からめ

『海のイロ』(危険色男×強気女子)

 泉岳寺の裏にある竹林で、その子は生まれた。明け方まで男同士の荒々しい性交が行われていた寝屋に、朝日と共に強いエネルギーが発生した。神々の知らせを受け、すぐに駆け付けた。

 我々が現場に着くと、二人の土親は恥ずかしそうに乱れた身を正しながら、宝箱の上を降りた。その宝箱は、よく中堅の妖怪同士が愛用する何の変哲もない木箱で、側面に数箇所、猫が抓を研いだ跡があるばかりでなく、所々得体の知れない液の沁みがついていた。こんな汚い箱の中に、本当に、神格を持つような大妖怪が生まれているのか。しかし、生まれていた。

 後に洋次郎と名付けられたその子は、玉のようにつるりとした頬を涙で湿らせ、ぱかんと口を開けて私を見ていた。形の良い目鼻を少し寂しげに曇らせ、良く通る優しい産声を上げていた。箱の中に半分程敷かれた白っぽい土の中、もぞもぞと可愛く蠢くその子を一目見て、私はその子を愛しく思った。そして、衝動的に産みの親より前にその子を胸に抱いた。土の中には、恐らく土親の一方のであろう白い羽が大量に紛れていて、その子の頬や胸、腕や脇を包んでいた。これだけの羽を毟る作業は、相当痛みを伴ったろうと思い、やっとそこで罪悪感に襲われたが、それは後の祭りだった。

 振り返ると、白い羽の持ち主、土親の一人、鶴 永吉(つる えいきち)と目が合った。寂しそうな悔しそうな、不安げな顔をしていたが、それが貴方の宿命なのだと心の中で言葉を投げ、私は笑った。頭に、私の産みの親、蛇種の女の顔が蘇った。あの女も、産まれたばかりの私を奪われた時、あんな顔をしたのだろうか。

 

 親より強く産まれるこどもが親を殺さぬよう、神々は役人『育師』を作った。倭国には私や洋次郎のように産まれる数日も前から、神々によって誕生を予知され、祝われる大妖怪が数十年に1度、出現した。その力の強さは貴重であったが、同時に脅威でもあった。だから育師である私には、洋次郎を保護し、育てると同時に、洋次郎を監視し、躾ける義務があった。

 

「洋次郎、洋次郎!」

 よく通るはっきりした声で、中庭を異様に綺麗な顔をした岡引、洋次郎の土親、永吉が駆けて来る。日暮れの中、洋次郎は相撲遊びを終え、衣服を直していた所だった。私と洋次郎の暮らす屋敷は、洋次郎の二親が暮らす泉岳寺の竹林から南に歩いて半刻程の所にある貴船明神の裏林、立派な門構えに門番が付いて、でんと建って居た。

 洋次郎は永吉の姿が見えると、慌てて私の足にしがみつき、ぷいっと永吉から目を逸した。一方で永吉は、あっという前に、私と洋次郎の元に来た。

「永吉さん、怯えていますので」

 怯えるべきなのは永吉の方なのだが、この可愛らしい新米親は、我が子の異常をわかっていない。己が嫌われているのだと思い、傷ついた顔をして頷いた。

「わかってるよ、これ以上は近づかねぇ」

 洋次郎は永吉への興味と、喪失の予感に怯えていた。砂細工を手で持つ、恐怖感。洋次郎が永吉に抱いていたのは、壊してしまいそうで怖い、この気持ちのみであった。しかし産みの親が憎いはずもなく、洋次郎は困惑していたのだ。

「なぁ洋次郎!」

 証拠に、永吉が洋次郎に声を掛ける度、ぎゅっと私の足に捕まる洋次郎の腕の力が強まった。

「なぁ、……どうして俺を怖がるんだ?俺はこんなにおまえと仲良くしたいのに、おまえには俺の成分が入ってるんだぞ?おまえは俺から産まれたんだぞ、なぁ、頼むよ、少しくらい口を効いてくれ」

 永吉は毎日毎日、朝夕、会いに来る。乳飲み子の頃は、永吉の腕に収まる事もあったが、己の足で動き回るようになってから、洋次郎は永吉に近づかなくなった。

永吉はそれでも洋次郎に会いに来る。時々、もう片方の土親である赤鬼 実道(あかき さねみち)も伴ってやって来た。しかし、二人を前にして、二人がいくら洋次郎を呼んでも、洋次郎は頑なに私の足から離れなかった。

「俺もここで暮らしちゃ駄目かなぁ」

 ある日、永吉が相談をしに来た。

「下男のような仕事でも良い、何か役に立ってみせるから……」

 思いつめたような顔をして、着物の裾をぎゅっと掴み、耳を真っ赤にして下を向いて、ああ、限界なんだなぁ、と私は感じ取り、洋次郎に目配せした。洋次郎は私に良く躾られていたので、別室に去って行き、込み入った大人の話を聞かないよう気を遣った。

 そんな私達のやり取りを、永吉は羨ましそうに見た。

「なぁ、俺の子なんだよな?俺と、実道とで作ったんだよな、あいつ」

 力なく、ぽつんと、確認されたので頷く。

「確かに貴方々の成分で出来ています、特に貴方の成分が強く、あの子は鶴種です」

「……っ、……わかるよ、顔が似てるもんなァ」

 ついにボロボロと泣き出した永吉を、私は申し訳ないような、気の滅入るような思いで眺め、溜息をついた。

「育てたいですか?」

「当たり前だっ……、どうして、こんな酷い事が出来るんだ、……アンタが強いのは良くわかる、この屋敷に居る奴ら全員、俺なんか一捻りなんだろうな、……それでも、あいつは俺の子なんだ……っ」

「お返しする事は出来ません」

 鋭い喧嘩ごしの声色で言い切り、私は永吉を言葉で突き飛ばした。

「あの子はもう、私の子です」

 そして、恐らく、言ってはいけなかった言葉を吐いた。神から選ばれた親は私であり、永吉には物理的に洋次郎を育てるのは無理で、洋次郎も私に懐いている。この事実に、私は油断していた。

 私は永吉をとても下に見ていたのだ。八百年以上の時を生き抜いた大妖怪であるとはいえ、無害な鶴種である。何か出来るようには思えなかった。しかし、永吉は私を格闘術で気絶させ、この日、手薄だった屋敷から洋次郎を攫った。

 愛しい子どもの喪失。私に甘え、私を愛し、私を尊敬して、私の言葉を信じ、すくすくと育っていた小さな生き物が、急に消えてしまった。もし、産みの親に心を乗り換えられたら。私と洋次郎の縁よりも、実の親である永吉との縁の方が、洋次郎には太い繋がりだ。私は、洋次郎を誰にも取られたくないと思う自分の気持ちに気がついた。もし、洋次郎が永吉に心変わりしていたら、私は永吉を殺してしまうかもしれない。

 永吉と洋次郎は結局半年間、行方知れずだった。妖世で同心の職に付いていた実道も、事件から五日後に免職処分を受け行方を眩ませた。この処遇に私は腹を立てた。まるで、実道を二人の元に送り出すようなものではないか。内部に、裏切り者がいる。信じられない事だが、私から洋次郎を奪った憎き永吉に、世間は同情的だった。

 親子の縁は百年で切れる。短い間しか惹かれ合えない間柄だから、限りある時間を共に居させてやろうという発想だ。

 私は洋次郎の居ない、冷えた淋しい屋敷の中、膝にのせた洋次郎の着物を撫で、涙を堪えながら、呟いた。

「何故……」

 百年で醒めてしまう親子愛が、何故、こうも慈しまれるのか。親子は百年で、互いから興味を無くすように出来ている。期限の切れた親子愛は、次の繁殖に害を為すものとして、今度は嘲笑の的となる。しかし、私に洋次郎との血の繋がりはない。私は洋次郎が百を過ぎても、洋次郎を愛しているだろう。

 三人の出奔から七日目、私はついに自律神経をやられ、情緒不安定になった。そして、身勝手な土親どもを捕らえたら、きっとこの手で殺してやろうと考えた。あの綺麗な岡引の永吉は、罪人の小屋に放り込み、汚い罪人どもに散々陵辱させてから、四肢を引き裂いてやろう。永吉の監視を怠り、永吉がこのような凶行を起こすのを止められなかった実道には、永吉の無惨な姿を見せた後、鋸で首を落とし首だけを封印し無限の苦しみを与えてやろう。

 妄想を膨らませて、自分を慰める。

 そうでもしなければ、心が耐えられなかった。本気で探せば、見つからないわけがないのだ。捜索隊も世間の目も、グルになって私から洋次郎を隠している。私は誰も頼れず信じられず不眠症を患い、夜中の徘徊を始めた。闇の中を歩いていると、私はこの世にたった一人きりの、無意味で寂しい存在なのだという暗い気持ちに支配された。

 そしてある日、思い立って実道と付き合いの長い私の父親、青鬼 涼衛門(あおき りょうえもん)を呼びつけた。涼衛門は齢千を超える堂々たる鬼種だが、私の方が、妖怪としても役人としても格上である。私は涼衛門が何か私を諌めるような言葉を吐いたのを皮切りに、涼衛門が私に隠している事があると難癖をつけ、涼衛門を拷問した。ボロボロの涼衛門を眺め、私は私の中に産みの親への愛が欠片もない事に気が付いた。そして安堵した。この男は私の親であって親ではない。

 来る日も来る日も涼衛門を甚振った。

 その悲鳴が外に漏れ出すようになった頃、三人はひょっこり、戻って来た。後で聞いた話では、三人は可哀想な涼衛門のため、戻ったらしい。信じられない事に、涼衛門は私に捕らえられる前、実道に向け救援を求める文を送っていた。涼衛門は、己の身が実道に対し人質となることを分かっていた。涼衛門は実道をおびきよせ、私に、洋次郎を取り返させるため、私の元に来ていたのだ。涼衛門は、洋次郎を奪われて気の触れた私を救おうとしていた。それは恐らく親の愛。

 ……三人の居場所を知った私は、しかし洋次郎を取り返すことを諦めた。涼衛門が私を助けたように、いつか、永吉と実道が洋次郎を助けるかもしれない。洋次郎のために、二人を生かそう。

 

「亀の旦那、いらっしゃいましたよ」

 がやがやした茶屋の裏口で、店員が私のため、私の恋人を呼んだ。品川にたった一軒だけの陰間茶屋『亀屋』は、元は芳町にあった有名陰間茶屋から暖簾分けし、人世と妖世の両方に向けて店を開いている大茶屋だ。寺の多いこの地で、坊主達を上客に大層賑わっており、酉の刻には広間が客で一杯になる。

 私は飾り気のない格好に、お粉と紅だけ上物をつけて裏口の井戸に腰を掛け、恋人、亀 長蔵(かめ ちょうぞう)を待った。

「海」

 よく響く深みのある長蔵の声が、裏口の玄関から私の名を呼んだ。長蔵は妖怪らしく髷のない野放図な髪型をしていたが、それがよく似合って粋に見えた。無造作な黒髪が鼻に掛かって色っぽい。歌舞伎化粧のように整った大きな目が見栄え良く、赤い唇や小ぶりな鼻もひっくるめ、長蔵は派手で色男だった。着物も季節に合わせて上等なものを揃えるし、女を連れての遊び方が、とても巧かった。

「少し痛い思いをさせるかも」

 すぐ近くに来た長蔵の身体から、爽やかな香の薫りがし、私は頬を染めた。長蔵程の良い男が、どうして私のような大して美しくもないただの女を相手にしてくれるのか。

「別に良いよ」

 それは恐らく、私が長蔵に与える事の出来る安心感。

「私は簡単には死なないから」

 私は、強く産まれた。

 身体に長蔵の腕が回ると、言い知れない幸福感で全てを忘れた。可愛い洋次郎の事も、忘れられた。

「ぅ゛……っ」

 強い痛みに思わず悲鳴を上げ長蔵を抱き返す。

 長蔵は亀種といい、生き物の魂を吸う妖だ。

 普通は誰からどのぐらい魂を吸うか調整出来るそうだが、愛すると加減が出来なくなり、強く愛する者程、早く吸い殺してしまうという。

 全身の骨が、じゅわりと溶けるような感覚に目の前が白む。長蔵が背中を摩ってくれたが、身体の芯が泡立つような熱い痛みを覚えている中、何の慰めにもならなかった。

「苦労掛けるな」

 私の痛みを察し、長蔵が離れるとやっと痛みが引いた。長蔵は私と、長蔵の力が及ばない腕二つ分の距離を取った。

 ふとして長蔵を見てしまった。すっきりした顔の慈愛に満ちた目が私を捕えていた。長蔵は過去、何人もの恋人や伴侶を愛で吸い殺している恐ろしい男だったが、私はちょっとやそっとの事では死なない莫大な妖力を持って居た。

 私は私の余裕を伝えるため、するりと長蔵に近寄ると、長蔵の腕にピタリとついた。途端に、また骨が軋むような痛みが全身を駆け巡り、長蔵が私を愛しく思ったのがわかった。背中を撫でられて口付けされると、ふわふわと足元が温かくなる。

「痛いか?」

 長蔵はいつも不安そうに聞いてくる。私はその度に「痛いよ」と事実を伝えた。

「もっと、痛くして」

 しかし私は耐えられる。この痛みは私が長蔵に愛されている印なのだ。

 初めて長蔵と交わった夜、骨の溶ける痛みと肉体に受ける喜びの板挟みで気を失った。『亀屋』の地下にある狭い休息室で、私は生まれて初めて、産みの親達に感謝した。私を産んでくれた事、長蔵に愛される強い女に作ってくれた事。産みの親は偉大だった。

「海」

 耳を浸す、低く響きの良い声で、長蔵が私を呼んだ。この頃、痛みはもはや骨の中を空にする勢いで、私を襲って来ていた。近いうちに死ぬと予感していたが誰にもそれを言わなかった。

 私が死にそうだとわかったら、長蔵は私と距離を置くだろう。

 暗く陰っている顔色、やせ細った体つきがわからぬよう、私は我が身に実装を施し長蔵と会った。長蔵は以前より用心深く私を観察し、辛くなったら別れるから、絶対に無理をするなと言った。

 それから、土子を欲しがる私を慰めるように、陰間にするために買われて来た見目の良い子どもを宛てがった。その子は草太といい良く私に懐いた。

 妖が消える瞬間は、よく煙や風や夢に例えられるが、私の場合は砂のようだった。まず実装がパラパラと崩れ、弱りきった醜い中身が晒された。丁度、『亀屋』の二階で、長蔵と昼寝をする約束があり、段を登ろうとする所だった。何人もが同時に上り下り出来るような広い作りの階段で、右側にあった大きな窓からは陽の光が一杯に降り注いでいた。

 段を登ろうとした私に、長蔵が手を差し伸べようとしたその時、私は崩れて消えた。

 目の前で起こった出来事の衝撃に目を見開き、乱暴に私を手繰り寄せようとして腕を伸ばした長蔵の、何か悲鳴に近い大きな呼び声が耳に残った。

 

 それから時が経ち、私が甦生されたのは昭和初期、愛しい洋次郎の手によってであった。後で聞いた話だが、永吉と実道は洋次郎を江戸から少し離れた川越の地で育てていた。川越迄、江戸の噂は良く届く。洋次郎は私の訃報を聞き江戸に戻ったという。

 永吉に優しく育てられたためか洋次郎は長蔵を恨まず、私を復活させる事を私の死に場所に誓うだけ、誰の事も責めなかった。

 私は長蔵に命を吸われながら、十年以上生きた大妖怪であったため、永吉にはもちろん洋次郎の力を持ってしても、簡単には復活させる事の出来ない難易度の高い生き物であった。次第に洋次郎は己の能力を高める事に夢中になり、その過程で悪魔と親交を深めた。

 悪魔の師に言われるまま悪魔の国ガリアに渡り、悪魔の恋人を作ると、洋次郎は私や土親達や、倭国を捨てた。生まれながらに定められた、倭国守護市民の役目を放棄し、悪魔の国ガリアで一級市民の地位を得た。

 さて、洋次郎は誰の所為で狂ったのか。長蔵に夢中になった私の所為か、私から洋次郎を攫った永吉の所為か、悪魔に魅せられた洋次郎自身の所為か。誰の所為でもない、必然だったのか。

 洋次郎はガリア国の上司に命じられるまま、土親である赤鬼を葬り、もう片方の土親である永吉に陰間業を営ませ金を作った。この陰間業の所為で、永吉は気の可笑しい客に気に入られ、連れ去られて身を滅ぼしたという。

 今、『亀屋』の大階段には悪魔達の好みで赤絨毯が敷かれており、私はそこで甦った。すぐに長蔵に会いに行こうとした私を、洋次郎は叱った。私は長蔵に殺されているのだ。愛し合っていたとしても、被害者と加害者。接近は二度と許されない。しかし、あれは私が私の体力を隠蔽して起きた不幸な事故だった。何度そう説明しても、洋次郎は聞く耳を持たなかった。

 私はしばらく洋次郎と暮らしたが、長蔵への想いが日に日に増して、ついに洋次郎の目を盗み、『亀屋』を飛び出した。

 長蔵に会いたい。長蔵の居ない『亀屋』で、長蔵の思い出に縋り生きていくなど耐えられない。長蔵に会う事を禁じる洋次郎は、もう私の可愛い洋次郎ではない。

 探し出した長蔵は戦地に居た。

 妖怪の世界には、男女の差は余り無い。女でも能力があれば戦士として優秀な働きが出来る。私は傭兵の職につくと長蔵を追った。魂を吸う長蔵の力は、戦地でこそ華咲く。長蔵は目覚しい活躍をしており目立ったため、すぐに巡り会う事が出来た。

 むっと粘りつく湿気と熱射が襲い来る南の島、波の荒い満潮の海辺で、甲冑を洗う見覚えのある大男を見つけた。薄灰に藻色の不思議な模様が入った甲冑を、熱心に擦る背に声を掛けた。

 振り向いた長蔵は私を見ると真っ青になり、甲冑から手を離した。見る間に、恐らく特注であろうお洒落な甲冑は海に攫われ、ぷかぷかと沖に浮いて行った。一方、長蔵はその場に根づいたよう動かず、私を凝視していた。

 私は長蔵に駆け寄ると、洋次郎が復活させてくれた事、また長蔵と共に生きたい事を告げ、長蔵を抱き締めた。長蔵は私を受け止めると、条件反射のようにぎゅっと抱きしめ返し、背中を撫でた。それから丁寧に私の身を己から引き剥がすと、私の頬を叩いた。

 苦しそうに、息と声を丸めてなるべく感情が漏れぬように気をつけて、長蔵は私に、この先ずっと何があっても長蔵が私を愛す事は無い事、私に二度と長蔵の前に姿を見せないで欲しい事を告げ、この地を立ち去るよう言った。長蔵の目は、私に強く失望し、今後、決して私に心を許さぬ決意を宿していた。

 自然と、涙は出て来なかった。それ程のむごい苦しみを、私は長蔵に与えてしまったのだと、自省するばかりだった。

 その日、傭兵の宿舎に戻ると洋次郎がいた。横に、私の後に復活させられた、私と同じ長蔵の寵愛を受けた影間、白百合も待ち構えて居た。白百合もまた、長蔵に拒絶されたらしく、不貞腐れて居たが、同じ想いをした私を見つけると愉快そうに笑った。洋次郎は長蔵をガリアに引き入れるため、白百合に色仕掛けをお願いしたそうだが、作戦は失敗。

 翌朝、長蔵は島から姿を消した。単体の戦力として登録されている長蔵の移動は早い。これまで月に1度は耳に入って来た噂もなくなり、長蔵は完全に行方知れずとなった。

 当時、急に消えた長蔵の事を戦死したものだと考える者が多数で、洋次郎に下されていた長蔵に関する任も無くなった。私と白百合は長蔵を追う旅に終わりが来た事を、長蔵の死と錯覚して嘆いた。洋次郎は清々していたようだが、白百合は私と同じ哀しみを抱えていた。私は白百合と手を取り合って泣いた。

 それからの私達は洋次郎の任に合わせて動き、倭に対する裏切りを重ねて行った。私達が追われる身になったのは、終戦の近づいた真冬。新雪を私達の血がポツポツと赤く染め、寒さは白百合の足指を一本と私の手指を二本奪い、洋次郎の綺麗な顔に赤切れを無数作った。追跡者はシャカシャカと密やかな足音で迫り、急に近づいて来ては私達を負傷させていった。

 三日三晩、攻防を繰り広げると、私達はいよいよ追い詰められた。洋次郎の先導でユーラシア大陸の山間部。強力な王の治める中立国、李に逃げ込むと、やっと追跡者の攻撃が止んだ。弱った妖力で100mごとに移動を重ね、辿り着いた私達を李の住民は保護した。

 およそ二ヶ月の滞在で、白百合の足指と私の手指は生え揃い、私達は李を出られる身体になった。しかし出発日の前日、事件が起こった。

 私達は李帝に呼び出されたのである。

 李という国の地表は雪で覆われ、凍てつく痩せた大地が物悲しい。対して、地下世界は暖かく豊かだった。李帝は自らの居城と中央政治組織と、飛び穴だけを厳しい地表環境に置き、住民に過ごしやすい地下を使わせていた。地下世界は二層まで出来上がっており、妖だけでなく、迷い込んだ人間も住んでいるようであった。

 私達は地下二層にある難民支援施設で一時保護され、それから一層の宿に移った。二層のごみごみして力強い、少しだけボロな雰囲気も魅力だったが、一層の洗練された都市の景色に私は惚れ惚れした。そこは悪魔の作り上げた街に良く似ており、洋次郎に連れられて訪れたことのあるガリアの街並を彷彿とさせた。戦いを好まぬ悪魔達を受け入れていたら自然と磨かれて輝きだしたらしい。

 李帝に呼び出され、訪れた地表の中央政治施設は大陸的な雰囲気のどっしりした建物が揃い、私達を厳かな気持ちにさせた。

 多忙な王は私達を城に軟禁した状態で五日間姿を見せなかった。待たされている間、私達は李帝の身辺を世話する者達との会話を楽しみ、時を過ごした。というのも、李帝の居城には極端に余暇を楽しむためのものが無い。書物庫か休憩目的の空間しかなく、何かをして遊ぶ事が出来なかったのだ。一層に戻って街をぶらつき、愉快に過ごしたい気持ちを抑え、私達は李帝の噂だけを楽しみに毎日を過ごした。

 聞くところによると李帝は現在、寝る時間も取れない状況が続いており会議や報告会の休憩時間であるぶつ切りの一時間を睡眠にあてるため、寝具を運ぶ専門の者が付いて回っているという。ここ半年の間で、まとまった睡眠時間は三時間が最長だという話を聞いた時、寝汚い白百合が悲鳴を上げた。

 そうまでしないと、被支配的な立場に追いやられた妖怪国が、好戦的な悪魔の国々に立ち向かい、且つ戦いに巻き込まれず中立を守る事は難しいという。

 やっと李帝と対面をしたのが李帝の居城に入って五日目、天井の高い謁見の間に入ると、緊張で足が震えた。

 過去に『育師』をやっていた時、神々から何か仰せつかる時のドキドキする身体の反応が、久しぶりに現れて背中に汗を掻いた。次第に李帝の周辺を守る者や報告をする者、命令を受ける者などであろう沢山の関係者が姿を現し、これから国の統治者と会うのだという圧力が、私達三人を押し潰した。いよいよ李帝が姿を現すという知らせが、乾いた石を叩くような合図で謁見の間全体に響くと、関係者達が一斉に黙った。無言の人ごみが作る堅い空気に、私達はいそいそとひれ伏した。

 仲の良い李帝の世話係がやって来て、ひれ伏す必要は無い事を伝えてくれたが、私達はなかなか顔を上げられなかった。特に白百合は生まれも卑しく妖力も私や洋次郎程では無い事を気に病んでか、頑なに床に額を擦り付け体勢を崩さなかった。

 少しすると、王座の置かれている台の上にテーブルが運ばれて来て、それと一緒に李帝が歩んで来た。端正な顔立ちに薄い化粧が映え、洋次郎のような天然の人形顔とは別に、神々しい美しさを内側から発していた。

 この目の前の人物が、あの豊かな李国を興したのだ。貧しい荒地の小国を中立の強国に迄、統治して高めたのだ。私は純粋な尊敬の眼差しを、李帝に向けた。

 白百合は頭を地に付けたまま。

「渡したいものがある、おいで」

 李帝は短く言うと、テーブルに数枚の封筒を置いた。

 李帝の意図がわからず放けている私達を半ば力ずくで、世話係数人がテーブルまで運んだ。白百合は青い顔で震えていたが、胆力で表情だけは平静を取り繕っていた。洋次郎はいつになく暗い目をして、白百合の青い顔を伺った。

「そんなに怯えないでよ、……今は殺さない」

 私にはおよそ検討が付かなかったが、二人の顔に安堵が見えたので、どうやら私達は李帝に殺されるような何かをしてしまっていたらしい。李帝の物騒な台詞が原因で、私までさぁっと青くなった。

 しかし、李帝は私達三人の顔色の変化を見ても、表情一つ動かさなかった。ふと、瞬きが一つ。李帝が動くのにつられて、私はやっと簡素だが見目の良い李帝の衣服に気がついた。李帝の手元、卓の上にのった茉莉花の入った真っ白の陶器を含め、一枚の絵のように綺麗だった。

 李帝は私の見惚れる目には気が付かず、すっと一枚の封筒を洋次郎に突きつけた。

「これを読んで」

 李帝が最初に、卓に置いた封筒の一つ。洋次郎はその封筒を手に取るとすぐに中に入っていた紙を広げた。それは西洋の紙と筆で作られた永吉の手紙だった。

 内容は実に典型的な親の手紙で、倭に残して来た洋次郎を気遣うと同時に叱責するもの。洋次郎がガリアに騙されている事、それをわかっていながら目を覚まさせてやれない自分の無力や、洋次郎のこれからの心配。

 洋次郎は顔を顰め、一つ目の封筒に入っていた手紙を読み終わると、二つ目に手を出した。李帝はじっと洋次郎を眺め、ふとすると手紙の文字を睨んだ。

 洋次郎の横に座って居た私からは、手紙の文面が読み取れたのだが、内容は回を追う事に稚拙になり、己を責め続けるもの、洋次郎を責め続けるもの、思い出の箇条書き、と余裕の無い鬼気迫ったものになり、永吉の精神が追い込まれて行ったのがわかった。

 最後は、幼子の書いたような大きくて震えた、でこぼこの筆跡で『くるしいから、たのむ。まだいきてるうちに。たのむから。かなしいからもうおわりたい。つらいけど、おまえにあいたいからいきてるから。まだいきてるから、あいにきて。たのむから、おねがいだから、たのむから。たのむから。あいたいから。たのむから。洋次郎 洋次郎 洋次郎 洋次郎』と紙の終わりまでずっと名前が羅列されている。その紙はクシャクシャにされた後のような、全体がしわしわのみすぼらしいものだったが、一番永吉の想いが正直に詰まっていたように思う。

 手紙を眺める洋次郎の顔は、能面のように平坦だったが、洋次郎を見つめていた李帝の目には怒りの涙が溜まっていた。

「こんなものがあるから、俺はおまえを殺せない!」

 絶対権力者の激昂に、どよめきが起こり人波が揺れた。洋次郎は手紙を前にして黙り込み下を向いた。その目からホトホトと涙が落ちて、私は何だか裏切られたような気持ちになった。私の親は育師から私を力づくで拐うような事はしなかったので、私は親に育てられた記憶がない。しかし、洋次郎にはあるのだ。

 それが羨ましいのか、単純に洋次郎の心が、永吉にも向いている事が気に食わなかったのか、良くわからなかったが、面白くなかった。

 面白くなかったのに、ほっとした。

「怖かったね、李帝」

 李を出てすぐの雪山小屋で、思い出したように白百合が呟いた。

「殺されるだろうと思ってたから、生かされて驚いてる」

 小屋の中央に設置された熱砂柱(ねつさちゅう)で、燃える鬼火の橙光が、洋次郎の人形めいた頬を照らしていた。熱砂柱は西洋の生物化学で生まれた暖をとる便利な道具だが、私にはどうして砂が柱のように溜まるのか、そこに鬼火が灯るのか。仕組みが一切わからない。李国に逃げて来た西洋悪魔達によって、このあたりの雪山小屋には全て熱砂柱が設置されているという。

 このような偉大な影響力を持つ李帝から、疎まれて怒鳴られた洋次郎が憐れで、私は自然と口数が減った。永吉は長生きで顔が広いため、李帝とも懇意にしていたのだろう。

 優しい李帝は旧知の友が陥った苦境に心を痛めて、今日、私達を呼んだのだ。

 可哀相な永吉が、あの手紙の後どうなったのか。私が知るのは数年後。倭国の川越、かつて実道と永吉が、幼い洋次郎を育てた地に、私達は屋敷を構えていた。永吉は、そこに、ある日ふらりと訪ねて来た。

 終戦から八年。まだ世間は混乱していたが、大分落ち着いて来ており、行方知れずだった知人や友人のその後が分かり始めて来た頃。永吉と洋次郎の、親子の縁が切れた頃。

 永吉は、あれだけ切ない手紙をしたためておいて、私と洋次郎の暮らしを見ると、洋次郎を私に託してくれた。洋次郎を私に託すと言っておいて、私達の家を出た後、三度もこちらを振り返って去って行った。