からめ

『雲の巣』(天才×平凡)


 怪PR社、企画部は幾つかのグループに分かれている。
 そのうち玩具や文具、常用小物についての企画を出しているグループをグッズGと呼ぶ。分かり易い例を上げるとアイドルグループのコンサートや、車のメーカーショー、スポーツ大会、展示会などのイベントで販売されるグッズの企画を行う。グループ内には三つの班があり、実績やアイデアを比べられ、競争させられる仕組みになっていた。
 地登利 雲(ちとり くも)は三班の班長で、現在グッズGで一番大きなイベントの案件を扱っていた。予算も多く優遇されている。三班は雲が班長になってから、安定して好成績を残すようになった。
 しかし、雲はこの現状に満足せず、次の大型案件を獲得するための手立てを探していた。競争社会で生き残るには、常に思考し、危機意識を持つ必要があると考えていた。
 よって、今も四日後に開かれるイベント設計会議に向けて、一手打っておかなければという考えで、雲の頭は支配されていた。

「古葉(こば)、良いところに」
 廊下で呼び止めた女怪の部下は、にこりと艶やかな笑みを浮かべ立ち止まった。既に根回しの完了しているいくつかの問い合わせと、調査の発注を指示すると、部下はそれぞれ何時までに出来るかを報告してくれた。ついでに今週の自分の予定と、近頃気になっているバーを二件紹介し、立ち去った。
 肉食だなぁ、と感じ入りつつ嫌いじゃないと結論をつけて足を進める。
 成長とは、幾つになっても実感出来るものだ。
 数千年の時を生きる大妖怪、育て親の亀種は雲にこの言葉を繰り返し聞かせた。今、それを実感している。今でこそグッズGトップの班で、長を任されている雲だが、昔は手先が不器用で、役に立たないお荷物社員だった。

「どれだけ生きても、上には上がいるよねぇ、俺、二百を超えたら神様みたいな扱いを受けるもんだって、小さい頃は思ってたよ・・・」
 川越、ヴァンパイアの名が付く小洒落たバーで、野平が不貞腐れた声をあげた。生き血から栄養を取る妖怪、チトリ種である雲を、野平が面白がってこの店に連れて来た。それが半年前。今ではすっかり常連になった。
 店内には、やはり名前につられるのかヴァンパイア種や、チトリ種と同じく生き血を啜る妖怪、飛縁魔種を良く見かける。ヤギのミイラがディスプレイにあったり、手すりが鎖で覆われていたりと、内装が凝っている。
 だが、人の集まる一番の訳は、飯の旨さだろうと雲は判断していた。気に入りのメニューの一つである、ガーリックライスを口に運びながら、今日、野平の言いたい事を、どうやって言わせてやろうかと考える。
「僕は……、育ての親が亀種だからなぁ」
 野平の顔色を伺いつつ、言葉を選んだ。
「長く生きるってのは、当たり前の感覚で、まぁ実際、生きてみると長く生きるのが大変な事ってわかるんだけど、長生きを誇るって発想はあんまり無いな」
 暗い店内に浮かび上がる、野平の顔、その眉間に寄った皺を眺めながら言う。怪PR社では、営業が己の取って来た仕事を、どこの誰に割り振るかを決める。製作部で己の評価に繋がる大型案件や、質の良いものをじっくり作らせて貰えるような仕事を得るためには、営業に近づき接待をするのが一番だ。しかし、案外、皆これを考え付かない。糞真面目に質の面でわかって貰おうとして、製作にしかわからないようなこだわりを見せ、結果、営業に理解されず憤り、対立して自分の首を締める。わかって貰おうとするのではなく、わからせるという手法を、どうして皆が使わないのか、不思議でならなかった。
 やり方は簡単。大型案件を数多く取って来る営業を接待し、味方につけた上で、己のチームを誇ってみせる。直接的に頼むのではなく、チームに都合の良い成績を数字で報告する。営業は数字好きだ。雲に言われたから雲を選ぶのではなく、自分が雲を数字で評価し、選んだと思わせる。これが雲の連勝の秘訣だった。
 野平にはこの間も超大型の案件で指名を貰った。その仕事で雲と、雲のチームはA評価を受け、夏のボーナスは昨年の二倍貰った。
「まぁ、群で育たないとわかんないかもねぇ」
 野平はふっと笑みを浮かべて、酒を飲み干した。雲は店員を呼び、野平に新しく何を頼むか聞いた。
「スコッチ」
 野平が好きなのはスペイサイド産だ。店員にそれを頼むと、良く覚えてるねぇ俺の好きなの、営業に来る? と軽口が飛んで来た。
「営業はちょっと……」
「そう嫌がる程大変じゃないよ、一年もてば楽になる」
「はは」
「雲は顔が良いから、売れるよ」
「ありがとう」
 目鼻立ちのハッキリしたチトリ種と、造作が整いやすい蛇種の間に生まれた雲の顔は、一つ一つのパーツは大きいものの、目鼻が配置よく置かれているため均等な美しさを持っていた。しかし、それは味気なく整い過ぎて、機械につくられたような顔だとよく言われた。
「移動しておいでよ、第二に」
「ふ、随分買ってくれてるな? さては僕に惚れてるな?」
「ちょっとやめてよ、違います」
 からかうと、野平は眉を下げて笑った。
「冗談だよ」
 顔が良い営業、口が巧い営業、誠実で熱い営業、わざと不遜な態度で主導権を握る営業……、様々。多くの営業を接待して来た雲は、恐らく野平より営業という人種を理解しているだろう。一番、味方につけて心強いのは、顔に頼らずに人格のみで勝負をして来た営業だ。顧客の信頼度が高く、製作からの注文を、顧客にきちんと交渉してくれる。
「でもさぁ、雲は向いてると思うよぉ、気遣い出来るし」
 陰間茶屋で育てられ、仕込みの仕事を数年やり、何かと目聡い陰間を相手に気を配った経験が生きているのだろうか。気遣いが出来る、と褒められる事が多い。しかし気を回しすぎて疲れる事も多い。
「俺はそういうの、鈍いからなぁ……、マネージャーなんて、たいそうな役をやれるほど、営業が得意なわけじゃないんだ」
 野平は今日、年嵩の部下に散々馬鹿にされて面目を潰されたと噂に聞いた。だから、長生きが何だ、という話になるのを想像していたのだが、少し違うらしい事を、雲は察し始めていた。どうやら野平の憤りは、部下に対してより『年嵩の部下』を扱わなければならない会社の環境に対して向けられているようだ。
 雲は社歴八年のベテラン社員にして、齢三百を越す大妖怪である。妖怪の平均寿命は異様に長生きの一部上流層を除けば二百から三百。二百を超えれば、大妖怪の域に入るのだが、怪PR社には千を越す化物がごろごろと居る。
「雲は江戸育ちだから、想像つかないだろうけど、妖怪の群に存在する長生きの序列ってのはさぁ、結構厳しいもんでさぁ、うちの村はそんなに大きくなかったから、百を超えてるってだけで凄いスターだったんだ。実際、長生きの妖怪って凄いんだよ、長く生きられる知恵と力を持ってるんだからさ、尊敬すべき存在だよ、だから俺、強く出られないんだよな、年上に。だって俺よりずっと生存してる……」
 野平は囁いて、また笑った。苦笑いだった。解決出来ない問題を愚痴っても、しょうがない事をわかっている。
 雲はうぅんと唸った。野平は確かに、一番仲の良い牛鬼に対してでさえ、年上だという点から、あまり指示という指示を出さない。雲に対しても、どこか遠慮があるように感じられる。どうしたものかと頭を悩ませ、そして、無難な答えを口にした。
「時代が変わったんだ、歳なんか気にしてたらやって行けないよ、君は会社に評価されて、地位を得たんだからさ」
 慰めるように、野平の肩をぽんぽんと叩く。
 それから、自然な会話の流れで、数字でわかる三班の実績をさりげなく伝え、現在、野平が苦戦している企業が、最近発表したプレスリリースや、それに関連する企画案も一緒に紹介した。これで、次のイベント設計会議は貰いだろう。

『ごめん』
 しかし、結果は大敗。
『この間、愚痴った通りでさ……、鵺さんの意見をどうしても無下に出来なくて』
 電話口の野平は、心底申し訳なさそうだった。
 三班を採用してくれると踏んでいた野平が、部下の年増妖怪から、二班の実力を押されて意見負けしてしまった。チームでつかんだ大型案件は、発注先もチームで選ぶと、そういえば野平は言っていた。根回しを野平までに留めて居た事を、雲は後悔した。野平の下に居る鵺という女妖は、プライドが高く昔気質で、物事をじっくり観察し判断するため、雲の小細工が通じにくい相手だった。
 確かに、今回野平のチームが持って来た『ギリシャ悲劇』という美術展は、上野西洋美術館で開かれる美術マニア向けのイベントである。相当にストイックな物造りの精神が必要とされる案件だ。これまで雲達が得意として来た、高級嗜好でブランドとのコラボさえしていれば喜ぶセレブ階級へのグッズ展開ではない。どちらかといえば、芸術肌の、文化オタク向けで、目が厳しい。リーズナブルで質の良い品を作り上げなければ売れない。
 つまり純粋に物欲に訴えかけられなければ勝利はない。
「逆に、良かったよ」
 大型の案件を逃し、元気のない班員達が詰まったミーティングルームに、明るい声を掛ける。
「僕らの実力じゃ、まだ難しかった」
 八人は入れる大きめの箱に、三班の総勢四人が円卓で顔を合わせている。イベント設計会議後、すぐに反省会を開いた。
 いつもは、設計会議で割り振られた仕事の段取りを話し合う楽しいミーティングが、今日は通夜のような静かで気の重い駄目出し会となった。プレゼンを任せた部下、女怪の砂壺は泣いてしまっていた。その背を古葉が撫でており、もう一人、クールな雪嶋は足を組み、負けた企画書を眺めていた。
 今回の大型案件を得るために、砂壺に1週間掛けて作らせた企画書、なかなか、良い出来だと雲は感心していたのだ。派手で画期的な一方で数値による丁寧な説明のついた、いつもの三班テイストに忠実な企画書。砂壺に落ち度はない、あるとしたら雲に。
 根回しに意識を持っていかれ、物事の本質を見失っていた。
「皆、いいかい?」
 雲は口を開き、言葉を選んだ。
「この企画書は、良く出来ていたと思う。これが六本木の森美術館や、乃木坂の国立美術館、上野でも東京都美術館の案件なら絶対に通ってた。それが、今回は西洋美術館……、少しこだわり色の強い客層を持ってる箱が相手だった。話題性より、質。物珍しさより実用。重視されるポイントを押さえてなかった。これは、僕の判断ミス。職人気質の業者開拓が不十分な、うちの弱点を意識してなかった」
「チーフ、それはうちらも把握しておく事でしたから、一人でまとめんでください」
 雪嶋が口を開き、砂壺がハンカチを口に当てながら、こくこくと頷いて、またポツンと涙を零す。雪嶋が続けた。
「あたし、二班がマニアックに走って失速してるの、笑っとったんです、何て内向きで、利益のない企画だろう、オナニーかって……けど、二班の造るもんは良いもん多い、一般にはわからんけどマニアにはわかる、悔しいけど当然の結果や思っとります……」
「うん」
 同様の意見が、古葉や砂壺から出て、最後に雪嶋が、今後の方針について、少し口にしたが、誰もマニアックを取り入れなければ、という言葉は口にしなかった。
 利益を考えない作りこみすぎる品を企画する事に、抵抗があるのだ。今回は負けたが、次回は勝つ。そんな幻想が皆の頭を支配している。
 雲もまた、結果が出てみなければわからない、などというフワリとした考えを抱いている。
 思考停止である。
 まずい、と心の底で感じながら、データが欲しいと自分に言い訳する。
 そうして蓋を開けてみると、二班の企画したグッズは売れた。
 当然、次のイベント設計会議でも一番大きな案件は二班の預かりとなり、いよいよ方向性を改めるか、何か画期的な打開策を打ち出さなければならなくなった。

 その日、雲は自宅で土曜の休みを過ごしていた。
 チャイムが鳴ると、音で脳みそが揺すられ、気持ちが悪くなった。二日酔いで目の奥が時々白む。吐き気と戦いながら来訪者を出迎えた。
 まさに、雷に打たれたような顔になってしまった。来訪者は分厚いメガネの向こうから、蔑みの目をして雲を見つめていた。グッズG二班、班長、黒羽茂(くろば しげる)である。
 雲の部屋は田園都市線、用賀駅から徒歩二分圏内にあるマンションの最上階。使っていない部屋が荷物置き場で、運の悪い事に玄関の戸を開けたタイミングで、扉が物の雪崩で開き、荷物が廊下に散らばった。
「酷い部屋だな」
 黒羽はまだ百と少しの歳であったはずだが、重音の声と溢れる妖気で、不遜な台詞を吐いた。
「あぁ、ちょっと、一人になって長くて……、見苦しくて悪いね」
 生意気だと感じたが、雲は優しく笑った。ガキの挑発に乗ってはならない。
「片付けてやろうか?」
「いや、いいよ」
 断ったにも関わらず、黒羽は中に入って来た。
「二百生きると、荷物も増えるか」
「三百だ」
 黒羽はどすどすと雲の巣に上がり込むと、雲の大事な自室の前で足を止めた。今は戸が開いて中が丸見えの、物置となっている部屋をしげしげと眺め、汚ねぇな、と眉を寄せた。
 雲は朦朧としながら、どのように怒ろうか、慌てようか迷い、大人の忍耐を発動させた。
「何しに来たんだ、君」
 やっと出て来たその言葉は平凡だった。いつもそうなのだ。雲には独創性がない。言葉ひとつ取っても。感情ひとつ取っても。
 何かを造る力が、圧倒的に不足している。
 ものを作れる、製作に関わる全ての人間にコンプレックスを抱きながら、結果の分析や状況報告、時流を読む事で地位を得て来た。
「あんたがどんな顔してるのか、見に来た」
「いつも通りのイケメンで残念でした、帰ってくれ、僕は休みの日に会う友は選びたい、君はもう少し僕に好かれないといけないね」
「まぁ、そのうち」
 黒羽は雲の精一杯の抵抗、刺つきの言葉をさらりとかわした。そして、物置部屋の荷物を、片端から部屋の外に移動させはじめた。他人の住居に強引に侵入した上、家探しを始めた黒羽に、雲は不安を覚えた。何をする気なのだろう。通報しようかな。
「死体でも埋まってそうだ」
「君も埋まるか?」
「……」
 冗談に乗ってやったのに、無視するとは。
 ガサガサと物置部屋が悲鳴をあげて、中にあったものがどんどん掘り出されていく。
 二十年前に育て親から貰った高価な着物の包み、八ヵ月前に売上一位を記録した某ブランドとのコラボ商品、百年前に病気で死んだ陰間が残した煙管。思い出の品が、黒羽の手で乱雑に部屋から取り上げられ、廊下に干される。
「ねえ、何か探してる?」
 聞くと、ちらりと顔を上げ、しかし何も言わずにまた作業に戻る。
「まさかホントに掃除してくれる気? いらないよ、そんなお節介。僕の顔を見に来たなら、もう見れたでしょ。帰ってくれ、これ以上居座るなら警察を呼ぶよ」
 雲は本気だったが、黒羽は動じなかった。何か、創作をしている芸術家みたいに聞く耳を持たず、手を動かし続けている。
「ねぇ」
 気味の悪さを覚え、背を壁に付けた。これが外なら逃げ出せば良いのだが、ここは雲の巣である。
 雲は生まれて最初の百年を、人の皮を被って生きた。人として死んでから初めて、己が妖怪として生を受けたことを知った。妖怪としての、多感な最初の百年。この時間を、生涯、滅私奉公に生きる商家の奉公人として消費した。お陰で気遣いは身に付いたが、己の性格や好み、主張があまりハッキリしない男に育ってしまった。
 誰かと一緒にいると、絶えず誰かの影響を受け、知らず知らずに調子を合わせてしまう。だから雲は巣に独り、じっとしている時が一番心地よく落ち着いた。雲だけの、雲らしい生き方、時間の過ごし方を、誰にも邪魔されない場所。そこに、侵入者。
 巣の中の生き物を、撃退しなければ。
「警察呼びますよ」
 今度はiphoneを耳に宛てながら脅した。すると、黒羽がふいにアッと叫んだ。
「これだ!」
 何か分厚い、革表紙のノート。あれは確か……。
「覚えてないか? うちの班からあんたの班に、販売部数で勝てるものが出たら、くれる約束だったよな?!」
 黒羽の手にあったのは、デザイン部のマルセル・シュオから貰い受けたアイデアノートだった。ヴァンパイアのマルセルとは、吸血種繋がりで良く飲みに行く。確か自分には独創性がないという悩みを相談した際、参考になれば良いがと譲り受けたのだ。
「駄目だ、それは俺がマルセルから貰った大事な……」
「くれる約束だった!」
 しかし、黒羽は頬を紅潮させ、主張を曲げない。
「好きにしろ」
 すまんマルセルと心の中で謝りながら、雲は強盗に知の財をひとつ、差し出した。

「えッ?! ……って事は結局、そいつにマルセルのアイデアノート、渡しちゃったの?!」
 ヴァンパイアの名が付くバーは今日も賑やかだ。友人、白百合 草太(しらゆり そうた)のハスキーな大声が耳に響き、雲は顔を顰めた。
「声、大きいよ」
「オッサン、サイテー!」
 眉間に皺を寄せて雲を罵ってから、度の強い酒で咽喉を焼く草太を、その恋人、鶴 洋次郎(つる ようじろう)が心配そうに見守っている。一方で、洋次郎にもたれ掛かり、マルセルがいびきを掻いていた。何時もの面子の安心感。
「僕はどうも、押しに弱い」
「セックスを断るのは上手いくせにな」
 洋次郎は戯言を吐いてから、草太の酒を取り上げて飲み干す。鶴種らしい異様な整い方をした顔面は、しかし鬼種が混ざっているせいか力強く、男らしい。
「君の誘いは直球過ぎて、冗談だと思うから」
「俺のこと嫌い?」
「そういう所が、直球だって言ってるんだよ」
 同僚の黒羽が、突然自宅に押し掛けて来たのは二日前。雲は黒羽に、友人のマルセルが雲に授けてくれた知の財、マルセルのアイデアノートを奪われてしまった。この事をマルセルに謝ろうと、マルセルを飲みに誘ったのだが、ヴァンパイアの名が付くそのバーは人気店であり、吸血系の種族が屯する場でもあった。草太と洋次郎の二人が飲んでいる所に鉢合わせ、今に至る。
「洋次郎、眠い」
 恋人の浮気に一ミリも嫉妬せず、草太は洋次郎に寄りかかった。
「ちょ、でかい男が二人して、かよわい鶴種に寄り掛かんな!! おい、マルセル起きろ、おまえは雲に寄り掛かれ」
 鬼種が混ざっているとはいえ、鶴種の洋次郎は線が細い。ヴァンパイア種の二人に伸し掛られ、慌てる様は少し愛らしい。
「じゃ、僕はこれで」
 お茶目っぽく笑い、腰を浮かせる。
「待っ、助け……ッ」
 洋次郎が縋る目をするのを見届けてから、マルセルの肩を掴み、洋次郎を救う。それから、くしゃくしゃとその頭を撫でてやると、洋次郎は安心した顔をして、猫のように目を細めた。
「ちょっとやめて、妬けるから」
 草太が不機嫌な声をあげ、カップルがふと黙って見つめ合う。二人は何の前触れもなく口付けを始めた。
「おい、やめてくれ、こんな公共の場で」
 マルセルが起きて居れば、力尽くで止めてくれるのだが、今、悪魔のヒーローは熟睡している。
「洋次郎は、見られながらするの、好きだもんね」
 二人は舌を絡めだした。
「だから、よしなさいって」
「っぁ……っ、白百合っ」
「草太って呼んで」
 草太……白百合は当時、悪魔から疎まれ恐れられていた雲の育て親、亀 長蔵(かめ ちょうぞう)の死んだ恋人として有名だった。故に悪魔側の勢力として暗躍していた洋次郎によって、利用されるために甦らされた。二人は、その時の縁が元になり、現在めでたく恋人同士になっている。
「んっ」
 草太の手が、ついに洋次郎の尻を掴み、揉み始めた所で雲はいよいよ青くなった。
 何て迷惑な友人達なのか。こんな所でおっぱじめないで欲しい。
「洋次郎!!」
 そこで、叫んだのは新顔、今来たばかりという様子の天邪鬼種、天野だった。店の混雑は最盛期。午後八時の店内は人と妖が混ざり合って、飲めや唄えやの大騒ぎだった。仕事帰りでスーツの天野は、先程からずっと眠りこけて、役立たずになっているマルセルの恋人だ。雲と同じ、怪PR社の社員である。雲の接待対象にあたる営業職。よって、雲は天野を愛想笑いで迎えた。この天野は、最近、洋次郎の天敵となっている。
「こないだお前から貰った菓子、腐ってたぞ?!」
 言うなり、洋次郎の肩を鞄で叩く。いちゃついていた草太と洋次郎が身を離し、雲はほっと胸を撫で下ろした。
「痛ぇ……って、食ったの?勇気あるゥ」
 甘党の洋次郎は、暇があれば菓子を食っており、それを周囲にも分け与える。おかげで、洋次郎と付き合い始めてから、草太は少し太った。
「おまえから貰った物だからな!食うわ!!俺は天邪鬼種なんだぞ!!」
「ッ、マジあんた、俺の事嫌いなら関わらなきゃいいのに」
「じゃぁ、おまえはマルセルの近く寄るな! 俺はおまえの姿が見えると、ついつい声掛けちまうんだよっ」
「うーん、つまり天邪鬼で、嫌いな奴に程、関わろうとしちゃうって事か?」
「そうだよ、糞ったれ」
 額に血管を浮かせながら怒鳴る天野を、洋次郎はころころと笑った。
 雲はハァと溜息をついて、涎を垂らしているマルセルの口元を、使われていない手拭きで拭いてやった。草太は天野の事を完全無視している。その時、洋次郎がピンと天野の額を指で弾いた。
「ちょっと、苛めちゃダメだよ?」
 雲が嗜めると、洋次郎はクツクツと笑った。
「クッ、おまえっ!!」
 呆気に取られていた天野が、ぎろりと洋次郎を睨んだ。そして、洋次郎の前に腰を置くと、店員にビールとガーリックライスを頼んだ。
「守護市民だか何だか知らないけどな……っ、偉そうにしてられるのも今のうちだぞっ、おまえみたいな奴は、いつか身を滅ぼすんだ、……お、親不孝なっ、……おまえなんか、……どうしてッ……、土親はあんな立派な人達なのに!!」
 洋次郎の両親は、どちらも怪PR社の営業部に居る。本部長の赤鬼と、第一営業部長の鶴である。別れて、もう互いに別の相手が居る元つがいの妖怪同士が近い場所で暮らし、働いているのには、洋次郎が関係しているのではないかと雲は勘ぐっていた。洋次郎は土子として百年、二人の元で育たなかった。よって、二人は洋次郎を育て足りなく思っているのではないか。どんなに親不幸な子どもでも、親は子どもを気に掛けてしまうのが世の常である。妖怪の親は普通、子が百を過ぎると親心を失うものだが、洋次郎は二人に二十年も育てられていなかった。
「まぁまぁ天野さん、洋次郎がロクデナシなのは今に始まった事じゃないだろ、堪えて堪えて」
 長生きの妖怪同士の間には、土子が出来難い。ただし、出来た土子は親の力を数十倍にした形で生まれ、生まれながらの大妖怪となる。よって、洋次郎は現在、倭国から守護市民の地位を授かり、税金で生活をしている。
 週に二度の訓練と、月に一度の魅せ試合をこなす勤めは果たしているが、週五で遊んで暮らしている。そんな洋次郎を、雲は羨ましく思っていた。しかし、洋次郎になりたいかと問われると、そんな事はなかった。
「おまえのせいで鶴さんがどれだけ苦労したか、わかってんのか」
「あんたには関係ねーだろ、元犯罪者の癖に」
「おまえだって犯罪者だろ!」
 抉り合うような会話である。雲はマルセルを揺すり、起きてくれと囁いた。マルセルが起きてくれれば、この場を鎮めてくれるだろう。
 しかし、マルセルは気絶したように寝入っている。
 どうしたものか。
「一旦、君ら場所移動したら? 酔いが回って感情的になってるよ、このまま居たら、お店に迷惑掛けちゃいそう」
「うるせぇな、感情的にもなるわ。こいつ、……俺になんか恨みでもあんのか? 毎度毎度、人の古傷開いて塩塗りこんで来やがって」
「だって、あんたは糾弾されるべきだ! 親不孝者!」
 宥めたと思ったら、また言い合い。洋次郎が何か喋る度、食ってかかる天野を、雲は正直煩わしく思う。気に入らない相手など、生きていれば山のように現れるだろう。全員に喧嘩を売っていたらきりがない。どうして天野は嫌いであるという感情を抑えきれないのか。堪え過ぎてしまう事が悩みである雲にとって、堪え性の無い天野は正反対過ぎて訳が分からぬ腹立たしい相手だった。
「天野さん、お店来たばかりの所で悪いけど、マルセルを連れて帰るのを、手伝ってくれないか?」
 しかしそこは大人である。雲は普段から天野に対し、天野が苦手である事を億尾にも出さず振舞っていた。
「何だよ、帰んの?」
 洋次郎の問いに、困ったように頷く。
「平和主義者なんだ」
 洋次郎と草太が移動してくれないのなら、天野を移動させる。
「このチビ、何とかしてくれよ」
 今、物理的に何とかしようとしている最中だが、という言葉を飲み込み洋次郎のスッキリした、絵に描いたような顔を見つめた。
「君が反省したら黙ってくれるんじゃない?」
「反省は、してる」
 適当な事を言ったのだが、素早く重々しい声が返った。
「いや、してない!!」
 しかし、天野がまた難癖をつけに声を上げた。
 どうしてマルセルはこんな面倒な奴と付き合っているのだろう、と純粋に疑問に思う。
 確かに、洋次郎は人に責められるような生き方をして来た男だが、世の中にはそんな奴、五万と居る。洋次郎の土親達は、洋次郎を多少気に掛けながらも、それぞれ別々の相手と平穏に上手くやれているのだから、今更洋次郎を過去の事で責めても誰も幸せになれないだろう。
「反省は、してるんだ」
 洋次郎がまた、呟いた。
「じゃぁ、会いに行ってあげたら」
 提案すると、しかし首を横に振る。
「百過ぎの親子がつるむなんざ、みっともねぇ」
「まぁ、確かにあまり世間体の良い組み合わせじゃないけど、君らには事情もあるし……」
 普通、親子の縁は百で消える。
 妖怪の本能は、どうやら百を区切りに、親が子から興味を失うよう設定されているらしい。妖怪もまた、自然の生き物の一部なのだ。長く生きる分、多種多様に交われるよう仕組まれている。親が子に抱く、子が今、どこで何をしているのか、無事でいるのかといった心配、健全な親心が、子が百を超えたあたりでなくなってしまう。その感覚を、雲は身を持って味わい知っている。しかし、たまに顔が見たくなるのは何故だろう。初恋の相手のように無償に会いたくなる。
「ていうか、納得出来ねぇんだよ」
 そこで天野が、怒りを押し殺した静かな声で呟いた。天野は最近、鶴と仲良くしているため、鶴の事情に敏感だ。
「なんで、鶴さんも赤鬼さんも、こいつの事を許してるんだ?!」
「それはやっぱり、子どもが可愛いからじゃないかな」
「そんなの変だ、いくら子どもでも、やって良い事と悪い事があるだろ、こいつ赤鬼さんの事殺してるんだぞ?! 鶴さんには身売りさせて、おかしいよ!!」
「天野さん……」
「っぁーっ、もう、正義感ありますアピール超うぜぇ……」
 ぼそりと草太が放った一言に、かっと天野の頬が染まった。天野が草太の胸ぐらを掴み、雲は眉を下げ、マルセルを見た。
 まだ寝ている。
「申し訳ないけど、厳しい事を言わせて貰うよ、天野さん」
 気の滅入る役を、買って出る。出来る事なら、マルセルにこの場を収めて貰いたかったが、仕方がない。
「……僕は、洋次郎の友人だから、彼を庇うような言葉に聞こえるかもしれないけど、赤鬼さんや鶴さんの事も考えて、言わせて貰いたい。
 ……君が納得するために、三人にまた再び、辛い想いをさせるわけにはいかないんだ。
 この問題は赤鬼さんと鶴さん、洋次郎の間でもう解決済みなんだから、二人が君に洋次郎を責めてくれと頼んだわけじゃないのなら、もう騒ぐのをやめてくれ」
 過去は過去と割り切らなければ、生きられない者達が居る事をわかって欲しい。
「……、俺は……っ」
 天野の顔色が、さっと青ざめる。やっと己の無粋な行いに気がついたようだった。気がつくのが遅い。
「もう行こう」
 丁度、天野の頼んだビールとガーリックライス、雲が頼んだスコッチが運ばれて来た所だったが、雲はマルセルをぐいっと持ち上げて背負うと店の入口に向かった。
「洋次郎、ご馳走様」
「ぁ?!」
 洋次郎は遊びが派手なため、余り金を持っていない。おいコラ、ふざけんな、後でちゃんと徴収するぞ、マジで!と情けない声を上げて、見送ってくれた。

 背負ったマルセルの重さに、汗を掻きながら秋の本川越駅前を歩く。酔っ払いの熱が肩を燃やして辛い。
「さっき、悪かったな」
 天野がぽつんと謝って来たので、いえいえーと柔らかい返事をして、よいしょっ、とマルセルを担ぎなおす。
「鶴さん、一言も言わないからさ、あいつの事、……その癖、あいつの魅せ試合、必ず観に行くんだ、健気じゃん、俺、鶴さんが小野森さんに、なかなか素直になれないの、あいつのせいなんじゃないかって思えて、なんか、腹立たしくて」
 恐らく鶴や赤鬼の心に、もう洋次郎は居ないだろう。産んでから百年経った子に、執着する親は異常だ。
「君は、お節介だねぇ」
 つい、するりと思った事を口にすると、天野は反省したように口篭り下を向いた。
「こないだ、黒羽さんにも同じ事言われた」
 不意打ちで名前が出て、雲は酔いがすっと覚めた。
「何、黒羽……っ?」
「黒羽さんって、今、凄い恋愛で悩んでて、あ、ここだけの話な? 俺、黒羽さんとこのチームに仕事振る事が多いから、良く飲みに行ったりするんだけど、もう毎回毎回、延々とその子の話で……、こないだ俺、ついにキレて、そんな好きなら家行って告白して来いって怒鳴って、無理やりその子の家まで黒羽さん連れて行ったんだ」
「へぇ……」
「でも結局、黒羽さん玉砕して、……泣いて帰って来て、何があったかも言ってくれない、このお節介って言われた」
「それは……、また……、痛い話だねぇ」
 あの高圧的で、職人気質の、偉そうな黒羽が失恋で泣いたのか。雲は少し愉快になり、背中のマルセルが気にならなくなった。
「それ、いつの話?」
「二日前」
 という事は、黒羽が雲の元にノートを奪いに来たのは、その失恋事件があった当日。それなら黒羽の常識外れな行動も頷ける。失恋後で、やけになっていたのだ。
「ハハッ……」
 思わず、声を上げて笑ってしまった。黒羽の人間らしさにほっとする。
 雲が昔、制作部のお荷物だった頃、黒羽は雲の驚異だった。グッズGには、グッズ製作研究の仕事がある。実際に製品を制作して研究を重ね、完成させる仕事だ。雲は手先が不器用で、製作研究の場では役立たずだった。ひたすら事務仕事のみをこなした。何か少しでも製作に関わりたいと、企画書を作ってみたが、製作に関わった事の無い者が作った企画書は評価されなかった。細々した気遣いが出来るため、何とか事務仕事はこなせたが、よくアルバイトと間違えられた。いつ雲を社員からアルバイトにするのかという問いが耳に入るたび、雲はいつでも出せる机の中の辞表に、そっと思いを巡らせた。しかし、雲は心痛に耐えながら企画書を作り続け、二年経ち、認められるようになった。
 五回に一回は企画書が通るようになり、社歴三年目、雲はヒット商品を出した。雲を馬鹿にしていた者達から祝福の声を貰い、雲は舞い上がった。やっと認められた。やっと俺は皆に望まれて働けるようになった。この喜びを糧に、良い企画書をもっと沢山、作ろう。
 そこに黒羽が入って来た。
 黒羽は恐ろしく手先が器用で、才能のある男だったが、製作研究より企画立案に興味を持っており、雲の企画書作りや事務仕事を積極的に手伝いに来た。寡黙で真面目な黒羽を、雲は後輩として可愛がった。黒羽の才能と、ストイックな姿勢を尊敬し、自分も黒羽のようであったら、と思う日々が続き、ある日、得体の知れない不安感に襲われた。それは妬みの感情だった。
 有能な黒羽が、周囲に高く評価されるのは当然だとわかっていながら、雲は黒羽を疎み、遠ざけた。
「よし、それじゃぁ今から黒羽を呼びつけて慰め会しよう」
 耳元で声がした。マルセルが今になって目を覚ましたのだ。
「え? 今から?」
 雲が聞き返すと、マルセルは元気よく今から! と叫んで雲の背を降りた。
「俺ん家は今酒無いし、七ちゃん家はボロだから雲ん家が良いな」
「いや、待っ、……僕は家に人を入れるのはちょっと、……あの、……っ」
「じゃぁ、黒羽呼ぶな?」
 雲の言葉に、マルセルも天野も耳を貸さない。勝手な奴らの勝手な思いつきに振り回されるのは、雲の本意ではない。しかし、嫌と言える空気ではなかった。
「俺、一回行ってみたかったんだよなァ雲ん家、いつもはぐらかされてさ、全然呼んでくれないの」
「……」
 酔っ払ったマルセルに肩を持たれながら、雲は胃がキリキリするのを感じた。天野が黒羽に連絡を入れているのを尻目に、どう逃げようか考えたが、何も思いつかない。
 そうして、何故か黒羽とマルセルと天野が、雲の大切な自宅、リビングのローテーブル前に陣取る事になった。フローリングの中央スペースに畳を敷いている雲の巣のリビングは好評を博し、真似しようだとか、ここで昼寝したいだとか、賑やかな声が上がった。しかし雲は自宅に誰かが居るという状況が嫌だった。酒を四人分と、ツマミを用意するため、不愉快な気持ちで冷蔵庫を開いた。はぁーと長い溜息が漏れて、慌てて三人の方を盗み見る。負の感情を察知される事も嫌なのだ。何て面倒な奴なのか、と己を笑う。
「手伝うか?」
 はっ、と息を呑んだ。雲の視線の先には、マルセルと天野の二人だけ。黒羽は雲の真横に居た。
「っ」
 思わず口に手を当てると、黒羽はニヤリと、見透かしたような笑みを浮かべた。
「家に押し掛けられるのが、苦手なんだってな」
「……まぁ、ね」
「俺はあんたと違って、そういう気遣いというか、下調べというか、根回しというのか? ……が、苦手だ」
「君がそれも出来ちゃったら、いよいよ僕が君に勝てる事、ゼロになっちゃうから良いんだよ」
「悪かったな」
 スイスイ、と冷蔵庫から何か取り出しながら、黒羽は詫びを口にした。
「あの日、俺は、頭が可笑しくなっていたんだ」
「知ってるよ、天野さんから聞いた」
「何っ?!」
 コシャ、と黒羽の手の中で、卵が割れた。黒羽でも、色恋事で動揺するのだな。
「あーあー、もう、しょうがないな」
 上着のポケットから、ハンカチを出して渡してやると、黒羽は恥ずかしげに頬を染めた。少し可愛い。ついでに眼鏡がずれているのを直してやると、すまんと掠れた声で呟く。額に黒髪が汗で張り付いていて、少し色っぽい。
「あー、その、つまり ……そういうわけだから、マルセルのノートも返す……」
「ん、どうも、……ははっ、良かった、正直言うと君の事、常識ないなって思って、嫌いになる所だったから、事情がわかると許せそうだ」
「……」
 あの時、少し、ラッキーだと思ったのは、嫌いになる理由を欲しがっていたから。素直にノートを渡してしまったのは、これで黒羽を疎む自分を正当化出来ると思ったから。
 その事に気が付いて、また溜息が出た。
「き、」
「ん?」
「嫌いには、……なるな」
 開けっ放しの冷蔵庫の、清潔な白い光に照らされた黒羽の頬に、涙が無数、垂れている。
「え?! ……ちょ、どうした?!」
 己の涙に気が付いた黒羽が、卵を拭いたハンカチで、頬を拭き始めたので慌てて布巾を取ろうと腰を浮かせる。すると、その腰をぐるりと腕で囲まれた。そのまま、力一杯引っ張られ、黒羽の腕の中に収まる。
「好きだ」
 黒羽の、湿っぽい声は震えていた。
 恐らく、二日前、告白をするつもりで押し掛けて来た黒羽を、雲は帰れオーラで出迎えた。社内で雲が心がけて居る、誰に対しても優しい、何者をも受け入れる雰囲気が、あの時の雲には無かった。巣の中に、誰も入れたくない、巣に近づくなという拒絶の姿勢。慣れない告白作業を実行しようとしていた黒羽は、いつもと違う雲を前にして、動転した事だろう。
 あの奇怪な行動は、照れ隠しだったのかもしれない。マルセルのノートをこじつけに使ったのだ。
「いや、その、僕、一応仕込み屋してたから、男もイケるけど、念者経験しかないよ?」
 雲は的外れな返事をした。
「あんたともっと、仲良くなりたい」
「それは別に良いけど」
 良いけど、と無責任な肯定の言葉を口にしてから、雲は失敗したという気持ちになった。
「ほんとか?!」
「えっ、うん……」
 次の瞬間、黒羽が大声で泣き始めたのだ。こんな大げさな喜び方をされては、友達としてとか、同僚としてとか、言い訳出来なくなる。
「あの、黒羽……くん?」
 怖々声を掛けると、黒羽はまた卵を拭いたハンカチで頬を拭った。それから、ありがとうと息を吐くように呟き、ぎゅうっと雲を抱きしめた。 「おめでとう、黒羽」
「良かったなぁ!」
 リビングから、天野とマルセルの軽口が飛んで来て、黒羽は耳まで赤くなった。それから雲を解放すると、冷蔵庫からヒョイヒョイとまた何かを取り、勝手に台所に立って料理を始めた。
「なぁ雲、喜べ! 黒羽は料理上手いぞ」
 マルセルが朗らかに、彫りの深い顔に笑みを浮かべた。いつもの仏頂面からの、目一杯の笑みは、ギャップの効果でやたら華やかに映った。つくづく、天野には勿体無い男だと思う。
 黒羽は、油揚げに納豆が入ったツマミをつくった。青葉とネギも織り込まれていて、中々美味そうである。
 ほうれん草と大根を茹でてインスタントラーメンについてた柚子塩をふりかける知恵も、雲を唸らせた。
「これ、明日味噌汁に入れようとしてたお揚げ」
 しかし、雲は意地悪を口にした。
「何?!」
 黒羽は動揺して目を見開き、あわあわと料理と雲を見た。
 何とも、気分が良い。
「……雲、おまえ、朝はいつもバナナ一本だろ?」
「うん」
 マルセルがツッコミを入れなかったら、そのまま落ち込ませておこうかと思ったのだが、残念。
「気をつけてね、黒羽、この人、心開いた相手には結構意地悪だから」
 マルセルが要らぬ解説をつけるのを聞き流しながら、雲は黒羽の作品に箸をつけた。消費する立場で、黒羽の創作物に接するのは初だ。
「あ、美味しい」
 呟いてから、ふと、これまで黒羽が生んできた、沢山のものに想いを馳せた。黒羽の率いる実力の二班が、雲率いるパフォーマンスの三班に勝利した事。
 何ともあっけなく、ストンと、この正しく自然な結果を受け止められる自分に気がついた。勝たなくて良い、追いつけるように頑張ろう。全てが一緒なわけじゃない、黒羽になろうとしなくても良いんだ、雲は雲のやり方で、黒羽の良い所を、取り入れられるように、黒羽が雲に勝っているその部分だけ、黒羽の背中を見る事を恐れず、立ち向かおう。
 黒羽が生み出したものは、こんなに素晴らしいのだから。


2014/9/8