からめ

『お疲れ様です、要さん』(マイペースエリート×庶民派苦労人)


 21世紀の妖怪世界は、人間世界とほぼ同じ。
 妖力や貧富の差はあれど、経済で回る仕組みが作られ、ほとんどの妖怪は人と関わらず生活している。人を襲って『肝』を収穫する仕事は第一次産業、日本の都市部ではあまり見られなくなった。

 地下一層、地表から氷柱のように聳える妖怪オフィスビル群のひとつを地下一階から五階まで贅沢に使用する大企業、『怪PR社』の朝は喧騒に塗れている。
 沢山の会議や業務連絡で忙殺されている社員達は、要達外部の清掃員などに一々気を止めない。
 廊下を走って行く女性社員や、数人でガヤガヤと言葉を交わしながら通り過ぎて行く集団に、返って来ないと決まっている「お疲れ様です」を投げるのは苦ではない。そういうものだとわかった上でやっているため、挨拶が壁打ちでも要は気にならなかった。
 しかし、「あの人達は僕等の事を景色としか思っていないんだろうなぁ……」と新人がしみじみ呟くのを聞くたび、少しだけ寂しい気持ちになった。

「要さん」
 後ろから声を掛けられて、振り返ると『怪PR社』の管理部部長、狗賓種の滝神が立っていた。
 狗賓という種族は、天狗の系統に分類される。要の属する垢嘗という種族より、妖怪の格が高い。
 何となく気後れして、一歩後退った。
「あ、滝神さんお疲れ様です~」
 にっと笑って流れ作業のような挨拶をした要に対し、滝神はゆっくりと目を合わせ、お疲れ様と律儀な返事をした。それから、いくつもの会議室に続く広い総合ロビーで、沢山あるソファのうち、わざわざ要が作業する傍のソファに座った。
「面談ですか~?」
 そんな傍に座られては、声を掛けざるを得ない。
「……はい……、良くわかりましたね」
「何となく」
「勘が鋭いんですね」
「……はは、そーすね」
 午前十一時。
 管理部の部長がこの時間に総合ロビーで人を待つ用事はほとんどが面談だ。
 この頃になると社内の空気も落ち着きだし、人の行き来も減って、ぐっと作業が捗る。
 日の光が射す窓の掃除は気持ちが良い。
 地中にある妖怪タウンに、天候庁の役人が地上からわざわざ持ってきている麗らかな陽光……。陽光は、地中一層で暮らす妖怪しか味わえない贅沢な公共サービスだ。これに照らされる事が出来るというのが、要には喜びだった。
 キュキューッと窓が音を立てる。
 自分の舌の細胞から作った万能スポンジが、みるみる窓を美しくしていくのを楽しみながら、ふと窓ごしに滝神を見ると、まだニコニコしてこちらを眺めている……。
「……」
 五分以上沈黙が続いたにも関わらず、滝神は要から目を離さない。
 辛抱強い……。と苦々しくその様子を認め、要はこっそり顔を顰めた。
 できれば、無視したい。凄く無視したい。
「良い天気っすねぇ」
 しかし、要は空気を読む男だった。
「はい」
「晴れてると、テンション上がりません?」
「はい」
「週末も晴れるといいっすね」
「はい」
 滝神に気を遣って声を掛けながら、何故いつもこうなる、と要は内心舌打ちをしていた。
 大好きな窓拭きをしている時に限って、滝神に捕まる。
 滝神は窓際で作業する要の傍にやって来て、まず名前を呼んで話し掛けて来た後、近くに腰を落ち着ける。日の光に目を細めながらじっと要を見つめ、無言の圧力で会話を促して来る。
「ずっと晴れにするって事は、出来ないんすかねぇ」
「……さぁ、どうでしょう。僕は曇りも好きですよ」
 目の前の窓硝子には、柄の悪い要の外見に対比された、上品な滝神の姿が映り込んでいた。
 滝神はじっと見つめて来る癖に、何を話しかけても受け身で、次に繋がる返事をしない。要がいつも何かと話題を探さなければならなかった。
「こう天気が良いと、仕事放り出して遊び行きたくなりますねぇ」
「はい」
「週末は何かご予定あるんですか?」
「……特に……、ありません、……」
「へぇ~……、じゃぁ、いつも何してるんですか?」
「……いつも、……そうですね、ぼんやりしていますかねぇ」
「……はは! ぼんやりって! 暇人ですか! ひなたぼっこ??」
「暇人です……、ひなたぼっこ、……好きですね」
「……へぇ~」
 あーもー、めんどくせぇ。
 そこで一つの窓が終わり、スポンジ洗浄のため床に置いた機械の前、屈むと滝神が目の前にやって来て足を折り、目線を合わせて来た。
 思わず、へらっと愛想笑いをしたが、顔が近くて気まずい。
 この距離に近づいて来て、一体何を話そうというのか。
「……」
 滝神は要をじっと眺めるだけ。口を開こうとしないので、じわっと額に汗を掻いた。
 ……何なんだよ。一体、何がしたいんだよ。
 滝神の行動が、謎過ぎて変な気分になる。厄介な男に気に入られてしまった。
「あ、そういえば最近、野平さんと小柄な鎌イタチ種の女の子、よく一緒に居ますよねぇ、知ってますか? 第二営業部の野平さん……、前は巨乳のろくろ首と仲良くしてて」
「はい」
 結局、要が話題を振った。
「良いですよねぇ、あんな美女二人の間を行ったり来たり……、羨ましい。
 俺の周りは男ばっかりで、……二層の現場なら女性比率高いって聞きますけど……」
「はい……」
「最近、彼女と別れちゃって、ご無沙汰なんですよねぇ……。
 って朝からする話じゃねーなこれ。
 ……あの、ところでこの距離何ですか? 若干作業し辛いんすけど!」
「……」
 少し強い口調だったからだろうか。
 うざい、という空気が漏れ出さないよう細心の注意を払っていたのに、滝神は傷ついたような顔になっていた。何かまずい事を言ってしまったのだろうか……。
 下ネタはアウトだったのか……。
「あ、すみません、くだらない話しちゃって」
「いえ……」
 慌てて笑顔を作って、腿に手をつくと頭を下げた。
 少し下の角度から見た滝神の顔は、良くも悪くもない、普通の顔で、そういえばこんな顔をしていたなと、今思い出した程だった。やや大きな口に、天狗特有の下がり目がなかったら記憶に留めるのが難しい類の顔。
 それでも、厚めの一重に細い眉、鋭い三白眼の揃った柄の悪い要の顔に比べると、感じの良い顔立ちというだけで、女怪にモテそうではあった。
「滝神さん?」
「あ……」
 何か考え込んでいる様子の滝神に声を掛けると、滝神はハッとして咄嗟の笑みを浮かべた。
「あぁ、どうやら、気を遣わせてしまったみたいで、ごめんなさい」
「や、俺も、……朝から下ネタ、すみませんでした……」
 滝神は少し、言葉を選んでいる風。何を言い渡されるのだろう。
「あの、えっと、要さんはオシャレですよね」
「えっ……?!」
 滝神の澄んだ目が、要の隅々、耳のピアスやネックレスの絡んだ首元を順々に捉えていく。
「……あ……、や、別に……、単に女好きなんすよ、……ウケるから、こういうの付けてると」
「ウケる?」
「あ、ええっと引っ掛けやすくなる? ナンパ成功率が上がるっていうのかな、んーっと」
 想定外の指摘と、久しぶりに褒められた事で舞い上がり、耳に熱が集まった。
「今度、僕にもオシャレを教えてください」
「え、いいっすけど、俺別にそんなオシャレじゃ……」
「ここに連絡をください」
 すっと名刺を渡されたが、随分前に一度貰った事があるのでいらない。
「や、名刺ならもう貰ってます」
 やんわりと受け取りを拒否すると、滝神の顔が僅かに曇った。
「……では、二枚目を」
 持ってるッつぅの、と心の中で唸り、要も顔を顰める。
 渡した方は忘れても、貰った方は覚えていた。
 『怪PR社』の現場に、妖怪社会人になって初めてやって来た時の事。
 挨拶は社訓なので、今より大きな声で、あの時は返事を期待して、感じの良さにも拘りつつ要は声をはり上げていた。
 応じてくれる人の少なさにがっかりしながら、しかし、こういうものなのだろうな、と一種不貞腐れた気持ちで納得し始めていた時だった。
 初めましての方ですね、とわざわざ足を止め、名刺をくれた社員がいた。
 それが滝神だ。
 じんと目に涙の膜が出来たが耐えて、貰ったその一枚の名刺のためだけに、要は名刺入れを購入した。
「滝神さんって、案外薄情?」
「え?」
 ぽろりと言ってしまった厭味に、滝神は不思議そうな顔をした。
「……俺、滝神さんに初めて名刺貰った日が初出勤日だったんすよね。
 誰も、挨拶に返事くれない中で、初めましてって名刺くれた滝神さんの優しさに、超感動したんだけど、渡した本人はその事覚えてないんだもんな」
 恐らく、何百枚も刷ってバラ撒く名刺について、一々誰に渡したかなんて覚えていないのが普通だろう。日々外部の業者と沢山の商談を重ねる滝神に、無茶な期待を掛けてしまっていた事に気がつくと、急に恥ずかしくなった。
 ……俺の事は特別に覚えているだろう、なんて思ってたのか俺は。
 自分の浅はかさに驚いて耳に熱が集まる。
「でも、僕は君の連絡先を知りません」
 滝神はぽつりとそう言って、立ち上がった。
 丁度、面談の相手が来たようだった。
 近頃、子どもが入院したとかで遅刻早退が増えている短髪の女怪が、走ってこちらに来るところだ。
「すみませんでした滝神さん、お待たせして」
 女怪は体育会系の素早さで滝神にサッと頭を下げた。
「お子さんの具合は如何ですか?」
 滝神の質問に、厳しげだが整った姉御フェイスを綻ばせ、短髪の女怪は経過を報告した。順調に回復しているらしい。中庭ランチをしていた女怪達の噂では、彼女はパートナーに女性を選んだため、子どもは土から作っている。妖怪は種が違うと男女でも子を為す事が難しく、土から新しい妖怪を作る。百年生きると本物の妖怪になるが、それまでは育てるのに苦労する。若い妖怪のほとんどは同じ種同士の男女で子を為すが、年を取った妖怪は、別種の妖怪と苦労して土から子を育てようとする。また男同士や女同士の子作りも同じ、土子からだ。
 しかし、要の両親も知人も大体が垢嘗種同士で普通に子作りをする。そのため、実際に土子を育てている妖怪に、要はたった今はじめて出会った。
 ひとくちに妖怪と呼んでも、その生き方は本当に様々だ。この場所で働いていると、日々それを実感する。

 午後六時、地下一層に設置された装置としての空が、下半分がレモン色と赤色に染まっていた。
 要の働く『あかなめ清掃』は夕方には大方の業務を終わらせる。
 大家族で同居している要は、家の手伝いを言い付けられており、今日は食事当番のためスーパーに寄って帰る。
 地中四層に続く巨大エレベーター型の交通機関、『アースポール』に乗り込み、自宅傍のエレベーターホールから出て来ると、四層の薄暗い世界と、オレンジの壁灯りに迎えられた。
 壁一面を覆うコケが淡い光を放つ年中オレンジのこの世界では、地上を照らす透明な陽光は、遠い世界の果てにある幻の自然現象だ。
 要はまだ生まれて百年に満たない若い妖怪で、幼い頃、一層で働きたいという夢を抱き、二層の大学に猛勉強をして入った。地中四層にある垢嘗の多い地域、垢嘗区の世界では『あかなめ清掃』に入社して一層世界で働くという事は大変なステータスである。
「お疲れ様です要さん!」
「要さんお疲れ様ですー!」
「先輩、お疲れ様です!」
 四層、要の家の傍に設置されている『アースポール』の駅は、コンサートホール程の大きさで、商業の中心地となっている。円形の建物を囲むように賑わっている商店街で、通りがかかった後輩達に声を掛けられた。
「ああ、お疲れ」
 スーパーの袋を手に持っているにも関わらず、後輩たちはキラキラした目で要を見てくる。
 石やごつごつした岩で出来た長屋の連なる住宅地。地元の清掃会社に就職した、現場帰りの後輩達がいる景色は癒しだ。
 後輩達は近くに寄って来て、今お帰りですか、早いんですね、と適当な事を口にした。
 中学の時に同じ部活で面倒を見てから、高校受験の際は家庭教師をしてやった後輩たち。そろそろ消えてしまう年齢だ。垢嘗の中でも弱い種は、妖怪に必要な栄養分の『肝』を取らずにいると、三十年そこらで消えてしまう。だから垢嘗種は中学を卒業してすぐに働くし、優秀でも親の寿命が短かければ、高卒を卒業してすぐに働く。
 『肝』は、人が喜んだり怒ったり哀しんだり、楽しんだりしている時、妖界に落ちるエネルギー玉で、人の魂の欠片だと言われている。妖怪は、それを食して命を永らえる。
 この『肝』は現在、加工されて一定額以上の通貨としても存在し、要の給料は円にして一万円程の『肝』十七粒で支払われていた。いざとなればこれを食らう事もできるが、食品として加工された『肝』の方が美味いので、普通は通貨としてのみ使う。この『肝』は、地下二層までしか流通していない。
 命には限りがある。その事を初めて知ったのは、要が一番可愛がっていた後輩がある日、急に消えたという知らせを受けた時。
 弱い妖怪は、持って生まれた妖力が尽きると消える。
 大妖怪は、肝を取らなくても百年二百年余裕で生きるし、肝を取り続ければ永久に生きるかもしれない。しかし、妖怪には大小がある。
 四層の妖怪は、大抵が肝を摂取する事を諦め、自然に消えるのを待って生活している。その意味では、人の暮らしにより近い周期で生きていた。五十年から百年、生きられれば良い。そういう考えで居るから、誰かが突然消えても、寿命だったと簡単に受け入れる。
 それでも、要は給料の一部を四層の住人が少しでも肝にありつけるようにと寄付している。垢嘗区は、肝の味を知らぬまま、持って生まれた妖力が尽きて五十年も生きずに消える者がほとんど。それを寂しく思うのは要だけだったとしても、要は多くの垢嘗に、長生きして欲しいと考えていた。
「あ~ぁ、俺も要さんみたいに一層に就職して、沢山肝を貰える生活、してみたかったなぁ」
 別に今からでも、勉強して一層か二層の大学に入り、地上か一層に職を探せば良い、と言う言葉は何度も口を酸っぱくして言って来たのでもう言う気が起きなくなっていた。
「要さん天才だもんなぁ」
「俺も要さんぐらい頭良かったらなぁ……」
「凄いよなぁ、一層で働いてるんだもんな」
「……お前らはいっつも、そう言うよな」
 後輩達の言葉を聞き流しながら、木製の家々が並ぶ狭い路地を進む。鼠の住処のように、でこぼこした岩の長屋が見えて来た。十四の兄弟と父母が暮らしているため、長屋を丸々要家で使っている。
「せっかくだ、上がってくか?」
 ホールから付いて来た後輩達に声を掛けると、やったぁーと歓声が上がった。
 一層のスーパーで買ったものを食えるのが嬉しいのだろう。肝入りの食品も多い。
「要さんのところでご馳走になると、寿命が延びます~」
「そーかそーか、じゃぁ俺に感謝して、俺の留守にはうちのチビどもを頼むな」
 末にはまだ十にも満たない兄妹が五人居る。
 その時、こっちだ! という声がしてドヤドヤと人の声や足音が近づいて来た。よく見ると、祭りの時のように興奮した様子で隣人達も窓からこちらの様子を伺っている。
「要さん、何すか、何かあったんすか?!」
 後輩達が不安気に聞いて来るので、要もまた不安になって来た。近所の者から見知らぬ別地区の妖怪まで、数十名がザワザワと何かを期待した顔で集まって来ていた。
 見物人の声に耳を澄ませる。「天狗だってよ」「品の良い狗賓でスウツを着込んでてよ、俺ぁ後尾けたんだから間違いねぇ、浩二の家んとこ曲がって行ったんだよ」「一層のもんが遊びに来るってんなら浩二んとこが一番ありえそうだしなぁ」「誰が来てるって?」「天狗!」「本物か?!」「この目で見た」「大妖怪じゃねぇか」
 四層では、一層の妖怪が来るというそれだけの事がこんな大騒ぎになる。無邪気な同郷の者達の声を聞きながら、要は頭が痛くなって来た。
 誰が来てるって?
 誰が……。
「要さん」
 家の中から、ひょっこりと滝神が顔を出した。見物人達の間に、どよめきが走る。
「滝神さん?! どうしてこんなとこに・・・!」
 要もまた、全身に鳥肌が立つ程驚いた。
「いえ、昼間、要さんと喧嘩をしてしまったでしょう? 謝ろうと思いまして」
「喧嘩ぁ?!」
 喧嘩なんかしただろうか。滝神に要が腹を立てた覚えはあるが、滝神と何か言い争うような事はしていなかったと思う。
 そこで、「よっ、垢嘗の星!」と見物人から野次が飛んだ。「天狗と喧嘩したんだってよ」「さすが要家の浩二は違うな」「スゲェよなぁ浩二は、普段から一層で天狗とか鬼とかと渡り合ってるんだもんなぁ」「狗賓に謝りにこさせるぐらいだから、結構、活躍してるんじゃねぇか」
 恥ずかしさで頬から耳まで、赤く染まって行く。好き勝手言いやがってと胸の内で恨む。
「あの、すみませんが、ちょっとこっちで話を!」
 家の中や近くには、落ち着いて会話出来る環境がない。ぼんやりしている滝神の手を取り、家の中から外へと誘い出した。まだ、きちんと革靴を履いているので滝神は家の玄関に腰を掛けて、要を待っていただけらしい。良かった、滝神に汚い家の中を見られていなくて。
「え、でも、要さん今日は夕飯係って……」
「そうですけど、貴方が来てしまったんだから仕方がないでしょう」
 エレーベーターホールの喫茶店に入ろう。そこは改札を通らないと一般の人間は入って来れないから安全だ。
「でしたら僕、待ちますから、先に夕飯のお支度を整えてください、末の弟さんがお腹が空いたと泣きそうにしていらっしゃったので」
「母さん、悪い、夕飯明日やるから、安栗に代わりに作らせといてくんないかな」
 突然押し掛けておいて、家の事情を一方的に知り、見当違いに気遣われても腹が立つばかりだ。家の奥から、安栗は今日は塾よーと母親の声がして、ついに泣き出した末の弟の愚図り声も、うえ、うえええ、ぐす、ぐす、と続いた。
 仕方がないので滝神に困り顔を向け、両手を合わせた。
「滝神さん、申し訳ないんですがちょっとホントに、待ってて貰えますか」
「はい、もちろんです」
 滝神は心なしかワクワクしているようで、悔しいかな、四層で見かけると恐ろしく身奇麗だった。
 朝、どこにでもいる類の忘れられがちな顔だと思っていた滝神の容姿は、良く見ると優雅で目に心地よくまとまっていた。
 しみじみと滝神の向けてくれた関心に、不思議な気持ちになる。一層の狗賓が、わざわざこの四層まで、自分との小さな諍いを気にかけて来てくれた。
 改めて、自分は大出世をしたのだと思う。
「どうせなら、食べて行きませんか? 一層のスーパーで買った食材なんで、そこまで口に合わないって事はないと思います」
 声を掛けると、滝神は照れたように笑って頷き、革靴を脱いで長屋の中に入って来た。後輩達がその後に、びくびくと続く。
 出戻りの姉や、学生の妹達が一斉に黄色い声を上げたので、みっともねぇと叱り、素っ裸で取っ組み合いをしていた弟達に服を着るように指示をする。
 夕食を囲んだ妖怪の数は二十にもなった。後輩達がちらちらと要に視線をくれるので、要は溜息をついて滝神に声を掛けた。
「あの、良かったら滝神さん……滝神さんの故郷とか、これまでの暮らしについて、話をしてくれませんか? 家族や後輩が知りたがっているので」
「要さんは?」
「あ、もちろん俺も」
 滝神があまり会話上手ではない事を知っているので、無茶ぶりかな、と心配になったが、滝神はこくんと頷いた。
「……僕は、今年で約八百五十歳になります」
 冒頭から世界が違い過ぎて、父親上座を譲ろうと腰を浮かした。それを、滝神は笑って制し眉を下げた。
「こんなお爺ちゃんですが、要さんが好きです」
 啜ろうと口を付けていた味噌汁を、ぶっ、と噴射し、横に居た姉に思い切りどつかれる。
「若い妖怪は、男女の、それも同種で子どもを作るのが普通ですから、きっと僕は酷く異端に映るでしょう……けれど、僕は要さんと土の子どもを作りたい」
 何だ?! 何が起こった?! と味噌汁の具とこぼれた汁と、椀の底を順に見て行く。わけがわからない。
「はじめて見た時から、素敵な方だなと思っていましたし、会話をしたくて声を掛けると、こちらを楽しませようと凄く気を遣ってくださる、……根の優しい方なのだと思います。それから、僕は『怪PR社』という会社で管理部の部長職にあるのですが……」
 ぶ、と今度は母親が味噌汁を吹き出した。
「あの! あの一層の! い、一流の?! ……ええ!! 聞いたことありますわ」
 何が「ええ」なのか。
「ありがとうございます、……あの、弊社が一流かどうかはわかりませんが、……僕の……管理部の部長職は、他者の観察、心の機微を察知するのが仕事でして、……けれど、僕は他者の気持ちを理解できず、検討外れな対応をしてしまう事が多かった。
 例えば、ある有能な女性社員が辞めたいと言った時、僕は給料を上げようとか待遇を良くしようとか申し出たのです。仕事の悩みがあるのかもしれないと色々悩みました。……しかし実際は同じ部署の同僚と一晩を明かしてしまい、気まずかっただけだったそうで、少し部署を移動させるだけで済む話でした。これは要さんに教えて貰い、気がついたのです」
 そういえば、そんな事もあったな、と思い出す。要の担当階が変わる度、わざわざ滝神が挨拶に来たが、必ず何か悩みを抱えていた。
「僕は要さんの、気の優しいところや、人の困っている事にすぐ気付けるところが好きです。お父さん、お母さん、僕は今日、要さんに謝るのと一緒に、告白をしようと思っています。お許しを頂けますでしょうか」
 いつの時代の男だ、おまえは。と突っ込みを入れながら、自分のこれまで何とも思っていなかったところを、美点として上げてくれる滝神に、要は少しだけ興味を持った。
「わかりました滝神さん、一回、友達からはじめましょう」
 提案すると、母親が勢い良く立ちあがって、寝室を指差した。
「あの、よければどうかお泊りになって行ってください。浩二との事は、私どもにお断りする理由などございません。
 好きに……本当、こんなんで良ければ、どうぞ、貰ってやってください。一層の方に、それも大妖怪に貰われるんなら、手塩に掛けて育てた甲斐があります。手前味噌ですけど、この浩二は本当に良い子でして……っ、出来たら、し……、幸せにしてやってくださいね」
「あ、あの?! 母さん……一旦、待って貰っていいかな、俺もこれ初めて聞いた話だからさ? 滝神さんと俺、特別親しかったわけじゃないんだよ?! ぶっちゃけ」
 混乱する家庭内を、後輩に見られるという恥と、いきなり自分が若衆のような扱いになった違和感。そして滝神がじっとこちらを見てきている恐怖が重なり、要はご飯を零した。
 おわ、と声を漏らし、片付けようとした手を止められる。
「要さん、ここは自分が! ……要さんは、さぁ、どうぞ、天狗とお幸せに!」
 ささっとやって来た後輩に、とんでもない気遣いをされ、思わず「バカヤロウ違ぇ」と怒鳴っていた。生活の基盤が、めちゃくちゃに踏み荒らされ、混乱する。
「要さん……」
 滝神がぐっと身を乗り出して来たので、思わずきっと睨みつけた。
「好きです」
「今!! 言わないでくれますか!! 空気読んで!!」
 思わず怒鳴ると、困った顔で停止した滝神に、八百年も生きて来て、恋愛スキル低過ぎだろと心の中で突っ込んで席を立つ。
「何もかもが急すぎます、ちょっと考えさせてください」
 後ろで、「お母さん、あたしも二層の大学に入って一層で働く!」という妹の決意の声がした。「俺も」「私も」とわらわら下の兄妹達が手を上げるなか、何故か要は暗い気持ちになった。どんなに頑張って一番良いと言われてる道を辿っても、いくらでも上には上が居るんだぞ……。地上から遠すぎて、光が遠すぎて、何も見えていない家族が哀れに思えた。
 八百年って何だよ想像も出来ないよ、と呟いて玄関に蹲る。外には野次馬が大勢居て、要には自分の部屋が存在しない。一つしかないトイレを占拠したら家族が困るので、どこにも逃げ場所はなかった。
 追って来た滝神が心配そうに覗き込んで来るのを感じ、また耳に熱が集まる。
「要さんに名刺を渡した事、最初に渡した時の事、忘れてたわけじゃないんです。要さんから、メールが来ないので、捨てられてしまったのかと思ってました。だからまた渡そうとしたんです」
「メールなんかしないですよ、ただの挨拶で名刺くれた人に」
「……それでは、何をしたら僕は要さんの連絡先を頂けますか。精一杯、頑張りますので、教えてください」
「連絡先ぐらい、フツーに教えますよ!!」
「えっ……?! そんな簡単に! 良いんですか?!」
 滝神は少し興奮して、ぐいっと要に近寄った。滝神のすっきりした顎のラインや、意外と骨太でがっしりした体格がすぐ目の前に迫り、息を呑む。何か良い匂いが。……距離が近い!
「つーか、意味わかりません、……いきなり何なんですか、やめくださいよ、家族の前であんなこと……! うちの母さん単純なんで、すっかりその気ですよ?! ……その、俺たちの事」
「結構ですよ、今日はそのつもりを伝えに来たので」
 そのつもりって、どのつもりだよ。……結構って何が。
 ……いやいやいや。
「結構じゃねぇよ!! 男同士だぞ!!」
 相手が大妖怪だとか、大口取引先だとか、気にする余裕もなく怒鳴っていた。これで滝神が気を悪くして『あかなめ清掃』を切ってしまったら。
 考えると胸が苦しくなったが、今更、後に引けない。
 数秒の無音。要はもう謝りそうになっている口に、拳を当てて耐えた。謝ったら負けだ。
 そろりと、頭を撫でられて顔を上げる。困ったような顔の滝神が、気恥ずかしそうに笑っていた。
「男を好きになってはいけませんか?」
「……俺、は、……女が好きなので」
「それでは、僕は例外として扱って頂けるよう努力します」
 努力で何とかなる問題かよ。と心うちで突っ込みを入れつつ、要はやっと落ち着いて来た頭で、滝神への突っ込みと自分の考えをまとめた。
「滝神さん、……あの、失礼ですけど、……まず、……」
「はい」
 滝神の人柄を信じ、ここは正直に行こう。男同士がどうとか、そういう問題以前に……。
「……そもそも、俺と貴方は生きて来た世界が……、違い過ぎるというか、……つまり、その、貴方のアプローチ? の方法が俺には、……想定外過ぎるというか、ぎょっとする、というか……」
「はぁ……」
 曖昧な声色。ピンと来ていない顔だ。
「一応、俺はこれまで、女の子に対して……、その……。メールを送ったり、小まめにデートのお誘いをかけたり、ホテルの予約をしたりして……、仲良くなってから、というか、まず二人きりの状態で気持ちを確かめあって、……それから、はじめて家族に挨拶とかするような仲に……なってきた、というか……、まだ挨拶まで行った子はいないんですけど、……何て言うか、そういう段階を……」
 踏まえてから……。
「……わかりました、全てやりましょう」
 いや、違う! 要求じゃねぇ。喩えだ。
「なんで、そうなるんですか?!」
「僕は貴方のためになら、何でも出来ます……ずっと、焦がれていたんです」
 一瞬、意識が遠くに行ったのは現実逃避の他、真っ直ぐな滝神の言葉と声、視線が胸に迫ったから。
「ぁ、……ありがとうございます」
 思わず感謝してしまったのは、幸福だったから。要そのものを肯定する存在の、尊さに圧倒された。急に、滝神が要にとって大事な男のように思えて混乱した。
 あれ、何だろうこの流れ。
「あっぱれ!」
 と声がして玄関が勢い良く開いた。集まった人達の数は減るどころか増えていた。
「すげぇことになったぞ!! 要家の浩二は天狗と番になるってよ」「男同士なんて、大妖怪みたいだな!!」「こういうの何つぅんだっけ」「衆道」「そう、衆道だぁ!!」「念者が男役で若衆が女役で、……浩二はどっちだ?!」「若衆じゃねぇか?!」「天狗を抱くのはさすがの浩二にも荷が重いだろぉ」「そーだよなぁ、なんてったって、天狗だもんなぁ」「四層の生まれで天狗と契るたぁなぁ」「玉の輿だ」「いやぁ、めでてぇ」「良かったなぁ奥さん、苦労して育てた甲斐、あったなぁ」「お幸せになぁ」
 青ざめた要と嬉しそうな滝神と、あっけにとられている家族と、無遠慮に玄関から声援を送る近所の人々と、後に引けない状況。
 ち、……違う。違うんだ。
「お疲れ様です要さん」
 後輩達から、声の揃ったお疲れ様を貰うと、どっと疲れが増した。疲れ過ぎてわけがわからない。要はこの日、滝神とメル友になったと同時に、地元の有名人になった。


2016/7/20