からめ

『小豆の熱』(生真面目×俺様)


「あら太ぁ~」
 廊下から、間延びした低い声が自分を呼んだ。
 牛鬼が長いトイレからやっと帰って来たのだ。
 まとめた書類を鞄に突っ込み、バタバタとフロアを出る。
 広い肩幅と逞しい胸の目立つ、体育会系の肉体を高価なシャツの下に潜ませた色男……『怪PR社』第二営業部のベテラン営業マン、牛鬼種の牛鬼うし雄のもとで、小豆あらい種の小豆あら太は営業補佐を勤めていた。
「牛鬼さんがトイレ長いの、すっかり忘れてました」
 祖父から貰った黒色の腕時計を見て、あら太は顔を顰めた。
 乗りたい列車が、あと三分で来てしまう。
「牛鬼、また電車乗り過ごさないようにね」
「大丈夫、あら太が起してくれる」
「えー?ちょっと、あら太君に甘えすぎなんじゃない?」
 ガラスばりで中の見える近代的オフィスフロアの窓から、顔を出したのっぺら坊種、野平が茶化すのに悠長に応じる牛鬼に向かい、あら太は急いた視線をやった。
「よければ牛鬼さんは後で来てください!俺、先に行きます」
 そう言って走り出すと、伴走してくれた牛鬼にほっとして。
 振り返って野平にペコリと頭を下げる。野平は愉しげに笑いながら手を振って見送ってくれた。

「はァ~、間に合った」
 膝に手をついてゼェゼェと息をついているあら太に対し、牛鬼は涼しい顔でブランド品の腕時計を眺めていた。
「電車遅れてんなァ」
「ええッ?!」
「人間界と違って、ピッタリ来る方が可笑しいの」
 『妖怪メトロ』だぞぉ、と呟きながら片眉を下げて笑う。牛鬼の表情は豊かだ。癖のある黒髪と高い鼻、クッキリと形の良い眉目と、厚い唇が揃った派手な顔は、一言で言えば美形だ。髪で目立たないが、左右に生えた黒い角も猛々しく、あら太はいつも牛鬼の、そうした男性らしい姿を羨望の眼差しで見つめてしまう。今の表情は、かっこよかったなぁ、などとぼんやり思いながら、メトロの運行状況を表示している掲示板を見た。
「ていうか、早めに出てった?」
 壁から生えた毛が、文字になって次々と変化する掲示板には、次の特急メトロは、7分後に来ると表示されていた。
「完全に間に合わないな」
「すみません、もっと余裕のある時間設定にしておけば良かったです」
「いや、俺のトイレが長かったから、……先方に連絡入れるわ」
 いったい、何のために汗と鼻水を垂らして走ったのか。あら太はその場にしゃがみ込んだ。線路から響いてくる、どくんどくんと一定間隔の音に耳を傾ける。妖怪メトロは生物化学で出来ている関係で、線路も巨大交通妖怪の一部だ。
 線路や電車そのものが生きており、運行の管理を行っている。
 電話の終わった牛鬼が、背中を叩いて来たので立ち上がると、反対のホームにろくろ首婦人会のツアー団体が喧しく騒ぎながら現れた処だった。婦人会はこちら側に気がつくと、堂々と指を差しながら、こしょこしょと首を伸ばし合って何か相槌を打ち、仕切りに黄色い声を上げた。恐らく牛鬼の見た目がヒットしているのだろう。
「牛鬼さん、モテてますよ」
「そうね~」
 モテる事に慣れている牛鬼は少し困った顔で、婦人会に手を振ると、地下鉄一体が揺れる程の歓声が起こった。
「何、調子に乗ってるんですか」
「サービス精神が旺盛なんです」
「あ、そうすか」
 モテる人は違いますね、という嫌味は飲み込む。そこで、あら太のスマフォ画面に、野平からのラインメッセージが現れた。
 『電車、乗れた?』
 『いいえ、無理でした』
 『やっぱり~』
 からかいの言葉に加え、こちらを指差して笑う野平の顔写真スタンプが送られて来て、あら太のスマホを持つ手は震えた。
「野平さん、ほんと良い性格してますよね」
 走った苦労が報われず、悔しさで苛立ったあら太の肩に手を置き、牛鬼は低く笑い声を上げた。
「はは、ヤなタイミングでまァ……。
 でもあいつ、今日、訪問ないんでやんの。暇人はやーね?」
 あら太が余裕をなくすと、牛鬼は必ずこうして軽く宥めてくれる。牛鬼といると落ち着くのは、営業と営業補佐という、相棒の関係がある他、牛鬼のこうした気遣いを忘れない性格も影響している。
「ところで俺、こないだ野平が凄いグラマーな美女の姿で営業行くとこ見たんだけどさ、歩き方がグラマー意識しすぎて変なの、尻振り過ぎで、逆にきもいの」
 牛鬼は喋る際、じっと視線を合わせて来るため、冗談を一つ言うにもこちらの顔を覗き込んで来る。クッキリした二重は、目に妙な迫力をつけるので心臓に悪い。あら太は牛鬼の戯言を耳では聞いていたが、色男の目力にたじろいでしまい、内容は頭に入って来ていなかった。牛鬼と話をしていると、このような事態に陥る事が多々ある。
「俺も野平さんや牛鬼さんみたいだったら、営業になれたんですかね」
「……、おまえはどっちかっていうと、赤鬼さんタイプじゃねぇのか?」
「そうですね」
 おまえに営業は無理だ、とはなから決めつけたりせず、タイプを分析してみてくれる牛鬼に感謝する。
 地下鉄に揺られながら、あら太は牛鬼の横顔をちらりと見た。交渉の現場で前に出ながら、あらゆる雑務に指示を出す、牛鬼の働きぶりを見ていると、自分もあんな風に出来たら、と思う時があった。
「俺も、営業やれるようになりますかね?」
「ん~」
 牛鬼はもう夢の中という風で、適当な返事しか帰って来なかった。
 営業をやれても、牛鬼のような活躍は望めない事を、あら太は理解していた。
 『怪PR社』は規模の割に小回りが利くと重宝がられ、妖怪経済市場では、業績を伸ばしている優良企業だ。二年程、人間社会で働いた経験が買われ、半年程前に中途採用された。給料は過去に働いたどの会社より良かったが、人の世へのお使い係という重労働を同時に任された。このお使い係は、重い荷物を運ばされたりする事が多いため、非常にきつい雑務だった。人の世に二十数年居た経験と、『人の皮』を所持しているため、いつでも人の世に出て行ける点を買われた一方で、それしか自分には価値がないのだろうな、と思ってしまうと悲しい。
 カタンカタンというメトロらしい音に紛れ、ドクンドクンと鳴る交通妖怪の心音、シューと時々漏れる列車の息遣いが、まだおどろおどろしく感じる耳を早く慣れろと叱りつける。
 地下鉄の黒い窓、真正面に、貧相な体と艶のない猫っ毛、頼りない糸眉の下に細い目が不安そうに鎮座している自分の姿が映った。
 こてん、と肩に牛鬼の頭が乗り、自分の顔の傍に迫力ある色男の牛鬼の面が並んだ。
「俺は、あら太の補佐の仕事好きだから」
 ぽそりと耳もとで声がして、驚いて体が揺れた。
「あら太が営業やりたいって言うなら応援するけどね、でも、俺の補佐ずっとやってて欲しいっていうのが本音」
 普通、照れて言えないような事を、牛鬼は平気で言う。嬉しい言葉だったが、何て返事をすればいいのかわからず、あら太は黙っていた。そんなあら太の反応を見て、牛鬼は安心したように笑うと、再び寝息を立て始めた。牛鬼の言葉が、頭の中をふわふわと回り、こんな簡単に機嫌良くなってしまう自分をちょろいと思うが、ちょろい自分を知られたくないので、はぁ、とわざとまた溜息をついた。

「牛鬼さん、着きましたよ!」
 肩に寄り掛かってきていた牛鬼を揺すり起こし、あら太は妖怪メトロから乗り継いだ大江戸線を降りた。川越から両国、妖怪メトロの飛び穴を使っても、目的地までは一時間掛かった。
 『怪PR社』が入っているビルと直結した時の鐘駅は武蔵のターミナル駅のひとつで、飛び穴のない場所に向けて、特急や快速を出している。
「好い加減、回向院あたりに飛び穴作って欲しいよなぁ」
 ゴキゴキと首を鳴らしながら、ぼやく牛鬼に、痛くないんですか、と聞きながら、着いたばかりの電車の戸を、ドアが開く前に通り抜ける。
 今日の訪問先である両国の『有限会社あずきとぎ』は、あら太の種族である「あずきあらい」と同種の妖怪が集まり、運営している会社だった。
 サービス内容はあずき製品の提供。人の世に向けて、JR両国駅すぐの場所に人の手から借りた事務所も持っている。『あずきとぎの洗った小豆』という名で、人と妖、両方向に通じる商品を出している。
「帰りに浅草寄っても良い?」
 乗り継ぎに使った大江戸線から地上に向かう長いエレベーター内で、牛鬼がぽろりと伺いを立てて来た。
「もしかして、この間潰れた『腹鼓株式会社』さんですか?」
「嫌?」
「いえ、別に……いいですよ、牛鬼さんが寄りたいなら」

 しゃきしゃき、という音。小豆とぎ達が作り出す怪音。これが、小豆とぎの手元ではなく、機械から出て来ている不思議。
 『有限会社あずきとぎ』は、東京江戸博物館の建物中央、広々とした空洞に工場を構えていた。
 『人の目』で見ると社会科見学のため集団で座り込んでいる小学生達が見えるが、『妖の目』で見ると、空洞には巨大な小豆加工の機械があり、作業着姿の小豆とぎ達が思い思いに機械を操作しているのが見える。あら太は自分と同種の妖怪を、一度にこんなに多く見たのが始めてで、軽く興奮して、牛鬼を見上げた。牛鬼は作業着の小豆とぎを一人指して、お父さんに挨拶しなくて良いの?とふざけた。あら太の両親は、人の世でどちらも学校の先生をしている。
 階段の傍で何か机のようなものに座り、書類を見ていた初老の小豆とぎが、牛鬼とあら太の姿を見つけると立ち上がって出迎えてくれた。
 簡単な挨拶をして、名刺を交換すると相手は代表取締役だった。これは即決も狙えるのではと牛鬼の様子を伺ったが、目配せはなかった。
「そのお見かけは、『実装』ですか?」
 近くの喫茶店に誘われ、商談を始める前、牛鬼が聞いた。
 聞かれた小豆とぎは照れたように笑った。
「いえ、『虚装』です」
 名刺には小豆徒居の名に、azuki toiと読み仮名がふってある。妖怪はたいてい見た目年齢は若くして止まるのだが、人の暮らしに沿って歳を取りたがる者が多い。人世の文化に精通していればいるほど、己の地位に合った見た目になりたがる。
「皺も白髪も凄く自然ですね、とてもお似合いです、メーカーはどこですか?」
「『腹鼓株式会社』ってご存知ですか?もう潰れてしまったんですが、あそこの会社は世界に誇れる良い技術を持っていましたよ、私はもう百年ぐらい、ずっとこの井出達です、これ以上の『虚装』を施せる会社には、まだお目に掛かれていませんねえ」
「……」
 その会社の名を聞いた瞬間、牛鬼の瞳がぐっと開いたのと、悲しそうに潤んだのが傍からわかった。
 『腹鼓株式会社』、この名は、入社して直ぐに、牛鬼の顧客として覚えた。妖怪の見た目を装飾する『虚装』作りの老舗で、古くからのこだわりを持っており、ここ最近の『虚装』製品低価格競争に負け、潰れた会社だ。
 細身の女怪が社長をしていた。
「牛鬼さん、これ」
 補助資料を出すと、牛鬼は簡単に確認して、満足そうに頷いた。牛鬼が欲するデータなら、あらゆる分野で予測でき、揃えておける。
「お二人は長いんですか?」
 今度は徒居の質問。
 商談と雑談の按配を、互いに図り合っているこの時間が、あら太は嫌いではなかった。雑談は、人の心理を深くまで見抜く牛鬼にとても有利な材料なのだ。徒居の言葉に、牛鬼がこれぐらいですかね、と指を五本見せると、五十年?と老舗らしい返事がきた。
 牛鬼とあら太の付き合いは五年。しかし、この会社に来てからはまだ二年に満たない。
 牛鬼とは、人の世に居る時に出会い、バイト先の先輩後輩から、会社の営業と営業補佐の関係にまで発展した。人の世で、人として生活していたあら太を、牛鬼は妖怪だとすぐに見抜き、妖怪世界のあれこれを、色々と教えてくれた。
 牛鬼が『怪PR社』から引き抜きの話を受けたのは、人の世で牛鬼とあら太の営業と営業補佐の関係が三年目に入ろうという時だった。一緒に来いと言われたのに、あら太は勇気を持てなかった。
 牛鬼は慎重なあら太の性格を熟知しており、また誘いに来ると言い残して消えた。残されたあら太は、その後、無能社員のレッテルを貼られ解雇された。ナンバーワン営業マンだった牛鬼を支えていたあら太は、有能営業補佐と周囲には思われていたのだが、それは相手が牛鬼だったからだった。別の人間を補佐する時になって、あら太が直面した事実、あら太が阿吽の呼吸で、補佐出来る人間は牛鬼のみだった。牛鬼が相手の時は、あれだけ先読み出来た仕事が、まったく予測出来なくなり、予測しても外してしまう。ミスを繰り返し、解雇されてしまった。転職しても、やはり上手く行かず、牛鬼の居る場所で働きたい、という思いばかりが日に日に強くなり、牛鬼が誘いに来るのを待たずに自分から牛鬼の居る、この『怪PR社』に転職した。この時、あら太を20年間、人として育てて、人の会社で働いて欲しいと考えていた両親と大喧嘩し、結局、会社の人事部が給料を人間の金で出すという対応を取ってくれるという事で何とか落ち着いた。
 
 浅草、花屋敷から徒歩二分程の距離にある薄暗い喫茶店、『花咲か爺』は妖怪用飲食店であり、店内には白い陽光とオレンジの光に照らされながら、鵺と一つ目のサラリーマン二人組、化け鴉の老人、河童の主婦、同じく河童の学生集団などが寛いでいた。浅草という場所は、河童種が多いようだ。
 あら太としては、ドトールのBサンドが食べたかったのだが、人間の運営する店には、妖怪店員がシフトに入っている時にしか入れない。
「牛鬼さん、さっきのあれ、何ですか……!」
 『花咲か爺』の名物料理、ミートソーススパゲッティに手もつけず、あら太は前のめりになって、牛鬼に詰め寄った。
「ん?」
 牛鬼はキャベツロールを一つ口に入れたまま、口元を隠して応じた。ローテーブルに顔を寄せた、低い姿勢から上目遣いにされ、どきりとする。顔の良い牛鬼といると、いちいち見惚れてしまい困る。がっしりとしてぶ厚い、牛鬼の逞しい男の肩を目の端に入れながら、あら太は責める調子で続けた。
「徒居さんの要望、叶えようって気がさらさらなかったでしょう?低予算で無理言われてるのはわかりましたけど、貴方らしくないというか」
「や、普通に考えて二百万で十人の『畑』から五百万の『肝』を取る事は物理的に不可能だろ」
「十人全員を五十秒以上、物凄く怖がらせれば良いんでしょう?」
「ん~、おまえは妖怪歴が短いからそんな無謀な事が言えるんだよ、しかもなァ、畑は全員社会人で男だ、勝ち目がない」
 言い切られて、あら太はぐっと下唇を噛んだ。このあたりの感覚は、経験がないとわからない。あら太はすごすごと、スパゲッティにフォークを刺した。食べながら、反論を考えよう。
 そもそも現代妖怪の殆どは、妖怪社会で働き、給与を得て生きている。牛鬼やあら太も、所謂妖怪サラリーマンとして妖怪の会社から給与をもらい、生きている。
 肝と呼ばれる万能の玉、これが妖怪社会の通貨だ。パチンコ玉ぐらいの大きさで一万の価値を持つ。それ以下の額は紙幣のように伸ばされた薄い紙状の札だ。
 肝は食物にもエネルギーにもなるが、それを直接食べたり、電気やガソリン代わりに使う者は少ない。
 肝を人の世で出されるような食品に加工したり、人の世の食品に沁み込ませたり、電気やガソリンとして生かすため、少ない肝で最大限効果を出せるような装置を開発したりする会社もあり、そうした様々な会社があるお陰で、人の世と同じ、様々な職が存在していた。
 ただし、この肝は人間の心、妖怪用語でいう『畑』から取れる。人間を怖がらせたり、畏れさせたり、感動させたり、人間の心を動かす事で得られるものだった。
 話を戻すと、この肝を大々的に収穫するための企画を、妖怪各社は年に数度、社運を掛けて行い、これに成功すると当分の資金を得られるので、牛鬼やあら太の勤める『怪PR社』をはじめ、様々な広告代理店やイベント運営会社に、相談を持ちかけるのだった。
 さらに言えば、妖怪の起す不思議な現象とは、全てこの肝を消費して実現可能になるため、不思議な現象を起こす事の出来る、体力のある妖怪で居続けるためには、食物としての肝の摂取を欠かさずに行わなければならない。
「そんなに手強いんですか?社会人の男って」
 早くもキャベツロールを完食した牛鬼に質問すると、食後の珈琲を口に運びながら、牛鬼は眉間に皺を寄せた。
「あ~、鈍感だからなぁ霊的な事に。相当力を使ってみせないと反応しない。そんな体力、あの会社にないだろぉ?小豆をとぐ音を聞かせるだけで一秒ごとに百万、禍々しく『虚装』した小豆とぎの姿を丸々見せるとしたら、一秒ごとに五百万は掛かる」
「えっ」
 その話を聞いて、頭を過ぎったのは自分のこれまで。あら太は二十数年、人の社会の中で、人に認識されながら生きて来たが、そのために、もしかして相当な額が掛けられていたのかもしれない。
「いや、おまえの場合は、おまえの親が懸命に働いて買った『人の皮』を生まれた時から被ってられたから話は別だが、・・・普通は人の目に映らない妖怪の姿を、人に見せるためには、かなり金が掛かる。
 昔は人間が妖怪を信じてて、簡単に怖がって肝を出したから、妖怪達も体力があってしょっちゅう姿見せて、それで、また怖がられて肝が取れるっていう良い循環だったけど、今はほんと、やりにくくなったよなァ」
「……、そうなんですね」
 あら太の疑問を察した牛鬼が補足の説明をしてくれ、少し胸を撫でおろす。一方で、妖怪社会の常識を、余りに知らない自分がわかり、恐ろしくなった。
 こんなに知らない事だらけの妖怪社会で、暮らしていくこの先を思うと寒気がする。一体いつになったら、一人前の妖怪になれるのか。全ての仕組みを理解して、そこから上手く事を運ぶ方法を思いつくようになるまでには、あとどれぐらいの年月が居るのだろう。
「あの、『人の皮』っていくらぐらいするんですか?」
 試しに、今沸いたばかりの疑問をぶつけた。
「二千万~一億ぐらいかな、ピンキリだ」
 想定よりずっと高額数字が飛び出して、固まる。両親に苦労して用意してもらった『人の皮』、生まれた時から当たり前のように使っていたから意識していなかったが、それを少し挫折したぐらいで簡単に脱いでしまって、妖怪社会に逃げた自分が急に親不孝者のように思えてきた。
「俺、あれ、箪笥に入れたままっていうか、一部破けてさえいます」
 青ざめて言うと、牛鬼はくっと笑った。
「また被れば治る」
 大丈夫だ、と低く呟き、牛鬼はあら太の肩を叩いた。それから、少し顔を顰めて、今度は牛鬼の方が、身を前に乗り出した。顔の距離が近くなり、牛鬼の艶っぽい黒の瞳が迫って来た。
「それよりさっきの話だ、おまえは結局、何がしたいんだ、俺はあの会社とは関らない事に決めたから交渉を決裂させて来たけど、おまえはそれが不本意なんだろ」 
「……それは、だって、あんなに徒居さんはやる気で、うちを信じて呼んでくれたのに。昔の貴方なら……任せたいって言われたら、必ず応じてたから」
 牛鬼とあら太が昔居た会社は、ビル広告やテレビCM、ネット広告スペースや、電車内の壁などを駆使して、新商品のPRや企業イメージの向上施策、販売促進効果を狙った露出など色々な目的に合わせて企画を作り、提案して実際の効果測量まで務める、総合広告代理店だった。
 それなりに大きな規模の会社だったため、数十社を束ねて、企画を運営する事もあり、過激な勤務スケジュールになる事が多々あった。普通なら弱音を吐き逃げ出したくなるような状況で、牛鬼は熱意と信念を持って、必ず最後までやり遂げる男だった。そんな牛鬼の事を支えたくて、牛鬼のあらゆる思考、癖を覚えこんだ。牛鬼ならどうするか想定して、牛鬼の仕事が捗るよう動いた。
「昔の俺は、間違ってたんだよ」
 ぽつりと牛鬼の口から、出た言葉にあら太は胸が締め付けられる思いがした。
「どうしてそんな事ッ」
「それは、これから寄る既存客の状況見たらわかる、俺は、あの会社のお陰で、無理なものは無理だと言える営業マンになった。早めにそれがわかって良かったと思ってるよ。肝は命に直結する」
 その時、『花咲か爺』の赤茶の壁をすり抜けて、薄青い肌の男が現れた。額に二つある角が、鬼種である事を示しており、店内が少し色めきたった。
 男は青鬼といい、牛鬼とあら太の上司だった。
 白く細かい髪をキラキラ光らせながら、鬼種特有のつり目で辺りを見回すとスンと鼻を鳴らし、すぐにこちらに気がついた。スーツを着る癖をつけている牛鬼やあら太と違い、青鬼は蛇柄の豪奢な和装で、その見た目の迫力もあり店内の注目を浴びていた。恥ずかしいからこちらに来ないでください、というあら太の願いも空しく、悠々とこちらにやって来て、店主に目配せで注文を出すと、するりとあら太の隣に腰を降ろした。
「どうだ調子は」
「えっ」
「小豆、外出は今月からだったな、牛鬼に失望したりしてないか?」
 開口一番にこれである。青鬼はズバッとものを言うので、人から苦手意識を持たれる事の多い男だった。
「失望って、どういう」
「近頃、腑抜けで困っている、昔はこうじゃなかった」
「青鬼さんまで言うんですか」
 牛鬼が困ったように眉を下げて言うと、青鬼はふふと口端を上げた。
「言うさ、牛鬼の積み上げがあれば、今月は赤いノに勝てる」
 赤いノとは、第一営業部の部長、赤鬼の事である。赤鬼の方でも青鬼を青いノと呼ぶ。
「達成はしてるんですから」
「達成は当たり前だ、どれだけ積み上げてくれるかが評価のポインドだぞ牛鬼、期待しているんだよ、私はおまえに」
「はァ、どうも」
 牛鬼の顔には完全に、面倒臭いノに捕まったと書いてある。牛鬼のためにも、あら太は青鬼を撃退する事に決めた。
「あの、青鬼さん、補佐の蛇さん達は?」
 青鬼は部長だが、自身も営業として稼いでおり、口うるさい補佐を三名つけていた。彼等には直接指導を受けたので、言いつける準備は万端だ。彼等がもし青鬼を探しているような状況にあるなら、いつでも青鬼を回収してくれるだろう。浅草の雷門下には飛び穴があり、ターミナル駅が存在するのだ。
「ふ、俺を追い払う算段か、そうはいかないぞ」
「……、違いますよ?」
 図星を刺され、視線を逸らすと、牛鬼がくすりと笑った。誰のために戦っていると思ってるんだ、と憤ったが口を噤む。
「確か、ヒバカリは彼女とランチに、ヤマカガシは人事部に呼び出されていたかな、ジムグリはデザイナー宅に訪問させている」
 残念、青鬼を回収してくれる補佐達は多忙のようだ。そもそも青鬼は一人行動が好きで、牛鬼のように補佐を常に傍に置くという事をしない。
 小さな河童がやって来て、三人のテーブルに、コトンと青鬼の好物らしい舟和のあんこ玉と煎茶を置いた。この間は牛鬼のために今半のすき焼きも出してくれた。ここ喫茶店ですよねと突っ込めばいいのか、すき焼きとか、共食いにならないんですか、と突っ込めばいいのかで迷ったのを思い出す。
「この喫茶店、何でも出てきますね」
 思わず呟くと、カウンターの向こうでマスターが河童の手をひょいと上げて壁を指差した。料金二倍で何でも出します、人間界からの輸入なら三倍。

 牛鬼が『花咲か爺』から出て向かったのは、まさかのストリップ劇場だった。青鬼も平然とついて来ており、あら太一人が慌てていた。
 劇場に入るのに二の足を踏んで、戸惑うあら太に向かい、青鬼が良い笑みを浮かべ、童貞か、とからかいの言葉を掛けて来たので、二度経験があるにも関らずあら太は真っ赤になって固まった。その二度の経験も、彼女にリードされての事で、あら太は女性関係には消極的な男だった。風俗に入った経験もなく、まず雰囲気に気圧された。
「安心しろ、ショーを見に来たんじゃない、牛鬼の元顧客が働いているんだ」
 その言葉を聞いて、凍りついたのは牛鬼のあの表情を思い出したからだ。そして全てに合点がいった。牛鬼は顧客の懐事情を考えて提案する男だったが、稀に熱い心を持った顧客が、無理して依頼して来る仕事も請けていた。それでいつも成功させて来たから良かったが、ぎりぎりの予算組みでやっている企業の仕事で、もし失敗したら、どうなるのだろう、と思う事がよくあった。
 劇場のホールに向かう階段を上り、裏口らしい関係者用の戸口を潜ると、「牛鬼っ!」と黄色い声が響き、ホールを出て来たばかりの痩せた女が現れた。裸にバスタオルを撒いている。女は牛鬼に走り寄ると、ぎゅっと抱きついた。牛鬼が女の背に手を当てる。その二人の姿はまるで恋人同士だった。
「来てくれたの?」
「調子はどうですか?」
「ぼちぼちよ」
「皆さんは?」
「相変わらず、会う?」
 女は『人の皮』を被っているが、『妖の目』で見ると狸らしい尾が尻から生えている。通された女の楽屋には狸が数匹、檻の中で重なって眠っていた。
「皆、戻れると良いですね」
 牛鬼は檻の前にしゃがみ、もう自我を失ったらしい、人の気配に全く反応しない狸達を眺めながら言った。そっと牛鬼の指が、檻の中に肝の玉を数個入れるのが見えた。
「楠鼓と鈴貫は先月消えたわ」
「そうですか」
「ねぇ、牛鬼、私達貴方には感謝こそすれ、恨むことなんて一つもないのよ、時代に負けただけだから」
 女は牛鬼の肩に触れ、背に腕を回しながら隣にしゃがみ込んだ。そして牛鬼が檻の中に押し込んだ肝の玉を取り出すと、牛鬼に戻した。
「もうこんな風に、こっそり差し入れとかもしないで、いつまでも貴方に甘えてるわけにはいかないの、『人の皮』を持ってる者達で何とか頑張ってるから、もう大丈夫よ」
「佐貫さん……」
 牛鬼の声は掠れて切ない。まさか、牛鬼は彼女に特別な好意を、と思い至り、慌てて青鬼を見た。青鬼があら太の耳元に、邪魔者は退散するか、と囁いて来て、いよいよそうなのだとわかると、急に途方もない喪失感に襲われた。相棒として誰より近い位置に居る牛鬼が、女という全く別の形の相棒を持つ事に少しの寂しさはあるが仕方がない。あら太は女の役割まではこなせない。
 青鬼と連れ立って部屋を出た。
 楽屋の連なる廊下は冷たい空気が漂い、ホールの賑やかな音楽が漏れ出ていて落ち着かなかった。牛鬼を待ちながら、初めて青鬼と二人きりになった事に気がついて何を話そうかと慌てた。
「『有限会社あずきとぎ』だったか?午前中行ったところ?」
 青鬼の方から話を振ってくれて、はい、と小さく答える。
「あそこは結構持ってるはずだから、頑張って引き出してくれ」
「持って、ますかね?前準備で、お金の使い方、結構色々な分野で見ましたけど、なんかこう、ぱっとしない感じでしたよ」
「持ってるさ、一番使うのは他社を買収する時だ、色々と手を広げてるだろう、特に海外向け」
「えッ?」
「この間、ロシアの日本食ブームに先駆けて、ロシアの高級和食店を何店か運営してる飲食チェーンを買収していたが、あれは凄かった」
「……」
「何だ?調べていないのか、リサーチ不足だぞ」
 すみません、と呟いて、思い出したのは徒居の熱意。穏やかな話し方だったが、何度も牛鬼からYESを出そうとあらゆる言い方で気持ちをぶつけて来てくれていた。金額的に無理を言っているのはわかっているが、どうしてもやりたい事があって、その資金が必要なのだと。
 今回のイベントが成功すれば、きっと日本妖怪界を活性化させる良い事例を挙げられる。自分と同じ種族、という親近感も手伝って、あら太は、牛鬼に徒居の望みを叶えて欲しいと思った。そして、叶えてくれると、何の疑問もなく思っていた。徒居がやる気でいてくれるなら都合が良い、こちらはどんな仕事でも請ける。そう信じて疑わなかった。それなのに、牛鬼は徒居の望みを叶えるのは現実的に厳しいと言って、どうすればより実現が可能になるか、他人事のように解説して、自分にはまず出来ない、他を当ってくれと言った。徒居はそれでも、どうすればより実現が可能になるか、といった牛鬼の解説が的を得ていて気に入ったとか、貴方の仕事を知っているから貴方を呼んだのだとか、老舗のプライドをかなぐり捨てて、牛鬼に縋るように仕事を頼み込んだ。
「受注はしたんだろう?」
 青鬼の問いに、あら太は唇を噛んだ。失敗するかもしれなくても、徒居と共に、挑戦するだけでも、して欲しかった。あら太の知っている牛鬼なら、徒居にあれだけの熱意を向けられたら、断わるはずがなかったのに。
「いえ」
 牛鬼は変わってしまった。
「何、先方は乗り気だったろう?何があった?」
「牛鬼さんが、無理だって」
「あの馬鹿、またか」
「前はあんなじゃなかった、のに」
「『腹鼓株式会社』で失敗したのが相当応えたんだな」
 青鬼の目がそこで、ビクリと何かを捕らえたので視線を追う。真っ裸の女性が、悠々と二人の前を通り過ぎて行った。二人は今『妖の目』でしかとらえられないため、女性に二人は見えていない。それにも関らず、青鬼はきっちりと女性から目を逸らし、静かになってしまった。
「青鬼さん、もしかして、童貞?」
「そんなわけあるか、礼儀の問題だ、紳士なんだ俺は」
「はァ、成る程」
「しかし小豆、あのままじゃ牛鬼はまずいぞ」
「え?」
「牛鬼クラスの営業なら、達成だけじゃなく、積み上げまで意識して動いていないと、評価は落ちる」
「……」
「このまま、積み上げのほとんどない営業になるというなら、積み上げられる他の有能な営業のために、自由に使える枠も減らされるだろうし、下手したら補佐もつけてやれなくなる」
「そんな」
「おまえからも何か、言ってやれ」
 ぐっと眉根を寄せ、青鬼は吐き捨てるような調子で言った。その顔には、牛鬼への不満と苛立ちが見て取れて、あら太の背を嫌なものが走った。早急に、牛鬼の目を覚まさせなければ。

 その日は午後三時を過ぎてから会社に戻った。
 牛鬼が佐貫と呼んでいた、あの女妖怪と牛鬼の間に、何があったのか。小額の取引が長期に渡ってあった事だけが記録に残っていた。まずは何があったのか、聞き出さなければ。しかし、何故かその事を聞くのが恐ろしく、あら太は牛鬼に、何も切り出せないでいた。
「あら太」
 午後五時の営業会議が始まるという時になって、牛鬼から声を掛けられた。揃えた資料を手渡し、自分も同席するつもりで立ち上がると、牛鬼が肩に手を回して来た。
「なんかな~、徒居さんが俺宛に近場まで来てるらしい、多分、説得しに来たんだと思うんだが、俺は会議に出るから、代わりに会って丁重にお断りして来てくれないか?」
 一国一城の主が自ら、頼みに来ているのにこんな扱い方をするなんて、と憤ったあら太の目を見て牛鬼は少し戸惑った。
「本当は、請けたいんでしょう?徒居さんの仕事?」
 ぽつりと探るように問うと、牛鬼は視線を逸らして笑った。
「あの熱意には、正直、参ったけど、……無理なものは無理だろ」
「変わりましたね、牛鬼さん」
 青鬼が口にした失望という言葉に、この時程しっくり来た事はない。牛鬼に呆れて、涙が出そうだ。この男のもとで働きたくて、自分は人の生活を捨てて来たのに。
「俺がいなきゃ何も出来ない癖に」
 苦りきった顔で、溜息と共に牛鬼が口走った言葉。
「は?」
 その破壊力に、足の裏から砂が大量に零れて行くような気がした。
「何度も様子を見に行った、あら太、おまえは俺が消えてから、上手くやれてなかった。俺のやり方は結構、癖があるから、それで俺を追って来たんだろ、やりやすい仕事がしたくて来たんだろ」
 そこまで口にして、牛鬼がはっと口を噤み、あら太もまた驚いて、自分というものを振り返った。そうだ。牛鬼のもとで働きたかったのは、牛鬼のもとでしか上手くやれないから。自分のために、牛鬼を追って来たのに、失望だなんて、何て勝手なんだろう。
「た、しかに、俺、……貴方がいないと、何も」
 声が震えた。情けない事に何も言い返せない。
「違う、そうじゃなくて、えっと、一緒だって話だ。……俺だって、無理ばかりして働きたくないんだよ、やりやすい仕事だけ、やってたいさ」
「あ……」
 そうだ。確かに。あら太は、牛鬼の補佐という、やりやすい仕事しかやらないのに、牛鬼にだけ無理を強いるなんて。
「そうですね、貴方の、言う事は正しい」
 なんて一方的に物を言っていたのだろう。急に何もかも恥ずかしくなって、景色がぼやけた。あら太が牛鬼の補佐しか出来ない補佐だという事を、牛鬼はわかっていた。自分に、牛鬼を動かす力はない。青鬼から、牛鬼の更生を任されたけれど、自分はそこまで、牛鬼に影響を持たない。
「アッ……」
 全身が沸騰したように熱くなり目が廻った。足に力が入らず、シャツに赤いシミが出来た。興奮して、鼻血が出たのだった。膝をつくと、ぐいっと牛鬼に両足をとられ、抱きかかえられた事がわかり、さらに体が熱くなった。
「牛鬼さん、ちょっと、恥ずかしい」
「一旦、落ち着け、医務室!」
 牛鬼のかたい胸に体の半分が当っている。こんな熱く猛々しい肉体を持っていたら、さぞモテるだろう。牛鬼は本当に良く出来た同性だ。男として羨ましい気持ちを通り越して、もし自分が女なら、恋するだろうなと思う。佐貫はこの体に抱かれたのだろうか。佐貫なら、牛鬼の心を動かす事が出来るのだろうか。
 ここで泣いたら格好悪い。
 絶対に泣くものか。
 牛鬼を、見返したい。

 医務室に転がされ、深く息を吸うと薬の薫りが広がった。鼻血は止まっていたが、頭の芯がくらくらする。医務室兼仮眠室になっている小さな部屋は、元倉庫だけあって天井が低く息苦しい。運び込んでくれた牛鬼が、なかなか出て行かないので泣くに泣けない。
「徒居さんに会ってください」
 意地になって要求すると、牛鬼からは溜息が返った。
「牛鬼さんが請けないなら、青鬼さんに請けてもらって、俺、青鬼さんの補佐します」
「は?」
「青鬼さん、今赤鬼さんと競ってて、多分お願いすれば少しでも足しになるならって、この話受けてくれると思うんです、俺も、他の人補佐出来るようになりたいし、俺だって顧客の熱意に応えたい、貴方の意思に従うだけの俺から、成長して、貴方を見返してやりたい」
 そこまで言って、牛鬼が妙に近い位置に居る事に気がついて驚いた。何が近いかと言うと、顔が近い。
「ぎ、牛鬼さんっ……?」
 声が裏返ったのは、いつもと様子の違う牛鬼の雰囲気に圧されたため。
「青鬼さんに指示されたのか?そういう風に言えって?それともホントにそのつもりなのか?あの人?
 俺にやる気出させたいのはわかるけど、逆効果だろ、あら太に根回しするだろうってことは想定出来たけど、まさかあら太を俺から引き離しに掛かるとはな?」
「え、あ、違います、青鬼さんの補佐をっていうのは俺が、自分で今、考え付いて、その、徒居さんの案件についてのみですけど」
「あら太は俺のだろ?」
「貴方の、っていうか、……何かちょっと、怒ってますか?」
「ん~、怒ってるっていうか、妬いてる」
「っ」
 その言い方はずるい、と言おうとして咽喉が閉まった。ちょっと距離が近すぎる。牛鬼の、太く浮き出た骨筋や肉厚な体、グッと押す力のある眼光が、セックスアピールの力を持ちすぎていて、ドキドキして来てしまった。この距離で、その顔で、妬いてるなどと言われると変な気持ちになるから、やめて欲しい。
「お、俺だって昼間の、佐貫さんの件で、妬きましたから!!おあいこ、です」
 違う。その「妬く」は恋愛的な「妬く」になってしまう。牛鬼の口にした「妬く」は多分、仕事の話を、会話のオシャレとして、恋愛風な言い回しにしたのであって。
「キスしたい、あら太」
 そこで突然、牛鬼がストレートに殺し文句を口にした。一体、何が起こっているのか。呆けたあら太の顔を、牛鬼の分厚い手が包み込んで、また距離が近づいた。
「嫌?」
「いえ」
 咄嗟にいつもの返事、牛鬼の嫌?には大体、いえ、と応えてしまう。駄目?ではなく、嫌?と聞くところが、牛鬼のテクニックだった。
 あら太はいつも、牛鬼の要求が嫌じゃない。駄目な場合はあっても、嫌な場合はほぼないのだ。何に対しても、牛鬼のやりたい事は、やらせてやりたいという気持ちがある。
「……ふ?!」
 触れるだけかと思ったら、唇を舐められて歯列を割られ、口内に思い切り太い舌を差し込まれた。咽喉の奥まで侵入されるのではないかと思う程、勢い良く、舌や頬の裏を舐められて腰が痺れた。舌の裏を吸われて、初めて自分の舌が、吸い出された事に気がつく。
 その時間は数秒に及んでいたが、あっという間に過ぎ去った。
 牛鬼と体の柔らかな場所を繋げあったという事実が、何となく嬉しかった。隣同士に生えていた、種類の違う花同士の、根っこが絡まったような、急に親密さを持てたような感じがした。
「何で急に?」
 はぁはぁと、荒い息で聞くと、牛鬼は不思議そうな顔をした。それから、困ったように眉を下げ、口元に手を当てた。
「いや、なんか、変な気分になって」
「あ、それ、俺も、ここが狭いからでしょうか」
 驚いた事に、牛鬼の顔は赤く、額には玉のような汗を掻いていた。 
「その前に、俺がおまえの事好きだから」
「え?」
 聞き間違えかと思い、聞き返す。
「魔が差したっていうか」
 二度目の「好き」は聞けなかった。好きというのは、どういう好きなのか、確かに好きだと言っていたかも疑わしい。
「ちょっと待ってください!」
 好きとか言っていますけど、どういう意味の好きですか。佐貫さんはどうなるんですか。そもそも俺達喧嘩していましたよね。
「俺の好きは恋愛感情ね、それと佐貫さんは普通に顧客、あの人が俺に寄せてた過度な期待を、俺は調整する事が出来なかった、あの人は俺に期待するあまりに無理な金を出して、会社を潰しちゃって、俺は、それで凹んで怖がりになってたんだよ」
「牛鬼さん」
「でも、おまえがあんな、無謀な事言い出すから、なんか、ちょっとまた無理な仕事も、やってみようかなって思えて来たんだよね」
「無謀な事、って、青鬼さんの補佐、やるって事ですか」
「前の会社居た時、俺以外の補佐して散々だった癖に、青鬼さんが補佐に対して、糞厳しいの知ってる癖に、良くあんな事、思いついたな」
「だって、徒居さんが」
「わかったよ」
 くしゃりと髪に触られて、何とも言えない心地よさに包まれた。牛鬼が好きだ。実感して耳が熱くなるのがわかった。
「好きです、牛鬼さん」
「え?」
 先程の自分と、同じ反応をしている牛鬼を愛しく思う。
「徒居さんの事、宜しくお願いします、俺も精一杯、補佐頑張るので」
「ちょ、聞き返したらちゃんと繰り返せよ、言った事」
「貴方もさっき、はぐらかしたじゃないですか」
「え~」
 ぐずる牛鬼に笑いかけて、胸の奥が、ほかほかと暖まっている事に気がついた。徒居の仕事を成功させ、牛鬼がやる気を回復してくれる事を切に願う。

 後日、牛鬼の的確な采配で、徒居の案件は一千八百万の利益を出した。
 喜び勇んだ徒居があら太と牛鬼に、この資金でやりたい事を告白しに来て、その内容が『腹鼓株式会社』の再興援助だと聞いた時、牛鬼は少し涙ぐんだ。徒居は佐貫と長い付き合いがあり、佐貫の会社が失われた事を、誰よりも悲しく思っていたそうだ。同時に、佐貫から牛鬼の仕事ぶりを聞いていたという。経営が苦しい中、小額の取引にも嫌な顔一つせず、必ず利益を作ってくれていた牛鬼に、佐貫は感謝していたそうだ。

「復活したな、牛鬼」
 川越、時の鐘地下にある『怪PR社』第二営業部に、青鬼の爽やかな声が響いた。第二営業部フロアの中央、部長椅子後ろにでかでかと貼ってある営業成績掲示板の前で、牛鬼とあら太は表彰を受けていた。
 今月の積み上げ一位になった牛鬼は、普段通りの気怠い雰囲気で立っている。しかし、横に居るあら太の方は、始終にこにことしており、牛鬼が何か吹っ切れた事を物語っていた。


2016/07/11