『おそろい』(ぼんやりモテ男×平凡)
自分の欲望には気づいているが、求めたら困らせると分かっている。
困らせてまで求めようとは思わない。横に居てくれればそれで良い。
待ち合わせ時間の十分前。
チェコとリオネは二人きりで立っていた。
「どうかエリックとゴドーさんが、二人一緒に来ませんように」
待ち合わせ場の、フィオーレ駅二階時計塔下。
コーンスープの缶で手を温めながら、リオネが正直な願いを口にする。
エリックを想っての言葉だというのは気に入らないが、恋心に振り回されている様子が可愛い。
「うん」
適当に返事をする。
チェコとリオネ、エリックとゴドーの組み合わせでレジャーに行くのは初めてのこと。約一ヶ月前、ジェキンス寮長に呼び出され、チェコは合宿前の下見係に指名された。素泊まり代が一人分だけ出る。
だいたい、この係に選ばれた者は、自腹で仕事をレジャーに進化させる。
チェコも友人を誘い、下見をレジャーに変貌させた。一人分の旅費を、四人で分けて遊びに行く。渡された下見表の項目をチェックさえしてくれば、
問題ないのだ。
「おはよう」
待ち合わせの五分前、エリックが後ろから声を掛けて来た。振り返ると、エリックは駅内ショップから出て来るところだった。ゴドーを従え、ふわふわしたコートのポケットに手を入れて。
「二人一緒に来たな」
リオネへの嫌がらせ、指摘するとリオネはむっと口を閉ざした。寒さで赤くなっているリオネの耳を掴む。
「いてっ……?!……何?!」
「俺達も二人一緒に待ってたから、おあいこ」
「っ……」
目を見開き、息の詰ったような顔をしてリオネは眉を下げた。
エリックがにやにやとこちらを観察して来る中、チェコは列車が着いたり去ったりしているホームに目を落とした。
これから乗り込む特急が到着したのだ。
「……来た、ガザ・パスカル号」
薄茶に白の縦じま、緑の傘が描かれた特急がホームの端に泊まっている。
有名な推理小説の主人公、ガザをモチーフにした特急。フィオーレがまだヴィンチの一部であった頃の都、パンセが舞台だ。
今は古都となったそこへ、これから四人で向かう。
*
特急の中で食べる弁当を調達してから特急に乗り込むと団体旅行とかち合って席がなくなってしまった。油断した。
興が削がれて落ち込み掛けたチェコの横、
「着いたら食べればいいよな、外、良い天気だし」
リオネが明るい提案をした。
チェコはリオネの、こうした細かな気遣いが好きだった。
冬の空は低く、澄み切った青。
降りたフィオーレの古都は、はじめて訪れても不思議とどこか懐かしさを感じさせる独特の空気に包まれていた。
中等部の修学旅行で来た時以来の、歴史と景観の街に深く息を吐いた。
ヴィンチの一都市でしかなかった、過去のフィオーレの面影。ヴィンチ王家を招くために作られた宗教施設や、ヴィンチ色の強い背の低い家々を見渡して、異国感に浸った。
街を観光して歩いてから宿に着く。
管理人から鍵を貰って、人気のない施設に灯りをつけた。
森に一歩踏み込んだ場所に立っているこの白い長屋が、今回のジェキンス寮合宿で使われる宿泊施設だ。
月に一度掃除をしにやって来る人はいるものの、普段は人気のない森の中にひっそりとしているらしい建物はそこで静かに眠っていた。シンと冷え切った森と対峙するように、長屋は温かな雰囲気を内部に宿していた。曲線の多い装飾のおかげか、ふんわりと落ち着く。
「うわっ、うちじゃん」
建物を見た時、エリックが笑いながら感想をもらし、ゴドーが困った顔をした。
「俺のうちな」
「ゴドーのうち」
ゴドーの住む草原の長屋は、フィオーレの元公共施設だった。
みてみてゴドー?窓の縁!模様まで一緒!とはしゃぐエリックと、窓の縁に模様なんかあったか?と首を捻るゴドーには敢えて絡まず、チェコは事務的に寮生が泊まるための部屋数を確認し、機器に不備がないかを確認し、与えられた仕事をきちんと片付けた。
せっかくなので一人一部屋を贅沢に使おうと荷物を置き、結局リオネの部屋に四人が集まった。
「この宿、殺人事件が起きそうだよね」
エリックが呟いて、ゴドーが鼻で笑った。
テレビをつけ、複数人が寝られるよう長く広く作られたベッドの上に胡坐で座って寛いでいたところ。一m間隔で、七人は寝れるだろうベッドには沢山のシミやほつれがあった。
「誰もいなくて広くて、街と離れててさ、たぶん第一被害者はゴドー」
「言うと思った」
「絶対死ななさそうなのに死んじゃう」
古都に触れたせいか、エリックの頭はガザの小説にかぶれていた。
リオネが、手を上げる。
「俺犯人!」
「うん、犯人ぽい、じゃぁリオネ犯人で……。
チェコはー……、駄目警察官でしょ、俺が探偵」
「おいしいとこを!」
「ふふっ」
楽しそうなリオネとエリックに和む。
ゴドーがあくびを一つ。チェコもつられた。
まだ四時なんだなと言いながら、ゴドーがテレビのチャンネルを変えて行くと、奇跡的なタイミングで十年ぐらい前に放送された古めかしいガザのドラマ再放送に出会った。
「うわ、ガザ!」
「見よう見よう」
エリックとリオネがはしゃいでテレビに向かう。
ゴドーとチェコは、顔を見合わせた。
「闘技でも行くか」
宿の近くには、有名な練習施設があった。
「はい」
「おまえ最近力付いたよな」
「そうですか?」
褒められて嬉しくなり、笑みが湧く。
ゴドーと一対一ができるのはありがたい。
強者との戦いは、成長に繋がる。
*
練習から帰るとエリックが居なかった。
ゴドーの携帯が鳴り、ゴドーが外に引き返す。
そうだ。リオネはエリックが好きなのだ。二人きりにしては、いけなかったのだ。異様な部屋の雰囲気を前にして、チェコは苦いものを飲み込み、眉を寄せた。
「リオネ」
部屋にポツンと残されたリオネは、声をかけても反応しなかった。
「何かしたのか?」
責めているつもりじゃない。聞きたいだけ。チェコはチェコで、リオネが好きだった。
「……した」
簡単な返事が来て、心臓が緊張した。横に座る。
「何したんだ?」
リオネは答えない。リオネは冗談で、エリックに対し襲うぞと脅しを掛けることが多かった。エリックがリオネにきつい物言いをすると、怒った勢いでリオネはエリックを詰った。
エリックも悪いのだ。リオネに対し、辛く当たる。酷い言葉を投げる。
だけど襲ってはいけなかった。エリックへの罪で、リオネが穢れるのは嫌だ。しかし、もうリオネはよくないことをしてしまったのだ。
むなしくなり、顔に手を当て息を吐いた。
立ち上がって、部屋に鍵を閉めると座っているリオネの前に立った。
放心しているリオネの顎を掴んでキスをすると、リオネは慌てて顔を背けた。耳の後ろ、首、とキスを落としベッドに押す。
「チェコ……」
元気のない嗜めを無視して覆いかぶさる。
「なんでこのタイミングで仕掛けてくんの」
「仕掛ける気なんかなかったけど、なんか腹立って」
色々と力の入らないようであるリオネの緩い抵抗。
リオネはチェコの胸を腕で押しながら宙を見ている。時々咽るような表情をしてぐっと唇を噛む。
「リオネ」
呼んでも返事がない。
もぞもぞとこちらに背を向けたリオネの下肢に手を伸ばす。服を割って、リオネのものに直接触ってしまった。背中がきゅっと痒くなって、胸が熱くなる。
「リオネ……」
「だから何で、こんな時っ」
「こんな時だから」
苛ついた声が出た。
リオネが、エリックを抱いてしまった。リオネはエリックに、良くないことをした。エリックのせいで、リオネが穢れた。リオネのものを摩る。
「わっ」
触られた時は反応しなかったくせに、擦られた途端に背を曲げて、リオネは驚いた声を上げた。
「っ、ちょ、チェコ、あの、ちょっ……、ちょっと、おい」
慌てる首の後ろにキスをし、背に額と頬をつけた。
リオネの体の匂いと、骨の感触、体温が顔の敏感な膜から情報として、こちらに入って来る。心地良い。リオネのものを扱く手の力を緩める。
「痛かった?」
「痛くは、そんな、でも一旦やめて」
「なんで」
会話しながらも、やわらかに、リオネのものを弄っている手に幸せな感触。リオネ以外のものだったら触るのも嫌だが、リオネのものならいくらでも触っていたい。というか、口に入れたりしたい。が、それはしたら怒られる気がする。しげしげと見つめたいが、嫌がられるだろう。こうして触るのがギリギリのラインだ。
「……っん、……う」
口を押さえているリオネの顔が、苦悶に染まっていき、ゾワリと震えが来た。この手が、この反応を作っている。もはや文句を言う余裕がないリオネの頬に口付け、刺激を強くした。
「っ」
リオネの身が揺れ、ぬるりと指先が粘った。
その粘りを使って、もっとそれを甚振ろうと、竿をにゅるにゅるとしごくと、リオネの切羽詰まった手が胸を押してきた。
「チェコ!」
胸を押されても、あまり打撃じゃない。
弄り続ける。ぎゅっとそれを握ると、リオネは小さく、ぁ、と鳴いて背を丸めた。その姿に興奮しキスを仕掛ける。深いもの。
リオネの息を、食事するように刻んで頬張り舌や唇の感触を味わい尽くす。
困らせてまで、やらなくていいと思っていたのに。
リオネがやりたいならやらせるのでも良い。
いちゃつきたい、という程度だった。
いちゃつきたいけれど、リオネが望まないなら、いちゃつかなくてもいい。一緒にいられれば。そんな健気な気持ちでいた朝が嘘のよう。リオネと性的な接触を、もっとしたい。
「リオネ」
名を呼ぶと、リオネは目を閉じた。それから眉間に皺を寄せた。
「俺、告白して、ふられたばっかなんだよ」
リオネの声は高く震えていた。
涙が目の内側から、外側まで流れるとぽたぽたと落ちた。
「ふられた人間、襲うなよ馬鹿っ」
全身を氷の弾丸で撃たれたような、衝撃に頭が真っ白になった。
「襲ったんじゃ?!」
「襲われてるけど?」
「ごめん」
体を離すと、リオネの体温に温められていた部分が、水に触れた後のように熱を奪われて冷え、寒くて仕方がなくなった。
「ごめん」
二度目の謝罪を口にして、手を洗いに行く。
濡れタオルを作って戻り、リオネに渡した。
「ふられたらもう、好きでいちゃ駄目なのかなぁ?」
リオネはさっき流した涙の上から、新しい涙を流して嘆いた。
「時間戻らないかなあ、言わなきゃ良かった」
掛ける言葉が見つからず、横に座る。リオネはタオルを使い終えると、それを洗いに立った。戻って来て、ベッドにうつ伏せに倒れた。
「俺もふられようか?」
チェコの気持ちを、リオネは知っている。
「おそろいになってくれるわけだ」
リオネはうつ伏せの状態から、顔だけチェコを向いて笑った。
「うん」
リオネの目にまた涙が溜まる。
「ゴドーさんより、俺のほうが絶対、……俺のほうが、エリックのこと好きなのに」
エリックの何がそんなに良いのか。
あんなに激しい性格では、一緒に居て疲れるだけじゃないか。チェコはリオネの優しさや気遣いが好きだし、さっぱりした癖のない顔が好きだ。美しいが毒々しい、魔の色香を放つエリックの見た目に、引き込まれて戻れなくなった者は多い。リオネ以外にも、エリックに嵌っている人間は大勢居る。
だが、リオネのようにエリックの傍で、エリックのあのきつい言動に付き合おうという者は少ない。そう考えると、リオネはエリックを好きだという人間の中でも、より、エリックを好きな人間なのだろう。
どうしてリオネだったのか。
エリックに嵌る人間は大勢居る。リオネ以外の誰かが、リオネの立場になってくれたら良かった。
「エリックに、絶交しようって言われた」
「なんで」
「俺が、エリックのこと好きなのが怖いって」
「しろよ絶交、おまえには俺がいるし、もういいだろエリックは」
「もういいって思いたいよ」
ついに裏返った声で嘆きだしたリオネを、たまらずに片腕で抱き寄せた。肩に腕を掛ける、友達の慰め。チェコがリオネを襲ったことに対する咎めはまた今度になるだろう、今のリオネは自分の心を鎮めるので一杯一杯だ。
「リオネ」
ゴドーの声が戸の向こうでした。
「はい」
さんざん深呼吸をした後、やっと落ち着いて、リオネが返事をした。
「大丈夫か?」
「はい」
それだけのやり取り。
ゴドーが去っていき、リオネの目にまた涙が溢れる。リオネの肩をぎゅっと掴んでやると、リオネは少しだけ表情を和らげチェコを見た。
「ふられるって凄い辛いよチェコ、いいの?おそろい、なっても?」
涙声と、泣き顔に胸が痛む。どうしてリオネがこんなに悲しまなければいけないのか。
「おまえの辛いの、どうにかしてやりたい」
思ったままを伝えると、リオネはまたボタボタと涙を溢した。
「せめて理解してやれたら、ちょっとは落ち着くかと思って。さっきから掛ける言葉見つからないから……同じ状況になったら、どういう言葉掛けてやったらいいのか、わかるかなって」
ゆっくり、思いの他だらだらと気持ちを伝えた。
おそろいにしようかと申し出ておきながら怯えていた。ふられたくはないが、ふられるしかリオネを慰める方法が思いつかない。苦しいだろうけれど、リオネのためなら。
「……ありがとう、でも、今はちょっと答え出せない、まともな状態じゃないから、……慰めて貰うために、自分を好きになってくれた奴ふるなんて、カッコ悪いし……もっとよく考えさせて」
ぽろりと救いの言葉。ああ、良かった。安心が顔に現われた。
リオネが笑った。チェコも笑った。笑う顔が見れて、やっと安心する。
「チェコって面白いよな」
「そうか?」
「……凄く、面白いやつだよ」
そう言って、はにかんだリオネを心の底から好きだと思った。
「どうせおそろいにするなら、泣き顔じゃなくて、笑顔がいいよな」
リオネはいつでも前向き。
チェコも前向きに、リオネからの返答を待とうと思う。
2016/6/21
『ダッシュ』(ぼんやりモテ男×平凡)
目の前で。
すぐ目の前でカルロがエリックに引っ付いている。
エリックは黙って引っ付かれている。
俺がやったら怒るんだよね。
見るものを焼く勢いで、二人を睨んでいたら、
「リオネ不機嫌」
横でチェコがぼそりと呟いた。
エリックはチェコの言葉を気にせず、リオネをないもののような態度でページを捲った。せめてこっち向けよ。
座ったエリックにカルロが被さって、エリックとカルロは雑誌を見ていた。
「なんで?」
チェコはリオネを横目で覗きながら、白々しい質問を投げて来た。
「わかるだろ」
エリックにカルロが引っ付いているから。
エリックがそれを許しているから。
俺がやったら怒るくせに、カルロには怒らないから。
「ん……」
チェコはリオネの顔を見て、下を向いて、エリックにチラッと目をやった。
「わかんない」
意図して、わかろうとしない。
というチェコの意思を感じて顔を顰める。
チェコはリオネに懐いていた。
人間を愛しているわけではなく、ただその注意を向けておきたいために人間に構う猫のよう。チェコは気まぐれに人に懐く。これまでリオネは、チェコが懐くのは女だけと思っていた。
懐かれた女は、大体、チェコの持つ奇妙な色気にやられてのぼせ、チェコに構い倒し、チェコに飽きられて捨てられる。
リオネ……男友達に懐く、というパターンは初めてだ。
エリックの雑誌を捲る手が止まって、その細く滑らかな指が移動する。
ゆるく丸く、握られて、頬杖。
「リオネ、居心地悪いからあっち行って」
「え……」
「変な目で見ないで」
「……見てない」
「見てなくても、俺には、ちょっと不快な視線だったの」
「な……!」
かっとして、言葉を失う。
愛しくてたまらない存在から、無碍にされる苦しみを、こいつは味わったことがあるのか。
悔し涙を堪えて顔を隠すように、ぎゅっ、とエリックに抱きついてみた。
ビクッとエリックの身が震え、脇腹に肘鉄の痛みが食い込む。
「ちょ?!リオネ乱心!俺挟んでる俺挟んでる」
カルロごと抱きしめたので、感触はまばら。カルロが暴れて逃れた。
と、同時に頬に拳骨が来た。エリックに殴られた。
跳ね飛ばされ、教室内の全てと視線が合う。
チェコが庇うよう抱きとめてくれて、どうにか転ばず。
パシンと音がして顔を上げる。
チェコがエリックをぶっていた。
「え?!」
「わっ」
俺、カルロが短い悲鳴を上げた。
チェコとエリックはあまり仲良くない。
そんな二人がぶつかるのは宜しくない。
「抱きついたくらいで殴ることないじゃん」
チェコの主張に、
「俺の勝手」
エリックの答え。
「おまえちょっと自意識過剰」
「君みたいな鈍感にはそう映るかもね?でも俺は、リオネが怖いんだよ」
「わけわかんねぇ、リオネが何したんだよ」
「欲情してるから、俺に」
「はっ!……だからそれが自意識過剰だって……!おまえ見てると苛々する!」
「じゃぁ見なければいい、……俺に、関わらなければいい」
「そんなのわかってる、それができたらいいけど」
勝者はエリック。チェコはリオネを見た。
助けて欲しそうだが、どうしたものか。
「二人とも仲良くしろよ」
咄嗟、出た言葉にチェコは顔を顰めた。
「まぁ、ダダも最初はこうだったよな」
カルロが場を和ませようと、軽い声を出した。
カルロの明るい表情に、教室が視線の包囲を解いてくれた。
四限の自習時間は、まだ始まったばかりだった。
皆、この一時間半、何をしようか考えるのに忙しい。
「あ、リオネこれ」
エリックが唐突に、折畳んだ紙を取り出した。
受け取って開くと、お菓子のレシピ。
エリックの趣味は料理で、前にエリックの作った菓子を、家に持ち帰ったら母親が気に入り、レシピをもらって来て、と頼まれた。
「ありがと!」
「うん、さっきは流れで嫌な言い方してごめん」
「いいよ、本当のことなんだろうし」
「まぁね、あ、気を悪くしないでね、早く他に好きな相手探して」
「あの、口癖みたいにフるのやめてくれる?なんか麻痺しそうだから」
「……」
「俺、うざい?」
「別に」
「ホント?!」
「友達じゃん」
太い縄が目の前にドン、と落ちて来たような。
エリックの澄んだ青の目がじっと見てきていた。
呆然とその目を見返している隙に、手から何かをもぎ取られる。
気が付けば、レシピの紙を、チェコに奪われていた。
「え?」
「これ、捨てるから」
そう言って、チェコは足早に教室の出口に向かった。
「え!ちょっ!」
追いかける。前を行くチェコが走り出して、舌打つ。
ああもう、手の掛かる奴。
「チェコ!」
名を呼ぶと、振り返ったチェコの顔は曇っていた。
「返せよ!!」
ぐん、とチェコの速度が増し、焦る。
階段を降りようと、曲がったチェコを追った先、ジェキンスの寮生であるチェコの身体技に、あっと息を飲まされた。
階段の手すりを飛び越えて、一段下の階段の手すりに、さらにその下の手すりに。
チェコは一階まで、階段をショートカットしてしまった。
対するリオネはまだ三階。
見失う。
エリックがくれた、エリックの書いた字が書いてある、エリックがリオネのために作成したものが、捨てられてしまう。
チェコの真似をして、手すりを飛び越える。
ヒヤリと嫌な予感がして、腕に力を込め、手すりにぶら下がる。
下の手すりまで、二m程。
綺麗な着地を、できる気がしない。
踏み外したらどうなる。
手すりは幅細く、滑る。目が回る。階段の、規則正しい景色がリオネの心臓をどくどくと鳴らした。
「何してんだ馬鹿」
下から、チェコの怒鳴るのが聞こえた。
「手、離すな、今そっち行くから」
そうだ、もし怪我をしてもチェコが居るなら、救急処置なりしてくれるし、人も呼んでもらえる。
安心したら、急に、手すりが近く見えた。
思い切って、手すりに降り、バランスを取る。
チェコは階段を使って登って来ているらしい、カンカンと音がする。
登って来たチェコが、あっ、と声を上げて逃げ出した。
リオネは手すりに腰を掛けて、悠々とチェコを待っていた。
人間に騙されて、驚いた猫の後姿。
可笑しくなり、笑いを抑えながら、追いかけた。
この時間は移動教室が多く、空の教室が目立つ。
通り過ぎた授業中の教室の中に、ダダの姿があった。
目が会って、手をふると怪訝な顔をされた。
廊下を歩いていた教師の叱りを受けながら、高庭に出た。
あまり来たことのない、いつもは女子生徒で溢れている高庭。
二階の右端から行ける、噴水が綺麗な、洒落た空間。
二階より長い一階の屋上を利用している。
緑に囲まれて、花々が一年中咲いている。
風が吹いて、花の香りを運んだ。
空をバラバラとヘリが飛んでいる。
授業をしている教室もある学校の緊張感に襲われる。
背徳感と、高揚。
リオネはチェコを追い詰めた。
チェコは紙をしまった手を後ろに隠して後退し、大きな体を前のめりに、左右を見た。そして、紙をポケットに仕舞うと今度は前進。
前進されると、急に不安になり、リオネは逆に後退。
「リオネ」
「返せよ」
「なんで逃げるんだ」
「返せ」
「止まれよ」
「返す?」
「返す」
チェコがまた一歩、こちらに来る。
この焦燥感は何だ。
「チェコ?」
目の前に来たところで、たまらずに名を呼んだ。
瞬間に抱きつかれ、驚いて言葉を失った。
何だ何だ、何が起こってるんだ。
「俺だって抱きつきたい」
耳もとで、チェコの高いとも低いとも取れぬ、わがままな響きを持つ声がして、腰が痺れる。冬の朝のような、例の、冷たい香りがする。
チェコにこの香水を送った女は、今どこで何をしているのだろう。
猫の気まぐれに付き合って、捨てられた女は。
「キスするけどいい?」
鼻先で、猫科の男は許可を求めた。
「駄目」
駄目に決まってる。
「なんで」
「駄目だから」
「きもい?」
「きもくはないけど変、っていうか、ん、きもいか?」
「きもいのかよ」
「難しいな」
「どっち?」
少し顔を離して、間近で見つめられる。
チェコは無表情に、黒い目で、リオネを観察して来ている。
リオネの次の動きを待っている。
猫のよう。獲物をじっと、夢中で、眺めている。
「きもいっていうか、駄目?」
「俺は駄目なの?」
「は?」
俺は、の「は」とは。
他は良いのに俺は駄目、という意味だ。
そうか、そういうことか。
チェコはリオネの男色に触発されている。
ふらふらと何を考えているのかわからない男、チェコは、その実何も考えていない可能性がある。これまでもうすうす、チェコは単純なのかもしれないと感じていた。その確信を得た。
チェコは男色というものを、リオネを通して知った。
リオネがエリックに恋をする様や、ブルーノを買う様を見て、どういうものだろうと興味を抱いたのだ。
「リオネ……」
「っ」
つん、と唇に唇が当てられた。そのまま唇を舐められる。
どう反応しようかと迷っていたら、目の前に悪戯っぽい猫の微笑。
「駄目なのにしちゃったけど、怒る?」
呆れて、全身から力が抜けた。この男……。
「お」
喋ろうとして開いた口の中に、舌が差し込まれた。がっつりだな。
背に回された手が、ぎゅっと身を締め付けてきた。
深いキスを終えて、チェコは少し満足気にリオネを解放した。
「なんかスッキリした」
「あっそう」
「あっそうって」
「さっき言いかけたことだけど」
「ああ、何?」
怒らない?って質問に答えてやろうというんだぞ。
何、じゃないだろ。
「怒らないからお金貯めろ、ブルーノさん紹介してやるから」
「……」
す、チェコが寂しそうな顔をして、まずいことをした気分になる。
初心者にいきなり男娼はまずかったか。
「いや、冗談」
「うん」
チェコは、リオネにその道を求めている。
リオネが引き摺りこんだようなものだから、当り前かもしれないが。
このままではチェコと恋人同士のような関係になってしまうんじゃないか。チェコに限って、そんなことはない気がする。でも。
もしそんなことになったらエリックが喜ぶ。
リオネがエリックを諦めたと。
そんな場面嫌だ。泣いてしまう。
「俺は、抱くのしかできないよ?」
「だ、そんなことまで考えてねーから」
やってしまえば気が済むだろうかと提案したら一蹴された。
良かった、友人と肉体関係を結ばずに済みそうだ。
そうだろう、少し興味がある程度ではキスで満足だろう。
これでチェコの気まぐれも近々終わり、またエリックに甚振られる日々に戻る。憂鬱だ。
リオネに懐いてくるチェコ。
チェコの存在は、リオネを慰める。
気が付かなかった。チェコは、リオネを癒していた。
「おまえのこと好きだな」
チェコが呟くので、
「うん……、俺も」
答える。
「あ、変な意味じゃなくて」
慌てて付け足す。
「うん」
チェコの表情からは、気持ちが窺えない。
何を考えている?
*
結局授業の終わりまで高庭で過ごし、教室に戻るとエリックとカルロにダダが加わっていた。そして、リオネとチェコの追いかけっこについて二人から事情を聞き、にやにやした。
「リオネはもうチェコとくっつけよ」
何を言い出すのか。エリックの前で。
「デカブツ同士、お似合いだよ……顔の位置が近くて、キスしやすいんじゃない?」
エリックもにやにやしている。泣きそう。
カルロはチェコとリオネを交互に見て、にまっと笑った。
「そういや前にさー、リオネ、チェコのことかっこいいって、やたら褒めてたよな!」
「っ」
今、ばらすなよ。今。
「そー!チェコみたいな色気があればとか……」
「いや、まぁ、……言ってたけど他意はねーし!
何だよくっつけばって、俺が男で好きなのはエリックのみだし」
ばん、とエリックが机を叩く。
「白けた、話題変えよ」
「っ」
「チェコも照れちゃって顔赤いし」
振り返ると、本当に顔の赤いチェコが居た。
ぎょっとして、カルロの肩に捕まった。
「かっこいいとか、言われ慣れてないから」
チェコが言い訳し、ダダがけっと鼻を鳴らした。
「歴代彼女は言ってくれなかったの?」
すっかり吸い辛くなった空気に参りながら、リオネは質問した。
チェコは事実もてていたし、かっこいいという言葉が似合う。
友達の欲目かもしれないが、街中で「ああ、かっこいい人だ」と思えるぐらいには雰囲気がある。
「かっこいいとか、言われたことない」
「へー」
「猫っぽいって言われる」
「ぶっ」
思わず噴出して、鼻が出た。
確かに猫っぽい、とエリックが言う。
猫っぽいチェコの、猫っぽい仕草。
手に、すりっとチェコの手が寄って来た。
心臓が跳ねて、思わず避ける。
避けたのに寄って来る。どくどくと脈が。
少し意識してしまっている。当たり前だ。
高庭でいちゃついた後だ。
手の中に、紙が入れられた。
あ。
返してもらうことを忘れていた。
0:50 2011/12/08
『禁煙』(平凡×男娼、ぼんやりモテ男×平凡)
「はァ?!何時からだよ?!」
大学部と高等部を結ぶベンチの喫煙スペースで、ブルーノ・フランクは甲高く叫んだ。リオネが禁煙に成功したことに腹を立てての大声。
鼻に皺を寄せて、片眉を上げている。リオネにとってブルーノは兄の友人であり、怒りっぽいが優しい、優しいが不道徳な俗っぽい先輩。第二の兄だ。
「自制心あってごめん」
にやにやと謝ると、ますますブルーノは不愉快そうな顔をした。ブルーノは狐のようにつりあがった目とガリガリの体躯がマニア受けし、過去、売春でたいそうな稼ぎを誇ったという。リオネも何度かお世話になっている。
「何使ったんだよ?」
「何も、普通に我慢」
「聖人か」
学園の広大な敷地を埋めているのはほぼ緑で、高等部と大学部の間を走る森の中の小道は爽やか100%。ヒーヒーやらキィキィ、チー、ピーと鳴いている鳥の声は自然に溶け、耳に心地良い。
「禁煙いいよ?自由になれるよ?喫煙所チェックの日々とおさらばだよ?薬局行けば一粒0.1fぐらいの禁煙のクスリあるし、ブルーノさんもそろそろやめたら?」
提案してみると、元男娼は色素の薄い眉をくねらせ、唇を尖らした。
「煙草なくしたらヤクに流れる、俺の周辺のクズ具合舐めんな」
「……」
「ヤニ吸ってるから手ぇ出さないで済んでるみたいなとこあるからな」
ブルーノを含めた兄の友人、たまに使われていない自宅の倉庫に屯する面々の柄の悪さを思い出した。肩の力が抜ける。呆れを通り越して、人の世の儚さ的なものを感じた。どんな生き方でも、人は生きていけるのだ。
女の子を好きにならなきゃいけないとか、遅刻はしちゃいけないとか、サボっちゃいけないとか、テストでそこそこの点を取っておかないと、とか。自分で自分に課している『いけないこと』に縛られる生き方は果たして良い生き方なのか。
などと思考してみたが、実際はあまり縛られてもいなかった。ただ、縛られるべき、と思っている。縛られていない事に後ろめたさを感じる。
ブルーノや、その仲間たちのような、だらけて好き放題する生き方もあるのに。今を楽しむ生き方、というものが果たしてどこまで悪いものなのか。考えていたら、鳥の声が止んだ。一斉に止む時がたまにある。静けさは冷たい風になって頬を撫でた。
「長かったのになぁ、おまえに煙草の味を覚えさす道のり」
ブルーノは、真面目なリオネを不真面目な道に誘うのが好きだ。リオネは溜息を付き、ブルーノの頭を撫でた。短い髪の柔らかい手触り。毛の短い動物の頭のよう。そのまま頭の後ろ、首の裏、背中の始まりにそっと手を移動させた。
「ブルーノさんもさぁ、せっかく親御さんと再会して大学入れたんだから、法に触れるもの扱う仲間とはさぁ、そろそろ縁を切ったらどうかなあ、うちの兄貴みたいに……刑務所入りたいの?」
「ふ、やらしい触り方して説教してもなあ。どうしたお客さん欲求不満か?禁煙やめて偉いから10fで手ぇ打つぜ」
鳥がまたさえずりを開始して、急だったせいか五月蝿く感じる。悪いことは大体ブルーノから教わった。煙草とサボリとゲームの裏技、スピードの出る乗り物の運転。男色。
「前から思ってたけど、年下にお金で買われるの……何とも思わないの、ブルーノさんって、プライドとかないの?」
「は、おまえの金はおまえの親の金だろ、おまえが稼いだもんじゃねぇ。何とも思わないね。おまえから貰ってんじゃなくて、おまえの親から貰ってんだから……家庭教師代だな」
「なるほど、うちの親、教育熱心が過ぎるね」
小憎らしい第二の兄に、欲望が萎む。ブルーノから手を離し携帯を取り出す。どうしてもエリックと話をしたくなった。エリックの声は、煙草の煙に似ている。麻薬の方が近いかもしれない。
器機の向こうは、エリックを呼ぶ音。
明日登校するまで、17時間ある。今、声を聞けなかったら明日まで聞けない。出てくれ。出てくれるだけでいい。
『はい』
『エリック?』
『ん、何』
欲は簡単に膨れる。会えたら嬉しい。
『今暇?』
『暇じゃない』
『あ、そう』
『ごめんね、それじゃ』
『あ、待っ』
『何』
『なんでもない』
『じゃ』
くっくっくっくっく、と忍び笑うブルーノの足のスネを蹴る。
「痛ぇ!」
電話を切ると、ブルーノはスネを押さえ少し涙目になっていた。
「DVとか何時覚えたよ、そういう不健全な客は相手にしねーんだよ俺は、も、ぜって買われてやんねぇ!てめーなんざエリック・ヴェレノに飼い殺されてんのが似合いだわ」
容赦のない悪人の、頬をつねる。つねると間の抜けた幼い顔になるブルーノに再びその気になった。つねのをやめて唇に指を伸ばす。
「チェコじゃん」
指でなぞろうとした唇が動いて、湿った歯茎に触ってしまった。予期せず手についた唾液は気味が悪いもの。顔をしかめ、手を引っ込めた。
「どうも……」
チェコがブルーノに挨拶をしながらやって来た。横に並ぶと香水の薫り。
四代ぐらい前の彼女にプレゼントされ、なかなか無くならないらしい。
すっかりチェコと同化した香水は、冬の朝のような冷たい印象で鼻に届く。
「なんか今、二人とも変な空気だったような……?」
「あぁ、……スキンシップ、なぁリオネ」
「え、まぁ……」
チェコは何を考えているのかわからない顔で、じっとこちらを伺って来た。目が合ってもお構いなし。リオネが逸らすまで逸らさない神経。自分は一切、探らせない面を被りこちらの情報だけ攫おうとする。対抗して作り笑いをして、さっさと視線を逸らす。
「エリックが遊んでくれないんだよ」
一応、話を振って、輪に入れる。
男の友人であるエリック・ヴェレノを、リオネが性的な意味で好きだという事は、公表している。フィオーレは当主の一族が代々男色家だからか、フィオーレ領内にある学園内はそうした文化に寛容だ。
だから軽く、こうして愚痴が溢せる。愚痴らないとやっていられない辛い事、リオネの中で恋愛はそういうものに分類されてしまった。
エリックから解放されたら、二度とするものか。
「エリックはもう諦めろ」
チェコは勝手な命令を下した。
「諦めたいよ」
「女紹介する」
「……いらない」
「男の方がいいか?」
「エリックがいい」
「……」
「もうやめよう、この話」
チェコはエリックの話になると微妙にそわそわする。恐らく気持ち悪いのだろう。男にとって、男と男の関係ほど生理的な嫌悪を感じるものはない。危機意識だろうか。自分がどう思われるか、というところはどうでもいいけれど他人を不快にさせるのは忍びない。
「とか言って、また急に声が聞きたくなって電話しちゃうんだろ?リオネ君、一応忠告しておくと、鬼電は立派なストーカー行為だぜ」
しかしブルーノはリオネの意図を読まず、エリックの話を蒸し返した。チェコが嫌がっているのがどうしてわからないのか。チェコの思考はわかりにくいが、感情は案外わかりやすい。動物をあやす感覚に似ている。純粋な心で観察すれば、自ずと答えに触れられる。
「だから、その話はもう終わり」
苛々した声が出た。
「事前に約束をとりつけろよ、長くお喋りしてぇならさぁ」
リオネとチェコ二人が不快を訴えているのに、ブルーノは気が付かない構わない。
「……事前の約束とか、カルロやダダもついて来るじゃん」
「あー……」
ブルーノはマイペース。空を向いて適当な相槌。
「ついて来んなって言えば?」
チェコの助言に表情が強張る。
「言えたら苦労しねーよ」
両手で顔を包みしゃがむ。カルロとダダを煙たがったらエリックに嫌われる。二人にも悪い。ただでさえエリックエリックと四六時中唱えていて迷惑なのに。四人でいるのも楽しいのに。どうして二人きりになろうとするんだ。二人きりになったところで何が起こるんだ。
排他的な感情はかっこわるい。心狭い。……でも沸き起こる。
とにかく、どうにかしてエリックを独り占めしたい。そう思っている自分を軽蔑する。エリックが関わると苦しくなるばかりだ。
はぁ、と溜め息をついてしゃがむ。
「もぉ、ほんと、きっつい」
しゃがむと土が近くて、目の前を蟻が二匹通った。
「お~い、そんな落ち込むなよなァ、マジ思春期めんどいわ」
ブルーノが頭に手を置いてきて、我に帰り恥ずかしくなる。やってしまった。癇癪を起こして座り込んだ。困った奴すぎて目も当てられない。恐らく、耳が赤い。顔ももちろん赤い。
「なぁ元気出せよ、サービスすっから、な、可哀想な片思いファイター価格5f!まじ五歳分は値段下げたわ、この歳の男娼そんな安く抱けねーよ?しかもこんな上玉をさぁ?」
「うー」
唸ってぐずぐずする。ブルーノの甘い声が嬉しかった。
「おまえが余裕ねーと慌てるんだよ。なぁ、立て。悪かったよ、話蒸し返して。話題変えようとしてたのにな」
あー、やっぱわざと蒸し返したのか。見上げたやな奴だな。くそ。
「なぁ」
急にチェコの薫り。視線をやると、隣にしゃがんでいる。目と鼻の距離に、チェコの雄々しくて癖のある顔があった。
「うわっ?!わっ?!」
驚いてよろめき、二の腕を掴まれる。いや、この体勢で助けられるわけないだろ。一緒に転ぶと予感したが裏切られ、チェコの訓練で鍛えられた腕は一本だけの力で、ぐっとリオネの体重を支えた。
「おまえ俺にこないだ、友達の女と寝るの注意したよな」
「え?ああ」
支えてからの、突き放し。土に尻を擦って、何となく屈辱的。
「おまえが男買ってるってどういうことだよ、なんか腑に落ちねぇんだけど」
「はぁ?!あー、……あれは」
ヒリヒリとした空気。チェコが怒っている。表情には出ていないが、肌に伝わる。エリックと同じ、静かな怒り方だ。エリックは不快を示す時は派手だが、怒る時は静かで得体が知れない。その得体の知れなさに、リオネは心を乱される。感情を噴出すべき場面で、静かになる人間の内側に引かれる。
初めてチェコの顔をまじまじと見た。表情を読み取るため、感情の信号を受け取るため、情報を得るためだけに見てきた顔の細部に目を留める。少しだけ下がった眉の付け根が色っぽい。何か言いたそうに、うっすらと亀裂の入った口、唇は薄い。眼光は普段の十倍になって、瞬きのない眼球が揺れていた。数秒じっとりと見詰め合って、やっとチェコが沈黙を破った。
「何か言え」
促され、ああと口を動かす。
「えっと、俺は、何つーか……、おまえの相手……ライプニッツさんだろ、あのコ、おまえのこと好きじゃん。そういうさ、どっちかが片思いの状態で、っていうのは、なんか理不尽っつーか。俺とブルーノさんの間には何もないけど、おまえとライプニッツさんの間には、ライプニッツさんの心があるじゃん、何か、その状態よくないと思うんだよ、不平等なんだよ」
「え?俺リオネ好きだけど?」
ふいにブルーノが笑い混じりに主張しだして、場がさらにこんがらがる。チェコの顔がかつて見たことのない程、驚きで歪んだ。額に一斉に浮かんだ汗が、ぷつ、と落ちた。何をそんなに動揺しているのか。
「リオネはぁ、ふふ、気づいてなかったみてーだけどぉ?俺リオネ愛してたんだわ実は、なぁ、大変だなー!俺等の間にも何かあったなー?理不尽だなー?!」
楽しげなブルーノの前、チェコは土に膝をついてぐったりしている。
「あの、ブルーノさん……、ヘテロの友達が非常に深刻なダメージ受けてるからこれぐらいで……」
「だってよ、おまえの倫理よくわかんねー、愛のないセックスはアリで愛のあるセックスはナシか」
「そこら辺はほんと微妙なんだけど、ライプニッツさんに勝手に自分重ねちゃって……もしエリックが男で俺が女だったら絶対俺エリックに好きにさせちゃってる、とか」
「もし、つかエリック・ヴェレノは男な」
「あ、そうだった!いやでも、ほんと……片思いファイターは辛いばっかなんで……肉弾戦くらって瀕死になってるかもしんない同胞のことは助けたいと思うっていうか」
「肉・弾・戦!!!」
ブルーノが叫んで、爆笑した。
こうなってしまっては、もう何を言っても笑われるだろう。黙るしかない。高等部と大学部の中間にある森のなか、ブルーノの笑い声が木々に染み込んでいった。
リオネの父親はヴィンチの古い企業で働き、母親は自転車屋を営んでいた。赤字続きの自転車屋が黒字を出すようになったのは、貸自転車を始めてから。兄の提案だった。
店と連結した家で母子が暮らし、父は週末に帰る。
「ただいまー」
ラジオの音と小物、工具。植物に溢れた店の中、雑誌を膝に置いて紅茶を飲む母親が埋もれていた。
「おかえり、あ、フランク君こんにちわ」
「どうも」
貴族達の保有する歴史ある館がまとまっているこの土地には、年に150万人超の観光客が訪れる。中央駅から降りてすぐに始まる商店街の外れ、シュトール家の営む自転車屋は、地元の人間が買ってくれる自転車で二割、その修理でもう二割、観光客への自転車の貸し出しで六割の売りを作っていた。
自転車屋というより、貸し自転車屋として機能しているといっても過言ではない。
「あのぉ、貸し自転車って……」
観光客らしい、女の子二人連れが店を覗いた。
「あらいらっしゃい、造花がついてる奴が貸し用だから、好きなの選んで」
「造花?あ、可愛い!」
「あれ乗り心地良さそう!」
女の子が壁の高い位置に掛けてある黄緑を指差す。リオネは慎重にそれを壁から外し、女の子の横に置いた。
「あ、ありがとうございますぅ~」
少し甘えた声で礼を言われたので、お返しにニッコリ営業スマイルを送った。
「これうちの息子、良かったらコイツも借りてやってー、彼女募集中なのよー」
「えぇ?!」
「わぁ~!モテそうなのに~!」
「LINE教えて貰えば」
「ちょっとやめて~!」
女の子達の楽しそうな悲鳴に、少し誇らしくなってブルーノを見た。ブルーノは母親が紅茶の脇に置いていた菓子の瓶からマカロンを取り出していた。
「母さん、おやつ取られてるよ」
「やだ!フランク君の馬鹿!いつもあたしの楽しみ奪ってぇ!」
「ロゼさんダイエット中だろ」
「したほうがいいのはわかってるけどぉ!!あっ、あっ、ちょっとぉ、駄目!クランベリー味はっ……!駄目よぉお!」
母親の悲鳴の中、堂々と紅色のマカロンを口に運ぶ。そして薄茶のものを一つ手に持って、勝手知ったる店の奥に進んでいく。
「フランク君!!!」
「ごちそうさまでーす」
母さんごめん。明日マカロンをお土産に買って帰るからね。リオネは胸を痛めながら、ブルーノの後に続いた。
ブルーノは、リオネが見知っている人間の誰にも媚びない。媚びているところを見ない。ということを指摘すると、人を見てるだけだと言う。媚びるべき相手には媚びる、と臆面もなく言う。
うちの母親は媚びるべき相手じゃないのか。
親を馬鹿にされたようで悲しかったが、怒ったところでブルーノは変わらない。
「ロゼさんイイなぁ、癒されるわ相変わらず」
先を行くブルーノの軽口に、複雑な心境。
「寝ないでね」
「馬鹿」
ブルーノは女にも身体を売る。
「まぁ、母さんブルーノさんのこと嫌いだから、たぶん大丈夫だと思うけど」
「弱ったな~、女の嫌いは好きってことだ」
振り返ったブルーノの顔には、小憎たらしい笑みが貼り付いていた。
家の敷地内、店の裏にある新しい倉庫に対し、昔使われていたきりの古い倉庫は森の中。子どもの頃は秘密基地に使っていたが、今は兄の遊び小屋と貸し、兄弟暗黙の了解で使われる連れ込み所に変化を遂げていた。敷物が三枚とウェットティッシュや液体瓶。他、必要なものがさりげなく揃えられている。
時計を見ると17:30だった。エリック、カルロ、ダダ、チェコと揃ってゲーム大会の約束があった。秘蔵のAV公開もある。色々悩んで、兄のコレクションからえげつないゲイものを持って行くことにした。リオネ秘蔵の男女ものは、女優が全てエリックに似ている。
「っ……、っん、は……ん、ン」
ブルーノは元プロで、穴の準備を自分で整える。閉じられた腿の間に挟まった細い手首が、生き物のようにぬるぬると動いてブルーノ自身の穴を慣らしていた。
「俺、やるよ」
指を二本穴に入れて、くちくちと水音を鳴らす手。動く手の中央、盛り上がっている骨にキスをする。
「やらせて下さいだろ?」
「やらせて下さい」
「でもなぁ、自分でやんねーと逆にこう、具合がなぁ……?」
ぶちぶちとぼやくブルーノの手を、穴から抜いて、良く液体で濡らした自分の指を代わりに穴の中にそっと入れる。最初の頃に、遠慮と恐れでゆっくり進めて遅いと殴られた。次に勇気を出して早く進めたら、その場では高い声を上げて善がってもらえたが、後になってペースを崩されたと怒られた。
「おっせぇ……」
耳元で呟かれ、困る。
「ペース崩していいの?」
「いー、早く」
許しが出たので、中指を全て埋めた。
「っぁ……あ……!」
ブルーノは湿った嬌声をもらし、リオネの背に爪を立てた。
「ん、その辺りで、ひろげろ……っ」
指示に従い、二本入れていた指を広げる。
「フぁ……、ンう」
尊大な態度で、歯に絹を着せない。俺様兄貴のブルーノが、弱そうな声で呻く。互いの、はぁ、はぁ、と余裕のない息遣いが興奮に繋がる。
「曲げて……?」
命令が、懇願に。
快楽信号が腰に響き、下半身が出来上がった。指を曲げる。
「は、……ん!ぃあ、……アッ」
トタトタ、と落ちて来たブルーノの精液が熱くて可愛らしい。釣り目を閉じて、眉間に皺を寄せ、放出の余韻に浸る顔を眺める。
「入れていい?」
「まだ」
「……まだ?」
「持ち物の体積ぐらい把握しとけ」
リオネのものを入れるには、解し足りないらしい。ブルーノは舌打って、さっさと自分の手で解しに掛かってしまった。
「駄目だ、やっぱ勝手が違うわ」
不機嫌そうな横顔にキスをすると頬を抑えられて、牽制された。
「気が散る」
「……はい」
ブルーノの容赦ない言いぐさにエリックが被る。エリックも言いそうだ。ブルーノとエリックは、神経の図太さが似ている。
似ているから、リオネはブルーノを買ってしまう。
ブルーノの誘惑に負けてしまう。
「リオネ」
名を呼ばれて、準備が整った体に近づく。ブルーノは指で穴を広げ、入れやすいようにしてくれていた。
「失礼します」
思わず敬語。
「んぁ……っ」
ブルーノの高い声。
「ぁぁ、う……っかふ、……ァっ」
ブルーノの喘ぎはいつも掠れて苦しそうだった。ぬいぬいと迫ってくる逆排泄に、いやいやをして目元に涙をためる。玄人の癖に、悲愴感を漂わせて抱かれる歳上の男を、労るよう抱き締めると抱き締めかえされる。
「ぁん、……っく、ゥ」
太いものを細い管に、慎重に挿し込んでいく。
「っはあ、はぁ、ぁ、ぁ、ふッ」
途中まで来たところで、止めて互いに休む。
「やっぱ男は楽で気持ちいいわ」
ブルーノが白けたことを言うので眉を下げる。
「そんなこと言ってると激しく動くよ」
「駄目、無理、腰辛くなるだろ、健康的に行こうぜ、この後チノとデートなんだよ、よろよろじゃかっこつかねーから」
「かっことか……つけるキャラだっけ」
「惚れてる相手にはつける、あんまついた試しねーけど」
「ていうかさ、かっこって、どうやってつけるの?」
「適当に、おすまし顔してりゃつくと思ってってけど?エリック・ヴェレノに通じるかは謎だな?……」
「んんんーっ」
「……まぁまぁ、出すもん出して元気出せ」
会話を打ち切り、行為に集中。少し乱暴に抜き差しすると、息と嬌声の二つを荒げ、ブルーノは乱れた。汗の滴る細い身体が熱を持ってくねる。
「ブルーノさん、えろい」
「えろくなきゃ困んだよ」
首の後ろに腕を回され、重さに安心する。ブルーノは今、年下の可愛らしい男の子に夢中だった。可愛らしいといっても、それは外見だけの話で、中身は底意地の悪い我侭な坊ちゃまだ。一度だけ会ったことがあるが、もう二度と会いたくないと思えるぐらいには、嫌な少年だった。
「じゃぁな」
ブルーノの声に見送られ、先に来た電車に乗り込む。
「リオネ」
名を飛ばれて振り返ると、チェコが座席に座っていた。
「うわ、偶然」
「この時間は本数、少ないから」
階段近くの車両に、人は集中する。この列車に乗ると丁度良く待ち合わせの時間に着くので、当然の鉢合わせだった。
「せめて15分おきになってくれればいいのにな」
「私鉄使えば5分おきになるじゃん」
「私鉄は高ぇ」
「チェコって意外とケチだよね」
「倹約家なんだ」
まばらな乗客数。夕方のノボリ列車。チェコの隣に腰掛け、携帯を開く。グループLINEを開くと、カルロとエリックが既に楽しげな会話を繰り広げていた。遊びの集まりに合流する前の、はしゃいだ様子が微笑ましい。
「リオネ、携帯好きだよな」
「は……?……ああ、まぁ」
リオネをじっと見つめながら、チェコは例の怪しげな魅力のある顔に、にやりと色気のある笑みを浮かべた。そして、長く節ばった手をかこかこと動かしてチェコとリオネ二人のトーク上に『俺も携帯好き』と告白してきた。
『なんで』
『内緒話ができる』
『あー、それは確かに、……あっ、AV何系持ってきた?笑』
『普通の、……リオネは?』
『おい、そこはちゃんと答えろよ、……俺は兄貴の拝借してきた!素人ものだから、最初ちょっとえぐいやつ』
『え、それ大丈夫?合法?』
『うん、演じてるの童顔のベテラン』
『うわー……、萎えるー』
『おい』
LINEのトークを見ながら、クスクスと笑い合う。
『そーいや、あれ、さっきの狐顔の先輩とさ?リオネってマジでガチな関係なん?』
『んー?ガチっていうのは、付き合ってるかどうかっていう?』
『いや、それは違うってわかるんだけど……』
『ヤってるかどうか?』
『そのあたり』
『内緒』
「おい」
「だっておまえ、気持ち悪いって顔すんじゃん?」
「そんな顔したことないけど」
「いやいや、してます!そんな顔してます!しょっちゅうしてます!こんな感じ、こう、眉間に皺を寄せて!」
顔面を作ってみせると、チェコはやっと思い当たったようで渋い表情になった。
「それはエリックがお前に当たり強くてウゼェってなってるだけ」
「ん?」
「……俺、エリックよりリオネの方が好きだし」
好きだし、と発言する声が妙に清んでいて照れてしまう。いつの間にか目的地に到着していた。
駅にはカルロとダダが、手を振って待ち構えていた。
近づくと吸い込まれそうになる存在。
金の細い髪がさらさらと額を出したり隠したり。その滑らかな頬のラインに手を当てられるなら何でもする。静かな海の泡波のような優雅さで、睫がぱさりと鳴った。
「リオネ邪魔」
通路の反対側から来たエリックに見惚れて立ち止まっていたところ。エリックの苛立ちで正気にかえった。壁に張り付いて道を開ける。
エリックの家で、徹夜のゲーム大会が開催されていた。リオネは兄の影響で日常的にゲームをするので、集まった面子の中では強い方。エリックはどんな技を使っているのかわからない程、強い方。それでいて普段は全くゲームなどしないというのだから憎い。
エリックとリオネがずば抜けて強い中、カルロ、ダダ、チェコのレベルは平行していて、チェコが少しゲーム慣れし腕を上げてきた所だった。
「出かけるの?」
玄関に向かうエリックの後ろ姿に声を掛けた。手洗いに立った帰り。リオネがリビングに戻る道を進んでいたら、エリックがリビングからやってきてリオネの正面を塞いだ。
「うん、トイレットペーパーを買いに」
「大事だね」
「リオネがトイレ行ったので思い出したんだ。良かったよ、大の方じゃなかったみたいで」
「えー?やめてよ、聞いてたの?」
ふざけて茶化すと、エリックは笑った。
「勢いありすぎじゃない?大音響で家揺れてたよ、うち壊れるかと思った」
笑みで綺麗な弧を描いた唇が柔らかそうだ。目元から楽しそうなエリックの表情がリオネを喜ばせた。なんでもない会話をしているだけで満たされる。リビングに目をやると、三人はゲームに夢中だった。チェコがこちらに気が付いて、チェコの持ちキャラが画面の中で死んだ。
「ちょっと出て来るね」
三人に向かい、声を掛ける。
「え、リオネついて来るの」
エリックが玄関から声を上げた。
「駄目?」
「……駄目」
「なんで?」
「からかわれるだろ?」
エリックの目線が、チラリとリビングをなめる。カルロ、ダダ、チェコが揃ってこちらを向いていた。
「ホテル寄って遅くなるなよー」
ダダが薄笑いを浮かべて冗談を投げてきた。
「リオネいっけー、キスぐらい許してくれるって」
カルロが当然、乗っかって来る。二人のテンションは、ゲームで大分高められていた。
「手繋ぎ縛りで行って来いよ、手ぇ離したら罰ゲームで」
「それいいじゃん!」
グループ公認の片恋が冷やかされる。恐らく何も起こらないだろうお使いの道に夢が広がる。エリックと手を繋げる妄想で照れていたらチェコが立ち上がった。
「俺もゲーム飽きたから、行こうかな」
「ばっ?!馬鹿ぁー!チェコ!こら!」
「空気読めチェコ!」
ダダとカルロが、チェコの足に纏わりつく。
「あ、じゃぁ行って来る」
「おい」
チェコを振り切るよう玄関に向かう。エリックが居ない。しまった!置いて行かれた!しかしめげない。
慌てて靴を履いて走って追いかける。エリックの家がある草原の長屋は、丘に挟まれた谷の道を通らなければ繁華街に着かない。谷は一本道だ。全力疾走。
なかなか追いつかない。
不安になって、速度を上げる。心臓がバクバクと音を立てている。耳に風の唸り声。早く並びたい。一秒でも長く一緒に歩きたいのに……。恐らく前を行くエリックも走っている。リオネに並ばれないよう、きっと全速力で。
エリックはリオネの想いを拒否している。
いっそ存在を嫌ってもらえれば楽なのに、エリックはリオネを友として好いていた。それがリオネを狂わせる。もしかしたら、が消えない。
目の前には24時間営業の雑貨屋兼、ディスカウントストアがもう現われていた。
目的地だ。ああ、片道を潰されてしまった。出入り口で待っていたら、会えるだろうか。出入り口は三方向にある。上手く避けられて、帰り道さえ一緒に歩いてもらえないかもしれない。リオネがついてこようとしているのをわかっていて置いて行き、あまつさえ走って追いつけないようにする男だ。
不安に駆られて店内に入り、エリックを探した。
まっすぐトイレットペーパーコーナーへ。いない。
頭が真っ白になって、エリックという人物が幻のように感じた。リオネの空想した美しい妖精だったんじゃないか。
頭がふわふわした状態のままレジを見る。脳内には、はっきりとイメージされている可憐な立ち姿は、果たしてどこにもいなかった。
撒かれた……。
少し泣きそうになりながら薬局の広い店内を見回す。いない。LINEとメールと電話で攻撃してみたが、無反応だった。
そこで、出入り口前の柱に背を持たせ掛けて、沈んだ心を慰めるため明るい妄想を展開させた。待っているリオネに気づいたエリックは、まず顔を顰めて、やっぱり追って来たと呟くだろう。それから、……キスはしないよ、と冗談を言って。
手を繋ごうとしたら、それもなしとこちらの手を叩く。悪戯っぽい呆れ半分の微笑。想像して胸が熱くなった。
夜を照らす店の明かりは、夜に向かうエリックの後ろ姿を……その白く細い首を不健全に照らすだろう。あの女めいた男の独特の骨格。色気を放つ背を、腰を、うっすらと闇の中に浮かび上がらせるだろう。そんな幻想のような後姿を晒しながら、手にはトイレットペーパーが握られているのだ。
生活用品を手に持ったエリックと並んで家に向かうなんて。同棲気分だろうな。妄想の中の自分が、ひたすら羨ましい。
ふとして、エリックからはどのように見えるのかが気になって店のガラスに反射した自分を見た。走ったせいで、前髪が少し真ん中で開いて脇に寄っていた。お坊ちゃんぽい。慌てて無造作に直す。汗で一部が額に張り付いていて気持ち悪い。
髪を直したら今度は顔つき。優しそうと言われることが多い。優しそうとは気弱そうと同意語だ。ぐっと口を結ぶ。ましになったろうか。うん、全然駄目だ。心境のせいかいつもより不安気で、幸が薄そうな様子。
無害な顔の造りをしているから、それなりに身長があるにも関わらず、ほうっておくとすぐ情けない雰囲気の男になってしまう。
格好って、どうやってつけるんだ。チェコのようにドッシリした、妙なオーラが出ている落ち着いた男に憧れる。余裕のある立ち居振る舞い、
ぶれない意志。発言力。分別がありそうで、寄りかかりたくなるような。そんな男。
時計を見ると30分経っていた。
完全に、避けられて先に帰られた。
追いかけたけど入れ違っちゃったよ、と帰ったら笑いながら言わないと、相当に可哀想と思われてしまう。入り口で30分も待っちゃったと続けて、おどけてみせなければ。
30分?!まじで!と悪気のないカルロに突っ込まれて、むなしさに襲われるんだろうな。だせー、とダダが軽口を叩くだろう。エリックには気持ち悪がられ、チェコには軽蔑されるかもしれない。胃がグスグスと痛み出した。
エリックと並んで歩きたかったな。
綺麗な横顔をチラチラ見たり、荷物を持つと言って、馬鹿にしないでと叱られたかった。冗談を言って、笑いあいながら二人きりの空気を吸いたかった。辛いのはエリックが、そんなリオネの願いが叶わないよう努力した点だ。
じわりと、涙が出て恥ずかしくなる。180を越えた体格もそこそこの男が、避けられたぐらいで泣くな。置いて行かれた時点で悟れ。嫌がられていたのに追いかけて撒かれて、泣いていたのでは本当にもう。俺って奴は。
鼻を啜り、手で目を擦る。上を向いて両手で顔を覆い、気持ちを静める。うわぁ。情けねーぇぇ。頼むから涙とか鼻水とか顔の赤みとか、キッチリ引っ込んでくれよ。引っ込まなかったら失踪しよう。このまま家帰ろう。ちょっと急用で家呼ばれて、とか色々ワケは作れる。
10分。薬局のトイレで顔を見ると目が赤い。ちょっとホントにどうしよう。前から涙腺は緩いほうだけど。こんな些細なことで泣いたのとか絶対バレたくない。
芳香剤の匂いが鼻を刺激して、また鼻水。
携帯が鳴った。チェコから。
『はい』
鼻声が出て、ぎょっとして咳き込む。
『迷子?』
『なんねーよ』
『遅いから』
『風邪引いて』
『ん、よくわかんない、早く帰って来いよ』
『寒い』
こうなったら、風邪で早引け作戦だ。
『どこ居るんだ?』
『薬局』
『動けないぐらいだるいの?』
『えーっと、うん、だったけど、ちょっとよくなったから、もう帰るわ』
『あとちょい待ってて、荷物持ってってやるから、俺も帰るわ、送る』
『いやいいよ、ポケット財布入れっぱで来たからこのまま帰れる、荷物は今度取り来るし、そっちまだゲームしてんの?』
『おまえがいないとつまんねぇ』
『ふ、ありがと、じゃぁチェコはチェコでうまく抜けて、俺はこのまま消えるからさ、伝えといて』
『誰に』
『エリックに』
『帰ってねぇぞ』
『え?!』
奇跡のようなタイミング、トイレに備え付けられた扉型の戸がバンッと勢い良く開き、エリックが登場した。
『え?あれ?!エリック居た!!』
『状況がよくわかんねぇ』
『ご、ごめん、また掛ける』
気が動転して、声が震えた。
通話を切ると、トイレの中には戸の揺れるワンワンとした振動音のみ残った。
「先に帰るのは可哀想かなって思って、おまえが帰るの待ってたの、30分も粘るんじゃないよ馬鹿」
苛ついている一方で艶やかな、暖かい声が耳を一杯にした。 エリックは目を細め、一瞬だけ笑った。そしてくるりと踵を返した。あっという間にディスカウントストアの出口を通過したエリックに、慌てて追いつく。リオネは半ば無意識に、いつも冷たくて細くて滑らかなエリックの美しい手を掴んだ。迷子が親の手を二度と離すものかと握るような強さで、手の感触を確かめた。
ふいに目の下に手を当てられて、何かと思ったら近距離に芸術的な美貌。
「泣かせてごめんね」
首を傾げて、微笑を浮かべながら何て台詞を。肺の中にすぅっと煙の入ってくる心地を思い出す。エリックという存在によって酷使されてきた心臓は、今まさに壊れるのではないかと心配になる速さで鳴っていた。
「手の力強いよ、指痛い」
「エリック逃げるもん」
「逃げないよ」
「好きです」
「うん……ありがとう」
「まだ好きでいいですか?」
「駄目です、他当たって?」
はっきりした返事に、鈍く頷く。エリックは苦々しい表情で、真っ直ぐリオネを見上げていた。
リオネ自身だけでなくエリックも苦しめるこの気持ちを、一刻も早く断たなければ……。
2016/2/24
『無味無臭』(ぼんやりモテ男×平凡)
フィオーレ所有の岩山の切れ間を風がビュウビュウと走り抜けていた。
どこもかしこも泥と灰の色をした走行訓練場。夜間訓練のラストは、ここを終着点にする走行訓練といつも決まっていた。岩肌にはり付いて乱れた呼吸に振り回されている者、帰り支度を始める者、闘技場に個人的な練習をしにいこうと約束を取り付けている者。
チェコ・トルーニは兵士らしい巨大な身を岩肌に立たせ、風にいじられている癖のある猫毛をゴツゴツとした手で押さえた。眠そう、と人から指摘されがちな目を細め星空を見上げる。
ふとして、ある友人の顔が浮かんだ。
中等部で同じクラスに居て、学力の近さから仲良くなった。学園は学力別にクラスを編制するので、テストの点が近ければ近い程、教室移動などで顔見知りになる。
高等部は案の定同じクラスになった。学園からクラス名簿を含む案内書類をもらいに行った時、名簿の中に名前を見つけて、嬉しくてその帰り自転車を早漕ぎして事故に遭いかけた。
リオネ・シュトールという男は、薄茶の髪と目が柔らかな印象をつくる、好青年と言えば好青年かもしれない。癖の無い性格と顔で文武の力量も中の上、人に不快さを感じさせる要素はゼロだが、ある人間がある人間に感じる近さだとか気が合うだとか、気になるだとかの属性というか、磁石力、その者にとっての「誰か」を引き寄せる力が弱い。個性の欠如と断言してしまうと乱暴な、無難という言葉があまりにも似合う、無味無臭の男なのだ。
だから誰とでも仲が良い一方で、特別な誰か……一番仲が良いという人間が出来ない。無味無臭の空気みたいな奴だ。チェコは、このリオネの一番仲の良い人間にあわよくば自分がなれないかと思っていた。
そう思いながら、チェコは中学時代リオネを同グループの遠くから眺めていた。チェコは彼女と二人の行動が多い上、同性にあまり好かれるタイプではなかった。チェコにとってリオネは盾のような存在で、リオネを通じて、男社会と繋がっていた。
普段付き合いが悪いくせに、気になる集まりにはリオネが親友を作らない所につけこんで、リオネの親友のふりをして参加した。人の良いリオネはチェコにグループのイロハを一々教えながらチェコがその集まりで楽しめるよう世話をやいてくれた。
色欲の強いチェコにとって、男の付き合い程、面倒なものはない。しかしたまに男同士の冗談が飛び交う明るい場所に存在したくなることがある。
「どうした?ぼんやり突っ立って?」
ふいに声を掛けられて、振り向くとゴドー・ジェキンスが居た。将来の上司だが今は歳の近い先輩。
ゴドーは黒い髪と黒い目を持つ肩のしっかりした大男で、いつもこの人には絶対に適わないと思わせる人間的な巨大さがあり、後輩の尊敬を集めていた。
「帰らないのか?」
見るとあたりには、もう誰も残っていなかった。ゴドーはチェコの、よく「何を考えているのかわからない」と言われる顔を見て首を傾げた。
何を考えているのかわからなかったのだろう。
「何か、あるのか?」
大雑把な質問に、対する答えはイエス。何かある。自分でも良くわからないもやもやがある。
「エリック・ヴェレノは、結局、リオネをどうしたいんでしょう?」
「さぁ、……あいつの考えてる事は、俺にはわからん」
「リオネが……可哀想です」
「……そうだな、あいつもエリックに相当やられてるからな」
平凡を地で行くリオネ・シュトール……チェコの大好きな優しい友は現在エリック・ヴェレノという、美貌の男に惑わされていた。
はぁ、と溜息をひとつ。
寂しいのだな、と自覚した。リオネをエリックに取られてしまった。エリックにやたらと反感を覚えるのはそのためか。
「エリックが嫌いなのか?」
「や、嫌いというか……前にも話しましたけどリオネが可哀想で」
「あぁ……」
「ほら、エリック・ヴェレノにはもう……ゴドーさんっていう立派な相手がいるじゃないっすか、それなのにあいつ尽くしちゃってるっつぅか。
あんま、気ぃ合ってないのにエリック周辺でなんかごちゃごちゃ、こないだも、う、うんこの落書き見せて来たんすよね……うんことか喜ぶタイプじゃなかったのに……なんか、……そういうの、なんかモアーッとしちゃって。……エリック周辺の、カルロとかダダとかあそこらへんの笑い、あいつとはちょっと違うんですよ。面白いけど、それはあいつらだから面白いんであって俺等はもっと……もっと静かだし、なんか……あんなの違うっつーか。俺と喋ってる時は……あ、まだ結構あいつ普通に俺のとこ来るんですよね、やっぱあいつらのとこだと疲れるみたいで……、で、やっぱ俺と居る時はもっとこう素なんすよ、だるいのをだるいまんまにしとくみたいな、無理にアホなこと言ったりしねーし、うんことか落書きしてみせたりしないんすよ。それが俺等なんすよ」
「でも見せてきたんだろ」
「……見せてきました……、しかもその後言ったんです「うんこ」って、……笑っちゃったんすけど、笑った後こうモアーッて、何だ今の、って、……何か、……らしくねーなって、もう……こう、モヤモヤして、うぜーんすよ」
ゴドーは下を向きながら、耳だけこちらに傾けていた。腹の中にあったものをいざ吐き出してみると、恥ずかしいぐらいリオネへの執着が言葉の端々に現れていて呆れた。
「うんこ」
ゴドーが呟いて、地面を見るとうんこが描かれていた。
「っ」
思わず噴出して口を抑える。
「おまえも好きじゃねーか」
「男は大概好きだと思います」
「俺は普通だな」
「俺も普通ですけど」
「……乱入したらどうだ」
「は?」
「カルロ君やダダ君が反対してもリオネは受け入れてくれるんじゃないか、リオネと一緒に居たいなら、おまえもあのグループに入れば良い」
「……邪魔じゃないすか」
「邪魔?」
「あいつは、ほら、エリック・ヴェレノに近づきたいわけだから」
「おまえ、さっき自分で言ったこと忘れたのか?エリックには俺が居るからリオネは脈のない相手に尽くしてるって、それが可哀想なんだろ?だったら止めてやれ」
「……ああ」
「俺のためにも」
「なるほど」
「リオネは好青年だからな」
「確かに、あいつと女取り合うのは嫌っすね」
「女じゃないが」
「尚更タチ悪いっすよ、あいつ同性ウケいいから」
「近頃学校の話をやたら楽しそうにするから心配だったんだ、楽しいのはいいが、楽しそうすぎると不安になる」
「ゴドーさんも根回しとかするんすね」
「するつもりじゃなかったが、せっかくだからな……まぁ、何だ、頼んだ」
「頼まれました」
ゴドーの頼みなら、とチェコの心は踊った。理由があれば動きやすい。
翌日の教室で、エリックグループは静かだった。金髪碧眼、美貌のエリック・ヴェレノを囲むのは陽気なそばかす男カルロ、毒舌太っちょのダダ、平凡な好青年リオネ。みんな揃って沈黙している。
チェコがリオネに声を掛けて、グループに一瞬入って来るのはいつものことなのだが出て行かない。
カルロがチェコに遠慮をして喋らず、ダダが苛々しエリックがリオネをちらちらする。
「チェコ?」
リオネに全てが託された。リオネがチェコに伺いを立ててきた。ここが正念場だ。
「仲間……入れて」
「……ん?」
「はぁ?!」
ダダが大声を出し、カルロが盛大に困り顔を作った。
「何かお前ら、いつも面白そーにしてるじゃん、彼女と別れてから孤独でさ」
「チェコも孤独とか感じんだ」
カルロの声はどこか上滑り。
「リオネも居るし」
「じゃリオネと二人で居ろよ、俺おまえ苦手なんだよ」
「克服して」
ダダの主張に、緩く噛み付く。
「俺、チェコ居てもいいよ」
まさかのエリックの助け舟。カルロがダダを伺った。カルロの顔は困り顔から、好奇心に輝く顔になっていた。
「まじかよ」
ダダがうんざり声を出し、チェコはこの闘いの勝利を確信した。
「ダダはさ、エリックの時も結構あからさまに嫌いとか言ってたんだよな、でもカルロがエリックかまってる間になんだかんだほだされてったから、おまえもカルロと仲良くしてたらいんじゃないのかな、ていうか、寂しいなら、しばらく俺一緒いようか」
昼休み、購買に向かう廊下でリオネは相変わらずの優しさを発揮してきた。
「チェコはさ、どうせまた彼女できて付き合い悪くなると思うし、そうなったらこっちが寂しい感じになるだろ、俺そういう空気苦手で……ってか、エリックがおまえに影響されて彼女作ろうとか考えたら厄介だし!なんて腹黒いこと考えてたりもするんだけど、どう?」
「や、それは、セフレ作ったからたぶんしばらく、大丈夫」
「……えー?」
「俺が彼女つくんの性欲でだし、これからは友情優先でやってく気だから、……おまえと一緒にいたい」
「え、ってか、セフレって誰?!あの、もしかして?!」
「わかるだろ」
過去に3回、告白を受けていたが面倒くさそうな性格が嫌いで断っていた女友達の顔を、リオネと一緒に思い浮かべる。リオネはチェコの事を何でも知っている。
「わかるけど、それどうなんだよ?!俺そういうの微妙かも!なんか好きじゃねぇわ」
「おまえほんと好青年な」
昼の廊下は賑やかで明るい。軽口のつもりでだった言葉に、リオネは返事をしなかった。黙ってしまったリオネの心が怖い。嫌われたのだろうか……。その考えにヒヤリと足の裏が冷えて、地面から浮いたような心地になった。
買い物を済ませてもまだ無言のままの帰り道。こんなに嫌われることに怯えたのは初めてだ。
「ごめん」
食堂と校舎の渡り路、コンクリートの日陰道。渡り路を囲む木々が音を吸い込むのか人通りの割に静かな道で、咄嗟に謝った。
「あの、なんか俺、悪かったよな?ちょっと不真面目だったかも、なんか、言われて気づいた。やめるから、不真面目なこと、……」
気に入らないなら、なおすから。嫌いになったりしないで欲しい。
「いいよ別に、おまえの好きにしろよ」
「そういう突き放した言い方すんなよ」
「突き放した言い方?」
「なんか不安になるから」
前を向いていて、ふいにこちらを向いたリオネは笑っていた。
「チェコってさ、なんか俺に懐いてるけど、なんで?」
懐いてるなんて、思われていたのか。
「おまえに構われるのが心地よかったから、かな」
「俺、そんなにおまえに構ってたっけ」
「構ってたよ、構うなら責任持って永久に構えよ」
「リオネ」
ゴドーの声がして、チェコとリオネは自然と背筋を正した。
「お、チェコも一緒か。悪いけど今からバスケ部集合掛けてくれ、おまえ学年部長だろ?」
「はい」
「このメモの内容で連絡網」
「はい、あ、えっと」
買った昼食と財布と、ハンドタオルを手にしたリオネが慌てだしたのでハンドタオルと荷物を預かる。
「さんきゅ」
リオネは礼を言いながら、ゴドーからメモを受け取った。
「頼んだぞ」
ゴドーは素早く去っていき、リオネはメモを見つめた。
「先輩の字、相変わらずだな」
メモには、でかくて力強い文字が躍っていた。荷物は教室に着いてから返そう。考えた矢先に、リオネはやんわりと荷物の受け取りをしようとして手を伸ばしてきた。
「いや、いいよ教室で」
「や、悪いから」
メモを尻ポケットに突っ込んで、受け取り準備万端。
「はっくし」
妙なタイミングでクシャミが出た。鼻水もバッチリ出た。
「うわ鼻水、タオルだけ今度でいいわ、使えよ」
言われて、鼻にタオルを当てた。ほんのりと蜂蜜の薫りがした。
「ん?」
鼻を拭いてからリオネの肩を嗅いだ。同じにおい。
「なんか、蜂蜜?っぽいにおいしね?」
「うち、母親蜂蜜狂だから」
「無臭じゃなかったんだな、おまえ」
「え、くさい?」
「くさくはない」
無味でもないのかもしれないが、それは噛んでみないとわからない。
2016/2/22
『衆人環視』(隠れオネェ×気弱男子)
クドさんの首は太くて力強い。堅い骨の芯があって、少し熱い。馬乗りになって首を絞める体勢でそれを確認する。
「わかった、ありがとう」
背を叩かれクドさんから降りると、クドさんは空を蹴り起き上がって遠くを見た。
「どうですか?」
「感覚は掴んだ」
フィオーレ駅からバスで10分、駅前の簡易闘技場は夕方6時が混雑のタイミングで、僕たちの部屋を覗く人々の数からしてそれがわかる。皆、夜7時からのメイン試合を観に来たのだ。
試合前に身体をほぐすため、または試合のない闘技士の練習場として、闘技場の一角には透明な仕切りのある幾つかの調整室がある。その一室に今、二人の男が入っていて。一人は人気闘技士のクドさん。一人はその付き添い、高校三年生一般人、僕。
見学者にはクドさんの姿を見て足を止めた一般人と、ランキング上位者であるクドさんをわざわざ見に来ている他の闘技士達がいて、ガラス張りは人の顔で埋まっていた。
「やっぱクド格好良いわー」
「一緒にいる奴が子どもみてぇに見えるし」
「同じ男とは思えねーよな、俺等もクドの近く行ったらあんなんなっちゃうのかなー」
イメージトレーニングを終え、筋力維持のメニューをこなし始めたクドさんの傍、記録用の機器を手に突っ立っているだけの耳に嫌でもギャラリーの声が届く。
「アレ何だ、弟子か?」
アレ。
「あー、だとしたら、良く面倒見るよな、アレはヤバイ」
「どう頑張っても芽ぇ出ないぞ?あんなの」
あんなの。
「まさかの恋人だったりして」
「ゲイだもんなー、案外そうかもな」
そうです。
「理解できねぇー!」
「ゲイって筋肉が好きなんじゃねぇの?」
「知らねぇよ」
「あんなんがいいのかよ?」
そこで突然、メニューを止めたクドさんが話込んでいた二人の元、脚を進めた。仕切りの透明な板をコンコンと軽く叩く。軽口を叩いていた二人が青ざめた。皆の視線が集まり、緊張感が生まれた。
『恋人に文句を付けられるのは気分が悪い。やめてくれ』
注意され、二人は額に汗を浮かべた。
「すみません」
「聞こえてるとは思わなくて」
透明な壁の内と外はマイクとスピーカーで繋げられている。その場に居辛くなった二人が出て行くのを見ながら、僕は尻から腿に掛けて、軽くなったような感覚を味わった。弱者として生きて来た僕には理解できない流れ。嫌なもの、嫌な相手に追い立てられるのが日常。今のように、逆に相手が逃げて行くなんて。
「クドさん、そんな気を遣って頂かなくても……」
消えそうな声で、やってしまった自己卑下。本当はありがとうと。身が縮まる思いをしていた。庇ってくれたんだねクドさん、大好き。と言いたかった。クドさんは苦い笑みを浮かべ、メニューに戻った。
気を遣って頂かなくても、なんて。僕は庇われる程の者じゃないのに、というニュアンスだ。実際、そう思う。しかし、クドさんは僕を好いてくれているのだ。好きな人が自分に自信を持っていなかったら、その人を好きだと言っている自分は何なのか。そんな気持ちになるだろう。僕はクドさんを不愉快にしてしまったかもしれない。些細な事で、暗い気持ちになってしまう僕を、僕は大嫌いだ。
「センダック」
呼ばれて、顔を上げるとクドさんは笑っていた。
「もうおまえを苛める奴はいない、俯くな、顔を見ていたい」
「……」
ひゃぁぁあ、という声が周りで聞こえた。部屋の音が筒抜けになっていることを思い出した。クドさんのファンが身悶えていた。
「いいなぁ!俺もあんなん言われてぇ~!」
「なんでゲイなのよクドさぁんん!!」
男女混ざった歓声に、複雑な心境。クドさんはどこに居ても愛されている。クドさんが好きな人達から見て、僕は憎たらしい人攫いだ。クドさんを独り占めしてしまう仇だ。
「僕、もうここには来ないよ」
「……」
「皆がクドさんのこと好きすぎて、不安になっちゃうよ」
野次の飛ぶ覚悟で発言すると、ひゅぅー、と低い声で囃すような反応。ヒソヒソした息の中、静まり返ったギャラリーは何かを期待している。クドさんが困ったような顔をして動きを止め、僕を見ていた。嫌な予感がして数秒後、衆人環視の元、クドさんと僕はキスをしていた。正しくは、クドさんが僕にキスをしていた。
2016/2/20
隠れオネェ×気弱男子のとある日。
クドさんは最近ゲイをカミングアウトしました。
今回、クドさんのおねえ調が書けなくてしょんぼりです。
たぶん、キスの直前、
彼の心中は「やだちょっとまじ可愛いんだけどこの子、
どうしてくれんのよ、いいの?!やっちゃっていいの?!
もうやるわよ!引かれたってやるわよばああああ!」
だったと思います。
『カマ言葉で喋っていいか?』(隠れオネェ×気弱男子)
闘技には公式と一般がある。一般人が見られるのは一般人の娯楽として設けられた一般闘技のみで、公式闘技は有力一族や大企業の勢力誇示のため行われる。
これは闘技が、そもそもの目的を戦争としていたため。鎖国の際、近代兵器を排除したためこの国では内戦は基本的に肉弾戦となった。地域政治を行っている関係で、地域と地域、または地域と有力一族のぶつかり合いはしょっちゅう起こった。この時、互いの市街地や城に兵士を送り込むのに金が掛かるので、それぞれがお抱えの兵士たちを決まった場所で闘わせるようになった。その闘いを中立地域、周辺一族などが見物し公式な戦争とした。公式闘技のはじまりはそんなところから。
よって才能ある若者は、公式兵士として、地域権力に召し上げられてきた。
一方で、一般闘技は娯楽として自由にあらゆる者に門戸を開いていた。闘技好きが高じて兵士になったという変わり種や、公式兵士に選ばれなかった癖のある者。しかし近年、公式闘技のテレビ中継がはじまったり、これまで禁じられていた公式兵士の一般闘技への出場が許可されたりと状況が変化し、公式と一般の境目があやふやになった。非凡がより富み、平凡が困窮するシステムが完成しようとしていた。
「最悪よ……!また城の奴に負けたわ!なんなのよあいつら!月給貰ってる癖に!あたしたちの畑、荒らさないで欲しいわ」
バーのカウンター。ゲイだらけの店内は肉っぽさで溢れていて、横でクドの話に耳を傾けている男もまたゲイだった。
「大丈夫だよ!クドちゃんにはファンクラブだってついてるんだから!皆、クドちゃんを観に来てるんだよ!一般闘技にはビジュアルも必要なんだから!」
毎度クドの話を聞いてくれる彼の名はシマちゃんといって、この店で出会い、別れた元恋人。そして現友人である。
「もうあたし、引退する」
酔った勢いで呟くと、シマちゃんは笑った。
「ファンが大騒ぎするから無理だよぉ」
「お城勤めするのよ」
「えー?今までさんざん公式兵士叩きしてたくせに!」
「憎しみと憧れは紙一重なの」
クドの職業は一般兵士。心無い人々には底辺職業と呼ばれている。週に一度の一般闘技にエントリーし金をもらう。収入は安定せず、身体が壊れたその時職業人生が終わる。
「クド、なんで勝負兵士になったの?……クドの実力なら、公式兵士にもなれたでしょ?面接で変なことでも言ったの?」
「……」
五年前、クドは数百の倍率を潜り大地域フィオーレの兵士養成所ジェキンス寮に入寮したエリートだった。北方ノードストロムの生まれで、フィオーレには兵士修行と学をつけるため来ていた。
武力の才があり、ジェキンス寮の教官には十七になった頃、兵士として俺から教えることはもう何もないとまで言われた。
学業は十八まで。 一年間、クドには学業に専念する猶予が与えられていた。ジェキンス兵士として、フィオーレの屋敷で働ける未来。 フィオーレから出ている奨学金で、悠々と学生生活を送っていた。規律の厳しいジェキンス寮から郷土寮に移って、最小限の訓練と定期的な能力検査をパスしながら快適に生活していた。
自信に満ち溢れ、万人に優越した気持ちでいた。若かった。
クドを襲った悲劇はクドが十八の冬、いじめっ子に絡まれていた後輩を助けた時に起こった。足を負傷。素人を相手に油断したクドもクドだが、残酷すぎる現実にクドは打ちのめされた。実力が半減しただけでなく規定にひっかかり療養命令を受け、就職まで数年が必要とされた。
学生の間だけの奨学金。怪我の完治、能力の回復が就職の条件だった。その期間、家が裕福であったら大学なり、鎖国境にある兵士の国、要塞都市への留学なり、進むことができたろう。生憎クドの家はすぐにでもクドの稼ぎを必要としていた。クドをフィオーレに送るための借金の返済。勝負兵士は、勝てば高額の賞金が出た。
「クド?」
シマちゃんの丸い目が、過去を振り返っていたクドを不思議そうに覗き込み、チラチラと輝いていた。
「シマちゃん・・・」
クドはカマ言葉を好んで使うが性癖はタチで、シマちゃんの丸い目をこよなく愛しており、その丸い目に欲情していた。
「可愛い目玉ね」
言いながら彼の頬にキスをすると、くすぐったそうに笑われて距離を取られた。
「あん、なんでよ」
眉を下げて責めると、シマちゃんは困った顔をした。
「僕等終わったでしょ」
静かに諭すよう笑うとジュースを飲み溜息。シマちゃんはアルコールに弱い。そこもまたツボなのである。
「シマちゃん……」
「僕、好み変わっちゃったんだよ」
きっぱりとした声。脈はなさそうだ。ここで食い下がって友情まで失いたくはない。諦めよう。
「そうなの……」
返す言葉が見つからない。いよいよシマちゃんとはヨリが戻せないのだという現実にぶち当たってしまった。
頬に手をつけて黙り込むと、わらわらと友人等が寄って来た。
「何だよクドちゃんふられてるの?!」
カウンターのような、目立つ場所で自爆するんじゃなかった。
「俺慰めてやろうか、ウマーイキノコ食わせてやるよ、直腸から!」
「やめろよ、クドちゃんはオシトヤカだけどタチなんだからな!俺が心の子宮で包み込んでやるんだよ」
「僕の御尻はねー、鍛えてるから凄い絡みつくの、きっと癒されちゃう」
「黙れクソネコども!いいか!ふられたタチはネコに目覚めやすいんだよ、邪魔すんな、チャンスを」
どうしようか。今は興味のない他人に慰められたいという気分じゃない。ゆるりと上の空を決め込む。店はゆったりとしたスペースを持ち、青い照明が居心地の良い暗さを作っている。広い窓の外には夜景が広がっていた。来ている人間は金に余裕がある層。つまり高い店だった。
勝負兵士の収入は不定期だがでかい。
転職に失敗したら、生活はがらりと変化してしまう。そのことへの恐怖がクドを今の職業に縛り付けていた。
「なぁクドちゃん、一回抱かれてみたいと思わねぇ?!興味本位でもいい!」
「俺ネコだけどサドだから、毎週クドちゃんが負けるたびにもう、凄いムラムラしちゃってさぁ~」
クドは焦げ茶の髪と目に、黒のくっきりとした眉、大きな鼻を持っていた。落ち着いた穏やかな顔立ちだったが体格が良いので、人によっては恐ろしさを覚える類の、所謂熊系。熊系は男のフェロモンが濃いためか、ゲイの中では若干もてはやされる。
「貴方がサドでもあたしはマゾじゃないの」
「わかってるよ、でもこのトキメキを伝えたくて!」
「十分伝わってるわよありがとう、ごめんなさい」
「クドちゃん!」
口説きに適当な返事をしながら、シマへの想いをどうにかしようと心を鎮めるのに必死になっていた。
「シマぁ、フり方甘ぇんだよ、もっと手ひどくやってやれよ、慰めが必要なくらいにぃ」
「さいてー」
シマの罵倒を受け、ふーと息をつく貧相な男の足を踏む。
「イテッ、デェ、うわ、がぁっ、いてぇ~」
「なんの騒ぎだ」
「ルカぁ!」
痛みに喚く男の悲鳴を遮って、力強い声がした。シマちゃんが歓喜してその人物に抱きついた。シマちゃんの好みを変えてしまった男の正体が、ここに来てわかった。少しの下がり目と形の良い額、くりりとした大きな目。
「ルカ、いいところに」
大地域フィオーレ次期当主、ルカス・フィオーレはまだ若かったが、
皆、揉め事があるとすぐ彼に意見を仰ぐ。妙な落ち着きがあり、つい頼ってしまうのだ。
「こいつら何とかして」
まだ十八かそこらの青年は店の常連で、小さなボスと呼ばれ可愛がられていた。クドにしてみれば元就職先のトップの息子であり、現、恋敵である。複雑な感情が湧くはずの相手だが、面と面を向き合わせ、睨んでみようとするとそれができない。
「何とかって、彼等が何をしたんだ?」
「えーと」
「何もしてねぇよ、フィオーレ!」
「ちょっと口説いてただけ」
「クドがつれないことがよーくわかった」
「それよりフィオーレ、一昨日な、凄い可愛い子が来て、これ写真」
「タチか?ネコか?」
「ネコ!!」
「でかした」
「おい、俺、俺も狙ってるんだからな?!」
「わかってる、勝負だ」
「ちょっとルカー!僕等恋人同士でしょ~!」
「恋は多いに越したことはない!」
「やだーぁ、僕だけ見ててよ~!」
ルカスの腕に絡まって甘えるシマちゃんに絶望しつつ、クドはある視線に気づいた。
「……クドさん」
すぐに誰だかわかった、と同時に息が止まった。
「センダック」
小柄で細身の、少し神経質そうな青年。黒い髪に緑の目の、気弱そうな三白眼。同郷の後輩で、クドをこの道に自覚させた男だった。可愛らしい顔なわけではなく、ただただ、弱弱しい男。その弱弱しさがクドの庇護欲を大いに刺激した。
「どうした、どうしてこんなところに」
「貴方こそどうして」
「俺は仕事の付き合いだ」
自然に嘘が出た。
「大変ですね」
緑の目はクドをとらえ、すぐ宙に戻る。きょろきょろする視線。人と目を合わさない。センダックはまったく変わっていない。
「元気か」
「……はい」
この青年はクドに良く懐いており、寮の中でもクドだけに心を開いていた。それがクドの独占欲をも刺激し、クドを大変悩ませた。訓練に励んでいたのと、人を好きになりにくい性質が、それまでクドに恋のなんたるかを知らせずに来た。センダックによって知らされて夢中になった。何かと言えば構って、構えば構うほど懐かれた。絡まれているところを、思わず助けた後輩。このセンダックが、クドの人生の大失敗である足の怪我の原因。それにも関わらず、こうして顔を合わせてまず沸いて出る感情が憎しみでなく喜びだというのだから、恋は重症のようだ。
「センダック、口うるさいようで悪いが……ここがどういうところかわかってるのか?」
落ち着いた声を出しながら、内心は期待と混乱と焦燥で一杯になっていた。
「迷って来たなら引き返せ、そこまで送ってやる」
決めつけて、追い出そうとするクドにセンダックは「それは必要ありません」とはっきりした断りをいれた。
「ちゃんと目的を持って来ましたので、大丈夫です!」
「目的?!」
「その、僕、こちらの方面にちょっと興味が……、どういうところかだけでも知りたくて、ルカスさんに連れてきてもらって、クドさんが居たのでびっくりしちゃったんですけど、ええと」
びっくりしたのは俺のほうだ。
「ここはお前にはまだ早い、貞操の危機に晒されたりするかもしれないんだぞ、危ないだろ」
「ごめんなさい」
「俺が居合わせたから良かったものの、もし何かあったら親御さんにあわす顔がないじゃないか」
「あ、はい、親にまでご配慮頂いてありがとうございます」
「ルカス・フィオーレとはどうして知り合った?」
「えっと、友達の友達で」
「級友だ、同じクラスなんだよ、俺と彼は」
「なるほど」
センダックの説明にルカスが横入りし、完全に店はセンダックとルカス、クドの三人に注目している。
「ちょっとクドちゃんどうしたの?いきなり、そんな猛々しい話し方しちゃって……」
友人が苦笑交じり、クドに絡んで来たところを彼の口に分厚い手を宛てて塞ぐ。
「むぐっ……?!」
それから、ひょいっとその体を抱えると店の奥に持っていき隅の席に座らせた。耳元に口を寄せ、すまんが話を合わせてくれ、と囁く。
「いやぁぁぁ!クドちゃあああああん!!抱いてえええええ」
お願いなど全く耳に入っていなかったようで、厄介な友人が叫び声をあげると店内が騒然となった。
「俺やっぱ抱かれたい!!ネコやってとか言ってごめんなさぁあああい」
「ミスターグラディエター!」
「やああーーーーああん」
「あたしたちクドちゃんが何べん負けてもクドちゃんが大好きよぉおお」
「抱いて!」
「クドちゃーーーーん!!!」
「ミスターーーー!」
ちょ!!やめて!!!そういう言い方したらあたしここの常連みたいじゃないの。いや、常連だけど。今必死で常連じゃないふりしてるのわかんないの。クドはそんな思いを込めて大騒ぎを睨んだ。
「相変わらずだなミスター、もし良かったら俺も抱いてくれ」
はっはっは、とルカスまでがからかいに来る始末。もう言い逃れしようがない。
「クドさん、あの……」
「外に出よう」
センダックの肩を持ち、店の外へ誘う。フゥーーゥ、やらヒュー、やら囃す友人等をまた睨んだ。後で絶交してやる。
*
「またこうやってお話できて嬉しいです」
バーのある建物の屋上。センダックは屈託なく声を掛けて来た。
素朴な顔立ちは、純粋に男という性別だけを訴えて来る。すぐそこの畑で取れた野菜のような、飾りない魅力。
「忙しくて、声を掛けられずにいたから、心配していた」
センダックをベンチに座らせて、自分は横に立つ。並んで座ると緊張を悟られてしまう気がした。
「僕の方こそ、沢山お世話になっていたのに」
「いや、世話になったのは俺のほうだ……、あの時、お前も大変な時期だったのにな」
この後輩のために怪我をした時、怪我によって不自由になった生活を支えてくれたのもまたこの後輩だった。
「あの時は、本当に……」
センダックの顔が曇る。クドの怪我に対し、センダックが後ろめたさを感じていることは怪我の後も今もずっと変わらない。クドは怪我で、永遠にセンダックの心を縛る力を得た。
(ああ、だから俺は怪我を肯定できるんだな……)
気が付いたら我慢できず肩に触れてしまっていた。センダックはクドを見上げている。丸い目。クドの丸い目フェチはここからだったということを思い出し胸が締め付けられる。
「クドさん……」
少し痩せた肩は骨と体温とはりのある肌の感触で、クドの性感を大いに刺激した。親指で二の腕を摩ると、その性的な雰囲気にセンダックからストップが来た。
クドの手首を掴み、ぎりぎりとそこに力をこめているセンダックに笑い掛ける。
「疑ってるのか」
「え?」
「俺があの場所に居たから、俺を……そういう趣味の人間だと疑っているんだな」
「……」
「どうなんだ」
怪我の原因を作ったセンダック。あの頃、人生に絶望していたクドはセンダックを八つ当たりで犯してしまおうかと何度か思った。思ったが実行しなかった。
それは一重にセンダックの拒絶が恐ろしかったためだ。過去、怪我の面倒を見てもらう最中にも身体が密着するとよく魔が差して、こういうちょっかいを出していた。
その度にセンダックは平気な顔で、時には笑顔で、水面下……激しく抵抗しクドを拒絶した。
「あの、前から先輩はちょっとそっちの気があるのかな、って思ってて、でも、隠してるみたいでしたし必要があったら言ってくれると思って、今日会った時はやっぱりっていう感じでした」
そういえばこの後輩、賢かった、と思い出す。「やっぱり」ね、そう。とっくにばれていたのね。
「カマ言葉で喋っていいか」
「嫌です」
きっぱり断られ、残念な顔になった。センダックは困ったよう、眉を下げた。
「僕、先輩にはかっこよく……男らしく居て欲しい……僕はそういう風になりたくて、そういう風な先輩のことが好きで、誇らしくて崇拝していたんです」
夜風でセンダックの髪が揺れる。耳の上の頭皮が見える。
髪の付け根を指でなぞり、小さな頭を撫でたい。
「今、仲の良い友達が丁度先輩みたいな人で、優しくて分別のある男の理想みたいな……スゴクかっこいいんです。それで……、その人もちょっとこっちの気があるようだったから。過去、先輩とのこともあって、凄く気になったんです、こっちの世界のこと……僕、先輩のこと理解したかったんです、ずっと」
「セ、……センダック、お前……」
抱きしめようとゆったり広げた手。
「聞いて下さい」
「はい」
きっぱりした声で指示されて手を引っ込める。
「僕は実際女の人が好きです」
「はい」
「でも先輩のほうが好きです」
「は?」
「だから理解したかった、そういうことです」
「……」
「できるわけないんですけどね、理解なんか。こんな生理的なもの。本とかインターネットとか相談所とか、そういうので調べたりして、でも、大体全部微妙でした」
「そう……微妙、……でしたか」
「なんで敬語なんですか」
「緊張して」
「緊張、僕に?」
「……はい」
ピタリと合った視線。センダックは視線を合わせることに不慣れで、見詰め合う時、瞳にこめる感情の温度を調整することができない様子だった。クドとセンダックの間、視線がどんどんと熱くなっていく。センダックの丸い目の中心、緑の瞳が不安げに揺れた。全身の血管が膨れて、プツンと切れてしまいそうだった。今戦ったら、誰にも負けない気がする。
センダックは無表情に下を向くと、身を折り曲げた。片肘を腿に置いて片手で顔を覆う。細い肩に骨ばった男の特徴が浮かぶ。それがクドをクラクラさせることも知らず、センダックは笑った。
「僕は幸福だ」
「幸福?」
後ろめたさで逆らえない男の厳つい先輩に貞操狙われているのに?
「今までモテない金ない運ないで来たのは、貴方に好いてもらうためだったのかな」
「まあ、おまえが冴えないことはよく知ってる」
「なんでこんな冴えないのを好いてくれるんですか」
「う……そう、だな……んんん?」
好みだから?ムラムラするから?懐かれて嬉しかった?
会った時から何か好きだったから?冴えないからこそ独り占めできるから?
「困らないで下さい」
「悪い、でも好きなことは確かだ、改めて言うと大好きだ」
「……」
センダックは顔から片手を放すと、思いのほか大人の顔でクドを見上げ、口はしを上げた。また視線が合う。クドの数年掛かりの気持ちが打ち明けられた場面だというのに、冷静なセンダックにクドの背はじっとりと濡れて来た。怖い。何を言われるだろう。
「気味悪がってもいい」
こんな形で告白することになるとは。どうしてこんなことに。数分前まで、シマちゃんとヨリを戻すことに夢中だった癖、もうどうでも良い。
「好かれてるっていうのは、肯定されるってことです」
ポツリとした呟き。
「貴方は僕の理想の人です、その理想の人が僕を……それがどれだけ嬉しいことか、貴方に想像できますか」
センダックはまた下を向いた。クドは何も言えない。言葉のない時間が経ち、それからセンダックは少しだけ顔を上げた。
「僕の人生にはあまり良いことがなくて、うん、性格が暗いところからまず終わってた、自分でさえ自分を肯定できなかったので、貴方の好意、肯定が、本当に嬉しかった」
期待していいのか。それとも拒絶の前置きか。クドは、現実がそんなに甘くないことを知っていた。そして怖れていた。そんなクドに構わず、センダックは苦笑した。
「僕にとって好意は、簡単に返ってこないものでした。お父さんに始まり、好きだった女の子、先生、母も新しいお父さんに取られたし、友達は愛想よくすれば仲間に入れてくれたけど、みんないつも無意識に僕を馬鹿にしていた。僕は何事も人より劣っていたので、人になかなか興味を示されなかったんです、だから……」
「……」
「僕は優しい人を探して、その人に必死で取り入るようになった。同情で仲良くしてもらおうとした。優しい人と会うと全身全霊で懐くようになった。そうすることで、優しい人は僕を好きになってくれるから。それが僕の処世術、弱者の生き方です」
言い終えて、センダックは完全に顔を上げた。横顔からは、センダックが何を考えているのかわからない。建物の屋上、視線の先に夜空がある。センダックは黙ってしまって、クドはその横に縛り付けられた。
「座って下さい」
命令され、座る。
「気分悪くされましたか?」
「何に」
「僕が自己肯定のことしか、考えていないことに」
「……」
センダックとクドの距離は隣り合わせた見知らぬ人同士程ひらいている。また下を向いたセンダックと、そんなセンダックの横顔をボンヤリと観察するクドの姿は久しぶりに会った先輩と後輩の関係を出ない。
センダックは下を向いたまま、顔だけ傾けクドを見た。
「色々言いましたけど、僕は要するに、貴方に好かれたことで得られた幸福感の恩返しをしたいんです、貴方に、何か貴方が幸せになれればいい、と思って」
「……」
「僕にできることだったら、何でもいい」
「センダック……」
少し声が裏返る。転がるように話が進んでいて、頭がついていかない。
センダックがクドの気持ちに気づいてたところからまず大事件だというのに。
「調べたということは、俺が何を求めてるか、俺に好きにさせた結果、自分の身がどうなるかわかってるんだな」
「わかってます」
少し手を震わせつつ、センダックの腰に腕を回すと跳ねる、憎らしい体に内心で舌打つ。
「大丈夫なのか」
「微妙です」
確認すると案の定な答えが来て思った以上の苦しみがやって来た。興奮している身と心が鎮まらない。が、微妙だというセンダックに無理強いはしたくない。
「すみません、今日会うなんて思ってなかったので、うぅぅぅ、僕の意気地なし!!!」
まったくだこの意気地なし!!!と心中で罵ると腕を引っ込めた。
「変わってないわねー、まじで」
衝動が抑えられない腕を、ベンチの背に回し聞こえよがしに溜息をついた。
「カマ言葉やめて下さい」
「あらごめんなさい」
「先輩!!」
「キーキーすんじゃないわよ、可愛いわね」
「やだぁーー!僕のクドさん像が崩壊するーーーー!!」
「だまんなさいよ、泣くわよ」
「え?!」
「あたしの本性コッチだもん、あんたの勝手なあたしの像なんて粉々になっちゃえばいいのよ、何よもう、恩返しとか言って、仇ばっかり!振り回さないでよ、緊張が行き過ぎてカマ言葉出ちゃったのよ、わざとじゃないわよ、もう好い加減にしてよ、っ」
「クドさ……」
頬がスースーすると思ったら泣いていた。センダックが心底驚いた顔をした。その後で温かい表情を浮かべた。
「なんだろうクドさんこの感じ、覚悟?欲求?スイッチ入ったみたいな」
柔らかい感触が目の下に来て。それがセンダックの唇だったことが判明した頃、センダックはクドの頬を両手で包み、愛しげにクドを見つめていた。かつて健康的に見えた後輩の骨格は、今は大人びて性的だった。
「やれるところまでやってみてもいいですか?というかたぶん、やれると思うんです」
「あ、あたしタチよ」
念のため断りをいれるとセンダックは目を細めた。三白眼というのは、細められた時、悪魔じみた色香を生む。それは黒目がちな目が作る壊したくなるような欲求とは違って、むしろその逆。崩されそうな予感、不安や恐怖に繋がる、死の開放感に似た身震い。
「わかってますよ」
センダックは社交辞令のように頷いた。安心できない。センダックの考えが読めない。
「あたしも何かしていい?」
伺わずにすれば良いのに、伺いを立てる。
「いいですよ」
さらりと認められた。技術で言えば格段に上のはずだ。何年この世界に身を置いて来たと思う?センダックは悠長にクドの顎やら首やらにキスを降らせている。羽織っていたものを脱がされ、お返しに向こうの上着も脱がす。触れられたところが、溶けそうなほど熱い。肩にキスをされた。センダックがクドの肩にキスをしている、その認識がクドの目を回らせる。キスだけでなく、ゆったりと腕を撫でられている。一方で、腕の付け根を親指で摩られている。本能に組み込まれているとは言え、センダックの男としての動きに動揺する。
「っ、ゥ」
腰骨を撫でるよう、摩り出したクドの手に、やっとセンダックが反応を示した。
「それやめて下さい」
「嫌」
ハァ、と息の音がして、クドを押すような体制に居たセンダックの身が、ぐっと下がり、眼前に細い背中が息をしている景色が広がった。汗で肌に服が張り付いている。感動であがりそうになった声を抑え、センダックの頭を掻きまわした。途端、カチャカチャと音がしてベルトが外された。外気に触れた性器は始めから元気良く飛び出したが、センダックは動じなかった。センダックの小さくてぽこぽことした指が、きゅぅっとクドのものを掴み、摩りだした。
「なんか大丈夫そうです」
「え?」
「むしろしたい」
クドのものに集中した顔で熱に浮かされたよう呟かれ、腰に力が入る。漏れる漏れると騒いでいる性器に急かされて、コンドームを取り出すと丁寧すぎる動作でセンダックがそれを開封してくれ、震える手で差し出してきたのをキュンキュンしながら受け取る。
装着してすぐ、射精が起った。
屋上はこういった行為がよく行われている場所だったが、クドはいつもホテルに入る男であったため、羞恥で頬が染まった。しかし、勢いは削がれない。続けて、行為用の座薬を取り出すと物珍しそうな顔をしているセンダックに用途の図示されたパッケージを見せてやる。男性同士の性交用に開発された代物だ。
「下脱いで」
指示すると、また目が合う。きょとんとしている。センダックはどうしたいのだろうか。センダックが相手なら下になってもいいかもしれない。けれど、できたら、センダックの中に。
「入れたいの、脱いで」
切羽詰った声を出す。
「いいですよ」
驚くほど柔らかに微笑まれ、快諾され、身体が軽くなった。嘘のような現実。
「なんか凄い、興奮しますね、男同士なのに」
歌うように言いながら、センダックが脱いだ。
「男同士だからよ」
何もかも上手く行き過ぎて不安だ。
「それを俺のなかに入れれば良いんですね?」
座薬を手渡すと、センダックはそれを、ぎゅっと目を瞑って体内に入れた。歯を食いしばって緊張している顔。その表情に胸が痛み、背を撫でてやると頬にキスが来た。
「結構簡単に入りました」
湿った声で言われ、こくこくと頷く。首に腕が回され、センダックの体温が近い。センダックの身は熱くて小さかった。
「っ」
座薬によって緩められた穴がクドをするりと受け入れた。
「アツイです」
センダックの早口な感想に、ええ、とカマ言葉を返す。まだ先端だけだが、センダックの腰を持ってゆるく振り、慣らしにかかった。
何度か経験のある人間と違って、またはその手の才能のある者と違って、センダックは極端に感じることがない。震える息と、ぅ、とも、ク、ともとれる音を咽喉から出し、クドの首にきゅっとつかまることに徹している。つらいだろうと思い、背を摩ると少し中の緊張が解ける。
繋がったまま、動いたり止まったり、クドの気が済むまで時間が流れた。
センダックは一言も言葉を発しなかった。
*
「今度は僕が入れたいです」
後日店に訪れたセンダックの発言で、クドは飲んでいたものを三割噴いた。
「こないだので懲りちゃったの?」
「懲りちゃいました」
「ちょっ?!まだ一回目じゃない?!」
「僕、クドさんで童貞卒業したいんです」
「えっ?!……ど、童貞だったの?!」
喜びで声を震わせると、センダックはにっこり笑って頷いた。
「だから、お願いします!」
友人達がザワザワしている中、クドはため息をつくと、一回だけよと呟いた。えーっと店内がざわついたのは言うまでもない。
2016/2/19
センダックが吹っ切ったと同時に目覚めたの回です。
そして学校でゴドー君の尻を掴むようになったわけです。
何気に彼は一番の強者じゃないかと考えています。
だってこの出来事きっとアンガスも知らない・・・!
(ルカは知ってるけど←やっぱり恐怖情報網)
本命=クド
アイドル=ゴドー
『ソウボウキン』(奇人宗教家×ヤリチン)
回ってしまうと何てことはない、受身の立場は楽だった。
ルキノは男に慣れていた。痛みのない挿入は心地良い。心地良いが何だかむなしくて馬鹿らしくて惨めだった。
「キケロはやめておけ・・・」
行為を終えた枕元。向こうを睨むルキノの声。
「別に狙ってねーよ」
「狙うとか、狙わない、という問題じゃない」
「……意味わかんね」
ルキノの太い背骨の周りには筋肉が詰まっている。それを指で押す。堅い。
「くすぐるな」
「感覚あんの?」
「過敏だ」
「……」
穏やかな悪戯心に、口端が上がる。そっと唇をつけ吸ってみた。反応なし。
「よせ、おとなしくしていろ」
「あ?」
子ども相手かのような、呆れ半分の声に、急激に愛しさが萎んで腹が立つ。テッドの部屋は、テッドとルキノを収納すると、即、むさくるしさで暗くなる。
留守がちな両親は、この部屋が何度性交の場として使われたか知らない。開けてある窓の向こうは雨雲で白く、もしかしたらパラパラと降っているかもしれない。
「おまえの、その流されやすさが俺を苛む」
「快楽に弱ぇのはマグランの血だからさ」
「……」
「許せよ」
「……マグラン」
「犯罪者になってないのを褒めて欲しいな、俺はダイブまともな方だ」
「……」
こちらが不愉快になるだろう答えを吐きたかったのだろう。そういう時、ルキノは黙る。黙るルキノは大人らしくて好きだった。
つい先日、テッドを手酷く振ってくれたポートも素になると良く黙る男だった。そこに大人っぽさを感じていた。
否定的な事を言わざるを得ない時、そっと黙って後味に残す。
「おまえのだんまり、嫌いじゃねーな、……優しいよな」
「随分好意的に解釈するな」
「おまえのこと結構好きだし」
「…………、アンガスは……」
「ん?」
「いや、いい」
「昔の奴の話ぐらいでキレねーよ、どんだけ俺をガキ扱いすりゃ気が済むんだ?」
「……アンガスは、よく、言いたいことがあるなら、はっきり言えと苛ついた」
「は、あいつらしい」
ルキノは口下手で、アンガスは饒舌。正反対の男二人が、よく結ばれていたと思う。ルキノは口を開けばアンガスか、良くわからない宗教の教えを説く。退屈な男だったが、雰囲気は悪くない。話をほとんど流していても頓着しないところが好きだった。
まだポートを求めている心の穴に、煙のように充満してくれる。
ルキノの存在は、テッドの心の痛みを和らげる。
「なぁ、ちょっと動けよ」
「何がしたいんだ?」
「おまえの背中の筋肉がセクシー、見とれたい」
大人しく、身じろいでくれたルキノの背に触る。武に秀でた男の背。羨望に混じり、性的な衝動が胸を打つ。兵士特待生の顔見知り、身近な二人を思い浮かべる。あのスマートなキケロや、武骨なゴドーの背も、こうなっているに違いない。兵士の訓練を受けた者と、そうでない者の違いは肉体にある。ゴドーの背は体育の、着替えの時にでも見てやろう。キケロの背は、と想像して顔が沸騰したことに気づく。異様に高鳴った心臓と、キケロで興奮した己を責める心。
-キケロはやめておけ。
数分前の、ルキノの台詞が頭に響く。ポートへの強い執着と欲望とは別、 とても美しい匂いのする妄想だった。何も考えられない、ただ想像するだけでも背徳を感じる。
「俺、は、キケロさんに恋でもしちゃってんのか?」
その感覚に恐怖を覚えた。ルキノが否定してくれれば、安心できるだろう。口にして後悔した。
「……そうだな、恐らく」
ルキノは良い意味でも悪い意味でも正直な男だった。向き直ったルキノの目は冷たく焦っていた。
「後ろを向け」
「なんでだよ」
「いいから向け、顔を見せるな、苦しい」
「っ」
半ば強制、向こうを向かされ、使ったばかりの穴の表面を擦られる。
「……ン」
すぐに指が中へ。
「……っぅ、ぁ、」
ゆるゆると奥へ。
「っはぁ、……っぁ」
ルキノの求めは急だったが、行為は心地良いし、嫌なことを忘れられる。拒否する理由がない。
「おまえなんか行きずりだ、手を組むついでに抱いている」
「あ?!」
呟きに反応してみたが、体内の指が止まらない。意識がそちらに連れて行かれる。
「精神は伴わない、肉体があればいい、そういう相手だ」
「……は、ぁ、アっ……」
指が抜けすぐに、ぬる、と良く知った形の一物が侵入して来て目を瞑る。
「っぁ、……アァ、ぁ、はぁ、」
「俺ばかり背を向けられる、俺の何がつまらない?」
「つ、はぁ、……なん、……んぁ、」
中を摩られる感触に夢中になり、頭が働かない。
「ぁぁ、……ん、……うごっ、もっ……奥、……ァッ」
「俺を好きだと言え」
「すぃ……ルっ……ぁ、すき、だか、おまえのもっと太いトコ、……んく、まで、中つっこんで、っぁ、太いトコで、はぁ、もっとさすって……っ」
「っは、商売ができるぞテッド、……っこれ以上煽るな、意識はあるか?マグランの血は、淫乱の血なのか?っ、似合いだな!おまえはいつもマグランマグランと、下品で卑しいマグランの、その血の何が誇らしいんだ?」
「っ……は」
罵られ、少し冷静になるがすぐに中が動く。
「っや、……だめ、頭白っ、……なっから、待っ」
細かい振動が与えられ唾液がたまって行く。
「はン……ぅ、はぁ、あ、はぁ、……っぁ、あ、ア」
トントントントンと肉がぶつかっては、広がった穴に擦れる感触。ルキノの息の音が聞こえ、己の息の音に混じり目が回る。抜けては刺さって来るルキノのものが体内をとかす。
「すき、おまえとの、いい、……ほんと、イ、あっ……い……っはぁ、……すき」
熱い頭と息と目頭が、しばらく時間を止めていた。気づいた時には体内からルキノの感触が消えさり、先ほどまで高温で、強い存在感を示していた下肢が物足りなく冷めていた。
「ん?!」
マグランは下品でいやしい。その血の何が誇りか。今になって暴言が胸に刺さり、顔が険しくなる。
「おい、さっき、……」
言い掛けて、部屋の物悲しい空気に呑まれる。ルキノは去っていた。どれ程呆けていたのか。ルキノの退室にも気づかなかったとは。
ベッドの上は涎と、精液と汗でグショグショな上、身体には疲れ。水気で冷たい身体の下からは異臭がする。色々な面倒を置いて帰ったルキノに憤りを感じ、何も考えずに携帯を手に取って電話をかけ、また思い出す。俺のことを好きと言え。そんなことを言っていたルキノの心中に合点が行く。わかりやすい男。アンガスはポートに夢中。テッドはキケロに恋してる。それは気に食わないだろう。怒って帰りもする。
『悪かった』
電話の第一声が、謝罪で思わず微笑んだ。
『何が?』
『心にもない暴言を、……それと片付けを任せた』
『任されるつもりはねーよ、戻って来い、 暴言は心になかったっていうなら信じる。あと、キケロさんのことだけどな、仮に恋でも発展はしねーから、雲の上の存在すぎて近づけねー、おっかけとかしてる女にひっかかったみたいな、そんな気持ちで向き合ってくれる気ねーかな、もし二択、おまえとキケロさんどっち選ぶとかになったら、おまえ選ぶから。
だから傍にいてくれ。
俺の時間全部、できる限りおまえで消費したい、おまえのこと好きだ』
『……同じ言葉を贈りたい』
鼻声。何で泣いてんだ。どーした。
『泣くな』
嗜めるとグスッと音を立て、『ああ』と涙交じりの返事が来て笑う。こんな素直な人間は初めてだ。男も女も、普通はもっと捻くれて、体面を取り繕うものじゃないか。
テッドが相手をして来た者達の中、明らかに異色。寂しいからと呼ぶ癖、寂しさを隠すキーチ。独占欲の暴走を恐れ、別れを選んだポート。ポートの好意を貪欲に求め、執着されたくて突き放したテッド。ポートが混乱し、苦しんでいたことに気づかなかった。キケロを想うテッドの、遠巻きな心と同じよう、強すぎる気持ちは離れていないと辛いこと。ポートが焦がれる痛みに、負けたことを責められない。
平常で居たい。生ぬるい幸福の心地よさに浸っていたい。
『テッド、聞いてるか?どうした?テッド?』
自分に、キケロに立ち向かう気がさらさらないこと。ルキノの安心感を、何より大事に思っていること。自覚して初めて、ポートの葛藤が骨身に沁みた。
『ポーラと俺が、似たもの同士ってことがわかった』
『……?、……愛してると言ったんだが』
『え、まじで?!……悪い、もっかい頼む』
『聞いていろ馬鹿者、もう二度と言わん』
『いや言えよ、せっかくだから聞きてーよ、俺も言うから!』
プツ、と音がして回線が切れた。
数分後、不機嫌なルキノが戻って来た。
2016/2/18
『ルキノと緊縛』(奇人宗教家×ヤリチン)
白金髪に灰目、高い鼻、ここまではいい。凶悪で鋭い三白眼と、パーツ配列が猛禽類を思わせるマグラン一族の顔面的特徴はあまり一般ウケしない。しかし、俺はマグランの中では異例の、恐らく瞳が大きかったのと眉の位置が良かったのが関係しているのだろう、強面だが人受けの良い顔立ちをしていた。
よって、女にモテた。寄ってくる女と片端から関係を持ち、来る者拒まず去る者追わずで生きてきた。
そんなテッドの事を『ヤリチン』と罵るくせに自分の事は『恋多き女』などと表現する厚かましい元カノに呼び出され、復縁の相談かと思ったら恋敵宣言をされた土曜の午後。
ヴェレノの大学に通うテッドを、当然のように自分の大学最寄、フィオーレに呼びつけたキーチ・ルーキンは胸元の大きく空いたワンピースを身体にフィットさせて、短いスカートから形の良い脚をすらっと出し、自信満々の笑みを浮かべている。
「あたし、ルキノさんと寝てみたいんだけど……」
真昼間のカフェに投下されたとんでもない願い事にロイヤルミルクティーを噴く。やだ汚い、と呟いてハンカチを取り出すとまずテッドの口元を拭いてくれる憎い女、キーチはテッドと付き合っていた四年の間に二十人程の男と関係していた。テッドも約八人と関係し、二人は互いの浮気相手をダブルデートの形で紹介し合うという下衆を極めた行いを、薄笑いを浮かべて平然とこなせるカップルだった。
「残念ながらルキノは俺と『おつきあい』している」
「お、つ、き、あ、い!って!!テッドの口から聞くとうける~!ってか、男に目覚めるとか超面白いね、テッド」
「女はおまえで懲りたんだよ」
「何いじけてんの?」
「いじけてんじゃねぇ、毒だ、毒を吐いてんだよ、どんだけポジティブなんだよ、このくそビッチが」
「ビッチじゃないよ!あたし!恋多き女なの、呼び方、気を付けて、傷つくじゃない?」
決まり文句。に、安心する。
「傷つくとか良く言えんな?」
「ヤリチンにはわからないかもしれないけど、女はいつだって本気だし、柔らかい心でいるから、酷い扱いには我慢できないの、思いやって欲しいの」
とぼけた言葉で会話を色づけながら、センター分けの長い前髪を耳に掛けるキーチの細い指、指の股にあるほくろ。
小さな口とパッチリして形の良い目に見とれていたら、サラサラの髪から、ふわんと柑橘系の香りがしてムラッとする。シャンプー・トリートメントに対するキーチのこだわりは、男を誘う武器の手入れ。攻撃されている。
「見ろ」
気を取り直して、鞄から、ルキノに課せられた交換日記を取出し、キーチに手渡した。こんなお堅い恋愛の仕方、おまえ知らないだろ。ルキノって男は奇人変人で、おまえの手には余る。その事を思い知らせよう。
もう二年も続いている俺の涙ぐましい、優しさの軌跡。我ながら良く『おつきあい』している。
「なにこれ?」
「……交換日記」
「ハッ?!」
「俺と、ルキノの、交換、日記」
何とか笑わずに紹介出来た。
「こ、こーかんにっきー!!!!なにそれー!!やばーい!!」
キーチが大声で噴出した途端、笑いが込み上げて来てバカ笑うなバカッ、すげーんだから、見ろ!!とはしゃぎ出してしまう己の軽率。フィオーレ駅前、噴水広場に面するオープンカフェは目立つ。フィオーレの大学で客員教授をしているルキノが通り掛かってもおかしくない立地で、実に考えなしだった。
「テッド、何をしている」
落ち着いた、どこか得意気な響きのある涼しい声。
嫌な予感。
カフェのオープン席、四人は座れる広いテーブルに座っていたのがまずかった。
ルキノは、この間より数が増えている気がする取り巻き数人と共に現れ、有無を言わせず俺の隣に座った。ルキノの味方である複数人の視線に黙らされて、文句を言えない状態の俺とキーチは、あまりの居心地の悪さに互いの視線を絡ませた。
取り巻きの一人が、ルキノのコーヒーを買いに走る。ルキノはその働きを当然のように見届け、それから顔馴染みの一人を残して他の者達には帰れと顎と目線で指示を出す。どこのマフィアのボスなのか。
赤髪をバックに撫で付け、野犬のような目をした大柄なルキノは目立った。その存在感を利用して店員を目線で呼びつけると、キーチの飲んでいたアサイージュースを、別席に移動するように指示を出す。
「いやおい待て、すみません大丈夫です、移動はしません」
テッドが慌てて店員を制すると、ルキノは溜息をつき、少し屈んで、キーチと視線を合わせに行く。
「悪いがお嬢さん、あそこの席が空いている」
ルキノの強引は今に始まった事ではないが、テッドは呆れて閉口した。キーチは楽しそうに目を細めている。
「きっと読書したい誰かが座るわね」
「本なら、そこの棚に揃っているぞ……、カミュの『異邦人』をまだ読んだ事が無いのなら、この機会に手に取れ」
オープン席の明るさに反し、店内は暗い照明によってひっそりした雰囲気が作られており、カウンターの脇にあるごつい物置棚にはびっしりと本が詰まっていた。
「カミュは『ペスト』でうんざりしたわ、陰鬱」
「……ならばスタンダールの『赤と黒』もある」
「あれは好きよ」
「ではボーマルシェの『フィガロの結婚』を読むと良い、あれも並んでいる」
テッドはどのようにキーチを守ろうかと考えながら、ルキノが目星をつけた席を見た。暗めの店内にぽつんと空いた壁際の一人席。カップルに追いやられて、あんな席に座るのは辛いだろう。
「あたし、一人席に座った事ないの」
ついに苛ついた声を上げたキーチを制すると、ルキノを睨んだ。
「……友達を勝手に追っ払うな」
「邪魔だ、物理的にも精神的にも、不愉快な女だ」
ピリッとした空気。
「ルキノさん、あたしテッドにはもう興味ないわよ」
退く気はないが、俺達に喧嘩をさせるのを忍びなく思ったらしいキーチが、明るい声で場を収めようとする。先程までテーブルに肘をついて可愛らしくしていたのを今は椅子に背をつけて足を組み、膝に両手を載せている。腕に挟まれた乳が盛り上がっていて、ぬるっとした艶めかしさが鼻に来る。
「テッド」
テッドのキーチへの欲情を遮り、ルキノの手が、そっとテーブルの上、何気なく置いていたテッドの手に被さった。その大きさと冷たさにヒヤリとする。
「日記を公開したいのなら、読んで聞かせるのが一番良い、せっかくだから読み上げよう」
「あ゛?!」
「素敵、読んで聞かせてくれるの?二人で?聞きたいわ」
キーチが半笑いで食いつくと、ルキノは横目でキーチを見た。ルキノの釣り目気味の三白眼は鋭い光を帯び、細められると強烈な色気を出す。
マゾッ気のあるキーチがほんのり頬を染めたのを見て、テッドは焦った。この二人がくっついたら俺は気が狂うかもしれない。
二年前、三角関係の味を知った。親しかった友人同士、もつれたその関係は最終的にテッドを弾く形で落ち着き、結ばれた二人と孤独な一人が出来上がった。女遊びをしても男遊びをしても、一人で好きな映画や本を読み耽ってみても、楽しくなく、寂しく、消えたくなった事。タイミング悪くキーチには本命が居て慰めて貰えず、無性に人肌が恋しくて、うっかりこの赤毛の野犬とそういう関係になってしまった。
ルキノは宗教家が治めるとある国において、名士の家に生まれた権力者だが、ここフィオーレにおいてはただの外国人だ。それなのに、ああして取り巻きが出来るのは天性のボス気質なのか、例の子分がルキノのコーヒーとテッドのためにロイヤルミルクティー、自分と相棒にペリエを購入してやって来た。
「テリー、良い所に戻って来た、これを読み上げろ」
可哀相な子分は、えっ、と声を上げると渡された交換日記とルキノの顔と、テッドの顔を交互に見て、テッドに助けを求めた。
「貸せ」
テッドは子分から交換日記を受け取ると鞄にしまった。
ルキノと目が合う。
「……怒ってんのか?」
聞いてみると、ルキノは首を傾げ、にやりとした。
「怒ってはいない、叱っている」
「動物かよ俺は?!」
眉間に皺を寄せて不満を漏らすと、ルキノは何か間違っただろうかという顔をし、すかさず子分が耳打ちをした。
「おまえを軽んじての発言ではない」
「そんぐらいわかるけど」
冗談が下手糞。
ルキノの欠点は、上げるときりがない。
「その女、いつまでここに居させるつもりだ?」
「だから……」
そういう言い方はないだろ。
「目障りだ」
一言であらわすと、無神経。
「四年の付き合いだか何だか知らないが、俺はおまえに夢中なんだから気をつけろ、もし何かの間違いで俺よりその女を好きになってみろ、抹殺してやる」
「は、俺の名前ちゃんと憶えてるか?
テッド・マグランだ、分家筋とはいえマグランの一族を敵に回すのは賢くないぜ」
殺人予告に気分を害し反撃すると、ルキノは真顔になり頷いた。
「もちろん、マグランの家を敵に回すのは得策ではない」
どこか上の空という顔で呟いたルキノと、また目が合う。見つめていたら、粗野な男の顔にゆっくりと、凄惨な笑みが浮かんで、内臓の温度が下がるような、ひゅっと身体の中身が落ちるような恐怖を覚えた。
かたまっているテッドの手をルキノの手がふとして、上からぎゅっと握った。強く握られ過ぎて骨が軋む。
「しかし、俺はいついかなる時も人生を棒に振る覚悟でおまえを愛している……、平穏な日常は尊いものだが、簡単に捨てられる選択肢だ、テッド、俺をよく恐れておけ、何をするか決めるのは俺の立場じゃなく意思だ、俺は何でも出来るぞ」
瞬き一つせず真っ直ぐ、テッドの表面でなく魂を眺めてくるルキノの目線に、ごくりと喉が鳴る。
過去、アウレリウス兵士の訓練を受けた大柄な体躯とがっしりした顎、鼻筋の通った迫力ある顔面は、言葉に真実味を持たせ、テッドを震え上がらせた。
剥き出しの愛に、耐性がないのだ。何重にも膜を張って薫らないようにして、好意を気取られたら負けだという付き合いばかりして来たので、ルキノの、捨て身の姿勢にはいつも圧倒される。
好きなら逆らえまい、と相手が図に乗る心配などは、一切しないし、そうしたふざけた態度を取られても受け入れて来た男なのだ。
テッドとはあまりに対照的。まったく愚かで理解出来ない。
「俺は、ルキノの、どこが好きなんだろうなぁ」
しみじみ、溜息と共にこぼすと、ルキノはほんの少し得意気な顔をしてキーチを見た。好きという事を前提にされた台詞である。どこかはわからないが好き、という感情を俺がルキノに抱いているという事実に、満足しているらしい。
ポジティブにも程がある。
「どこだっていいぞ、思い当たる所を探してみろ、優しいところか、真剣なところか、神に忠実なところか?」
ルキノの中で想定されているルキノの美点が何となく間抜けでテッドはクツクツと笑った。
「……面白かったか?」
苛められた犬のように眉を下げて聞いて来る、その顔もまたとぼけていて、いよいよ胸を転がるようなくすぐったさが襲って来た。
「ほん、っとにおっまえ、素でボケんの、……やめっ、ふ、……何だよ神に忠実なとこ、って、恋人に求めねーよ、そんなん!」
笑いつつ連想する。
セックスの最中に一瞬見せる縋るような表情や、正直すぎる性格、朝早くに起きて床を磨き、そこに接吻する宗教儀礼をストイックにこなす姿を、手放したくないと思う。
「俺はテッドの面構えが好きだぞ」
ルキノは笑うテッドの頭を撫でると、耳の穴につと指を入れた。
「っ、……おい、中身を無視すんな」
ルキノの指から、頭を遠ざけて逃れると、文句を垂れた。
キーチがにやにやしていちゃつく男二人を眺めている。
「おまえの中身は『やりちん』だからな」
「あ?!」
「すかん」
不名誉な言葉で、己を表現され、つい眉間に皺が寄った。
「ふふ、やだぁ『やりちん』って、どこで覚えたんですか?ルキノさんが言うと何か可愛いんですけど」
キーチの黄色い声。
キーチは口では繊細を気取るが、実際は図太い。自分を嫌っているルキノにバンバン絡みに行く。
「女生徒達がテッドをそう呼んでいてな……、意味を知り、落ち込んだ……」
「昔な!昔!!」
真面目なルキノの機嫌を損ねないよう、取り繕うとキーチがくすくすと笑った。そして、悪女の顔になると、ルキノに顔を近づける。涙袋をぷっくりと膨らませ、本当に楽しげだ。
「今だって、ルキノさんの目が光ってなきゃ奔放になるわよ、こいつ、浮気性全然治ってない、あたしの事さっきからすごく変な目で見てくるし」
「おン前なぁ……変な言いがかり……」
「言いがかり?かなぁ?」
この裏切りもん、と怒りを込め舌打つと、ふふんと鼻で笑われる。
「仕方がない、君は美しい、変な目で見たくもなるだろう、だから俺は君に早く消えて欲しいんだが、どうしてそう嫌がらせのように居座る?出来ることならこの場で君たちの連絡手段を絶ち、テッドに君の魔の手が一切届かぬようにしたいが、どうだろう、可能か?」
一瞬、キーチの目が光ったように見えたのはテッドの心が不安で揺れていたからか。キーチは勿体ぶって、黙った。
そして、先程からずっとテッドの手に被さっていたルキノの手に己の手を重ねると、鎖骨の下を中指で引っ掻くようになぞって、上目使い。
「あたし、ルキノさんとセックスしてみたいんです、一回だけでいいです」
「その望みを叶えたらテッドにもう近づかないんだな」
「はい」
「良いだろう」
「よくねぇよ!!!」
怒鳴って立ち上がると、ルキノが目を丸くして、キーチが唖然とし、テッドを見た。その視線の意味、二人の驚きの感情に晒され数秒して顔が赤くなった。らしくない己の激情に動揺して顎が震え、なかなか声が出せず、代わりに涙が出そうになって堪える。
「……なんて、な、……す、好きにしろ」
上手く笑えただろうか。がくがく震える顎を抑えながら、ルキノとキーチが肌を重ねる想像が頭の中で回るのを掻き消そうと目を瞑る。
散々、己が仕出かしてきた浮気というありふれた裏切り。その破壊力に打ち砕かれ、まだそれが起こってもいないのに、想像でこんなに息が詰まりそうだなんて。いったい、これは何の罰で、どうしたら許されるのか。
ルキノと付き合い始めの頃を思い出し、ううんと唸る。
初めは互いにそこまで深く愛し合っては居なかったのだ。むしろ、何となく余所に遊びの相手がいる事を許しあう、自由な、テッドとキーチの間にあるような心地よい共犯の空気があった。
それなのに、いつからだろう……。
ルキノがフィオーレに骨を埋めると言い出してからか。客員教授と兼任で、ルキノが父親からフィオーレの大学傍にある法人の研究センター長を任された年、大事な宗教儀礼中に眠りこけてしまう程、ルキノが多忙だったあの頃。
三時間の睡眠時間を除いて、延々と仕事をしていたルキノに飯を作り、洗濯と掃除の世話をし、メンタルケアをして帰る。気が付いたら、ルキノはいつの間にか自宅にテッドの部屋を設けていた。忙しい癖に、テッドを傍に置くためにせっせとその部屋をテッド用に整理したルキノが愛しくて、テッドはそこに収まった。あれがまずかった。
同棲なんかするから。寝食を共にし、愛着がわいてしまったのだ。まさかこんな……。
一度の浮気も許せないような心を己が抱えるなんて。
「テッド、待て、おまえが嫌ならこんな誘いは断るぞ?」
後ろでルキノが甘言を吐いているが、ルキノの意思の問題ではない。テッドの心の変化の問題なのだ。
これは、非常にまずい事態である。
思ったより深く、ルキノにハマっていた。これは、関係が終わる時、シャレにならない痛みを伴う。
テッドは急いで、ルキノと共に暮らすヴェレノとフィオーレの丁度、間、ヴィスコンティの家領にある古屋に帰った。急いで荷物をまとめ、実家に帰宅の一報を入れる。
ルキノとはしばらく、距離を置こう。
気持ちが落ち着くまで遠ざけよう。幸い、ルキノはもう両職をバランス良くこなせるようになって、取り巻きの中には家事を手伝いに来られるような、暇のある者も居る。例えばあのテリーなどは、テッドの後輩で良く気の利く良い男だ。見た目は地味だがひっそりとした色気がある。欲求不満になったルキノが、テリーに手を付けるのはとても自然な事のような気がした。テリーの方も、ルキノに心酔して取り巻きをしているぐらいだから、求められれば応じてくれる。
男性経験の有無は不明だが、テッドだって始めは女しか受け付けないと思っていた所を男に目覚めさせられたのだから、どうにでもなるだろう。
そう思って、いざ古屋を後にしようとキャリーケースにまとめた荷物を手に、玄関を出た所でルキノとその武闘派子分のジジ、テリーに出くわした。
「どこに行く気だテッド、血迷ったのか?」
ルキノの声は怒りに満ちており、ジジがテリーと視線を合わせてコクンと頷くのが目の端に映った。やばい、捕まってひどい目に合う。
当然、逃亡の道を選ぶ。
するりと古屋の内側に引っ込むと鍵を掛け、反対側にある大窓に走る。古屋は住宅地から少しだけ離れた丘の上にあり、広い窓を飛び越えると目の前は小さな崖だ。
一人分の細い通り道が、剥き出しの崖に縄を巻いたような手すりだけを頼りに彫られており、そこを駆け下りる。危ない行為だが、緊急事態。運動神経は良い方で、怪我なくこなせる自信があった。
滑るように道を下るテッドを追って、テリーとジジもそこを早足に降りて来た。
ごしゃっと何か嫌な音がして、振り返るとテリーが足を滑らせていた。ジジが咄嗟にその手を掴んだが、テリーの身体の九割は道の下、つまり小さな崖に垂直に落ちるのを待つ、ブラブラと揺れた状態になり、誰かの助けが必要になっていた。
「おい、待ってろ、頑張れ!!兵士呼んでくっから!」
怒鳴って、走って数分の民家に駆け込むと緊急連絡を入れて貰い、家主に交渉をしてベッドを一緒に運んで貰う手筈を整えた。
ベッドは大人二人には重く、のろのろとしか進めない。
頭の中に、何度も建物四階分の高さのある崖の上、ジジとテリーの手が汗で滑り、テリーが落下する映像が流れ、くらくらした。テッドがバカな気を起こして、あんな危険な道を逃げようとしなければ。
悔いても始まらないが、ベッドは手に食い込むばかりで、ちっともテリーを助けに急いでくれる様子がない。こんな速度では、間に合わない。
「おぉい、誰か手伝ってくれ、ルキノさんのお友達が死にかけてるんだぁ」
助けを求めた家主が、移動しながら通行人に声を掛ける。
ルキノの一族が所有する土地の市民として、人々はわらわらと集まって来た。
「大変な事態ね、なぁに、それを運ぶのを手伝えば良いの?」
「丘の方だな」
「ははぁ、誰か足を踏み外したな」
「ルキノさんのお父上にはいつもお世話になっているからな」
「あたしはルキノさんにも面倒見て貰ってるわ、研究センターの体制が色々変わったでしょう?
あれで通院が楽になったのよー」
「ん?!」
しかし着いてみると、崖にテリーの姿はなく、崖の下にジジが膝をついて青い顔をしているのが見え、まさか、とテッドは最悪の事態を想定した。
「大変、もしかして?!……間に合わなかった?!」
市民の一人が、辛い現実を口にして、テッドは足から力が抜けるのを感じた。
「ああ、何という事だ、どうか根の神のご加護を」
家主の呟きに、市民たちが同調する。
「神よ」
「お助けください」
皆、口々に己の信じるものに頼る台詞を吐き、足を止める。
テッドは居ても立ってもいられず、崖下に走った。
「センターに連絡入れてください」
叫びながら足を前に前に出す。
その足が、止まったのは崖の下に倒れているのが赤い髪の男であったため。ジジの後ろで、テリーが泣いているのが見え、ルキノが何かしらの手段で、テリーを救ったのがわかった。
テリーを救い、自分は……。
「あぁ、ダメだ、怖い、……絶対に嫌だ、嫌だ嫌だ嫌だ」
心の中の呟きが、口をついて出た。
とても近づけない。その恐ろしい事実が、横たわっているその場所に身体を持って行く事が出来ない。
「無理だ、無理だ、無理っ」
ポロポロ涙が出て、浮気ごときに打ちのめされていた数時間前の自分を呪う。あの時、ルキノは生きていたのに。
生きていてくれている、それだけで十分だったのに。
「ぁ、テッドさん!!」
テリーに呼ばれて、びくっと身体が揺れ、現場に背を向けた。とても耐えられない。
「ちょ?!ウソでしょ、なんでこの状況で逃げられんだよ?!待って!!ルキノさんが、……ルキノさんが」
耳に手を当て、テリーの声が聞こえないようにして、崖を背に走り出す。
ルキノは早くから世間に才を認められ、その上家柄にも恵まれた。人は皆ルキノを運の良い男だとみなし、ルキノの努力から目をそらす。しかしテッドはこれまでルキノほど懸命に生きている者に出会った事がなかった。
小さな頃から、人より器用に出来ることが多く何でも無難に「こなす」ことで生きてきたテッドにとって、ルキノは奇妙な偉人だった。世間を驚かす天賦の才を持ちながら、感覚は人とズレており、日常に必要な細々した雑事が、恐ろしく不器用。
しかし己に与えられた才の分を見極め、その力を高めるため努力を惜しまず、己の持つ全て、才も親の金も、運も手繰り寄せ、全力で人生に挑戦する。
欲望に忠実で、他人の痛みを理解しない、利己的な一面も持ち合わせていたが、目一杯、行けるところまで行こうとする男。常に己に目標を立て、成長しようとするルキノの生き方は眩しかった。テッドにだけこっそりと弱みを見せ、外では若さで舐められぬよう、毅然として振る舞う。そんなルキノが誇らしく愛しかった。
「テッド」
ルキノの声が、耳の奥に蘇る。
「テッド、止まれ、……俺から逃げられると思うな、止まれ」
すぐ後ろから聞こえるような、確かな響きを持って、テッドを包んだ。
「いい加減にしないとこの場で犯すぞ、人でなしめ」
止まれと言われている気がして、足を止める。
ルキノの霊が、別れを言いに来たのだろうか。
「ルキノ……」
振り返ると、果たしてそこに、ルキノは居た。
「おまえは、どこまで逃げれば気が済む?!俺が死んだんだぞ?!駆け寄るとか泣くとか喚くとか、少しは」
「おまえと生き別れなんて無理だ、俺も死ぬ」
ルキノが言葉を失ったのは、テッドの顔があまりにボロボロだったせい。
目元も頬も、鼻も真っ赤にして、涙と鼻水と、口からは涎だ。
「酷いな、……いつもの、……『やりちん』が台無しだ」
「この場面でその単語出すなよ、バカ、……俺は、おまえだけ、おまえの、……俺も多分、一生を、いつでも棒にして良いんだ、おまえがいなきゃ生きてられないからっ……」
「テッド」
恐る恐る、近づいて手を伸ばすと触る事が出来た。
触った途端、ぎゅぅっと抱きしめられ土の香りがした。
死ぬと、人は土の香りになるのかとぼんやり思う。
いつもルキノから薫る、密林の熱気に似た野生の匂いが恋しくて涙が出た。このルキノは、確かにルキノだが、テッドと同じ時を生き、これからも横を歩いてくれる生者のルキノではない。この寂しさに、どんな名をつければいいのか。
「愛いことを、言うな、気が狂う」
「俺、おまえが居ないとダメなんだよ」
「……ダメになるのは俺の方だ、その台詞、そっくりそのまま返すぞ」
「ふ」
「だから俺の元から、去ろうとしたおまえには仕置きをせねばならん」
「もう、されてるだろ」
「……逃げた事を後悔させてやる」
「もうしてる」
「テッド」
家に帰ろう、と再び囁かれ、頷く。
そこには、テリーもジジも居らず、時空が歪んだような色をした逢魔が時の空があった。丘の上の古屋まで、二人で連なり登る。陽は沈み切り、空間の八割は暗いのに、うっすらとまだ明るいような不気味な道を、死んだルキノと進んで行き、古屋に付くなり、息を塞ぐ様なキスをされた。
ぬるぬると二つの舌が擦れ合う、その感触を楽しんでいると、ぎゅっと腰を抱かれ、古屋の寝室に誘われる。寝室は今朝、寝坊をしてぐしゃぐしゃにして出たままの姿で、無防備に散らかっていた。
「おまえの腕が痺れたり痛むのは可哀相だからな、毛布に縛り付けよう」
「縛……?」
「明日は休みだ、監禁プレイをする」
「プ、レ……?なんで、こんな、……わ、別れの時にそんな、……マニアックな……?」
「別れるつもりなどない、俺から逃れられると思うのか、本当に監禁してやろうか……?」
「ん、別に、その、逃げる気なんか、……もう無いけど、もっと、……あの、フツーの……」
もそもそと主張するテッドを無視して、ルキノはあっという間、テッドを毛布に縛り付けた。縄の変わりに黒いガムテープで巻かれたテッドの姿を、そっと写真に収める。
「ルキノ……?これ、楽しいか?」
「楽しい」
縛りつけられたテッドが、ベッドに転がる様子は一言で表せば背徳的。そこには蜘蛛の巣に掛かった昆虫のような憐れさがあり、切なく色っぽかった。
「変態だな……」
照れくさそうに、呟いたテッドの頬と耳を撫で、耳の中に指を入れて擽るともぞもぞと縛られた身体が動く。
「……さて」
初心者の縛ったぐるぐる巻きに、ハムのように体を絞られて身動きの取れないテッドに伸し掛かり、ルキノは目を細めた。
「俺には時間がない、あと二時間で行かないと……」
「二時間?!……って、そんな、マジか、……そしたらやっぱり、ちゃんと正常位で……!!」
目を潤ませて、正常位を訴えるテッドの頭を撫でる。
「縛っているのは上半身だけだ」
足が開くのだから、問題ないだろう。ルキノの言い分に、テッドは口を尖らせた。
「ぉ、ぉれが、ルキノに抱きつきてぇんだってぃぅ……」
小声だが、はっきりと聞こえたその要望に、ルキノは頭の中が真っ白になった。
「今日のおまえは何なんだ?」
天変地異に見舞われた農民のように、困惑した顔でテッドに問うと、テッドはいじけた顔をしてそっぽを向く。いつもはそれで終わりになる会話だったが、今日は、ぽそりと言葉が聞こえた。
たまには俺にもぎゅっとさせろよ。
むくれ半分、泣き声半分、焦っているような様子に胸が締め付けられた。
「可愛すぎる」
震えた声に、興奮が混ざる。
「なぁ、触りてぇ」
喚くテッドの性器に手を当て、手の平にころりと当たる二つのものを転がす。
「ルキノ、……っ……ほどけよ」
「ほどいたら逃げるだろう?」
「逃げ、ねぇよ、……むしろ追う?」
「何を」
「おまえの事……」
「……俺はおまえの元から逃げたりしないぞ」
「ふ」
形の出来上がった竿を二つの指でするりと挟み、上下に擦る。
「ぁ、……ぁっ、……ぁ」
テッドの口から、声が漏れるのを心地よく聞きながら、覆いかぶさって耳の穴に舌を入れる。同時に、尻の穴にそっと指を入れる。
「うぁ、あ、……ん、っは……」
「テッド、……可愛いな、おまえは本当に可愛い」
丹念にほぐしてから、尻の穴に今度は性器を挿れる。
「ぅぁはっ……?!あ、ぁぁ、……しが、み、つけねーの、ケッコー、不安っ、かも」
「不安?」
「おまえの肩とか背中、触れないと、俺、おまえに触られてるとこ……、ルキノの事、感じられるとこケツん中と乳首と、耳ん中だけだ」
「っ……」
切なげに呟かれてルキノは急な射精感に襲われた。テッドの快楽を煽ろうとゆっくり腰を動かしていたのに果ててしまって、気まり悪そうに、はぁはぁと息をして、テッドと目を合わせた。
「あれ?言葉責めで感じちゃった?」
テッドは涼しい顔で、憎たらしい事を言うと、くっと笑った。それから、また涙ぐんだ。
「このまま、は、やだ、……から、……ほどけよ」
ただならぬ様子に、従うとテッドはルキノの身体にぎゅっと抱きつき、号泣した。
この後、ルキノが死んでいない事を知ったテッドの一人恥ずか死に大会が開かれたのは言う迄も無い。
2015/04/26
ルキノに掛かると、テッドもおバカに。おかしい……彼はこんなバカキャラじゃなかったんだけれども。
tpでいる時のテッドは素で、ルキノといる時のテッドはペース崩されて一杯一杯って感じでしょうか。
<救出劇 おまけ>
アウレリウス兵士の訓練を受けているルキノはその技術を駆使してテリーを助けた後、自分も低い位置で滑って土塗れになって転がり、気絶したのが真相(ドジ)。