『トイレの精』(強気攻め×気弱受け)
同性愛者の自覚があり、同性愛者の集まる店に行った。
二十も中頃、故郷ヴィンチでは父親になっているのが普通、という年齢で、俺は「恋人」に飢えていた。ヴェレノは同性婚が認められているし、真面目に「相手」を探すのもいいかと思った。
赤っぽい照明がゆらめく店内とは打って変わり、淡く白い光を放つ大理石が壁になっているトイレ空間。高級店というのは、細部に拘るものなのか。太古の神殿と見まごう手洗い場の景色に感心していた俺の目の前、手洗い台に腰を掛ける、何かの「精」のような青年が居た。
青年は華奢で見目が良く、陰気な艶を持っていた。見惚れて立ち尽くしている俺に気づくと、困ったような顔で、下から覗くような視線を寄こした。笑いかけると、じっと見つめて来る。
横に座ってもかまわないだろうか。
そろそろと近づいて、腰を並べる。
傍で観察すると、優しく脆そうな顔の作りや、今にも折れそうな身体全体などが、とにかくこちらの性欲を刺激する。何者だろうか。プロの人だろうか。
俺は性的に盛り上がることが、難しいタイプの人間らしく、なかなか興奮することなどないのだが。先程から身体の端々が熱い。血の回る速さが異常だ。後でどんな額を請求されても良いから、とにかくこの欲を叶えてもらいたい。どうすれば。
「もしかしてトイレの精?」
混乱して妙なことを口走ってしまった。
「はい」
肯定の返事が来るとはな。ノリの良い奴だ。
「悪かった、冗談だ」
言いながら笑う。こちらが笑えば、笑い返してもらえるかと思ったが、
トイレの精は無反応。
「少し酔ってるんだ」
言い訳にも無反応。
「なんかここ、居心地良いから、いっそ、このトイレの精になりたいよね」
「あ、いや、何ていうか、何かの精っぽい、と思ったから、見た時」
「何かの精?」
「なんか神聖な雰囲気、つぅか」
ふふ、と鼻に篭った笑い声を上げ、トイレの精はやっと眉を下げた。笑顔に悩殺され、天を仰ぐ。そしてまた視線を戻すと、ばちりと目が合う。ダメだもう、見てると……。
昔から我慢というのが苦手で苦手で。欲望にすぐ負けてしまう。
この時も秒で負けた。
トイレの精の、唇の傍に口付ける。殴られたら押さえ付けて。いや、こんな壊れそうな相手に暴力なんて。でもこれ程、やりたいと思う奴に出会えたのに。
「駄目だよ、俺は違うから」
精は殴って来たり、暴れたりはしないで顔を背けた。少し長めの金髪が隠していた首の隙間が現れて、いよいよ俺の内側に、火が着いたのが感覚的にわかった。何としても、得たい。
「付き合いで来てるの、ヘテロなんだ。
そういう行為には応じられない。
ごめんね紛らわしくて、酔いを醒ましてただけ」
やはり、下から伺うような目で、自分が男に不慣れであることを暴露するトイレの精、無防備にも程がある。大丈夫か。
「名前は?」
「え?」
「偽名でいい、思い出に残す」
「思い出……? そんな大層なこと何も……」
「おまえが凄く好みだ、出会えて嬉しい、話ができて浮かれてる」
「……、タカ」
「タカ?」
「タカ」
こちらは確認のふりをして、こっそりと向こうの腰を持ち、悦に入っているのだが、タカはそんなことには気づかず、名乗るのに精一杯。なるほど、この世界をわかっていないぞこいつは。隙があれば、ぐいぐい責めて来る相手からの、逃げ方を知らない。あんな雰囲気を醸しておいて、不慣れだと?
「タカ、指にキスは? 駄目か?」
「指?」
返事を待たずに口付け、そのまま指の股を舐めた。男に免疫のない人間が、急にこうした行動に出られると、停止することを知っていた。タカも例に漏れず、口を小さく開けて声にならない声を上げ、固まっている。狙い時。今度は唇にする。舌を入れると、さすがに抵抗の手が背中を叩いた。
「指って」
「次は首」
腰を摩ってやりながら、首、耳の下、服の上から乳首、と早いペースで濡らして行く。
「待っ、だから、俺は違っ、んっ」
服の上から、腿を噛んだ。タカは目を丸くして、俺を見ていた。自分の服に、俺の唾液が沁み込んでいくのを感じているだろうタカの内側で、壁の崩れる音。できない事と、できる事を仕切っていた壁が崩れ、できる事が一つ増えた瞬間。
タカは熱い息を吐いた。いける奴だ。
異性愛者だと言い張っていても、ふとしたことをきっかけにこちらに来る者が数多い。俺はタカを引き入れることに成功した。
「タカ、唇に噛み付いたら殴るか?」
「噛み付くのはやめて、痛いのは嫌だから」
「舐めるのは?」
「……」
「イイ?」
即座に拒否できないのは、期待の現われだ。怖いもの見たさに、経験してみたくなったのだ。これから起こることがタカにとって悪い事じゃないよう、努力したい。癖になって、俺と二度目や三度目をこなしてくれたらイイ。
「こんなとこじゃ駄目だよ」
積極的な台詞が、タカの口から出た。丁度良く人の足音が近づいて来たので、俺達は個室に入った。
0:34 2012/04/12