からめ

からめ

小説担当むーと漫画担当みーによる創作BLを公開しています。

『こわいモノ』(執着攻め×強気受け)


 こわいモノの近くに居続ける事が難しそうだったので逃げた。逃げたら、こわいモノのこわさが増幅した。いよいよ逃げられないぐらいこわくなって、向き合ったら少し、そのこわさを軽減する事が出来た。

「鶴」
 呼んだのに、こちらを振り向きもせず何だよと応じた鶴の肩に手を乗せる。そのままグリリと肩甲拳筋を押したら、を゛ぁっと鈍い悲鳴が上がった。
「凝ってる」
 肩揉みが始まると、鶴は手を止めて鬼李の指の動きに集中した。鬼季と鶴が同居している家の居間は広く静かだ。
 マッサージが終わると、はぁと艶かしく鶴が息をついたので、むらむらスイッチが入る。
「鶴……」
 肩に置いた手で後ろに引っ張り、鶴を仰向けに倒すと、被さってキスをする。鶴は素直に、口内に侵入して来た鬼李の舌に舌を絡めたが、その先に進もうとした鬼李の胸を右手で軽く押した。
「おい」
「何」
「おまえもちったぁ作業しろ」
 昔は囲炉裏があった居間の中心には、巨大な加湿器が陣を取っており、天井のエアコンが送って来る乾いた暖かい風に湿気を交ぜている。過去、鬼が数十匹集まって決起集会を開いたこの部屋は、広いばかりで色気がなく、掛け軸も無ければ美麗な襖絵もない。
「作業って?」
「年賀状、返事を出せとまでは言わねぇ、せめて読め」
「面倒臭い」
「おい、挨拶だろうが」
 鶴は広い居間の隅に積み上げられたダンボール二十箱を見やった。過去、関わった人数の多い鬼李宛の年賀状は箱で届く。こちらからの返事など百枚もしないのだから、良い加減送りつけるのを辞めて欲しい。鶴が傍に居ると、どうしても見ろと言われ二割は最低でも目を通す事になるのだ。
「無理」
 居間の真ん中で、手足を投げ出して寝転がると、仰向けのままだった鶴が匍匐前進でやって来て、ぽてりと頭を胸に乗せて来た。
 ああもう。
「可愛い鶴」
 こうやって素直に甘えてくれる鶴から、幸せと同時に恐怖を得る。一度失いかけた事がある分、闇の記憶は骨の髄まで染みている。こわくて仕方がないものを、抱きしめるのにはいつも覚悟が居る。
「言っとくけどな、俺にだって七箱届くぞ」
 年賀状の話が、まだ続いていた。ちらりと鶴の側にあるダンボールの数を見ると、四箱しかない。
「まぁ、三箱は山神にやって貰うが」
 言い訳するような声色の付け足しに、はいはいと鶴の頭を撫でる。
 過去、岡引として名を馳せた鶴を慕う妖怪の数は多い。鶴は全てに目を通し、必要なら返事も出す。
「鶴は偉いよね」
 褒めてやると、鶴はぎゅぅっとこちらの服に捕まり重くなった。
 やっとその気になってくれたようだ。腰を撫でると、はぁ、と熱い息を吐く。腿を掴むと、ふわりと手に馴染む肉の感触がした。
 鶴は男のくせに、ふわふわしている。骨組は確かに男なのだが、体中。掴むと柔らかいのだ。昔はもう少し骨と皮だった気がする。
 長い陰間時代に、変化してしまったのだろうか。抱きやすい体だ。

 外ではしんしんと雪が降って居る。鬼李と鶴の住んでいる地下一層の天気は雪だ。過去と未来と現在が混ざってしまいそうな、剣呑な空気が屋敷に溢れていた。乱れ始めた鶴の息遣いだけを聞きながら、鬼李は駆け出したくなるような衝動を覚えた。鬼李も思い出したくないし、鶴も思い出したくない出来事が、頭を襲って来た。


 江戸の終わり、完全に力を取り戻した鬼李は用心棒として、日本妖怪同士の勢力争いに巻き込まれていた。一方で鶴は、それまで鬼李復活のために、岡っ引き業を営んでいたのを引退し、小さな長屋の差配人になっていた。山神と二人、長屋の住人の悩みの相談に乗りながら、老夫婦のような暮らしをしており、仕事の合間、骨休めとして時折二人の元に帰る鬼李を、まるで息子を迎えるように、受け入れてくれていた。
「鶴、山神、……帰ったよ」
 その日も、長屋から離れた差配人小屋の玄関に、ひょっこりと顔を覗かせ、二人を呼んだ。すぐに山神が満面の笑みで駆け寄って来た。
「親分、親分!鬼李のぼんが帰りましたよ」
 小屋は玄関を左端に、中央に居間、その奥に台所、右端に奥部屋があり、鶴はこの奥部屋の縁側にいつも寝転がっていた。
「鶴」
 奥部屋につくと、ぶすっと胡座を掻いている鶴の名を朗らかに呼んだ。鶴は鬼李と目を合わせず、庭を睨んでいる。
「チッ、どの面下げて帰って来やがった? ぷらぷら、ぷらぷら遊び歩きやがって……! 二年も音沙汰無かった癖によ、うちは宿屋じゃねぇんだぞ」
「ああ、ああ。駄目ですよ親分、憎まれ口叩いちゃ、せっかく鬼李が帰って来てくれたのに」
「こんな奴、帰って来ねー方がいいんだよ、遠くにでも行っちまえ、その方がいっそ清々すら」
「親分!」
 山神の叱り声に、鶴は少しばつの悪そうな顔をすると、ちらりとこちらを見た。目が合った瞬間に少し瞳を潤ませる。会いたかった癖に、と心の中で詰りながら、鬼李に傍に居て欲しいと言えない鶴の不器用に甘え、距離を置いている自分を恥じる。
 厳重に鍵を掛けた宝箱の中の、隠しておきたい財産を、目の前にした時の喜びと後ろめたさ。誰にも壊されたくない、取られなくない、大切なものを、どうやったら守り通す事が出来るのか。失う恐怖との闘いが、ここまで苦しいものだとは。
「鶴」
 傍に寄ってまた名を呼ぶと、鶴は今度は立ち上がって、縁側で草履をつけ、裏口から出て行ってしまった。
「どこ行くんですか? 親分……?!」
「どこだって良いだろうが、散歩だ」
 いつもの光景過ぎて、鬼李は笑った。鶴と山神の暮らしはいつも平和で暖かく、危険と言えば、鬼李の力を得ようとした妖怪によるちょっかいが掛かった時ぐらいだが、鶴はその手の危険をすぐに察知し、上手く立ち回れる力を持っていた。
 可笑しくなったのはどこからか、未だに鬼李は原因探しをやめられないでいる。
 最近、思い当たったのはこの頃の事。
 いつも散歩に出た鶴は数分で戻って来て、鬼李がまた家を出るまで、鬼李をずっと自分の隣に座らせ、鬼李の手柄話を聞きたがった。
 それが、この日は近所をうろついていた牛鬼を捕まえて帰って来た。
 牛鬼は鬼李について各地を廻り、見聞を広めたいと言った。それを鬼李が認めた。山神が、親分も連れて行ってくださいと助け舟を出し、鶴は不貞腐れた顔で、期待を隠せない瞳で、行っても良いと言った。この時素直に、連れて行けば良かったのだ。
 しかし鬼李は鶴を連れ歩くのがこわかった。傍に置きたい気持ちより、仕舞って置きたい気持ちが勝り、よりにもよって、足手纏いなどという言葉を使って鶴を拒絶した。

 それから二年後、鬼李が再び鶴と山神のもとに帰った時、鶴は赤鬼のもとでまた岡引をしていた。
 鶴は牛鬼と共に帰って来た鬼李に、意地の悪い顔でこう言った。大妖怪同士、似合いだねご両人、土子の顔が楽しみだ。妬く様子も、やはり自分も連れ歩いて欲しいと取縋る様子もなく、只、牛鬼と達者でやって行けよ、と鬼李を見放した態度を取る鶴に、鬼李は焦りを覚えた。
 鬼李は鶴に、まるで興味のない者に接するようにされる事に、慣れていなかった。だから、つれない鶴をまるで気まぐれな味見程度の様子で、力づくで抱いた。この態度は単純な照れ隠しだったのだが、鶴には通じなかった。鬼李は牛鬼との中を弁明するつもりだった。鶴は鬼李が自分を軽んじていると取った。二度と顔を見せるなと言われたのと、祖国から助けを求められていたのとが重なり、鬼李は鶴の前から姿を消した。
 鶴がどこかで健やかに生きていれば、それだけで良いと思った。その方が心が休まる事に気がついた。いつかの鶴が、いっそ遠くに居てくれた方が良いと言っていた事を思いだし、自分も同じ気持ちだったと気がついた。無事で居てくれれば十分だし、鶴なら大丈夫だという自信があった。
 鶴が安定して平和に生きて居る事に何の疑いも抱かなかった。

 だから、山神が青い顔をして、親分を救ってくださいと、訪ねて来た時には何を大げさなと気楽に構えて応じた。嫌な予感を覚えていた心を無視して、頭が気楽な想像ばかり働かせ、やっと寂しくなったのか馬鹿鶴、と心が踊った。

 それでも、焦りは正しく鬼李を急がせた。
 山神が鬼李に助けを求めてやって来た時、鬼李は故郷で再び国を治めており多忙だった。小さな国の皇帝は、国の奴隷と等しかった。己の時間など、一切とれぬ状況だったが、反対する臣下を力でねじ伏せ出国した。パリの前衛芸術家の個人展示場を客として訪れ、そこで地獄をみた。立場さえ無ければ、関係者と過去の来場者全てを皆殺しにしたかもしれない。鬼李は入口に立った時点で、両足から力が抜け、その場に膝をついた。
 入口には、三匹の悪魔に食われるように犯されている鶴の巨大絵があった。鶴と共に連れて来られた他の美しい妖怪の絵も、数多く飾られて居たが、作品数で言うと、鶴の絵が七割、そのうちの半数が無残な陵辱絵だった。
 例えば、人外の姿の悪魔と性交させ、嫌がっている様子を描いてみたり。物理的に入らない大きさの一物を差し込み、気絶させた様子を描いてみたり。興奮剤を打ち込んだ状態で、感覚器に激しい刺激を与え、快楽で身悶えている様を描いてみたり。その殆どが連続絵で、鶴がどんな顔で苦しんだのか、怯えたのか、逆上したのか、どの場面で快楽に支配され、痙攣し恍惚としたのかがわかる。
 中でも、真っ青な顔色と涙やよだれ、鼻水までが精巧に描かれた気絶絵は迫力があり、数人が足を止めていた。
 前衛というだけあり、展示会には様々な工夫があり、絵の他にも、色とりどりの毒々しい玩具が、それを秘部に挿入され、悶えている鶴の絵の前にぶら下がっており、実物を触って想像を膨らませられるような仕掛けなども施されていた。
 その中には、口に取り付ける猿轡のようなものがあり、触った瞬間に、鶴に口付けた時の舌の滑らかな感触や、唇の柔らかさが蘇った。
 可愛らしく照れたり、時には期限が悪くて嫌がったり、鬼李を相手にする時の鶴の正常な姿が思い出された。それと、目の前に描かれている鶴の、性拷問によってボロボロにされた、無残な姿との差を実感すると、涙が止まらなくなった。

 展示会では最後に、来場者が参加出来る、新しい絵の創作をするイベントがあった。
 両手足を鎖につながれ、体中にオイルを塗られた見世物としての鶴が、虚ろな目で展示場の中心、円台の上で幼子のようにぺたりと座り込み、ライトを浴びている。何か悪夢のような、現実とは違う出来事のように思えて、鬼李はその場に立ち尽くした。
 鶴は鬼李の目の前で、乳首を弄られたり、性器をしごかれたりして射精し、腿を掴まれて股を開かされると、にゅるりと秘部で細い棒状の玩具を受け入れた。鶴の秘部を棒状の玩具がちゅくんちゅくんと出入りし始めると、鶴は殆ど吐息のような声で鳴いた。
 鬼李は何度も、このままここで、ありったけの力を使い、暴れようか考えた。鶴を含め、この場の生命を全て消し潰し、体から全ての怨霊を吐き出して消えてしまおうか、迷った。
「っぁ」
 鶴の秘部に、今度は太い玩具が宛てがわれている。
「っ、ん、……ぅ、イッ……! ァァァ!」
 玩具の挿入に合わせ、鶴の嬌声が響くと、観衆が拍手をした。
「はぁ、ぁー……!ぁ、あッ、あッ」
 玩具の動きに合わせ、鶴が喘ぐ。こそこそと手洗いに走る者が現れ、じりじりと前に出る者が目立った。ふいに、円台がすーっと下がりだし、係の男が鶴を肩に乗せるような形で抱いた。
 係の男の前に、観衆が列を作る。始めは一人ずつ、玩具を動かしていたが、誰かが横入りで手を出したのと同時に、我も我もと複数の手が玩具に伸びた。力加減も、動く速さも不定期に体内を暴れる玩具に、鶴は腰をビクビクと震わせて鳴かされ、何度もかぶりを振った。
 下げられた円台が、今度は中心に男性器の張子が付いた馬模型がセットされ上がって来た。
 最初に鶴を抱きとめた男が、今度は馬模型の上に、鶴を被せた。鶴は太い玩具が抜かれた瞬間、ふとすっきりした顔をして、己が置かれた状況を認識した。これから張子の付いた馬の上に乗せられる事を理解した瞬間、ひっと短い悲鳴を上げ身を捩る。そんな鶴を、観衆が協力して、張子の上に乗せた。ずぶん、と張子を呑み込まされて、鶴の腰が痙攣する。
「ふ……ぁッ? あぁあ?!」
 鶴は力の入らない嬌声を上げて達し、ぽかんと口を空けた。
「や、……んぁ、ぁ、う、ぁ」
 与えられる快楽の大きさに、頭が付いて行かず、寝言を零すように喘いで、宙を眺めている鶴を、馬模型は容赦なく上下に揺すった。
「んんぐ、っふ、うぅ?! ぁッ」
 鶴は目を細め、腰から腿を、電流を流されたようにビクビクさせた。
「っぁ、あ、……っぁ、……ああ、あ」
 がくん、がくんと身を揺すり、粗相をするように達する鶴を、観衆達は興奮して眺めている。鶴の顔は涙と汗で蕩け、どろどろだ。
「鶴」
 やっと鶴の傍まできた。近くで眺めると、あまりにその姿はモノに近く、えげつなく卑猥だった。
「鶴……っ、降りておいで」
 鶴の腕を掴む。 
 鶴の顔が鬼李を向いた。
 鶴の脇に腕を通して、鶴を馬の上から降ろすと、観衆が何をするんだと大声を上げた。しかし鬼李の地位を知る観衆達に、鬼李の邪魔をする勇気はなかった。
 鶴を円台に乗せると、鶴は意識があるのかないのか、とろりとした目で、鬼李を見つめた。
「鶴」
 顔が強張って痛い。刺すように冷たい目をしてしまっている気がする。鶴が自分の顔を見て、何を感じるのかを想像する余裕がなく、責めるような顔で、また鶴を呼んだ。
「……、鶴……っ」
 鶴の目が鬼李をとらえ、数秒、瞳に光が戻った。
「鬼李……」
 掠れて小さな、息のような音で名を呼ばれた。
「どうしたの? 何があったの? 鶴?」
「鬼李」
 鶴はまた鬼李の名を呼ぶと、嬉しそうに笑った。ぽろぽろと涙をこぼし、鬼李に腕を伸ばす、身を近づけてやると、ぎゅっとしがみつかれた。
「会いたかった、鬼李、……会いたかった、おまえに会いたかった」
 裏返ったり、掠れたりする声で、素直に再会の喜びを表明する鶴に、鬼李は寒気がした。鶴の声には、幻聴のような遠さがあり、嫌な予感がしたのだ。
「李帝! 動かないでください!!」
 芸術家の声がして、全身に鳥肌が立った。腕の中にあった鶴の熱がなくなり、引き剥がされた鶴の顎を大量の血が流れていた。鶴は舌を噛んだらしかった。芸術家は慣れたように止血を行い、良くあるんです、と笑って弁明した。鶴に関しては、この時が始めての自殺騒動だったらしいが、攫って来たモデルに舌を噛まれる事は日常茶飯事だという。そんな男の手に鶴が堕ちてしまった事が信じられなかったし、防げなかった自分も信じられなかった。
 
 鬼李は二度、自分の帝国を持っており、日本の歴史に合わせると、元寇の頃と第二次世界大戦の頃。一つ目の国は道楽で作ったが、二つ目の国は故郷のために作った。悪魔と共生出来るような環境を故郷の妖怪たちに与えたかった。

 肌寒いその国は、山の上に構えた城を中心に、山岳地域に広がっており、大金を掛けて作った飛び穴のおかげで良く栄えていた。
 戦時中の他国に比べれば豊かで、その分、外敵に狙われやすく、絶対的な力を持つ帝の存在が、まだまだ欠かせない。
「鶴」
 数日ぶりに顔を合わせた鶴は、鬼李の部屋の隅に座り込んでいた。何かの書類を抱え、じっと鬼李を見上げている。部屋の中央や、窓辺にある椅子には目もくれず、床に直接座る鶴に胸が痛む。きっと何か、精神的な理由があるのだろう。しかし、その原因を探ってやる事が、今の鬼李には出来ない。
「山神を帰してしまって良かったの?連れてこようか?」
 回復に向けて、鶴を世話しているのは山神だ。本当は鬼李が、鶴の世話をつきっきりでしてやりたい。しかし今、国を捨てて鶴のもとに走ったら鶴は鬼李を許してくれないだろう。
「鶴?」
 優しい声で呼びかけて膝をつき、傍に寄ると、鶴はふわりと笑った。それから、そっと手にしていた書類を渡して来た。
 それは鬼李の国に住まう者達の戸籍をまとめたものだった。
 人口の変化が激しい国の動きを、いちいち追えずに居た鬼李としては非常にありがたい数字だが、これをどうして鶴が持っているのか。
「どうしたの? これ? 誰が……?」
 言い掛けて、はっとした鬼李の顔を鶴は楽しそうに眺めた。鶴は情報のプロだ。恐らく、山神に手を貸して貰いながら、苦労して作り上げたのだろう。満足げな鶴の顔に、喜びと同時に痛ましさを覚える。どうして、こんなに前向きに、生きようとするのだろう。
「ここから出れたの?」
 恐らく、中に居て指示をするようなやり方で集めたのだろうが、聞いてみる。鶴は急に顔を曇らせ、鬼李の腕を掴んだ。芸術家のアトリエ兼展示会場から、逃げ出そうとする度、酷い目に合わされた鶴は、屋内から出る事に恐怖を覚えてしまっている。この鶴の病状を、少しでも治せたら良い。
「外に出られるようになる事が回復の一歩だからね、誰も叱らないから、散歩だけでもすると良いよ、戸籍調査、ありがとう」
 そろそろ時間だ。
 立ち上がろうとする鬼李の腕を、鶴がまた掴んだ。
「ん?」
 もう少し良いだろう、今日の鶴は元気だ。何も言わない鶴の横に腰を降ろし、鬼李の腕を掴む鶴の手に、手を添えて鶴の声を待つ。
「牛鬼は?」
「あぁ、出掛けてるよ、地中海」
「寂しいな?」
「まぁ……」
 寂しい事は寂しいが、まるで鬼李と牛鬼が恋人同士かのように、気を遣う鶴の心の方が寂しい。鬼李は鶴のために、随分働いて居ると思うのだが、欠片も伝わっていない。
「もし溜まってたら、……俺みたいなので良ければ、相手する、おまえに、恩返しがしたい」
 一日でも早く、回復してくれるのが恩返しだと言いたいが、回復を強制するのは良くない事だと知っている。だから返す言葉を考える。
「病人が何言ってるの。……俺は大丈夫だよ。牛鬼ばかりが相手ってわけでもないし、鶴が心配する必要はないから」
 余り良い返事にならなかったな、と反省すると、鶴は下を向いた。
「おまえに世話を受けっぱなしなのが、癪なんだよ」
「ふーん?」
 癪、という言葉に少し嫌な気持ちになる。どうして鶴は、俺に甘えてくれないのだろう。赤鬼が好きだからだろうか。
「俺は、おまえの、役に立ちたい」
 顔を上げて鬼李を見つめ、熱っぽく語る鶴の頬を撫でる。随分、痩せている。今の鶴の、憔悴によって醸されるしっとりした色香が、ふいに視覚を襲って来た。すっと形よくまとまった鼻や、キラキラと光を含んだ黒目がちのつり目、小さくふわりと膨らんだ赤い唇に思わず指を当てた。そこから、気合を入れて指を離す。
「今の鶴とは、する気になれない」
「……」
「赤鬼の事が好きなんでしょ?」
 突き放すように言うと、鶴は少し考えてから、頷いた。
「でも、赤鬼は鶴の事なんて、どうでも良かったんだね」
 言いながら、腹が立つ。赤鬼は鶴を犠牲に生き延びておいて、鶴の行き先を欠片も案じなかった。鶴を誑かしておいて、守らなかった。
「駄目だよ、頼る妖怪は選ばないと、……俺ぐらい強ければこうして色々と、面倒見てあげられるけどさ」
 自立心が強い鶴が、落ち込むような言葉を選び、投げかける。鶴は少し青ざめて、宙を睨んだ。
「俺は別に、赤ノ旦那に、面倒を見て欲しかったわけじゃねぇ」
 鬼李が居ない間に、赤鬼に鞍替えした鶴の事を、鬼李はどうしても許せなかった。鬼李も牛鬼に手を出したけれど、本気ではなかった。鶴の場合は、本気で赤鬼に靡いた。それが許せない。
「利用されて捨てられて、馬鹿じゃないの」
 意地悪を言うと、するりと、腕に置かれていた鶴の手が落ちた。
「何をしたとか、して貰ったとか、……どうでも良いんだ。俺は鶴種だからな、してやる事が喜びなんだよ」
 ああ、わけがわからない。わからないのに、胸が熱い。
 早く国をどうにかして、鶴の傍に寄り添わなければ。
 
 鶴をこわいと思う気持ちが、底をついてやっと持ち上がって来た。こわい鶴から逃げる事は無意味なのだ。逃げたらその分、こわさが増してしまう。

 この先は、どんな事があっても、傍を離れないと誓った。


2016/7/15