からめ

『李帝の寵愛、鶴の忠誠』(大妖怪の皇帝×ボロキレ妖精)

 生まれ育った武蔵を離れ、駿河丹波、須磨を転々と暮らしてみた。出雲や長門を見聞し、筑前に着いた頃、鶴はその男に出会った。

 倭国の端にある土臭い港町に、まるで天上人のような一行が降りて居た。人間世界では、数万の兵を乗せた艦船が、まだ海の上で睨みを聞かせていたが、妖怪世界の侵略者達は既に港に降りていた。真っ先に闘いに身を投じ、撃たれた瀕死の鬼達がゴロゴロと転がっている恐ろしい港場で、小妖怪どもは息を顰め、事の成り行きを見守っていた。
 鶴はやっと百を過ぎ、安定したばかりの精霊で、もしあの天上人達に見つかったら、俺の命は無いだろうと直感していた。出来うる限り見聞を広め、逞しく育てという親の言葉に従って、各地を旅し、何か変わった事があればそれを知ろうと足を運び、ここまで生きてみたが、まさかこのような危険な現場に飛び込む事になろうとは。鶴を生んだ二匹の女鶴は、己の命を犠牲に鶴を育てた節があり、二匹のためにも何とか生き延びたい。しかし、背骨にビシビシと響いて来る嫌な予感は、紛れもない死の息遣いである。
 船着場のある入江は広く、港としていくつもの店が賑わっていたが、入江を囲う崖の上には青々とした緑が広がっていた。
 ただならぬ妖気に森の獣達は逃げていたが、精霊や小妖怪どもは、動けばそこに居ると気づかれ殺されるとわかっていた。
 現に数時間前、重圧に耐え切れず飛び去ろうとした飛頭蛮が、じゅわりと消し潰された。
 額から汗が落ち、ぽたんと手に沁みた。いつまでここでこうして、じっとしていればいいのだろう。
 天上人達は綺麗な珍しい柄の着物を来て、華やかに上陸したと思えば、襲いかかって来た鬼達を次次と瀕死にしてその場に茶会のような陣を作った。小高くなった見晴らしの良い場所である。そこに台のようなものを置いて腰を掛けると、物を食い酒を飲んで休み始めてしまった。
 天上人達が来るというから、慌てて茂みに隠れた鶴達小物の緊張など、まるで意に介さず、悠々としている。

 上陸から五時間経ち、鶴はじっとしている事に疲れて来た。足が震え、今にもガサリと音を立てて倒れそうである。木立の隙間から見える天上人達は、何か書物を手に話し合いを始めていた。
 その時、砂浜の端で、体の半分を消し飛ばされて転がっていた鬼が目を覚まし、首だけを飛ばして攻撃を仕掛けた。狙うは天上人の中心に居る、下がり目で整った顔だちの、背の高い指導者である。危ない、と思わず考えた鶴は発想が可笑しかった。鬼の首がこの指導者を倒せば、鶴達小物も解放されるのに。

 しかし鶴の思いが通じたのか否か、鬼の首はクシャッと音を立てて消された。妖力の差というのは、これ程まで闘いを一方的にするのかと鶴は目を瞑った。せめてこの指導者ではなく、別の物を狙えば、痛恨の一撃ぐらいは加えられたはずである。
 闘いの前にまず名乗りを上げるという不利な決まりごとにさえ従わなければ、鬼たちは侵略者達に決して負けていなかった。現に港には鬼の他、撃退された侵略者の負傷者も多く溢れていた。先の攻防では、空中で鬼に消し潰された侵略者達の姿もよく見えた。
 大陸の妖怪と、倭の妖怪との間にそこまで実力差はない。むしろ、数の少ない鬼種のみで、あの大量の大陸妖怪を良く蹴散らしたと思う。鬼種以外の倭の妖怪が、腰抜けだった事が非常に悔やまれる。
 勇ましい鬼種達の陰で、こそこそと一斉に茂みに隠れた倭の小さな妖怪達の嫌な側面を見せつけられ、鶴は少し気分を害していた。精霊である自分が歯痒く感じた程だ。
 どうして自分は妖怪でなく、精霊なのかとも思った。精霊は殺生を禁じられている。

 え゛あ゛ぁあぁと奇声を上げ、若い鬼種がまたあの指導者に向かい突撃した。首の鬼が消されたのを見ていなかったのか。
 距離が縮まるその前に、じゅっと消し潰される。大陸から来た大量の妖怪兵は恐ろしいが、この威圧感と絶望感はすべて、あの指導者が存在しているせいだ、と鶴は見抜いていた。
 倭国を旅して回り、沢山の強力な妖怪に出会ったが、あんな圧倒的な力を持つ妖怪は初めてである。興味深いが、近づくには恐怖が優り、動けない。自分がせめてもう少し、特の高い精霊か神か強い妖怪であればと悔しく思ったが、生まれ持った力量には従わなければならない。
 分不相応な望みを果たすには、時と場合を踏まえて、仕掛けなければ。
 そう堅く決意した矢先である、足が滑りガサガサと音がした。青くなった鶴の横には、もっと青くなった小妖怪が居た。同じような場所に隠れていた仲間と思っていたが、この小妖怪はわかっていた。鶴が音を立てた、この方向に妖圧が来る事を。そこら一帯を、じゅっとやられる。
 小妖怪は鶴を蹴って、己の助かる道を開いた。崖から、ぽんと身が放られて、宙に無防備に浮いた感触。死という概念と予感と、凡ゆる感覚が生の終わりを知らせて来た。

 鶴は生涯の最後に、育ってきた故郷の仲間に見捨てられ、あの指導者ならびに恐ろしい天上人達の目の前に落ちた。叫び声は出なかった。必死に崖を登ろうと、背から羽を出して羽ばたき、その羽をバサリと切り落とされると今度は走って森の方へ逃げた。前を塞ぐ大陸妖怪を蹴り飛ばし、突き飛ばし、道を開こうとするが後ろから押さえつけられる。
 転ばされた拍子に砂を掴んで投げつけ、腕をつかもうとして来た者を引っかき、後ろから羽交い絞めにしてきた者に噛み付いた。
 バキンと音がして、足の骨を折られた事がわかると、さすがに悲鳴が上がった。息が出来ず、目の前がチカチカする。痛みで涙と鼻水が出て、砂がそれにひっついて顔がベタベタになった。隠れている間にたっぷりと体中に掻いた汗にも砂がついて、とにかく気持ち悪い。
 あの指導者の元へと、ずるずる引きずられている間、折れた足から痛みの強い波が押し寄せて来て、小便が漏れそうになった。ふっ、ふっ、ふっ、と息が上がる、痛みに悲鳴を上げたいが、泣き叫んであの指導者の前に晒されるのは余りに惨めだと思い耐えた。
 ごしごしと顔を擦られ、大陸妖怪達の何か、からかうような声色がして、胸元を開かれた状態で固定され、顔を上げるとあの指導者が居た。下がり目には静かな知性があり、整った顔には慈愛がうかがえた。その見目の麗しさに懐かしさを覚えたのは、幼い鶴を取り巻いていた両親や育ての親たちが精霊で、美しい顔をしていたためだろう。
 指導者の周囲に居る、武人らしいごつい男達が、にやにやとこちらを見ているので、足の痛みにまた呻きそうになるのを目を瞑り歯を食いしばって耐えた。武人達の前で、ぎゃぁぎゃぁと喚く醜い弱者になるのは嫌だった。殺生は禁じられているが、武芸には興味があり、鶴は武人に憧れていた。骨のある奴だと思われたいなどと、処刑される前であるにも関わらず思っていた。今殺された奴、泣き叫ばなかったなと一言でも良いから評されたい。
 指導者は鶴を汚いものを見るような目で眺めており、それでいて決して目を逸らさない。何か嫌な風に殺そうと考えているのかもしれない。少し我慢強そうだから、より苦しいやり方で死なせて回りへの牽制に使う見世物にしようか、などと。思われていたら。
 自分の考えにぞっとしている鶴の身から、男達が服を剥ぎ取って行く。冬の薄着に、鶴はぶるりと身を震わせた。痛みのあまり、漏れそうになっている小便が、さらに漏れそうで、腿を震わせる。
 男の手が股間を弄り始め、鶴はぎょっとした。ごりごりと尿意を促そうとする。腰を捻り耐えたが足の骨の折れた場所をぐっと押され、急に来た痛みにシャァ、と下が濡れた。誇りを保とうとしていた心が折れて、ぼろぼろと涙が出た。尊厳を傷つけられ、これから命も奪われる。弱者の運命の残酷すぎる現実に、鶴は嗚咽を上げた。
 冷たい海風が、涙と鼻水を冷やす。武人たちの薄ら笑いが耳に届き、殺すなら早く殺して欲しいと思った。その数秒後、鶴の股間を弄って来て、骨の折れた場所を押したその男の首が、ごん、と目の前に落ちた。
 息の止まる思いでそれを見ると、首の中のごちゃごちゃした管や肉がわかって、吐き気がして目の前が真っ暗になった。
 頬を叩かれ、一瞬気を失った事がわかり、疲れきった頭が投げやりな心を作った。もう、どうにでもなれ。
 夕暮れで、海の向こうが赤く染まっており、入江の端の森が色づいて美しい。この景色を明日も明後日も見たいという欲求が起こり、涙が溢れた。
 指導者の男が、横に立つ背の低い男に何か囁いた。
「おまえ、名は」
 侵略者の陣営で、初めて聞いた倭語に、鶴は目をぱちぱちした。
「ツル」
 掠れて、聞き取るのも難しい音量だったが、背の低い男は指導者に耳打ちした。指導者は頷くと、何か言った。指導者の口から、ツルという単語が出た事に、妙な高揚を覚えた。俺の名を呼んだ。絶望していた心に、熱が入ったような、くらくらした感じがして鶴は呆けた。
「李帝はそなたに詫びている、そなたの誇りを汚した部下を恥じている、良く悲鳴を上げなかった、痛みに強い果敢な男だと」
 翻訳しているためか、言葉の順番に違和感を覚えたが、それより指導者が鶴の思いを汲み取り、評価してくれた事に、喜びを通り越して奇跡が起きたような、信じられない気持ちになる。
 夢を見ているのだろうか。無力な、しがない一精霊が鬼をも消し飛ばす大陸の大妖怪に名を呼ばれ、褒められた。
 指導者の優しげで厚みのある声が、鶴の耳をまた擽った。何を言っているのかはわからないが、指導者が鶴の名を口にする瞬間、ツルという音が指導者の口から出る度、体中に大量に汗を掻く。
「李帝はそなたの望みを一つ、叶えると言っている」
 翻訳家の言葉に、鶴ははっとした。
 もしかすると、命を見逃して貰えるかもしれない。取り乱して泣き叫び、命乞いをするのは醜いが、きちんと分を弁えて命乞いをするなら、それは立派な生きようとする者の手段として捉えて貰えるだろう。
「李帝様」
 指導者の名を呼んで、膝と額を地に擦り付けた。
「私は、百を少し過ぎたばかりの若輩でございます。分を弁えず御前に現れた無礼を許して頂けるのなら、恥じ入ってお願い申し上げます。……どうかこの命、見逃してくださいませ。苦労して私を育てた両親に免じて、切にお願い申し上げます」
 自分の漏らした小便の匂う中、額を土につけたまま、ぎゅっと目を瞑り判決を待った。李帝の声がまた耳に響く。また、ツルと鶴の名を口にしてくれた。それが嬉しくて、このぎりぎりの状態で妙に甘い気持ちになる。
 許されても許されなくても、李帝とはこれで最後である。死別となるか、見逃されて離別となるか。
 ふいに、李帝の傍にもう少し居る術はないかという考えが浮かんだ。恐れ多い事だと打ち消しても、李帝が普段はどんな生活をしていて、どのように生きているのかが気になった。そして、どんな者達と関わり、どんな顔をして、どんな考えを持って日々過ごしているのか。それが知りたくて知りたくて辛くなった。
 こんな短い間に、自分は李帝を好いたのだと気がついた。
 悲鳴をあげまいとして頑張っていた自分の心を見抜いてくれた時と同様に、この胸に沸き起こった好意を、また、李帝が見抜いてくれはしないかと願う。李帝の傍で生きてみたい。
 ツル、と李帝の声がした。
 尿の匂いを打ち消す、香の良い薫りが体を包んだ。上品で、位の高い美しい木が、そこに居るような錯覚に陥り、鶴は頬を赤くした。頭に、冷たくて少しだけ重い手の感触がして、顔を上げるとすぐ傍に李帝の顔があった。驚いてビクッと身を震わせると、その冷たくて少し重い手が、今度は頬を触った。分厚い男の手の、優しい肌触りに、とろりと眠気を誘われる。安心と一緒に体の奥が疼くような、妙な気持ちにさせられる触り方だ。
「ツル」
 李帝がまた、鶴のためだけに口を開いた。
 甘い顔が、穏やかに鶴を見つめている。初めて目にしたものを、その存在を確かめるために触って、その名を呼んでみる赤子のよう。李帝は鶴を触って、呼ぶと、満足したように鶴から身を離して行ってしまった。

 その後、李帝の望みで船に招かれた事を知ったのは、なかなか身の拘束が解けず、やはり殺されるのかと落ち込んでいた真夜中の事だった。翻訳家がやって来て、鶴の折れた足を治してくれながら鶴の今後の身の振り方を教えてくれた。
 体を洗い、大陸の服を着た鶴は、李帝の身辺の世話をする見た目の綺麗な男達の群れの中に放られた。男達はプライドが高く、鶴とは口を利かなかったが、鶴は男達の仕事を、見よう見真似で覚える事が出来たので、特に問題はなかった。
 李帝は特に鶴を気にかけるという風はなく、たまに通り掛かりに「ツル」とからかうように名を呼んでくれるぐらいだった。
 船での生活については順風満帆。鶴はこれまでの旅路で船酔いを克服していたので、船の上で具合を悪くして、床に伏せってしまった他の綺麗な男達を尻目に、せっせと李帝の世話に回れた。他の者より多く李帝の傍にいられることに浮かれ、始終にこにこしていたら、あの翻訳家に李帝への想いを見破られ、からかわれる始末だった。

 ある月の大きな日、李帝の酌係として、夜通し傍に侍る機会を得た。招かれていた武人達が去ると、李帝は鶴にも酒を勧めた。李帝と並ぶと、李帝の香の匂いが漂って来て、腰や尻の肉がむずむずした。命乞いをしたあの日のように、体のどこかに触れて欲しい。頭でも頬でも、どこでも良いから李帝に触って欲しくなった。その鶴の思いを察してくれたのか、李帝が不意に鶴の顎に指を触れた。それから額を撫で、長くしていた前髪を耳に掛ける。李帝の手は、今度は熱くて軽かった。
 触れる力が弱く、もっとぎゅっと、感触のわかるように触って欲しくて、鶴は李帝をじっと見つめた。
 この機会にしか、言えないだろうと息を吸い、翻訳家に頼んで教えてもらった大陸語で、「貴方を尊敬しています」と伝えてみると、李帝は少し困った顔をして、鶴に触れるのをやめた。

 李帝に酌をした夜の思い出は、その後数日、鶴を幸せにした。欲を言えばもっと触って欲しかったし、何か語りかけて欲しかった。しかしそれには、鶴は大陸語を知らなすぎる。どうにかして大陸語を学ぼうと、共に働く者達の会話に耳を傾け、自分に何か指示をする人間の表情から感情や意図を察する訓練をした。
 暇があれば翻訳家を引き止め、あれこれと学んだ事を確認し、書き言葉も誰かの仕事を手伝う事で、お礼として教えて貰った。
 しかしそこで、問題として浮上して来た事。
 船に乗っている人間が全て、同じ言葉で喋っているわけではない事がわかった。そして、鶴が必死で言葉を覚えようとしている事が、船の上では有名になっており、語族同士で、同じ言語の者を増やそうという気持ちから諍いが起こり始めていた。鶴がどこの語族の言葉を覚えるかで、喧嘩が勃発するようになり、李帝がそれに余り良い顔をしていないという噂が耳に入った。
 鶴は少し頭を冷やし、手当たり次第に覚える方法を諦め、大陸についてから李帝の膝下で、李帝の操る言葉のみを覚えようと的を絞る事に決めた。そして、それまでは武芸を極めようと、今度は日々与えられる飯や褒美に貰えた酒などを貯め込み、それを献上する事で、武人に稽古を付けて貰うようになった。
 一方で、李帝は少し倭語を覚えたらしく鶴を呼ぶときに「可愛いツル」と呼ぶようになった。この呼び方を初めて聞いた時、鶴は驚いて持っていたグラスを割ってしまい、李帝に声を上げて笑われた。恥ずかしさと嬉しさで、泣きそうになったが、その気持ちを何と表現して良いのかわからず、じっと黙っていた。

「李帝は?」
 鶴の問いはいつも、飽きもせず李帝の有無の確認である。翻訳家は苦笑して、私にはわからない、と応じた。
 大陸に着いてから数ヶ月、鶴は李帝の姿を見る事が出来なくなった。李帝の身は忙しく、鶴の身は不安定だった。あの翻訳家が、自宅に鶴を庇い入れてくれ、何とか宿の目処が立ったものの、翻訳家の妻は鶴に良い顔をしなかった。早くこの家を出なければという気持ちと、このまま李帝とは会えない暮らしの中に、身を投じるのかもしれないという気持ちが、鶴を焦らせた。
 翻訳家はそもそも城の者ではなく、倭との商いに関わっているだけの商人だった。だから鶴が、李帝は今どうしているのかとしつこく聞いて来ても答えようがなく、私の出かけ先は城ではない、とついに苛立って鶴に弁明した。
 そんなに李帝が気になるなら、私の家を出て城に入ると良い。
 翻訳家の放ったその言葉に、鶴は一言も言い返せなかった。
 今の鶴に、城に入る術などない。翻訳家はそれをわかっていて、少し落ち着けという意味で、鶴にそんな台詞を吐いた。翻訳家のその心をわからない鶴ではない。鶴はその日からしゅんとして、ただし手伝いにはきちんと精を出し暮らし始め、どこか地に足のついたような顔つきになった。自分は、李帝のような大妖怪の元に居られる身分ではなかった。そんな諦めの心に、頭を支配され始めた頃、翻訳家の家の前に李帝の豪奢な使いの輿が止まった。
 鶴は名指しされ、この輿に載せられると、さすがに数ヶ月ともに暮らして、少しは仲良くもなれた翻訳家の妻に心配されながら、城に連れて行かれた。
 李帝は鶴を数ヶ月放置していた事について、全くその意識がなかったらしく、昨日会った者に接するような調子で、鶴をじっと見つめるとまた「可愛いツル」と呼んだ。昨日姿が見えぬ事に気が付いて、慌てて探し出したのだという。
 鶴は顔を赤くしたり、青くしたりしながら李帝の真意を探ったが、李帝は単純に忙しく、鶴の事を忘れていたらしかった。
 その、余りに軽い立場が悔しく、小さな己の存在が腹立たしかった。恐らく、李帝は自分の側近、頼りにしている部下達の事は、数日でも姿を消したら訝るだろう。常に傍に置いている妻と思しき女が、数時間でも隠れたら、慌てて探すだろう。
 李帝にとって、なくてはならない存在になりたい。
 そのために、まず言葉を覚えた。これには翻訳家の元でやっていた勉強と合わせると丸半年掛かった。その代わり、何種かが混じっていた大陸語を数種類、覚える事が出来た。読み書きも出来れば、自分で詩を作れるようにまでなったので、鶴は李帝に向けて、時々詩を送った。
 返事は十篇に一度戻って来た。
 その後に李帝の周辺を探った。妻だと思っていた女は姉で、この姉が李帝以上の色好みであり、李帝の世話を焼く美男や美女の半分に手を付けていた。
 世話役から伝令役に身を移した鶴は、手を付けられずに済んだが、鶴とともに船に乗っていた数人は、この姉の手に落ち、姉を信奉している者が数居た。
 一方の李帝にも、もちろん色好みはあったが、それ以上に勢力の拡大を重視しているようで、人間世界の闘いに乗じ、妖怪世界で勢力を伸ばす事に注力しているらしかった。そのために各地から猛者を集めており、その猛者達を近衛と呼び、何かと言うとこの近衛達を傍に侍らせ、可愛がっているという。
 李帝が今、一番必要としてるのは、戦争の役に立つ人間だ。
 自分の身体条件を鑑みて、一番頼りになるような武人にはなれない事をわかっていた鶴は、情報戦略に長けた者になりたいと考えた。鶴は精霊故に、動物や草木の言う事がわかる。大陸語を覚えた今なら、それらの言う事を上手く使って、李帝に有益な情報を有む事が出来るだろう。伝令役の中で地位を確立し、情報役になるまでに一年掛かった。

 思えば船の中で、週に何度も李帝の傍に行けた日々が一番幸せで、恵まれていた。鶴は情報の運び屋として、李帝に有利な情報を届けたが、これは李帝に直接伝えられず、李帝の参謀に伝えるのが習わしだった。李帝は時々、鶴を見つけると「可愛いツル」と声を掛けてくれたが、時間のない李帝は数分と鶴の傍に留まってはくれなかった。
 李帝は武功を立てた武人の事しか見ておらず、気に入りはいつも武人の中から登場する。李帝の脇を固める近衛の武人たちは皆、鶴には逆立ちしても出来ないような武功を挙げており、こそこそと武芸を嗜んでいる鶴に、間接的に惨めな思いをさせた。
 城の中の、李帝の部屋に続く道に、伝令で近づくたび、決してその奥に居る李帝の元に行けない、近くて遠いその距離に、鶴はいつも涙が出そうになった。鶴が報告をしている最中、武人に囲まれた李帝が通る事もあり、その度に李帝は「可愛いツル」と声を掛けてくれたが、それだけである。まるで飼い慣らした珍しい鳥や獣を呼ぶように、李帝は鶴に声を掛ける。決してそこから先、信頼して傍に置くというところまで、鶴を近づけてくれない。

 三年が経ち、やっと鶴の武芸が花開き始めた。
 鶴は知略を駆使して、最小限の武力で武功を挙げる術を覚えた。今や情報役の顔である。情報役として、各地を回りながら不穏な種を潰す。この働きは李帝の心に響いた。
 鶴がただの情報役であった頃、決して入れて貰えなかった李帝の部屋に、他の武人に交じり、入室を許された時、鶴は胸が始終高鳴って苦しかった。見栄えの良い体格の、他の武人たちに比べ、鶴は貧相で頼りなかったが、力比べの席を設けられても、少しの力で大きな者を倒す術を持つ鶴は、決して負けっぱなしではなかった。天賦の才を持つ者には勝てずとも、腕力だけで物を言って来た中堅の近衛には勝利した。
 李帝はもう鶴を「可愛いツル」と呼ばず、信頼の目で、「ツルの意見が聞きたい」と言った。鶴は李帝のために働くのが嬉しく、武功を挙げるのが楽しく、自分が精霊である事が歯痒くなる程、血生臭い場所で生きる事に慣れた。敵を仕留める時は、部下にやらせなければならないのが面倒で、何度も自分で手を下そうとしたが、精霊の能力である動植物の言葉を失うのが怖かった。動植物の言葉を頼る以外にも、情報を得る方法を知っていた鶴だが、鶴にしかないこの能力を、李帝が褒めてくれるので、鶴は己の手が血で汚れないよう、常に気を配って生きていた。
 
 李帝の部屋に、出入りが許されるようになってから五年、一人だけ李帝の部屋に呼ばれた。李帝の部屋は広く、いくつもに分かれていて、そのうちの客間として普段使われている場所、柔らかい綿袋や絹が何十にもひかれた部屋に通された。
 李帝は寛いだ装いで、少し胸元の緩い姿だった。性的な匂いがして、照れている鶴に李帝は笑って手招きをした。
「俺の発音は可笑しくない?」
 耳を疑ったのは、李帝の口から出た言葉が、倭語であったため。
「どうして、その、発音は綺麗ですが」
 鶴は目を白黒させて、李帝を見つめた。
「ツルとツルの国の言葉で話がしたいと思った、・・・ツルが先にこちらの言葉を覚えてしまったから、悔しかったよ」
 李帝の声は優しく、気品に溢れていた。
 倭語に久しぶりに触れ、その懐かしさも胸に染みて、ぽろぽろと涙がこぼれた。
「もったいない事です」
 やっと絞り出せた言葉を、李帝はするりと受け流した。李帝の、今度はぬるく滑る手が鶴の長く伸ばした髪を梳いた。
「可愛いツル、ツルは頑張り屋だね、ここまで力を付けるなんて思わなかった。……俺はもう千年以上生きているけれど、こんなに胸を熱くさせられたのは、ツルが初めての相手なんだよ。だからこうして倭語を学んで、ツルの言葉でツルが好きだと伝えようと思った」
 顎を持ち上げられ、目の前に笑う李帝が居て、鶴は自分がもしかすると、李帝に性の対象として見られているのではないかと思った。その考えは浮かんでからぎゅぅっと鶴の胸を締め付け、その事が何か悪い事のような気持ちが起こった。もし、李帝に夜伽を求められたら、その時自分は李帝を満足させられるのだろうか。誰とも通じた事のない、初心者中の初心者である鶴の性技に、李帝は幻滅してしまうのでは。
 その恐怖が鶴の全身から力を抜き、鶴の身をくたりと床に溶けさせた。
「ツル?」
 心配する声で呼ばれ、鶴はまた泣いた。せっかく李帝から好意を得たのに、万全の準備のない自分が憎かった。
「まだ早いです、私にはまだ早い、……申し訳ありません」
「可愛いツル、俺が怖いの?」
 李帝の声は優しかった。頭を撫でられて、こくりと頷く。
「そう、それなら、怖くなくなったら教えてね」
 あっさりと、李帝は鶴の拒絶を受け入れて、鶴の前から姿を消した。おやすみ、と穏やかに言い捨てて、寝室に消えた李帝に、鶴は申し訳ないやらほっとしたやらで、何とも言えない感情を向けたまま放心してしまった。
 世話役の一人に追い立てられて、李帝の部屋から帰ってからも、放心は終わらなかった。
 李帝は鶴のために倭語を覚え、鶴を好きだという。
 朝の城は騒がしく白い陽光が降り注いで眩しい。鶴がこの先、己を犯した妖怪を手に掛けて動植物の言葉を失うまで、ずっと鶴の話し相手をしていた鳥がやって来て、放心した鶴の顔を可笑しいと笑った。この鳥は後々、鶴が言葉を失ってからも、鶴のために良く働いたが、この時程鶴の役に立った時はなかっただろう。
 鶴、李帝が部屋から見てるよ、変な顔はやめな。
 鶴は一瞬で顔を直し、李帝の部屋を振り返った。鶴を含む近衛が眠る寝所は、李帝の部屋の傍に揃っている。李帝が鶴に笑いかけるのが見えた。鶴は自分が、李帝の特別である事を意識した。
 次に学ぶ事は、性技である。これを覚えれば、鶴は他の武人たちよりずっと、李帝に気に入って貰えるだろう。



2016/07/13