頼んだ紅茶の表面をスプーンで掻き回した。
「赤鬼、俺は曲がった事が嫌いだ。おまえが気づかぬから言ってやるが、鶴の裏切りは茶番だった」
 紅茶から熱が少しだけ白くなって、解放される様子を眺める青鬼の顔は苦い。
「茶番?」
 青鬼は軽く店内を見回し、二人の席近くに他の客が来ない状態であることを確認すると、懐から一冊、雑誌を取り出して壁を背に座っている赤鬼にそれを渡した。
「鶴は、おまえを破った悪魔に己の身を質にして、おまえの命乞いをしたんだ……」
「……」
 青鬼の持って来た雑誌は、古い西洋の読み物で、美術展のパンフレットのようだった。その表紙は、ひと目で強姦された後とわかる鶴の絵で飾られていた。写実的な筆致は、乱れた和装から覗く鶴の赤く勃ち上がった乳首や噛まれた痕のある太腿を精緻に描いている。
鶴はしばらく陵辱画のモデルとして、向こうで見世物にされていた。俺は調べてはじめて知ったのだが、その筋では有名なモデルだったようで、研究本も出ている。そこから当時のおまえらの事情が知れた」
 雑誌をめくると、さっそく1ページ目から、目を逸らしたくなるような、容赦のない描写が目に飛び込んできた。三匹の悪魔に押さえつけられ、後ろから犯されたり腿を噛まれたり、性器をしゃぶられ、喘いでいる鶴の絵。隣には三分割されたコマに、胸までの鶴が描かれていて、一番上のコマでは反応を示していない乳首が、真ん中のコマで弄られて、最後のコマで勃ち上がっている様子が紹介されている。エロを絡めた芸術程、グロテスクなものはない。鶴は愛されるためではなく、素材として連れ去られた。
「ずっとこんな調子で、陵辱絵が続く」
「どこから持って来た、こんな雑誌」
「金を積めば簡単に手に入る。美術史に残るジャンルの一つで、この展覧会は何度も開催されている。倭国から略奪されてきた綺麗な若衆は、ジャポニスムの影響もあり、見世物として非常に人気を博したそうだ」
 ずぅんと落ち込んだ赤鬼に対し、青鬼はしかし容赦なくいらない情報を浴びせた。この事実を、精査しろとばかりに責めるようにいい募った。

「鶴」
 呼ぶと面倒臭そうな声で、こちらを見もせずに何でぇと返事をした鶴に溜息をつく。
「こっちに来い」
 落ち着き払った重い声を出すと、鶴はやっと顔を上げてこちらを見た。しかしチッと舌打ちをした。
「お断りだ、今、手が離せねぇ」
「いいから来い」
 部長室を資料作成室に変更して、深夜までの作業をしていたところである。今朝、青鬼との逢瀬で仕入れた情報が、赤鬼の頭を痛くする。鶴は和装で、はだけた胸元を少し直しながら、むくれたような顔でやって来た。部長室には、鶴と赤鬼しかいない。いつもの状況だが、壁が氷になったようにヒンヤリして、何だか落ち着かない。
「大将、野暮用なら後にしてくんねぇか? 俺ぁ見ての通り、アンタの取って来た大仕事で忙しい」
 鶴は懐手をしながら、チラリと書類が山になったローテーブルを見た。
「つぅか、アンタ今日一日様子が変だぜ、青ノ旦那と何かあったか?」
 それから、大あくび。鶴の揃った長い睫毛があくびで出た涙で少しくっつきあっていた。ふっと浮かんだのは、形の良い細目を涙で蕩けさせながら、眉を寄せて快楽を訴える、壮絶に美しい鶴の悶絶顔だった。思えば鶴とは何度も濃ゆい性交をした。
 思わず鶴から目を背け、そういえば、とさらに記憶を辿る。赤鬼は鶴のよがり涙が好きで、よく犬のようにその涙を舐めた。
「おまえ、まだ俺が好きか?」
「あ?」
 鶴の声は頓狂で、一気に後悔が押し寄せた。これはまずい。
「寝言は寝て言ってくんねぇか?」
 低くて、不愉快そうな一刺しの言葉に、赤鬼は背が凍った。カマの掛け方を間違えた。というか、相手が鶴だからと油断して、思わず素で聞いてしまった。
「いや、そういうような噂を聞いてな」
 誤魔化そうとして口走り、墓穴を掘って額に汗が浮かんだ。
「噂の出所は? あんたは誰から聞いた?」
「俺は……聞きかじっただけだ、誰が言ってたかなんて忘れちまった」
「ふぅん」
 鶴は艶やかな細目をさらに細めて、くっと笑みを浮かべた。
「そんな噂、十日で俺が消してやる」
 鶴は怒ると笑う男である。唇の形や口幅など、計算されているのかと疑う程、綺麗な鶴の微笑みは絵になるが、無機質な人形の瞳は据わっていて、鳥肌が立った。
「別に消さんでも良い、たわいのない噂だ」
 気がつくと背にも汗を掻いていた。
「他に何か聞いてるか?」
「他?」
 もしや鶴は、赤鬼が真実を聞かされたと勘ぐっているのでは。鶴は恐ろしく人の心を悟る能力に長けているし、赤鬼は余りに長い間、鶴に隠し事をせずに来てしまった。
「何も」
 緊張のあまり目を剥いて、ばちりと視線が合ってしまい、赤面する。鶴を意識してしまっている。
「あんた今、俺を抱きたいだろう」
 鶴は困ったような顔で、赤鬼の胸に手を置いて来た。懐に入られ、身動きが出来ない。どうしてわかったのだろう。
「いや……」
 頭の中を、過去、目を楽しませてくれた沢山の鶴の艶姿が回っていた。憎しみで蓋をしていた快楽の思い出が、勢い良く溢れて来ていた。
「全部、知ったのか」
 質問は簡単だが、応答は難しい。鶴は赤鬼に事実を知られたくなかったのだ。ここまで鶴が必死に隠して来てくれた努力をふいにしてしまった。後ろめたい気持ちで目を瞑った。
「どうしてだ鶴」
 赤鬼の声は震えていた。
「おまえは、俺を……、恋人を質に入れ、生き延びた恥知らずな男にした」
 ぽつん、と涙が瞬きで飛んだ。
「あんたには、そういう駄目な役回りが似合いだと思ってな」
「憎まれ口をッ」
 気がつくと手を伸ばし、鶴の腕を掴んでいた。引き寄せようとして、振りほどかれる。もう一度手を伸ばし、今度は肩を掴み抱き寄せた。百年の憎しみを、何とかして打ち消したい。誤解していた事を、ただ只管に謝りたい。
「大将」
「悪かった、鶴、……」
 どうしたら良いのだろう。鶴の真心に応えるためには。鶴の恩に報いるためには。赤鬼は青鬼を愛しているが、もし鶴がまだ赤鬼を求めていたら、鶴のために青鬼から諦めるべきだろうか。鶴が赤鬼にしてくれた事のお礼は、赤鬼が鶴に千年尽くしても足りない。
「おい、よせよ気色悪ぃ、もう衆道の関係じゃねぇんだから」
 そこで、ぐっと胸を押されて身を引き離され、ぽかんとして鶴を見ると、鶴はうんざりした顔で赤鬼を睨んでいた。
「俺ぁ鶴種だ、我が身を削って愛する者に恩を返したり愛を示したりする種族だ」
 鶴の綺麗な顔には、何の感情もない。
「ああ」
 鶴は何を考えているのだろう。赤鬼には理解出来ない。鶴種独自の習性を主張されても、ピンと来ない。
「たまたま、当時の俺の愛する者があんただったから、あの時は、あんたのために頑張った。それだけの事だ」
「でもよ……」
「ちなみに今は別に愛してねぇ、あんたは青ノ旦那とよろしくやってろ。俺に引け目が出来たからって、俺に構う必要はねぇし、構われても俺は迷惑なんだって事を理解しとけ」
 絶句する赤鬼に、鶴はふふんと笑ってみせた。
「俺のために青ノ旦那を諦めようとか考えただろう、あんたは情が深いからな」
 ごそごそとまた懐手をしながら、鶴はそっぽを向き言い当てた。赤鬼は困って眉を寄せ、手持ち無沙汰になった腕を見つめながら頷いた。
「おまえのためなら、何でもと、思ったんだが」
「そんな心遣い、いらねぇよ重苦しい。だから内緒にしてたんだ」
 ばっさりと言われて、赤鬼は唸った。では、どうしたら良いのか。てっきり、鶴は赤鬼をまだ愛しているのかと思っていた。しかし、それは思い違いだという。
 確かにあの当時、浮気と思えた鶴の行動が、赤鬼を想っての事だったとしても、あれから百年以上経った現在まで、その健気な心が残っている保証はない。
「大将」
「あ?」
 高ぶっていた胸を、どうやって落ち着かせようかと考えていた赤鬼の角に、鶴の細くて冷たい手が触れた。
「あんたは居心地悪いだろうが、俺はあんたのために頑張った事を後悔してないぜ」
 顔を上げると、思いのほか近くに鶴の綺麗な顔があった。そこに浮かんでいた穏やかな笑みに胸が一杯になって、だらだらと涙が出た。
「おい……」
 途端、鶴は渋面を作って赤鬼の涙を指で拭った。
「泣く奴があるかよ、だからヤだったんだ、あんたに知られんの、……悪かったよ騙すような事しちまって、俺は、本当にあんたが大好きだったんだよ」
 火に油を注ぐような台詞を口にして、しまったという顔をした鶴に向かい、赤鬼はウグッと声を上げ、ついに嗚咽まで喉奥から飛ばした。
 強面の親父が情けなく泣き始めたのを、鶴は本格的にまいったという顔で眺めていたが、赤鬼が鶴の服の端を引っ張ると、鶴は溜息をついてから、赤鬼の身に腕を回し、背中を撫でてくれた。
「おわっ?!」
 そこで急に鶴の小さな悲鳴が聞こえ、鶴の温度が遠退いた。耳が遠くなったように靄が掛かって、頭の芯がぼうっとする。赤鬼から、鶴が剥ぎ取られたのがわかり、口の骨が全て砕けたように痛み、全身が痺れた。
 金縛りと呼ばれるこの技は、小野森が得意としている。目の前には鶴を持ち上げて、怒りの顔をしている小野森が立っていた。
 小野森は、冷たい目で赤鬼を見下ろしていた。鶴もまた金縛りに掛けられたようで、ぴくりとも動かない。
「浮気は良くないな、鶴」
 小野森は冷えた声で一言だけ呟いて、その場から鶴ごと妖力で消えた。赤鬼だけが部長室に残されて、夜の会社の闇の中、息をしているだけの存在にされた。
 
 小野森に襲撃され、鶴を喪失してから数分。鼻が痛いのは殴られたからのようだった。赤鬼は何度も全身に力を込め、金縛りを解こうとし、皮膚が氷に張り付いて取れるような痛みに呻いた。
 夜の会社の中で、一人で金縛りに苦しめられている状態は、孤独感を増幅させ、赤鬼を落ち込ませた。
 赤鬼が愛し、傍に置きたいと願う者はいつも赤鬼のもとに留まらない。青鬼も鶴も、温度を確かめたその次の瞬間にはいつも消えてしまう。永遠とは何か、欲してはダメなものか。
 鶴、と動かぬ口の中で念だけを生む。
 今頃、どうなっているのか知れない。小野森は鶴に惚れているから無茶はしないと思うが保証出来ない。責められていないといいが。
 鶴、と今度は舌が動き、音が出た。
 そこで、パッと廊下に電気がついた。
「なんと間抜けな……」
 今一番聞きたくない男の声がして、意識を向けると、青鬼が部長室の戸をすり抜けてくるところだった。
「青いノ……」
 親を見つけた迷い子のような声が出た。
「あの怪物が、俺におまえの回収を依頼して来たんでな」
「小野森か」
「おまえ、あんなものが下にいて、やり辛くないのか?」
 赤鬼より、遥かに長生きで力の強い妖怪である小野森を指して青鬼は眉を顰めた。
「別に、問題を起こすわけでもないし、関係はまぁ良好だ」
 扱い辛い部下ではあるが、扱えないわけでもない。
「上司を圧倒的な妖力で金縛りにする部下なんぞ、俺は願い下げだが」
 青鬼の言葉に笑いたかったが、表情も固まっているため笑えない。青鬼はゆっくりと、戸口にある棚、ローテーブルを囲うソファ、赤鬼の座る椅子の背、と手を触れながらやって来た。その存在が近付いてくるだけで、幸福になる。
「青いノ、俺は、鶴を愛するべきか?」
「俺に聞いてどうする、おまえの心の事だろう」
「俺は、おまえを愛したい」
 すっきりしたのは、それが真実だったためだ。鶴に対する引け目や欲望と、青鬼に対する憧れは、性質がまるで違う。
 鶴への償いは、愛以外でやるべきなのだ。
 赤鬼はその事に、やっと気がついた。

 その月終わり、鶴は第一営業部の部長に、赤鬼は営業部全体の本部長に昇格した。同時に第二営業部のマネージャーに野平がついて、新体制が敷かれた。
 これまで通り、鶴と過ごす時間が減る。その事にほっとした自分をいくじなしだと思うが、鶴もまたほっとしているようだった。


2016/7/12