からめ

『狼ユーレイ』(無口な喧嘩屋×ヘタレ)


 リストラされそうだと後輩から相談を受けた。

 創設五百年の歴史を持つ『ぬり壁セキュリティ』に勤める白鬼種の白鬼 陽太郎(しらき ようたろう)とその後輩、鶴種の鶴 洋次郎(つる ようじろう)の仕事は、要人警護である。近頃、政治家の広報活動をはじめた『怪PR社』の社員を悪党から守るため、役員のみならず末端の社員まで万遍なく警護する。外出する営業の送り迎えや、定期的な社内巡回を行う。
 江戸の頃から、大企業の活動には危険が付き物。古くは用心棒と呼ばれていた喧嘩の達人たちは今、セキュリティと呼ばれている。

「陽太郎さん!」
「ウワッ」
 声を掛けられて、驚いて飛び上がる。直前まで息を殺していたとしか思えない、心臓に悪い近づき方をして来たこの男は『怪PR社』の営業、狼山 大輔(かみやま だいすけ)だ。営業フロアのトイレ、真昼間は殆ど使われないため、陽太郎はよくそこにこもり、用を足していた。ザー、と便を流す音に見送られながら、トイレを後にしたら真後ろに突然、妖の気配がした。男が悪党であったなら、完全に敗北していただろう冷や汗が滲む。
「あ、すみません、驚かせてしまって」
「……気配消すのやめてください」
 何度言っても行動を改めてくれない相手に、何度も同じことを言うストレス。陽太郎の顔面は、自然とムッツリしたものになった。
「すみません……、どうも、癖で」
 狼山は大きく眉尻を下げた。陽気な仕草だった。特別目を引く美形というわけではないが派手な顔の作り。そこに居るだけで明るくなる、圧倒的なプラスの力を持っている。
 一緒に居て楽しい人という感想を誰しもに抱かせるのが狼山という男の特徴だった。丸鼻とどんぐり目が特徴的な、愛嬌のある顔面。誰とでも仲良くなれそうな、人懐っこそうな瞳の温度。
「外出ですか?」
「はい、同行お願いできますか?」
「午前中とお昼にも出られてましたよね」
「すみません、またちょっと別件で」
「狼山さんは、本当に外出が多いですね……」
 単純に感想として呟いたのだが、陽太郎の厳つい顔つきから、迷惑そうにしていると見えてしまったのだろう狼山は申し訳なさそうに頭を下げた。
「すみません、……営業力が低いので、数こなさないといけなくて、いつもお手数お掛けしております」
 小さくなった狼山に、溜め息を掛ける。
 どうにも誤解されやすい。
 陽太郎は鬼種と天狗種の間に生まれたため、泣く子も黙る強面の持ち主だった。陽太郎の鋭い目付きには、今のような行き違いを引きおこすのは勿論、女性には遠巻きにされてしまう呪いが掛かっており、関わりたくもない血気盛んな野郎どもはホイホイ引き寄せてしまう。そうして荒くれ者に絡まれては喧嘩する、という日々を送っていたら、ついに喧嘩が仕事になってしまった。
「仕事ですから」
 月並みな言葉で応じると、腰の低い狼山は、すぐに頭を下げた。
 しかし、卑しさを感じさせないのは顔を上げた瞬間にバチッと視線を合わせてくるため。狼種特有の大きな口が、いつも笑った形をつくっていて気持ちがいい。いつも小洒落た高そうなビジネスシャツを着こなし、ひと世で流行りの髪型をしている狼山を前にすると、陽太郎はどうしても己を振り返ってしまう。もう少し、俺も身だしなみを考えるべきだろうか。
 神々と親交の深い白鬼の土親(つちおや)から受け継いだ、鬼種にしては見栄えのいい白い肌は趣味の登山でこんがり焼いてしまい、白髪も整えるのが面倒で束にしている現状。本当は結ばずに流す方が良いことはわかっているが、長い髪が首に絡まるのが嫌だった。服装も全身安っぽい軽装で『ぬり壁セキュリティ』の腕章をしていなければ、ただのチンピラである。
 そんな陽太郎の勤める『ぬり壁セキュリティ』には、陽太郎と同じような柄の悪い風貌の男達が集まっていた。そこに例の洋次郎が異次元のように美しい顔立ちをして雑ざっている。よって、洋次郎は『ぬり壁セキュリティ』における紅一点の扱いとなっていた。男色を嗜む大妖怪層、社内の主戦力にあたる屈強な男達を次々と虜にした洋次郎は、もしかするとその手の才能があったのかもしれない。洋次郎を弟のように思っている陽太郎でさえ時折ぐっとくる美形。そんな皆のアイドル洋次郎が、あと一ヶ月でリストラされてしまいそうなのである。
 何としても阻止しなければ、社員の士気に関わる。

 狼山と並んでオフィスを出ると、夏の湿気と熱射に襲われる。これだから都心は嫌いなんだ。登山したい、と心中でぼやく。
「はぁー、アツいっすねぇ~ぇ」
 狼山が横で、間の抜けた声を上げた。
 真っ青な空に入道雲が浮かぶ小江戸、川越の街は今日も妖怪社会人達で賑わっていた。それは川越の地下一層に長距離移動を一瞬で行える『飛び穴』が開いているためだ。妖怪達は基本、地下に走る妖怪メトロか『飛び穴』を使って移動する。しかし狼山は地上を歩き、人世のバスや列車を使いたがる。
「冷たいキュウリでもかじりながら歩きましょうか!」
 陽太郎が同意する前に、小江戸の街並みに店を構える漬物屋から、勝手に二本買ってくる。
かつお風味とうめ風味、どっちがいいですか?!」
 狼山の暢気な顔面を眺めていると、つられて明るい気持ちになってしまうから不思議だ。周囲の目には変わらずに映っているだろうが、顔面の筋肉が緩んだ。
「……うめ」
「えーっ?! 俺もうめです! じゃんけんしましょう?!」
「あ、それじゃぁ、かつおでいいです」
「マジっスか?! ありがとうございます!」
 おごられているので、そこは譲りますよと呟きながら受け取る。かじるとフワリ、うめの風味が広がった。
「狼山さん、これうめです」
「えっ?!」
 オーバーに驚いた顔をする狼山が間抜けで、噴き出すと心のうち、憂鬱だった何かがころりと落ちた。
「マジか~! 間違えた~!」
「いいですよ、今からでも交換しますか?」
「わ~! いらないです、いらないです」
 きゃっきゃとはしゃぎながら歩みを進める。バス停に着くと、ひと世のバスがまず到着し、うっかり乗り込みそうになった狼山を止める。三分後にやってきた妖世のバスに乗り込むと、バスに常駐しているらしい競合のセキュリティ会社『犬狼警備』のセキュリティと目が合った。ギッと睨まれたので睨み返す。ピリリッと車内に緊張が走ったところで狼山に肩を押され、何かと思うと狼山は『犬狼警備』のセキュリティにニコッと感じの良い笑みを浮かべて見せた。一瞬、面食らったが、狼山に対して相手のセキュリティがペコリと頭を下げたのを見て気がつく。狼山は、陽太郎の無用な威嚇をフォローしてくれたのだ。
 改めて、ほとんど息を吸うように、マウントの取り合いをしてしまう自分に気がつく。狼山のように、笑顔を浮かべて共存しようなどとは思い至らない。誰かと接する時、どちらが強いか決めておかないと落ち着かない性質。

「陽太郎さん、元気ないですね」
「お前は逆に……、なんでそんな元気なんだ?!」
「元気ではないんですが、落ち込んでても仕方ないっつーか! 肉がうまいっつーか!」
 リストラ寸前にも関わらず、陽太郎の後輩、洋次郎は輝く笑みを浮かべ、肉を口に運んだ。『怪PR社』での仕事を終えて、二人でチェーンの焼肉屋に来ていた。
「まだ決定じゃなかったんだよな? 一応?!」
 洋次郎の皿に、食べごろを数枚放り込んでやりながら聞く。
「んー、はい、でも、転職活動をして欲しいって、また言われて……」
 今日は洋次郎が本社に呼び出されており、陽太郎はそれが気掛かりで、この後輩を焼肉屋に連行したのだ。
「……、会社は一体、おまえの何が気に入らないんだ?!」
「わかりません」
「……」
 綺麗な顔をキョトンとさせて、後輩は話にならない報告を口にした。
「真面目に……、残る気あるのか?」
「ありますけど……」
「俺はおまえにやれるだけのことをやってやりたいと思うが、おまえがおまえのためにやれるだけのことをやってやらなかったら、……」
「わかってます」
 洋次郎は不愉快そうに返事をして、それから眉間にシワを寄せた。
「わかってます」
 同じ言葉を繰り返して、はぁ、と溜め息をついて。
 どうにも、問題意識が低そうだった。
 もし洋次郎がリストラをされたら、同僚達はストライキをすると息巻いている。陽太郎は洋次郎の先輩で、教育係だ。名前が似ているからという上司の気まぐれで命じられた役だが、割り振られたからには全力でこなそうと意気込んでいた。
 蓋を開けてみると洋次郎は優秀で、殆ど陽太郎の手を煩わすことなく職務に励んだ。時折愚痴をこぼしたり、ありがちな悩みを打ち明けて来ることはあったが、特別手の掛かる後輩ではなかった。
 勿論、フォローに入って死にかけるようなことも数度あったが、洋次郎の落ち度ではない部分であり、絆が深まりこそすれ、この後輩を厄介に思うような事件はこれまで起きてこなかった。だからこそ不可解で理不尽で、何とかならないかと思う。

「おっ、センパイじゃねぇか」
 早朝の営業フロアに、珈琲の匂いが漂っていた。陽太郎をからかう意図をもって声を掛けてきたのは第一営業部のマネージャー、鶴 永吉(つる えいきち)だ。片手に珈琲を持って手招きしてきた。永吉は洋次郎の土親で、洋次郎と同じ人形めいた顔面の持ち主である。裏返した掌のうち、人差し指だけをチョイチョイと丸めてこちらを呼ぶ、気取った仕草が様になる。
「お父さんを後輩に迎えた覚えはありませんよ」
 永吉にならって、洋次郎の立場からの呼び名で発言すると、永吉はつくりもののような顔を器用に歪めた。
「誰がお父さんだ、バカ野郎」
 それから、まぁ座れとフリースペースの丸テーブルに、陽太郎を促した。たまった報告書類を片付けようと早めに出社したのだが、仕方なくそこに座る。
「俺もいただいていいですか」
「おぉ」
 どうやら珈琲は、あの寝坊助の洋次郎が用意したものらしいフリースペースに置かれたポットには、洋次郎の字で《ご自由にどうぞ》とあった。コポコポと薫り高い珈琲が紙コップに注がれていく様子を眺めながら、洋次郎が既に出社していることに感心する。
「あっ、センパイ!」
 すると、本人がトイレから戻ってきた。
「珍しく早いな」
「ちょっと、頑張ってるアピールです」
「……あぁ」
 そこで、やっと飲み込めた。これは洋次郎の健気な努力の産物なのだ。洋次郎を包む現実の厳しさは、洋次郎が一番よく体感している。口に含んだ珈琲は、酸味が強くて舌が痺れた。
「洋次郎、ちょうど良かった、おまえも座れ」
 永吉が洋次郎に声を掛けると、丸テーブルには、大柄な陽太郎が永吉と洋次郎の美形二人を侍らすような景色ができあがった。
「時間とって悪いな、陽太郎、洋次郎。つかぬことを聞くが、……おめぇら狼山と仲良かったよな」
「はぁ、まぁ」
「俺はフツー」
 ぼんやりした声で、首を傾げて返事をする陽太郎と、きっぱりとフツーと言い切る洋次郎に、永吉はむっと口をすぼめた。
「歳、近かったよな」
「三倍近く俺らのが食ってます」
「あいつまだ百にも満たねぇの知らねぇの、八十六歳って下手すりゃそこらの人間より若いだろ」
 相手が永吉だからと、洋次郎は敬語を使わずに話をする。親とはいえ、取引先なのだからと常より注意しているが、改めるつもりはないらしい。
「百も三百も似たようなもんだ、いいから聞け」
 永吉は眉間にシワを寄せて唸った。
「狼山はこれまで、長年連れ添った人間の妻に墓を買ってやるつもりで働いててな」
「妻?」
「片方がヒトの子じゃ、番届けは出せねぇから人の世で言う夫婦って括りで話をする、妻ってのは番の片割れみたいなもんで……」
「知ってっけど」
「女は寿命で死んでるが、狼山はまだ女を引き摺ってる」
 そういえば狼山の話にはよく、アキという人間の女が登場する。死んでいたとは知らなかった。
「狼山は墓を購入したら、そこに自縛されるつもりなんだ」
「自、縛?」
「あぁ……、あいつは女に義理立てしてる、女に、その一生を自分のために使わせたなら、自分の一生も、女のために使うべきってな」
「うぇ~?! マジメだな~!」
 大口を開けて目をむいた洋次郎に対し、陽太郎は神妙な顔つきになって思わず呟いた。
「……愛していたんですね」
 すると、ぶっ、と横で洋次郎が噴いて、急に恥ずかしくなる。陽太郎は愛などという単語を口にする面構えではなかった。しくじったと思い頬を染めると、センパイ、ストレート過ぎませんかとからかいの追撃をくらった。
「おっ、珍しい組み合わせですねぇ」
 そこに問題の男、狼山がやってきて、洋次郎がにやりと人の悪い笑みを浮かべた。
「出た~、純愛男」
「えっ、なんすか?! なんすか!!」
「おまえとアキさんの話をしててな?」
 アキの名が出ると、狼山はパッと嬉しそうな顔をして、お惚気ならいくらでもお聞かせしますが! と冗談を口にした。
「狼山」
「はい!」
 そんな狼山に、永吉は一拍考え込んでから決意したように口をひらいた。
「ありていに言うと、俺はおまえを墓にとられんのが嫌だ」
「……は、はい」
「せっかく一人前に育った……、その、優秀な社員を見送るのが忍びねぇ」
「えっ、そんな、優秀だなんて、へへへ」
「本気で言ってる」
「あ、……はい」
「次の恋に行けとは言わねぇ、一度自分を死者から切り離してみちゃくれねぇか、こいつらみたいな、歳の近い妖怪となら話も合うだろうし、一緒に遊びに行ったりでもしてよ、妖怪として生きることを楽しんでみたらどうだ、……ヒトとの恋には死別が付きもんだ、妖怪同士だって寿命の違いで死別する、……例えば俺の番相手、鬼李は俺の百倍生きてるし、これからも百倍生きるだろうよ、あいつは俺が自分より先に死ぬことを覚悟して俺と連れ添ってる」
 その時、永吉の言葉が終わるか終わらないかのところで、ごんっと鈍い音がした。一同が視線をやると、下がり目が艶っぽい色男、怪PR社の常務取締役を勤める永吉の番相手、鬼李がドアに正面からぶつかっていた。
「うわぁ、間ぁ悪ぃ……」
 洋次郎がうんざりした顔で呟き、永吉が心なしか小さくなって、洋次郎に隠れるよう、身を寄せた。
「ちょっと聞き捨てならない、俺の気持ち都合よく想像しないでくれる……?」
「……今、取り込み中だ、鬼李、……後にしてくれ」
「覚悟なんか全然できてないから」
 最後は低く言い捨てると、鬼李はドアを透かし、去っていった。物を透かして通るには妖力がいるのだが、鬼李は当たり前のようにすべての物を透かして通る。妖力という財産の有り余った鬼李だからこその所作だった。
「……何だよ鬼李のやつ、あんな大人げねぇ態度とるなんて、らしくねぇよな」
 永吉は、少し萎れた声になって、陽太郎に同意を求めてきた。
「後で謝れば許してくれますよ」
「お、……俺が悪いのか?」
「わかりませんが、なんか怒ってますし……、謝っておいた方がいいんじゃないですか?」
 陽太郎の適当な助言に、永吉は縋るような顔になって頷いた。
「そうか……、そうだな」
「永吉がそうやって折れるから、李帝が我儘になるんじゃねぇの」
「あいつが我儘なのは前からだ」
 洋次郎に指摘され、ぶすっとした顔になりながらも、永吉の目は鬼李の消えた先を心配そうに追っていた。

 その日、狼山は二件の同行を依頼してきて、ひとつは海を越える場所にあった。マチュピチュで有名なインカである。多い時は一日に三度も倭を離れる。飛び穴の発達した妖怪社会では、当たり前となっている移動距離だが、人間の感性では異常なことらしい。
 狼山は海を越える訪問になると決まって地図を眺め、遠いなぁと呟いた。
「陽射しに目を潰されそう」
「遠くがチカチカしますね」
 口を開けた途端、口内の粘膜がほとんど使い物にならなくなる高地。
 崖から覗いた谷底は、クッキリと深い。谷を覗き込む体が、そのまま谷に引き擦られる気がして胸が騒ぐ。首の後ろに掻いた汗が冷たい。
 アンデス山脈、冷涼なスニ地帯。
「毎回、ここまで来てるんですか?」
「チャスキを頼るには、チャスキの本陣に顔を出すのが一番なんです」
 インカは世界一飛び穴の多い国で、情報発信の中心地だった。情報の集まるところには、たくさんの目が集まるもので。世界中の広告代理店が、インカの持つ広告枠を買いつけに来ていた。
「……毎回、壮観ですね」
 高原の上、浮遊する岩肌の城が見えてきた。そこに発光する乳白色、または虹色の炎や閃光が頻繁に出入りする様は圧巻だ。世界に向けて、瞬間移動するチャスキ達が出発と帰着の合図として発光しているのだが、傍目には空に浮かぶ城が沢山の光をまとって輝いているように見えた。
「あぁ、アキにも見せてやりたかったなぁ」
 城を惚れ惚れと眺めながら、狼山が呟く。
 陽太郎は返答に困った。
「足元、気をつけてくださいね」
 城のふもとにフワフワと浮いている上部が水平な岩に乗る。岩は二人を乗せると、まるでエレベーターのようにグンと上昇し、城に向かって動きだした。
「今回は四社分だから、すぐだよ」
「はい」
 妖怪の情報キャッチは基本、夢を観ている時である。夢を使ってニュースを得たり、娯楽番組を楽しんだりする。妖怪達の夢に、ニュースや娯楽番組を届けるのがチャスキの仕事であった。
「いつもお越しくださって、ありがとうございます!」
 狼山とチャスキの商談を、部屋の隅で盗み聞く。普段は狼山を送り届けてすぐに引き返すのだが、海を越える商談の場合、待つ事が多い。
 岩肌の城には蜂の巣を思わせる無数の部屋があった。狼山と陽太郎が通された部屋は、城の上部にあるのか窓が大きく光の入りやすい明るい部屋だった。
 数値や専門用語がまざるため、何を言っているのかはよくわからなかったが、狼山の話を相手は興味深そうに聞いていた。商談をする狼山は、快活で男らしく魅力的だった。
 アキという女の死をきちんと受け入れられれば、次の恋に進むのは容易そうである。女達が放っておかないだろう。
 狼山のようないい男に愛されたアキという女は、幸せ者だなとしみじみ思いながら、陽太郎は部屋の隅でまどろんだ。午後二時の睡魔に勝てなかった。そして商談の終わった狼山に、ゆるく笑われながら起こされた。
「……すみませんでした」
 城から高地の崖に降りる途中、謝ると狼山はクスクス笑って、なんか悩み事ですか、と謝罪をはぐらかした。
「眉間に皺スッゴかったっすよ」
「あ、すみません、怖い顔しちゃって」
「いや、怖い顔は元からじゃないっすか」
「……はは」
「せっかく寝顔は可愛いのに」
「は……?」
「陽太郎さん、商談中によくスヤスヤしてますよね、そん時、天使みたいな顔してるじゃないですか。それが今日は寝顔も怖かったので、どうしたのかなって」
「いや、寝顔? ……いや、うん」
「恋人とかに、指摘されないですか? 寝顔めっちゃ可愛いって」
「こ、恋人いません」
「エッ!!」
「もう、百年ぐらいいません」
「は?! 百年とか、俺が生まれる前からじゃないっすか、マジっすか」
「いい感じになる相手とかはたまにいるんですが、やることやると離れて行かれちゃうんですよね」
「セックス下手?」
「恐らく……」
「……、強引過ぎるんじゃないっすか」
「顔見て決めつけないでください」
「じゃぁ、何が原因で?」
「……さぁ?」
「会話をしないとか?」
「ん、……そういえば、してませんね」
「それだー!!」
 おどけて叫ぶ狼山の顔に、笑いを誘われて噴き出すと、目の前で狼山もへらっと笑い、あたたかな気持ちになった。
「ちゃんと会話しなきゃ駄目ですよ」
 トン、と肩に肩をぶつけられて、それが妙に嬉しい。
 『ぬりかべセキュリティ』の男達と違い、『怪PR社』の社員はあまりボディタッチをしない。人懐っこい狼山でさえ、まるで接触を避けているかのように距離をとって話をするのが常だった。それが肩と肩とはいえ、接触されたのだ。心の距離を詰められたような気になった。
「どんな会話するんですか」
「えー、そりゃ、気持ちいい? とか大丈夫? とか今の良かった? とか」
「あー、無理っす」
「無理そー、陽太郎さん言わなそー」
 きゃーきゃーと下ネタで盛り上がりながら、高地の崖に降り立つ。
 崖の上にある飛び穴は、球状の建物で囲われており、そこに向かうまでの道のりは細道。前と後ろに並んで歩く。狼山の背中は生命力に溢れていた。こんなに生き生きと仕事をしている狼山を、どう元気つけようというのか。誰の助けも必要ない、健康で健全な男のように思えた。

 だからその日、永吉から狼山の家に行こうと誘われた時、本当に気楽な気持ちで首を縦にし、同僚達と開催する宅呑みに誘われた時と同じように、酒とツマミを提げて待ち合わせ場所に向かった。
 妖怪メトロにおける怪PR社の最寄『時の鐘駅』改札前。
「おう」
 永吉が朗らかに笑って、陽太郎に手を上げた。美青年の待ち合わせ相手という立場に浮かれて、陽太郎は口元に笑みを浮かべた。
 しかし、美貌の永吉は横に李帝こと怪PR社の幹部、鬼李を立たせていた。
「あっ」
 デート気分になっていた己を恥じながら、永吉の番である大妖怪に、陽太郎は頭だけカクンと下げ、挨拶した。
「行くか」
 何とも不思議な組み合わせの三人。
 癖なのだろう、顎の下をカリカリと引っ掻きながら、永吉が歩みだす。美麗な見た目に相応しくない親父臭い仕草だったが、それを指摘する者は誰もいなかった。

「この街、はじめて来ました」
 川越から妖怪メトロで八分。中仙道の走る地上、住宅密集地に狼山のうちはひっそりとあった。高層マンションの建ち並ぶ駅前から徒歩で十分、一軒家の並ぶ閑静な住宅街は人の気配に溢れ、あたたかだった。
「知り合いが住んでなきゃ、来ねーわな」
 勝手知ったるという風に、前方を足早に進む永吉の背と、永吉の隣を歩く鬼李の背には、溶けて混ざり合ったような落ち着きが感じられた。
 番の二人というのは、眺めていて気分が良い。
 そこには、縁があった。
「お二人は、いつから番になられたんですか」
 質問すると、振り返った永吉はニタリと人の悪い笑みを浮かべた。
「なんだ? 羨ましいのか?」
「いや、別に」
「おまえが真面目に相手欲しいんなら、縁談の一つ二つ、世話してやるんだが、どうだ? まず男か女か、歳の頃はいくつの奴がいいか、詳しく条件出してみろ」
「えっ」
「腹子がいいとかこだわりあるなら、同種の女に限定されるから、ちっと骨ぇ折れっけど、まぁ、鬼種同士は色が違くても腹子が作れるらしいから……」
「あっ、腹子とか、こだわりはないです、俺、土子ですし」
 種族の違う男女や、同性の番は土から子を作る。
 土の上で、互いの妖質を混ぜ合わせれば土の中に子が生まれる仕組みである。陽太郎の両親は、どちらも男で種族も違うため土子の仕組みを使って子を成した。
「おまえもそろそろ四百を超えるだろ、生んでおかねーと授からなくなるぞ」
 一般的に五百歳を越すと子が出来辛くなり、奇跡的に子ができても、子は親を超える大妖怪になりやすく、生まれたばかりの子による親殺しが起こりやすくなるのだ。
「わかっちゃいるんですけどね」
 永吉の脅しとも取れる忠告に、曖昧な返事をして話を終わらせた。むつましい誰かを見るのは微笑ましいが、自分のこととなると現実感がない。
 午後七時、帰宅する家族を迎える声が方々で上がる中、とある団地の前に老人が立っていた。こちらに気がつくと、ゆっくりと手を上げる。
「狼山!」
 永吉が声を掛けると、老人は重々しくお辞儀した。
「相変わらず、よく馴染んでるな、その皮」
「……上物を、……こしらえましたんでね」
「狼山、さん?」
「……あァ、陽太郎さん、……これはこれは、よくぞいらして、……人間としてお会いするのは、はじめてですねぇ」
 にこりと笑った老人の、大きな口は確かに狼山のものだった。
「この皮は……アキのものです。アキが死んだ時、俺は一文無しだったんで、借金して、作って貰いました」
 人の身体を原料に作られる人の皮は、妖怪が人になるために必要な高級品だ。十年被れるもので百万、三十年で一千万、五十年で五千万、百年で一億の肝がいる。陽太郎が一ヶ月働いて稼げる肝の額は三十万。人の皮を買うというのは大変な買い物だ。
「……凄いっすね、皮被ってる妖怪はじめて見ました!性別違くても大丈夫なんですね?! ほんと、その、狼山さんって感じ」
「いやぁ、……ははは」
 皮の加工を褒められて、狼山は嬉しそうだった。
「しかし、わかんねぇな、わざわざそんな動き辛そうな人間に化けてどうすんだ? 何で若ぇ奴ってのはこう、翁とか老婆になりたがる?」
「年齢コンプレックスじゃない? 本体が若いから」
 永吉と鬼李に指摘され、狼山は困ったような顔をして下を向いた。
「……、アキと、同じ年頃の見た目になりたくて」
「人間の近所付き合いもしてんだぜ、こいつ」
「アキの葬儀で顔を合わせて以来、よく気遣ってくれるようになりました」
 幸せそうに笑う老人は、愛する人を目と鼻の先に感じながら、余生を楽しんでいるように見えた。
「あ、狼山さんがまたブツブツ言ってる」
「話し相手が欲しいのかもね、老人ホームとか、そろそろ検討された方が良さそう」
「ねー、なんか可哀想」
 団地の二階から、声を潜めた噂話が降ってきた。
 陽太郎達妖怪は人の目に映らないが、人の皮を被った狼山は目視できる。空間と会話する老人は、さぞ奇怪に映るだろう。
「さぁ、狭い部屋ですが」
 団地の単身者用住居は、一つの部屋に何もかもが詰まっていた。キッチン、トイレと風呂場の入口、窓、押入。これで部屋の壁がすべて埋まっていた。押入の襖が不自然に新しくて目に眩しい。部屋の隅に作られた小さな神棚には、仏壇と微笑む老婆の写真と、絹の美しい蓋布に包まれた骨壺らしきものが置かれていた。
「ほら、アキ、皆さんいらしてくれたよ、もう鬼李さんと永吉さんはわかるね、あと……こちらがいつも話してる陽太郎さんだよ、ね、強そうでしょ、こんな顔してるけど、凄く優しい好い人なんだよ」
 老婆の写真が、部屋の照明を反射して光る。
 老いた女の目元には、妙な色気があった。これは、若い頃たいそう美人だっただろう、狼山が夢中になる女だ。そうであって欲しい。
 その時、ドンドンと戸を叩く音がした。
「すみません、おじいさん!どうか開けてください!!」
 永吉が顎に手をあて、目を細めて戸の向こうを伺う。狼山が重い溜息をついて腰を上げた。陽太郎が気遣うような目を向けると恥ずかしそうにして、下を向く。
「いい加減にしてくれないか」
 迷惑そうなしわがれ声で、狼山が戸を開けた。
「大輔!!」
 声の主は体当たりでもするような勢いで部屋に押し入ると、律儀に靴を脱ぎ捨てて、畳を滑るように部屋の中央まで進み、真新しい襖を開けた。
 そこには、一人分の布団が収納されていた。来訪者は次に、トイレと風呂場の戸を開け、最後に窓を開けた。窓の外は平らな外部である。ベランダのない、安い部屋だった。三階の眺めだけが広がっている。
「……っ、お孫さんは、どこに?!」
 押し入って来た青年の声には、求めた相手に出会えなかった怒りが滲んでいた。
「だから、何度言ったらわかるんだ、俺に孫なんかいな……」
「騙されないぞ!!」
 ついに青年は血走った目で狼山の襟首を掴んだ。
 見たところ人間である彼には、陽太郎達が見えていないらしかった。
「俺とアンタのお孫さんは、愛し合ってるんだ」
 青年は、よく見ると陽太郎にどこか雰囲気の似ている荒っぽい顔つきをしている。ひゅっと背が高く、腕や肩に筋肉の詰まった戦闘特化の体格。
「アイツをここに、今朝、送り届けた!! それからずっと見張ってた」
「……、離してくれ、これは迷惑行為だ。前にも言った通り、大輔は俺の名前だし……、ここには俺しか住んでいないよ」
「アイツはここの鍵を持ってた、アイツはここに住んでる、ここで愛し合ったこともある!! 頼む、アイツを出してくれ、アイツには俺が必要なんだ、俺にもアイツが必要だ」
「……、帰ってくれ」
「アンタが居るから、アイツは素直になれない! 俺達は愛し合っているのに……っ」
 青年は涙ぐんで、愛を訴えたが狼山は困惑顔のまま、青年を眺めていた。
「あのぅ、……大丈夫ですか」
 開けっ放しのドアから、お隣の住人らしき中年女の顔が覗いた。続いて、同じくお隣らしい若夫婦の顔も覗き、やっと青年は狼山から手を離した。もう一度部屋をぐるりと睨んでから、悔しそうに顔を歪めて部屋を出て行った。青年の荒い足音が遠のくまで、誰一人、口を開かずにいた。
「すみませんでした、……お騒がせして」
 足音が消えて、やっと狼山が頭を下げた。隣人達はほっとした顔になった。狼山の謝る声に見送られ、隣人達も帰って行く。
「何だあいつァ」
 狼山が戸を閉め、疲れたようにこちらを振り向くと開口一番、永吉が唸った。狼山は「さぁ」と眉を下げた。それから妻の遺影に目を走らせ、うるりと瞳の表面を湿らせた。
「こんなこと、アキが生きてる頃は、なかったんですけど」
 言いながら、狼山はするりと耳の後ろをこすった。シュルシュルと音がして、皺だらけの肌が耳に集まって行く。生き物のような動きで、集約されていったそれは、しまいにころりと黒い玉になって、耳の後ろから落ちた。狼山がそれを耳の中に入れるのを、そんなところにしまっておくのかと感心しながら見ていたら、見慣れた若く愛嬌のある、狼山の顔がこちらに気が付いた。
「すみませんでした、驚かせてしまって、陽太郎さんも、せっかく来てくださったのに」
「あ、いや」
「……俺、夢遊病か、二重人格なのかもしれません」
「は?!」
 とんでもない告白をされて、鼻から声が出た。
「実は……、これがはじめてじゃないんです。俺と愛し合ってるって男に、詰め寄られるの、……人間なら、ああして追い返せるんですけど、妖怪の場合、……決まって俺が関係を否定した途端、逆上して襲って来ます、本当に怖い」
 狼山の顔色は、真っ青。あの朗らかな狼山が、まさかこんな悩みを抱えているなんて。
 驚いて返事をできずにいる陽太郎にかまわず、狼山はおぼつかない足取りで遺影に近づいた。慣れた様子で手を合わせる。
「……ねぇアキ、どうか、……俺を守ってね。凄く怖いよ、君の居ない世界は怖いことだらけだ」
 しかし震え声の狼山に、永吉は呆れ顔を向けた。
「おい、よせよみっともねぇ、死んだ女房に甘えても、おちちはもう出ねぇぞ」
「みっともなくていいです、永吉さんのお説教、もう聞き飽きました」
「あのなぁ、おまえ、両親殺して生まれて来てるんだ、もっとちゃんと生きろよ」
「……二人の母には、悪いことをしました。けど、俺は……、アキがいないと、ダメなんです、無理なんです」
「狼山さん、……」
 思わず名を呼ぶと、狼山は諦めたような顔をして陽太郎を見た。
「すみません、見苦しくて」
「何か、大変だったんですね、……俺、気がつけなくて」
「まぁ……、元から俺は、早くアキの墓代が貯まらないかなって、そればかり考えて生きてるんですけど」
「でも、こいつと話してる間は楽しいんだろ?」
「陽太郎さんは、……優しくて話しやすくて好きです」
「もっと伝えろ、こいつ鈍いから、はっきり伝えねぇとわかんねぇぞ、辞める前に日頃の感謝を伝えてぇんだろ」
「はい」
 辞める、という言葉に驚いて眉間に眉を寄せた。
 狼山は照れくさそうな顔で、墓代が貯まりまして、と理由を述べた。
「俺、昔は弱虫のいじめられっ子だったので、陽太郎さんみたいな強い男、ちょっと憧れちゃうんです。陽太郎さんとふざけてる間は、こういう、プライベートのボロボロさを忘れられる。俺、貴方みたいな、女を必要としない、強い男になりたかった」
「え? ……いや、女要りますよ俺、こう見えて性欲スゴくある方なんで」
「あ、そういうんじゃなくて、あの、精神的な部分」
「はァ……」
「陽太郎さんみたいな、タフな男に、生まれて来たかったです」
 勝手に、強い認定をされても困ると思ったが口には出さなかった。
 確かに生まれてこの方、誰かに助けて欲しいとか、守って欲しいと思った事はなかった。しかしそれは、困っていればすぐに両親や友人が気に掛けてくれたおかげかもしれない。いつも、問題を乗り越えた後に救われていたことに気が付いて感謝をする。
「俺、潮土なんですよ」
 潮土(しおづち)は女同士、精土(せいづち)は男同士の間で生まれた土子のことを指す。狼山が潮土の男であるのに対し、陽太郎は精土の男だった。
「わかるぜ、俺も潮土だからな。俺達は多分、普通の男より繊細にできてる……」
 永吉が優しい声を出して、狼山の反応を待った。
「……」
 永吉の優しい顔に、陽太郎は見蕩れた。これまで、女を好んで抱いて来たが、美しい男も悪くない。
 女にはフラれてばかりだが、男となら上手く行くかもしれない。例えば人懐っこい狼山のような男なら、陽太郎の淡白さにめげず傍に居てくれるかもしれない。
「永吉さん」
 狼山は永吉に、申し訳なさそうな顔をした。
「ありがとう、俺のことを……、心配してくださって、優しい声を掛けてくれて」
 陽太郎は狼山の、こうした素直な心が好きだった。
 もし、狼山が女であれば、この悲しい未亡人をそっと胸に抱いてやった。
 惜しいのは、狼山ががっしりした、普通の男であることだ。
 さすがに自分と目線の近い、筋肉質でむちむちした男を抱く気にはなれない。
「礼には及ばねぇよ、俺はただ、おまえを失いたくないっていう、俺の我侭を通そうとしてるだけだ、なぁ狼山、潮土同士、仲良くやろうぜ、……寂しい時は、呼んでくれれば話相手になるから、な、墓は墓でちゃっちゃと建てちまって、地上にも女にも区切りつけて、次は妖怪の街に住めよ、地下二層とかどうだ?」
「……ご自身がそうなら、わかると思いますけど、潮土の男は面倒臭いですよ……、寂しい時に呼んで良いなんて言ったら、しょっちゅう呼びつけます、いつだって寂しいんですから」
「わかった。そしたら、しょっちゅう呼びつけろ。この陽太郎と、うちの倅と力を合わせて駆けつける」
「……ぅ、……そんなんされたら、好きになってしまうかもしれません。永吉さんにはもう鬼李さんがいるのに……、怖いです、俺、もう、誰かを好きになるの怖いんです、アキが死んだ時みたいな苦しいのも嫌だし、アキの次ができたら、アキを好きだった気持ちが、……アキだけだと思って生きて来た今までが否定されそうで……っ」
「あー、ったく、素面で涙ぐむな」
 ゴシャ、と音がした。永吉の投げた缶ビールが、狼山の肩に命中した。
「飲め」
「こんなん、開けたら泡噴きます」
「泡だらけになって飲め」
「嫌です」
「嫌でも」
 めそめそした狼山と永吉のやりとりに、滑稽さが滲んで来た頃、くすくすと鬼李が笑い出した。
「赤ん坊が、産声を上げてるね」
「鬼李、……空気読め」
 やっと場が和んで来て、酒盛りがはじまった。
 数時間掛けて酒を飲み尽くし、全員が酩酊した頃、潮土の男二人による『何気ない相手の言動に傷つくあるある』がはじまり、精土の陽太郎には全く理解のできない話が続いた。

 自分が眠ってしまったことに気が付いたのは、身体の上に何か、重みを感じて目を覚ましたため。豆電球の光を頼りに狭い部屋が視界に入る。永吉と鬼李の姿はなく、時計の短針は二時を差していた。
 身体の上に乗っていたのは狼山だった。
「陽太郎さん……」
 狼山は機嫌よく笑っていて、恥ずかしそうに眉を下げていた。
「重いですか?」
 小声で、申し訳なさそうに聞かれて狼狽える。
「いや?」
 君の重みなんて、俺にはたいして負担じゃないと言ってやりたくなる聞き方だった。陽太郎は右手を、そっと狼山の腿にあてた。狼山が嬉しそうにその手に手を重ねる。えろい、と脳みそが判断して血の巡りが急によくなった。口から欲情した息が漏れた。
「包まれたいですか? 包みたいですか?」
 舌舐りをしてから、早口に囁いてきた狼山に圧倒され、心臓が派手に縮み、派手にはねた。
「包まれたい」
 かたい声が出た。
「わかりました、……俺のアツくて狭いとこで、搾ってあげます」
 陽太郎の胴を挟む狼山の腿に、ぎゅぅっ、と力が入りそれだけで勃起した。
 勃起したことが、何故バレたのか狼山の指がそこに絡んで来て眉間に皺が寄る。鬱憤のようなものが、パラパラと下半身に積もって行くのがわかった。
「陽太郎さんの、立派で美味しそう」
 ゆるく笑みの形になった狼山の目は、うるうると濡れていて、暗闇で光った。もの欲しげに半分開かれた口を縁取る、つるりとした唇も唾液で濡れていた。ゆるゆると扱かれ、あと少しというところで手が離れてもどかしい。鬱憤がまた溜まる。気がつくと、ゆっくり、狼山の身が倒れて来ていた。
 卑猥に崩れた顔面が目と鼻の先。
「んっ……ぅン、ん、ふ」
 とろり、と腹の上に液体の感触。狼山が射精したらしい。
「はぁ、……、汚してすみません、これでシモのクチ濡らすんで」
 むしょうに頭を撫でてやりたくなり、手を回すと狼山はすっと目を閉じた。
 撫でられる瞬間を待つ犬のよう、手先に力が篭る。
 わしわしと狼山の頭を掻くと、ぺろぺろと顎や首を撫でられる。
「頭撫でられるの、……嬉しい、……陽太郎さん」
 ぺろぺろと頬まで舐められながら、愛しさでわけがわからなくなった。
 陽太郎と狼山は、愛し合っているのかもしれない。
「っぁ、……んぅ、っふ、あ、っぁ、……ん……っ」
 じゅっ……じゅっと狼山の下半身から穴をならす音がして、快楽を訴える、ねっとりした声が鼓膜を揺らした。
「慣らしてるところ、見てぇんだけど」
「ん……」
 要求すると、頬にチュッとキスをされ、狼山の体が急に遠のいた。
 狼山は仰向け、腕と震える両足で身を支え、尻穴の見えやすい体勢になって、わかりやすいように大きな手の動きで尻穴を弄って見せてくれた。
「素直かよ……っ!!」
 陽太郎が喜びと興奮で、怒ったように囁くと、狼山はピタリと手を止めて、心配そうにこちらを見た。それから指を使って、穴を拡げて見せて来た。もう何かを言う余裕もなく、夢中でその身を掻き抱き、押し倒して、ほぐされた尻穴に性器を挿入した。
「うァ、……嬉し、陽太郎さん……、俺の中、入って来たっ」
「はァ、……くっ、……すげぇなコレ、しまる、俺、男はじめてで、はァ」
「ぁ、……あっ、……いっ、……ぁっ、ひ、……くんっ、ン、アッ……ぁ」
 柔らかいものに、むにゃむにゃと突進する女との性交しか知らなかった身体が、硬いものを砕くような、攻撃的な男との性交に驚き、燃えるのがわかった。
 闘うことが何より好きな陽太郎にとって、ガツンガツンと確かな手応えのある男との性交は、この上なく心地よく癖になるものだった。
「ぅ……ひぐっ、……あア、っぶつかっ……すご、ぅ、も……っぁ、ナカ、ぐちゃぐちゃ、陽太郎さん、……やめ、穴壊れっ……っぁ、陽太郎さ、もう、……これ一旦、っぁ、終わっ……ん、……ふ、やめ、……、っぁ」
 狼山の喘ぎに、悲鳴が交じっても腰を振るのを止められなかった。狼山の耳から、ころりと黒いものが落ちた。しかし、そんな事を気にしてなどいられなかった。
「んぇ?!……っぁ?!あン?!っは、何?!……ぁ?!」
 それまで、楽しそうな顔をしていた狼山が急に悲しそうな顔になった。
「っうぁ?!え?!陽太郎さ、……っは、っぁ?!何し、ぅ、……何?!ぁ?!……っぁ、止ま、……っァ゛?!やっ……んン゛!!」
 口に手を入れて、喘ぎを堪える狼山に腹が立って、体重を掛けて、挿入の衝撃を強めてやる。
「うぐっ?!……ぅ゛っ、っぁふ、っ陽……、っざけ、やめッ……っぁ゛、けんな、……っぁ、何考っ……っんっァ゛?!は、っぅ、ぐ、んンッ」
 ビクビクと腿を痙攣させて、眉間に皺を一杯に寄せた狼山が射精もせず絶頂を迎えた。
「はァ、ぁ、あンっ……ぅ、はァ、……はァ、ぅぐっ……ンは」
 ついに狼山の目から、だらだらと涙が溢れはじめたが、腰を止める事ができず性交は朝まで続いた。
「……、っハァ、……っハ、ぅ……ぅ、ぅ」
 やっと腰を止められたと思ったら、狼山はさめざめと泣いていた。腰を引いて狼山の中から出ると背中がひんやりした。目一杯掻いた汗に冷された身体を、いつ脱いだのかわからない服で拭いて、まだ泣いている狼山の肩を撫でる。
「狼山さん、凄い、……その、エロかったです」
 感想を伝えると空気が凍った。
「あの、……止められなくて、すみません、でした」
「……ハァ、っ……ぅ、……ぐ、……ダメです、コレ、なんかもう、……ちょっと、殺したいかも」
「は……?!」
 殺気を感じて身を避けると、獣のような形状に変化した狼山の手が、陽太郎の眠っていたあたりに置かれていた。その爪の鋭さから、もしそこに寝たままだったら死んでいた事を悟り、ぞっとする。
 ザワザワと頬の肉を揺らし、狼山の内側から狼男の原型が現れた。特撮映画のような、グロテスクな大口がカパッと開く。妖怪の原型は人の観念から影響を受け、その時代によって異なる。昔は犬のような姿をしていた狼男が、このような恐ろしげな生き物になるとは。
 陽太郎は部屋の隅に放られていた己の荷物を、飛び掛かってくる狼山を避けながら掴み、狼山の部屋を飛び出した。部屋の中では、すぐに距離を詰められる。三階分の階段を駆け降り、滑るように追い掛けて来た狼山に、階段の終わりでタックルをかました。鬼種の力技に、若い狼男は吹っ飛んだ。団地を囲むフェンスにキャンと哀れな悲鳴を上げてぶつかる。巨大な動物は、気を失い動かなくなった。動物の股ぐらから、白濁した液体がトロリとこぼれた。
 さすがにこれを放っておけない。
 どうしたものかと頭を悩ませて、永吉に連絡することを思いついた。
『おう、どうした』
 電話の向こうに、永吉のやたら聞き取りやすくて耳に心地の良い声が流れた。
『あの、実は今、狼山さんが暴……っ?!』
 目の前で巨大な口がバクンと閉まる音がした。鋭い犬歯が、空間を裂いた。全身に鳥肌が立ち、生命の危機を感じた。反射神経の良い我が身に救われたと胸を撫で下ろす暇もなく、また目の前で獣の口が開く。
 さっ、と身を低くして攻撃を避けるとまた鬼種のバカ力を込めてタックルをかます。獣は面白い程、高く飛ばされ、団地の二階に突き出たベランダの角に強く背を打たれてまた鳴いた。それから、ドン、と重い音を立てて落ちたので慌てて駆け寄る。
 狼は、また気を失っていた。
「すまねぇな陽太郎、うちの社員が迷惑駆けて」
 真横で声がして、永吉が立っていた。空間移動で来てくれたらしい。
 永吉の横には鬼李と艶やかな女も立っていた。
「アキさん、アンタも何か言うことないか?」
「……うちの亭主、エロかったろ?」
 アキはユーレイらしく、ぼやりと揺らめいてから発言した。
「エロ、かった……っすね」
 二人の会話に、永吉は顔をしかめた。
「陽太郎さん、もう名前覚えちまったよ……。うちの亭主のこと、可愛がってやってくんないかな、……あたし成仏したいんだ。残した仔犬が心配のままじゃ、浮かばれねぇんだよ」
 腕組みをしたアキの、腕にのった乳から目を離せずにいると真面目に聞きなと額を蹴られた。ユーレイは濃度が高くないと、妖怪に触れない。
「随分、濃いな?」
 人柱でも、特殊能力者でもない霊に触られたのははじめてだ。
「俺が濃度を助けているからね」
 鬼李の補足に、女がにこりとした。
「この濃度なら、セックスできそうだな」
「……もしかして、……昨夜の狼山さん、アンタ?」
「夫だったらこうするって演技はしてたけど、まぁ、あたしだな」
「あれ演技だったのか……」
 おかげで陽太郎は狼山と愛し合っているような錯覚に陥った。軽く失恋気分である。
「まぁ、興奮した陽太郎さんの腰使いがあんまりにも乱暴で、途中で嫌になって抜けちまったけどね」
「あっ、……はい、それでよく振られます」
「はっはっは、今度生まれ変わったら口説きに行こう、女の扱いを教えてやる」
「……やめてください、狼山さんに呪われそう」
「呪いたいのはこっちだよ、墓に自縛なんかされちまったら、居心地悪くて次に行けない」
 そこで永吉が、ちらりと視線を狼山の身に注いだ。
「アキさん、狼山が面倒くさい奴で、うんざりしてたんだな」
「正直に言うと、そうだな、可愛い亭主だと思っていたし、今も思ってるが……、こんな暴走は願い下げだよ」
「気持ちはわかるが、……あんた人霊法違反だぜ、肉体を保有する霊魂の許可なしに憑依することは人道に反する」
「うちの亭主は人じゃない」
「……言うと思ったぜ」
 永吉は苦笑うと、物陰に目をやった。
「そこにアンタが拵えたストーカーがいるだろう?」
「……拵えたなんて人聞き悪いね」
「あれは人間の狼山に迷惑を掛けてる」
「……?」
「人の皮被ってる狼山は厳密に言うと人間と定義されるんだ」
「……」
「人間に迷惑を掛けたら、その時点でアンタ悪霊だ」
「あたしは……、成仏したかっただけだ」
「しつこい亭主も悪かったし、あんたが亭主に相手を作らせようと必死だったのもわかる、情状酌量の余地ありだ、氏神への届けは出さねぇでやる、……でも、ちょっと反省してくれねぇか? 人間にとってはたいそうな年寄りでも、百歳以下の妖ってのは、俺達の世界じゃ未成年だ。守ってやるべきいたいけな存在なんだよ、身体乗っ取られて好きでもねぇ奴とセックスさせられてたなんて、可哀想だろうが。浮かばれねぇのはわかるが、ちょっとおとなしくしててくれ、亭主の身体を弄ぶのをやめにしてくれ」
「……」
「亭主のことは、俺達がしっかり面倒見るからさ、なぁ陽太郎」
「いや、……俺は、あの」
「俺達が、きっちり、責任持って狼山があんたの墓にとりつくのを防ぐ、なぁ陽太郎」
「あ、はい……、友達として」
「……」
 アキの目が狼山と、陽太郎の間を行ったり来たりする。
「大輔くん泣かせたら、ただじゃおかないよ?」
「はい」
 陽太郎の返事を聞くと、アキは満足そうに笑い、消えた。
「……女は強いね」
 黙って成り行きを見守っていた鬼李が、一言漏らすと永吉は笑った。
「女二人から生まれた俺はもっと強ぇぞ」
「知ってる」
 鬼李が頷くと、二人の間には確固とした絆が垣間見えた。もし、狼山と陽太郎の間に愛が生まれたら、同じようなやり取りを二人も交わすのか。少しだけ気になった。
 
 その事件から数日後、怪PR社内、ぬり壁セキュリティ出張オフィス兼更衣室で鉢合わせた後輩は陽太郎を見て笑みを浮かべた。
「陽太郎さん!」
「おー」
「俺、リストラ回避できました!」
「へっ?!」
「なんか無実の罪を着せられてたみたいで、よく狼山さんと伺うお得意さん……『鬼加工株式会社』から、俺が社長の息子さんをたぶらかしてるって難癖つけられてたみたいなんです、俺、顔がこの通りなんで、そういう誤解受けやすくって、……」
 話を聞いてヒヤリとしたのは、例の夜に味わった狼山の壮絶な色香を思い出したからだった。中に女が入っていたとはいえ、男色趣味のない陽太郎を、転がした程である。そこでふと、洋次郎の整った顔が近づいて来た。洋次郎は少し声を落として続けた。
「犯人は、狼山さんだったらしいっすよ」
「は……?!」
「『鬼加工株式会社』の社長ご子息、狼山さんとデキてたらしいっす」
「へぇ」
「……超意外じゃないっすか?!」
「まぁな」
「担当変更して、もう二度と近付かないって狼山さんが謝罪して、解決したみたいですけど、……いやー、マジとばっちりでした! 酷いのは、怪PR社が俺の方を疑ってうちにクレーム入れてたとこですけど! まぁ、俺と狼山さん並べて、俺疑うのは仕方ないっちゃ仕方ないですけど、せめて事実確認しろよっていう」
「……」
「先方、息子さんが現在人休み入ってるとかで過敏になってたそうで、訴訟するとかしないとかまで話が進んでたそうですよ」
 人休み、とは妖怪が人の皮を使って人の一生を送ることである。記憶を飛ばして、まるごと人の感性を学ぶ。贅沢な勉学故に、一部の恵まれた妖怪しかやれない。妖怪社会において、人の感性を持つ妖怪は大企業に就職しやすく、親は少し無理をしてでも我が子に人休みを与える風潮があった。
「あっ、これ、その息子さん」
 息をのんだのは、洋次郎の見せてきた写真の人物が、あの日狼山宅に押し掛けてきた人間の若者であったため。
「人の皮に不具合があったみたいで、霊感持ちを矯正してたのに狼山さんが接触したせいで一部霊感も戻っちゃったみたいで親御さんがフォローするのに追われて大変だったみたいっす」
 狼山の妻も、手を出した相手が悪かった。
 永吉が懸命に動いていたのは、この問題を解決するためもあったのだろう。

「えっ、今日陽太郎さんだけなんですか?!」
 狼山宅の戸が、開いてすぐ目の前で閉められた。
「皆さん、都合悪くなってしまったみたいで」
 戸の向こうに気配があったので、事情を話す。
「そうだったんですね、それなら、今日は外に出ましょうか! ちょっと待っててください!」
 陽太郎はあの後、狼山の担当を外されたが、事情を知らされた狼山から、迷惑を掛けたと謝られた。あれから、狼山のうちに遊びに行く文化が定着し、陽太郎は常連メンバーになった。日によって永吉と洋次郎、狼山の上司である牛鬼など、顔ぶれは違ったが、陽太郎だけは必ず毎回集まりに参加した。狼山の妻に、夫を頼むと言われたことや一度抱いた相手への愛着など、要因は色々とあった。
「そんなに意識しないでください、他意はありません」
「……すみません」
 一方で、狼山は陽太郎と二人きりの空間を目に見えて避ける。
「また、妻が貴方に抱かれるんじゃないかって、どうしても疑ってしまって……、ホント、嫉妬深くて恥ずかしいんですけど」
「……俺が抱いたのは狼山さんです」
「いや、あれは妻でした」
「できたら俺も、奥さんの方を抱きたかったですけど」
「くっ……、腹立つ、絶対抱かせません! 妻は俺を愛しているんですからね!」
 何故か、抱いた相手から恋のライバル認定をされている。
 どうやって覆して行こうかと思いながら、今日も言葉足らず、ままならない。


2016/10/12