からめ

『オトナとコドモ』(世話焼き攻め×マイペース営業マン)

 二年前、営業から人事に回された時、妙な感覚に襲われた。突然、何もないところで転んだ時のような放心状態。
 少しほっとした自分がいた一方で、作りかけの砂山を崩されたような、変な悔しさも残っていた。
 自分がそうしたスッキリしない状態のまま移動したという経緯もあり、一本は現在、人事として出来るだけ丁寧に、調整を受ける当人の気持ちに沿った仕事をしたいと考えていた。

 
 問題の男、野平は武蔵国川越、時の鐘地下に本社を構える『怪PR社』第二営業部の中堅営業社員だ。のっぺら坊種の特技を生かし、担当の好みの顔で営業に行くという荒業で、新規顧客獲得一位の座を二年連続達成している。
 他者を茶化すのが大好きという悪癖はあるが部内での評判も良いのでマネージャーをやらせたい。

 会社から徒歩二秒にある、小江戸の町並を道端のベンチから眺めつつ、一本は蕎麦を掻き込んでいた。そろそろ野平がこの道を通るはずだ。
 時の鐘は人の世では観光地になっており、土日祝日には屋台が出る。
 妖怪企業の休みは水曜と土曜になるため、『怪PR社』は日曜の今日も元気に営業していた。
「おっ、来たな!」
 蕎麦を脇に置いて、身を乗り出す。
「野平、のっぺ! のんのんー!」
 野平は男の癖に女の行くような店や、女の好むようなものが好きで、今日も小江戸の道沿いにあるベーグル屋に、ランチをしに行っていた。同僚の牛鬼に裏を取り、一本は野平を待ち伏せた。
「うわっ、やだ、変な人がいる」
 元部下とは思えない失礼な反応で、野平は一本から距離を置いて止まった。わざと怯えたような姿勢で、今にも逃げ出しそうだ。
「ちょっとここ座れ」
 隣を指差すと、野平は涙袋のある優しげな目を細めて、笑った。
「汚い食べかけのお蕎麦が置いてあって座れません」
「汚いって言うな、食いもんだぞ」
 蕎麦をどけて、今度こそ、とばかりにポンポンと隣を叩く。
 しかし、野平は動かない。すらりとしたシルエットが、良く目立つ。他社の女怪達が見惚れて通り過ぎて行くのを見て、一本は何となく、損をした気になる。
 おい、と声を掛けると、野平は首を傾げ、さらに笑みを深くした。
「ねぇ、それじゃぁ一本さん、隣座ってあげる代わりに、前髪上げるか分けるかしてくれないかなぁ、顔全然見えない」
「良いんだよ、俺からは見えんだから」
 意地の悪い提案に、舌打ちをして応じる。野平の見た目、薄紫の髪をピタリと整えて後ろに流し、涙袋のあるパッチリとした目を晒した二十代後半の男。は、一本が過去、無理をして作っていた姿そのまま。
「俺が居るから、顔隠しちゃったんですか?」
「いや、切るのサボってたらこうなった」
 ぐらりと野平の姿が傾いて、一本の顔を覗き込む。
「相変わらず、可愛いですね」
「人より早く止まったからな」

 一本は十二歳で外見年齢が止まり、営業をしていた頃、外に出られる見た目を作るのにとても苦労した。
 十以上歳を取らなければならなかったので、『虚装』だの『老け薬』だの『瞬間催眠香水』だの、早くに歳が止まってしまった妖怪のためのお助けグッズには相当お世話になったが、どれも日常的に使える程、上手く使いこなせなかった。
 結局、落ち着いたのは、妖力で化ける『実装』という手段で、これはいつも気を張っていないといけない上、相当量、肝を消費するため食費もかさんだ。
 毎日十以上歳を取るために気持ち悪くなる程肝を食べ、四六時中、妖力を使って『実装』し、よく疲労で倒れていた。
 多忙な次期は足先が消えかけていた事もある。

「あ、わかった、なんか見覚えあると思ったら、オールドイングリッシュシープドッグだ、一本さん、知ってる? 前髪の長い犬、あれに似てるよ?」
 無邪気にからかって来る野平の、顔面は実装で覆われている。
 歳を取る実装で、自分は相当疲弊したが、顔を作る実装は、どれぐらいの妖力がいるのだろう。
 現在、野平が社内用に使っているその顔は、大人の一本の顔だった。
「おまえ、そういや何で俺の顔してるんだ?」
 改まって聞いたのは初めてだった。野平の顔がどこか幼く呆けたのを見て、この元部下が、遥か年下の妖怪であった事を思い出す。
「うわぁ、……やっっっと本人から聞かれたよ、何年越し?」
 言い方からして、野平はこの問いを待っていたらしい。誰かが質問するシーンは、何度もあったが、その度に野平は作りやすいからだの、気分だの、最初に覚えた顔だの、適当な事を言っていた。
「だってほら、他の奴が先に聞いてたし」
 素直な良い訳をすると、野平はやっと隣に腰を下ろし、ぼんやりと、目の前に並ぶ瓦葺屋根の美しい街並を視界に入れた。黒光りする瓦の下では、江戸時代からの門構えで未だ商いを続ける人々が賑やかに声を掛け合っていた。隣同士で店番をしながら、会話をする微笑ましい人間達の様子に、一本は心を和ませた。そういえば今日は漬物屋が新作を出すと宣言していた日だ。繁盛店だから、夕方、行列が出来る前に買いに行かなければ。
「単に貴方は、俺のことなんかどうでも良かったんでしょ?」
 飛んでいた意識が、野平の不貞腐れたような声で戻された。
「あ?」
 意味がわからずに怪訝な顔を作ると、野平はにっこりと笑った。
「俺、相手にされてないな~って落ち込んでたんだけど?」
「意味わかんねぇ」
「貴方は、姿を盗まれたのに、何とも思わなかったの?普通はもっと突っ込む、っていうか嫌がるよね?」
「あー」
「考えなかったの? なんでこいつ、俺の顔使ってるんだろうって」
 野平の言い分は、つまり、一本にもう少し、姿を使われた事を怒れという事らしい。
「そりゃ、まぁ、少しは……でも、あ、思い出した、おまえ、俺の客結構引き継いだだろ? その関係でじゃなかったか?」
「いえ、その頃、俺はそんなに成績の良い営業マンじゃなかったので、確か貴方の客は半分ぐらい牛鬼が、残りは青鬼さんが引き継いでたと思います」
「ありゃ?!」
 混乱して来た頭を、野平の手が軽く撫でて来た。
 おい、年上の男に向かって失礼な。
「もう、良いです、貴方がいかに普段何も考えないで生きている人かってわかったので」
「おい」
 怒りの声を上げた一本を無視し、野平の手はそのまま、一本の長い前髪をすくい分けた。すると、一本が普段隠している一本の十二歳の顔が、世間に晒され、さっそく観光客らしい猫娘の女子高生グループが、通りすぎながら、今お蕎麦食べてた子可愛くなかった、と囁いて行き、顔に熱が集まる。
 野平の瞳に映りこんだ己の顔。久しぶりに見たが、相変わらず幼い。
 長い睫に囲まれた皿のように大きな目が、パチパチと儚げに瞬いている。小さな口に、くるりとまとまった鼻やふっくらした頬が揃い、非常に愛らしい。
 この容姿には、大体の者をデレデレさせる力があるが、一本は歳も歳なので、どちらかというとデレデレしたい側だった。さらに言うと、男寄りの妖怪としては、構われるより構いたい、愛されるより愛したい。
 女にはよく、見た目を指して頼りないとか、男を感じないとか、百年早いとかギャップがキモイと言われて振られた。
 好きで早く時が止まったわけじゃないのに、と憤りつつ、俺は本当はこんなじゃないんだ、と思う。だから、あまり顔を見られたくない。
「あっ!」
 顔を振って前髪を戻すと、野平は悲しそうに眉を下げた。
「せっかく分けてあげたのに」
「オッサンのアイデンティティが損なわれるんだよ、あの面晒してると」
 低く呟き、食べかけだった蕎麦に手を伸ばす。ずっ、と音を立てて口に流し込むと、よく噛まずにごくんと飲む。小さな咽喉につまり、えほっと悲鳴を上げて背を丸めた。野平の優しい手が背中を摩った。
「大丈夫?」
 憮然として、はぁはぁ息をついている一本に、野平はにこりと笑いかけた。
「俺はねぇ、一本さん、昔の一本さんに憧れてたんですよ。かっこいいなぁ、あんな風になりたいな~って、ずっと思ってて、一本さんが居なくなった時、一本さんが居ないのが嫌で、一本さんになるつもりで、この格好始めたんです」
「おー、そうかい」
 調子の良い奴め、と唇を突き出してみせると。野平は少し困った顔をした。
 何だか、久しぶりに褒められたような気がする。誰かに認められる事は、嬉しい反面でいつもむず痒い。本当に野平がそんな理由で自分の姿をしていたのだとしたら、かなり気分が良いが、少し恐縮もしてしまう。今の野平は、一本が営業に居た頃の十倍以上稼いでいる。どうコメントすれば良いかわからない。
「信じてませんね?」
「そんな活躍してた覚えねぇからなぁ」
「直属の部下にしか見えない部分って、ありますからね」
 もっと聞きたい、けれど、これ以上聞いたら可笑しくなりそうとも思う。嬉しいのに、何故か悔しさが込み上げる。
「営業なんて所詮、体力だからなぁ」
 もちろん才能や気質も関係しては来るだろうが、一本が続けられなかった理由は、第一に妖力の不足だった。大人の姿を、実装で保ち続けながら毎日生きる事に限界を感じた。
 ふと見ると、野平は眉間に一つ、皺をつくっていた。
「疲れたらそこで終わりですか?」
 ぐっ、と胸に刺さる言葉だった。二年前、体力があれば、続けていたかもしれない営業職の事を思う。徐々に上がりつつあった成績表を見上げ、思い悩んでいた過去が蘇る。あの時の人事だった一つ目の鬼、壱目は一本に、営業は向いていないと言い放ち、このままじゃ消えると忠告した。
 野平が手を上げて、通りがかりのアイスキャンディー売りを呼び止めた。ラムネ味を二本購入すると、一つを一本に手渡した。袋を開けて、口に入れるとシュワリとラムネの味が広がった。甘酸っぱい粒が練りこまれていて美味い。
「俺、引き抜きの話受けてるんですよね」
 野平の呟きに、一瞬、息を呑んで固まった一本に目配せし、野平は笑った。
「『あやかし広告』から、マネージャー職で」
 動揺して歯と歯の間に挟んだアイスを、口の中に入れそびれ、口端から溶けたアイスが零れた。
「わ、アイス零れてる、ベタベタになりますよ」
 野平の手が口端を拭ってくれ、はっとなりハンカチを出して渡した。野平は苦笑い、ハンカチで手を拭うと、自分もアイスを口に入れた。
「悪い、ちょっと、びっくりしたから」
 齧った分のアイスを片付けながら、冷や汗が額を濡らしていくのを感じた。衝撃でドキドキし始めた心臓をなだめつつ、野平の横顔を盗み見る。
「マネージャーなんて、大変なだけでそんなに給料変わらないから、気は進まないんだけど、会社を移動するっていうのには、少し魅力を感じるんですよね」
 今日、そのマネージャー職を任せる話を持って来た身としては、完全にやり辛い言葉を吐かれてしまった。
「だから俺……『あやかし広告』の人事に、営業職でなら移っても良いって言ったんです」
「えっ?!」
「でも駄目でした、要は営業を育てる人材が足りないって話で、一人勝ちの営業マンばかりっていうのが悩みなんだって」
 ハラハラしている一本の胸のうちを見透かしたように、一本の反応を見ながら、野平は話を続けた。ラムネアイスの、酸っぱい味ばかりが目立って感じる。唾液が大量に口内を満たしている。
 時計を見ると、昼休みは終わっていた。
「行くなよ」
 思わず、素直な言葉で縋った。
「この会社で、おまえの望みを……なるべく叶えられるよう、俺、頑張るから、本当は今日、おまえをマネージャーにしたいって話、しようと思って待ち伏せてたんだけど」
「ええ、聞いてます、青鬼さんから」
「……」
「貴方が俺を推薦して会議開いてくれたんでしょう?最近俺の事、色々な人に聞いて廻っていたらしいですし……、きっと会議では、それだったら最近業績回復した牛鬼でも良いなって話が出て、俺と牛鬼で票が割れて、鶴さんが俺に一票入れて決まったとか、そんなところでしょう」
「良くわかったな」
「鶴さんは牛鬼さんみたいな才能タイプ好きじゃないですからね、それに、今のマネージャーやってる玉天狗さんは天狗閥だから鬼の青鬼さんとはソリが合わない、企画部に移動っていう話も出てますから、きっと俺か牛鬼が、玉天狗さんに代わるんだろうなって」
「まぁ、その、そこまでは詳しく、教えられねーけど」
「アタリでしょう?」
 普段、営業先の担当を通して営業先の社内情勢をつかみ、担当社の稟議を通させるところまでを行う野平を相手に、これ以上隠す事は不可能なのかもしれない。自分の立ち入った事のない他社の情勢を把握するような男が、自社の情勢がわからないわけがないのだ。
「ああ」
 困ったように下を向くと、ふふ、と野平の笑い声が降った。
「良いですよ、俺、マネージャーやりますよ、『あやかし広告』の引き抜きも受けません」
 えっ、と声を出して顔を上げた。
「一本さんの頼みですからね」
「の、野平っ、おまえ、いいのか?」
「って言いたいところですけど」
 喜ばせておいて、突き落とす。
「さっきランチ中に『あやかし広告』の方が乱入して来て、どうしても来てくれって頭下げられたんです、そんなに俺を必要としてくれてるんだって、ちょっと心動かされましたよね」
「うちだっておまえが必要だ」
「さぁ、どうでしょう」
「おまえの望みを、極力叶えられるよう、頑張る」
アイスは途中から、ポタポタと溶けていた。手に大きな蟻が、登って来ていた。
「それじゃぁ一本さん、しばらく実装生活に戻ってくれません?」
「え?!」
「俺の憧れた、一本さんの姿を、また見せてください」
「憧れ、って、……今はもう、俺、営業じゃねーから」
「俺は、営業をやってる一本さんに憧れたんじゃないんです。一本さん自身に憧れたんです。全身の実装、大変そうだった……。俺はのっぺら坊種だから、顔面を常に実装しなければいけなくて、社会人はじめの頃は凄く苦しかった。きつくて何度も休んだり、実装をしないで会社に行って叱られたり、どうして俺ばっかり、って思ってた。……だから貴方が毎日毎日、弱音を吐かずに実装を続ける姿を見て、感銘を受けたんです」
「……」
 野平の目は力強く真っ直ぐで、その気持ちに嘘はないのだとすぐにわかった。一本は頷くしか、道がなかった。


 次の日から、一本は実装で通勤した。
 朝の小江戸で店を開いているのは、コンビニとカフェのみ。初日から途中で倒れたり消えかけるわけにはいかないので、燃料補給とばかりにカフェに寄って珈琲を注文した。妖怪向けのカフェだったが、人にも店を開いており、人の皮を被った店主は人の世に向けて料理ブログまでやっている。豆腐小僧種のこだわりなのか、豆乳どーなつや豆乳クレープ、豆乳チーズケーキ、豆乳飲料がカラフルにメニューを賑やかしていた。そんな中から、珈琲を選んだ一本に、店主が珍しいねと声を掛けて来た。
「チーズケーキは?」
「いらねぇ」
「ん?どうしたい?今日はご機嫌斜めかい?」
 店主の馴れ馴れしい様子に、一本は顔を顰めたが、恐らく野平と勘違いをしている、と気がついて慌ててやっぱりくれと言った。どうして一本が野平に合わせるような格好を取らなければいけないのかとも思ったが、考えてみると、この姿を使っている年月は野平の方が長い。
 灰色のどっしりした陶器に入った珈琲をチビチビと飲みながら、赤い日本傘の下で朝の空気を味わった。整然と同じ高さに保たれた瓦葺の美しい小江戸の景色を眺めながら、しみじみとその美しさに感じ入った。
 秋になったら寺巡りにでも行こうかな、と相模国の鎌倉を頭に浮かべながら、紅葉が綺麗なのはやはり円覚寺だろうかと考え始めたその時、のっぺセンパァイ!と黄色い声と一緒に二の腕に女の頭のぶつかる感触がした。近い距離から、香水の良い匂いをさせて、女怪のろくろ首種、飛頭が伸ばした首をぐいぐいと二の腕にぶつけて来ている。目の前にはデンと巨大な胸があって、風流に想いを馳せていた空気が飛んだ。
「あのぉ、聞きたい事があってぇ!」
 飛頭は体を上下に揺らしながら喋るので、その度にゆさゆさと胸が揺れる。
「お、おう」
 胸に視線が引き付けられ、離れない。
「ちょっとやだ、のっぺセンパイ欲求不満?ロミの胸超見てない?!怖いぃぃ!」
「ば、ばか、しょーがね、じゃねー、悪い!」
 ぐっと気合で視線を胸から上げ、飛頭の伸びた首の方を見たら、つけ睫とデカ目効果で、これ以上可愛い生き物はいないのではないかという程、可憐な女の顔があった。ドキンと胸がなって、何だこのトキメキ、久しぶり、と思っていると、飛頭はごそごそと紙袋を出して、中から高価そうなハンカチを出した。男物である。
「これ、牛鬼さんに! 復活祝いっていうか、ここんとこ、ずっと調子悪かったじゃないですかぁ~、それが先月、積み上げ一位とか超嬉しかった、かっこよかったですぅっていう、そういう気持ちでぇ、喜んでくれると思いますぅ?」
「あ、おう、そうだな……多分」
「やぁだぁぁ、のっぺセンパイ今日テンション低いぃぃ、ロミと牛鬼さんが上手くいかなくて良いの?!」
「良くは、ないと思うけど」
「もういいっ! あら太君に聞くっ!!」
 嵐のような出来事、とはこの事で、ズンズンと去っていく飛頭の後ろ姿を見て、飲み終わった珈琲を店主に返すと、そうか、そうだよなと今更ながら気がつく。この姿は、一本のものであって一本のものじゃない。野平として認識している者が多数で、一本として認識している者の方がむしろ少ないのだ。
 たった二年前なのに、大人の姿で生きていた頃の、あの自分を知っている者は、もうどこにもいないような気がした。

 午前中の会議が終わり、諸々の書類を各課へ届けに管理部フロアを出ると、おはようございます野平さん、と社内清掃を任せている清掃業者、『あかなめ清掃』の管理者と思われる男に呼び止められた。
「お仕事順調ですか~?」
「はぁ、はい」
「俺さっき企画部の会議室で見ちゃったんですよぉ、野平さんと仲良いあの巨乳のろくろ首、牛鬼さんに何かプレゼントしてましたよ、浮気じゃないっすか?」
 業者とも仲良くしているのか、と驚きながら、答えに困っていると後ろに人の気配がした。
「あれ?! 野平さん?! ド、ドッペルゲンガー?!」
「おはようございます要さん、俺が本物ですよ~? 今日もパンチラ見れました?」
「見れました!! いやぁ~、『怪P』の女子社員、やっぱレベル高いですよね、見えた時の幸せ度が違いますもん」
「あんな忙しい現場に居るのに絶対ミニスカって凄いよね、いっそ見せに来てるよね、しょっちゅう書類落としてしゃがむし」
「赤鬼部長がなんか叱ったらしいっすよ、給湯室で陰口叩かれてましたもん、格好をもう少し堅めにしろって言われたって」
「まじで、赤鬼さん清楚好きだからなぁ、余計な事言わないで欲しい」
「まったくですよねぇ~」
 パンチラなど、これまで意識さえしていなかった自分は枯れているのだろうか。
 そういえば、今朝、巨乳の谷間を見て思い出したが女との接触も一年以上ない。二年前、大人の姿をしていた頃はそれなりに機会があったが、子どもの姿で通勤出来るようになってからはご無沙汰だ。
「あ、そうだ要さん、紹介しとくね、一本さん・・・! 昔俺の上司だった人で、俺の元ネタっていうか、この人の顔を俺が普段使わせてもらってるんだよ」
「え?! じゃぁこっちが本物なんですか?!」
「本物っていうか、元ネタ?」
 しげしげと見られて、額に汗を掻いた。早くこの場を去りたい。
 廊下の向こうで、『あかなめ清掃』の清掃員が、要さーんと声を張上げたために救われた。要が呼ばれた方に去った後、野平をちらりと見て、何か話題を、と探す。
飛頭さんの事、大丈夫、なのか?」
「え?何が?」
「気になっていたんじゃ……?」
「え?! なんで?!」
「あんなに仲が良いのに、何ともないってことはないだろう?」
「違いますから、もぉ、ちょっと男女が仲良いとオッサンはすぐそういう話に持ってくなぁ」
「牛鬼は良い男だけど、おまえだって、その、俺の顔ではあるが、しっかりしているし、人は中身だろ」
「だから違うから」
 強い口調で、苛立ちが滲んだ声だった。
 一本は野平と会話をしたかっただけで、不快にさせたかったわけではない。しょんぼりと黙ると、野平はするりと、一本の頬を撫でた。
「ほんとに『実装』して来てくれたんですね、俺のために」
 肌触りを確かめなくても、見れば『実装』とわかるだろう。最近は『実装』に近い完成度を誇る『虚装』技術も、手軽に利用出来る世の中になったが、まだまだ『実装』と『虚装』の間にはクウォリティに差があると思う。
「……ところで、今日。良かったらランチ一緒しませんか?」
 突然、ランチなどとカタカナで言われて戸惑う。飯、と漢字を吐き、生きて来た一本としてはむず痒かった。承知すると、野平は嬉しそうに笑った。
 ランチというとあのベーグル屋だろうか。
 それとも最近西武線川越駅前に新しく出来たスパニッシュカフェのランチだろうか。何にせよオシャレな店に連れて行かれるのだろう、悪目立ちしないようにしたいので、ネットで作法をチェックした。取り敢えず、パスタを音を立てて吸わないようにするのと、楊枝で歯の隙間に挟まった食い物をシーシー言いながら取らなければ大丈夫そうだった。
 一本さん、と声を掛けられて昼の時間になったのがわかった。野平は管理部までわざわざ向かえに来た。連れて行かれたのは駅前だったが、落ち着いた雰囲気のスタイリッシュな蕎麦屋だった。川越は小江戸近郊や住宅街こそ昔風の街並を残しているが、駅前は賑やかにビルが立ち並んだ雑多な場所であり店も多い。その中から、よくもここまで一本好みの良い店を選んでくれたと野平の気まぐれに関心した。
「おまえも蕎麦好きなのか?」
 聞くと、野平はうーんと首を捻った。
「普通?」
 それじゃぁ、なんでこんな蕎麦好きが大喜びするような場所を知っているんだよ、と聞きたかったが、また余計な質問をして空気を悪くするのも嫌だった。
「これは、絶対美味いぞこの店」
 品書きのシンプルでこだわりに溢れた顔ぶれと、客層のいかにも蕎麦通という風情に胸を打たれ、一本は興奮して拳を握った。出てきた蕎麦は、やはり美味かった。蕎麦湯も、いくら飲んでいても飽きないような、むしろ単品で注文しても金が取れるというぐらい、さっぱりして味が深かった。
「夜来て、酒も一緒に注文したいなぁ、今度」
「そうですね、今度」
 野平はどこか照れたように、今度、という言葉を囁いた。
 そういえば、憧れられていたんだよな、俺はこいつに、と思い出して、一本は急に、もしかしてこの店も俺の好みに合わせて選んでくれたのでは、と思い至った。
「美味しかったですか?」
「良い店だな、ここ」
 野平の問う声に、手料理を彼氏に聞く彼女のような、温かさを感じてそっぽを向いた。照れくさい。
「それじゃぁ、来週の金曜夜、暇ですか?」
「あ、予定はまだない」
「空けといてください、またここ来ましょう、お酒飲んで、久しぶりにゆっくり話をしたいんですけど、良いですか?」
「おう」
 野平の誘いは、いつも自然だ。

 あ、野平さん、と廊下ですれ違い様に若手の営業に呼び止められた。喫煙スペースに続く人のいない場所だった事も手伝って、狼種の彼は立ち話しようと足を止めた。誤解を解こうと口を開く前に、頭を下げられた。
「『山姥会』への同行ありがとうございました。おかげ様で契約取れました。野平さんに交渉して貰わなかったら駄目でした」
「凄いな」
 『山姥会』は通信教育業界の大手だ。
「ええ、これで今月達成です」
 狼種の彼の名は、確か狼山。良くミスをして叱られている姿を目にする。将来有望な新人に恩を売る名目で面倒を見る人間は多くいるが、あまり評価の高くない新人の面倒まで豆に見ているのだな、と考えて、やはり野平はこの会社に必要な妖怪だという思いを強くした。
「野平さんの商談で覚えた聞き方使ったら、こないだ別のところでも契約決まったんですよ」
 興奮して懐っこく、喜びを語って来る狼山に戸惑っていると、喫煙スペースから、牛鬼がやって来た。
「何してんだぁ狼山、一本さんと仲良かったっけおまえ?」
「え?」
「この人、野平じゃねーぞ?」
 え、と繰り返して狼山は慌てて一本の顔を見ると、わけがわからないという表情を作り牛鬼を見た。牛鬼はふぅ、と溜息をつくと狼山の首を腕で絞めた。
「おまえは好い加減、そのウッカリ改めろぉ~! 野平がこんな誠実そうな表情するかぁ? あいつはいつもヘラヘラヘラヘラ無責任そぉ~に笑ってんだろぉ?」
「すみませんんん」
 そのまま、狼山は牛鬼に引き摺られ、その場を去ってしまった。実は一本と野平をすぐに見分けた牛鬼の方が少数派で、間違えてしまった狼山の方が多数派だという事を明かしたかったが、二人は既にエレベーターの向こうに消えていた。
 付き合いの長い人間には、さすがにわかるようだ。

「野平さん」
 もう呼ばれ慣れて来てしまった、その名に反応して振り向くと、会議室前で鎌イタチ種の女怪、第二営業部の鎌立が資料の相談を野平に持ちかけたところだった。野平は優しい顔をして、わかりやすい表現に直した方が良い箇所や、確認を取っておくべき事項を指摘していた。最後に、下調べの丁寧さなどを上げて鎌立の仕事を褒め、競馬のクリアファイルに収納されているところをからかった。鎌立は照れつつも、からかいに困って、野平の腕を軽く叩き拗ねてみせる。
 良い雰囲気だと思い眺めていたら、野平と目が合って急に気まずさが首をもたげた。

「こういう店は、落ち着かないですか?」
 小江戸の街並は時代劇のセットのようだ。しかし、一つ路地に入ると現代的な都会の景色になってしまう。若い女性向けの小物屋や、サラリーマン向けの飲食チェーン店、判子屋や写真屋、不動産屋、薬局、コンビニといった店が並ぶ中、テラスのついたカフェ兼パン屋に野平と二人で昼飯を取りに入った。店内には昼休みのOLが多く、男は恋人の付き合いで来たという風な奴ばかりで、男二人組の野平と一本は浮いていた。
「ここのパン屋は肝の量をかなり大目にしてパンを焼いてくれてますから、疲れに良いですよ?」
 恥ずかしいという気持ちが、野平には備わっていないのだろうか。一本ばかりがそわそわして落ち着かない。
「あの~ぉ、お二人は双子とか、だったりするんですか?」
 外まで続いているレジ行列の中から、砂撒き種と思われる髪に鉱物のよう煌めきの含まれた女と、飛縁魔種と思われる妖艶な女が声を掛けて来た。
「ええっと、俺がのっぺら坊種でね、この人イケメンでしょ? 姿借りてるの」
「のっぺら坊種~! すご~い!」
 何が凄いのか、キャァキャァと笑いながら、二人が場を華やかにしてくれるので、一本は野平の様子を伺った。出来たらこの二人をこのまま同席させて、今の羞恥プレイ状態から抜け出したい。
「二人とも観光?」
「そうなんですぅ、ここのパン屋『るるる』に載っててぇ~、おいしそうだったから寄ったんですけどぉ、人気店過ぎて困っててぇ、もう並ぶの諦めて他行こうかなぁ~とか思ってたんですけど!」
「そうだね~、この時間混むから、また夕方とか寄れば? 喜多院の五百羅漢様達にはもう会って来た?」
「まだですぅ~」
「あの人達三時ぐらいからお昼寝入っちゃうから、早めに行った方が良いよ」
「えーっ、嘘、やばい」
 どうやら、野平には二人を同席させる気はないらしい。
「まぁでも、喜多院までこっから三十分掛かんねーから、そんな急ぐ事もないとは思うぞ。パン気になるなら、俺三つも食べれねーから、二人とも一つずつ好きなの選んで食べてけば、席も二つ空いてるし」
 横槍を入れると、二人はすぐイイんですかぁ?! と黄色い声を上げて座った。飛縁魔種の女は、飛縁魔種だけあり非常に美しく、胸や尻がでかかった。思わずじっと見ていたら、うふ、とばかりに笑みを浮かべられてかぁっと頬に熱が貼った。
「え、やだ、何何、恋?」
 砂撒き種の女が茶化すと、飛縁魔種の女が楽しそうに、イケメンに熱い目で見られちゃったぁ~、などと言うので、困って野平に助けを求めたら、野平は面白くなさそうに椅子の背に寄りかかり、通行人などを眺めていた。
「ごめん、俺、女性慣れしてねーから、不躾に見ちゃった」
「えー?! 意外~! モテそうなのにー! 職場に女の子いないんですかぁ?」
 飛縁魔種の女が身を乗り出すと、大きな乳が揺れ、嫌でも見てしまう。
 はっとして目を逸らすと、あぁ~、と悪戯っぽい声が上がり、もしかしてご無沙汰かぁ~? と色っぽい声で言い当てられる。
「ちょっ、エンちゃんまだお昼っ! すぐ盛るのやめて!」
 砂撒き種の女に咎められて、飛縁魔種の女が身を乗り出すのをやめた。この子になら、血を吸われても良いなぁ、などと妖怪らしからぬ事を考えてしまう。
「ねぇじゃぁ貴方、インスタやってる?友達になろうよ」
 飛縁魔種の彼女に言われ、慌ててスマフォを取り出す。それを、野平が取り上げて、懐にしまった。
「えっ?!」
 声を上げたのと同時に、野平の冷ややかな目に射抜かれて凍った。何を怒っているのか、ここまで機嫌の悪い野平は見た事がない。
「うちの会社、ナンパ禁止なんですよ~」
 初耳だ、という言葉も恐怖で出て来ない。野平の怒りがびしびしと伝わって来る。それは女達にも伝わったようで、飛縁魔種の女も砂撒き種の女も急に大人しくなった。
 もそもそと全員が無言でパンを片付けると、帰り際、二人を喜多院へ行ける観光バス乗り場へと案内し、特に名前を教えあうでもなく別れた。
 せっかくの出会いが、という言葉が咽喉元まで上がって来ていたが、野平があまりに不機嫌なので、どうにか飲み込んだ。
「おい」
 声を掛けると、ぐっと腕を掴まれて細路地に連れ込まれた。
 何かと思ったら目の前に自分の顔、野平の顔が迫っていた。唇に、同じ形の唇が触れる。
「?!」
 言葉にならない言葉で疑問を伝えると、野平はやっと機嫌を治し、うっすらと笑みを浮かべた。
「俺、一本さんとセックスしたいんだね、理解した」
 理解した、と言う野平に対して、一本は混乱した。
「セッ?!」
「良く落ち込んでたんだよ、貴方の事、妄想して抜けるから」
「抜っ」
「俺、ショタコンだったのかなーって、でも、今の姿の貴方もいける、っていうか今の姿の方が燃える、いや、どっちでも燃えるなー、どっちが本命なんだろう?」
 ぱくぱくと口を動かして、一本は自分に男色趣味はない、と伝えようとしたが、野平の機嫌がまた悪くなっても困るので、今度改めてセックスに誘われた時に伝えようと思う。というか、何故、同じ姿の自分とやりたいなどと思ったのか。
「ナ、ナルシストなのか?」
「それはどうだろう?」
 野平は一向に、近い距離のままで、ここは細路地で、会社の近くで、バクバクと心臓が音を立てて、危険を知らせている。
「一旦、下触らせてくれない?」
「今度な」
「駄目」
「いやその、駄目とかは俺が決める事だろ?!」
 大の男二人が、細路地で密着して性的な雰囲気になっている。建物の影で完全に歩道から死角になっているし人気もないけれど。まだ昼だし。モラルの問題が。
「溜まってるくせに」
「や、そん、おまえ何っ?!」
「ご無沙汰なんでしょ」
「ご無沙汰だけどな?!」
「今度良いなら今でも良いでしょ?」
「野平っ!」
 また唇に、唇が当たり、今度はねっとりと舌が口元を舐めて来る。
「うっ」
 ベルトが外される音と、下着の中に他人の手が入って来る感触に体が縮こまった。親指と中指で円を描いた野平の手が、一本のものをぬる、ぬる、と扱き出す。太腿に力を入れ、感じないようにしたが、意識がそこに集中して余計快楽が得られてしまい、ついに荒い息のなかに喘ぎが混ざった。
「一本さんの形覚えました、いつか全身一本さんに実装して、一本さんのこと、一本さんにそっくりな姿で苛めてあげますね」
「っぁ、野平、やめ、……出、ぅ」
 くるりと手を丸めて、下着を汚さないよう受け止めてくれた野平の手を、ぼんやりと眺めていたら、その手が野平の口元に行った。
「おい?!」
 まさかと思って掛けた声もむなしく、野平はごくんと咽喉を鳴らしそれを飲んだ。へたりと、その場に尻をついて、剥き出しの性器がスゥスゥとするのも気にせず、野平を見上げると、野平は苦い、と呟いて眉間と鼻筋に皺を寄せていた。
「おまえ、正気か?」
 力の無い声で問うと、野平は辛そうに口をもごもごさせると、まぁねと呟いた。その声はがらがらしている。一本の出した液は、酸味が強かったらしい。
「一本さん、苦いチューさせて」
「は?!ざっけんなよ、今おまえ、俺の、俺の!……んぅ゛っ」
 ぐいっと頭を捕まれて、また唇を奪われたが今度はぐっと歯を食いしばっていたので、表面を舐められただけだった。
「何その顔、レイプされたみたい」
 指摘されて気がついた。怖いという感情が全面に出た顔で、野平を見ていた。
「俺は、レ、……襲われた、のか?」
 聞いてみると、野平はぷっ、と唾を吐いた。
「襲いたくなんかなかったですよ、今週の金曜日に、勝負を仕掛ける予定だったんです、それが……」
「ああ、あの蕎麦屋で……勝負?」
「ええ、自宅に招いて良い雰囲気を作って合意の上でやる予定でした」
「ベロベロに酔わせて?」
「ええ、良くわかりましたね、……あ、言い忘れてましたけど俺、貴方の事が好きです」
 それは、この態度を見ればわかる。いや、わかるか? と色々と突っ込みを入れながら状況を整理した。
 野平は一本をセックスしたいと思う程好きで、先程不機嫌になったのは一本が女に鼻の下を伸ばしていたから。そうなると、野平がいきなりこうしてキスをして来たのは、ヤキモチが募っての事だ。そして、その場の勢いに任せて手淫をし、精液を飲み干して本気度を知らせた。
 野平が、一本を性的に好き。
「想像してなかった!」
 呟いて、思い起こすと色々と覚えのある、野平の発言や行動の数々に深い意味を感じる。相変わらず地に尻をついて呆然としている一本を、野平は不安そうに、見下ろしている。
「貴方のことずっと好きだったから、さっき、取られるかもしれないと思って、怖くなってこんなこと、しでかしちゃいました。
 久しぶりのミスですよ。覚えてますか? 俺は仕事でミスが多くて、良くフォローしてもらいましたね、貴方のお陰で俺はここまで来れた」

 二年前、行かないでくださいと涙目になって、自分を引きとめていた野平は、行かないでくれれば何でもしますと言った。だから行かないでください、一本さんが居るから勤め続けているんです、一本さんが居なくなったら俺は生きていけない、一本さん行かないで。今の野平からは、想像出来ない、いくじなしでトロかった、あの野平はどこに行ったのだろう。あまり出来の良くなかった野平の世話をするのが、一本の仕事だった。一本が唯一営業に貢献した事は、野平という営業マンを育てたところにある。
 一本が移動する少し前から、野平は営業のコツを掴み成績を上げて来ていた。野平が一人でやっていけると思えたからこそ、一本は移動したのだが。

「そうか、俺はおまえが心残りだったんだ」
「え?」
「忘れてた、あんまり、あの後スムーズに、おまえは成長していったから」
「ええ、おかげさまで」
「それと思い出した、俺、あの時、おまえはずっと営業で居てくれ、とか、言わなかったか?」
「……」
「おまえに、勝手に自分の思いを託したっていうか、うん、俺は多分営業職が好きだったんだ、本当は離れたくなかった、だからおまえに……」
「ええ、良く思い出してくれましたね、何でも言う事聞きますって言った俺に対しての、願いみたいな形であんな事言うから、俺、結構重く受け止めて、引き抜きの話にもそのポリシー持ち出したんですけど、その事けろっと忘れてマネージャーやれみたいな事言って来たから、ちょっとむかつきましたよね」
「悪かった」
 くしゃりと頭を撫でられ、だからそれは年上の男にやったら失礼だぞとまた思う。しかし、しゃがみ込んで来た野平が、あまりにも優しく額や頬にキスを落とすので、一本はさっきまで怯えていたのが嘘のように安心した気持ちになった。
「野平……」
「何ですか?」
 まだ、好きだと言えるまでの感情はないけれど。
「おまえの事、嫌じゃない」
「セックスは?」
「わかんねー」
「そこ、結構重要ですけど」
 ぐっと身を乗り出して来た野平の肩を押して、顔を背けた。照れくさい。
「あ、顔赤い、脈アリでしょうか?」
「照れてるだけだ馬鹿」
 時計を見ると、あと五分でランチの時間が終わるところだった。
「俺、マネージャー、やりますよ」
「っ!」
 ぽつりと野平が吉報を口にして、喜んだ拍子に実装が解けた。先程までの緊張状態が、精神に結構な負荷を掛けていたらしい。戻ったが最後、どっと疲れが出て、もう実装する元気が出ない。
「なんで小さくなってるんですか?」
「なんか安心して」
「まぁ、良いですけどね、自分の気持ち、確認出来ましたし」
「確認?」
「いや、俺、本気で悩んでたんですよ、貴方のこと見かけるたびにムラムラしちゃって、ショタコンなのか、単に貴方が好きで、貴方にムラムラしているだけなのか」
「そのために俺に実装させたのか?二週間近く」
「ええ」
「俺の熱意を計るとかそういうつもりじゃなく?」
「貴方が仕事に一生懸命なのはわかってますし、貴方に行かないでくれとか言われたその瞬間に他社に行く選択肢はなくなりましたからね」
「……」
「マネージャーの話だって、要は出世ですから、逆に嬉しいぐらいですよ?」
 にっこりと、腹の立つ笑みを浮かべる野平の両頬を、パンと音がする程、小さな両手で打った。人の努力を何だと思っているのか。
「馬鹿野郎!!!」
 怒鳴って、身辺を整えると路地を抜けた。
 丁度、訪問の帰りらしい牛鬼とその営業補佐、小豆が通りがかったので、これ幸いと小豆に抱きつき、怯えた顔で路地を指差す。
「そこで、野平に、チューされたッ!!」
 小豆の顔が怪訝なものを見る目で、路地を向き、牛鬼がよし、と腕まくりをする。
「何発殴れば良いですか?」
 路地から出て来た野平が、喧嘩準備万端の牛鬼と、自分を変質者でも見るような目で見ている小豆に出くわす五秒前である。



2016/07/11