からめ

『夏の陰色』(正義感の強い人間+美しい妖)

 初客を取らされようとしている陰間が、戸にへばりついている。
 嫌だ、お父さんお母さん、嫌だ、嫌だよう。
 陰間の泣き叫ぶ声が耳に響き、明岐(あかき)は唇をぐっと口の中に挟み目を瞑った。今年元服したばかりの明岐の目には、客取りを嫌がる少年が友達のように映った。
 一方で、明岐の前にでんと座っている亀 長蔵(かめ ちょうぞう)という男は、陰間の悲鳴に一切動じず覚書をしげしげと眺めていた。時折、面白そうに口端を上げて明岐をちらりと見ると、傍に仕えさせている若い男に何事か耳打ちしてクツクツと笑う。何て居心地の悪い茶屋なのか。
 明岐はソワソワと胡座の足を組み直した。

 雨季に入ってから立て続けに陰間殺しが起き、芳町では、この陰間茶屋からだけ、まだ被害者が出ていない。各店、一番人気ばかりが襲われるので、茶屋同士の諍いという線を、明岐は疑っている。

 嫌だぁー、と少年のひときわ高い叫び声と共に、大人たちが戸にへばりつく少年を力づくで剥がすのに成功した。
 気がつくと軒先の雨が止んでおり、強い日差しと蝉の声があたりを覆っていた。戸に掴まる少年が見せたあの粘りに似た、長い梅雨がやっと夏に席を譲ったのだ。明岐は耳を澄まし、少年の悲鳴が廊下の奥に消えて行くのを見送った。
「あいつはまだ使えねぇな」
 ふいに、亀が口を開き、傍に居た男をゆるりと見た。
「客が可哀相だ、おまえ、代わってやれ」
「はい」
 よく見ると、亀の横に正座していた男は、小奇麗で華奢だった。
 そうか、こいつ陰間だったのかと気がついて、明岐は不躾な目を男に向けた。男は明岐の視線など気にも止めず、亀に切ない顔を向けていた。
「でも、私はもう二十年も前に卒業した身で……」
「祥(さち)、今日は予約が多くて他の奴ァ使えねぇ。おまえしか居ないんだ」
 亀が祥の言葉を遮るのと、明岐がぐっと眉間に皺を寄せるのは同時だった。二十年、とは。聞き間違いだろうか。祥と呼ばれた男は、あどけない顔つきや皺一つない目元や口元、咽喉など、まだ十代と言われても頷けるような井出達だ。男娼だから若々しく見えるとか、そういう域を超えている。二十年と、確かに言った、祥という男は今いくつなのか。
「おまえに相手して貰えるなんて、今日の客はついてるな」
「はい」
 亀にやんわりと圧力を掛けられた祥は、不満気に、じっと亀を見た。その手が亀の膝にそっと乗せられたのを見て、明岐は家に帰りたくなった。祥は悲しそうな顔で亀を睨んでいるが、亀は素知らぬ顔をして、祥と目を合わせようとしない。すると不意に、祥がポロポロと目から涙を零した。そこでやっと亀は祥の方を向き、祥の頭をそっと撫でた。
「祥……?」
 叱るようなあやすような、曖昧な声色。
「貴方は意地悪です、私が貴方に逆らえない事を知っていてっ」
 祥は、亀を愛しているようだ。
 確かに亀は押出の良い色男だが、本来、祥が愛を向けるべき対象は己の子を孕んでくれる女人だろうに。
「嫌なら俺が代わってやるぞ?」
「それはお客様が可哀想です」
 ふざけた亀の膝をパンと叩きながら祥が言うと、どっとその場に笑いが起こった。大柄で男らしい亀に相手をされては客が可哀相だと明岐も思った。
 部屋には明岐を含め、五人の男が座って居た。
 亀と祥、明らかに陰間ではない厳つい顔の壮年の男と、老人。壮年の方はこの陰間茶屋の主人で、老人は番頭、亀は仕込み屋と名乗ったが、実質この店を切り盛りしているのは亀であると、明岐は確信していた。
 老番頭と主人が、何か話をする度に一々亀に伺いを立てるためである。遜っている様子ではないが、まるで頼りにしている父に意見を確認するようだった。
 一体、この亀という男は何者なのか。
 と、そこで豆腐売りの声が外を通り過ぎ、明岐は時の経過に気がついた。
「ええい、おまえら、事件に関係のない話は後でしろ」
 冗談の飛んだ場は和んでいたが、明岐は御用の件で来訪したのである。
「ああ、そうでしたね旦那、申し訳ねぇ」
 店主の壮年男が口を開くと、フゥフゥと息を吐くように笑っていた老人もヘコリと頭を下げた。
「良ければ、お詫びに只今の売れ残り、亀を抱かせますが」
 冗談はまだ続いていたようである。老人の囁きに、亀がオイと突っ込みを入れた。改めて亀の顔を見ると、なかなかに整っている。体こそごつく男らしいが、なくはないのかもしれない。
 ふと想像して、ぞっとした。
「き、気色の悪い事を申すな!」
 慌ててその申し出を撥ね付けると、どっ、とその場にまた笑いが起こった。すっかりからかわれ、明岐は顔面に熱が溜まるのを感じた。
 不意に、赤くなった明岐の頬を、そよっと涼しいものが撫でた。
 風通しの良い土地のようだ。先程から夏のしめった室内を冷えた風がひっきり無しに裂いて行く。明岐は涼しい風に心地よさを覚え、天井を仰いだ。そしてぎょっとした。屋根裏からこちらを除く、白髪の美しい男が居た。男は明岐と目が合うと、ふっと姿を消した。追って、ずらされた天板の隙間が、すーっと音もなく閉じられた。
 あぁ、また見てしまった。と、明岐は苦々しく視線を戻した。明岐は幼少の頃より、人ならざる者を見つけやすい。
「さてねぇ明岐様、うちも陰間を扱う商売をしてるから、今度の事、他人事とは思えねぇ、しかし今日は祥のような古株まで駆り出される有り様で、もし何かありましたらすぐお知らせに上がります、それで、今日の所は」
 邪魔だから出て行け、と丁寧に言われたのだが、しかし明岐はここを動くわけには行かなかった。父の代から贔屓にしている岡っ引き、今年還暦を迎えるベテランの留吉と、隠居した父が言うには、この陰間殺しの下手人は亀なのである。亀から目を離すわけにはいかないのだ。
 さて、どうしたものかと眉間に皺を寄せた明岐の耳に、留吉の甲高くしわがれた声が蘇る。
『まちげぇねぇよ明岐の旦那、下手人はあの亀って野郎だァ、まずあの野郎の店からは死人が出てねぇし、野郎には黒い噂があるんで』
「時に亀、おまえ、神通力を使うそうだな?」
 試しに明岐は亀に揺さぶりを掛けるため、核心に迫る事柄を挙げてみた。
「あン?」
 亀に話しかけながら、留吉の言葉を反芻する。
『要は、奴が化物だって事が分かりゃ良いんです』
 陰間たちは皆、体から全て血を抜かれて死んでいたのである。
『旦那、一回しか言わねぇんでよぉく覚えておいてくださいよ、あの亀の野郎は、世にもおぞましい胸突きっつぅ技を遣うんでさ。これが、血抜きにどう関係してるかは知らねぇが、亀がそういう人間離れした技を使っている事実、これさえありゃこっちの勝ちでさァ。』
「胸突きと言ったか?骨を砕き肉を内側から捻る恐ろしい技だそうだな」
「ははァ、成程、怪談ですね、俺に似た誰かがそんな技を使って市井を騒がせているなんてなァ、怖いねぇ旦那、旦那もお気を付けくださいよ」
「亀、もう一度聞くが、おまえは……」
 質問の声を強くすると、亀と明岐の間に、老人の番頭が割って入った。明岐に対し、老人は両手をついて、深く頭を下げた。
「お役人様、お言葉ですが、うちの亀はただ喧嘩が強いだけでございます、負けた相手が誇張して言いふらしているんでしょう、そうに違いありません」
「なぁ明岐様」
 気がつくと、亀がすぐ横に立っていた。
「近頃、俺の周りを嗅ぎまわってた狗野郎に、何を言われたか知らねぇが、人の手じゃ俺を捕らえる事ぁ出来ねぇよ、俺ぁいつでも姿を消せるし好きな時に現れて商売が出来る、町役人に都合出来るレベルの坊主なんかにゃぁ手に負えねぇぐらいには歳も食ってる、悪い事ぁ言わねぇ、狗を変えな、真の下手人をとっ捕まえろ、……俺に喧嘩売って痛い目見るのはあんただぜ」
 老練な侍のような、澄んで力強い目をして、亀は明岐に、鋭い言葉の針を刺した。明岐は緊張して、唾を飲み込んだ。
「なぁ、あんたぁホントは立派な方だ、せっかく人生やってんだ、楽しんで過ごしたいだろう」
 いつの間にか、また軒先が雨に濡れていた。激しい通り雨に叩かれ、庭石がプツプツと鳴っている。見送りましょう、と有無を言わさぬ口調で言われ、明岐は嫌々腰を上げた。
 通されていた奥座敷から玄関に出る際、亀は飾り付けられたあの少年を見つけると、下げろという指示を出した。そして、脇に控えていた祥に目配せをする。祥が消えると、廊下を歩くのは亀と明岐の二人になった。店主と番頭は奥座敷に残っており、明岐を見送ったら亀もまたそこに戻り、今度の事について話し合うのだろう。
「……亀、おまえは人ではないのか?」
 玄関を出る際になってやっと、明岐は先程流してしまった事を拾った。しかし、亀が人で無かったとして、下手人であるとも思えなかった。亀は無実だ。先程のハッキリした忠告。己では無いと言い切る亀の目は、嘘を言っている者の目ではなかった。
「どうしてそう思いますんで?」
「先程、おまえが自分で言っていただろう」
「旦那には、隠していてもわかってしまうでしょう」
「何?」
『亀』
 そこでふいに、足元から声がして、見ると玄関の滑らかな踏み石がガラスのように透けて、その中にあの白髪の男が居た。男が水から上がるように、にゅっと踏み石から出ると、明岐はどっと全身に汗を掻いた。
「何だおまえは?!」
『ツル』
「鶴?」
『鶴種のツルだ、鶴と呼べ』
「おぉ、鶴、良い所に」
 異形の登場だというのに、亀は涼しい顔で鶴に声を掛けた。
『何が良い所だ、紹介しねぇで帰す気だったろう』
「そんな事ねぇよ、今紹介しようとしてたろう?」
 亀はどうやら、誰に対しても飄々としている男らしい。鶴はチッと舌打ちをしてから、明岐に向き直った。
『赤ノ旦那』
 明岐の真ん前に立った鶴は、はっと息をのむ程美しかった。こういう奴が相手なら、男も良いかもしれない、などとぼんやり考え始めた明岐に、鶴はさらに顔を寄せた。
『あんたに頼みがある』
「……頼み?」
 茶屋の裏口玄関は日陰で、真夏にも関わらず鳥肌が立つ程冷えている。隣接する長屋には人気がない。
『うちのガキが死にかけてるんだ、助けて欲しい』
 しっとりして柔らかそうな頬や、滑らかな額の曲線、ふわりと赤く膨らんだ唇がこちらの欲を掻き立てるような顔立ちをしている。白い睫毛は一本一本がすぅっと横に倒れていて、端で揃い目尻を長くしていた。
 明岐は鶴に知られぬよう、口の中に溜まった唾をこくりと飲んだ。見ていると、妙な気分になって来る。滑らかな肌は、首や胸元、着物の裾から覗く小さく形の良い手の甲など全て、輝くように白い。きっと手を触れてみたら絹のような、うっとりする感触なのだろう。まるで、細かく丁寧な職人仕事によって作られた人形が、目の前で動く不思議さである。
『俺だってせっかくお休み中の旦那に申し訳ねぇ気持ちはあるんだ、けど、青ノ旦那に勝てるのは、赤ノ旦那だけだ』
 ふいに、青という単語のみが明岐の胸に響いた。そして、何故だろう、二度とその言葉を聞きたくないと思う。
「おい、明岐様……、見惚れてねぇで、話をちゃんと聞いてやれ」
 どうやら、ぼぅっとなっていたらしい、亀にツンツンと腕をつつかれ、明岐はビクンと全身で震えた。目の前の鶴はきょとんとし、瞬きを繰り返した。しかし、数秒経つと怪訝な顔をし、厳しい声を出した。
『旦那、俺の話聞いてなかったのかィ?』
 くいっと頭を傾げる、その動作がまた愛らしく、明岐は鶴から目を逸した。
「いや、そんな事は!聞いていた!!つまり、子どもが死にかけているんだな?!良ければ、知り合いの医者を紹介するが・・・」
 記憶を遡って、どうにか言葉をつくる。
『けっ、人の医者なんかに見せて、妖が治るかィ』
 的外れな明岐の提案に、鶴は呆れた声を上げると、すいっと腕を上げ、二の腕の裏をチラ見せして、明岐の額にデコピンをした。
「うぐっ?!」
 思わず悲鳴を上げると、亀がクツクツと鼻に掛かった笑い声を上げた。
『こっちァ急を要してるンだよ、旦那、ちゃんと聞け!』
「な、何もデコを弾かんでも!痛いではないか!」
『俺の話、ちゃんと聞くか?』
 見るとデコピンの第二陣が控えている。
「あァ、その、すまなかった」
『いいかィ旦那、俺はチトリって妖怪を探してる、そいつがもしかすると、うちのガキを治してくれるかもしれねぇ』
『妖を治す妖が居るのか』
『治すっていうか、方法論だけど……』
「む?!」
『チトリは人や妖を、己の同種にする力を持つんだ、うちの死に掛けのガキは、死霊の魂を吸収する妖で、その性質ゆえに死に掛けてる、だからチトリに、うちのガキを同種に引き込んで貰って、妖としての性質を根本から覆す。そしたら、ガキは元気になれるんじゃねぇかって』
「果たしてそう上手く行くかねぇ」
 亀が横から茶々を入れ、明岐もそのように思ったが、鶴はそれをわかった上で可能性に縋っているようだった。鶴の瞳には決意の色が伺えた。
「それで、俺は何をすれば良いのだ?」
 明岐が先を促すと、鶴は明岐にぐっとまた近寄った。
『旦那には、そのチトリって奴を殺そうとしている青鬼って鬼の大将に、チトリを見逃すよう説いて欲しいんだ』
「青っ……?!何だと?!」
『どうやらチトリは、青ノ旦那に断りなく、青ノ旦那が気に入っていた女怪を同種にしてしまったらしい』
「……」
『しかも、その女怪を孕ませたとかで、青ノ旦那は大層お怒りで……、この辺りじゃ、青ノ旦那に意見出来るのはあんたぐれぇなんだ』
 何やらおかしな色恋沙汰が、妖世界にもあるようだ。明岐は感心し溜息をついたが、先程から胸が苦しく息がしづらい。
 鶴の頼みを聞いてやりたいのは山々だが、明岐には色にまつわる、奇怪な持病があった。青、という単語が出る度、目眩がして頬が強張り、体中がみしみしと痛くなる。明岐は幼少の頃より、青と名の付くもの、また青色自体が全て恐ろしく、嫌で仕方がないという性質を持っていた。青い着物でさえ、見かけると腹がむかむかして胸がつまり息苦しくなるのに、青い鬼など前にしたら卒倒してしまうだろう。
「悪いが、俺は坊主でも神主でもない、無理な頼みだ」
『そこを何とか!』
 鶴はすとんと膝を地べたに付き、両手を前に置いた。
「おい、よせ!」
『この通りだ、旦那、……ガキの命が掛かってんだ』
 髷の無い、垂れ流しの白い髪を地面に付けて、鶴は土下座していた。
「すまん、すまんが、俺には出来ん、顔を上げてくれ、すまん」
 このような全身全霊を掛けた頼みごとをされたのが初めてである明岐は、狼狽して自分もまた膝をついて、鶴の前に頭を下げた。
「青は無理だ、青は無理なんだ、わかってくれ」
『頼む』
「駄目だ!」
 思わず怒鳴っていて、明岐自身驚いた。
 鶴はそこでやっと顔を上げると、真っ直ぐ明岐を見た。鶴の望みを叶えてやりたい。気持ちはあるが、心が萎縮していた。青いものを、見ただけで具合が悪くなる明岐が、果たして青い鬼などを前にして役立つかどうか。
 鶴はぎゅぅっと唇を噛んで、額に汗を浮かべた。
『どうしてだっ……』
 鶴の呻きに、明岐は胸が痛んだ。
 すると、クツクツと亀の笑い声が響き、がっと頭を掴まれる。
「こりゃ良い、この方ァ随分真剣に人生をお楽しみ中だぜ?鶴ゥ!……目ぇ覚ました時には恨み事の一つ二つ、言ってやらなァな」
 笑っているが、呆れている。亀は鶴の側に立って、明岐に苛だっているようだった。
「すまん」
 明岐がまた謝りを口にすると、亀は明岐の頭から手を離した。明岐はそこでやっと我に帰り、体に不快を覚えた。膝をついた地面から、着物を伝って、ヌメった水が沁みてきている。
 鶴の着物も腿の方まで黒く汚れて湿っていた。
『……陰間でもやるか』
 はぁと溜息をついて、鶴が呟くと亀が舌打った。
「何言ってやがる」
『羽根で作った布団も効かねぇし、お百度参りも駄目だった』
 鶴は思いつめた、泣きそうな様子で言葉を続けた。
氏神には最初、こっちを勧められたんだ、俺には向いてるって』
「向いてるもんか」
 亀が唸ると、鶴は笑った。
『おまえに仕込んで貰えるなら、嫌なく覚えられるだろう』
「俺はごめんだぞ」
『どうしてだ?』
「もし、おまえを好いちまったらどうする?
 俺は……二百年来の友を失う事になるだろうが」
『は、俺達に限ってそんな事にはならない』
「わかんねぇだろう、……俺は危険は犯さない」
『亀……』
「駄目だ」
『頼む』
「駄目だ!」
 怒鳴った亀に気圧されて、鶴が黙ると、その場にジーッと蝉の声が割り込んだ。
 ジジジジジジ、ジクジクジクジクと鳴き始めた蝉に感謝。
「李帝の事は諦めろ、そういう運命だったんだろ、大陸じゃどんぐらい偉かったのか知ンねぇが、倭に来てそんな弱っちまうような妖怪は、大妖怪とは言えねぇよ」
 蝉に負けぬ音量、亀の語調は強かった。鶴は何も言い返せず、悲しそうに下を向いたまま。その鶴の、両肩を落とした無念そうな様子を、明岐は数日忘れられなかった。

 さて、明岐が鶴の頼みを無下に断ってから十日後、また陰間が全身の血を抜き取られて死んだ。
 父親と留吉が、早く下手人である亀を捕えなければ、といきり立ち、また明岐を亀の元に向かわせた。陰間茶屋の多くある町は、亀の店がある芳町をはじめ、葺屋町、芝神明と数箇所あるのだが、被害は芳町に集中している。このことからも、下手人は芳町の者であろうと推定された。
 空の晴れた雨降りの、不気味な午後の天気を窓から眺め、明岐はまた亀の居る陰間茶屋の奥座敷に座って居た。そして先客、鶴との間に気まずい沈黙を覚えていた。
「時に……あれから子どもの容態はどうなった?」
『てめぇにゃ関係ねぇだろ』
 鶴は胡座の膝に肘を立てて、姿勢悪く寛いでいた。室内で少し距離を置いて見ると、鶴は痩せぎすでみっともない体つきをしていた。しかし、顔は相変わらず異常に美しい。この鶴の頼みを、どうやったら明岐は叶えてやれるのだろう。死ぬ気でやってみるという手もある。どうなるかはわからんが、明岐の精一杯を示してやって慰める。何かしら力になってやる事が重要なのではないか。
「関係なくはない、あれから気になって夜も眠れん」
 正直な気持ちをぶつけたのだが、鶴は明岐の心を鼻で笑い聞き流した。
 暫くして、祥がしずしずと部屋に入って来た。
『おっ、何だ、亀は留守か?』
 祥一人が現れた事で、鶴がすぐに事情を察し質問を投げたので、祥は言い出し辛い事を言わずに済んだ、という微笑みを浮かべ頷いた。
 祥の後ろから老番頭も顔を覗かせ、あの方は、と祥に聞いた。恐らく老人には鶴が見えないのだろう。祥が鶴の方を手の平で指すと、老人は感慨深い顔をして頷き、実際に鶴が居る位置より少し上に向かい、深々と頭を下げた。
「では、亀はどこに出掛けたのだ?」
 今度は明岐の質問である。老人は明岐にもまた頭を下げると、祥を見た。
「すみません、今日は全部で三店舗廻る予定でして」
「三店舗? この店には、三店舗も姉妹店があるのか?」
「いいえ、別のお店です。あの人は腕が良いですからね、別の店の陰間についても、仕込みの仕事を頼まれる事が多くて。……多忙なのです」
 どこか投げやりな、突き放したような顔をして、祥は亀の事情を明岐に紹介した。一方で老人は鶴の位置に憧れの目を向けたまま惚けていた。過去に何かあったのだろうか。鶴という妖と、この店は一体どのような関係を持っているのか。亀と鶴はとても親しげで、長い付き合いのような雰囲気だったが。
『チッ、良いご身分だなァ。まだ日の高ぇ、こんな時分からよ』
 しかし鶴が、外見を裏切る下卑た発言をすると、明岐の心に宿った鶴への興味はぐんと萎んだ。
「仕方がない、出直そう」
 呟いて、明岐はすっくと立ち上がった。ずんずんと音を立てて廊下を進み、店を出た。
 恐らく、下手人は亀ではない。しかし頼りの父親と留吉は亀と決め付けているし、この二人に意見する程、明岐は己の直感に自信が無い。
 亀の他に怪しい者を見つけるにしても、まだ若く経験の浅い明岐には、留吉の他に頼れる岡引への伝手がない。同心仲間は殆どが父親と同年代で、明岐よりは父親と親しみがあり、相談相手に適さない。
『なぁ、あんた』
「うぉっ?!」
 気がつかなかったが、いつの間にか隣を鶴が歩いていた。
『さっきの話、本当か?』
「さっきの話?」
『俺に同情して、夜も眠れねぇって』
 むくれた顰め面の、瞳に期待の光を少し宿らせ、上目遣いに明岐を覗き込む鶴に、明岐はまた妙な胸の騒ぎを覚えた。
「本当だが、だからと言って俺がおまえの役に立つかどうかは別問題だぞ」
『チッ、思わせぶりな』
 不貞腐れた声色で毒づいて、鶴はそのまま明岐の後を付いて来た。明岐の家まで明岐を見送るとすぅっと消えてしまった。

 それからの朝、定廻りだが、非番の時は好きな場所に行ける明岐は今日、事件の起こった道々を巡ろうと考えて家を出た。すると、鶴がするりと物陰から現れた。
 鶴の姿を見た途端、ふわりとしたものが胸を包んだ。
「鶴……」
『お供するぜ、大将』
 名を呼ぶと、鶴はニヤリと笑って首を傾げた。

 この間の事件で、殺された陰間は四人にのぼる。その殺され方が薄気味悪い事からも、市井の人々から事件は注目を集めていた。
『妙だな』
 一人目の陰間が殺された道で鶴が呟いた。
「何が妙なんだ」
『確か、この道で殺された陰間ってのは、この道に入る直前に、竿売りに目撃されてたんだよな?』
「あぁ」
『この道ァ、夕暮れ……、あっちから来る豆腐売りと、こっちから来る竿売りが交わうから、下手人ももちろん目撃されてなきゃ可笑しい』
「んん?」
 その道は確かに、白塀が続く商人の大屋敷と大屋敷に挟まれて一本道で、そのあっちとこっちからそれぞれ物売りがやって来る。言われてみれば、この一件目の事件前後に下手人の目撃情報がないのは妙だ。
『殺された陰間の方は竿売りが見てたんだろ?』
「ああ……」
『じゃぁ、豆腐売りと竿売りが練り歩く時間帯で間違ぇねぇわけだ、だのに……』
「この日だけ、豆腐売りが休みだったという事は?」
『確かめたか?』
「いや」
『愚図が』
「……」
 可哀想に、育ちが良くなかったのだろう、鶴はその見掛けに反してとても口が悪い。
 もし明岐家に嫁入りとなったら、厳しい躾が待っているだろう。
 と、ここまで心配をしてから、明岐は慌ててその思考を止めた。
 一体、何の心配をしているのか。そもそも鶴は男で、その上妖なのだ。
『……こりゃぁ、人の手じゃ解決出来ねぇわなぁ』
 悶々する明岐を気にも止めず、鶴は呟いて、それから挑戦的な目で、ちらりと明岐を見た。
『うちのガキのために、あんたがひと働きしてくれるってんなら、俺もあんたの力になるんだが?』
「ぐっ……」
 個人的な頼まれ事ならば、断る余地があるのだが、お勤めに関わる事を握られてしまうと、明岐も役人の端くれである。強烈な迷いが生じた。父親や留吉に言われるがまま、自分は違うと思っている男を、下手人として捕らえるのと、青いものに立ち向かうなら、どちらの道を選ぶべきか。答えはもう出ている。あのがっかりした鶴の顔を、もう見たくないという気持ちもあった。明岐は一つ、頼むという言葉を吐き、覚悟を決めたのだった。
 
 それからたった三日後、下手人がわかったという鶴の知らせが、山神と名乗る喋るメジロによって届けられた。明岐は丁度、午後の鍛錬を終えて湯浴みを済ませ、着流しで縁側に寝そべっている所だった。明岐は家のものに友人宅に行くと告げ、山神の案内に応じた。
 それは一瞬の出来事であった。
 こちらにおいでください、と山神が言うので、とある芝居小屋の裏井戸に近づいた。山神はするりと井戸の中に入り、こちらにおいでください、とまた繰り返した。明岐が井戸を覗き込むと、いきなりにゅっと井戸から白い手が出て来て、明岐を井戸の中に引き摺り込んだ。

 気がついたら、江戸の街並から遠く離れた山の頂き近く、竹林の中にある小屋の前に居た。メジロは小屋の屋根にとまると、お客人、参りましたよ、と鳴いた。緑がかった今にも腐って潰れそうな小屋には朝顔の蔓が盛大に巻きついている。
『おぅ、来たか赤ノ旦那』
 戸口から出て来るかと思ったら、鶴は小屋の裏側から顔を出した。綺麗な白い顔に泥がついていて、何とも淫靡である。何をしていたのかと覗き込むと、小さな畑が見えた。
『丁度きゅうりが食べ頃だ、粥もあっためてあるぞ』
 軒先に置いてある駕籠に数本、貧相なきゅうりが積まれていた。
 鶴は明岐を夕餉に誘うつもりのようだ。
「土産が何も無いのだが」
『いやいや、あんたは良いもんをくれたよ』
 こん、と頭に何か小さくて硬い玉が当たり、上を見ると、メジロが口からポコンポコンと玉を吐き出している所だった。
『この人は随分、良い肝を出しますね』
『この間、俺が驚かしてやった時も上玉をゴロゴロ馳走してくれたぜ』
 聞くと、人は驚いたり恐怖したりすると、肝と呼ばれる玉を撒き散らすのだという。妖が人を驚かすのは、この、人の出す肝を喰らうためで、明岐もまた最初に鶴と出会った時、先程井戸に引き摺り込まれた時、大量に肝を出したそうだ。
「しかし、もう下手人がわかったとは。おまえ、本当なら今すぐ俺の岡引として雇いたい程の腕前だぞ」
『ふん、倭の人間風情が生意気な。俺は大陸じゃ李国の大妖、李帝直属、情報役だったんだからな』
「ほぉ……、これはまた、おまえは倭の外を知っておるのか」
『ああ』
「妖は長く生きるというからな、もしや俺よりも年上か?」
『年上も年上、俺ぁ今年で五百を越えるぞ』
 ふ、と思わず息を漏らし、明岐は大きく笑い声を上げた。何が可笑しい! と怒鳴る鶴に、明岐自身も何が可笑しいのかわからなかった。
 小屋の中はたった六間だけで終っており、隅に小さな布団が出しっぱなしになっている。鶴は切ったきゅうりと、粥と芋汁を明岐に振舞った。芋汁は少し苦かったが、塩の効いたきゅうりと粥が美味かった。
 明岐にはしっかりした飯を出しておいて、自分はきゅうりに、先程の玉をすりつぶした粉と塩を掛けてかぶりつくだけの鶴を、明岐は心配した。
 ちゃんと食えて居ないのではないか。心なしか、鶴の体はこの間よりさらに骨ばり頬も落ちて、やつれたように見える。
 妖は肝を食すが、肝が少量しかない時は、肝を潰した粉を掛けて人の食す食べ物も喰い、腹の足しにするという。粉にする肝もなければ、人の食すような、ただの食べ物をそのまま食うとも。しかし、ただの食べ物しか食べないで居ると、妖はすぐに消えてしまうという。そんな話をされた後で、肝の粉を掛けて人の飯を食う姿を見せられると、心配になってしまう。
 鶴が、畑で野菜を育てて居るという事実。妖の主食が肝であるのならば、野菜など育てる必要はない。鶴は妖の中では大分、悲しい暮らしをしているのではないか。
 もし鶴がひもじければ、明岐はいくらでも驚き、鶴に肝を分けてやるのだが。
『ところで』
「んん?」
『今回の件な』
「あ、ああ」
 鶴の生活が気になって、すっかり本題を忘れていた。
『下手人は亀んとこの、祥だ』
「さ、ち……? とは、あの……?」
『ああ』
「……」
『まったく、あんたぁ俺の頼みを断って正解だったよ。祥は俺が頼ろうとしてたチトリと協力して殺しを重ねてた。チトリってのはチトリ種の事を言うもんで、個体の名前じゃねぇんだが、引き続きチトリの事はチトリと呼ぶ。ああ、チトリ本体は昨晩、青ノ旦那に殺された。残念だが骸はない、妖は何か殻や皮を被ってる場合を除き、死ぬと霧散するもんなんだ』
「なっ?!……」
 それでは下手人の一人は消えてしまった事になるのではないか、と明岐は焦った。これでもし祥まで消えていたら、明岐は亀を捕えねばならなくなる。
「聞いてないぞ!!」
 身を乗り出して怒鳴ると、鶴は苦笑い、まぁまぁと手を上げた。
『焦るなよ、大将、……話は最後まで聞け。……チトリは今回、芳町に来てから、二匹の妖を同種に仕立てた。一匹はこの度、青ノ旦那がチトリを殺す原因になった美しい女怪、もう一匹は祥、祥は貉種だったんだが、今はチトリ種になって姿を眩ませてる。この貉種ってのは化けるのが得意で、人の皮も自ら手作り出来る種族だ。あぁ、妖は普通、長く人の世に紛れる時は人の皮ってのを被って人前に出るんだ。ちなみに、この皮は透明なのと、既に顔形が書いてあるものがある』
「ん? ……んん?!!」
 聞きなれない単語に、明岐は咽喉を詰まらせたような声を上げた。鶴はそんな明岐の反応に、ぷっと噴き出すと説明を補足した。
『亀や祥は万人に姿が見えるけど、俺はあんたみたいに霊感の強いもんにしか見えねぇ、……妖が万人に見えるためには、妖力を消費して姿を現すか、人の皮を被るかなんだ』
「……ふ、ふむ」
『チトリは祥の作った祥の姿に化けられる人の皮を被って、祥に成りすまし、青ノ旦那の追跡を逃れてた。同時に、祥はチトリが自分に成り代わっている間に自分の憎い相手の血を抜く殺しを続けた。
 こっからまた、あんたが混乱するような話をするが、妖の世界は地下深くまであってな、地下四層にまで行くと、人の世の事情なんか誰一人知らない。地下四層の妖は、一度も地上に出ず死ぬようなのばかりだからだ。したがって、おや? あんたは芳町で有名なあの陰間茶屋の祥さんじゃないか? なんて声を掛けて来る奴が、四層にはいない。祥はだから、地下に身を潜めながら、時々地上に来て殺しを行った』
「もしかしておまえ、その四層という場所まで、行ったのか?」
『ああ、大分骨が折れたぞ』
「……それは、……苦労を掛けた」
『チッ、それなのに鬼李を治す手立ては結局閉じられてよ』
 尤もな不満を口にした鶴に、明岐はとても申し訳なくなった。鶴が明岐に求めていた、青い鬼の説得は、結局要らぬ事になったのだ。それなのに、鶴は引き受けた仕事を投げ出さず、こなしてくれたのである。この鶴という妖は、どうやら非常に忠義者らしい。
 今度、何か美味いものでも食わせてやろうと心に決めながら、明岐は鶴に話の先を促した。
『まず、チトリ種ってのは、生き物の血を吸うことで、妖が肝を吸収するのと同じ効果を得られる妖だ。血を抜き取られて死んでいた陰間達は、間違いなくチトリ種の手に掛かっている。
 加えて、体が安定する迄、作られたチトリ種は作ったチトリ種に逆らえない。祥は陰間達を殺して奪った血を、チトリに分けに通っていたようだ。
 チトリはその血で、孕ませた女と女の腹の子を養おうとしてた。祥はつまり、チトリに利用されていたのさ。
 しかしチトリ種ってのは普通、少しずつ血を吸って終わりにするみたいでな。
 今回も、チトリは祥に大量の血を持って来るよう求めたが、相手を殺して来いとまでは言ってない。
 こりゃぁ俺の推測だが……、祥は、むしろ殺した陰間達の事を己の意思で前々から殺したいと思ってて、殺したんじゃねぇかな』
「どういう事だ?」
『……殺された陰間達は皆、亀の仕込んだ奴で、亀に一度でも愛され、胸に痛みを覚えた事のある奴だった』
 そこまで言ってから、鶴はきゅうりを齧った。きゅうりの折れるぱきんという音が部屋に響き、部屋の隅に敷きっぱなしであったふとんがもそりと動いた。
 どうやら明岐に姿は見えないが、そこにも何かが居るらしい。
「胸に、痛み?」
 湧いた疑問を口にすると、鶴は顔を顰め、齧りかけのきゅうりを皿に置いた。それから口元に手を添え、明岐に顔を近づけると、声を落とした。
『亀は生き物の命を奪う妖だ、普通に奪う時は、奪う相手やどれぐらい奪うかをコントロール出来る。だが、愛した相手については、理性が効かなくなるとかで、そのコントロールが出来なくなるそうだ。だから、亀に愛されたもんは必ず胸に、命を吸われる痛みを覚えるという。亀の愛が強いとそのまま吸い殺されちまう』
「……それは難儀な」
『あぁ、……しかし祥はそれでも、亀に愛されたかったんだろうな』
「だから、亀に愛される痛みを覚えた事のある陰間達を殺した?」
『陰間の悋気ってのぁ恐ろしいな』
「男と男で、何が悋気だ」
『はっはっは、そうだな、男と男は人の世じゃぁ、あんまりメジャーじゃないらしいからなぁ、まったくあんた人らしいな、……けど俺もなぁ、随分、祥には睨まれたもんだぞ、この通り見てくれは良い方だ、それで亀と仲良しとあっちゃなぁ……? それが、こないだ現れた祥はやたら愛想の良い優しい奴だった。あれを見て、俺はおやっと思ったね。この祥は本当の祥なのか』
「……ふむ」
『怖ぇぞぉ、この話、聞いた時にぞっとしたんだが……、祥は一人目を殺ったその日、四層に作った仮の住処に、酒屋で出会った見ず知らずの男を招いてもてなし、今日は祝いの日なんだと言って、陰間奉仕までしてやったそうだ。戦場でもねぇとこで殺しをやった後、そんだけ良い気分になれるなんてよ、完全に頭可笑しいだろ』
 そこまで言ってから、鶴は明岐から離れると、もそもそと膝を立て、そこに額を付けて黙った。
 明岐はついに嫌な気分になって箸を止めた。鶴も皿に置いたきゅうりに、もう手を伸ばそうとしなかった。
『そんでよ、青ノ旦那がチトリを捕らえた経緯だが……。
 一昨日の晩の事になる。祥は四層と地上を行ったり来たりする事で、妖力を使い過ぎてボロボロだった。そんな祥を見て、こいつはもう長くないと思ったんだな。だから、チトリは祥を見捨て、この土地を逃げ出そうと考えた。それで、祥の作った祥の姿を模した皮を脱いだ』
「な、……地下と地上の行き来というのは、そんなに体力を使うのか?」
『あぁ、大妖怪ならいざ知らず、四層の妖怪なら、地上に辿り着く前に死ぬ事だってある。だから普通はあまり、己の生まれた層を移動したりしない』
「……」
『まず、一人目がやられた現場で、下手人の姿を見ている人の目がなかった。それで、妖にまで聞き込みの範囲を広げたんだが、そしたら妖の目にも、下手人は映っていなかった。俺は、下手人が地下に潜った線を疑った』
「そんな発想は人からは出んな」
『……それで一層・二層と、あの場所の地下は湖だった。三層になると集落があったが、そこは河童種が集まった場所で、それ以外の種が来たらかなり目立つ。にも関わらず、目撃情報がなかったんで、四層まで行った』
「おまえ、まさか……、それでこんなやつれたのか?!」
『これは元からだ、鬼李に掛かり切って、肝取りする余裕がなくってな。まぁ、地層の移動についてはそう案じずとも、……俺は一応五百超えしてるから、大妖怪の域に入る。少し疲れるが死ぬ程の仕事じゃねぇ』
「……しかし、すまなかったなぁ本当に……、無理をさせて」
『だから別に無理じゃねぇ、俺ぁ、五百超えの……』
『五百を超えても鶴種じゃ辛かろう、そう妖質の良い種族ではないだろうに、何て忠義者なのか、愛い奴め』
『あ?!』
 咽喉奥から、低く野太い声が出て、明岐が驚くと、鶴もまた驚いた顔をして、明岐の事を見た。
『今?!』
「知らん、俺じゃない、俺じゃないぞ?!」
『鶴種の妖質が何つった? てめぇ?』
「だから俺じゃない!」
『おまえ以外に誰が居るんだよ?!』
 ぐいっと明岐の胸ぐらを掴み、挑んで来た鶴の肩を掴み、落ち着かせようとその肩を撫でる。やたらと細く頼りなくて、包んでやりたい衝動に襲われたが、ぐっと我慢して鶴を引き剥がした。
「ところでだ、鶴、今は姿をくらましてるという、祥の行方は検討つかんのか?
 俺は至急、祥を捕らえねばならん!」
 鶴の心を宥めるよう、はっきりした声で言うと、鶴はやっと明岐の胸ぐらから手を離した。
『多分、こっちに向かってる』
「何?!」
『おまえの罪を、亀にぶちまけてやると言ってある、……いや、まぁ、既にぶちまけてあるんだが、口封じか報復か、必ず俺のとこに来るはずだ。あいつは今、俺が憎くてしょうがねぇと思う』
「また無茶な! ……危険ではないか、そのような事をして!」
『亀の奴も一緒に呼んであるから、心配ねぇだろう』
「あの男、強いのか?」
『ああ、それに、あんたもいるしな』
「俺?」
 その時である、ひたりと何か小さな手が、明岐の耳を掴んだ。
「ぎゃっ?!!」
 明岐は大きな悲鳴を上げて飛び上がると、あたりを見たが、誰も居ない。
「何だ?! 何か、今、小さな手が耳に?!」
『……、鬼李か? ……起きたのか?どうした?どこに居る?』
 明岐の反応と、部屋の隅の布団が、誰か起き上がったようにぺろりと捲れているのを見て、推測した鶴が手探りに空を掻くと、明岐もまた目を凝らしてあたりを見た。しかし、やはり誰も居ない。
『今は透明で俺にも見えねぇが、恐らく今あんたの耳を掴んだのは鬼李だ、うちの可愛い悪ガキさ』
 ふいに後ろでペタペタと何か歩く音が聞こえ、振り返るとベシッと額を叩かれる。一体、明岐が何をしたというのか。こうも悪戯をされては、腹のうちがむかむかする。姿がない分、憎さが増す。
 鶴は先程から明岐の方を見もせずに、暗闇で物を探す人のように、腕を伸ばしてぱしぱしと空を掻いている。それからやっと、何かをぐるりと腕で閉じ込め己の膝に座らせた。
『起きたなら言え、今日は調子良いのか?』
 鶴の問いに、鶴の腕の中に居るらしい目に見えぬ子どもは何かぽそぽそと小声で発した。
『あぁ、この鬼ノ旦那? 大丈夫だ、今は人をやってて俺を取って食ったりはしねぇ、ありがとなぁ、その気持ちだけで嬉しいから、ほら、動くと体が辛いだろ? 休んでろ』
「鬼?」
『んー、そうだな、さっき自分でうっかり目ぇ覚ましてたし、俺の事恨まないで聞いてくれるんなら教えるが』
「恨むも恨まないも、意味がわからん」
『あぁ、まぁ、遠まわしに言うとだな。あんたは今、妖で居る事をお休みしてるんだよ』
「どういう事だ?」
『さっき教えた人の皮、あるだろ、あれを被って、あんたは人のふりをして生きてるんだ』
「何を言う、俺は、人から生まれた歴とした人だぞ」
『んー、まぁ、そう思わないと休みの意味がねぇし、それで良いと思うぜ』
 明岐の重大な秘密を、まるで天気の話のように口にしながら、鶴はくしゃくしゃと、透明な子どもの頭を掻いた。すると子どもは鶴の膝を離れたらしく、鶴の腕がそっと子どもを手放した。
『あいつもさ、あんな弱々しい透明なガキなんかになる前は、そりゃぁ立派な大妖怪だったんだが、倭に来てからは弱っちまって、あのガキにも、もう大妖怪であった頃の記憶がねぇ、あんたの気ままな人休みと違って、あいつの場合は生死の堺を彷徨ってる』
 鶴が悲愴な顔をして呟くと同時に、天井から、来客ですよという山神の声が聞こえた。
 鶴が席を立つのと、戸口にふらりと祥が姿を見せたのは同時だった。
 ゲッソリと痩せて、頬が落ち、所々抜けて薄くなった髪を振り乱し、両腕を何かに捕まろうとするかのように前に出しており、腕には無数、獣の毛が生えていた。
『もう姿を人形に保つのさえ、侭為らぬらしい』
 山神の呆れたような憐れむような声が、天井から響く。
『ひでぇ有様だ、どうしてこんなんなっちまった?』
『亀さんが愛してあげないからですよ』
 少し毒のある声色で、天井の山神が答えを出すと、鶴はふぅと息を吐いて、明岐の背後に蹴りを入れた。
「な?!」
 どうやら、祥は素早く動いて、明岐の背後に回っていたらしい。
『旦那は下がっててくれ、邪魔だ』
「おい?!」
 祥はとても素早く移動しているらしく、明岐の目には追えない。しかし鶴はスタスタと歩いて、また宙を蹴る。それから、ぐいっと腕と体を使って、しゃかしゃかと動くそれを押さえつけた。
『山神、亀だ、亀を呼んで来い』
『もう来てますよ』
 言葉の通り、小屋の戸口には押出の良い色男、亀が不機嫌な顔で立って居た。
「祥!」
 亀が呼ぶと、鶴の体の下で暴れていたものはぴたりと動きを止めて、祥になった。
「どうしてここに・・・?」
 亀の姿を見つけると、祥は目からボロボロと涙を溢した。
「俺がおまえだけは好きにならんと決めたのは、おまえの事を、長く傍に置きたいと思ったからだった。
 どうしてわかってくれなかった? おまえを可愛く思ってた。おまえがはじめて俺のとこに来たのは、たった三つの時だろう? 俺はおまえを育てながら、幸せになれと思った。だから、俺はおまえを好きにならんと決めて、……仕込みだって他の奴に任せた。好きになってはならんと思って!」
 亀は苛立った声で一気に捲し立てると、ぎゅっと眉間に皺を寄せた。
「どうしてこんな事になった?」
 亀の声は今にも崩れそうに、震えていた。
「貴方が私を愛してくれないから」
 祥の声もまた、掠れて痛々しい。
「俺はおまえが実の子のように愛しかったんだ」
「実の子! ああ! 私は貴方に親の愛など求めていませんでした。真の愛を受け取りたかった。殺される程、愛されたかった」
「俺は殺したくなかった!」
 亀が怒鳴り声を上げると、鶴の古い小屋に音が響き、天井から埃がパラパラと落ちた。
「チトリになれば、私は、貴方に命を吸われても生き延びられるようになります。チトリは、命を吸われても吸い返す事が出来る。貴方は私を殺す心配さえ無くなれば、私を愛する! 私がチトリになれば、貴方は安心して私を愛してくれる」
『ちょっと待て』
 ふいに、鶴が会話に割り込んだ。骸骨のような祥を、体術で捩じ伏せて押さえつけている鶴もまた痩せぎすで、組み合った二人の姿はどこか痛々しい。
『祥、おまえなぁ、亀がいつおまえにチトリになってくれって頼んだ? ……俺は亀の友で、おまえより亀の方が大切だから言っておくが、今回の件は、おまえが勝手に突っ走って、勝手に四人殺したんだ。亀や亀の性質のせいにすんじゃねぇ、自分の間違いだって言え、亀が誤解して責任感じちまったらどうすんだ?』
 追い込まれた人間に容赦のない事を、と感じた明岐と同様に亀もまた少し顔を顰めた。祥は鶴からの厳しい言葉に一度金切り声を上げると、グングンと身を振って悔しがった。
「いいえ、いいえ、事実、亀さんのせいです、あの人が私を愛してくれなかったから!」
 祥の怒鳴り声に、また小屋の天井から、埃がパラパラ落ちる。
 鶴はあまり、掃除が得意ではないのだろうか。
 今度、中間を呼んで掃除させてやろうか。小屋が綺麗になったら、鶴は喜んでくれるだろうか。ぼんやりと頭で、そんな事を考えていた明岐の目に、見逃せない動きが飛び込んで来た。
 暴れる祥を抑えるのに気を取られている鶴の足に、祥が噛み付こうとしている。
「おい、鶴!」
 亀の声が、鶴に危険を知らせたのと同時、明岐の方は素早く十手を抜き、鶴と祥の間に入ろうと動いていた。しかし遅かった。ぐ、という鶴の悲鳴が上がると同時、祥の口は鶴の足に噛み付いていて、がっちりと歯を立てて離れなくなっていた。
「祥、もうやめろ」
 亀の叫びを聞いても、祥の顎はぴくりとも緩まない。亀と明岐、大の男が二人して祥の顎を鶴の足から離そうと試みたが、しかし祥の顎は異様な力で鶴の足に噛み付いている。
『糞、油断した!』
 力なく呟いた鶴の顔は真っ青だ。祥が容赦なくズルズルと醜い音を立て、鶴から命を奪って行く。骸骨のようであった祥の姿が、みるみるとあの若々しく美しい若者に戻って行く。一方で鶴の方は、手や首、胸元の色が異様にま白くなったかと思うと表面を産毛のようなものが多い始めた。頬が痩けてげっそりし額に赤い痣のようなものが浮き上がり、まるで頭から血が滲み出しているような様子だ。
『無念だ、ここまでか』
「おい鶴、諦めるな!」
 亀が励ますと、鶴は力なく笑みを浮かべた。
『俺だって悔しいが……、こうなってしまってはどうしようもないだろ? 見ろ、手足が弱って動物化している。恨めしいぜ……まだ鬼李は病気をしてるってのに、死んでも死にきれねぇ、心残りだ。……この気持ち、わかってくれるなら、頼むよ亀、鬼ノ旦那、鬼李を俺の変わりに治してやってくれ』
「おい鶴、よせ、そんな弱気になるんじゃない……! 祥、やめてくれ、大切な友だ」
 遺言を残し始めた鶴に、亀と明岐は焦った。
 まさか、鶴が死ぬのか。今、明岐の目の前で殺されてしまうのか。
「嫌だ、死ぬな、死ぬんじゃない」
 必死の声を上げると、鶴はくすりと笑った。そして意識を手放した。
 あの、ふんわりした赤い唇は、カサついて真っ白くなっていた。こんな風になる前に、殴られても良いから吸っておけば良かった。などと不謹慎な事を考える。バサバサと耳元で音がして、あの喋るメジロが飛んで来た。メジロは祥の目を潰したが、その目はすぐに再生した。
 しかし、メジロは諦めず、また目を潰そうとして祥に近づき、祥の手に捕まるとバキンと背骨を折られた。
 万事休すと明岐の心も折れかけたその時、祥が異様に苦しみ始めた。
「あぁ゛、痛い、痛い痛い痛い、胸が溶ける」
 祥は鶴の足から口を離し喚くと、きっと亀を睨んだ。
「何をするのです、何をするのです、この痛みは愛じゃない、私を愛する痛みじゃない、処罰する痛み、殺意のある痛み、こんなのが欲しかったわけじゃない!」
「祥……、俺はおまえを愛しているぞ」
 優しげだが、抑揚のない亀の声に、明岐は何故か身震いした。
「嘘だ、こんな痛みを、どうして愛する者に味わわせるんです、もっと甘美な痛みなはず、これは愛の痛みじゃない、愛の痛みであるものか、貴方は私を愛していないっ」
 祥は泣きながら首を振ったが、亀は祥を苦しめる手を緩めなかった。
「祥、……祥、ほら、おまえの望み通り、俺の愛で以ておまえを殺してやろう」
 愛しい者を、殺す覚悟を持った男の恐ろしい覚悟が伝わって来た。亀が果たして、愛で祥を苦しめているのか罰で祥を苦しめているのか、明岐にはわからない。しかし祥は胸を抑え、足をばたつかせて、口から泡を噴き苦しんでいる。
「が……っ、ぁぁぁ、死ぬ、死んでしまう、死ぬのは嫌だ、嫌だっ」
 目から涙を溢しながら、祥は切ない声を上げた。
「皆、死ぬのは嫌さ、祥、おまえは俺に何を求めていた? 俺がおまえに与えられるのは、その苦しみしかないのに、どうして俺に愛されようとした? どうしてだ祥、どうして家族のように傍に居るやり方で、俺を愛してくれなかった?」
 祥はもはやビクビクと痛みで痙攣し、声を出せない様子だったが、亀はそんな祥の頭を撫で、背中を撫でた。
 すると、祥は急に眉間の皺を和らげ、安らかな顔になり目を瞑った。
「死んだのか?」
「ああ」
『可哀想にな』
 鶴はまだ顔が青く、首には白い産毛が生えていたが息を吹き返していた。
「また殺してしまった」
 亀が呆けた顔をして言うと、鶴はまた目を瞑った。
 その時、子どもが鶴に抱きついた。不思議と子どもは透明でなく、明岐の目に映った。
「あ」
 亀が子どもを指し、声を上げた所を見ると、亀の目にも見えているようだ。
『先程、殺された陰間の方々がやって来て、お礼にと魂の半分を置いて逝かれまして』
 死んだはずのメジロが、口を聞いた。ぎゃっ、と叫んだ明岐をからかうように、ブルブルと身体を震わせて折れた背をしゃんと伸ばす。そうして元通りになるとバサバサと飛んで、鶴の肩に止まった。
『成程な、死者に恩を売るとこんなお返しを貰える事もあるのか』
 感心する鶴に、明岐は少し期待した。死者に恩を売る、という行為は岡引業に通じる。岡引は死者のために働く事が多いのだ。

「では、俺は祥を持ち帰る。葬式を上げてやりたい」
 亀はそう言って、祥を抱き立ち上がった。
「墓に入れる前に、知らせに来てくれ」
 鶴の命が助かったのは良かったが、祥が死んでしまった事は明岐にとって痛かった。ただ、祥の発達した歯を見せれば、父親と留吉は納得してくれるだろう。納得してくれなければ、明岐は役人を辞める覚悟で亀を遠くに逃がしてやれば良い。
「それじゃぁな」
 亀は一同に別れを告げると、静かに小屋を出て行った。
 小屋に残された鶴と明岐は、暫く無言でいた。
 色のついた子どもは鶴に抱きついたまま、まだ泣いている。大きな下がり目を涙で濡らし、嗚咽を上げている。顔が整っているせいか、やたらと愛らしい。
「よしよし鬼李、大丈夫だ大丈夫。もう怖い事はない。俺がおまえを置いて死ぬわけないだろう、ほら泣きやめ、いい子だからな」
 鶴は面倒見の良い兄のように、片親の父のように優しく子どもを諭していたが、時々疲れた顔をして、自分も泣きそうになっていた。
「時におまえ、俺の元で働くつもりはないか?」
 嵐の去った静かな小屋の中で、明岐は意を決し申し出た。
 
 その後、人の同心明岐と妖の岡引鶴の組み合わせは非常に世の中に貢献した。鶴の調査力と明岐の正義感が、沢山の事件を解決した。
 透明な子どもは、色と元気を取り戻した。
 さらに六十年の時を経て、人の明岐が死んだ後、己の正体が赤い鬼の大将であった事や、己が人にまぎれて体を休める『人休み』を取っていた事に気がついてからも、今度は妖の同心と、妖の岡引の形で江戸の末期まで相棒の関係は続いたのだった。


2016/7/19