からめ

『お願いします、要さん』(マイペースエリート×庶民派苦労人、執着攻め×強気受け)

 お願いします要さん、と滝神に言われ、やって来たのは営業部フロア。透けた壁が全体を広く見せる設計が特徴的で、常に誰かが電話で外部と話をしており、フロアの至るところで簡単な情報交換や営業戦略などのやり取りの声が聞こえる。このフロアに入ると、要はいつもピリッとした気分になった。定時30分前、18時を過ぎているが喧騒は止む気配がない。

 

「お疲れ様で~す」

 右へ左へ、忙しなく動く営業の人間に、いちいち声を掛けながら、専用の掃除機を床に滑らせて進む。華やかな女子社員に愛想を振りまきつつ、フロア内を観察。要は一応、管理職なので、自分で好きな場所を選び働ける。これを知った滝神が、数日前、要にお願いをして来た。新人事で、営業部はどのようになったか。要に様子を見て来て欲しいという。

「野平センパァ~イ!」

 甘ったるい女子社員の声が聞こえ、顔を向けると第二営業部のマネージャー席で、新しくマネージャー職についた野平が乳のでかいろくろ首の女子社員から相談を受けていた。

「私の作った資料、ちょっとチェックして貰いたいんですけどぉ」

「ああ、共有に入れてたタンコロ劇場株式会社の?」

「はい~」

 先回りが得意で、指示の巧い野平に相談を持ちかける若手社員、というこの光景は、既に廊下や会議室でもよく見かけていた。野平を第二営業部のマネージャー職に抜擢した人物には、見る目があると思う。

 友人である野平の昇進に肯定的な気持ちも手伝い、要は笑みを浮かべた。一方で、赤鬼を欠いた第一営業部は、どこか緩んでいるように見えた。いつも恐ろしい形相で、フロア内を歩き回り数字の進捗を聞いていた赤鬼の姿がなく、代わりに部長席に収まっている新部長、鶴 永吉は覇気のない目で報告書を捌いていた。

 いつも一人一人が重い仕事を抱え、忙しく飛び回っている第一のメンバーが、ゆったりと珈琲を飲んで宙を眺めていたり、集まって雑談に花を咲かせている様子が気になる。前に来た時は、見なかった景色だなと記憶に留めた。

「要」

 後ろから名を呼ばれ、驚いて振り返ると鬼李が居た。営業部の野平と仲の良い要は、よく野平と親交がある他の営業部員とも飲みの席を共にする。鬼李とは数日前、居酒屋で知り合いになった。

「鬼李、さん?」

「もしかして、滝神から依頼受けて内部調査とかしてた?」

 少しだけ浮き出た鬼李の目は、細められると目玉の形がわかり怖い。どこか不気味な雰囲気さえなければ、それなりに整った鬼李の顔は、大陸めいており、日本妖怪との違いを感じる。インドや中国、ロシアの要素がバランスよく混じりあい、鬼李の顔は国籍不明の、異国的な情緒を漂わせている。根本は、鼻が高く彫りが深い、はっきりした顔立ちだが、細部が繊細で、アジアらしい細かい作りをしている。ゆるやかな垂れ目や小さな口が女受けしそうである。

「鬼李さん、今度、合コン行きませんか?」

 強力なライバルは、強力な磁石にもなる。鬼李のようなメンバーを揃えておくと、粒ぞろいの会合に呼ばれやすくなるのだ。

「君、俺の話、聞いてた?」

「あ」

 鬼李の顔に意識を取られていて、台詞が前後したが聞いていなかったわけではない。

「えっと、まぁ、確かに俺、滝神さんに様子見るよう言われましたけど、どうしてわかったんですか?」

 素直に応えると、鬼李は目を細めた。

「営業部の人事移動があってから二週目じゃん、このタイミングで普段ここのフロア担当してない人が紛れ込んで来たら気になるでしょ、しかもその紛れ込んで来たのが滝神の恋人じゃぁ、尚更ね」

 言い切ってから、にこりと人懐っこい笑みを浮かべる。

「俺の可愛い永吉が新部長になってから、緩んでる、とか言われるの嫌だから教えておいてあげるけど、第一は新しくユニット制を取り入れたんだよ」

「ユニット制?」

「同傾向の客を持つ人間で組織作って動いてるの、提案資料作ったり営業かけたりする時、事例を共有しやすいから作業効率が上がって、今までじゃ考えられなかった定時帰りも出来るようになったし、結構、皆喜んでるよ」

 鬼李の明るい声の裏、俺の可愛い永吉が築いた新しいシステム素晴らしいよな、なんか文句あるなら俺が相手だけど、という副音声が聞こえて来そうだった。

「へぇ、なんかよくわかんねぇけど、凄いんっすね」

 触らぬ神に祟りなし、と作り笑顔でさらりと受け流すと、そうなの、と鬼李は満足気に頷いた。

 

 怪PR社の上にある時の鐘から、地上に出て徒歩3分程。若い女性客に人気の小洒落た喫茶店があり、要はそこで滝神に珈琲を奢られていた。

要が昔、付き合っていた女に連れられて良く来ていた店で、雰囲気と味にこだわりを持っており、良質な休憩時間を提供してくれる。

 オシャレになりたいなどと言う滝神を、じゃぁオシャレな店にでも行きましょうかと軽い気持ちで連れて来た数ヶ月前。以来、二人のデート定番スポットになってしまった。

「いかがでしたか?」

「ん~、概ね、良い感じだとは思いますけど……、野平さんが上手くやれすぎててヤッカミ受けないか心配っすね、牛鬼さん? とか、昔は野平さんより評価高かったわけじゃないですか。それが今は部下みたいな形になっちゃってるし、あと、鵺さんでしたっけ、髪の短い女性の方なんかも、野平さんより古株だって話ですからね」

「まぁ、鵺さんについては野平さんより先に昇進の話があったので」

「えっ」

「子育てが忙しいからと断られてしまったんですよ、それで野平さんに話が行ったんです」

 滝神はにこにこと、要なんかに教えていいのかどうかわからない、重要な事をさらりと口にした。情報漏えいとか、問題にならないのだろうか。

「これは、野平さん始め、営業部全体が既に知っている事なので、大丈夫ですよ」

 要の気持ちを察したのか、滝神が言葉を付け足した。

「じゃぁ、後は牛鬼さん……」

「牛鬼は大丈夫だろ」

 要の横に、ちょこんと座った子どもが呟き、え、はぁ、と要は思わず気の抜けた返事をした。この子どもは一本と名乗る滝神の部下だ。要がいつものように滝神の待つ喫茶店に足を運ぶと、一本は既に、滝神の向かいに鎮座しており、おまえが要さんかと不敵な笑みを浮かべた。

「大丈夫っていうのは、何かもう、手を打って?」

「いや、あいつは野平の昇進に対して、負の感情なんか抱いてねぇって話だ、……あの伊達男は表舞台が好きだから、後方支援がメインになる管理職はむしろ積極的に引き受けたくないってのが本音だろう」

 子どもは長い前髪を揺らしながら、パニーニを頬張り、考察を述べた。ふっくらして柔らかそうな可愛らしいほっぺに黒い焦げカスがついている。すると、一本さん、付いてますよ、と滝神が眉を下げ、藍染の上品なハンカチでその頬を拭ってやった。滝神に優しくされた一本に、一瞬羨ましさを感じ、目を逸らす。

「……要さん、実は彼、牛鬼さんや野平さんと昔馴染みでして」

 そんな要の様子など気にも留めず、滝神は一本について解説した。

「へぇ」

 小さな子を前に、昔馴染み、などという言葉が出るのが面白くて、半笑いの顔になる。

「一本さんはこれで、元営業でして、営業人事のエキスパートなんです」

「はぁ」

 上司である滝神に少し持ち上げられ気味に紹介されているというのに、一本は我関せずなのか目の前の事に夢中なのか、恐らく後者だろう、下を向いて今度はパスタを熱心に頬張っている。小さな口が一生懸命、もぐもぐ動いており、うっかり父性に目覚めそうになる。小さな弟や妹の世話を数多くこなして来た要にはわかる、一本は実に可愛らしい子どもだった。要家の、目つきが悪く痩せた悪ガキとは一線を画している。何というか、大人を身悶えさせる類の、子どもの魔力を持っている。

「おい、要さん、あんまりじっと見んなよ照れんだろ」

 小動物を前にした女子のようなときめきを胸に覚えつつ、見つめていたら一本は視線に気づいて、顎を掻きながら窘めて来た。

「あ、さーせん、……なんか、その、可愛いなぁって思って」

 正直に言うと、ちっと舌打ちされる。見た目と言動のギャップが凄い。

「おまえ、稚児趣味とかじゃねぇよなぁ、もしそうだったら、ぶっ殺しちまうぞ?」

「や、そういう可愛いじゃねぇっす」

 幼児から危険な台詞が飛び出し、要は慌てて弁明した。

「要さん、気を付けてくださいね、彼、結構お強いので」

 ふざけた小声で、滝神が忠告を口にした。おいおい。

「あんたまで何言ってんだよ、ちげーってか、そっち方面で意識してる男とかあんたぐらいだから!!」

 まず男相手にそういう気持ちは起きない、という趣旨を伝えたかったのだが、滝神がさっと頬を赤らめたので、ぶわ、と額に汗を掻いた。しまった、変な事を言ったと後悔したが、言い訳する気は起きなかった。恐らく、頬を赤らめて喜んでいる滝神を、がっかりさせたくない、という気持ちがあるのだろう。俺、もしかして満更でもないのか? と滝神が自分を好いているという事実を、改めて振り返ると、こうして会うための時間を作っている時点で、答えは出ているのかもしれない。

「ヒュー、お熱いねぇ、見せつけてくれちゃって!苦戦してるって聞いたけど、もしかしてもうデキてんのか?」

 しかし、一本が幼児としてあまりにも酷い台詞を吐いたので、要は少し傷つき、思考世界から戻った。自分の妹や弟には、こういう言葉を覚えて欲しくない。一本にも出来ることなら、普通の幼児らしく、色恋の匂いには無頓着で居て欲しい。大人の中で働いて居るという環境が悪いのだろうか。

「えっと、一応聞くけど、一本さんは、お父さんやお母さんには何て言って勤めてるんだ?」

 もしかすると、見た目より遥かに生きている大妖怪なのかもしれないが、要の周囲は見た目と年齢の一致する妖怪ばかりなので、大人としての義務を感じ、小さな子の身辺状況を伺った。

「あー? 親なんかもう遥か昔に生き別れて行方知れずだなぁ、齢五百以上の妖怪は大体そうじゃねぇかな、あ、見た目が止まるの早くて若く見えるけど、俺、中身はオッサンだから」

 齢五百以上、と想像より遥かに大妖怪だった幼児に対し、固まった要の肩を滝神がぽんぽんと叩いた。オレンジジュースのグラスを、両手できゅっと掴んでいる一本の手は紅葉のように赤っぽくて小さい。この愛らしい少年が、五百年以上も生き長らえているというのだから驚きだ。地上に出られるような大妖怪の世界は、地下育ちの要の想像をいつも遥かに越えて来る。

 

 わっと歓声の上がっている第一営業部の様子に、驚きつつ要はいつものように、床に清掃車を走らせていた。本日も営業部の様子を見に、営業フロアを担当していた要は、不思議な気持ちでいつもより騒がしい第一営業部の中にいた。

 どこかのチームが、大きな仕事を受注したらしく喜びに湧いていたのだ。これまで、第一営業部と言えば個人で忙しく動いており、周りは全て敵、という空気も漂っていたのに。数人で手を叩き合い、やったな、ありがとう、おまえのおかげだよ、といった言葉を連発している第一の部員達は、別人のようにキラキラした笑顔を浮かべていた。

 その様子を見ていたら、要はますます、鶴が新部長になってから取り入れられたユニット制を肯定したくなった。理由は、部員の精神衛生面が、著しく改善されたため。前の、赤鬼による恐怖政治に晒されていた頃の第一部員達は、いつもピリピリして怒りっぽかったのだ。だから、このユニット制で、部員達が少し優しさを取り戻しているのが、嬉しかった。

 しかし先月から続いている一本と滝神との三人会議で、第一営業部の成績が鈍く落ち込んでいる事を、要は知らされていた。本部長となった赤鬼を、第一営業部長兼本部長という形で、第一営業部に戻そうかという話も出ているらしい。

 要としては、このままユニット制が定着するのを見守りたい。定着すれば、そのうち成績も伸びると思う。思いたい。しかし、営業は売上が第一の現場であり、外部の人間である要に、発言権などない。

 

 考え事をしていたら作業効率が下がり、いつもより仕事の終わりが遅くなった。清掃準備室で着替えをしていたら、隣接する医務室から離せ、嫌だ、という悲鳴が聞こえて来た。聴き間違えようのない滑らかな聞き取り易い声、新部長、鶴の声である。ぎょっとして急いで現場に走ると、半開きの戸口で、鶴と鬼李が揉み合っていた。

 医務室の中に連れ込もうとする鬼李と、嫌がる鶴の図に、要は自然と体が動いていた。

「何してんすか!」

 男らしく割入ろうとした瞬間、何かの重みで、ずんと床に縛りつけられる。

「関係ない人はすっこんでて貰えるかな?」

 鬼李の声には苛立ちが含まれていて、鶴がギリギリと身を医務室の外に出そうとするその抵抗が、鬼李にとっては対した事ではないのだと悟った。鬼李は、無理やり連れ込もうとしているが、加減している。恐らく、鬼李が本気で鶴を襲おうと思えば、もっと鮮やかに事を運べるのだろう。揉めているという事は、鶴の意思と正面からぶつかっているのだ。

「嫌だ、って何度言やわかんだ、糞、ちっとぐれぇ猶予しろっ」

「しない」

「……何でっ、急にこんな頻繁に、したがるようになったんだよ?こっちの精神状態も考えろ」

 鶴の喚きに、鬼李はきっと怖い顔を作ると、鶴の顎を掴んだ。

「永吉が赤鬼を呼び戻そうとして、手を抜くから悪いんだよ、……あいつのせいで、悪魔のトイレにされてた癖に、俺が助けなかったら今頃っ」

 バシンと、鬼李の頬が鶴に叩かれてあたりがしんとなった。

「やめろ」

 今度は消えそうな、息のような声で鶴が呻き、その瞬間鶴の身を、鬼李がぎゅっと抱きしめた。要は床から二人を眺めていたが、あまりにも日常と掛け離れた光景に、言葉も出なかった。

 ちゅ、ちゅ、と音が響き、鬼李が鶴の目元や首、指の先にキスをし始めた。鶴はその様子をぼんやりと見つめていたが、ふいに要に気がついて、ぎゃっと声を上げ鬼李に背を向けた。

「待て、鬼李! ちょっと頼むから、待て」

「もう、今度は何」

 鶴の視線をたどって、鬼李の目が、要に留まる。

「……あ、えっと、うん、ごめんね永吉、恥ずかしがってるとこ悪いんだけど、彼には俺達の関係、普通にバレてるから」

「あ?」

「……すっ、すみません、あの、その、鬼李さんと俺、友達で!」

 慌てて口を開き、事情を説明すると鶴はさっと青ざめた。

「おい、ふざけんなよ、……俺とおまえの関係って、……どんな風に話しやがったんだ、勝手にっ」

「どんな風に、ってありのまま話したよ?」

 実はそこまで、鬼李と会話をした事がない要は、ばつが悪く視線を逸らした。正直なところ、鬼李と鶴が出来ている、という事しか、要は知らない。

 しかし、鶴はその言葉を聞いてわなわなと震え、鬼李を突き飛ばした。

「全部……っ、全部ってどういうことだ、俺の許可なく、俺のっ」

 言いかけてぼろぼろと涙を零し出した鶴に、要はいよいよ焦ってその場を退散したくなった。悪事に、加担させられている気分である。

「さっきも、堂々とあんな、……ト、トイレとか言いやがるし」

 まだ百も生きていない要だが、長生きの妖怪達がまとめた妖怪の歴史から、悪魔による蹂躙の時代があった事を知っている。だから先程の鬼李の言葉から、鶴が過去に何か悲惨な目にあった事はすぐにわかった。

 鬼李はどうして、大事な鶴を辱める、あんな台詞を吐いたのか、無関係な要に、可哀相な恋人の傷口を開いて見せたのか。

「鶴は赤鬼のせいで、酷い目に遭ったんじゃん」

 鬼李がむくれたような声で呟くと、鶴は首を横に振った。

「あれは別に、赤鬼のせいじゃねぇ」

「赤鬼のせいだよ、赤鬼が弱かったせい、俺なら絶対、鶴をあんな目に遭わせないもん」

「鬼李、……おまえこないだから、もう過ぎた事を、今更、何だよ?」

「あのね、一度起きた事を、なかったことになんか出来ないでしょ、鶴は自分がどんな酷い目に遭ったのか、もっと自覚しなきゃ駄目だよ、人に知られるのが嫌な過去が出来ちゃったの、辛いでしょ? 赤鬼の傍に居たせいでしょ? 赤鬼がちゃんと守ってくれなかったから……」

 鬼李の言葉は強者の理屈で、要には理解出来なかった。鶴のような弱い生き物は保護されるべきで、保護する奴は強くなきゃいけない。という事なのだが、弱者には弱者のプライドがある事を、どうして強者は理解出来ないのだろうか。

「俺の身は俺が守る」

 案の定、鶴はむくれたように、呟いて鬼李を睨んだ。

「そんなこと言って、永吉、また、あんな目に遭っていいの?」 

 鬼李が詰ると、鶴は疲れた顔で、正面から鬼李を見つめた。

「いいわけねぇが、だからって、おまえに、……どうかこの弱い鶴種の永吉を、守ってくださいなんて、言えるかよ」

 鶴の顔には、怒りのような絶望のような、何とも言えない負の感情が貼り付いていた。

 長い沈黙の後、鬼李がそっと鶴の手を取り、乾いた笑みを浮かべ、ちらりと要を見た。

「ここじゃ、邪魔が入っちゃうから、家に帰ってて」

「家はもっと嫌だ、一回じゃ済まねぇ」

 鬼李は鶴の言葉を、聞いていたのかいなかったのか、ふっと妖力で鶴を包み、その場から消してしまった。それから要に向き直り、金縛りを解くと、丁寧に助け起こしてくれた。

「見苦しいところ、見せちゃったね」

「……あの、無理やりって、ちょっと、どうかと思いますが」

 思うところを素直にぶつけると鬼李は薄く笑った。

「俺も、どうかと思ってるよ?」

 わかっててやってるんだ、と暗に知らされ、要はもう一言もぶつけられなくなった。

「滝神に伝えてよ、永吉の実力はこんなんじゃないんだ、赤鬼に戻って来て欲しくて、手を抜いてる」

 鬼李の凄みに負け、頷くと鬼李は消えた。

 

 その日の報告は、いつもの喫茶店で伝えるには障りがあると考え、要は会合の場所を、滝神の家に指定した。秩父の山奥、長瀞石畳と言われる自然地帯に滝神の家はあった。

 妖怪メトロ石畳駅から登ると、あたりは石畳と表現されるにふさわしい、薄くて柔らかな石の畳の重なった、不思議な岩に囲まれた川辺だった。滑らかで美しい石の層は、妹の安栗が好むケーキ「ミルフィーユ」に良く景観が似ている。岩は、およそ岩と呼ぶにはふさわしくない、ふんわりと優しい雰囲気で、川辺に存在していた。

「綺麗な場所っすね」

「明日の朝の方が、きっと景色は良いでしょう、石畳は光の中で見た方が映えます」

 明日の朝、という言葉に、泊まりを促されたのかと判断し、要は少し考えた。もしかして誘われているのか。

「僕の家は、僕一人しか住んでいないので、要さんの家と違い寂しいですが、大丈夫でしょうか?」

 絶対、誘われている。

「だ、大丈夫、じゃ、ねーかも」

「そうですか……では、一本さんも呼びますか?」

「え? そう来る?」

「……? ……駄目ですか?」

「や、駄目じゃねぇっすけど」

 あんた、俺のこと好きで、俺とやりたいんじゃねーの? と下世話な質問は、とても投げかけられるような雰囲気ではない。滝神は上品に、にこにこと要の次の言葉を待っている。

「あんまり、……その、……広まらない方がいいかも、しんない、話、するんで」

「わかりました」

 頷いた滝神に、ほっとして、ほっとする理由が分からずに、歩き出した滝神の後を追う。石畳の続く川辺の上流、急激な段差がある場所まで歩いて来て、滝飛沫が上がる地点に差し掛かると、滝神は要の手を握った。

「?!」

「最初は恐ろしいかもしれませんが、僕が妖力で包んでいるので、濡れる事はありません」

 滝神に引っ張られ、体がふわりと浮く。何だこれ、超能力か?!と地下で人に近い生活をしている要は思わず叫んだ。ふわっと浮いた二人の体が、滝の中にすぅっと沈んでいく。こんな景色、人間の作ったSFファンタジー映画か、テレビの大妖怪達が演じるドラマでしか見た事がない。まず、浮遊する事は「浮遊免許」を取った妖怪しか許されていない上、「浮遊免許」は取るのが難しい。浮遊出来る力を持つ妖怪も限られているので、滝神がそれを出来ると知って、要の胸にじわりと熱が広がった。

「これが、ときめくって奴か」

 ぼそりと言うと、滝神はえ?と聞き返して来た。

「いや、滝神さん、浮遊免許持ってたんだな、って思って、凄いじゃないっすか」

「はぁ、まぁ、家に帰れなくなりますからね。浮遊するのに免許が必要になったと同時に取りましたよ」

 なんでもないことのように言う、その口振りもまた良い。要は急に目の前の、おっとりした男がかっこよく見えて来て、その男の家に来ている事を意識すると、得も言われぬ心地よさを覚えた。

「ちょっと、惚れそうになりました」

「え、……そんな、家に入る時だけしか使っていませんが・・・、褒められると何だか照れますね」

 滝神と繋いだままの手を、ぎゅっと握ると、滝神は困ったような顔をして、要の頭を撫でた。別の事をされるかと思っていた要としては、一瞬呆けて、それから恥ずかしくなった。

 

 玄関のような丸い空間を出ると、日本家屋の、囲炉裏がある大部屋に出た。

「まァまァ、お若い方を連れて」

 カチャカチャと抓音を立て、二足歩行の犬がやって来て、言葉を喋った。

「ウワッ!」

 思わず、声を上げて滝神に飛びついた要を、犬はからからと笑って面白がった。

「何ですの、あたくしが恐ろしいのかしら、この子」

 犬は前足を鼻先に宛てて、弾んだ老婆の声を出し、それからワン、と鳴いた。

「わ、わあああ!!」

 悲鳴を上げる要に、滝神は苦笑して、犬を撫でた。すると、犬はみるまに六十歳前後の、太ってはつらつとした老婆になり、目元に一杯の皺をつけて微笑んだ。

「こんばんわ、要さん、よくいらっしゃいましたね」

 後で聞いた話だが、老婆は滝神の家で長く家事をやっている手伝いの者だという。近所に家族と住んでおり、朝五時にやって来て、炊事と洗濯を行って帰り、夕三時にまたやって来て掃除と炊事をし、夜九時に帰って行く。

 お手伝いさんってやつか、実在したんだな。

 世界が違いすぎる、と内心で唸った。

 

 滝神一人用ぐらいの、小さな部屋で枕を並べて、一つのふとんで眠る想像をしていた要の予想を裏切り、滝神は要を、旅館で例えれば八人部屋と見まごう広々として立派な一室に案内した。何となく、拍子抜けしながらも、急な泊まりの展開に、要はまだ少しそわそわしていた。広い温泉がついた家は、もう紛れもなく旅館である。要は旅行でもしているような気持ちで、滝神家を満喫した。

 

 要さん、やっと会えて嬉しいわよ、滝神さんたらあたくしにまで貴方への恋心を相談していたんですからね、などと主人の秘密を暴露して、楽しげに帰って行った犬を見送り、犬の用意した日本食が美味かった事などを話していたら、夜中の一二時になってしまい、報告をするために押しかけたのに、そろそろ寝ましょうなどと滝神に言われて、要もはいと頷いてしまった。

 鶴の事情と、鬼李の言い分を、まだ要の意見はまとまっていないが、ひとまず滝神に報告しなければ、明日の朝早く起きて言おうか。しかし、五時にはもう犬が来てしまう。思い立って、滝神の眠る部屋に行ってみたが、部屋の中がしんと静かで暗いのを確認し、寝入っている滝神を起こすのは悪い気がした。明日、家を出た後に話そう。

 

 あてがわれた部屋に戻り、布団に潜る。広い部屋が落ち着かず、そわそわと足を動かした。あの後、鶴はどうなったのだろう。あまり調子が良くなさそうだったし、気が向かない様子だったのに、鬼李に強引に犯されたのだろうか。鶴が眉間に皺を寄せて、辛そうに足の間に鬼李を挟み、喘いでいる様子を想像した。鶴の菊座を、太く猛った鬼李の一物が出たり入ったりする。

 男同士の性交をおかずに、抜くのは始めてである。人の家に来て、何をやっているのかと思いながら、元気になった己に耐えろ耐えろよと話し掛けながら、枕元に置いた荷物からコンドームを取り出して被せる。ティッシュでは匂いが散るような気がしたのだが、コンドームでも同じだろうか。

 ひとまず、この熱を一旦、出さなければ。

「要さん」

「っぁ」

 驚いて、声が出た。荒い息をついて、状況を分析する。誰か来た。やばい。

「まだ、起きてますね?」

「ィえ、あの、もう寝ます」

 絶対絶命とはこの事である。コンドームを慌てて一物から外し、口を縛る。

「夜這いに来たのですが」

 滝神の台詞に、ひゅ、と息が止まった。ごほぉ、と咽て、咳を連発する要に、滝神は暢気に大丈夫ですか?と伺いの声を掛けて来た。

「大丈夫、じゃないです、……その、夜這いは、まだちょっと、今度で、えっと、すいません」

「要さん」

 するり、と障子を開け、和装の滝神が入って来た。普段、洋装でいる滝神の和装、それも首元などが広い寝着。見惚れていたらぱさりと布団を開けられた。

「ぅわっ?!」

 ボクサーパンツを下げ、一物を出したままの情けない格好が、空気に晒された。

「先程はすみませんでした、貴方の方から来てくれたのに、気づくのが遅れてしまって」

 ちげぇ! あれは、話をしに! という言い分が、この状況でどこまで信じて貰えるだろうか。要は罠に掛かった動物のような顔で、滝神を見上げた。夜の、妖しい仄かな光に照らされた滝神が、にっこりと艶やかな笑みを浮かべ、要はぞくりと、体の奥が疼くような、妙な欲を感じた。滝神の整った生真面目顔が、凡庸な男の顔になり、要はすごすごと、身を起こすとコンドームを脇に避けた。それから少し躊躇って、滝神の腿に手を置いた。滝神はしゅるりと絹の擦れる音を立てて、要の上に被さった。

 

 昨日は良い月が出ていましたね、と滝神が朝食を取りながら声を掛けて来た。滝神家の大きな温泉風呂の、露天風呂につかった際、そういえば綺麗な月が出ていた事を思い出した。

「ん、久しぶりにあんなゆっくり、月見ましたよ」

 眠たげに応じると、滝神は犬と顔を見合わせて笑った。家を出る時、犬がそっと要に滋養に聞くという菓子を渡して来た時、滝神と要の間で昨夜何があったかを、犬が察した事がわかった。要は思わず、舌打ちをしたくなったが堪えて、どぉも、とぶっきらぼうに礼を言って受け取った。恥ずかしさでむしゃくしゃする。若衆の立場というのは、兎に角、相手に全てを晒さなければらないのが辛い。

「結局、お話、聞けませんでしたね」

 石畳を歩きながら、滝神が言うので、要はそうだった、と思い出して一息に、鬼李と鶴、赤鬼の事を相談した。鶴が赤鬼に戻って来て欲しくて、手を抜いているのかもしれない事。鬼李が鶴に関係を強制している事。鶴が赤鬼を好きだという事は、何となく伏せてしまった。滝神は黙って聞いていたが、要の報告を聞き終えると悲しげに、眉を下げて溜息をついた。

「山神が可哀相ですね」

「え?」

 要の話には、出て来ていない人物の名を出され、要は一瞬混乱した。

「山神? さん?」

「ああ、鶴さんの懐刀ですよ、一の子分として、彼の事をとても気にかけています」

「鬼李さんは?」

「あれは……、鶴さんに憑りついてる化物、ですね、山神は頼りにしているようですが、僕はあまり快く思っていません、気性が荒く、自分勝手で邪悪です。……今回の件だって、あの化物が鶴さんを疲弊させ、全てを可笑しくしている、それなのにどうして、山神はあれを許すのか」

 山神が可哀相だというのは、単純に、鶴さんの調子が悪いと、山神が悲しむため、という事のようだった。要は滝神の険しい顔をじっと見て、投げづらい質問を投げてみた。

「あの、滝神さんは山神、さんだけ呼び捨てなんですね?」

 今回の件に全く関係のない、要の単なる興味本意な問いだ。要の事さえ「さん」付けで呼ぶ滝神が、山神の事は呼び捨てというのは気にな

る。正直、少し妬けてしまうあたり、昨日の事が影響しているのかと勘ぐる。滝神とうっかり寝てしまった事を、要は自分の中で、まだ消化しきれずにいた。

「それは……、一本さんや野平さん、牛鬼さん達の仲と同じで、僕と山神は昔馴染みなんですよ、同じ狗賓種ですからね、今でもよく飲みになど出掛ける仲です」

「そうなんですね」

「心配しないでも、山神と僕は変な仲じゃありませんよ」

「いや、そんな事別に、聞いてませんけど!」

 滝神は少し、考えてから立ち止まった。朝日でキラキラと光る透き通った川の輝きと、石畳の優しく滑らかなフォルムが溶け合って幻想的な美しさが、目の前に広がっていた。見惚れて、息を吸った要の頬に、不意打ちでキスをし、滝神はその場に座った。スーツの滝神に対し、皺がよらないのか声を掛けようか迷い、無粋な心配かもしれない、と口を噤んだ。

 滝神の隣に、自由業のような服装をした要が、悠々と座り、二つの正反対の見た目の男が、朝の自然の風景の中に並んだ。 景色の中に、思考を投げ出して、永遠にぼうっとしていたくなる空間に、心を奪われていると、滝神がふすんとくしゃみをした。

「あ、寒いっすか?」

 懐からティッシュを差し出して渡すと、滝神はありがとうと幸せそうに笑った。それから、川辺に視線を落とし、真剣な顔を作った。

「鶴さんは、赤鬼さんの下に居てはもったいないと思うのです」

「もったいない?っていうのは?」

「言葉の通りですよ、鶴さんのやり方や意思が、鶴さん自身に殺されてしまっているというか、赤鬼さんの下にいる限り、鶴さんは赤鬼さんのフォローに全力で取り組んでしまう。鶴さんは優秀です。だから、赤鬼さんの下に居る時は、赤鬼さんの意思を誰よりも先に理解して、根回しをし、必要な準備を整える、あの力を自分の意思のために使って欲しいんです」

「……」

「僕は小野森鬼李という化物を、あまり快く思っていませんが、彼の言い分は正しいかもしれません、鶴さんは、確かに赤鬼さんが戻って来る事を心の底で望んでいる、手を抜いているとしか思えない結果が見え始めていますからね」

「そんなに、酷い結果、が?」

「酷い、という程じゃありませんが、この状態が続いたら、今の体制での第一営業部存続は厳しいです」

「……そう、なんですか」

「まさか、鶴さんが赤鬼さんのやり方に、ここまで依存していたとは思いませんでしたよ、彼はもう自分の頭で考えるという事を、忘れてしまったんでしょうかね? 江戸時代、大親分にまで上り詰めた岡引の鶴さんはもう見られないのでしょうか? 我々はどこをどう、読み違えたんでしょう?」

「それが、あの、えっと、訳があって……」

「訳?」

「鶴さんは、赤鬼さんのことが、忘れられないみたいで」

「まさか……」

 滝神は顔を顰め、うぅんと唸った。

「小野森が鶴さんを何度も医務室に連れ込んでいる話は聞いていましたが、まさか、そんな、鶴さんが赤鬼さんをだなんて」

「はい、だから、俺もどうしようかと」

「単純に、赤鬼さんのやり方が好きで、赤鬼さんが戻って来るのを望んでるのかと、思っていたのですが」

「俺も、最初はそうだと思ってたんですけど、だって鶴さん、鬼李さんとよくヤってるし……だけど昨日、あの二人の揉めてるとこに出くわして、何となく、そうなのかなって、未練、みたいなものが、あるのかなって……」

 滝神はさらに、ぎゅっと目を瞑って頭を抑え、うぅ、と今度は短く唸った。その、余りにも困った様子に、要は胸を打たれた。

「あの、滝神さん、俺、良かったらちょっと鶴さんの周辺、何とかしてみますよ」

「何とか?」

「恋愛の揉め事って、内部ではなかなか処理しづらいかと思うんで、俺、鬼李さんと友達だし、あの人と話し合いつつ、それとな~く、鶴さんと赤鬼さんの仲、収束させてみます」

「要さん……」

「大事な恋人が困ってるの見たら、なんか、やんなきゃって思って、余計なお世話ですか?」

「いえ、助かります」

「ん」

「あ!」

 滝神がほんのり、頬を染めて要を見つめるので、何かと首を傾げると、滝神は目を輝かせて言った。

「僕、恋人にして貰えたんですね!」

「……あ、はい」

 こうやって、確認されると照れてしまう。要が下を向くと、滝神は要の手を取った。

「今後とも、宜しくお願いします、要さん」

 ビジネス挨拶のようだが、滝神は素である。要は、どぅも、と不貞腐れたような声で返事をしてしまった。