からめ

『泣いた青鬼』(尽くし系強面×恋多き紳士)



 『怪PR社』の営業部フロアは、第一第二第三を壁でハッキリと分けている。しかし透明に透き通ったその壁は、音こそ遮断されているが、誰がどんな動きをしているのか見渡せるようになっていた。

 個人プレイヤーの多い第一営業部は今日も人影がなく、人海戦術が得意の第三営業部はどうやら集団行動を乱した誰かが誰かに叱られており、それをチームメイトらしい者達が見守っている。
 青鬼の治める第二営業部は、個人プレイヤーが多いものの、それなりにチームでの仕事も多いので雑談で盛り上がっている者達がちらちら居る。
「青鬼さん、これ、大変なゴシップ写真、見つけちゃいましたよ~」
 のっぺら坊種の自由人、野平によって、さっそく青鬼も雑談に巻き込まれた。
 昭和30年頃の街中スナップ写真である。白黒テレビが出た頃だ。写真の中央には、気難しい顔をした老人、人の姿をした青鬼が孫と手を繋いで映りこんでいた。
「これ、青鬼さんですよね?実装ですか?」
 パソコンのデスクトップに送られて来た写真に、青鬼は目を細めた。
「こないだ休暇を取った時のものだな」
「え、それじゃぁ……」
「ああ、実装はしていない、人の皮を被っている」
「記憶ごと人をやってたんですか?」
「せっかくだからな、両親も人を選んだ」
「贅沢ですね~」
「戦争が起こって散々だったが」
 妖怪の休暇は、肝無しで生活が出来る「人になる」事である。『人の皮』は高額だが良いものは百年もつし、その間、人のように生きられるため、妖怪として働かないでいられる期間を設けられる。
「あ、確か、赤鬼さんと一緒にお休みされたんですよね?」
 雑談の中に、牛鬼が紛れて来た。
「そうだ、あいつから誘って来て、私は付き合いだったんだが、あの男……戦争で人の皮を失ってな、何を思ったか未練がましく人として生きている私に取り付いて来て、おまえもさっさと休みを終わらせろと……まったく身勝手な」
「そいつは身勝手ですね」
 苦笑する牛鬼に、そういえば、と野平を見つつ話を振った。
「おまえらも最近、二十年ものぐらいの『人の皮』を使って、揃って休んで来たばかりなんだろう?」
「あぁ~、そうですね、最近まで。楽しかったですよ~」
 星の数程いる妖怪同士、長寿といえど顔見知りになる機会は少ない。
 野平と牛鬼は江戸中期から交流を深めていたらしいが、青鬼はこの二人に出会ったのは、二人が会社に入って来てからだ。
「幼子の目線は久しぶりで新鮮でした」
「牛鬼は中学の先生に悪戯されたよね」
「おい、余計なことばらすな」
 衝撃の過去を他人に暴露された牛鬼が、顔を赤らめたところで、牛鬼の営業補佐、小豆がやって来た。
「皆さん仕事してください」
 牛鬼や野平と違い、小豆は真面目だ。
「それと青鬼さん、赤鬼さんがお呼びです」
 透明な壁の向こう、第一営業部の赤鬼がこちらを見ていた。
 溜息をついて席を立つ。きっとまた身勝手な話を振られるのだろう。

 『怪PR社』は2001年に設立された若い会社で、それなりの規模に成長して来てはいるが、妖怪世界の目で見るとまだまだ赤子のような会社である。
 科学技術が人の世で発達するのに従って、人の心が妖怪から離れていった近年、人の心、妖怪用語で言うところの『畑』から取れる肝が不足し始めた。妖怪達は、人の肝を取るための知恵を出し合い、計画的に行動を起こすようになった。これまで、個人単位で行っていた収穫を集団単位で行うようになった。人の世を真似、会社を作り、利益を出す方法を考えるようになったのだ。
 青鬼は平成に入るまでずっと妖怪会社への勤めを渋っていた妖怪であり、妖怪社会人としては新米だ。野平や鎌立、狼山などに比べれば、長く勤めているものの外に出れば赤子のような扱いを受ける。

「よぅ、青いノ」
 赤鬼はギラリと鋭い黒目で青鬼をひと睨みすると、黒い部長椅子に背を預けた。地位は同じなのだから、席を立って出向かえるべきだろう、とばかりに戸の傍で待っていると手招かれる。
「席を立て赤いノ、私はおまえの部下じゃないぞ」
 赤鬼のもとに歩みを進めながら抗議すると、赤鬼はふんと鼻を鳴らし、消えた。
 ルノアールでいいか?と耳元に声が聞こえ、赤鬼が妖力でさっさと移動した事がわかる。
「妖力の無駄使いだ、妖力車か徒歩で行け、東武バスでも良い」
 赤鬼は川越駅前マインにあるルノアール、喫煙席で、人間のサラリーマン客に混じり寛いでいた。ジャラジャラした金属で全身を飾り、高いスーツを着て、あの酷い目つきで周囲に睨みを利かせている赤鬼の姿を、青鬼は恥じていた。どこからどう見ても極道者である。
「妖力車は嫌いだ、気味が悪ぃ」
 鼻と眉間に皺を寄せて、煙を吐き出す赤鬼から煙草を取り上げる。
「妖怪の癖に、何を人ぶっている」
 赤鬼の吸いかけを肺に送ると、肝の薫りがした。
「肝入りか?人のブランドだが?」
「最新の技術で肝を混ぜてる、良いだろ」
「箱で寄越せ」
「横暴な」
 話をする場所に妖怪の店ではなく、いちいち人の店を選ぶところも鼻につくが、自分は人の文化に通じている風を前面に押し出し、実際に人の文化を取り入れる妖怪技術にアンテナが高いところも、気に食わない。赤鬼はいつも人の世ばかり見ている。
「この煙草を今度サンプリング販促したいんだが、規模がでかい」
「うちから何人か貸し出せというんだな」
「さすが話が早ぇや、牛鬼か野平を貸せ」
「どちらも駄目だ、うちの目玉になる大型案件を抱えている」
「鎌立は?」
「駄目だ、野平と組んで、超大型の案件を抱えている」
「傘本は?」
「初めての中型案件と格闘中だ」
「鵺……」
「野平や鎌立と共に超大型を進めている」
「おい、お互い扱うもんは大型ばかりなんだ、そこんとこを少し妥協してくれねーと」
「狼山なら都合できるが?」
「ド新人じゃねーか、いらねぇよ」
飛頭はどうだ」
「うちの風紀が乱れる」
「巨乳は嫌いか?」
「貧乳派だ」
 互いに、話が逸れたと思ったために一呼吸を入れて、フワフワとした椅子に背を預けた。平安時代には、敵対する陰陽師に使役され、闘った事もある仲だが、今は互いのために協力する立場にある。赤鬼との関係は時と共によく変わる。
「それなら、玉天狗はどうだ?」
「企画部に移動するんだろ?」
「十二月まではこっちにいる、今は引継ぎの作業がメインで、新規の仕事はない」
「玉天狗か……」
 うん、と唸って考え込んだ赤鬼に、青鬼は言いたい事があった。玉天狗は青鬼に気があり、ちょっかいを掛けて来る。おまえは、その事をどう思うのかと。自分達は何度か蜜月を過ごしたが、いつも年月と共にその愛は風化した。気がつくと互いに別の相手がいたりして、あまり長続きする事はなかった。今はどういう気持ちでいるのか。玉天狗の気持ちを知ったら、赤鬼はどんな反応をするのだろう。青鬼が昭和の時代に、「人」をやった際の赤鬼は酷かった。青鬼が結婚した女や娘、孫の前にしょっちゅう現れて、青鬼は呪われていると吹き込んだ。おかげで妻や娘、孫に恐れられた青鬼は孤独になり、時折姿を現しては自分を抱く赤鬼の虜になった。死んで妖怪の記憶が戻ってからは、自分の「人」休みを台無しにされた事に気がついて赤鬼を恨んだが、その恨みも五十年経った今は消えた。あの時、自分に憑りつく程、自分に執着を見せた赤鬼は何を思っていたのか。今、その気持ちはどうなっているのか。
「天狗は好かんか?」
 苦い顔の赤鬼に問うと、赤鬼は口をへの字にした。
 それから、「好かん」と素直に認めた。「私も好かん」と笑うと、少し考えて言葉を選ぶ。
「だが、玉天狗は仕事が出来る、きっと役に立つぞ」
 我侭だがな、と心の中で付け加える。勝手な赤鬼と我侭な玉天狗が、どのように協力体制を築くのか見ものだな、などと悠長に構えて、青鬼は玉天狗を赤鬼に貸す事に決めた。
 ガヤガヤした声が聞こえ顔を上げると、午前中の買い物帰りと見える客などが、ルノアールの薄暗い店内に入って来ていた。
「良い時計だな」
 ふいに指摘されて目をやると、腕の時計は十二時を指していた。青い腕にピッタリ収まっている銀色の腕時計は人の職人が拵えたもので、細かな装飾が施されている。人として死ぬ時一緒に焼いてもらい、こちら側に持って来たものだ。
「やらんぞ赤ん坊」
「いらんわ青二才」
 そこで、憎まれ口を叩き合う青鬼と赤鬼の席に、ちょうど人間が割り入って来た。体の中に、人間が侵入して来る気持ち悪さといったらない。こういう時、見えている側と見えていない側で、どちらが不快を覚えるかというと、もちろん見えている側だ。人間には青鬼や赤鬼は見えていないが、青鬼や赤鬼には人間が見えている。自分の半分まで入って来た老婆に、赤鬼は舌打ちして席を譲った。
 妖怪店員が申し訳なさそうにしているので、大丈夫だと一声掛けると会計を済ませた。

 『怪PR社』は妖怪メトロ『時の鐘駅』直結のオフィスビルに入っており、贅沢にも地上に近いB1~B5階を丸々使っていた。オフィスビル自体はB29階まであり、妖怪メトロと通じる最下階は壁と床が透明で、地下に栄える妖怪都市が見下ろせるようになっている。
 午後八時。遅い帰社になったなと腕時計を見てから、青鬼は今日あった事を振り返った。午後の営業は上手く行き、受注に繋がる予感がした。また忙しくなる。問題は午前中、赤鬼に相談された内容だ。玉天狗に何と言って説明しようか。
「青ノ旦那」
 早口で呼ばれて、振り向くと第一営業部のマネージャー、鶴種の鶴 永吉(つる えいきち)が窓辺の歓談ソファから立ち上がった処だった。人の世の夜景にも似た、闇の中を蠢くカラフルな光の景色、妖怪都市を背にした鶴は映画俳優のように軽やかにこちらに歩いて来る。
「鶴……」
 待ち伏せされていたらしい。
「チョイとお時間頂けますかぃ?」
 詰められる事がわかっているので、時間など一秒も与えたくない。しかし、そこは大人である。何だ、と短く応じた。
「昼にうちの大将から相談を受けたろう」
 妖怪都市のネオンに照らされた鶴の整った顔は、幻想的で美しく、目に心地が良い。しかし油断してはならない。鶴は赤鬼の右腕だ。
「私の人選が気に食わないんだな?」
 当たりをつけると口端だけツイと上げ、御名答、と目を細めた美男子は腕組みをして、さらに近づいて来た。
「うちの状況を考えた上での判断だ、覆る事はない」
 昔から綺麗なら、男でも女でもぺろりと平らげて来た色好きの青鬼にとって、鶴はつい気を許したくなってしまう対象であり、困った相手だった。近い距離から上目遣いにされ、ほだされそうになった自分を叱り、睨む。
「怖い顔したって駄目だぜ旦那、アンタだって知ってるだろ、うちの大将と玉天狗は敵同士だ」
「敵同士とはまた旧時代的な!確かに鬼種と天狗種は不仲だが、そこは現代人として、互いに尊重し合えば乗り越えられる、現に私と玉天狗はこれまで上手くやって来た」
 種を越えて力を合わせようという、妖怪協定の思想を盾に言葉を作ると、鶴の目は怒りを宿し一瞬煌めいた。誤魔化しが通じない男である。
「おいおい、しらばっくれるなよ、そういう問題じゃないんだ、うちの大将も玉天狗も、揃ってあんたに気があるだろう、二人は牽制し合ってる」
「おまえの妄想に付き合う気はない」
「こっちこそあんたの逃げ口上なんざ聞きたかねぇさ、俺はただ第一が荒れるのを防ぐために、こうしてあんたを待ち伏せたんだよ、玉天狗以外の奴を寄越せ」
「無茶を言うな」
 これは話が長引くと互いに悟り、黙ってフロア内に併設された喫茶に足を運んだ。
 改めて正面で向き合うと、真っ直ぐに引かれた眉や細い目、睫ひとつひとつの傾きなど、丁寧に作られた人形のような鶴の顔は、一瞬ぎょっとする程美しい。和装の肌蹴た胸元なども妙に性的だ。
 赤鬼が弱っていた幕末の頃、陰間をしていた事もある癖に、鶴はあまり男の目を意識しない。自分の見た目を客観視して、出来たら肌を隠す格好をしていて欲しいものだが、これは赤鬼が口を酸っぱくして言っているらしいので、青鬼は触れないでおくべきだろう。
「なぁ青ノ旦那、俺は何も牛鬼や野平、鵺を貸せと言っているわけじゃねぇ、鎌立か傘本……あの辺りだ」
 頼んだアイスコーヒーに、次々とガムシロップを入れながら、鶴は行き成り本題に入った。
「五つも入れるのか?」
 咽喉が痛くなりそうな味を想像して指摘すると、鶴はキョトンとして甘いのが好きなんだと漏らした。
「鎌立ならうちの大将のお気に入りだし、組んでる相手は鵺と野平だろ?あの二人なら鎌立の抜けた穴ぐらい埋められる」
「鵺は最近、お子さんの調子が悪いそうで忙しくあまり頼れない、野平は次期マネージャーだ、玉天狗から引継ぎの仕事を受けるので忙しい、実質、鎌立が色々と動き回っているんだよ、勘弁してくれ」
「それじゃぁ、傘本の持ってる案件、狼山辺りに引き継げねぇのかよ」
 ミルクも二つか、とうんざりした思いで鶴の手元を睨みながら、青鬼は窓の外、妖怪タウンの煌びやかな光を見つめた。壁も床も透明なせいで四方から入って来る七色のネオンが、静かな空間を賑やかに錯覚させる。
「傘本は今、ようやく掴んだ中型案件に対峙してる、最後までやらせてやりたい」
「チッ、妥協って言葉を知らねぇな」
 鶴は不貞腐れたような顔をして、ドロドロのアイスコーヒーを一口飲むと、懐から手帳を出しパラパラと捲った。
「それじゃぁ残るはアンタだな、手下(てか)に調べさせたんだが、毎週木曜の朝に定期訪問しているC客が居るだろう?」
 手下を『てか』と呼ぶ鶴はいつになったら補佐と言い方を直せるようになるのか。岡引の時代が長かったのがいけないのか。
「C客だとしても入ると大きい会社だ、疎かにする事は出来ない」
「大丈夫だ、俺が責任を持って定期訪問してやる」
「……」
「その代わり、あんたは今回の煙草サンプリング案件の方に、うちの大将と一緒に訪問してくれ。新規取引でKPIの設定もまだなんだ。第二と協力してこなすのに、無理のないような握りをしてきてくれ。玉天狗と大将で訪問したんじゃ先方の前で喧嘩しかねないからな」
「成る程」
「それでよぉ、余計なお世話かもしれねぇが、こうして毎週のデート時間確保してやった事だし、さっさとくっついてくれないか、大将はアンタに前の「人」休みで酷ぇことしたの気にしててよ、臆病になってるんだ、ここはアンタがひとつ大人になって、男心汲んでやってくれ」
「……か、勘違いしてくれるな、私と赤鬼は!」
「好い加減、腹決めてくんねぇと、俺が大将とっちまうぜ」
「……」
 悔しい事に、言い返す言葉が思い浮かばず、呆然としていたら伝票を持っていかれた。目下の者に奢られるなどと慌てて席を立ったが時は遅く、鶴はあっという間に支払いを済ませてしまった。
「おい、これを」
 札を出したが緩く笑われて撒かれてしまい、鶴はもう帰りだったらしい、メトロの方面に去って行った。艶かしい後姿に、ヒリヒリと焦燥感。長く赤鬼の傍で、赤鬼を支えてきた鶴に本気を出されたら、という恐怖が、青鬼をその場に縫い付けられたように立ち尽くさせた。

「よぅ、青いノ」
 問題の木曜朝、赤鬼は相変わらずのやくざな格好で、JR王子駅すぐの飛鳥山公園をふらついていた。妖怪メトロ『飛鳥山公園』駅から昇り出てすぐ、時間も早いしと園内に足を進めたら二歩で出会った。
 顔に似合わず、小動物好きである赤鬼の足元には、数匹の猫がじゃれついていた。
「その毛玉ども、何とかならないか?」
 反対に青鬼は愛らしい小動物が苦手であり、頬がひきつくのを押さえられなかった。
「何だ、蛇は飼いならす癖に」
「蛇には毛がない」
 生理的な問題だ。
「ちょっと待て、それじゃぁ写真だけ」
 大きな手で足元の猫を救いあげると、一匹を肩に、一匹を手に乗せて顔を近づけ、ポーズを取る。撮れという事か。
 要望に沿って、iPhoneで撮ってやると赤鬼は素直に猫を茂みに返した。一匹が名残惜しそうにニャーニャーと鳴いてついて来たが、赤鬼が相手にしないとわかるとトボトボと帰って行った。
 飛鳥山公園は植物が多く、広い道はジョギングする人間や、木々に挨拶廻りをする妖精で溢れていた。頂上の売店裏に妖怪メトロの出口がある関係で、JR王子駅までは公園を降りていく必要があった。
「撮った写真だが、どうする、送るか」
 鳥の鳴き声や木々の囁き、妖精の笑い声が自然の道を包んでいる。気持ちの良い空気に毒されて、横を歩く赤鬼の手を握ってしまいたいな、などとらしくない事を考えた。
「あー、鶴に送信してくれ、俺の方にはいらん」
 そこで、チクリと一刺し。
「どういう事だ?」
「あいつ、オッサンと猫って題名でフォルダ作ってるんだ、コレクションに加えてやろうと思ってな」
 鶴は第一のマネージャーであると同時に、赤鬼の補佐でもある。普段、行動を共にしているせいで、赤鬼と猫の組み合わせを多く見かけ、その度に撮った写真が溜まって行ったのだろう。強面の赤鬼と愛らしい猫のミスマッチに、上機嫌で携帯カメラを構える鶴の姿が想像でき、これまでは何とも思わなかった心が、少しだけ萎縮した。
「美人補佐にからかわれて好い気になっているんだな、格好悪い事この上ないぞ赤鬼、鼻の下をのばしすぎておかしな顔にならんよう気をつけろ」
 猫と赤鬼の写真を眺めながら、憎まれ口を叩くと赤鬼の顔は一気に不機嫌になった。
「いいから送っとけ、青二才」
「ぐずるな赤ん坊、朝からおまえと顔を合わせているこっちの身にもなれ、景色はこんなにも爽やかなのに、私の心はどんよりと暗い」
「ふん、嫌われたもんだなぁ、……まぁお互い様だがよ」
 何故か、今日はいつもより口が辛い。
「大体、おまえは鶴に尻に敷かれすぎだ、色魔人め」
「あ゛ぁ?!」
 長く生きているせいか、同じ相手と何度もくっついては別れを繰り返す。その度に、辛く苦しい思いをしたり、喜びでおかしくなりそうになったりする。いつになったら淡々と冷静に、恋路と向き合えるようになるのか。
「うちの飛頭には身だしなみを注意する癖に、鶴にはあんな格好でふらふらさせて、身贔屓も大概にしろ」
飛頭は女で鶴は男だ、並べるな、……それに、俺は鶴にだって忠告してるぞ、あんまりその、誘うような素振りを見せるなと」
「誘う?」
「あれは一時期、陰間をやっていたからな、変な色気がついちまって、ちょっと弱ってんだ、無意識なんだろうが、こう、つい目で追っちまうような仕草が多いというか」
 敵は思いの他、進軍していたようである。
「そりゃぁ赤ん坊、てめぇが鈍感なだけだ、事実、鶴はてめぇを誘ってるんだよ、一回抱いてやれ」
 なるようになれと、葉っぱを掛けると、赤鬼は苦虫を噛み潰したような顔で、顔の前で手を振った。
「ねぇねぇ、鶴とはもう百年も前に終わってる、幕末の頃は確かにそういう関係にもあったがな、お互いもう何とも思っちゃいねぇはずだ、俺が攘夷で力を使い果たして消えかかった時、陰間してまで復活さしてくれた時は、鶴程の相手はこの先現れねぇとか何とか思ったが、明治に入った途端、よりによって西洋妖怪と浮気されてな、ありゃぁ苦い思い出だ、陰間の奉公だって、単に股のゆるいあいつの性に合ってただけかもしんねぇしよ」
「長年の相棒に何て言い草だ」
「相棒なんて綺麗な仲じゃねぇよ、腐れ縁だ」
 幕末の頃といえば、青鬼は赤鬼と共に攘夷に明け暮れていた。この頃の青鬼には人の恋人があり、鶴と赤鬼に関係があろうが、なかろうがどうでも良いという立場だった。しかし、今は二人が気になって仕方がない。この感情は、いくつになっても厄介であり不愉快であり、青鬼の苦手とするところだった。

「やっぱり、大将と青ノ旦那に商談行かせて、正解だったな」
 鶴が満足気に、商談記録を手にニヤニヤしている。自分の采配に満足し、悦に浸っているのだ。鶴の掌の上で転がされている気分になり、青鬼は溜息をついた。
「おっと幸せが逃げるぜ」
 鶴は目敏く青鬼の溜息に反応すると、ひらりと記録用紙を青鬼の前にかざした。
「いやぁ、さすが青ノ旦那だぜ、商談の流れは全て大将の望みのままだ、アンタが口を挟んだ形式が一つもない、第二に振られる仕事の量ぐらいか?アンタならこういう対応してくれるって思ってたよ、アンタは補佐の同行って決めたら、とことんお口にチャックしてくれるタイプの男だ、玉天狗じゃそうはいかねぇ、こいつはこうだって閃いた事は口にしないと気がすまねぇからな」
 小会議室はテーブルが低く、向かい合う相手の足元まで見える。和装の隙間から覗く鶴の艶かしい足が気になって、先程から青鬼は書類に集中できずにいた。
「鶴さん、太腿見えてます」
 盗み見る青鬼を他所に、玉天狗が指摘した。
「ほらこれだ、見えてんじゃなくて見せてんだよばぁか」
「誰に見せてるんですか?」
 鶴の隣に腰掛けた玉天狗は、芸術家風の髭をぴくぴくさせながら、じっと鶴の美しい腿を見つめた。歌謡曲を良い声で披露しそうな玉天狗の風貌を、ダンディと褒める女怪社員は数いるが、青鬼は賞賛出来ずにいた。すらりと背が高く、優しい玉天狗であるが、頑固で我侭という悪い側面ばかり知っている身としては、あまりオススメできない物件である。
「青鬼さんを誘っているなら無駄ですよ、彼は僕以外には興味がないんですから」
「決め付けるな、さっきからムラムラしている、鶴は一回私に抱かれた方が良いな」
「青ノ旦那、セクハラって奴ですよ、俺はもう陰間は引退してんだからね」
「冗談だ鶴、気分を害したなら謝る」
 青鬼と赤鬼、玉天狗並びに第一の数人が絡む大規模な煙草サンプリング案件は、『鬼加工株式会社』からの発注である点から社内では「鬼煙草案件」と呼ばれていた。月一で大規模な会合を開き、全国展開に向けて動いている。会合前にこうして、青鬼と玉天狗、赤鬼と鶴の四人で簡単な打ち合わせを行っていた。
 赤鬼と共に臨んでいる毎週木曜朝の商談内容を、玉天狗や鶴に情報共有し、会合は二人が資料を作成して進行する。
「何がセクハラだ馬鹿っ鶴、そんな色魔みたいな格好してやがるからだろ、変な目で見られんのが嫌なら明日から洋装で来い」
 この間、青鬼に指摘された事を気にしていたのか、いつになく強い口調で、赤鬼が鶴を嗜めた。
 驚く青鬼と玉天狗を前に、鶴は少しばつの悪そうな顔をして黙り込むと、するりと出ていた足を着物の内側に引っ込めた。社内の妖怪の半分はまだ和装で、鶴のようにだらしない格好でいる者が二割。鶴が叱られる言われはないのだが、意識してしまう側としては、鶴が堅い和装かいっそ洋装になってくれると助かるのだ。
「よく言った、赤いノ」
「貴方が言わなければ僕が言っていましたよ」
 青鬼と玉天狗の賞賛を得て、赤鬼は少し得意顔になり、わかったな、鶴、と年頃の娘の父親のように言った。
「糞オヤジが」
 鶴がぼそりと反撃したが、皆、聞こえなかったふりをした。

 「鬼煙草」案件もついに終盤、長かった下準備を経て、ついにサンプリング販促が開始された。各地の地下施設でのイベントと、居酒屋やカラオケ店を中心とした喫煙者へのキャンペーンガール派遣が行われ始めたのだ。データを揃えた上で動いているため、そこまでの不安はないが広告効果は水物である。青鬼は休日を使って、地下施設のイベントに繰り出した。ロック歌手のライブの合間に宣伝を入れ、その場で配るのと会場の脇に数個用意するのとで手を打っている。昔はテレビや映画でCMを流したり、ポスターで宣伝する事が出来たが、煙草の規制が厳しくなり、こうした地道な活動がメインになってしまった。喫煙人口が限られて来たというのも原因の一つで、あまり派手に広告をうつ予算もない。こんな処まで人の世の影響を受けなくても、と喫煙者である青鬼は思う。
「休みに呼び出して悪かったな」
「もとから来る気だったから気にすんな、こっちこそすまねぇな、うちの大将、だらしねぇもんで」
 今日、赤鬼は昼から酒を飲み潰れてしまい、結局夕方に開始するこのイベントに足を運んだのは青鬼と鶴のみだ。会場の盛り上がりを一段高い関係者見学席から眺めつつ、横にいる鶴の洋装に、胸騒ぎを覚える。
 鶴は赤鬼に叱られてからというもの、洋装で出勤して来ており、赤鬼に対する思いの深さを見せ付けられたようだった。
「もう和装はしないのか?」
 身勝手なことに、また鶴の艶かしい和装が見たくなって着た青鬼は、休日の和んだ空気の中で、つい聞いてしまった。
「大将に叱られるからな」
 しょんぼりした鶴の横顔に、そんなにも赤鬼を、と危機感が募った。青鬼は赤鬼に禁止されたぐらいで、自分の自由を諦めたりする玉ではない。しかし鶴は違う。鶴は赤鬼に従順だ。鶴には勝てないかもしれない。失恋の予感がして咽喉奥が震えた。
「でも、青ノ旦那が見てぇってんなら、話は別だ」
「何?」
「帰りに寄ってかねぇかい、家ではこれまで通り和装だからよ」
 赤鬼に想いを寄せる者同士、語らうのも良いかもしれない。
 頷くと、鶴は緩やかに笑った。絵に描いたような形の良い目が、細められて黒目がちな瞳が煌く。負けても仕方がない、鶴は綺麗だ。

 イベント終了後、売り切れたサンプリング煙草のコーナーを見て、青鬼は恋敵である事を忘れ、鶴と手を叩き合い喜んだ。コンサート会場で配られた煙草は全てはけ、サンプリング企画の一つは成功した。
 二人は近場で一杯飲み、ほろ酔い気分で酒を買って鶴の家に向かった。赤鬼に想いを寄せている身として、迂闊に他人の家に上がるべきではないとちらりと想ったが、相手は鶴だ。
「青ノ旦那、俺の家はこの真下だ」
 銀座五番出口からすぐ、今は洋菓子屋が入っているビルの前で鶴が止まった。下に沈むと、閑静な妖怪高級住宅地が現れた。でんとした面構えの日本家屋が立ち並ぶ一帯に、気後れして少し酔いが醒める。鶴の家はその中の一つで、なかなかの大きさだった。
「随分、立派な家だな」
「おぉ、陰間時代に客から貢がれたんだよ」
 表玄関から入るとすぐに広い庭が見え、見惚れていると、鶴はさっさと家の中に入ってしまい、慌てて後を追う。
「これだけ大きいと手入れが大変だろう」
「休日に色々やってくれる人を雇ってんだ、好い加減、固定資産税がきついから手放そうかとも思ってるが」
 ちゃぶ台の置いてある広い部屋に通され、腰を落ち着けると、すぐ傍に日干しして取り込んだばかりという体の布団が見えて緊張した。
 鶴にその気はないだろうが、布団というもの自体を意識してしまう浅はかな自分がいて、思わず目を逸らした。逸らした先で、洋装を脱ぐ鶴が見えてまた目を逸らす。
「懐かしい薫りがする、……良い家だな」
 正面のちゃぶ台を睨みながら、苦し紛れに言葉を吐き出すと、ぱさりと鶴の服が落ちる音が返って来た。
「そうだな、俺ぁ江戸時代、岡引だったから、こんな良い家で暮らすことぁなかったが」
 帰り道で買った酒を取り出して、煽る。酔ってしまえば、多少の事故にも良い訳が出来るだろう。まして鶴は陰間だった。いや、鶴に手は出さない。そんなつもりで上がりこんだわけではない。
「でも、ああ、大将の家なんかこんなだった気もするなぁ」
「同心時代か」
 思わず低い声が出たのは、『人の皮』を被って同心をやっていた赤鬼を思い出したからだ。今の世程、肝の取れ辛い時代でもなかったのに、何を人に化けて遊んでいるのかと軽蔑していた頃だ。
「大将は今も昔も人好きだ、アンタが人だった頃、何度も抱きに行ったのはあんたが人だったからだろうね」
 薄々、勘付いていた事をずばりと指摘されて、青鬼は急に、何か確信していたものを崩されたような気分になった。やはりあの時、赤鬼が青鬼を求めたのは、青鬼が人だったから。現に、今の赤鬼は青鬼に何もしてこない。それは青鬼がもう人ではないから。
 酒が廻り、心が弱くなっている。ポロポロと涙が零れだして弱った。鶴にこんな無様な姿を晒したくない。ぐいっと袖で涙を拭い、一瓶をラッパした。
「おいおい青ノ旦那、ヤケ酒は体に悪ぃよ、大将が勝手なのは昔からだ」
 着替えの途中で、止めに来た鶴の姿は目に毒だった。和装の帯が緩く、腹まで見える。鶴の体は痩せているくせにふんわりして、触り心地がよさそうだった。
「鶴……」
 名を呼ぶと、優しく手から酒瓶を奪われ、あやすように頬を撫でられた。本能が理性に勝ち、鶴の体を畳に押し倒すと、ふわりと花の薫りがした。
「誘惑が過ぎるぞ、この陰間」
 わざと嫌な言い方をしてやると、鶴は艶やかな笑みを浮かべて、青鬼の首に腕を絡めて来た。
「やっと落ちたな、このむっつりスケベ、一度アンタとやってみたいと思ってたんだ」
 なるほど、股がゆるい。
 赤鬼の言葉を思い出しながら、鶴の唇を吸おうと、顔を近づけたところでぴたりと迷いが生じた。
 赤鬼に自分が失恋するのは良い、だが、赤鬼を支える鶴を赤鬼から奪うのはどうなのか。
「ギブアップだ」
 そこで、どこからともなく声がして、思わず鶴から顔を離した。
 広い和室の奥、襖がガラリと開いた。
「遅ぇよ大将、俺の操、奪われそうだったぞ」
「陰間が良く言うぜ」
 赤鬼が襖の向こうから現れ、鶴がそれを当たり前のように受け入れる。青鬼は恐らく、嵌められた。
「どういう事だ、赤いノ? 鶴? 返答次第じゃ妖怪大戦争だぞ」
 怒りを抑えて聞くと、赤鬼が溜息をついた。
「いや、その、俺はだな、真実の愛って奴をだな」
「大将、きめぇ」
 補佐にスパリと切られて、赤鬼は口をつぐんだ。
「鶴、翻訳を頼む」
 鶴から身を離しつつ、乱れた衣服を整えた。酒の酔いが一気に醒めて行くのがわかる。
 自分でも意識しないうちに、青鬼は怖い顔になっていた。
「いや何、大将がなかなか青ノ旦那に素直じゃねぇからよ、ちょいと喧嘩になってな? このままじゃ青ノ旦那を玉天狗に取られちまうぞって脅したんだ、そしたらこの阿呆、それでも良いとか抜かしやがる、もう青ノ旦那の気持ちを無視した行動は起こさねぇって」
「……」
 なるほど、確かに「人」休みで赤鬼が青鬼に行った無体は許される事ではなかった。しかし、最後には青鬼も赤鬼を認め、愛していた。
「青ノ旦那が選んだ相手が、青ノ旦那を幸せにすんなら自分は身を引くってよ、そんな健気な玉かよ、だからこっちもかっとなってよ、俺が青ノ旦那をタラし込んでもかって言ったら、ああと言った」
 段々と話が見えて来て、怒りが呆れに変わっていく。
「じゃぁどこまで我慢出来んのか、我慢比べだってんでそこの襖に仕舞ってやったんだ」
「で、お前等が今にもおっぱじめようってトコで、俺が悲鳴を上げたってわけだ」
「だから言ったんだよ、あんたは青ノ旦那を誰かにやるなんて事、絶対できやしねぇんだ」
「うるせぇ鶴、黙ってろ」
 全てが仕組まれていたとしたら、いつから、どこまでだろうか。ここまでして一体、何が楽しいのか。疲れ過ぎて考えがまとまらない。
「何をやってんだ、おまえらは二人して」
 力の抜けた声で呻くと、二人は声を合わせて、だっておまえ(アンタ)が玉天狗なんかと噂になるから、と応じた。
「玉天狗は念者だ、私も良い年をして抱かれる趣味はない」
「でも大将には抱かれるんだろ?」
「それは……」
 鶴の指摘に、口篭ると赤鬼が足早にやって来た。
 ぎゅっと手を掴まれて、心臓が五月蝿く鳴り始めた。誘惑に流される感覚とは違う、独特の緊張感が漂う。
「青鬼、俺はな、本当はずっと……永遠におまえと恋仲でいたいんだ、けど、おまえがいつも俺に飽きて他に行く、おまえはお互い様だと思っていたようだがな、俺はおまえの気持ちを察していつも身を引いてたんだよ、先の「人」休みの時は心底悪かったと思ってる、だけどあの時は、この鶴がな、直前に西洋悪魔と消えちまって、俺は……鶴にまで背を向けられて、気がおかしくなってたんだ、それでおまえと一緒に人の世に逃げたのに、おまえは俺じゃない奴と添い遂げようとしやがるから」
「何を言ってる」
 確かに人であった時、青鬼は同性の赤鬼に惹かれていた癖に、許婚の女と結婚した。愛していたわけではない、そういうものだという気持ちで夫婦になった。赤鬼が戦争で死んでからは、女の生んだ子を愛し、時が作った愛着で女も愛し、幸せに人として生きていこうとした。赤鬼に惹かれたわけや、赤鬼から送られていた愛の言葉を深く考える事なく、赤鬼を思い出の中に仕舞い、省みなかった。だから赤鬼は現れた。
 赤鬼はあの時も、襖の中で我慢比べをしていた。そして、我慢出来なくなり、飛び出して来たのだ。人の前に現れるという事は、妖力の強い赤鬼といえど、かなり疲弊する仕事だったろう。
「俺はおまえの気の多さを知っている、どこまでも続く妖怪の命の果ての無さを知っている、ずっと同じ相手は辛かろう、だから、心に余裕がある時は、おまえの好きにさせてやりたかった」
「まぁ、浮気も一種のプレイだよなぁ、っつぅか、大将は大将で青ノ旦那が他行ってる時は愚痴りつつも楽しんでたじゃねぇか、別の妖怪で」
 外野から野次が入り、はっとして我に返る。
 赤鬼の言葉が本当なら、青鬼は随分と勝手な男になってしまう。浮気はお互い様だと開き直っていた青鬼にしてみれば、寝耳に水の話である。
「あぁ、鶴、おまえに手を出したのは失敗だったな、あの浮気は辛かったぞ」
「大将は粘着質過ぎんだよ、ありゃ悪かったな、反省してる、だから今こうして荒療治だけど手ぇ貸してやってんだろ」
 鶴は相変わらずの艶姿で、ちゃぶ台に腰を掛けて二人を見守っていた。
「良かったら俺ん家好きに使えよ、俺ぁ飛頭ちゃんに遊んでもらう、陰間やってからもう男はからっきし駄目になってなぁ、女が一番だよ、結局のところ、おっぱいがないと生きていけねぇ」
飛頭は牛鬼が好きなんじゃなかったか?」
「おぉ、本命はもちろんな、だが遊び相手ってんなら合格点もらってんだ、色男はお得だろ?」
 はは、と高らかな笑い声を上げ、鶴が退散していくのと、赤鬼がぐっと身を乗り出すのは一緒だった。
「おい、よせ、今はそんな気分じゃない」
「さっきまで鶴に盛ってたろう」
「念者と若衆じゃ立場が違うだろう、心の準備がだな」
「俺が若衆をやっても良い」
「それはちょっと、その気になるのに問題が」
「ならおまえが若衆をやるしかないだろう」
 やる以外ないのか、という突っ込みは通じず、実に六十年ぶりに、青鬼は赤鬼と交わった。途中、あらゆる時代の赤鬼との思い出がぶり返し、赤鬼の言うように、確かに、青鬼の心が赤鬼から離れる事の方が多かった事実に驚いた。赤鬼が本当に何度も何度も、青鬼を思い身を引いていたとしたら、青鬼は何て酷い男だろう。青鬼にその事実を悟らせる事なく、それを繰り返し続けて来た赤鬼の、何て健気な事だろう。
「何を泣いてる」
 言われて気がつくと、目から涙が零れていた。行為が終わったものの、体は重なったままだった。鶴を抱こうとした畳に、布団を敷いて行っていた。人の家で何をやっているのかという冷静な考えが頭を過ぎったが、それよりも、赤鬼の事について、青鬼は反省しなければならない事が多すぎた。
「思い出していたんだ、確かに俺ばかり、おまえに飽きていた」
「ああ」
 思い出の中で、浮気をされた覚えが一つもない。いつも青鬼が他に気をやった、その後で赤鬼にも相手が出来ていた。それでいて、青鬼が一人になった時、いつも赤鬼は寄り添って来た。
 あれは、タイミングを見計らっていたのだ。
「しつけぇ男は嫌いだろう」
「好みじゃないが、おまえなら別だ、限界が来るまで耐えるんじゃない、おまえはもっと俺に文句を言うべきだった、怒るべきだった、やきもちぐらい妬け」
「おまえは気が多い男だからな」
 最初は確かに、赤鬼は怒っていた気がする。それが何時の頃からか、するりと別れられるようになった。赤鬼も視野が広くなって良かったと勝手な事を思っていた。赤鬼は耐えていただけだった。
「悪かった、赤鬼、俺は酷かった」
「酷かったのは俺だろう、おまえの人休みを台無しに」
「もういい、よせ」
 赤鬼の言葉を聴けば聴く程、胸が苦しくなった。
 気の多い青鬼に惚れたばかりに、妖怪の命が果て無いばかりに、惨い苦しみを与えてしまった。赤鬼がやたらと『人の皮』を被って、記憶を失い、人の世に逃げて行く訳がわかった気がした。



2016/07/11

『オトナとコドモ』(世話焼き攻め×マイペース営業マン)

 二年前、営業から人事に回された時、妙な感覚に襲われた。突然、何もないところで転んだ時のような放心状態。
 少しほっとした自分がいた一方で、作りかけの砂山を崩されたような、変な悔しさも残っていた。
 自分がそうしたスッキリしない状態のまま移動したという経緯もあり、一本は現在、人事として出来るだけ丁寧に、調整を受ける当人の気持ちに沿った仕事をしたいと考えていた。

 
 問題の男、野平は武蔵国川越、時の鐘地下に本社を構える『怪PR社』第二営業部の中堅営業社員だ。のっぺら坊種の特技を生かし、担当の好みの顔で営業に行くという荒業で、新規顧客獲得一位の座を二年連続達成している。
 他者を茶化すのが大好きという悪癖はあるが部内での評判も良いのでマネージャーをやらせたい。

 会社から徒歩二秒にある、小江戸の町並を道端のベンチから眺めつつ、一本は蕎麦を掻き込んでいた。そろそろ野平がこの道を通るはずだ。
 時の鐘は人の世では観光地になっており、土日祝日には屋台が出る。
 妖怪企業の休みは水曜と土曜になるため、『怪PR社』は日曜の今日も元気に営業していた。
「おっ、来たな!」
 蕎麦を脇に置いて、身を乗り出す。
「野平、のっぺ! のんのんー!」
 野平は男の癖に女の行くような店や、女の好むようなものが好きで、今日も小江戸の道沿いにあるベーグル屋に、ランチをしに行っていた。同僚の牛鬼に裏を取り、一本は野平を待ち伏せた。
「うわっ、やだ、変な人がいる」
 元部下とは思えない失礼な反応で、野平は一本から距離を置いて止まった。わざと怯えたような姿勢で、今にも逃げ出しそうだ。
「ちょっとここ座れ」
 隣を指差すと、野平は涙袋のある優しげな目を細めて、笑った。
「汚い食べかけのお蕎麦が置いてあって座れません」
「汚いって言うな、食いもんだぞ」
 蕎麦をどけて、今度こそ、とばかりにポンポンと隣を叩く。
 しかし、野平は動かない。すらりとしたシルエットが、良く目立つ。他社の女怪達が見惚れて通り過ぎて行くのを見て、一本は何となく、損をした気になる。
 おい、と声を掛けると、野平は首を傾げ、さらに笑みを深くした。
「ねぇ、それじゃぁ一本さん、隣座ってあげる代わりに、前髪上げるか分けるかしてくれないかなぁ、顔全然見えない」
「良いんだよ、俺からは見えんだから」
 意地の悪い提案に、舌打ちをして応じる。野平の見た目、薄紫の髪をピタリと整えて後ろに流し、涙袋のあるパッチリとした目を晒した二十代後半の男。は、一本が過去、無理をして作っていた姿そのまま。
「俺が居るから、顔隠しちゃったんですか?」
「いや、切るのサボってたらこうなった」
 ぐらりと野平の姿が傾いて、一本の顔を覗き込む。
「相変わらず、可愛いですね」
「人より早く止まったからな」

 一本は十二歳で外見年齢が止まり、営業をしていた頃、外に出られる見た目を作るのにとても苦労した。
 十以上歳を取らなければならなかったので、『虚装』だの『老け薬』だの『瞬間催眠香水』だの、早くに歳が止まってしまった妖怪のためのお助けグッズには相当お世話になったが、どれも日常的に使える程、上手く使いこなせなかった。
 結局、落ち着いたのは、妖力で化ける『実装』という手段で、これはいつも気を張っていないといけない上、相当量、肝を消費するため食費もかさんだ。
 毎日十以上歳を取るために気持ち悪くなる程肝を食べ、四六時中、妖力を使って『実装』し、よく疲労で倒れていた。
 多忙な次期は足先が消えかけていた事もある。

「あ、わかった、なんか見覚えあると思ったら、オールドイングリッシュシープドッグだ、一本さん、知ってる? 前髪の長い犬、あれに似てるよ?」
 無邪気にからかって来る野平の、顔面は実装で覆われている。
 歳を取る実装で、自分は相当疲弊したが、顔を作る実装は、どれぐらいの妖力がいるのだろう。
 現在、野平が社内用に使っているその顔は、大人の一本の顔だった。
「おまえ、そういや何で俺の顔してるんだ?」
 改まって聞いたのは初めてだった。野平の顔がどこか幼く呆けたのを見て、この元部下が、遥か年下の妖怪であった事を思い出す。
「うわぁ、……やっっっと本人から聞かれたよ、何年越し?」
 言い方からして、野平はこの問いを待っていたらしい。誰かが質問するシーンは、何度もあったが、その度に野平は作りやすいからだの、気分だの、最初に覚えた顔だの、適当な事を言っていた。
「だってほら、他の奴が先に聞いてたし」
 素直な良い訳をすると、野平はやっと隣に腰を下ろし、ぼんやりと、目の前に並ぶ瓦葺屋根の美しい街並を視界に入れた。黒光りする瓦の下では、江戸時代からの門構えで未だ商いを続ける人々が賑やかに声を掛け合っていた。隣同士で店番をしながら、会話をする微笑ましい人間達の様子に、一本は心を和ませた。そういえば今日は漬物屋が新作を出すと宣言していた日だ。繁盛店だから、夕方、行列が出来る前に買いに行かなければ。
「単に貴方は、俺のことなんかどうでも良かったんでしょ?」
 飛んでいた意識が、野平の不貞腐れたような声で戻された。
「あ?」
 意味がわからずに怪訝な顔を作ると、野平はにっこりと笑った。
「俺、相手にされてないな~って落ち込んでたんだけど?」
「意味わかんねぇ」
「貴方は、姿を盗まれたのに、何とも思わなかったの?普通はもっと突っ込む、っていうか嫌がるよね?」
「あー」
「考えなかったの? なんでこいつ、俺の顔使ってるんだろうって」
 野平の言い分は、つまり、一本にもう少し、姿を使われた事を怒れという事らしい。
「そりゃ、まぁ、少しは……でも、あ、思い出した、おまえ、俺の客結構引き継いだだろ? その関係でじゃなかったか?」
「いえ、その頃、俺はそんなに成績の良い営業マンじゃなかったので、確か貴方の客は半分ぐらい牛鬼が、残りは青鬼さんが引き継いでたと思います」
「ありゃ?!」
 混乱して来た頭を、野平の手が軽く撫でて来た。
 おい、年上の男に向かって失礼な。
「もう、良いです、貴方がいかに普段何も考えないで生きている人かってわかったので」
「おい」
 怒りの声を上げた一本を無視し、野平の手はそのまま、一本の長い前髪をすくい分けた。すると、一本が普段隠している一本の十二歳の顔が、世間に晒され、さっそく観光客らしい猫娘の女子高生グループが、通りすぎながら、今お蕎麦食べてた子可愛くなかった、と囁いて行き、顔に熱が集まる。
 野平の瞳に映りこんだ己の顔。久しぶりに見たが、相変わらず幼い。
 長い睫に囲まれた皿のように大きな目が、パチパチと儚げに瞬いている。小さな口に、くるりとまとまった鼻やふっくらした頬が揃い、非常に愛らしい。
 この容姿には、大体の者をデレデレさせる力があるが、一本は歳も歳なので、どちらかというとデレデレしたい側だった。さらに言うと、男寄りの妖怪としては、構われるより構いたい、愛されるより愛したい。
 女にはよく、見た目を指して頼りないとか、男を感じないとか、百年早いとかギャップがキモイと言われて振られた。
 好きで早く時が止まったわけじゃないのに、と憤りつつ、俺は本当はこんなじゃないんだ、と思う。だから、あまり顔を見られたくない。
「あっ!」
 顔を振って前髪を戻すと、野平は悲しそうに眉を下げた。
「せっかく分けてあげたのに」
「オッサンのアイデンティティが損なわれるんだよ、あの面晒してると」
 低く呟き、食べかけだった蕎麦に手を伸ばす。ずっ、と音を立てて口に流し込むと、よく噛まずにごくんと飲む。小さな咽喉につまり、えほっと悲鳴を上げて背を丸めた。野平の優しい手が背中を摩った。
「大丈夫?」
 憮然として、はぁはぁ息をついている一本に、野平はにこりと笑いかけた。
「俺はねぇ、一本さん、昔の一本さんに憧れてたんですよ。かっこいいなぁ、あんな風になりたいな~って、ずっと思ってて、一本さんが居なくなった時、一本さんが居ないのが嫌で、一本さんになるつもりで、この格好始めたんです」
「おー、そうかい」
 調子の良い奴め、と唇を突き出してみせると。野平は少し困った顔をした。
 何だか、久しぶりに褒められたような気がする。誰かに認められる事は、嬉しい反面でいつもむず痒い。本当に野平がそんな理由で自分の姿をしていたのだとしたら、かなり気分が良いが、少し恐縮もしてしまう。今の野平は、一本が営業に居た頃の十倍以上稼いでいる。どうコメントすれば良いかわからない。
「信じてませんね?」
「そんな活躍してた覚えねぇからなぁ」
「直属の部下にしか見えない部分って、ありますからね」
 もっと聞きたい、けれど、これ以上聞いたら可笑しくなりそうとも思う。嬉しいのに、何故か悔しさが込み上げる。
「営業なんて所詮、体力だからなぁ」
 もちろん才能や気質も関係しては来るだろうが、一本が続けられなかった理由は、第一に妖力の不足だった。大人の姿を、実装で保ち続けながら毎日生きる事に限界を感じた。
 ふと見ると、野平は眉間に一つ、皺をつくっていた。
「疲れたらそこで終わりですか?」
 ぐっ、と胸に刺さる言葉だった。二年前、体力があれば、続けていたかもしれない営業職の事を思う。徐々に上がりつつあった成績表を見上げ、思い悩んでいた過去が蘇る。あの時の人事だった一つ目の鬼、壱目は一本に、営業は向いていないと言い放ち、このままじゃ消えると忠告した。
 野平が手を上げて、通りがかりのアイスキャンディー売りを呼び止めた。ラムネ味を二本購入すると、一つを一本に手渡した。袋を開けて、口に入れるとシュワリとラムネの味が広がった。甘酸っぱい粒が練りこまれていて美味い。
「俺、引き抜きの話受けてるんですよね」
 野平の呟きに、一瞬、息を呑んで固まった一本に目配せし、野平は笑った。
「『あやかし広告』から、マネージャー職で」
 動揺して歯と歯の間に挟んだアイスを、口の中に入れそびれ、口端から溶けたアイスが零れた。
「わ、アイス零れてる、ベタベタになりますよ」
 野平の手が口端を拭ってくれ、はっとなりハンカチを出して渡した。野平は苦笑い、ハンカチで手を拭うと、自分もアイスを口に入れた。
「悪い、ちょっと、びっくりしたから」
 齧った分のアイスを片付けながら、冷や汗が額を濡らしていくのを感じた。衝撃でドキドキし始めた心臓をなだめつつ、野平の横顔を盗み見る。
「マネージャーなんて、大変なだけでそんなに給料変わらないから、気は進まないんだけど、会社を移動するっていうのには、少し魅力を感じるんですよね」
 今日、そのマネージャー職を任せる話を持って来た身としては、完全にやり辛い言葉を吐かれてしまった。
「だから俺……『あやかし広告』の人事に、営業職でなら移っても良いって言ったんです」
「えっ?!」
「でも駄目でした、要は営業を育てる人材が足りないって話で、一人勝ちの営業マンばかりっていうのが悩みなんだって」
 ハラハラしている一本の胸のうちを見透かしたように、一本の反応を見ながら、野平は話を続けた。ラムネアイスの、酸っぱい味ばかりが目立って感じる。唾液が大量に口内を満たしている。
 時計を見ると、昼休みは終わっていた。
「行くなよ」
 思わず、素直な言葉で縋った。
「この会社で、おまえの望みを……なるべく叶えられるよう、俺、頑張るから、本当は今日、おまえをマネージャーにしたいって話、しようと思って待ち伏せてたんだけど」
「ええ、聞いてます、青鬼さんから」
「……」
「貴方が俺を推薦して会議開いてくれたんでしょう?最近俺の事、色々な人に聞いて廻っていたらしいですし……、きっと会議では、それだったら最近業績回復した牛鬼でも良いなって話が出て、俺と牛鬼で票が割れて、鶴さんが俺に一票入れて決まったとか、そんなところでしょう」
「良くわかったな」
「鶴さんは牛鬼さんみたいな才能タイプ好きじゃないですからね、それに、今のマネージャーやってる玉天狗さんは天狗閥だから鬼の青鬼さんとはソリが合わない、企画部に移動っていう話も出てますから、きっと俺か牛鬼が、玉天狗さんに代わるんだろうなって」
「まぁ、その、そこまでは詳しく、教えられねーけど」
「アタリでしょう?」
 普段、営業先の担当を通して営業先の社内情勢をつかみ、担当社の稟議を通させるところまでを行う野平を相手に、これ以上隠す事は不可能なのかもしれない。自分の立ち入った事のない他社の情勢を把握するような男が、自社の情勢がわからないわけがないのだ。
「ああ」
 困ったように下を向くと、ふふ、と野平の笑い声が降った。
「良いですよ、俺、マネージャーやりますよ、『あやかし広告』の引き抜きも受けません」
 えっ、と声を出して顔を上げた。
「一本さんの頼みですからね」
「の、野平っ、おまえ、いいのか?」
「って言いたいところですけど」
 喜ばせておいて、突き落とす。
「さっきランチ中に『あやかし広告』の方が乱入して来て、どうしても来てくれって頭下げられたんです、そんなに俺を必要としてくれてるんだって、ちょっと心動かされましたよね」
「うちだっておまえが必要だ」
「さぁ、どうでしょう」
「おまえの望みを、極力叶えられるよう、頑張る」
アイスは途中から、ポタポタと溶けていた。手に大きな蟻が、登って来ていた。
「それじゃぁ一本さん、しばらく実装生活に戻ってくれません?」
「え?!」
「俺の憧れた、一本さんの姿を、また見せてください」
「憧れ、って、……今はもう、俺、営業じゃねーから」
「俺は、営業をやってる一本さんに憧れたんじゃないんです。一本さん自身に憧れたんです。全身の実装、大変そうだった……。俺はのっぺら坊種だから、顔面を常に実装しなければいけなくて、社会人はじめの頃は凄く苦しかった。きつくて何度も休んだり、実装をしないで会社に行って叱られたり、どうして俺ばっかり、って思ってた。……だから貴方が毎日毎日、弱音を吐かずに実装を続ける姿を見て、感銘を受けたんです」
「……」
 野平の目は力強く真っ直ぐで、その気持ちに嘘はないのだとすぐにわかった。一本は頷くしか、道がなかった。


 次の日から、一本は実装で通勤した。
 朝の小江戸で店を開いているのは、コンビニとカフェのみ。初日から途中で倒れたり消えかけるわけにはいかないので、燃料補給とばかりにカフェに寄って珈琲を注文した。妖怪向けのカフェだったが、人にも店を開いており、人の皮を被った店主は人の世に向けて料理ブログまでやっている。豆腐小僧種のこだわりなのか、豆乳どーなつや豆乳クレープ、豆乳チーズケーキ、豆乳飲料がカラフルにメニューを賑やかしていた。そんな中から、珈琲を選んだ一本に、店主が珍しいねと声を掛けて来た。
「チーズケーキは?」
「いらねぇ」
「ん?どうしたい?今日はご機嫌斜めかい?」
 店主の馴れ馴れしい様子に、一本は顔を顰めたが、恐らく野平と勘違いをしている、と気がついて慌ててやっぱりくれと言った。どうして一本が野平に合わせるような格好を取らなければいけないのかとも思ったが、考えてみると、この姿を使っている年月は野平の方が長い。
 灰色のどっしりした陶器に入った珈琲をチビチビと飲みながら、赤い日本傘の下で朝の空気を味わった。整然と同じ高さに保たれた瓦葺の美しい小江戸の景色を眺めながら、しみじみとその美しさに感じ入った。
 秋になったら寺巡りにでも行こうかな、と相模国の鎌倉を頭に浮かべながら、紅葉が綺麗なのはやはり円覚寺だろうかと考え始めたその時、のっぺセンパァイ!と黄色い声と一緒に二の腕に女の頭のぶつかる感触がした。近い距離から、香水の良い匂いをさせて、女怪のろくろ首種、飛頭が伸ばした首をぐいぐいと二の腕にぶつけて来ている。目の前にはデンと巨大な胸があって、風流に想いを馳せていた空気が飛んだ。
「あのぉ、聞きたい事があってぇ!」
 飛頭は体を上下に揺らしながら喋るので、その度にゆさゆさと胸が揺れる。
「お、おう」
 胸に視線が引き付けられ、離れない。
「ちょっとやだ、のっぺセンパイ欲求不満?ロミの胸超見てない?!怖いぃぃ!」
「ば、ばか、しょーがね、じゃねー、悪い!」
 ぐっと気合で視線を胸から上げ、飛頭の伸びた首の方を見たら、つけ睫とデカ目効果で、これ以上可愛い生き物はいないのではないかという程、可憐な女の顔があった。ドキンと胸がなって、何だこのトキメキ、久しぶり、と思っていると、飛頭はごそごそと紙袋を出して、中から高価そうなハンカチを出した。男物である。
「これ、牛鬼さんに! 復活祝いっていうか、ここんとこ、ずっと調子悪かったじゃないですかぁ~、それが先月、積み上げ一位とか超嬉しかった、かっこよかったですぅっていう、そういう気持ちでぇ、喜んでくれると思いますぅ?」
「あ、おう、そうだな……多分」
「やぁだぁぁ、のっぺセンパイ今日テンション低いぃぃ、ロミと牛鬼さんが上手くいかなくて良いの?!」
「良くは、ないと思うけど」
「もういいっ! あら太君に聞くっ!!」
 嵐のような出来事、とはこの事で、ズンズンと去っていく飛頭の後ろ姿を見て、飲み終わった珈琲を店主に返すと、そうか、そうだよなと今更ながら気がつく。この姿は、一本のものであって一本のものじゃない。野平として認識している者が多数で、一本として認識している者の方がむしろ少ないのだ。
 たった二年前なのに、大人の姿で生きていた頃の、あの自分を知っている者は、もうどこにもいないような気がした。

 午前中の会議が終わり、諸々の書類を各課へ届けに管理部フロアを出ると、おはようございます野平さん、と社内清掃を任せている清掃業者、『あかなめ清掃』の管理者と思われる男に呼び止められた。
「お仕事順調ですか~?」
「はぁ、はい」
「俺さっき企画部の会議室で見ちゃったんですよぉ、野平さんと仲良いあの巨乳のろくろ首、牛鬼さんに何かプレゼントしてましたよ、浮気じゃないっすか?」
 業者とも仲良くしているのか、と驚きながら、答えに困っていると後ろに人の気配がした。
「あれ?! 野平さん?! ド、ドッペルゲンガー?!」
「おはようございます要さん、俺が本物ですよ~? 今日もパンチラ見れました?」
「見れました!! いやぁ~、『怪P』の女子社員、やっぱレベル高いですよね、見えた時の幸せ度が違いますもん」
「あんな忙しい現場に居るのに絶対ミニスカって凄いよね、いっそ見せに来てるよね、しょっちゅう書類落としてしゃがむし」
「赤鬼部長がなんか叱ったらしいっすよ、給湯室で陰口叩かれてましたもん、格好をもう少し堅めにしろって言われたって」
「まじで、赤鬼さん清楚好きだからなぁ、余計な事言わないで欲しい」
「まったくですよねぇ~」
 パンチラなど、これまで意識さえしていなかった自分は枯れているのだろうか。
 そういえば、今朝、巨乳の谷間を見て思い出したが女との接触も一年以上ない。二年前、大人の姿をしていた頃はそれなりに機会があったが、子どもの姿で通勤出来るようになってからはご無沙汰だ。
「あ、そうだ要さん、紹介しとくね、一本さん・・・! 昔俺の上司だった人で、俺の元ネタっていうか、この人の顔を俺が普段使わせてもらってるんだよ」
「え?! じゃぁこっちが本物なんですか?!」
「本物っていうか、元ネタ?」
 しげしげと見られて、額に汗を掻いた。早くこの場を去りたい。
 廊下の向こうで、『あかなめ清掃』の清掃員が、要さーんと声を張上げたために救われた。要が呼ばれた方に去った後、野平をちらりと見て、何か話題を、と探す。
飛頭さんの事、大丈夫、なのか?」
「え?何が?」
「気になっていたんじゃ……?」
「え?! なんで?!」
「あんなに仲が良いのに、何ともないってことはないだろう?」
「違いますから、もぉ、ちょっと男女が仲良いとオッサンはすぐそういう話に持ってくなぁ」
「牛鬼は良い男だけど、おまえだって、その、俺の顔ではあるが、しっかりしているし、人は中身だろ」
「だから違うから」
 強い口調で、苛立ちが滲んだ声だった。
 一本は野平と会話をしたかっただけで、不快にさせたかったわけではない。しょんぼりと黙ると、野平はするりと、一本の頬を撫でた。
「ほんとに『実装』して来てくれたんですね、俺のために」
 肌触りを確かめなくても、見れば『実装』とわかるだろう。最近は『実装』に近い完成度を誇る『虚装』技術も、手軽に利用出来る世の中になったが、まだまだ『実装』と『虚装』の間にはクウォリティに差があると思う。
「……ところで、今日。良かったらランチ一緒しませんか?」
 突然、ランチなどとカタカナで言われて戸惑う。飯、と漢字を吐き、生きて来た一本としてはむず痒かった。承知すると、野平は嬉しそうに笑った。
 ランチというとあのベーグル屋だろうか。
 それとも最近西武線川越駅前に新しく出来たスパニッシュカフェのランチだろうか。何にせよオシャレな店に連れて行かれるのだろう、悪目立ちしないようにしたいので、ネットで作法をチェックした。取り敢えず、パスタを音を立てて吸わないようにするのと、楊枝で歯の隙間に挟まった食い物をシーシー言いながら取らなければ大丈夫そうだった。
 一本さん、と声を掛けられて昼の時間になったのがわかった。野平は管理部までわざわざ向かえに来た。連れて行かれたのは駅前だったが、落ち着いた雰囲気のスタイリッシュな蕎麦屋だった。川越は小江戸近郊や住宅街こそ昔風の街並を残しているが、駅前は賑やかにビルが立ち並んだ雑多な場所であり店も多い。その中から、よくもここまで一本好みの良い店を選んでくれたと野平の気まぐれに関心した。
「おまえも蕎麦好きなのか?」
 聞くと、野平はうーんと首を捻った。
「普通?」
 それじゃぁ、なんでこんな蕎麦好きが大喜びするような場所を知っているんだよ、と聞きたかったが、また余計な質問をして空気を悪くするのも嫌だった。
「これは、絶対美味いぞこの店」
 品書きのシンプルでこだわりに溢れた顔ぶれと、客層のいかにも蕎麦通という風情に胸を打たれ、一本は興奮して拳を握った。出てきた蕎麦は、やはり美味かった。蕎麦湯も、いくら飲んでいても飽きないような、むしろ単品で注文しても金が取れるというぐらい、さっぱりして味が深かった。
「夜来て、酒も一緒に注文したいなぁ、今度」
「そうですね、今度」
 野平はどこか照れたように、今度、という言葉を囁いた。
 そういえば、憧れられていたんだよな、俺はこいつに、と思い出して、一本は急に、もしかしてこの店も俺の好みに合わせて選んでくれたのでは、と思い至った。
「美味しかったですか?」
「良い店だな、ここ」
 野平の問う声に、手料理を彼氏に聞く彼女のような、温かさを感じてそっぽを向いた。照れくさい。
「それじゃぁ、来週の金曜夜、暇ですか?」
「あ、予定はまだない」
「空けといてください、またここ来ましょう、お酒飲んで、久しぶりにゆっくり話をしたいんですけど、良いですか?」
「おう」
 野平の誘いは、いつも自然だ。

 あ、野平さん、と廊下ですれ違い様に若手の営業に呼び止められた。喫煙スペースに続く人のいない場所だった事も手伝って、狼種の彼は立ち話しようと足を止めた。誤解を解こうと口を開く前に、頭を下げられた。
「『山姥会』への同行ありがとうございました。おかげ様で契約取れました。野平さんに交渉して貰わなかったら駄目でした」
「凄いな」
 『山姥会』は通信教育業界の大手だ。
「ええ、これで今月達成です」
 狼種の彼の名は、確か狼山。良くミスをして叱られている姿を目にする。将来有望な新人に恩を売る名目で面倒を見る人間は多くいるが、あまり評価の高くない新人の面倒まで豆に見ているのだな、と考えて、やはり野平はこの会社に必要な妖怪だという思いを強くした。
「野平さんの商談で覚えた聞き方使ったら、こないだ別のところでも契約決まったんですよ」
 興奮して懐っこく、喜びを語って来る狼山に戸惑っていると、喫煙スペースから、牛鬼がやって来た。
「何してんだぁ狼山、一本さんと仲良かったっけおまえ?」
「え?」
「この人、野平じゃねーぞ?」
 え、と繰り返して狼山は慌てて一本の顔を見ると、わけがわからないという表情を作り牛鬼を見た。牛鬼はふぅ、と溜息をつくと狼山の首を腕で絞めた。
「おまえは好い加減、そのウッカリ改めろぉ~! 野平がこんな誠実そうな表情するかぁ? あいつはいつもヘラヘラヘラヘラ無責任そぉ~に笑ってんだろぉ?」
「すみませんんん」
 そのまま、狼山は牛鬼に引き摺られ、その場を去ってしまった。実は一本と野平をすぐに見分けた牛鬼の方が少数派で、間違えてしまった狼山の方が多数派だという事を明かしたかったが、二人は既にエレベーターの向こうに消えていた。
 付き合いの長い人間には、さすがにわかるようだ。

「野平さん」
 もう呼ばれ慣れて来てしまった、その名に反応して振り向くと、会議室前で鎌イタチ種の女怪、第二営業部の鎌立が資料の相談を野平に持ちかけたところだった。野平は優しい顔をして、わかりやすい表現に直した方が良い箇所や、確認を取っておくべき事項を指摘していた。最後に、下調べの丁寧さなどを上げて鎌立の仕事を褒め、競馬のクリアファイルに収納されているところをからかった。鎌立は照れつつも、からかいに困って、野平の腕を軽く叩き拗ねてみせる。
 良い雰囲気だと思い眺めていたら、野平と目が合って急に気まずさが首をもたげた。

「こういう店は、落ち着かないですか?」
 小江戸の街並は時代劇のセットのようだ。しかし、一つ路地に入ると現代的な都会の景色になってしまう。若い女性向けの小物屋や、サラリーマン向けの飲食チェーン店、判子屋や写真屋、不動産屋、薬局、コンビニといった店が並ぶ中、テラスのついたカフェ兼パン屋に野平と二人で昼飯を取りに入った。店内には昼休みのOLが多く、男は恋人の付き合いで来たという風な奴ばかりで、男二人組の野平と一本は浮いていた。
「ここのパン屋は肝の量をかなり大目にしてパンを焼いてくれてますから、疲れに良いですよ?」
 恥ずかしいという気持ちが、野平には備わっていないのだろうか。一本ばかりがそわそわして落ち着かない。
「あの~ぉ、お二人は双子とか、だったりするんですか?」
 外まで続いているレジ行列の中から、砂撒き種と思われる髪に鉱物のよう煌めきの含まれた女と、飛縁魔種と思われる妖艶な女が声を掛けて来た。
「ええっと、俺がのっぺら坊種でね、この人イケメンでしょ? 姿借りてるの」
「のっぺら坊種~! すご~い!」
 何が凄いのか、キャァキャァと笑いながら、二人が場を華やかにしてくれるので、一本は野平の様子を伺った。出来たらこの二人をこのまま同席させて、今の羞恥プレイ状態から抜け出したい。
「二人とも観光?」
「そうなんですぅ、ここのパン屋『るるる』に載っててぇ~、おいしそうだったから寄ったんですけどぉ、人気店過ぎて困っててぇ、もう並ぶの諦めて他行こうかなぁ~とか思ってたんですけど!」
「そうだね~、この時間混むから、また夕方とか寄れば? 喜多院の五百羅漢様達にはもう会って来た?」
「まだですぅ~」
「あの人達三時ぐらいからお昼寝入っちゃうから、早めに行った方が良いよ」
「えーっ、嘘、やばい」
 どうやら、野平には二人を同席させる気はないらしい。
「まぁでも、喜多院までこっから三十分掛かんねーから、そんな急ぐ事もないとは思うぞ。パン気になるなら、俺三つも食べれねーから、二人とも一つずつ好きなの選んで食べてけば、席も二つ空いてるし」
 横槍を入れると、二人はすぐイイんですかぁ?! と黄色い声を上げて座った。飛縁魔種の女は、飛縁魔種だけあり非常に美しく、胸や尻がでかかった。思わずじっと見ていたら、うふ、とばかりに笑みを浮かべられてかぁっと頬に熱が貼った。
「え、やだ、何何、恋?」
 砂撒き種の女が茶化すと、飛縁魔種の女が楽しそうに、イケメンに熱い目で見られちゃったぁ~、などと言うので、困って野平に助けを求めたら、野平は面白くなさそうに椅子の背に寄りかかり、通行人などを眺めていた。
「ごめん、俺、女性慣れしてねーから、不躾に見ちゃった」
「えー?! 意外~! モテそうなのにー! 職場に女の子いないんですかぁ?」
 飛縁魔種の女が身を乗り出すと、大きな乳が揺れ、嫌でも見てしまう。
 はっとして目を逸らすと、あぁ~、と悪戯っぽい声が上がり、もしかしてご無沙汰かぁ~? と色っぽい声で言い当てられる。
「ちょっ、エンちゃんまだお昼っ! すぐ盛るのやめて!」
 砂撒き種の女に咎められて、飛縁魔種の女が身を乗り出すのをやめた。この子になら、血を吸われても良いなぁ、などと妖怪らしからぬ事を考えてしまう。
「ねぇじゃぁ貴方、インスタやってる?友達になろうよ」
 飛縁魔種の彼女に言われ、慌ててスマフォを取り出す。それを、野平が取り上げて、懐にしまった。
「えっ?!」
 声を上げたのと同時に、野平の冷ややかな目に射抜かれて凍った。何を怒っているのか、ここまで機嫌の悪い野平は見た事がない。
「うちの会社、ナンパ禁止なんですよ~」
 初耳だ、という言葉も恐怖で出て来ない。野平の怒りがびしびしと伝わって来る。それは女達にも伝わったようで、飛縁魔種の女も砂撒き種の女も急に大人しくなった。
 もそもそと全員が無言でパンを片付けると、帰り際、二人を喜多院へ行ける観光バス乗り場へと案内し、特に名前を教えあうでもなく別れた。
 せっかくの出会いが、という言葉が咽喉元まで上がって来ていたが、野平があまりに不機嫌なので、どうにか飲み込んだ。
「おい」
 声を掛けると、ぐっと腕を掴まれて細路地に連れ込まれた。
 何かと思ったら目の前に自分の顔、野平の顔が迫っていた。唇に、同じ形の唇が触れる。
「?!」
 言葉にならない言葉で疑問を伝えると、野平はやっと機嫌を治し、うっすらと笑みを浮かべた。
「俺、一本さんとセックスしたいんだね、理解した」
 理解した、と言う野平に対して、一本は混乱した。
「セッ?!」
「良く落ち込んでたんだよ、貴方の事、妄想して抜けるから」
「抜っ」
「俺、ショタコンだったのかなーって、でも、今の姿の貴方もいける、っていうか今の姿の方が燃える、いや、どっちでも燃えるなー、どっちが本命なんだろう?」
 ぱくぱくと口を動かして、一本は自分に男色趣味はない、と伝えようとしたが、野平の機嫌がまた悪くなっても困るので、今度改めてセックスに誘われた時に伝えようと思う。というか、何故、同じ姿の自分とやりたいなどと思ったのか。
「ナ、ナルシストなのか?」
「それはどうだろう?」
 野平は一向に、近い距離のままで、ここは細路地で、会社の近くで、バクバクと心臓が音を立てて、危険を知らせている。
「一旦、下触らせてくれない?」
「今度な」
「駄目」
「いやその、駄目とかは俺が決める事だろ?!」
 大の男二人が、細路地で密着して性的な雰囲気になっている。建物の影で完全に歩道から死角になっているし人気もないけれど。まだ昼だし。モラルの問題が。
「溜まってるくせに」
「や、そん、おまえ何っ?!」
「ご無沙汰なんでしょ」
「ご無沙汰だけどな?!」
「今度良いなら今でも良いでしょ?」
「野平っ!」
 また唇に、唇が当たり、今度はねっとりと舌が口元を舐めて来る。
「うっ」
 ベルトが外される音と、下着の中に他人の手が入って来る感触に体が縮こまった。親指と中指で円を描いた野平の手が、一本のものをぬる、ぬる、と扱き出す。太腿に力を入れ、感じないようにしたが、意識がそこに集中して余計快楽が得られてしまい、ついに荒い息のなかに喘ぎが混ざった。
「一本さんの形覚えました、いつか全身一本さんに実装して、一本さんのこと、一本さんにそっくりな姿で苛めてあげますね」
「っぁ、野平、やめ、……出、ぅ」
 くるりと手を丸めて、下着を汚さないよう受け止めてくれた野平の手を、ぼんやりと眺めていたら、その手が野平の口元に行った。
「おい?!」
 まさかと思って掛けた声もむなしく、野平はごくんと咽喉を鳴らしそれを飲んだ。へたりと、その場に尻をついて、剥き出しの性器がスゥスゥとするのも気にせず、野平を見上げると、野平は苦い、と呟いて眉間と鼻筋に皺を寄せていた。
「おまえ、正気か?」
 力の無い声で問うと、野平は辛そうに口をもごもごさせると、まぁねと呟いた。その声はがらがらしている。一本の出した液は、酸味が強かったらしい。
「一本さん、苦いチューさせて」
「は?!ざっけんなよ、今おまえ、俺の、俺の!……んぅ゛っ」
 ぐいっと頭を捕まれて、また唇を奪われたが今度はぐっと歯を食いしばっていたので、表面を舐められただけだった。
「何その顔、レイプされたみたい」
 指摘されて気がついた。怖いという感情が全面に出た顔で、野平を見ていた。
「俺は、レ、……襲われた、のか?」
 聞いてみると、野平はぷっ、と唾を吐いた。
「襲いたくなんかなかったですよ、今週の金曜日に、勝負を仕掛ける予定だったんです、それが……」
「ああ、あの蕎麦屋で……勝負?」
「ええ、自宅に招いて良い雰囲気を作って合意の上でやる予定でした」
「ベロベロに酔わせて?」
「ええ、良くわかりましたね、……あ、言い忘れてましたけど俺、貴方の事が好きです」
 それは、この態度を見ればわかる。いや、わかるか? と色々と突っ込みを入れながら状況を整理した。
 野平は一本をセックスしたいと思う程好きで、先程不機嫌になったのは一本が女に鼻の下を伸ばしていたから。そうなると、野平がいきなりこうしてキスをして来たのは、ヤキモチが募っての事だ。そして、その場の勢いに任せて手淫をし、精液を飲み干して本気度を知らせた。
 野平が、一本を性的に好き。
「想像してなかった!」
 呟いて、思い起こすと色々と覚えのある、野平の発言や行動の数々に深い意味を感じる。相変わらず地に尻をついて呆然としている一本を、野平は不安そうに、見下ろしている。
「貴方のことずっと好きだったから、さっき、取られるかもしれないと思って、怖くなってこんなこと、しでかしちゃいました。
 久しぶりのミスですよ。覚えてますか? 俺は仕事でミスが多くて、良くフォローしてもらいましたね、貴方のお陰で俺はここまで来れた」

 二年前、行かないでくださいと涙目になって、自分を引きとめていた野平は、行かないでくれれば何でもしますと言った。だから行かないでください、一本さんが居るから勤め続けているんです、一本さんが居なくなったら俺は生きていけない、一本さん行かないで。今の野平からは、想像出来ない、いくじなしでトロかった、あの野平はどこに行ったのだろう。あまり出来の良くなかった野平の世話をするのが、一本の仕事だった。一本が唯一営業に貢献した事は、野平という営業マンを育てたところにある。
 一本が移動する少し前から、野平は営業のコツを掴み成績を上げて来ていた。野平が一人でやっていけると思えたからこそ、一本は移動したのだが。

「そうか、俺はおまえが心残りだったんだ」
「え?」
「忘れてた、あんまり、あの後スムーズに、おまえは成長していったから」
「ええ、おかげさまで」
「それと思い出した、俺、あの時、おまえはずっと営業で居てくれ、とか、言わなかったか?」
「……」
「おまえに、勝手に自分の思いを託したっていうか、うん、俺は多分営業職が好きだったんだ、本当は離れたくなかった、だからおまえに……」
「ええ、良く思い出してくれましたね、何でも言う事聞きますって言った俺に対しての、願いみたいな形であんな事言うから、俺、結構重く受け止めて、引き抜きの話にもそのポリシー持ち出したんですけど、その事けろっと忘れてマネージャーやれみたいな事言って来たから、ちょっとむかつきましたよね」
「悪かった」
 くしゃりと頭を撫でられ、だからそれは年上の男にやったら失礼だぞとまた思う。しかし、しゃがみ込んで来た野平が、あまりにも優しく額や頬にキスを落とすので、一本はさっきまで怯えていたのが嘘のように安心した気持ちになった。
「野平……」
「何ですか?」
 まだ、好きだと言えるまでの感情はないけれど。
「おまえの事、嫌じゃない」
「セックスは?」
「わかんねー」
「そこ、結構重要ですけど」
 ぐっと身を乗り出して来た野平の肩を押して、顔を背けた。照れくさい。
「あ、顔赤い、脈アリでしょうか?」
「照れてるだけだ馬鹿」
 時計を見ると、あと五分でランチの時間が終わるところだった。
「俺、マネージャー、やりますよ」
「っ!」
 ぽつりと野平が吉報を口にして、喜んだ拍子に実装が解けた。先程までの緊張状態が、精神に結構な負荷を掛けていたらしい。戻ったが最後、どっと疲れが出て、もう実装する元気が出ない。
「なんで小さくなってるんですか?」
「なんか安心して」
「まぁ、良いですけどね、自分の気持ち、確認出来ましたし」
「確認?」
「いや、俺、本気で悩んでたんですよ、貴方のこと見かけるたびにムラムラしちゃって、ショタコンなのか、単に貴方が好きで、貴方にムラムラしているだけなのか」
「そのために俺に実装させたのか?二週間近く」
「ええ」
「俺の熱意を計るとかそういうつもりじゃなく?」
「貴方が仕事に一生懸命なのはわかってますし、貴方に行かないでくれとか言われたその瞬間に他社に行く選択肢はなくなりましたからね」
「……」
「マネージャーの話だって、要は出世ですから、逆に嬉しいぐらいですよ?」
 にっこりと、腹の立つ笑みを浮かべる野平の両頬を、パンと音がする程、小さな両手で打った。人の努力を何だと思っているのか。
「馬鹿野郎!!!」
 怒鳴って、身辺を整えると路地を抜けた。
 丁度、訪問の帰りらしい牛鬼とその営業補佐、小豆が通りがかったので、これ幸いと小豆に抱きつき、怯えた顔で路地を指差す。
「そこで、野平に、チューされたッ!!」
 小豆の顔が怪訝なものを見る目で、路地を向き、牛鬼がよし、と腕まくりをする。
「何発殴れば良いですか?」
 路地から出て来た野平が、喧嘩準備万端の牛鬼と、自分を変質者でも見るような目で見ている小豆に出くわす五秒前である。



2016/07/11

『小豆の熱』(生真面目×俺様)


「あら太ぁ~」
 廊下から、間延びした低い声が自分を呼んだ。
 牛鬼が長いトイレからやっと帰って来たのだ。
 まとめた書類を鞄に突っ込み、バタバタとフロアを出る。
 広い肩幅と逞しい胸の目立つ、体育会系の肉体を高価なシャツの下に潜ませた色男……『怪PR社』第二営業部のベテラン営業マン、牛鬼種の牛鬼うし雄のもとで、小豆あらい種の小豆あら太は営業補佐を勤めていた。
「牛鬼さんがトイレ長いの、すっかり忘れてました」
 祖父から貰った黒色の腕時計を見て、あら太は顔を顰めた。
 乗りたい列車が、あと三分で来てしまう。
「牛鬼、また電車乗り過ごさないようにね」
「大丈夫、あら太が起してくれる」
「えー?ちょっと、あら太君に甘えすぎなんじゃない?」
 ガラスばりで中の見える近代的オフィスフロアの窓から、顔を出したのっぺら坊種、野平が茶化すのに悠長に応じる牛鬼に向かい、あら太は急いた視線をやった。
「よければ牛鬼さんは後で来てください!俺、先に行きます」
 そう言って走り出すと、伴走してくれた牛鬼にほっとして。
 振り返って野平にペコリと頭を下げる。野平は愉しげに笑いながら手を振って見送ってくれた。

「はァ~、間に合った」
 膝に手をついてゼェゼェと息をついているあら太に対し、牛鬼は涼しい顔でブランド品の腕時計を眺めていた。
「電車遅れてんなァ」
「ええッ?!」
「人間界と違って、ピッタリ来る方が可笑しいの」
 『妖怪メトロ』だぞぉ、と呟きながら片眉を下げて笑う。牛鬼の表情は豊かだ。癖のある黒髪と高い鼻、クッキリと形の良い眉目と、厚い唇が揃った派手な顔は、一言で言えば美形だ。髪で目立たないが、左右に生えた黒い角も猛々しく、あら太はいつも牛鬼の、そうした男性らしい姿を羨望の眼差しで見つめてしまう。今の表情は、かっこよかったなぁ、などとぼんやり思いながら、メトロの運行状況を表示している掲示板を見た。
「ていうか、早めに出てった?」
 壁から生えた毛が、文字になって次々と変化する掲示板には、次の特急メトロは、7分後に来ると表示されていた。
「完全に間に合わないな」
「すみません、もっと余裕のある時間設定にしておけば良かったです」
「いや、俺のトイレが長かったから、……先方に連絡入れるわ」
 いったい、何のために汗と鼻水を垂らして走ったのか。あら太はその場にしゃがみ込んだ。線路から響いてくる、どくんどくんと一定間隔の音に耳を傾ける。妖怪メトロは生物化学で出来ている関係で、線路も巨大交通妖怪の一部だ。
 線路や電車そのものが生きており、運行の管理を行っている。
 電話の終わった牛鬼が、背中を叩いて来たので立ち上がると、反対のホームにろくろ首婦人会のツアー団体が喧しく騒ぎながら現れた処だった。婦人会はこちら側に気がつくと、堂々と指を差しながら、こしょこしょと首を伸ばし合って何か相槌を打ち、仕切りに黄色い声を上げた。恐らく牛鬼の見た目がヒットしているのだろう。
「牛鬼さん、モテてますよ」
「そうね~」
 モテる事に慣れている牛鬼は少し困った顔で、婦人会に手を振ると、地下鉄一体が揺れる程の歓声が起こった。
「何、調子に乗ってるんですか」
「サービス精神が旺盛なんです」
「あ、そうすか」
 モテる人は違いますね、という嫌味は飲み込む。そこで、あら太のスマフォ画面に、野平からのラインメッセージが現れた。
 『電車、乗れた?』
 『いいえ、無理でした』
 『やっぱり~』
 からかいの言葉に加え、こちらを指差して笑う野平の顔写真スタンプが送られて来て、あら太のスマホを持つ手は震えた。
「野平さん、ほんと良い性格してますよね」
 走った苦労が報われず、悔しさで苛立ったあら太の肩に手を置き、牛鬼は低く笑い声を上げた。
「はは、ヤなタイミングでまァ……。
 でもあいつ、今日、訪問ないんでやんの。暇人はやーね?」
 あら太が余裕をなくすと、牛鬼は必ずこうして軽く宥めてくれる。牛鬼といると落ち着くのは、営業と営業補佐という、相棒の関係がある他、牛鬼のこうした気遣いを忘れない性格も影響している。
「ところで俺、こないだ野平が凄いグラマーな美女の姿で営業行くとこ見たんだけどさ、歩き方がグラマー意識しすぎて変なの、尻振り過ぎで、逆にきもいの」
 牛鬼は喋る際、じっと視線を合わせて来るため、冗談を一つ言うにもこちらの顔を覗き込んで来る。クッキリした二重は、目に妙な迫力をつけるので心臓に悪い。あら太は牛鬼の戯言を耳では聞いていたが、色男の目力にたじろいでしまい、内容は頭に入って来ていなかった。牛鬼と話をしていると、このような事態に陥る事が多々ある。
「俺も野平さんや牛鬼さんみたいだったら、営業になれたんですかね」
「……、おまえはどっちかっていうと、赤鬼さんタイプじゃねぇのか?」
「そうですね」
 おまえに営業は無理だ、とはなから決めつけたりせず、タイプを分析してみてくれる牛鬼に感謝する。
 地下鉄に揺られながら、あら太は牛鬼の横顔をちらりと見た。交渉の現場で前に出ながら、あらゆる雑務に指示を出す、牛鬼の働きぶりを見ていると、自分もあんな風に出来たら、と思う時があった。
「俺も、営業やれるようになりますかね?」
「ん~」
 牛鬼はもう夢の中という風で、適当な返事しか帰って来なかった。
 営業をやれても、牛鬼のような活躍は望めない事を、あら太は理解していた。
 『怪PR社』は規模の割に小回りが利くと重宝がられ、妖怪経済市場では、業績を伸ばしている優良企業だ。二年程、人間社会で働いた経験が買われ、半年程前に中途採用された。給料は過去に働いたどの会社より良かったが、人の世へのお使い係という重労働を同時に任された。このお使い係は、重い荷物を運ばされたりする事が多いため、非常にきつい雑務だった。人の世に二十数年居た経験と、『人の皮』を所持しているため、いつでも人の世に出て行ける点を買われた一方で、それしか自分には価値がないのだろうな、と思ってしまうと悲しい。
 カタンカタンというメトロらしい音に紛れ、ドクンドクンと鳴る交通妖怪の心音、シューと時々漏れる列車の息遣いが、まだおどろおどろしく感じる耳を早く慣れろと叱りつける。
 地下鉄の黒い窓、真正面に、貧相な体と艶のない猫っ毛、頼りない糸眉の下に細い目が不安そうに鎮座している自分の姿が映った。
 こてん、と肩に牛鬼の頭が乗り、自分の顔の傍に迫力ある色男の牛鬼の面が並んだ。
「俺は、あら太の補佐の仕事好きだから」
 ぽそりと耳もとで声がして、驚いて体が揺れた。
「あら太が営業やりたいって言うなら応援するけどね、でも、俺の補佐ずっとやってて欲しいっていうのが本音」
 普通、照れて言えないような事を、牛鬼は平気で言う。嬉しい言葉だったが、何て返事をすればいいのかわからず、あら太は黙っていた。そんなあら太の反応を見て、牛鬼は安心したように笑うと、再び寝息を立て始めた。牛鬼の言葉が、頭の中をふわふわと回り、こんな簡単に機嫌良くなってしまう自分をちょろいと思うが、ちょろい自分を知られたくないので、はぁ、とわざとまた溜息をついた。

「牛鬼さん、着きましたよ!」
 肩に寄り掛かってきていた牛鬼を揺すり起こし、あら太は妖怪メトロから乗り継いだ大江戸線を降りた。川越から両国、妖怪メトロの飛び穴を使っても、目的地までは一時間掛かった。
 『怪PR社』が入っているビルと直結した時の鐘駅は武蔵のターミナル駅のひとつで、飛び穴のない場所に向けて、特急や快速を出している。
「好い加減、回向院あたりに飛び穴作って欲しいよなぁ」
 ゴキゴキと首を鳴らしながら、ぼやく牛鬼に、痛くないんですか、と聞きながら、着いたばかりの電車の戸を、ドアが開く前に通り抜ける。
 今日の訪問先である両国の『有限会社あずきとぎ』は、あら太の種族である「あずきあらい」と同種の妖怪が集まり、運営している会社だった。
 サービス内容はあずき製品の提供。人の世に向けて、JR両国駅すぐの場所に人の手から借りた事務所も持っている。『あずきとぎの洗った小豆』という名で、人と妖、両方向に通じる商品を出している。
「帰りに浅草寄っても良い?」
 乗り継ぎに使った大江戸線から地上に向かう長いエレベーター内で、牛鬼がぽろりと伺いを立てて来た。
「もしかして、この間潰れた『腹鼓株式会社』さんですか?」
「嫌?」
「いえ、別に……いいですよ、牛鬼さんが寄りたいなら」

 しゃきしゃき、という音。小豆とぎ達が作り出す怪音。これが、小豆とぎの手元ではなく、機械から出て来ている不思議。
 『有限会社あずきとぎ』は、東京江戸博物館の建物中央、広々とした空洞に工場を構えていた。
 『人の目』で見ると社会科見学のため集団で座り込んでいる小学生達が見えるが、『妖の目』で見ると、空洞には巨大な小豆加工の機械があり、作業着姿の小豆とぎ達が思い思いに機械を操作しているのが見える。あら太は自分と同種の妖怪を、一度にこんなに多く見たのが始めてで、軽く興奮して、牛鬼を見上げた。牛鬼は作業着の小豆とぎを一人指して、お父さんに挨拶しなくて良いの?とふざけた。あら太の両親は、人の世でどちらも学校の先生をしている。
 階段の傍で何か机のようなものに座り、書類を見ていた初老の小豆とぎが、牛鬼とあら太の姿を見つけると立ち上がって出迎えてくれた。
 簡単な挨拶をして、名刺を交換すると相手は代表取締役だった。これは即決も狙えるのではと牛鬼の様子を伺ったが、目配せはなかった。
「そのお見かけは、『実装』ですか?」
 近くの喫茶店に誘われ、商談を始める前、牛鬼が聞いた。
 聞かれた小豆とぎは照れたように笑った。
「いえ、『虚装』です」
 名刺には小豆徒居の名に、azuki toiと読み仮名がふってある。妖怪はたいてい見た目年齢は若くして止まるのだが、人の暮らしに沿って歳を取りたがる者が多い。人世の文化に精通していればいるほど、己の地位に合った見た目になりたがる。
「皺も白髪も凄く自然ですね、とてもお似合いです、メーカーはどこですか?」
「『腹鼓株式会社』ってご存知ですか?もう潰れてしまったんですが、あそこの会社は世界に誇れる良い技術を持っていましたよ、私はもう百年ぐらい、ずっとこの井出達です、これ以上の『虚装』を施せる会社には、まだお目に掛かれていませんねえ」
「……」
 その会社の名を聞いた瞬間、牛鬼の瞳がぐっと開いたのと、悲しそうに潤んだのが傍からわかった。
 『腹鼓株式会社』、この名は、入社して直ぐに、牛鬼の顧客として覚えた。妖怪の見た目を装飾する『虚装』作りの老舗で、古くからのこだわりを持っており、ここ最近の『虚装』製品低価格競争に負け、潰れた会社だ。
 細身の女怪が社長をしていた。
「牛鬼さん、これ」
 補助資料を出すと、牛鬼は簡単に確認して、満足そうに頷いた。牛鬼が欲するデータなら、あらゆる分野で予測でき、揃えておける。
「お二人は長いんですか?」
 今度は徒居の質問。
 商談と雑談の按配を、互いに図り合っているこの時間が、あら太は嫌いではなかった。雑談は、人の心理を深くまで見抜く牛鬼にとても有利な材料なのだ。徒居の言葉に、牛鬼がこれぐらいですかね、と指を五本見せると、五十年?と老舗らしい返事がきた。
 牛鬼とあら太の付き合いは五年。しかし、この会社に来てからはまだ二年に満たない。
 牛鬼とは、人の世に居る時に出会い、バイト先の先輩後輩から、会社の営業と営業補佐の関係にまで発展した。人の世で、人として生活していたあら太を、牛鬼は妖怪だとすぐに見抜き、妖怪世界のあれこれを、色々と教えてくれた。
 牛鬼が『怪PR社』から引き抜きの話を受けたのは、人の世で牛鬼とあら太の営業と営業補佐の関係が三年目に入ろうという時だった。一緒に来いと言われたのに、あら太は勇気を持てなかった。
 牛鬼は慎重なあら太の性格を熟知しており、また誘いに来ると言い残して消えた。残されたあら太は、その後、無能社員のレッテルを貼られ解雇された。ナンバーワン営業マンだった牛鬼を支えていたあら太は、有能営業補佐と周囲には思われていたのだが、それは相手が牛鬼だったからだった。別の人間を補佐する時になって、あら太が直面した事実、あら太が阿吽の呼吸で、補佐出来る人間は牛鬼のみだった。牛鬼が相手の時は、あれだけ先読み出来た仕事が、まったく予測出来なくなり、予測しても外してしまう。ミスを繰り返し、解雇されてしまった。転職しても、やはり上手く行かず、牛鬼の居る場所で働きたい、という思いばかりが日に日に強くなり、牛鬼が誘いに来るのを待たずに自分から牛鬼の居る、この『怪PR社』に転職した。この時、あら太を20年間、人として育てて、人の会社で働いて欲しいと考えていた両親と大喧嘩し、結局、会社の人事部が給料を人間の金で出すという対応を取ってくれるという事で何とか落ち着いた。
 
 浅草、花屋敷から徒歩二分程の距離にある薄暗い喫茶店、『花咲か爺』は妖怪用飲食店であり、店内には白い陽光とオレンジの光に照らされながら、鵺と一つ目のサラリーマン二人組、化け鴉の老人、河童の主婦、同じく河童の学生集団などが寛いでいた。浅草という場所は、河童種が多いようだ。
 あら太としては、ドトールのBサンドが食べたかったのだが、人間の運営する店には、妖怪店員がシフトに入っている時にしか入れない。
「牛鬼さん、さっきのあれ、何ですか……!」
 『花咲か爺』の名物料理、ミートソーススパゲッティに手もつけず、あら太は前のめりになって、牛鬼に詰め寄った。
「ん?」
 牛鬼はキャベツロールを一つ口に入れたまま、口元を隠して応じた。ローテーブルに顔を寄せた、低い姿勢から上目遣いにされ、どきりとする。顔の良い牛鬼といると、いちいち見惚れてしまい困る。がっしりとしてぶ厚い、牛鬼の逞しい男の肩を目の端に入れながら、あら太は責める調子で続けた。
「徒居さんの要望、叶えようって気がさらさらなかったでしょう?低予算で無理言われてるのはわかりましたけど、貴方らしくないというか」
「や、普通に考えて二百万で十人の『畑』から五百万の『肝』を取る事は物理的に不可能だろ」
「十人全員を五十秒以上、物凄く怖がらせれば良いんでしょう?」
「ん~、おまえは妖怪歴が短いからそんな無謀な事が言えるんだよ、しかもなァ、畑は全員社会人で男だ、勝ち目がない」
 言い切られて、あら太はぐっと下唇を噛んだ。このあたりの感覚は、経験がないとわからない。あら太はすごすごと、スパゲッティにフォークを刺した。食べながら、反論を考えよう。
 そもそも現代妖怪の殆どは、妖怪社会で働き、給与を得て生きている。牛鬼やあら太も、所謂妖怪サラリーマンとして妖怪の会社から給与をもらい、生きている。
 肝と呼ばれる万能の玉、これが妖怪社会の通貨だ。パチンコ玉ぐらいの大きさで一万の価値を持つ。それ以下の額は紙幣のように伸ばされた薄い紙状の札だ。
 肝は食物にもエネルギーにもなるが、それを直接食べたり、電気やガソリン代わりに使う者は少ない。
 肝を人の世で出されるような食品に加工したり、人の世の食品に沁み込ませたり、電気やガソリンとして生かすため、少ない肝で最大限効果を出せるような装置を開発したりする会社もあり、そうした様々な会社があるお陰で、人の世と同じ、様々な職が存在していた。
 ただし、この肝は人間の心、妖怪用語でいう『畑』から取れる。人間を怖がらせたり、畏れさせたり、感動させたり、人間の心を動かす事で得られるものだった。
 話を戻すと、この肝を大々的に収穫するための企画を、妖怪各社は年に数度、社運を掛けて行い、これに成功すると当分の資金を得られるので、牛鬼やあら太の勤める『怪PR社』をはじめ、様々な広告代理店やイベント運営会社に、相談を持ちかけるのだった。
 さらに言えば、妖怪の起す不思議な現象とは、全てこの肝を消費して実現可能になるため、不思議な現象を起こす事の出来る、体力のある妖怪で居続けるためには、食物としての肝の摂取を欠かさずに行わなければならない。
「そんなに手強いんですか?社会人の男って」
 早くもキャベツロールを完食した牛鬼に質問すると、食後の珈琲を口に運びながら、牛鬼は眉間に皺を寄せた。
「あ~、鈍感だからなぁ霊的な事に。相当力を使ってみせないと反応しない。そんな体力、あの会社にないだろぉ?小豆をとぐ音を聞かせるだけで一秒ごとに百万、禍々しく『虚装』した小豆とぎの姿を丸々見せるとしたら、一秒ごとに五百万は掛かる」
「えっ」
 その話を聞いて、頭を過ぎったのは自分のこれまで。あら太は二十数年、人の社会の中で、人に認識されながら生きて来たが、そのために、もしかして相当な額が掛けられていたのかもしれない。
「いや、おまえの場合は、おまえの親が懸命に働いて買った『人の皮』を生まれた時から被ってられたから話は別だが、・・・普通は人の目に映らない妖怪の姿を、人に見せるためには、かなり金が掛かる。
 昔は人間が妖怪を信じてて、簡単に怖がって肝を出したから、妖怪達も体力があってしょっちゅう姿見せて、それで、また怖がられて肝が取れるっていう良い循環だったけど、今はほんと、やりにくくなったよなァ」
「……、そうなんですね」
 あら太の疑問を察した牛鬼が補足の説明をしてくれ、少し胸を撫でおろす。一方で、妖怪社会の常識を、余りに知らない自分がわかり、恐ろしくなった。
 こんなに知らない事だらけの妖怪社会で、暮らしていくこの先を思うと寒気がする。一体いつになったら、一人前の妖怪になれるのか。全ての仕組みを理解して、そこから上手く事を運ぶ方法を思いつくようになるまでには、あとどれぐらいの年月が居るのだろう。
「あの、『人の皮』っていくらぐらいするんですか?」
 試しに、今沸いたばかりの疑問をぶつけた。
「二千万~一億ぐらいかな、ピンキリだ」
 想定よりずっと高額数字が飛び出して、固まる。両親に苦労して用意してもらった『人の皮』、生まれた時から当たり前のように使っていたから意識していなかったが、それを少し挫折したぐらいで簡単に脱いでしまって、妖怪社会に逃げた自分が急に親不孝者のように思えてきた。
「俺、あれ、箪笥に入れたままっていうか、一部破けてさえいます」
 青ざめて言うと、牛鬼はくっと笑った。
「また被れば治る」
 大丈夫だ、と低く呟き、牛鬼はあら太の肩を叩いた。それから、少し顔を顰めて、今度は牛鬼の方が、身を前に乗り出した。顔の距離が近くなり、牛鬼の艶っぽい黒の瞳が迫って来た。
「それよりさっきの話だ、おまえは結局、何がしたいんだ、俺はあの会社とは関らない事に決めたから交渉を決裂させて来たけど、おまえはそれが不本意なんだろ」 
「……それは、だって、あんなに徒居さんはやる気で、うちを信じて呼んでくれたのに。昔の貴方なら……任せたいって言われたら、必ず応じてたから」
 牛鬼とあら太が昔居た会社は、ビル広告やテレビCM、ネット広告スペースや、電車内の壁などを駆使して、新商品のPRや企業イメージの向上施策、販売促進効果を狙った露出など色々な目的に合わせて企画を作り、提案して実際の効果測量まで務める、総合広告代理店だった。
 それなりに大きな規模の会社だったため、数十社を束ねて、企画を運営する事もあり、過激な勤務スケジュールになる事が多々あった。普通なら弱音を吐き逃げ出したくなるような状況で、牛鬼は熱意と信念を持って、必ず最後までやり遂げる男だった。そんな牛鬼の事を支えたくて、牛鬼のあらゆる思考、癖を覚えこんだ。牛鬼ならどうするか想定して、牛鬼の仕事が捗るよう動いた。
「昔の俺は、間違ってたんだよ」
 ぽつりと牛鬼の口から、出た言葉にあら太は胸が締め付けられる思いがした。
「どうしてそんな事ッ」
「それは、これから寄る既存客の状況見たらわかる、俺は、あの会社のお陰で、無理なものは無理だと言える営業マンになった。早めにそれがわかって良かったと思ってるよ。肝は命に直結する」
 その時、『花咲か爺』の赤茶の壁をすり抜けて、薄青い肌の男が現れた。額に二つある角が、鬼種である事を示しており、店内が少し色めきたった。
 男は青鬼といい、牛鬼とあら太の上司だった。
 白く細かい髪をキラキラ光らせながら、鬼種特有のつり目で辺りを見回すとスンと鼻を鳴らし、すぐにこちらに気がついた。スーツを着る癖をつけている牛鬼やあら太と違い、青鬼は蛇柄の豪奢な和装で、その見た目の迫力もあり店内の注目を浴びていた。恥ずかしいからこちらに来ないでください、というあら太の願いも空しく、悠々とこちらにやって来て、店主に目配せで注文を出すと、するりとあら太の隣に腰を降ろした。
「どうだ調子は」
「えっ」
「小豆、外出は今月からだったな、牛鬼に失望したりしてないか?」
 開口一番にこれである。青鬼はズバッとものを言うので、人から苦手意識を持たれる事の多い男だった。
「失望って、どういう」
「近頃、腑抜けで困っている、昔はこうじゃなかった」
「青鬼さんまで言うんですか」
 牛鬼が困ったように眉を下げて言うと、青鬼はふふと口端を上げた。
「言うさ、牛鬼の積み上げがあれば、今月は赤いノに勝てる」
 赤いノとは、第一営業部の部長、赤鬼の事である。赤鬼の方でも青鬼を青いノと呼ぶ。
「達成はしてるんですから」
「達成は当たり前だ、どれだけ積み上げてくれるかが評価のポインドだぞ牛鬼、期待しているんだよ、私はおまえに」
「はァ、どうも」
 牛鬼の顔には完全に、面倒臭いノに捕まったと書いてある。牛鬼のためにも、あら太は青鬼を撃退する事に決めた。
「あの、青鬼さん、補佐の蛇さん達は?」
 青鬼は部長だが、自身も営業として稼いでおり、口うるさい補佐を三名つけていた。彼等には直接指導を受けたので、言いつける準備は万端だ。彼等がもし青鬼を探しているような状況にあるなら、いつでも青鬼を回収してくれるだろう。浅草の雷門下には飛び穴があり、ターミナル駅が存在するのだ。
「ふ、俺を追い払う算段か、そうはいかないぞ」
「……、違いますよ?」
 図星を刺され、視線を逸らすと、牛鬼がくすりと笑った。誰のために戦っていると思ってるんだ、と憤ったが口を噤む。
「確か、ヒバカリは彼女とランチに、ヤマカガシは人事部に呼び出されていたかな、ジムグリはデザイナー宅に訪問させている」
 残念、青鬼を回収してくれる補佐達は多忙のようだ。そもそも青鬼は一人行動が好きで、牛鬼のように補佐を常に傍に置くという事をしない。
 小さな河童がやって来て、三人のテーブルに、コトンと青鬼の好物らしい舟和のあんこ玉と煎茶を置いた。この間は牛鬼のために今半のすき焼きも出してくれた。ここ喫茶店ですよねと突っ込めばいいのか、すき焼きとか、共食いにならないんですか、と突っ込めばいいのかで迷ったのを思い出す。
「この喫茶店、何でも出てきますね」
 思わず呟くと、カウンターの向こうでマスターが河童の手をひょいと上げて壁を指差した。料金二倍で何でも出します、人間界からの輸入なら三倍。

 牛鬼が『花咲か爺』から出て向かったのは、まさかのストリップ劇場だった。青鬼も平然とついて来ており、あら太一人が慌てていた。
 劇場に入るのに二の足を踏んで、戸惑うあら太に向かい、青鬼が良い笑みを浮かべ、童貞か、とからかいの言葉を掛けて来たので、二度経験があるにも関らずあら太は真っ赤になって固まった。その二度の経験も、彼女にリードされての事で、あら太は女性関係には消極的な男だった。風俗に入った経験もなく、まず雰囲気に気圧された。
「安心しろ、ショーを見に来たんじゃない、牛鬼の元顧客が働いているんだ」
 その言葉を聞いて、凍りついたのは牛鬼のあの表情を思い出したからだ。そして全てに合点がいった。牛鬼は顧客の懐事情を考えて提案する男だったが、稀に熱い心を持った顧客が、無理して依頼して来る仕事も請けていた。それでいつも成功させて来たから良かったが、ぎりぎりの予算組みでやっている企業の仕事で、もし失敗したら、どうなるのだろう、と思う事がよくあった。
 劇場のホールに向かう階段を上り、裏口らしい関係者用の戸口を潜ると、「牛鬼っ!」と黄色い声が響き、ホールを出て来たばかりの痩せた女が現れた。裸にバスタオルを撒いている。女は牛鬼に走り寄ると、ぎゅっと抱きついた。牛鬼が女の背に手を当てる。その二人の姿はまるで恋人同士だった。
「来てくれたの?」
「調子はどうですか?」
「ぼちぼちよ」
「皆さんは?」
「相変わらず、会う?」
 女は『人の皮』を被っているが、『妖の目』で見ると狸らしい尾が尻から生えている。通された女の楽屋には狸が数匹、檻の中で重なって眠っていた。
「皆、戻れると良いですね」
 牛鬼は檻の前にしゃがみ、もう自我を失ったらしい、人の気配に全く反応しない狸達を眺めながら言った。そっと牛鬼の指が、檻の中に肝の玉を数個入れるのが見えた。
「楠鼓と鈴貫は先月消えたわ」
「そうですか」
「ねぇ、牛鬼、私達貴方には感謝こそすれ、恨むことなんて一つもないのよ、時代に負けただけだから」
 女は牛鬼の肩に触れ、背に腕を回しながら隣にしゃがみ込んだ。そして牛鬼が檻の中に押し込んだ肝の玉を取り出すと、牛鬼に戻した。
「もうこんな風に、こっそり差し入れとかもしないで、いつまでも貴方に甘えてるわけにはいかないの、『人の皮』を持ってる者達で何とか頑張ってるから、もう大丈夫よ」
「佐貫さん……」
 牛鬼の声は掠れて切ない。まさか、牛鬼は彼女に特別な好意を、と思い至り、慌てて青鬼を見た。青鬼があら太の耳元に、邪魔者は退散するか、と囁いて来て、いよいよそうなのだとわかると、急に途方もない喪失感に襲われた。相棒として誰より近い位置に居る牛鬼が、女という全く別の形の相棒を持つ事に少しの寂しさはあるが仕方がない。あら太は女の役割まではこなせない。
 青鬼と連れ立って部屋を出た。
 楽屋の連なる廊下は冷たい空気が漂い、ホールの賑やかな音楽が漏れ出ていて落ち着かなかった。牛鬼を待ちながら、初めて青鬼と二人きりになった事に気がついて何を話そうかと慌てた。
「『有限会社あずきとぎ』だったか?午前中行ったところ?」
 青鬼の方から話を振ってくれて、はい、と小さく答える。
「あそこは結構持ってるはずだから、頑張って引き出してくれ」
「持って、ますかね?前準備で、お金の使い方、結構色々な分野で見ましたけど、なんかこう、ぱっとしない感じでしたよ」
「持ってるさ、一番使うのは他社を買収する時だ、色々と手を広げてるだろう、特に海外向け」
「えッ?」
「この間、ロシアの日本食ブームに先駆けて、ロシアの高級和食店を何店か運営してる飲食チェーンを買収していたが、あれは凄かった」
「……」
「何だ?調べていないのか、リサーチ不足だぞ」
 すみません、と呟いて、思い出したのは徒居の熱意。穏やかな話し方だったが、何度も牛鬼からYESを出そうとあらゆる言い方で気持ちをぶつけて来てくれていた。金額的に無理を言っているのはわかっているが、どうしてもやりたい事があって、その資金が必要なのだと。
 今回のイベントが成功すれば、きっと日本妖怪界を活性化させる良い事例を挙げられる。自分と同じ種族、という親近感も手伝って、あら太は、牛鬼に徒居の望みを叶えて欲しいと思った。そして、叶えてくれると、何の疑問もなく思っていた。徒居がやる気でいてくれるなら都合が良い、こちらはどんな仕事でも請ける。そう信じて疑わなかった。それなのに、牛鬼は徒居の望みを叶えるのは現実的に厳しいと言って、どうすればより実現が可能になるか、他人事のように解説して、自分にはまず出来ない、他を当ってくれと言った。徒居はそれでも、どうすればより実現が可能になるか、といった牛鬼の解説が的を得ていて気に入ったとか、貴方の仕事を知っているから貴方を呼んだのだとか、老舗のプライドをかなぐり捨てて、牛鬼に縋るように仕事を頼み込んだ。
「受注はしたんだろう?」
 青鬼の問いに、あら太は唇を噛んだ。失敗するかもしれなくても、徒居と共に、挑戦するだけでも、して欲しかった。あら太の知っている牛鬼なら、徒居にあれだけの熱意を向けられたら、断わるはずがなかったのに。
「いえ」
 牛鬼は変わってしまった。
「何、先方は乗り気だったろう?何があった?」
「牛鬼さんが、無理だって」
「あの馬鹿、またか」
「前はあんなじゃなかった、のに」
「『腹鼓株式会社』で失敗したのが相当応えたんだな」
 青鬼の目がそこで、ビクリと何かを捕らえたので視線を追う。真っ裸の女性が、悠々と二人の前を通り過ぎて行った。二人は今『妖の目』でしかとらえられないため、女性に二人は見えていない。それにも関らず、青鬼はきっちりと女性から目を逸らし、静かになってしまった。
「青鬼さん、もしかして、童貞?」
「そんなわけあるか、礼儀の問題だ、紳士なんだ俺は」
「はァ、成る程」
「しかし小豆、あのままじゃ牛鬼はまずいぞ」
「え?」
「牛鬼クラスの営業なら、達成だけじゃなく、積み上げまで意識して動いていないと、評価は落ちる」
「……」
「このまま、積み上げのほとんどない営業になるというなら、積み上げられる他の有能な営業のために、自由に使える枠も減らされるだろうし、下手したら補佐もつけてやれなくなる」
「そんな」
「おまえからも何か、言ってやれ」
 ぐっと眉根を寄せ、青鬼は吐き捨てるような調子で言った。その顔には、牛鬼への不満と苛立ちが見て取れて、あら太の背を嫌なものが走った。早急に、牛鬼の目を覚まさせなければ。

 その日は午後三時を過ぎてから会社に戻った。
 牛鬼が佐貫と呼んでいた、あの女妖怪と牛鬼の間に、何があったのか。小額の取引が長期に渡ってあった事だけが記録に残っていた。まずは何があったのか、聞き出さなければ。しかし、何故かその事を聞くのが恐ろしく、あら太は牛鬼に、何も切り出せないでいた。
「あら太」
 午後五時の営業会議が始まるという時になって、牛鬼から声を掛けられた。揃えた資料を手渡し、自分も同席するつもりで立ち上がると、牛鬼が肩に手を回して来た。
「なんかな~、徒居さんが俺宛に近場まで来てるらしい、多分、説得しに来たんだと思うんだが、俺は会議に出るから、代わりに会って丁重にお断りして来てくれないか?」
 一国一城の主が自ら、頼みに来ているのにこんな扱い方をするなんて、と憤ったあら太の目を見て牛鬼は少し戸惑った。
「本当は、請けたいんでしょう?徒居さんの仕事?」
 ぽつりと探るように問うと、牛鬼は視線を逸らして笑った。
「あの熱意には、正直、参ったけど、……無理なものは無理だろ」
「変わりましたね、牛鬼さん」
 青鬼が口にした失望という言葉に、この時程しっくり来た事はない。牛鬼に呆れて、涙が出そうだ。この男のもとで働きたくて、自分は人の生活を捨てて来たのに。
「俺がいなきゃ何も出来ない癖に」
 苦りきった顔で、溜息と共に牛鬼が口走った言葉。
「は?」
 その破壊力に、足の裏から砂が大量に零れて行くような気がした。
「何度も様子を見に行った、あら太、おまえは俺が消えてから、上手くやれてなかった。俺のやり方は結構、癖があるから、それで俺を追って来たんだろ、やりやすい仕事がしたくて来たんだろ」
 そこまで口にして、牛鬼がはっと口を噤み、あら太もまた驚いて、自分というものを振り返った。そうだ。牛鬼のもとで働きたかったのは、牛鬼のもとでしか上手くやれないから。自分のために、牛鬼を追って来たのに、失望だなんて、何て勝手なんだろう。
「た、しかに、俺、……貴方がいないと、何も」
 声が震えた。情けない事に何も言い返せない。
「違う、そうじゃなくて、えっと、一緒だって話だ。……俺だって、無理ばかりして働きたくないんだよ、やりやすい仕事だけ、やってたいさ」
「あ……」
 そうだ。確かに。あら太は、牛鬼の補佐という、やりやすい仕事しかやらないのに、牛鬼にだけ無理を強いるなんて。
「そうですね、貴方の、言う事は正しい」
 なんて一方的に物を言っていたのだろう。急に何もかも恥ずかしくなって、景色がぼやけた。あら太が牛鬼の補佐しか出来ない補佐だという事を、牛鬼はわかっていた。自分に、牛鬼を動かす力はない。青鬼から、牛鬼の更生を任されたけれど、自分はそこまで、牛鬼に影響を持たない。
「アッ……」
 全身が沸騰したように熱くなり目が廻った。足に力が入らず、シャツに赤いシミが出来た。興奮して、鼻血が出たのだった。膝をつくと、ぐいっと牛鬼に両足をとられ、抱きかかえられた事がわかり、さらに体が熱くなった。
「牛鬼さん、ちょっと、恥ずかしい」
「一旦、落ち着け、医務室!」
 牛鬼のかたい胸に体の半分が当っている。こんな熱く猛々しい肉体を持っていたら、さぞモテるだろう。牛鬼は本当に良く出来た同性だ。男として羨ましい気持ちを通り越して、もし自分が女なら、恋するだろうなと思う。佐貫はこの体に抱かれたのだろうか。佐貫なら、牛鬼の心を動かす事が出来るのだろうか。
 ここで泣いたら格好悪い。
 絶対に泣くものか。
 牛鬼を、見返したい。

 医務室に転がされ、深く息を吸うと薬の薫りが広がった。鼻血は止まっていたが、頭の芯がくらくらする。医務室兼仮眠室になっている小さな部屋は、元倉庫だけあって天井が低く息苦しい。運び込んでくれた牛鬼が、なかなか出て行かないので泣くに泣けない。
「徒居さんに会ってください」
 意地になって要求すると、牛鬼からは溜息が返った。
「牛鬼さんが請けないなら、青鬼さんに請けてもらって、俺、青鬼さんの補佐します」
「は?」
「青鬼さん、今赤鬼さんと競ってて、多分お願いすれば少しでも足しになるならって、この話受けてくれると思うんです、俺も、他の人補佐出来るようになりたいし、俺だって顧客の熱意に応えたい、貴方の意思に従うだけの俺から、成長して、貴方を見返してやりたい」
 そこまで言って、牛鬼が妙に近い位置に居る事に気がついて驚いた。何が近いかと言うと、顔が近い。
「ぎ、牛鬼さんっ……?」
 声が裏返ったのは、いつもと様子の違う牛鬼の雰囲気に圧されたため。
「青鬼さんに指示されたのか?そういう風に言えって?それともホントにそのつもりなのか?あの人?
 俺にやる気出させたいのはわかるけど、逆効果だろ、あら太に根回しするだろうってことは想定出来たけど、まさかあら太を俺から引き離しに掛かるとはな?」
「え、あ、違います、青鬼さんの補佐をっていうのは俺が、自分で今、考え付いて、その、徒居さんの案件についてのみですけど」
「あら太は俺のだろ?」
「貴方の、っていうか、……何かちょっと、怒ってますか?」
「ん~、怒ってるっていうか、妬いてる」
「っ」
 その言い方はずるい、と言おうとして咽喉が閉まった。ちょっと距離が近すぎる。牛鬼の、太く浮き出た骨筋や肉厚な体、グッと押す力のある眼光が、セックスアピールの力を持ちすぎていて、ドキドキして来てしまった。この距離で、その顔で、妬いてるなどと言われると変な気持ちになるから、やめて欲しい。
「お、俺だって昼間の、佐貫さんの件で、妬きましたから!!おあいこ、です」
 違う。その「妬く」は恋愛的な「妬く」になってしまう。牛鬼の口にした「妬く」は多分、仕事の話を、会話のオシャレとして、恋愛風な言い回しにしたのであって。
「キスしたい、あら太」
 そこで突然、牛鬼がストレートに殺し文句を口にした。一体、何が起こっているのか。呆けたあら太の顔を、牛鬼の分厚い手が包み込んで、また距離が近づいた。
「嫌?」
「いえ」
 咄嗟にいつもの返事、牛鬼の嫌?には大体、いえ、と応えてしまう。駄目?ではなく、嫌?と聞くところが、牛鬼のテクニックだった。
 あら太はいつも、牛鬼の要求が嫌じゃない。駄目な場合はあっても、嫌な場合はほぼないのだ。何に対しても、牛鬼のやりたい事は、やらせてやりたいという気持ちがある。
「……ふ?!」
 触れるだけかと思ったら、唇を舐められて歯列を割られ、口内に思い切り太い舌を差し込まれた。咽喉の奥まで侵入されるのではないかと思う程、勢い良く、舌や頬の裏を舐められて腰が痺れた。舌の裏を吸われて、初めて自分の舌が、吸い出された事に気がつく。
 その時間は数秒に及んでいたが、あっという間に過ぎ去った。
 牛鬼と体の柔らかな場所を繋げあったという事実が、何となく嬉しかった。隣同士に生えていた、種類の違う花同士の、根っこが絡まったような、急に親密さを持てたような感じがした。
「何で急に?」
 はぁはぁと、荒い息で聞くと、牛鬼は不思議そうな顔をした。それから、困ったように眉を下げ、口元に手を当てた。
「いや、なんか、変な気分になって」
「あ、それ、俺も、ここが狭いからでしょうか」
 驚いた事に、牛鬼の顔は赤く、額には玉のような汗を掻いていた。 
「その前に、俺がおまえの事好きだから」
「え?」
 聞き間違えかと思い、聞き返す。
「魔が差したっていうか」
 二度目の「好き」は聞けなかった。好きというのは、どういう好きなのか、確かに好きだと言っていたかも疑わしい。
「ちょっと待ってください!」
 好きとか言っていますけど、どういう意味の好きですか。佐貫さんはどうなるんですか。そもそも俺達喧嘩していましたよね。
「俺の好きは恋愛感情ね、それと佐貫さんは普通に顧客、あの人が俺に寄せてた過度な期待を、俺は調整する事が出来なかった、あの人は俺に期待するあまりに無理な金を出して、会社を潰しちゃって、俺は、それで凹んで怖がりになってたんだよ」
「牛鬼さん」
「でも、おまえがあんな、無謀な事言い出すから、なんか、ちょっとまた無理な仕事も、やってみようかなって思えて来たんだよね」
「無謀な事、って、青鬼さんの補佐、やるって事ですか」
「前の会社居た時、俺以外の補佐して散々だった癖に、青鬼さんが補佐に対して、糞厳しいの知ってる癖に、良くあんな事、思いついたな」
「だって、徒居さんが」
「わかったよ」
 くしゃりと髪に触られて、何とも言えない心地よさに包まれた。牛鬼が好きだ。実感して耳が熱くなるのがわかった。
「好きです、牛鬼さん」
「え?」
 先程の自分と、同じ反応をしている牛鬼を愛しく思う。
「徒居さんの事、宜しくお願いします、俺も精一杯、補佐頑張るので」
「ちょ、聞き返したらちゃんと繰り返せよ、言った事」
「貴方もさっき、はぐらかしたじゃないですか」
「え~」
 ぐずる牛鬼に笑いかけて、胸の奥が、ほかほかと暖まっている事に気がついた。徒居の仕事を成功させ、牛鬼がやる気を回復してくれる事を切に願う。

 後日、牛鬼の的確な采配で、徒居の案件は一千八百万の利益を出した。
 喜び勇んだ徒居があら太と牛鬼に、この資金でやりたい事を告白しに来て、その内容が『腹鼓株式会社』の再興援助だと聞いた時、牛鬼は少し涙ぐんだ。徒居は佐貫と長い付き合いがあり、佐貫の会社が失われた事を、誰よりも悲しく思っていたそうだ。同時に、佐貫から牛鬼の仕事ぶりを聞いていたという。経営が苦しい中、小額の取引にも嫌な顔一つせず、必ず利益を作ってくれていた牛鬼に、佐貫は感謝していたそうだ。

「復活したな、牛鬼」
 川越、時の鐘地下にある『怪PR社』第二営業部に、青鬼の爽やかな声が響いた。第二営業部フロアの中央、部長椅子後ろにでかでかと貼ってある営業成績掲示板の前で、牛鬼とあら太は表彰を受けていた。
 今月の積み上げ一位になった牛鬼は、普段通りの気怠い雰囲気で立っている。しかし、横に居るあら太の方は、始終にこにことしており、牛鬼が何か吹っ切れた事を物語っていた。


2016/07/11

『娼婦のムスコ』(強気攻め×気弱受け)



 バーに備わった大理石のトイレ、その限られた狭い空間で。数分前まで繋がっていた相手。タカは異性愛者だった。
 そうした用途に使われやすいこの店のトイレには消臭機能と洗浄器具、コンドーム自販機まで都合良く備わっており、現在、事後の匂いの消臭中。洗浄は軽くだけ。

 ウ゛ーンと固いものの揺れるような、消臭の音が響く個室の中で、セネカとタカは近い距離。先程一緒に掻いた汗は、みるみると冷えて行っている。タカは遠い目で、壁の一点を見つめながら無言で、セネカを不安にさせていた。額にそっとキスをしてみたが、無反応。どうしたことか。
 全てが済んで、軽い片付けを終えて一息をついて。その顔を見たら、何かを失ったような顔で、呆然としていた。

 タカは華奢な身に優しげな顔と、陰気な色気を持ったセネカの好みど真ん中で、一目見ただけで体中の好意スイッチを押された。全身から大好きオーラを放って迫ったら、それが伝わったらしい、最後まで応えてもらえた。タカはセネカによって、同性愛の世界を知った。
 初めてのことで、驚いたり怖がったりする気持ちはわかる。しかし事は全て済んだのだ。今は、何だこういうものだったのか、と安心の一つでもする時間じゃないのか。行為中のほうがまだ余裕を持っていたような気がする。
 先程までのタカには、セネカの手管に流されて行くのを楽しんでいるような風があった。笑い声を上げたり、微笑んだり、時々戸惑いは伺えたが、拒絶の色はなく。快楽に弱い性質なのだろう、最初とは思えない程、しっとりした色っぽい反応を見せ、セネカを満足させた。だから、この反応は予想していなかった。
 今のタカは、青い顔で震えている。被害者のような顔つきで、何かに怯えている。……強姦したみたいじゃねぇか。


「タカ」

 呼ぶと、顔は向けてくれるが視線を合わせない。

「合意じゃなかったのか、今の」
「いや、合意だったよ。大丈夫。俺が悪い。あの、びっくりしただけだから。
 自分がこんな肉欲に弱いと思ってなかったから」
「男同士も良いだろ」
「他人事ならね」
「あ?」
「ごめんなさい」

 怯えたような顔で見上げないで欲しい。気分が悪い。頬を抓ってやると、顔を振って嫌がった。

「俺がおまえの初めてか?」

 聞くと、カッと頬を染め、耳を塞いだ。

「おい、どうなんだよ?」

 塞がれた耳に向かい確認。男同士、やっちまったもんはしょうがねぇだろう。おまえはこっち側に、もう来たんだ。

「ノーカウント」
「あ?」
「ノーカウントで、酔ってたからってことで、なかったことにしてくれないかな?!」
 
 ……。なんだそりゃ。

「駄目?」
「つまりおまえ、やり逃げする気か?」
「えっ?!」

 憎たらしい程に、顔の色を失って俺から逃げようと壁に寄ったその反応。最低すぎるだろ。
 ヴィンチでは宗教の戒めがあり、睦言を一度きりの関係で終わらす輩は少ない。

「俺が誘って、おまえが応えた!
 二人で責任被ったよな?
 身体だけで終わらすのか?」
「そん?! え?!
 いや、申し訳ないけど、そのつもり。
 ていうか、言い方酷いよ。俺は……」
「一ヶ月ぐらいはお付き合いしてくれるもんだろ、こういうことしたからにはよ」
「そういうもんなの?」
「そういうもんだ」
「え?! 知らなかった! そんなの」
「やっただけの関係とか、寂しいだろ」
「まぁ、うん、でも、行きずりの人と最後までしたなんてバレたら、俺……」
「最低かてめぇ」
「いやっ、あの、駄目なんだよ、俺の場合。
 俺は、もっとしっかりしなきゃダメなんだよ。お見合いとか……、ちゃんと、家同士が納得してる関係じゃないと、結べないんだ」
「一目惚れを信じねぇタイプなんだな」
「……色々あるんだよ、そういうわけで、俺のことはもうこれっきり、一回だけの相手として考えて欲しい」

 興の醒めることを。

「よくなかったのかよ?」
「それは聞かないで。
 でも、俺は訳があって軽い関係は結べない。
 俺は、肉欲に溺れるわけにはいかないから。
 溺れやすい自覚があるから尚更……。
 貴方は上手な分、危険。
 これ以上関っちゃ駄目だと思う。
 しょっちゅう、して欲しいと思うようになってしまうかもしれない」

 きゅん、と咽喉から胃の間、心臓の周辺がどよめいた。

「い、良いじゃねぇか。俺はおまえにならいくらでも欲情できる。求められたら、いつでも応じられる」

 顔を近づけて、熱っぽく訴えると、タカは唇を噛み、目を潤ませた。

「求めるようになんか、ならない」
 
 事後特有の怠惰な色香を漂わせ、吐息と一緒に喋る。欲望の熱が、盛り返して来ていた。もう一度繋がりたい。純粋に、そう思った。

「取り敢えず場所変えるか?」

 場所を変えて、今度はもっとじっくり。

「いや、だから、もうこれっきりで終わりだって」
「終わりって何だよ」
「終わりは終わり、おしまいってこと」

 見かけの柔らかな印象に反して、頑固なタカの内面に、頭が痛い。好みど真ん中で、身体の相性も合って、文化レベルも近そう。少し喋っただけだが、恐らく性格も良い。

「タカ」
「ごめんね」

 答えをはっきりと提示されたが、これで終わりにはしたくない。

「ごめんは言うな」
「ごめん」
「とにかく場所変えるぞ」
「話聞いてた?」
「水買って来る、待ってろ」

 一先ず作戦を練るため、セネカは現場を離れた。店の隅に置いてある自販機には、飲み水から毛布、大人の玩具、アイスクリーム、流行小説、ボールペン、と雑多な商品が並んでいる。
 毛布とアイスクリームが売り切れていて、ボールペンが残り一本。硬貨を入れて飲み水を選ぶボタンを押し、商品を待つ間に作戦を立てた。
 よし、これならイケるという案を二つほど思い浮かべ、意気揚々と戻った。しかしその頃には、タカの元にはタカの兄、ミノスが駆けつけており、セネカの作戦は実行前にたち消えた。
 当然セネカはミノスを恨んだが、このミノスは後日、セネカにとって大いにプラスの働きをしたのだった。ミノスはセネカを、タカも住まう自宅に、招待したのである。

「ああ、セネカ・マグラン!
 よくいらしてくれた!!」

 よく晴れた日の午後、タカの家に踏み込んで、一番に駆け寄って来たのは、タカの兄、ミノスだった。目を輝かせて、頬を染めて、セネカを迎えたミノスの顔は、無邪気な少年のよう。
 セネカは高級兵士という職にあり、その職は子どものなりたい職業ランキング、十年連続一位だった。

「兄さん、ほら、時間でしょ」

 何やら用があるらしく、ミノスはタカに急かされながら、玄関口から、玄関の外へと身を移動させて行く。セネカを出迎えるついで、
自分も外出するところだったようだ。

「話はまた今度ゆっくりと」

 適当にあやすと、ミノスは大きく頷いた。

「ええ、是非! 絶対に!!」

 そうしている間にも、タカに背を押され、車に乗り込み去っていった。

「気の良い兄貴だな」
「闘技マニアなんだよ」

 将を射んと欲すれば先ず馬を射よ。
 セネカはミノスを全面的に頼り、今この場に居る。おみやげに闘技関係のグッズまで持参して、我ながらあざとい。

「家の者が席を用意してくれたみたいだから、二階の庭園まで来てもらえるかな…?」

 タカはセネカと視線を合わすことなく、屋敷の中にセネカを引き入れた。屋敷は一目では全体が掴めぬ程、巨大で神殿のようだった。
土地の広い場所であることを利用して、敷地内にいくつも人口の森を作っている。使用人が暮らしているらしいカラフルで小さな家々がぽつぽつと、森の景色に映えていた。
 屋敷は卵色の太い柱と、真っ白な壁に、明るい色の花が付いた植物の蔦が絡まり、見事に美しい建物だった。
 タカの家はセネカの住むヴェレノの隣地域、フィオーレの端、ヴロヴナという領土の中心地にあるヴロヴナ屋敷であったのだ。タカはヴロヴナ家次男だった。
 トイレの精だとかプロの娼夫だとか、随分なイメージを抱いた後の衝撃。貴族というオチ。
 セネカの血にも一応、名家が混じっているので、気後れはないが驚いた。
 そうか。だから、あんな空気を。
 端々で感じた、タカの身を取り巻く薫るような重圧、あれは気品だったのだと後になってわかった。一目見た時、脳裏に浮かんだ喩え。何かの「精」みたいだ、とは、また夢見がちな感じ方をしたものだ。

 ヴロヴナ屋敷二階、見事な庭園が目の前。タカは薄手の服を着て、襟元にむっとするような色香を漂わせていた。あの繊細そうな顔で、愛しげに庭を眺めている。
 今日のタカは庭の精だ。
 セネカはタカを視界に入れながら、この美しい景色も、タカが居るからこそ良く見えるのだ、などと恋に浮かれたことを思う。
 すっかり心を奪われている。
 今日、少しでも好印象を植え付け、次の約束を交わそう。
 ヴロヴナ屋敷二階には、長く広いベランダの庭園が続いており、その丸い中心部に、テーブルと椅子の並んだ茶会の席があった。
 主だった使用人と、近隣の名家らしい客が混ざって、セネカを歓迎し、輪の中に招き入れる。珍しい客が訪れるというだけのことで、お茶会を開く貴族趣味。

「ヴロヴナ家当主の御血筋に対し、トイレの精はなかったな」

 雑談に二人しかわからない話題を。
 耳元に囁くと、タカは困ったような微笑をして、何の返事も寄越さなかった。

「ヴロヴナといったら、ヴィンチ王族の遠い親戚だろ?」

 さぞ血統に対し誇りを持っているだろう。タカが初めて会った日に、セネカを冷遇したのは、セネカがタカを「トイレの精」だと思ったせいかもしれない。

「無礼を許せよ、馬鹿なんだ俺は」

 謝ると、タカは首を振った。

「俺なんかトイレの精だよ、実際」
「おい、むくれるなよ、もう間違ったりしない」

 誓うと、何が可笑しかったのか、タカは、ふふふと笑って口元を隠した。

「何か変なこと言ったか?」
「いや? 血筋ねぇ……そればかりだね、うちは、資産や規模、土地、どれを取ってもフィオーレじゃ二流だし、人格者を輩出した歴史もない。
 ただ、血筋だけが売りっていう、情けない家だ」
「家が嫌いなのか?」
「大好きだけど、評価はしてない」

 セネカは貴族事情にあまり詳しくはないが、
ヴロヴナはヴィンチに寄ったフィオーレの端という土地柄もあって、開発が遅れていたはずだ。
 セネカが知識を辿っていると、タカが顔を近づけて来た。少し照れる。

「ヴロヴナの地は、ヴィンチに近いでしょ?
 だから当主一族も、住人もヴィンチの風習を、悪習ごと大事に守り続けてる。
 考えの古い、閉じた人間が多い。発展途上というより、発展する気がない、ただの貧しい地域なんだ」
「でも、美しいな」

 ヴロヴナの地は美しい。来てみてわかった。

「そうだね、綺麗さなら……。
 フィオーレにも負けない自信がある」

 タカはやっと笑った。眉を下げて目を細め、キラキラと金髪を輝かせて。ふわりと盛り上がった頬にキスをしたい。顔を近づけたら、ぐっと手で押し戻された。

「やっぱりお血筋ですねぇ」

 使用人の一人が、笑いながら発言した。
 セネカが目を向けると、彼女は初老の顔を、
優美に綻ばせていた。

「ミノス様から伺いましたが、タクオ様もついに人を誘惑する術を身に付けられたとか……」

 タクオとはタカの本名であるが、セネカは最初にタカから聞いた、タカの名を定着させていた。

「そんな術を身に付けた覚えはないよ……」
「まぁいやだ、勘違いなさっては……。責めてなどいませんよ、お血筋ですから、仕方がないものと心得ております。貴方はもう次男ですし、ご自由になさってください」

 使用人の席もきちんと用意されたお茶会で、彼女は使用人の中、一番の席に居た。恐らく女中頭。ヴィンチの風習である、屋敷を一家に見立てた暮らしを享受しているらしい。使用人は屋敷の中、家族のように扱われる。

「何の話だ?」

 セネカの質問に、彼女は周りに目配せした。
何人かの若い女中が、おろおろと彼女と、タカを見比べた。

「タクオ様の産みの方はカラツボの高級娼婦でございます」
「娼婦……」
「ええ、ですからこちらにはお呼びできず、タクオ様は最近まで、産みの方のお顔をご存知なかったのですよ」
「それは可哀想だな」

 横目でタカを見ると、タカはすっと目を伏せた。

「ええ、そりゃぁ、可哀想ではありましたが、我々働き手としても、誰も彼もヴィンチの名家から参じてますからねぇ、カラツボのようなところからいらっしゃった方が屋敷内におられてはやりにくいですし、お父上のご判断に感謝していますわ。
 タクオ様には、可哀想でしたけど」

 すました顔で、何という発言をするのか。
 耳を疑いつつ聞いていると、ふいにタカが溜息をつき、椅子の背から身を起した。

「ミナさん、俺の話なんか暗い雰囲気を作るだけだから、もっと最近の、明るい話題はないかな」
「明るい話題ですか、そうですねぇ、ミノス様がいらっしゃったことなどは?」
「……明るいね」
「本当、ミノス様は私どもの未来に光を与えて下さったわ」

 ミノス・ヴロヴナはタカの兄として、二、三年前、突然その名を貴族会に示した。と、セネカは今日に向けて学習していた。
 タカはミノスが来るまで、長男として育って来て、ミノスが現れた途端、次男になり家の相続権を失った。

「どうなることかと思っていたもの、それまでは、……ねぇ?」
「……」
「タクオ様だって不安でしたでしょう?
 ヴロヴナの取り得など血筋だけですもの」

 すらすらと、聞いている第三者さえ不快になるような、挑発的な言葉を吐くこの者は、自分が使用人という立場を理解できているのか。何を考えているのか。

「母を悪く言うのはやめてくれないかな」
「あら、悪くなんて言ってませんわ、敬意を持ってますわ、娼婦の血だって、悪いものじゃありませんよ、勿論。現に貴方はその血を立派にご活用なさって、こんな素敵なお客様を呼ばれたでしょう?」

 どっと笑い声。五人居る使用人と近隣の名家らしい二名の客。全員がタカを侮辱する冗談に、心地よさを覚えている。
 何だこいつらは、この場所は。

「俺にもわかる話をしろ」

 不愉快のあまりに、厳しい声を出すと、やっと笑い声が止んだ。

「ああ、申し訳ありませんセネカ様。
 伝わりにくい冗談でしたね」
「こんな冗談のどこが面白いんだ」
「すみません」

 初老の女中頭は、頭で納得して、心で納得しない、という様子で何かそわそわとしている。

「タクオ様がもう少し、しっかりお話のできる方でしたら、私共も黙っているのですが、この通り……、少々頼りないお方でしょう?
 本当にミノス様が来た時は救われたんです。
ただそれだけの話で」

 タカの暗い顔が、少しだけ悔しそうに歪んだ。この女中頭は、何故そこまで自分の主人筋であるタカを侮辱したいのか。

「この方は父の恋人として、長く父を支えて来られたんです」

 セネカの疑問を察したのか、タカは女中頭に掌を向けて衝撃の事実を知らせてくれた。

「まぁ昔のことを」

 女中頭は照れたように、口に両手を当て周りを見た。周りに居る中年代の女中仲間が微笑む。

「ですから私達とは、格が違うんですよ、ミナさんは、ねぇ」

 中年代の、ふくよかな女がタカに対し同意を求めて来た。まるで、妾腹の子に対し、正当な夫人を敬えとでも言いたげである。

「いつもこんな感じなのか?」

 抽象的な質問を投げると、一同はぽかんとして顔を見合わせた。

「うんざりしたでしょ」

 タカが返事をくれたので、頷く。するとタカはほんのりと笑って腰を上げた。

「俺は少し席を外すね」
「え?!」

 ここに俺を置いていくなよ。

「やぁー、遅れた遅れた」

 そこに、下の庭から続いているらしい螺旋階段を、一同が席を設けているベランダの庭まで大男が登ってきた。

「すいませんね、庭師クレオです」

 ごつい手をこちらに差し出しながら、男はふとタカを見た。

「どうした、座れ」

 確かにその言葉は、命令だった。
 庭師がどうして、タカに命令をするのか。

「実は私、彼の義理の父になりましてね」
「は?」
「彼の母親のタクシリアはね、良い娼婦でして、通っているうちに娘が」

 かっとなり、殴ったが問題はないだろう。
 この庭師は恐らく、タカの事情をわかっていて、タカの母親に近づいたのだ。

「俺も大概悪党だが、おまえ等は下衆だ」

 罵ることには慣れているが、罵られるのには慣れていないらしい、使用人達の顔には戸惑いが浮かんでいた。

「何するんです、急に」

 庭師は頬を押さえながら、セネカから逃げるよう、タカの横に行った。

「聞いているんですよ、俺ぁ、ミノス様からあんたのしたこと、うちの息子に手出しなさったそうですね?!」

 黒い土のついた手で、がしっとタカの肩を持ち、庭師セネカを睨んでいる。

父親として、許せませんな!」

 タカの細い肩を、砕くのではないかという力の入れ方。庭師はタカの肩を掴んだまま、セネカに唾を飛ばした。
タカの肌の白さが、庭師の手を一層汚れて見せる。その手を離せよ。
 詰め寄って力ずく、引き離そうと足を出した。

「いい加減にして下さい」

 と、そこで小さな声だったが、タカがクレオに抗議をした。クレオから逃れ、うんざり顔をつくり、セネカを気遣うように見た。

「あっ?」
「妹とは仲良くしています、貴方は妹にとって良い父親だ。しかし、貴方に俺を支配する権利はない」
「おいおい、そんな寂しいこと言うなよ、家族だろ?」
「いいえ、俺にとって貴方はただの……」

 タカの言葉の途中で、庭師を気絶させた。
 茶会は騒然となり、大変、と女中頭が呟いて皆がガタガタと席を立つ。人が気絶するような事件があまり起こらないらしい、田舎の屋敷内は、騒々しい悲鳴と足音に包まれた。

 使用人たちが、やっと使用人らしく事態の収拾に取り掛かるのを横目に、俺はタカの手を引いた。

「一対一になれる場所は?」
「俺の部屋かな」

 てっきり屋敷の中にあるのかと思ったタカの部屋は、屋敷の外、森の中にあった。
 使用人の家々に混じり、ひっそりと小さい。
 どうしてこんな迫害を受け続けておくんだ。
鼻につんとしたものが込み上げ、守ってやりたい、という思いが胸を覆った。
 部屋についてすぐ、後ろから抱きしめると腹に蹴りが入った。

「ごめんね失礼な人ばっかりで、気分悪くしたかな」

 蹴られた腹を摩りながら、部屋の中を見渡すと、所狭しと本が積まれていた。

「皆、暇だからああなっちゃうんだと思う。
 うちはもう少し何か仕事を増やさないといけない」
「……、最後の男は何を考えてあんな態度なんだ?」
「あの人は、この家で一番血筋がよろしくないから、俺の義理の父親ってことで地位をつくりたいんだ。困った人だよ」
「……」
「この家は血筋が全てなんだよね。誰も彼も、どこかの名家の次子で、家の伝手でうちに勤めに来てるんだ。
 格の順に仕事まで決まる。あの女中頭のミナさんはヴロヴナの分家筋で、弟さんはヴィンチ王室にお勤めだから、皆の尊敬を一心に集めてるよ」
「実力は、あるのか?」
「そんなのは二の次、大体、難しい仕事もあまりないし。失敗をしても俺に怒られるだけだから。家の雑務の管理は俺の仕事なんだ」
「おまえそれでいいのかよ」
「俺は趣味さえ邪魔されなければ何でも良いよ。母親が娼婦だって事実はどんなに頑張っても消せないし、必要最低限、求められた仕事だけはこなして、後は架空の世界に慰めてもらう」
「架空の世界?」

 部屋中に溢れる本を見回しつつ聞くと、ふふふ、と笑い声が返った。

「架空は良いよ、只管綺麗で、嫌な人の居ない世界に行くことができるから」
「えげつない読み物もあるだろ」
「そういうのは読まなければ良い。
 俺は幸せな話が好き」
「例えば?」
「例えば、えっと、ちょっと待ってね」

 言うと、タカはセネカの立っていた横にすいっと寄った。目当てのものがその位置にあるらしい。ごそごそと本を探すタカの身がすぐ近く。抱きつくと、やはり蹴りを入れられた。

「これ」

 手の上に、どさっと落とされた分厚い本。
 きっと中には字がびっしりなのだろう、吐き気を催す。セネカは本が苦手だった。

「物語はもちろん、登場人物が皆優しくて、思いやりがあるんだ。途中はらはらすることが多いけど最後は凄く幸せで。読み終わった時なんか、俺もこの中に入れてって、泣きながら本に頼んだぐらい」
「むなしくなんねぇのか? こういうの読んで」
「ならない、夢が膨らむ」
「ふーん」
「誰も可哀想な人がいないんだよ」
「そんなのは現実じゃないだろ」
「現実より良い世界なんだ」
 
 頬を染めた顔で、はしゃいで架空世界を賞賛するタカの口を力づくで塞いだ。舌を押し込むと、どんどんと肩を叩かれたが、かまわない。気遣いより腹立たしさが勝っている。目の前にある現実、セネカより、架空世界に、タカは心を預けていて。単純に妬けた。
 本棚に押し付けると、上から数冊、絵本がばさばさと落ちた。薄い服の上から乳首を見つけて、指の腹で摩る。

「ンうっ……、ふ」

 出来た芽を摘んだ瞬間に、びくんと腰を逸らした身は、またあの陰気ないやらしさを孕んでいた。
 塞いでいた口を離すと糸が伝い、はぁ、と熱い息が二人の間を暖めた。

「強姦でもする気なのかな?」

 嫌な言い方をして、タカは目を細めた。首の横にキスをして、腰を引き寄せる。

「合意に持ち込むにはどうしたらいい?」

 じっと見つめて聞くと、タカはぽぉっとした顔になった。

「……なかったことに、してくれるならいいよ?」
「なかったこと?なんでそんなっ」
「内緒にしてくれるなら」

 内緒って。

「なかったことに、できるなら」

 とろんとした目をして、息を吐くように囁かれたらもう、頷いてしまう。

「内緒にするならいいのか?」
「うん、ふふ、……俺とやりたい?」
「……やりたい」
「俺も貴方とやりたい」

 ごぽっと口一杯に心臓が出た。胸が痛い。ついで、急激に血の集まった下半身も。

「ねぇ、誰にも言わないで?」

 下がった眉が、懇願の顔を作る。妖しく艶かしい雰囲気に気圧されて言葉が出ない。黙っていると、タカはセネカの頬を両手で包み、二つの親指を使って、セネカの下唇をなぞった。天然でこんな行動を取るのなら、こいつは相当な……。

「タカ? っおい」

 楽しげに、淫魔のごとく顔を近づけて来る、その眼光に捉えられ、身動きができない。

「言わない? ね?
 言わないって言って、早く……っ」

 ああ、目が回る。

「言わな……」

 従った途端に、タカはこちらの鼻に噛み付いた。それから舌でぬらりと、その側面を舐め上げ、興奮した笑い声を出し機嫌良く抱きついて来た。なるほど、娼婦の息子……。

「良い人だ、良い人、貴方は良い人」
「おまえはちょっと怖いやつだな?」

 思わず言ってしまった。
 すると、タカはふっと声を漏らし、こちらの首に腕を回すと、二人の顔と顔を近づけ、息のぶつかる距離まで来るとニタリと微笑んだ。その、上と下が重なった睫の具合や、頬の柔らかそうな盛り上がり、細められた目の、
艶やかな迫力などが、思考を停止させた。
 体中の血が沸騰。殺す気かこの野郎。
 担ぎ上げると、ひゃぁっと楽しそうな声を上げた。

「誰が良い人だ、くそっ!」

 喚きながら、タカを部屋の隅にあったベットに放り、被さる。くすくすと笑われ、耳に噛みつかれた。耳に舌が入って来る感触に、ぞくぞくと腰を震わす。勢いにまかせ、向こうの背を摩り、尻の肉を掴む。ぐにっと手に馴染む感触。

「やわらけぇ」
「ふ……、そう?」
「なんでこんなっ」
「もっとやわらかくして」

 耳の中にペトリと、張り付くような声。

「了解」

 手に、ぎゅっと力を入れて、もみしだくとくすくすと、また笑い声が上がる。

「ははっ、あっ……、ふふ、あっ」

 腿の内側にも手を伸ばすと、首に縋りついた腕に力が入った。

「ぁ、いっ……、アッ、ふ、……くすぐったい、ぁ、はは!」

 笑う声の合間、嬌声に興奮する。

「服の前、開いて」
「え?」
「服の前」

 頼むと、ぼんやりと見つめられたので、乳首を見たい、と率直に望みを言う。少し汗ばんだ、互いの身体の薫りが空間を埋めていた。

「……うん、いいよ?」

 幸せそうな顔で、素直な声。微笑みを浮かべながら、するすると前を肌蹴るその指にキスをする。今、こんなに愛しいと思う気持ちを、数分後にはなかったことにしろと?
 そんなのあんまりじゃないか。

「ア……っ」

 現れた乳頭に吸い付くと、高い声が上がった。

「俺、なかったことにすんの、ヤになって来たんだけど」

 呟くと、じゃぁ今すぐやめる? と、容赦のない返事が来た。やめられるわけがない。

「くそっ」

 腹立ち紛れに、むきだしの乳頭を少し強い力で、舐めたり歯で潰したりと、こねくり回した。

「ぁ、力つよ、い……っいたっ……、んア」

 ついで、下部にも手を伸ばし、芯の入り始めた熱いものに指を絡ませ、くにゅくにゅと扱いてやる。

「んはっ……ン、んっ、やっ」

 ビクビクと身を揺らすタカの動きが、雑念を振り払い、本能を研ぎ澄ましてくれる。

「タカ」
「ぁ、……あぁ、っはっ、はぁ、ああ、っン」

 息と声を同時に出して、身を捩るタカの顔が、どうなっているのか気になる。

「タカ」

 手でコリコリと、小さな粒や勃起しはじめたものを弄りつつ、ちらりと目をやった。

「んうっ……ふ、ぁ……っ、ん」

 こちらの手の動きに合わせ、声を出しながら、タカは与えられる快楽に集中していた。眉を寄せ、うっすらと口をあけて宙を眺めている。

「あっ、あ……ん、はぁ、あっ、アッ」

 細かく声をあげて、快楽を訴えてくる。その様に、ぎゅっと股間を刺激された。

「タカっ」

 切羽詰って呼ぶと、にこりと恥ずかしげに笑う。おまえは本当に素人か。
 欲望に訴えかける顔、声を熟知しているように思えた。

「なぁ、自分で触ってみろよ」

 タカの細く白い手を、タカの胸に運びながら言うと、タカは困ったように目を伏せた。

「ちょっと恥ずかしいかも」
「全部忘れて、なかったことになるんだろ?
 ならやれるだろ」
「……」

 ほんのりと頬を染めてから、タカはするりとした指を、自分の乳首にひっかけた。

「んっ」

 それから摘んで、擦る。

「ッん……ふ、ぅン、ん」

 繊細な顔を歪め、上品な青年が自分の乳首を捏ねる。その様は淫らを絵に描いたようだった。

「もっと思い切って抓れよ」
「んっ!……こう?」

 摘んでいるタカの手ごと、乳頭を舐め、吸った。

「ウぁ、……は、ァァ?!」

 ちゅ、と粘着質な音が響いた。

「アッ……」

 仰け反った身を押さえ込み、ぐっと歯を立てる。

「ん、っは!?ぅぅ、は、ぁ、痛っ」

 熱い息と悲鳴。タカの嬌声は耳に絡みつくようで、非常に性感を刺激する。なるほど娼婦の血筋、と再び思ったが、絶対にそれは言ってはいけない気がした。

「ぁァッ……!」

 ピュ、と小さく飛沫が飛んだ。タカのペニスが精を放った。

「乳首だけでイッた?」
「……うん、凄く良かったっ」

 胸を上下させて、荒い息を吐きながら、タカは生理的な涙をぽつぽつと落とした。頬にキスをすると、ふふ、と笑う。こういう風に、これからも、交わることができたら良いのに。

「挿れていいのか?」
「うん、欲しい」

 金属音と笑い声を混ぜ、互いのベルトを外し、行為用の座薬とコンドームを尻ポケットから出す。

「ゴム頼む」
「うん」

 とろりとした顔で、タカがコンドームの用意を進め、その間に俺は座薬を出しタカの足の間に挿れた。
 ゼリーに覆われているそれは、する、とタカの内部に飲み込まれて行き、中で溶けて挿入をやりやすくしてくれる。

「指挿れて慣らすか?」
「いらない、中ウズウズしちゃってるから。指じゃないのが、すぐ欲しい」

 言いながら、タカは自然な動作で、ゴムを被った俺のものにキスをして見せた。

「は、さすが」

 言ってしまってから、しまったと思ったがもう遅い。タカは少し驚いた顔をしてから、諦めたように、今度はそれにしゃぶりついた。あっという間に、それはかたくなってそそり勃った。
 タカの腕をつかんで、仰向けに転がすとのし掛かる。

「んっ、ぅん、く……っ」

 ぬっと締め付ける感触はあったが、引っ掛かることなく、スムーズに入っていく。俺のものをのみこんで、タカは俺の一部になった。

「うぁ、ンん、……ふっ、ン」

 眉を下げた顔が、快楽に染まって歪んでいる。苦悶の表情に、喜びが滲んでいる。

「タカ」
「ぁ、ん……ひっ……っ」

 ぼろぼろと涙を溢し、目を瞑る顔に、ふっと息を掛けた。タカは俺の息で、ぱしっと目を開くと、困った顔になった。

「気持ちいいか?」

 聞いてみると、タカは少し驚いた顔をして、少し考えてから頷いた。凄く、と小さな声で呟き、ふわりと笑った。

「……俺、これ好きかも」

 幸せそうに綻んだ顔に、また、あの恐ろしさを感じる。今までで一番幸せそうな顔。こいつはこうしている時が、一番幸せなのかもしれない。

「ぁ、……んは、んぅ……、んっ、あ」

 動きを開始すると、少し苦しそうにして、しかしすぐに気持ちよさそうに顔の筋肉を緩める。目を閉じて、行為に神経を集中する。

「いいか?」
「いっ、ん、いイ、ぁ、あっ、あっ」
「タカ」

 名を呼ぶと、うっすら目を開く。
 目に溜まった涙をぽつんと落とし微笑む。大きく動くと息を止めて、ンっと眉間に皺を寄せ、ビクビクと身を震わせた。はぁ、と熱い息。

「タカ……」
「ん」

 顔と顔の距離が近く、甘い雰囲気が心地よい。額にキスをしてやると、タカは目を瞑った。次の動きを待っている。

「もう少し動く」
「うん」

 俺が終わるまで、当然付き合う気だ。こういう心構えが嬉しい。

「ちょっと激しくするけど」
「うん、大丈夫」
「悪いな」

 言いながら、ぎりぎりまで引き抜いて、突く。

「はン!」

 タカの眉間にしわがよる。またぎりぎりまで引き抜く。

「あっ!」

 突くと、身を屈めてよがってくれる。
 
「エロイ身体だな」

 思ったことを単純に口にして、また出来上がってきたタカのものを掴んだ。手の中に馴染むよう、熱くて固い存在は他人の生の象徴。
タカの脈がわかる。

「ゥはっ、ぁっ!や、ぁぁ、やぁ、っん、ン」

 腰を動かしながら、手の内のものも摩る。
タカはぼろぼろと涙を溢しながら、身を捩って善がった。

「ひ、はん、ぁぁ……、う、ウ」

 身の内をセネカのものが動くたび、声を上げる。

「ウく、……ん!んんっ……くうっ」

 真っ赤になりながら、はぁはぁと息を吐いて。

「タカ」
「あっ」

 すぐに快楽に意識を持っていかれるタカは何だか切なかった。そんな風に、タカを憐れに思った瞬間、強い快楽に襲われた。

 換気扇の回る部屋の中で二人きり。
 タカは部屋の隅に、不貞腐れたように寝転がっていた。

「どうして俺はこうなの?最低かも、自分嫌いになりそうかも、すでに嫌いだけど、さらに嫌いになりそうかも」

 ぼそぼそと、涙声の呟きを聞いて、聞かぬふり。片付けをする間は、ふふ、と盛んに笑い声を漏らす幸せなタカだった。それが、部屋から事後の雰囲気が消え、外の森から、鳥の鳴き声などが入るようになってから、タカは前回同様、みるみると青ざめて行き、よろりと部屋の隅に行くとそうなった。

「もうやんないって誓ったのに、結局、俺は娼婦の息子なんだよ、あんな気持ちいいなんて、肉欲って凄いよ、絶対的だよ、勝てるわけないじゃん、誘惑されたら、もうっ」
「その台詞は俺を褒めてるのか?」
「わからない、現実って残酷」
「現実じゃねぇとヤれねぇだろ」
「架空の住人同士のニャンニャン見てた方が楽しい」
「ニャンニャン?」
「トツさんに何て言おう、ずっと断わり続けて来たのに」
「おい、誰だよトツサンって」

 タカの小さな部屋の中、テーブルに着いている俺の目は、瞬時に写真物などを探した。
 驚いたことに、部屋には写真が一つもない。
 恋人や友人の顔を見ないで暮らしてやがるのか、こいつ。

「トツさんは友達」
「友達……、……俺は?」
「いやらしい友達」
「恋人じゃねぇのか?!」
「恋人じゃないよ。あなたに俺は勿体ない。あなたもあなただ。俺で妥協しちゃ駄目だよ」
「だ、きょ……う?!
 いや、してねぇ!
 むしろ望んで……」
「テモテさんのこと好きな癖に」
「っっっ?!」

 ヒヤリと、飛び上がり掛けた。胸の内を全て知られているのかと思った。双子の兄パウロを溺愛する世話係。セネカの世話係でもあるのだが、テモテはパウロだけを可愛がった。
 テモテはパウロセネカ、誰も見分けられなかった双子を見分け、パウロだけを見つめた。それは幼い頃から、ずっと変わらない。セネカはいつも、パウロに付きっ切りのテモテに、かまってもらおうと必死だった。
 ずっと、永遠に叶わない恋。
 テモテに対する、特別な想いを殺しながら、
何人か恋人を作り、別れ、これまで生きて来た。

「いつ知って……? 誰、に?!」
「噂でね、ほら、ミナさんの弟は、ヴィンチのお城勤めだから」

 セネカは元、ヴィンチ王室兵士だ。

パウロセネカの双子兵士と、その世話係がよく揉めるって、セネカが世話係に突っ掛かるという話を聞いてたんだ。パウロばかり贔屓するなって言って、貴方は同性愛者だし、可能性はあるなって」
「……う」
「真実だったんだっ」

 きゃぁ、と口に両手を当て、タカは黄色い声を出した。やられた。誘導尋問にかかった。しかし、これから恋人になるかもしれない人間の、過去の恋愛話に色めき立つなんて。
 もしかして、セネカはタカにまったく意識されていないのか。
「俺、セネカさんは一回ちゃんとテモテさんにアタックしなきゃ駄目だと思うんだよ」
「……、さっきまで俺達何してたか覚えてるか?」
「何もしてなかった」
「……っ」
「何もしてなかったよね?」

 ぐっと圧を感じたが負けるものか。

「交わってたろうが、濃厚に!!」
「っ……!」

 かぁ、とタカは頬を染めた。

「なかったことにしてくれるって言ったからやったのに、嘘つき!!」
「なんでなかったことになんかしなきゃなんねーんだよ」
「約束したのにっ!」
「でも実際、やったろ、健全に、楽しく!!
 精力的に!!」

 行為をなかったことにする意味が、セネカにはよくわからない。

「やってない」
「突っ込まれてアンアン言ってたろうが!」
「どちら様の話?」
「っ……てめぇ! マジでなかったことにする気かよ」
「なかったも何も、何の話なのか、ちょっとよくわかんない」
「ざっけんな」

 腹が立って勢い良く立ち上がると、部屋の隅、不貞寝しているタカの上に乗った。

「うわ重っ?! ちょっとどいて下さい」
「この尻で! 俺の、呑み込んで喜んでたろうが!」

 バシンと、タカの尻を叩いて、言い寄るとタカは顔を隠した。

「俺は何も覚えてない」
「じゃぁ、思い出させてやるよ、もっぺんやりゃいいか?」

 タカの身体の温度が感じられると、もう、肌を合わせたくなる。

「タカ」

 性欲に伴って、愛情も加速して来ていた。

「ごめんね」

 しかしタカにとって、セネカは肉体だけの相手らしい。真剣な顔をされ、じわりと額に汗が浮かぶ。

「俺が肉欲の誘惑に勝てれば、こんなことにはならなかったと思うんだけど、勝てなかった」
「こ……っの、淫売野郎、娼婦みたいな抱かれ方しやがって」

 嫌な気持ちになるような言い回しをしてやって、それでもまだむかむかする。

「ごめんなさい、肉欲に弱くて、ご迷惑お掛けしました」

 タカが素直に謝り、それがまた勘に触った。

「もしかしてだけどよ、俺達はこれで終わりとか言う気か?」
「終わりにしておいた方が良いと思う」

 この野郎。

「じゃぁ、金払う」
「……、……何言ってんの」

 部屋の隅に掛けた上着を取り、懐から財布を出す。

「待って、やめて、本気で!」

 財布からごっそりと紙幣を出して、バサッと塗すように投げつけた。

「嫌だ、絶対受け取らない、ふざけるなよ!
 俺がどういう血筋なのか知ってる癖に酷い!こんなの酷い!!」
「最初の客になれたなんて気分が良いな、また買いに来てやるぜ」
「待って!いらないから!!今すぐ返す!」

 喚くタカに背を向けた。
 タカを傷つけたことで、どうにか理性を保つ。

「待てよ馬鹿!!」

 紙の間から、手が伸びて来たが、さらりと避ける。それから蹴り技が来たが、やはり避けて、逆に肩を突き、腹に一撃を入れた。
 タカは舞う紙幣の中、倒れこんで呻いた。

「嫌だ! 買われたなんてバレたら!
 何て言われるか?! 立ち直れない!
 こんなの嫌だ! お願い持って帰って!
 全部拾って帰って!」

 タカは痛みで身動きができないようで、床にうずくまって泣いていた。今、誰かが来たら、紙幣の中で蹲っている、惨めな姿を目撃されてしまう。

「兄貴でも呼ぶか?」
「絶対にやめて」
「それともあの嫌な女中頭を?」
「っ」

 ふ、と音を立てて、本格的に泣き始めた。ちょっとやり過ぎた。反省してしゃがみ、紙幣に手を伸ばした。そこで部屋の鍵が、ガチャリと開けられた。タカの兄が、合鍵を使って入って来たのだ。俺もタカも呆然と見上げて、さらに悪いことに、兄の後ろには、ルカス・フィオーレ。眉間に皺を寄せ、部屋の有様を見た。

「何があったんだ?この部屋は」

 タカの兄が、タカに聞く。俺は静かに、自分のした事を悔いていた。

「何も」

 タカが、短く応えた。
 何もなかった、という言葉。それは俺の怒りを誘発する起爆剤になりつつあった。
 嘘をつけ。
 タカの答えは、せっかく反省をしていた俺の怒りを、呼び覚ました。

「おまえの弟が、客を取った現場だ」

 かっとなって言うと、ミノスは連れて来たルカスに目をやり青ざめた。

「お母様が喜ぶな」

 何を言うかとおもったら、一番言ってはいけないことを。ルカス・フィオーレの発言に、
その場の全員が凍りついた。タカの顔が盛大に歪み、俺は申し訳なさで、また反省を始めた。

「そんな顔をするな、君の母は、喜ばせるに値する人物だぞ?
 客との間にできた子を一人も堕胎することなく、全員、無事に十五歳まで生かしている。その重い肉体労働で稼いだ金を、みなしごのため、屋根のあるシェルターをつくる運動に寄付したりと、人間の鏡だよ。
 多くの権力者を虜にし、人道的な判断をするように優しく導いた。俺の父が、かの内戦を踏み留まったのも、君の母が諭してくれたためだ。
 だから俺はあんなに立派な娼婦を母に持つ君のことを、愛しく思う。あの人の息子であるというだけで、無条件に信頼できるほど、君の母は優れた人だ。
 カラツボでは国家から表彰さえされている。
 君は息子だから、この事実は当然、知っているだろうが」

 想像もしなかった話。
 人は驚くと、何故か聞き返してしまう。
 わかっていて、もう一度聞こうとする。

「ぇ?」

 タカも例に漏れず、顔を涙でぐしゃぐしゃにしながら、小さな声で聞き返した。

「君のお母上は立派な方だと言ってるんだ。
 数多の実力者の、身体だけでなく、心まで癒し、良い方に導いて社会貢献をしている。
 高級娼婦でありながら客を地位で選ばず、
 どんな男との間にできた子でも、
 深い愛を持って接し、躾も怠らなかった。
 俺の母も娼婦だが、現役の長さなども含め、君の母の足元にも及ばないよ。君は偉大なお母上を持っているのに、この場所では随分、苦労したようだ、職業差別が横行する屋敷内を、変えてやったらどうだろう。
 こうして当主が堂々と客を取ってやるところから始めるのも、良いと思うぞ」
「ルカス様、俺は、そんなこと……」
「ん?」
「そんなこと知りませんでした。
 知らずに、昨年、お金を渡して、母に、娼婦をやめてくれと頼んだっ」
「ああ、だから引退されたのか。まだとても美しかったから疑問だったのだが、息子の頼みだったのだな」
「……母は」

 紙幣を睨みながら、タカは唇を震わせた。

「き、汚くないんですね?」
「そんな酷い言葉をよく口にできるものだな」
「……すみません、ずっと、汚れ者と教わって来て」
「調べてみたら良かっただろう?
 自分の母親が、どんな人間なのか、娼婦の中にも良いものと悪いものが居る、悪いものが悪いイメージを作るから差別を生むが、良いものの存在を無視してはいけない」
「すみません」
「よく知るのが怖くて調べるのを怠ったのか?」
「……はい」
「その気持ちは俺にも覚えがあるな、程度が同じかはわからないが、俺の父と母は、悪い噂しか残さずに他界した」
「そうだったんですか」
「二人を認めるまでには、俺も、それなりに時間が掛かった」
「ルカス様でも……?」
「あぁ、……遠くにあるものは全体がよく見えるが、近くにあるものは、どうしても目につく一部に気をとられる」
「……」

 戸口で突然始まった、ルカス・フィオーレの説法に、タカは夢中になっていた。
 ルカスはこの日、セネカを訪ねてヴロヴナ屋敷に来たらしく、セネカの部下にあたるリャマ・ビクーニャの引き抜きを、セネカに便宜して欲しいということだった。
 その要求は丁重にお断りしたが、ルカスのため、セネカは何かしらの役に立ってやりたいと思った。なぜなら、ルカスはこの日、まったくその気なく、セネカとタカを決別させるのを防いでくれた。タカがルカスの話を聞いて、身売りに対する考えを改めたのだ。
 よって、タカは時々、セネカに買われるのを受け入れるようになった。買う男と買われる男という関係ではあったが、タカを抱くことができるなら、セネカは満足だった。
 回を増すごとに、タカはイキイキとして、セネカを受け入れるようになった。いつ、セネカを恋人にしてくれるのだろうか。セネカの期待は、タカの笑顔の向こうに消えて行くばかりだった。


2012/04/18

『トイレの精』(強気攻め×気弱受け)


 同性愛者の自覚があり、同性愛者の集まる店に行った。
 二十も中頃、故郷ヴィンチでは父親になっているのが普通、という年齢で、俺は「恋人」に飢えていた。ヴェレノは同性婚が認められているし、真面目に「相手」を探すのもいいかと思った。

 赤っぽい照明がゆらめく店内とは打って変わり、淡く白い光を放つ大理石が壁になっているトイレ空間。高級店というのは、細部に拘るものなのか。太古の神殿と見まごう手洗い場の景色に感心していた俺の目の前、手洗い台に腰を掛ける、何かの「精」のような青年が居た。

 青年は華奢で見目が良く、陰気な艶を持っていた。見惚れて立ち尽くしている俺に気づくと、困ったような顔で、下から覗くような視線を寄こした。笑いかけると、じっと見つめて来る。
 横に座ってもかまわないだろうか。
 そろそろと近づいて、腰を並べる。
 傍で観察すると、優しく脆そうな顔の作りや、今にも折れそうな身体全体などが、とにかくこちらの性欲を刺激する。何者だろうか。プロの人だろうか。
 俺は性的に盛り上がることが、難しいタイプの人間らしく、なかなか興奮することなどないのだが。先程から身体の端々が熱い。血の回る速さが異常だ。後でどんな額を請求されても良いから、とにかくこの欲を叶えてもらいたい。どうすれば。

「もしかしてトイレの精?」

 混乱して妙なことを口走ってしまった。

「はい」

 肯定の返事が来るとはな。ノリの良い奴だ。

「悪かった、冗談だ」

 言いながら笑う。こちらが笑えば、笑い返してもらえるかと思ったが、
トイレの精は無反応。

「少し酔ってるんだ」

 言い訳にも無反応。

「なんかここ、居心地良いから、いっそ、このトイレの精になりたいよね」
「あ、いや、何ていうか、何かの精っぽい、と思ったから、見た時」
「何かの精?」
「なんか神聖な雰囲気、つぅか」

 ふふ、と鼻に篭った笑い声を上げ、トイレの精はやっと眉を下げた。笑顔に悩殺され、天を仰ぐ。そしてまた視線を戻すと、ばちりと目が合う。ダメだもう、見てると……。
 昔から我慢というのが苦手で苦手で。欲望にすぐ負けてしまう。
 この時も秒で負けた。
 トイレの精の、唇の傍に口付ける。殴られたら押さえ付けて。いや、こんな壊れそうな相手に暴力なんて。でもこれ程、やりたいと思う奴に出会えたのに。

「駄目だよ、俺は違うから」

 精は殴って来たり、暴れたりはしないで顔を背けた。少し長めの金髪が隠していた首の隙間が現れて、いよいよ俺の内側に、火が着いたのが感覚的にわかった。何としても、得たい。

「付き合いで来てるの、ヘテロなんだ。
 そういう行為には応じられない。
 ごめんね紛らわしくて、酔いを醒ましてただけ」

 やはり、下から伺うような目で、自分が男に不慣れであることを暴露するトイレの精、無防備にも程がある。大丈夫か。

「名前は?」
「え?」
「偽名でいい、思い出に残す」
「思い出……? そんな大層なこと何も……」
「おまえが凄く好みだ、出会えて嬉しい、話ができて浮かれてる」
「……、タカ」
「タカ?」
「タカ」

 こちらは確認のふりをして、こっそりと向こうの腰を持ち、悦に入っているのだが、タカはそんなことには気づかず、名乗るのに精一杯。なるほど、この世界をわかっていないぞこいつは。隙があれば、ぐいぐい責めて来る相手からの、逃げ方を知らない。あんな雰囲気を醸しておいて、不慣れだと?

「タカ、指にキスは? 駄目か?」
「指?」

 返事を待たずに口付け、そのまま指の股を舐めた。男に免疫のない人間が、急にこうした行動に出られると、停止することを知っていた。タカも例に漏れず、口を小さく開けて声にならない声を上げ、固まっている。狙い時。今度は唇にする。舌を入れると、さすがに抵抗の手が背中を叩いた。

「指って」
「次は首」

 腰を摩ってやりながら、首、耳の下、服の上から乳首、と早いペースで濡らして行く。

「待っ、だから、俺は違っ、んっ」

 服の上から、腿を噛んだ。タカは目を丸くして、俺を見ていた。自分の服に、俺の唾液が沁み込んでいくのを感じているだろうタカの内側で、壁の崩れる音。できない事と、できる事を仕切っていた壁が崩れ、できる事が一つ増えた瞬間。
 タカは熱い息を吐いた。いける奴だ。
 異性愛者だと言い張っていても、ふとしたことをきっかけにこちらに来る者が数多い。俺はタカを引き入れることに成功した。

「タカ、唇に噛み付いたら殴るか?」
「噛み付くのはやめて、痛いのは嫌だから」
「舐めるのは?」
「……」
「イイ?」

 即座に拒否できないのは、期待の現われだ。怖いもの見たさに、経験してみたくなったのだ。これから起こることがタカにとって悪い事じゃないよう、努力したい。癖になって、俺と二度目や三度目をこなしてくれたらイイ。

「こんなとこじゃ駄目だよ」

 積極的な台詞が、タカの口から出た。丁度良く人の足音が近づいて来たので、俺達は個室に入った。




0:34 2012/04/12

『かわいそう』(野心家兄×無気力な腐男子弟)

 私生児として生まれたが、父代わりの伯父がいた。
 母は優しく、母と俺を家に置いていた伯父一家は温かだった。俺は恐らく、弟より恵まれて育ってきた。

「タクオ、鍵を外せ!!」

 弟の引篭もった小屋の戸を叩きながら、俺はどうしてこの弟に構いすぎるのか考える。引け目だ。引け目があるのだ。俺は恵まれて育って来た。

「兄さん……声大きいよ」

 中から眉を下げ、顔を出した弟は具合でも悪いのかと聞きたくなるような浮かない顔をしている。最初の頃は見たままに、具合でも悪いのかと聞いていたが、弟のこの眉を下げた顔は単なる不満顔なのだ。今はもう騙されない。

「出掛けるぞ」
「……え~? ……どこに?」

 弟は小屋の戸を少ししか開かず、俺を撃退しようと身構えている。
 兄が訪ねたというのに、兄を部屋に入れないとはどういうことなのか。

「ヴェレノ駅西口にあるバー『根のもと』……聞いたことあるか?」
「知らない、ていうか俺……お酒苦手だし」
「苦手?」
「……うん」
「十五を三年も過ぎておいて、まだ苦手だと?
 たいした玉無しだ、飲んで慣れろ」
「慣れないよあんなの……くさいもん。
 ていうか、飲めない人に無理させちゃダメなんだよ!
 だから……あの、俺は……無理しちゃダメなの、バーなんか行かない」
「…家の用事だぞ、おまえも来い」
「お酒飲みに行くのが家の用事?」
「会食だ、来月の下旬に我がヴロヴナ領西ヴロヴナ十番に店舗を構えて下さるフラグ家との親睦」
「……フラグの人なら、俺は同学年のアンガス君と仲良くしておくから。
 今日は……」
「そのアンガス君が来るんだ」
「……えっ?! アンガス君が来るの?」

 途端に弟の顔が、キラキラと輝きだす。

「どうした、仲が良いのか?」
「いや、普通だけど、麗しい面構えしてるよね」
「なるほど」
「兄さん、粗相のないようにね」
「おまえこそ」
「俺は行かないもん」
「いい加減にしろ!」

 大声を出すと、きゅっと目を瞑って弟は怯えた。陰気な艶のある顔で下から伺うように俺を見る。わざとやっているのだろうか。

「娼婦のような仕草をするんじゃない」
「言い掛かり……」

 恥じらったふりをして媚を売る、完璧な角度にくらりとした事を誤魔化す。弟の母親は伝説をいくつも持つ腕利きの娼婦だった。

「おまえがそんなだから血筋がどうだなどと使用人どもに好き放題言われるんだ。おまえはっ、もっと堂々と男らしくできないのか」
「そんなこと言われても……、普通にしてるだけだし」
「とにかく早く仕度しろ」
「だから、行かないから」
「アンガス君が来るんだぞ?!」
「それは美味しいけど……兄さんにはトツさんが居るし。
 アンガス君にはもう相手がいるし」
「わけがわからん」

 弟の言い訳は、時々文脈が読めない。

「アンガス君と仲良くなれるチャンスじゃないか」 
「そうなんだけどさっ、緊張するんだよ!
 兄さんに連れていかれる場所、いつもいつもっ…!
 何かっていうと兄さんは俺を叱るし。
 もう何ていうか、ストレスが溜まっ」
「アンガス君が来るぞ!」

 もうこれしか、弟を説得する方法が浮かばず叫ぶ。すると、弟は頬を染めた。そんなにか。そんなにアンガス君が好きか。
 大多数の人間は、共通して見目の良い者が好きだが、弟は殊更に見目の良い者が好きである気がする。さらに、可愛らしいものを好むし、美麗なものに歓声を上げる。夢見がちな物語や演劇を楽しむし、弱い物への同情が過ぎる。女のようだ。多忙な父親に放置され、女中達に育てられたせいなのか、元来の性質なのか。弟の趣味は女趣味だ。

「五分で仕度しろ」
「そんなの無理だよ……、それにまだ行くとは言ってな、」
「しろ」

 ぐずる弟の肩を押して、強引に小屋に押し入ると、クローゼットを勢い良く開けた。

「うわっ?! 何?!」

 小屋にはこのクローゼットの他、勉強机や本棚、ベットまで揃っていて狭苦しい。自室の機能を全てこの小屋に移している弟は、長い時間をここで過ごす。使用人のように、屋敷から離れた場所で暮らしている。
 俺が嫡男として、弟を押しやったのだ。

 俺の姓はつい最近までフィオーレで、母親がフィオーレ一族の出だった。フィオーレ一族とはこのあたりを治める当主の総領、貴族が集まって地域社会を作るこの「フィオーレ」地域のまとめ役だ。フィオーレ一族は、フィオーレにおいて最上位の格を持ち、俺はフィオーレの親戚筋という身分で、
伯父の一家の元、暮らしていた。

 それがある日、ヴロヴナ家長男であると知らされて、急遽ヴロヴナの財産を受け継いだ。俺が屋敷に来るまでは、弟は長男として、屋敷の中心で暮らしていたという。俺が来て一ヶ月経つと、弟の居場所は屋敷から消えた。

 しかし、こんな小さなみすぼらしい離れで生活させられていることに、弟は不満を漏らさない。我がヴロヴナの屋敷は、四方を森に囲まれ、屋敷から離れたこの小屋は、森を一つ挟むのだ。
 こんな場所に追いやられて、まるで追放じゃないか。
 逆の立場だったら……俺がもし弟の立場だったら、当たり前のように兄の暗殺を企てただろう。俺は父に何度も、弟がこの場所で暮らしていることを意見したが、突然家にやってきた、他人のような長男の立場は弱く、聞き入れられなかった。

「兄さん、お願い。やめて。服は自分で探すからゴソゴソしないで。
 ほんとやめて」

 クローゼットの中には簡素な衣服だらけ。
 しかも、クローゼットであるにも関わらず、その面積の半分は何か大きめの本のようなものを収納しているらしい紙袋で埋められていた。大方画集だろう。つくづく趣味が合わない。

「もっとちゃんとした服はないのか?」
「ないよ、そんな派手なとこ行かないし。だから俺は留守番……」
「途中で買えば良い。フラグの店で買おう、せっかくだ」
「そんな高い服いらないよ、似合わないし」
「誰がやると言った。俺の持ち物にするんだ。
 時々おまえに着せるために買う」
「んん……」

 弟は不満顔。しかし、自分で言ってみて自分で感動。

「そうだ、そうしよう!
 これからも俺が、俺のために、おまえの服を買おう。
 おまえに任せると、すべてこの類になってしまうとわかった」

 クローゼットを指差すと、弟は少し頬を染めた。

「どうせ……」
「何だ?」
「……何でもない」

 それから、渋る弟を車に乗せヴェレノ駅に。
 駆け込んだフラグの店、『アンガス』で弟の服を揃えた。
 アンガス・フラグは店に自分の名をつけ、子どもにも「アンガス」と名をつけて名前を代々襲名させる、という計画を練っていた。ブランドのようで良いだろうと。
 生まれたその時に将来の職業を『アンガス』の経営に決められてしまう我が子を哀れだとは思わないのか。などとは、口が裂けても言えない。

「うーん……」

 弟に着せた服を前、俺は唸って腕を組んでいた。
 正直言って、似合わない。驚く程、立派な服を着こなせない弟に、俺は困惑していた。細すぎるせいか、暗い雰囲気のせいか。ふいに店の奥から、勤めを終えた風のアンガス君が現れた。弟を人目見て、首を傾げる。

「アンガス・フラグ・ジュニア、良いところに」

 声を掛けると、アンガス君は人受けする笑顔を浮かべ、握手を求めてきた。

「買い物ですかミノス・ヴロヴナ。
 あまり夢中になって、約束の時間を忘れないで下さいよ」
「大事な約束だ、忘れるわけがない!」

 軽い冗談を交わし、近づきの挨拶。
 アンガス君の視線が弟に移ると、弟はさっと顔を背けた。

「タクオ!」

 強い声で呼ぶと、弟は困ったようにこちらを向いた。

「タクオ君、どう?その服?」

 聞かれて、弟はぎこちない笑みを浮かべる。

「ぜんぜん俺なんかが、着れるようなものじゃないね」
「どうだろう、色が悪いだけじゃないかな」

 アンガス君は手馴れた動きで店の端、ディスプレイ下のスペースから色違いの一着を取り出した。色を変えると、その服は急に弟の身体の一部のようになった。

 ざわざわと人で溢れる店内は、男性客九割、女性客一割。夕刻の顛末をアンガス君の父、今日の接待相手に話しながら、俺は弟を用心して観察した。というのも『根のもと』が特殊な店であるため。
 上流の同性愛者達が集うのだ。
 俺はこうした店にはもう慣れていたが、過去には、ちょっとした油断で不合意の経験をしてしまったこともある。
男女が絶対の組み合わせである意識がある店では、あまりないこと。
 しかし移動中に店の説明をしておいたおかげで、弟は店についてから、特に取り乱すこともなく、店の中に溶け込んでいた。
 何人か弟に絡む者が現れたが、アンガス君が上手くやり過ごしてくれていた。こうした店の雰囲気が、初々しい神経を麻痺させてくれることを、俺は知っていた。
 俺がアンガス君の父、フラグ氏と談笑している間、弟はアンガス君と話をしており楽しそうに笑っていた。連れて来て良かった。弟の顔も、ヴロヴナの顔なのだ。俺はもちろん、弟も人脈を広げる必要がある。俺は弟と共に、ヴロヴナを大きくして行きたいと思う。

 これまで嫡男として生きて来ただけあり、弟は家の雑務を素早く片付けてくれる。父や使用人も、大きな事については俺に声を掛けるが小さな事については弟に声を掛ける。弟の補佐は、ヴロヴナに必要なのだ。

「タクオ」
「はい」

 声を掛けると暗い照明でもわかる真っ赤な顔で、弟は返事をして来た。

「アンガス君と話は弾んでいるのか?」
「それなりに」

 アンガス君は微笑んで、俺を向いた。

「ミノス・ヴロヴナ、タクオ君は本当にヘテロなんですか?」
「ん?」
「さっきから凄くソワソワきょろきょろして、可愛い男の子やかっこいい男性が来ると、すーっと目で追いますけど?」

 それは……。

「妖しいな、タクオ、その気があるのか? おまえにも?
 俺は女もいけるから別に構わないぞ、血筋は心配するな」
「いや、あの、俺は……本当にそんな、男の人とそんな、考えたことないから」
「今日考えてみるといい」
「だから違うって」
「ふふ、兄弟仲良いねぇ~」
「いや、そんな、普通だろ? ね、兄さん」
「はは」

 アンガス君の明るい反応に助けられ、場が和やかに収まる。会話で俺が他所を向いたのをきっかけに、フラグ氏がそっと俺の手に手を添えた。断わる理由もなく、微笑を返した。後日は二人だけになりそうだ、などと考えてから、これまで一体何人とこうして関係を持って来たのか。数えるのも面倒な昨今の外交事情に想いを馳せる。
 弟はこうした縁の結び方を、どう思うだろうか。弟にもいつか、このような縁を作る方法をそれとなく覚えてもらいたい。

 ゆっくりと折を見て、拒絶反応が起きないよう注意を払って教えて行く。まずは好みだろう相手を宛がうのが良い。アンガス君はどうだろう。フラグの家なら根神信仰がある。縁のための関係を結ぶのには慣れているのでは。考え始めた頭を叱り、今はまだ早いと唱える心に従う。時間がないわけではないのだから、焦らずに。そう心に決めた矢先、事件は起こった。
 原因は弟が大量に飲酒していたことにある。
 それもフラグ氏とアンガス君が帰るのを、見送れない程に。

「大丈夫ですよ、若者は失敗を沢山した方が良い」

 トイレから帰ってこない弟を、フラグ氏は笑って許してくれたが、俺は許せなかった。何をやっているのか。あの馬鹿は。怒りのままにトイレを覗くと、個室が一つ閉まっている。

「タクオ!!」

 声を掛けるとグスリと泣き声が漏れた。

「何をしてる」
「反省」
「反省よりまず、謝るべきことがあるな?!」
「俺、知らない男の人とやっちゃった」
「そう、まずは知らない男の人に……ん?!」
「お酒の勢いで、なんか楽しくやっちゃった」
「楽しかったなら良かった」
「もうね、最低なんだけどね、その人とは、今日始めて会ったんだよ?
 トイレで!! 気持ちの確認とかもしないで、好きにもならないで、いきなり、いきなりやっ……やっちゃうとかぁ! ひどくないこれ? おかしいよ? それでもっと酷いのがっ、ぜんぜんやじゃなかったんだよ俺、あの人がどんな人とか知らないで、やれちゃったよ、会ったばかりの……!
 どういうこと?
 血筋かなぁ…?」
「相手が好みだったんだろう?血は関係ない」
「好みだったかなぁ、覚えてないなぁ……。
 何にもわかんなくても良いやって思ったの」

 弟の母親は、凄腕の娼婦だ。それを、弟が意識していないわけがない。弟が普段あまりにも口にしないから、いたわるのを忘れていた。

「おまえは酔ってたんだ」

 何と声を掛ければ良いのか、俺は不合意で事に及ばれた後、一ヶ月以上落ち込んだ。未だに思い出すと吐き気がする。弟は合意であったようだが、
ショックを受けている。何と声を掛けようか。

「俺、たぶん……母さんと同じ仕事できるんだろうな」

 いくらか声が低くなっているのが危険だった。
 やけになってもらっては困る。

「本当にそう思っているのか?」
「……うん、きっと誰とだってやれるんだ」
「俺ともか?」

 何を口走っているのかと思った頃にはもう戸が開いて、カバーの掛かった便座の上、衣服の緩い弟が笑みを浮かべていた。

「できるよ、多分」

 ふわんと纏う空気に、商売女の薫りがした。

「冗談だ」

 顔に焦りが滲む。弟は完全に自暴自棄になっているし、俺は誘惑されている。誰か、……誰か助けてくれ。このままでは。

「オイ、そこは今、使用中だぜ」

 ぐっと首根を掴まれて気が付くと、壁に頬を押し付けられていた。
 アウレリウス一種に匹敵する、ジェキンス寮班長をやっていた俺が簡単に壁に押し付けられている事実に驚いた。何者か知らないが良い度胸だ。
 反撃に足技を駆使すると、向こうは飛び技で応じた。そして腹に重い衝撃が走る。目に見えぬ速さで手技を使われた。認識できたのは相手の肩。咽喉に苦いものが沁みたが、飲み込んで身を前に出し、防御。

「兄さん、こっち」

 弟の囁きに、個室に逃げ込もうとした肩を掴まれる。

「だからそこは使用ちゅ……兄さん?」

 相手は驚いたようで、俺の肩を掴むとまじまじと俺を見た。俺もまた相手を見ると、非常に見覚えのある顔。

セネカ・マグラン?」

 セネカは現在ヴェレノ最高兵士アウレリウスのトップだ。思わず息を呑んで、じろじろとその顔を見た。個室の入り口を挟んで対峙したその顔は、マグラン一族にしては優美だ。ヴィンチの血が入るだけで、こうも変わるのか。

 フィオーレの当主専属兵士ゴドー・ジェキンス。
 ヴェレノのアウレリウス第一近衛。
 ヴィンチのモーセ第一団長。

 国によって最高兵士の名は違うが、総じてトップは一般的に兵と名の付く職にある者の、憧れの存在だ。
 旧ジェキンス班長の俺はもちろんセネカに、現ヴェレノのアウレリウス第一近衛である彼に興味津々だった。まして、俺は兵士マニア。
 自分の身も兵士として鍛えたが、何より有力な兵士、特殊能力を持った兵士、環境により強くなる兵士や弱くなる兵士、エンターテイメントが得意の兵士、引退した兵士、若手兵士から養成所の注目株、伝説の兵士と、兵士それぞれの特色に想いを馳せる事が何より楽しいのだ。

「どうして、ここに?」

 思わず呟くと、大理石でできている美しいトイレット空間に自分の声が響いた。セネカは気だるげに個室の中、着乱れた弟をじっと見てから、俺を邪魔者とばかりに一瞥し、眉間に皺を寄せた。

「非番の時、遊んじゃ悪ぃのかよ」
「悪くない!」

 何という幸運。
 セネカは俺の反応に、不思議そうな顔をしてから、弟に顔を近づけた。

「こいつホントに兄貴か? 全然似てねぇけど?」
「母親が違うから」
「ふーん」

 弟の頬にするりと手を添えて、自然な流れで弟にキスをするセネカを見ながら、弟がやってしまったという相手が彼なのだといよいよ確信した。随分な大物を釣ったじゃないか。

「よくやった、タクオ!」
「何?」

 セネカ・マグランは最高兵士の地位を受け継いで日が浅く、外部からやって来たおかげで謎が多い。そのため、何が彼を惹き付けるのか情報が少なく、財界や一族勢力がこぞって声を掛けていたのだがどこも目覚ましい成果をあげていなかった。捉えるのが容易ではない相手だった。

「何って! セネカ・マグランだよ、何時の間に知り合ったんだおまえ!」

 でかした、と次に続けようと思って、大声を出したのに弟はさっと青くなった。

セネカ・マグラン?」

 長い沈黙の後に、確認するような声。

「現在のヴェレノ最高兵士トップだ!! 第一近衛アウレリウスの!」
「その肩書きはわかるけど、誰が?」
「そこにいる彼が! そっくりさんで無ければ!
 いや、強さがそれを証明しているんだが!
 俺はこれでも、フィオーレ次期最高兵士候補として、リニー・シェパードと共に声を掛けられていたんだぞ、つまり、俺とここまでやりあえるのがその証拠なんだ、弟よ! 彼はセネカ・マグランだ! タクオ、よくやった!! これも何かの縁だ、連絡先でも教えてもらえ!!」
「でも、セネカは……、リャマ×セネカ……だから。
 俺はリャマ×セネカを邪魔したくは……?ない?っていうか?
 そもそもセネカに、こういうところで遊んでるイメージはないんだけど、ついでに、やっちゃったってことは、リャマさんに対して浮気させちゃったことになるし、まず、俺のなかでセネカは受けだったのに……!」
「意味がわからん!!!」

 兄弟の会話を聞きながら、セネカは悠々と弟の至る場所にキスを降らせている。肩などには噛み付いて見せたりして、俺に対する遠慮などは欠片も見せなかった。

「それで、おまえの兄貴は何時帰るんだ?」
「兄さん……、アンガス君達は?」
「帰った」
「俺達ももう帰る?」
「そうだな」
「おい」

 兄弟の会話に、セネカが割り込んでくる。

「帰るのは兄貴だけにしろ」
「えっ、なんで?!」
セネカ・マグラン、うちの弟を気に入ってくれたのは良いが、弟はこれまで男に免疫がなかったんだ。今日はここまでで解放してやってくれないか?」
「……次は何時来るんだ?」
「次?」

 セネカに聞かれ、弟は宙を睨む。

「次は、次なんて……ないというか、あの、お互い忘れましょう……!
 こんな萌えない関係」
「俺は燃えたけどな」

 弟は恐らく立ち上がろうとして、よろめいてセネカの腕の中に納まった。セネカは弟の頬にキスをして、俺を見た。

「ヴェレノは良い所だな」

 弟を俺の手に返す瞬間に、ふっと笑い、続けた。

「俺の居たヴィンチでは、同性愛者が蔑まれていた。
 俺は男しかダメだから大変で……。悩みを打ち明けられる唯一の相手、双子の兄貴は異性愛者だったし、やりきれなくて。抑圧されて、怒りばっかりたまって……なんか色々辛かった。ヴェレノでは男が好きでも、堂々としていられる」
「……」

 セネカについてわかったこと、同性愛者。

「良かったら我が家に来ませんか?」
「今から?」
「今からでも後日でも」
「明日午前仕事だから、後日で」
「日取りは?」
「こいつが居る時」
「……連絡します」
「連絡……じゃぁ、これ」

 セネカから名刺を受け取り、自分のものをセネカへ。

 帰りのタクシーで、俺はセネカから貰った名刺を手にはしゃいだ。弟は苛立たしげに、兄さんウルサイと呟いた。それから、少し目を潤ませた。

「兄さんは俺を、あの嫌な家から解放してくれた。
 だから俺は兄さんには恩を感じてて、あんまり逆らわないようにしてたんだ。でも、今日行ったようなところにはもう行きたくないよ、肌に合わないから、ストレスが溜まる。
 知らない人とやっちゃったのも凄くショックだし」

 やはりまだ早かったか。拒絶反応が出たか。

「失敗したな」

 呟いて弟の頭に手を伸ばした。少し撫でる。

「怖い思いをさせて悪かった」
「……うん、別に怖くはなかったけど」

 相手が大物だったのが救いだな、と言おうとしてやめた。
 弟の頬が、涙でぬらぬらと光っていたためだ。行く筋も流して、唇を噛んでいる。まずい。これは医者に掛かるレベルか。楽しんだんじゃなかったのか。

「兄さんは俺のこと、見下しているよね?」
「は?!」
「兄さんは俺のこと、見下してるでしょ?」
「何を根拠に?!」

 急な展開だった。
 ずっと心の読めなかった弟が、本音のようなものを聞かせてくれようと口を開けたのに。俺は身構えて、頭ばかり働かせた。しかし、弟の言葉に狼狽して良い返しが思い付かない。

「わかるんだよ、空気で。
 無駄に優しいし、俺が、何したって余裕だっ。
 俺のこと少しも意識しない、俺がヴロヴナの家を巡って、戦いを挑んで来るなんて考えもしない、だってできないもん、兄さんの血にはフィオーレが、俺の血には……。
 俺が兄さんに勝てるわけないって、わかってて俺に優しいんだろ?
 俺はあんたにとってどれぐらい安全だ?
 家の者が誰一人、俺とあんたと争った時、俺に靡かないのをわかっててっ、あんたは……!」

 そこまで喋ってから、弟は自分の口を、自分でも信じられないという顔をして手で覆った。

「ごめん忘れて」
「タクオ……」
「こんなこと考えてない。
 俺は別に何も……、兄さんに勝とうとか兄さんと戦おうとか……。
 考えてないよ」
「わかってる」
「ただ兄さんがあんまりにも、見下してくるからっ」

 最後の言葉は涙声で高く上がり、弟はそれから先を喋れなくなった。俺は従兄弟のマルクスが、俺に優しかったのを思い出した。俺に父が居ないのを気にしてくれた。だが、俺はそれを気にして欲しくなかったのだ。
 まるで俺が欠けているようじゃないか。
 俺は確かにマルクスとは違った立場に居たが、それが俺とマルクスの幸不幸を決めているわけじゃない。対する、当主息子のルカスは普通だった。
 俺に良いところがあれば良いと言い、悪いところがあれば悪いと言う。
 俺は乱暴者だったから、良く友人を泣かせていた。
 ルカスは強烈にそういう俺を非難したが、マルクスは庇った。
 庇った理由は簡単だ。俺に父親がいないからだ。父親がいなければ、悪さをして良いのか。俺はマルクスに、差別されていた。優しい差別と、意地悪な差別。どちらも不愉快だ。俺はマルクスが俺に甘いのを良いことにマルクスと仲良くしていたが、心の底ではマルクスを嫌っていた。
 当時、その嫌悪の感情が何故起こるのかわからなかったが、今わかった。
 そういうことだったのか。

「タクオ」
「何?」
「俺が間違ってた」
「え?」
「俺は、……俺を、おまえより恵まれていると思っていたんだ、これまで」
「……」
「だからおまえには、強く出ないようにしていた」
「……え? ……強く出てなかったの?あれで?」
「明日からは強く出る、おまえに普通に接する」
「……」
「俺とおまえは違う人生を歩んできた。それだけの話だ。
 血のことは、気にする人間を軽蔑しろ」

 などと俺が言っても無理がある。俺はそれを気にした事がない。だが、言うしかないのだ。それが俺の考えなのだ。

「ありがとう」

 弟は小さい声で呟いて、少し頬を染めた。

 この日から、弟が家に居る日を連絡すると、セネカ・マグランがやって来るようになった。



2016/6/22

『味方以上、敵未満』(面倒見の良いオラオラ系×変人権力者)

 ルカスの部屋にはいつも、乾いた果実のような品の良い薫りが、ほんのりと漂っていた。木製の家具が多く、茶系の配色で固められたその部屋には円形の棚が部屋を仕切るように置いてあった。

 交錯して差し込む美しい光を眺めながら、枯れた深い森の中に居るようだな、とぼんやり思う。
 ルカスはキケロが訪ねると微笑して出迎え、身体を許す。
 過去、力づくで作った関係。
 キケロに敵対し憎しみを含んだ目を向けていた、キケロの事で一杯になっていた、あの頃のルカスはどこに行ったのだろう。今のルカスは、死体のように従順で、てろりと目の前に転がったままキケロを認識してくれない。


 ふとした事後、目を閉じて隣に横たわるルカスの首筋に手を当ててみた。また脅威になれば、少しは意識して貰えるだろうか。
 ルカスの中に、留まる術がわからない。
 均整の取れたルカスの横顔に視線を注ぎながら、溜息をついた。

「穴があく」

 ふいに、耳に響くルカスの声がして、見つめていた寝顔の目が開いていた。

「あまり見つめられると涎を垂らせない」
「垂らしてるところ、見たことねぇぞ」
「おまえが見ている間は、気をつけているんだ」
「あのなぁ、俺は女じゃねぇからそんな台詞喜ばねぇ」

 呆れながら、半分照れながら言うとルカスはふっと笑った。

「最近、見分けがつかなくてな」

 息の詰るような怒りが込み上げたが、ぐっと飲み込んで鼻水を拭いた。

「曇りか」

 遠くを見るルカスの砂色の瞳がサラサラと小さく光っている。窓から入った白い光が下がり目と高い鼻に当たって、その周辺の空気に輝きを与えていた。
 ルカスは雰囲気のある色男だが、キケロはルカスの外面より内面に比重を置き慕っている。
 確かにはじめは歪めたら迫力が出そうな顔だと、そんな理由で絡んだが、今は違う。ルカスの根底にある優しさや、強がらざるを得ない、忍耐に慣れた寂しい心に寄り添いたいと考えている。
 ルカスの顔に惹かれ、ルカスと寝る女どもと一緒にされたくない。

 窓の外で、庭師が草木に水を撒く音がして急に空間に現実味が湧いた。
 ふいにするりとキケロに向けて動いたルカスの、瞳に胸が騒ぐ。
 ルカスの視線は艶かしい。

キケロ……」
「何だよ」
「もう帰れ」
「あ゛?!」
「用は済んだろう?」

 無慈悲な笑みと共に提示された関係。
 快楽を施しあうだけの、淡白な繋がり。

 特別扱いと愛情を貰えた過去の地位、ルカスの恋人に戻りたくて足掻いている現在。また、細かく表情の変わるルカスの横に立ちたい。

「好い加減、俺に落ち着けよ」

 呟くと、またかという顔をされて落ち込む。

「おまえは、自由恋愛の中でこそ楽しく生きて行ける男だと思っていたが。
 もし、この関係がおまえを苦しめるというなら俺はおまえの下半身を諦めよう」
「かは……」
「もし恋愛をしたいなら、他所で頼む」

 手が出そうになって必死で堪え、精神的外傷で起こる持病の頭痛に顔を顰め、歯を食いしばる。

「これからエリックが来るんだが、同席するか?」
「エリック??」
「相談することがある」

 じわっと背に汗が滲んだのは、嫌な予感がしたため。

「ロゼ・コープスの件か?」

 当たりをつけて聞くと、ルカスは黙った。的を得てしまった。ルカスはロゼをフィオーレに欲しいとエリックに言うつもりなのだ。

「俺があいつに負けると思ってるんだな」
「彼は恐らく天才だ」

 近頃、躍進しているコープス家の養い子はキケロに軽い恐怖心を植え付けていた。

「今伸びてるからって、これからも伸び続けるかはわかんねぇぞ」

 ルカスの傍に居たくて、代々その名を受け継ぐフィオーレ当主専属兵士「13代目のゴドー・ジェキンス」を目指しているキケロを、ルカスは全く気遣わない。
 将来、フィオーレの当主として「ゴドー・ジェキンス」を従える立場にあるルカスは、ゴドーは闘いの天才から選ぶという仕来たりをそのまま受け入れて、秀才止まりのキケロを容赦なく無視していた。
 キケロとルカスの友人であり、元の名もゴドーで武力の天才という条件を揃えたあの素晴らしい、ゴドー・コープスをエリックに取られてしまったルカスは今、渋々、ゴドーに変わる天才を探していた。

 そして、ついにここ最近、頭角を現した天才、ロゼを見つけた。
 ロゼは貧国で虐待を受けて未発達な身体をしていた所為、当初は目立たずに成長していたが、基本的な筋肉がついた途端に爆発的に実力を伸ばし、ついにキケロのすぐ下まで来た。もう、上かもしれない。

「ゴドーやトートの動きを知っているおまえならわかるだろう、才能は残酷だ。俺がどんなにおまえに肩入れしたところで、どうにもならない」

 断言されて、やっと自覚する。心のどこかで予感しながら不安を避けるために、大丈夫だと己を信じ込ませて来た。
 その幻が打ち砕かれ、いよいよスースーと首の後ろが冷えた。

「俺が負けるとか、本気で思ってんのか?あんなお嬢ちゃんによ」

 ロゼはその名の通り女のように繊細で愛らしい顔をした男だった。
 しかし実力は本物だ。
 数ヶ月前に格下の試合として、穏やかな気持ちでロゼの闘いを見ていたのが嘘のよう。今は闘技にロゼが出る度に、恐ろしい速度で成長するその姿に焦らされて心を乱される。

「ロゼはおまえよりも強くなる。彼は天才だ。
 筋力がついてからの伸びがここまで早いのは異様だよ。腐ってもコープスだ。おまえは強いが秀才の域を出ない」

 確かな評価に、きゅっと喉が詰まった。口の中が痛い。
 重さが全て床に吸い取られていくような、血が足りないような、クラクラした頭で現実に耐える。

「おまえが俺の護衛を目指して、努力してくれていたことを知っている。
 だが、努力ではどうにもならない事が世の中にはある。おまえの人生における二度目の試練だな。一度目はエリックの心が手に入らないとわかった時、二度目は今、俺の隣に立てない事がわかった時。
 耐える強さを身につけて欲しい。応援できることがあればいくらでも言え。癇癪を起こし、騒いで苦しむか。静かに耐えて苦しむかの違いだ。結局苦しむことは同じなら、誰にも迷惑を掛けないよう平和的に苦しもう。弱音には俺が付き合ってやる」

 淡々としたルカスの言葉に頭の中がごちゃごちゃと考えを巡らせた。
 蘇るのは泣き叫ぶエリックに無体をした記憶。エリックの怯えた目や、苦しみの顔。同時に幼い頃の、キケロに懐いていたエリックの無邪気な愛情を思い出す。
 キケロに裏切られたエリックの辛さを想像すると、胃に爆発するような痛みを覚える。
 キケロは過去エリックを熱烈に愛し、それが叶わないとわかって薬物に手を出し理性を飛ばし、エリックを襲った。
 エリックを苦しめて己も狂い、騒ぎを起こした過去。
 思い出す度に死を願う程、神経が衰弱する。

「ロゼがフィオーレに来るとは限らないだろうが」

 何とか出た、平常な声色で疑問を口にした。

「エリック次第だ」
「あ゛?」
「エリックが行けと言えば来ると思う。
 ロゼはエリックの命令になら、いくらでも従う」
「おい、それって、まずくねぇか?
 ヴェレノ子息に言うなりの奴が、フィオーレ次期当主の命預かるとか」
「俺はエリックになら、裏切られて殺されても構わない」
「エリックはそんなことしねーと思うけどよ」

 結局、ロゼはフィオーレに来るだろう。エリックにはゴドーが居る。

「マット・コープスは何て言ってるんだよ」
「彼はエリックの意思を尊重するだろう」
「リニー・シェパードはどうした?」
「リニーには、また最終審判を担当してもらう。
 ロゼの実力を常に図るジェキンスとして、ロゼが倒れたら次期ゴドーとして、活躍してもらう」
「ハッ、可哀相なリニー・シェパード!なまじ強いばっかりに!
 変なプライドと目標を持っちまった秀才って立場、俺と同じだな」
「……そういう言い方はよせ。俺には伝統を守る役目がある。
 リニーも納得してくれている」
「そーかよ」

 今にも吐いて気を失いそうな身体の不調に耐える。
 頭痛で世界が曲がっていく。

 ルカスには立派な考えがあって、だから、こんな酷い決断をくだされても文句は言えない。けれど何を考えてこんな風にキケロやリニーを苦しめるような結果を出すのか。

「俺はいつかおまえに殺されるかもしれないな」
「あ゛?」
「殺されるとしたら、おまえにが良いな」

 口を動かしながら、まどろみ、またベッドに沈んだルカスの首に手を掛けた。

「いつかじゃなくて、今にしてやろうか」

 冗談を言うと、ルカスは小さく頼むと返した。悪かった、と眉を寄せて呟くルカスの声は暗い。何か黒くて重い毒の入った、良くない玉のようなものが咽喉からコロリと取れたような気がした。

 後になって、フィオーレの議会で最後までルカスがロゼの登用を拒否し、キケロを推していた事がわかった。正当な血筋を持つ、後ろ盾のない次期当主に与えられるのは、責任と他人の決定のみ。
 自分で決めた事さえ飲み下して自分の意志として、貫く事の出来ないキケロにとって、他人の決めた事を、それが鋭利な尖りのある石でも飲み込んで、どんなに苦労しても、決定を実現させなければいけない立場は地獄だった。冷えた頭が、真っ先に責めたのは自分の実力不足。

 ロゼが台頭して来た時、三倍に増やしたメニューは五倍に。二倍にした負荷を八倍にしよう。そうして、せめてキケロを最後まで推していたルカスの意志を正しい意見に見せるのだ。

 朝のトレーニングルームで電話を掛けたらルカスはやたらと機嫌が良く、昨日のキケロの勝ち試合を褒めて来た。アウレリウスの個人練習ホールは、良く音が響くので、学校の教室程しかない広さの中、キケロはルカスの声に包まれた。
 あの技は何だ……?前より力がついたな!
 疲れるのが遅くなった!
 芸術闘技の勉強もしているのか……?
 頭が良いから向いているだろう。必要なら資料を用意しようか?

 ルカスの言葉は、キケロを好いていた。

 恋人でなくなったルカスのつれない態度に目を潰され、見えなくなっていたのだが、友人としてのルカスはキケロの味方だった。



2016/6/22

『傷心旅行』(ぼんやりモテ男×平凡)




 俺って実は暗いのかなと一時期悩んだりもしたが、一人行動が好きという事実は今も昔も変わらず。一人は楽。一人は自由。一人でいるのが良い。一人最高。

 しかし、人にはどうやらオーラというものがあるらしく、一匹狼的な、近寄りがたいような雰囲気を持っていなければ、一人きりになることは難しい。苛められるような一人になるのは避けたいが、できたら一人で行動することを認められた、一人行動キャラになりたかった。
 残念なことに、俺はとにかく平凡な、仲間オーラの持ち主で、気を抜くとすぐに友達が横にいた。
 人気者の類では決して無い。華とかは、特に無い。単に、気楽に声を掛けられる、一緒に時間を潰す相手として最良のオーラを放っている。つまり仲間オーラ。多くの人が、話が通じそうな奴だなと感じる雰囲気を、俺は持っているらしい。
 とにかく、よく人に話し掛けられる。初対面の人に安心感を与えるという面に関して、俺の右に出る者は今のところいない。

 そういうわけで、周りに人の居る環境下で一人になるのは難しい。

 話し掛けられたのを無視してまで一人になろうとするのもアレなので、
雑談を受け付ける。受け付けたら最後、大体いつも誰かと話をしている羽目になる。話をするのは嫌いじゃないので、別にいいのだが、一人の時間が足りない。意図的に一人になろうとしなければ、一人になれない。

 最近あった辛いことを克服するためにも一人になりたくて。苦労して作った一人の時間。貴重なので誰にも邪魔されたくない、やっと得た一人時間。にも関わらず今、俺の隣には怠惰で艶っぽい猫科の色男、チェコ・トルーニが居る。

 部活に休み届けを出し、友人の誘いを断りぬいて兄のチョッカイを切り抜けて作った自由な日。日帰り一人旅に出るはずが、一泊二人旅になってしまった不思議。何が起こったのか。

 チェコはみっしりと、質の良い動物的な筋肉を体中につけた細身の兵士で、学生をやりながら訓練寮に入っている。そして今は訓練を休んで、何故か今リオネの横に居る。何故だろう。

 爽やかな朝の空気の中で、チェコの首に纏わりついている癖のある黒髪が、後ろめたくなるぐらい淫らで思わず目を背けた。

「どこに行くの?」

 どこに行こうか。行くところは沢山ある。ここは観光地だ。

 フィオーレの古い農村、有名な映画の舞台になったおかげで牧場などが公園として整備され、観光地になっているこの場所。バルディ・フィオーレ。誰だって一度は訪れているだろう。観光客のルートは大体決まっている。牧場、撮影跡地、地元商店街、簡易闘技場、美術館、ホテル。これ等を適当に選んで回る。

 冬の青々とした空を見上げながら、白く刺すような太陽の光に目を細めた。二人の立っていた高い丘は、駅を背にバルディの地を見渡せた。気持ちの良い場所だ。

「まずは牧場かなあ」

 独り言のように呟くと、うん、と簡潔な返事があった。

 朝、リオネ宅最寄の駅前で待ち伏せしていたチェコは一言、リオネが一人旅に出るって聞いて、と呟いてちゃっかりついてきた。せっかく作った一人の時間に割り込まれ、はじめは腹を立てていたのだが、チェコは横に居ても、リオネが大切にしている「一人」の空気を壊さない。それどころか、一人でいても道行く人に決まって話し掛けられるリオネの気安さを打ち消し、誰かの邪魔を排除してくれる存在となってくれた。
 チェコとなら、二人でいてもいい。一人でいるのと同じくらい楽だ。

 チェコはどこか自然に近いというか、他者の存在感を発揮しない不思議な男だった。リオネが意図せずに他者を寄せ付けてしまうのと同じで、チェコは恐らく意図せずに、他人の一人空間にそっと侵入することのできる才能を持っていた。

 例えば一人暮らしの女性が、気ままな独身生活のお供によく猫を飼うというが、猫という生き物は一人でいるのが好きな人間と相性が良いらしい。チェコはこれまでも、リオネが一人で過ごすために確保していた様々な時間に気がつくと侵入して来ていた。

 横を見てみると、いつもの景色。チェコのハッキリした顔立ち、下がり眉。最近良くチェコと一緒に居る気がする。

「あ」

 斜め掛けのショルダーを回しガイドブックを取り出した。

「これ忘れてた」
「……うん」

 チェコの返事はとにかく単調。人と話をしているというより、動物の反応を得ている感じ。
 本をチェコに渡すと、チェコは嬉しそうに口端を上げ、パラパラ捲った。牧場のところを、じっと見る。何かに注目する時の癖なのか、唇を突き出している。上唇にペンが一本は乗るだろう。大人っぽいイメージのあるチェコの幼い仕草が面白くて、突き出ているチェコの唇を、指で摘んでみた。

「唇出るの癖?アヒルになってるぞ?」

 含み笑いをしながら指摘してやると、チェコは少し驚いた顔をし、他意のない流し目で俺を捕らえた。それから、摘まれていた唇を引っ込め、唇を摘んでいた俺の指に軽いキスをし、笑った。死ぬほど良い男の表情で。

「っ」

 そうか、これが良い男か。

「おまえ……っ、よく……今のみたいな、できるよなっ?!」

 熱の集まった頬を冷ましながら、動揺を隠せずに言及した。
 凄い……。
 凄いと感心はしたけれど、常識が口を動かす。

「男相手にっ……、さ?」
「やだった?」
「その聞き方はずるい……」
「先にやったのはそっち」
「俺のは普通のボディタッチだろ?!」
「リオネじゃなかったら怒る部位だけどね、唇とか」
「怒るのおまえ?……意外」
「結構神経質」
「まじで……?」

 目を丸くして聞くと、チェコはガイドブックから目を離さず、ふふふ、と笑う。なんか今日機嫌いいな。

「リオネ」

 名を呼ぶと同時に目を合わせる反則技。獲物を見つめる猫の目。この目に何人も、射止められるのを見てきた。チェコの目は、瞬きが遅いのだ。そのせいで形の良い三白眼をいつも目蓋が少しだけ塞いでいるように見え、る。それが妙な迫力を作り、性的な引力になっていた。

「……な、何?」

 名を呼ばれてから、二秒しか経っていないのに間が持たない。

「俺のことどう思ってる?」

 どう?

 チェコは、チェコを愛する女達の影響もあり俺の中で完全に男性の代表、男という性のイメージだ。男として、敵わない男とでも言おうか。同性としての、嫉ましさを通り越して何だか、凄いというか、かっこいいというか。俺はそうはなれないけど、おまえが「そう」ある様子は素敵だと思える。男の色気を湯気のように、もうもうと体から出している感じ。

「色男だなって思ってるけど」
「そういう質問じゃねーよ」
「えっ」
「だから、あの、……俺のこと好きになってくれたりする可能性はあるの?ないの?」
「あー」

 そっちか。と心の中で舌打つ。
 一ヶ月前、俺は長年の片想い相手、エリック・ヴェレノに振られていて、
深い落ち込みが二週続き、二日学校を休み、五キロ痩せた。食欲はまだ戻らない。減り続ける体重とエリックに恋した日々の思い出が相変わらず俺を苦しめている。

「ごめん」

 チェコは淡白に謝った。

「リオネが大変な時に、自分の気になることしか聞けない奴でごめん」
「いや、いいよ、普通気になるだろ、……ごめん、早めに答えだす」
「……うん」

 俺はその場にしゃがみ、話の弾みでぶり返した失恋の痛みを噛み締めた。もうエリックのことを、想ってはいけない。そんなの嫌だ。抑えても湧き出るエリックの様々な表情や発言。行動背景、持ち物、遠目に見た姿などなど。蘇っては痛みになり、襲って来る。

「リオネ」

 胸が冷温火傷しそうだ。背を摩られて宥めてもらっている。人間と猫から、病人と付き添い人に。チェコは俺の背を摩りながら、俺の前にしゃがんだ。

「忘れるためでもいいよ、俺はエリックと違ってリオネのこと好きだから、悲しめたりしない」
「忘れるためとかおまえに悪いよ」
「変なとこ真面目なんだよな、大丈夫だって俺は……、リオネに構ってもらえるだけで嬉しいから、俺、慰みの浮気相手とかよくやってたからさ、辛いの助けるの得意なんだ」

 チェコの艶っぽい顔が、良く見えないと思ったら視界が涙でぼやけていた。足元をすり抜けるような木枯らしが吹いた。リオネの身体を覆うように、リオネを温めているチェコの体温がとてもありがたく、愛しかった。


2016/6/21

『おそろい』(ぼんやりモテ男×平凡)

 自分の欲望には気づいているが、求めたら困らせると分かっている。
困らせてまで求めようとは思わない。横に居てくれればそれで良い。

 待ち合わせ時間の十分前。
チェコとリオネは二人きりで立っていた。

「どうかエリックとゴドーさんが、二人一緒に来ませんように」

 待ち合わせ場の、フィオーレ駅二階時計塔下。
コーンスープの缶で手を温めながら、リオネが正直な願いを口にする。
エリックを想っての言葉だというのは気に入らないが、恋心に振り回されている様子が可愛い。

「うん」

 適当に返事をする。

 チェコとリオネ、エリックとゴドーの組み合わせでレジャーに行くのは初めてのこと。約一ヶ月前、ジェキンス寮長に呼び出され、チェコは合宿前の下見係に指名された。素泊まり代が一人分だけ出る。
 だいたい、この係に選ばれた者は、自腹で仕事をレジャーに進化させる。
チェコも友人を誘い、下見をレジャーに変貌させた。一人分の旅費を、四人で分けて遊びに行く。渡された下見表の項目をチェックさえしてくれば、
問題ないのだ。

「おはよう」

 待ち合わせの五分前、エリックが後ろから声を掛けて来た。振り返ると、エリックは駅内ショップから出て来るところだった。ゴドーを従え、ふわふわしたコートのポケットに手を入れて。

「二人一緒に来たな」

 リオネへの嫌がらせ、指摘するとリオネはむっと口を閉ざした。寒さで赤くなっているリオネの耳を掴む。

「いてっ……?!……何?!」
「俺達も二人一緒に待ってたから、おあいこ」
「っ……」

 目を見開き、息の詰ったような顔をしてリオネは眉を下げた。
 エリックがにやにやとこちらを観察して来る中、チェコは列車が着いたり去ったりしているホームに目を落とした。
 これから乗り込む特急が到着したのだ。

「……来た、ガザ・パスカル号」

 薄茶に白の縦じま、緑の傘が描かれた特急がホームの端に泊まっている。
 有名な推理小説の主人公、ガザをモチーフにした特急。フィオーレがまだヴィンチの一部であった頃の都、パンセが舞台だ。
 今は古都となったそこへ、これから四人で向かう。

 特急の中で食べる弁当を調達してから特急に乗り込むと団体旅行とかち合って席がなくなってしまった。油断した。

 興が削がれて落ち込み掛けたチェコの横、

「着いたら食べればいいよな、外、良い天気だし」

 リオネが明るい提案をした。
 チェコはリオネの、こうした細かな気遣いが好きだった。


 冬の空は低く、澄み切った青。
 降りたフィオーレの古都は、はじめて訪れても不思議とどこか懐かしさを感じさせる独特の空気に包まれていた。
 中等部の修学旅行で来た時以来の、歴史と景観の街に深く息を吐いた。
 ヴィンチの一都市でしかなかった、過去のフィオーレの面影。ヴィンチ王家を招くために作られた宗教施設や、ヴィンチ色の強い背の低い家々を見渡して、異国感に浸った。

 街を観光して歩いてから宿に着く。
 管理人から鍵を貰って、人気のない施設に灯りをつけた。

 森に一歩踏み込んだ場所に立っているこの白い長屋が、今回のジェキンス寮合宿で使われる宿泊施設だ。
 月に一度掃除をしにやって来る人はいるものの、普段は人気のない森の中にひっそりとしているらしい建物はそこで静かに眠っていた。シンと冷え切った森と対峙するように、長屋は温かな雰囲気を内部に宿していた。曲線の多い装飾のおかげか、ふんわりと落ち着く。

「うわっ、うちじゃん」

 建物を見た時、エリックが笑いながら感想をもらし、ゴドーが困った顔をした。

「俺のうちな」
「ゴドーのうち」

 ゴドーの住む草原の長屋は、フィオーレの元公共施設だった。
 みてみてゴドー?窓の縁!模様まで一緒!とはしゃぐエリックと、窓の縁に模様なんかあったか?と首を捻るゴドーには敢えて絡まず、チェコは事務的に寮生が泊まるための部屋数を確認し、機器に不備がないかを確認し、与えられた仕事をきちんと片付けた。

 せっかくなので一人一部屋を贅沢に使おうと荷物を置き、結局リオネの部屋に四人が集まった。


「この宿、殺人事件が起きそうだよね」

 エリックが呟いて、ゴドーが鼻で笑った。
 テレビをつけ、複数人が寝られるよう長く広く作られたベッドの上に胡坐で座って寛いでいたところ。一m間隔で、七人は寝れるだろうベッドには沢山のシミやほつれがあった。

「誰もいなくて広くて、街と離れててさ、たぶん第一被害者はゴドー」
「言うと思った」
「絶対死ななさそうなのに死んじゃう」

 古都に触れたせいか、エリックの頭はガザの小説にかぶれていた。
 リオネが、手を上げる。

「俺犯人!」
「うん、犯人ぽい、じゃぁリオネ犯人で……。
 チェコはー……、駄目警察官でしょ、俺が探偵」
「おいしいとこを!」
「ふふっ」

 楽しそうなリオネとエリックに和む。
 ゴドーがあくびを一つ。チェコもつられた。
 まだ四時なんだなと言いながら、ゴドーがテレビのチャンネルを変えて行くと、奇跡的なタイミングで十年ぐらい前に放送された古めかしいガザのドラマ再放送に出会った。

「うわ、ガザ!」
「見よう見よう」

 エリックとリオネがはしゃいでテレビに向かう。
 ゴドーとチェコは、顔を見合わせた。

「闘技でも行くか」

 宿の近くには、有名な練習施設があった。

「はい」
「おまえ最近力付いたよな」
「そうですか?」

 褒められて嬉しくなり、笑みが湧く。
 ゴドーと一対一ができるのはありがたい。
 強者との戦いは、成長に繋がる。

 練習から帰るとエリックが居なかった。
 ゴドーの携帯が鳴り、ゴドーが外に引き返す。
 そうだ。リオネはエリックが好きなのだ。二人きりにしては、いけなかったのだ。異様な部屋の雰囲気を前にして、チェコは苦いものを飲み込み、眉を寄せた。

「リオネ」

 部屋にポツンと残されたリオネは、声をかけても反応しなかった。

「何かしたのか?」

 責めているつもりじゃない。聞きたいだけ。チェコチェコで、リオネが好きだった。

「……した」

 簡単な返事が来て、心臓が緊張した。横に座る。

「何したんだ?」

 リオネは答えない。リオネは冗談で、エリックに対し襲うぞと脅しを掛けることが多かった。エリックがリオネにきつい物言いをすると、怒った勢いでリオネはエリックを詰った。
 エリックも悪いのだ。リオネに対し、辛く当たる。酷い言葉を投げる。
 だけど襲ってはいけなかった。エリックへの罪で、リオネが穢れるのは嫌だ。しかし、もうリオネはよくないことをしてしまったのだ。
 むなしくなり、顔に手を当て息を吐いた。
 立ち上がって、部屋に鍵を閉めると座っているリオネの前に立った。
 放心しているリオネの顎を掴んでキスをすると、リオネは慌てて顔を背けた。耳の後ろ、首、とキスを落としベッドに押す。

チェコ……」

 元気のない嗜めを無視して覆いかぶさる。

「なんでこのタイミングで仕掛けてくんの」
「仕掛ける気なんかなかったけど、なんか腹立って」

 色々と力の入らないようであるリオネの緩い抵抗。
 リオネはチェコの胸を腕で押しながら宙を見ている。時々咽るような表情をしてぐっと唇を噛む。

「リオネ」

 呼んでも返事がない。
 もぞもぞとこちらに背を向けたリオネの下肢に手を伸ばす。服を割って、リオネのものに直接触ってしまった。背中がきゅっと痒くなって、胸が熱くなる。

「リオネ……」
「だから何で、こんな時っ」
「こんな時だから」

 苛ついた声が出た。
 リオネが、エリックを抱いてしまった。リオネはエリックに、良くないことをした。エリックのせいで、リオネが穢れた。リオネのものを摩る。

「わっ」

 触られた時は反応しなかったくせに、擦られた途端に背を曲げて、リオネは驚いた声を上げた。

「っ、ちょ、チェコ、あの、ちょっ……、ちょっと、おい」

 慌てる首の後ろにキスをし、背に額と頬をつけた。
 リオネの体の匂いと、骨の感触、体温が顔の敏感な膜から情報として、こちらに入って来る。心地良い。リオネのものを扱く手の力を緩める。

「痛かった?」
「痛くは、そんな、でも一旦やめて」
「なんで」

 会話しながらも、やわらかに、リオネのものを弄っている手に幸せな感触。リオネ以外のものだったら触るのも嫌だが、リオネのものならいくらでも触っていたい。というか、口に入れたりしたい。が、それはしたら怒られる気がする。しげしげと見つめたいが、嫌がられるだろう。こうして触るのがギリギリのラインだ。

「……っん、……う」

 口を押さえているリオネの顔が、苦悶に染まっていき、ゾワリと震えが来た。この手が、この反応を作っている。もはや文句を言う余裕がないリオネの頬に口付け、刺激を強くした。

「っ」

 リオネの身が揺れ、ぬるりと指先が粘った。
 その粘りを使って、もっとそれを甚振ろうと、竿をにゅるにゅるとしごくと、リオネの切羽詰まった手が胸を押してきた。

チェコ!」

 胸を押されても、あまり打撃じゃない。
 弄り続ける。ぎゅっとそれを握ると、リオネは小さく、ぁ、と鳴いて背を丸めた。その姿に興奮しキスを仕掛ける。深いもの。
 リオネの息を、食事するように刻んで頬張り舌や唇の感触を味わい尽くす。
 困らせてまで、やらなくていいと思っていたのに。
 リオネがやりたいならやらせるのでも良い。
 いちゃつきたい、という程度だった。

 いちゃつきたいけれど、リオネが望まないなら、いちゃつかなくてもいい。一緒にいられれば。そんな健気な気持ちでいた朝が嘘のよう。リオネと性的な接触を、もっとしたい。

「リオネ」

 名を呼ぶと、リオネは目を閉じた。それから眉間に皺を寄せた。

「俺、告白して、ふられたばっかなんだよ」

 リオネの声は高く震えていた。
 涙が目の内側から、外側まで流れるとぽたぽたと落ちた。

「ふられた人間、襲うなよ馬鹿っ」

 全身を氷の弾丸で撃たれたような、衝撃に頭が真っ白になった。

「襲ったんじゃ?!」
「襲われてるけど?」

「ごめん」

 体を離すと、リオネの体温に温められていた部分が、水に触れた後のように熱を奪われて冷え、寒くて仕方がなくなった。

「ごめん」

 二度目の謝罪を口にして、手を洗いに行く。
 濡れタオルを作って戻り、リオネに渡した。

「ふられたらもう、好きでいちゃ駄目なのかなぁ?」

 リオネはさっき流した涙の上から、新しい涙を流して嘆いた。

「時間戻らないかなあ、言わなきゃ良かった」

 掛ける言葉が見つからず、横に座る。リオネはタオルを使い終えると、それを洗いに立った。戻って来て、ベッドにうつ伏せに倒れた。

「俺もふられようか?」

 チェコの気持ちを、リオネは知っている。

「おそろいになってくれるわけだ」

 リオネはうつ伏せの状態から、顔だけチェコを向いて笑った。

「うん」

 リオネの目にまた涙が溜まる。

「ゴドーさんより、俺のほうが絶対、……俺のほうが、エリックのこと好きなのに」

 エリックの何がそんなに良いのか。
 あんなに激しい性格では、一緒に居て疲れるだけじゃないか。チェコはリオネの優しさや気遣いが好きだし、さっぱりした癖のない顔が好きだ。美しいが毒々しい、魔の色香を放つエリックの見た目に、引き込まれて戻れなくなった者は多い。リオネ以外にも、エリックに嵌っている人間は大勢居る。
 だが、リオネのようにエリックの傍で、エリックのあのきつい言動に付き合おうという者は少ない。そう考えると、リオネはエリックを好きだという人間の中でも、より、エリックを好きな人間なのだろう。
 どうしてリオネだったのか。
 エリックに嵌る人間は大勢居る。リオネ以外の誰かが、リオネの立場になってくれたら良かった。

「エリックに、絶交しようって言われた」
「なんで」
「俺が、エリックのこと好きなのが怖いって」
「しろよ絶交、おまえには俺がいるし、もういいだろエリックは」
「もういいって思いたいよ」

 ついに裏返った声で嘆きだしたリオネを、たまらずに片腕で抱き寄せた。肩に腕を掛ける、友達の慰め。チェコがリオネを襲ったことに対する咎めはまた今度になるだろう、今のリオネは自分の心を鎮めるので一杯一杯だ。

「リオネ」

 ゴドーの声が戸の向こうでした。

「はい」

 さんざん深呼吸をした後、やっと落ち着いて、リオネが返事をした。

「大丈夫か?」
「はい」

 それだけのやり取り。
 ゴドーが去っていき、リオネの目にまた涙が溢れる。リオネの肩をぎゅっと掴んでやると、リオネは少しだけ表情を和らげチェコを見た。

「ふられるって凄い辛いよチェコ、いいの?おそろい、なっても?」

 涙声と、泣き顔に胸が痛む。どうしてリオネがこんなに悲しまなければいけないのか。

「おまえの辛いの、どうにかしてやりたい」

 思ったままを伝えると、リオネはまたボタボタと涙を溢した。

「せめて理解してやれたら、ちょっとは落ち着くかと思って。さっきから掛ける言葉見つからないから……同じ状況になったら、どういう言葉掛けてやったらいいのか、わかるかなって」

 ゆっくり、思いの他だらだらと気持ちを伝えた。
 おそろいにしようかと申し出ておきながら怯えていた。ふられたくはないが、ふられるしかリオネを慰める方法が思いつかない。苦しいだろうけれど、リオネのためなら。

「……ありがとう、でも、今はちょっと答え出せない、まともな状態じゃないから、……慰めて貰うために、自分を好きになってくれた奴ふるなんて、カッコ悪いし……もっとよく考えさせて」

 ぽろりと救いの言葉。ああ、良かった。安心が顔に現われた。
 リオネが笑った。チェコも笑った。笑う顔が見れて、やっと安心する。

チェコって面白いよな」
「そうか?」
「……凄く、面白いやつだよ」

 そう言って、はにかんだリオネを心の底から好きだと思った。

「どうせおそろいにするなら、泣き顔じゃなくて、笑顔がいいよな」

 リオネはいつでも前向き。
 チェコも前向きに、リオネからの返答を待とうと思う。



2016/6/21

『ダッシュ』(ぼんやりモテ男×平凡)

目の前で。
すぐ目の前でカルロがエリックに引っ付いている。
エリックは黙って引っ付かれている。

俺がやったら怒るんだよね。


見るものを焼く勢いで、二人を睨んでいたら、

「リオネ不機嫌」

横でチェコがぼそりと呟いた。


エリックはチェコの言葉を気にせず、リオネをないもののような態度でページを捲った。せめてこっち向けよ。
座ったエリックにカルロが被さって、エリックとカルロは雑誌を見ていた。

「なんで?」

チェコはリオネを横目で覗きながら、白々しい質問を投げて来た。

「わかるだろ」

エリックにカルロが引っ付いているから。
エリックがそれを許しているから。
俺がやったら怒るくせに、カルロには怒らないから。

「ん……」

チェコはリオネの顔を見て、下を向いて、エリックにチラッと目をやった。

「わかんない」

意図して、わかろうとしない。
というチェコの意思を感じて顔を顰める。

チェコはリオネに懐いていた。

人間を愛しているわけではなく、ただその注意を向けておきたいために人間に構う猫のよう。チェコは気まぐれに人に懐く。これまでリオネは、チェコが懐くのは女だけと思っていた。
懐かれた女は、大体、チェコの持つ奇妙な色気にやられてのぼせ、チェコに構い倒し、チェコに飽きられて捨てられる。
リオネ……男友達に懐く、というパターンは初めてだ。

エリックの雑誌を捲る手が止まって、その細く滑らかな指が移動する。
ゆるく丸く、握られて、頬杖。

「リオネ、居心地悪いからあっち行って」
「え……」

「変な目で見ないで」

「……見てない」
「見てなくても、俺には、ちょっと不快な視線だったの」
「な……!」

かっとして、言葉を失う。

愛しくてたまらない存在から、無碍にされる苦しみを、こいつは味わったことがあるのか。

悔し涙を堪えて顔を隠すように、ぎゅっ、とエリックに抱きついてみた。
ビクッとエリックの身が震え、脇腹に肘鉄の痛みが食い込む。

「ちょ?!リオネ乱心!俺挟んでる俺挟んでる」

カルロごと抱きしめたので、感触はまばら。カルロが暴れて逃れた。
と、同時に頬に拳骨が来た。エリックに殴られた。
跳ね飛ばされ、教室内の全てと視線が合う。
チェコが庇うよう抱きとめてくれて、どうにか転ばず。

パシンと音がして顔を上げる。

チェコがエリックをぶっていた。


「え?!」
「わっ」

俺、カルロが短い悲鳴を上げた。
チェコとエリックはあまり仲良くない。
そんな二人がぶつかるのは宜しくない。

「抱きついたくらいで殴ることないじゃん」

チェコの主張に、

「俺の勝手」

エリックの答え。


「おまえちょっと自意識過剰」
「君みたいな鈍感にはそう映るかもね?でも俺は、リオネが怖いんだよ」
「わけわかんねぇ、リオネが何したんだよ」
「欲情してるから、俺に」
「はっ!……だからそれが自意識過剰だって……!おまえ見てると苛々する!」
「じゃぁ見なければいい、……俺に、関わらなければいい」
「そんなのわかってる、それができたらいいけど」

勝者はエリック。チェコはリオネを見た。
助けて欲しそうだが、どうしたものか。

「二人とも仲良くしろよ」

咄嗟、出た言葉にチェコは顔を顰めた。

「まぁ、ダダも最初はこうだったよな」

カルロが場を和ませようと、軽い声を出した。
カルロの明るい表情に、教室が視線の包囲を解いてくれた。
四限の自習時間は、まだ始まったばかりだった。
皆、この一時間半、何をしようか考えるのに忙しい。


「あ、リオネこれ」

エリックが唐突に、折畳んだ紙を取り出した。
受け取って開くと、お菓子のレシピ。
エリックの趣味は料理で、前にエリックの作った菓子を、家に持ち帰ったら母親が気に入り、レシピをもらって来て、と頼まれた。

「ありがと!」

「うん、さっきは流れで嫌な言い方してごめん」
「いいよ、本当のことなんだろうし」
「まぁね、あ、気を悪くしないでね、早く他に好きな相手探して」
「あの、口癖みたいにフるのやめてくれる?なんか麻痺しそうだから」
「……」
「俺、うざい?」
「別に」
「ホント?!」
「友達じゃん」

太い縄が目の前にドン、と落ちて来たような。
エリックの澄んだ青の目がじっと見てきていた。
呆然とその目を見返している隙に、手から何かをもぎ取られる。
気が付けば、レシピの紙を、チェコに奪われていた。

「え?」
「これ、捨てるから」

そう言って、チェコは足早に教室の出口に向かった。

「え!ちょっ!」

追いかける。前を行くチェコが走り出して、舌打つ。
ああもう、手の掛かる奴。

チェコ!」

名を呼ぶと、振り返ったチェコの顔は曇っていた。

「返せよ!!」

ぐん、とチェコの速度が増し、焦る。
階段を降りようと、曲がったチェコを追った先、ジェキンスの寮生であるチェコの身体技に、あっと息を飲まされた。
階段の手すりを飛び越えて、一段下の階段の手すりに、さらにその下の手すりに。

チェコは一階まで、階段をショートカットしてしまった。
対するリオネはまだ三階。

見失う。

エリックがくれた、エリックの書いた字が書いてある、エリックがリオネのために作成したものが、捨てられてしまう。

チェコの真似をして、手すりを飛び越える。
ヒヤリと嫌な予感がして、腕に力を込め、手すりにぶら下がる。
下の手すりまで、二m程。

綺麗な着地を、できる気がしない。

踏み外したらどうなる。
手すりは幅細く、滑る。目が回る。階段の、規則正しい景色がリオネの心臓をどくどくと鳴らした。

「何してんだ馬鹿」

下から、チェコの怒鳴るのが聞こえた。

「手、離すな、今そっち行くから」

そうだ、もし怪我をしてもチェコが居るなら、救急処置なりしてくれるし、人も呼んでもらえる。
安心したら、急に、手すりが近く見えた。
思い切って、手すりに降り、バランスを取る。
チェコは階段を使って登って来ているらしい、カンカンと音がする。
登って来たチェコが、あっ、と声を上げて逃げ出した。
リオネは手すりに腰を掛けて、悠々とチェコを待っていた。

人間に騙されて、驚いた猫の後姿。
可笑しくなり、笑いを抑えながら、追いかけた。
この時間は移動教室が多く、空の教室が目立つ。
通り過ぎた授業中の教室の中に、ダダの姿があった。
目が会って、手をふると怪訝な顔をされた。

廊下を歩いていた教師の叱りを受けながら、高庭に出た。

あまり来たことのない、いつもは女子生徒で溢れている高庭。
二階の右端から行ける、噴水が綺麗な、洒落た空間。
二階より長い一階の屋上を利用している。
緑に囲まれて、花々が一年中咲いている。
風が吹いて、花の香りを運んだ。
空をバラバラとヘリが飛んでいる。
授業をしている教室もある学校の緊張感に襲われる。
背徳感と、高揚。

リオネはチェコを追い詰めた。
チェコは紙をしまった手を後ろに隠して後退し、大きな体を前のめりに、左右を見た。そして、紙をポケットに仕舞うと今度は前進。
前進されると、急に不安になり、リオネは逆に後退。

「リオネ」
「返せよ」
「なんで逃げるんだ」
「返せ」
「止まれよ」
「返す?」
「返す」

チェコがまた一歩、こちらに来る。
この焦燥感は何だ。

チェコ?」

目の前に来たところで、たまらずに名を呼んだ。
瞬間に抱きつかれ、驚いて言葉を失った。
何だ何だ、何が起こってるんだ。

「俺だって抱きつきたい」

耳もとで、チェコの高いとも低いとも取れぬ、わがままな響きを持つ声がして、腰が痺れる。冬の朝のような、例の、冷たい香りがする。
チェコにこの香水を送った女は、今どこで何をしているのだろう。
猫の気まぐれに付き合って、捨てられた女は。

「キスするけどいい?」

鼻先で、猫科の男は許可を求めた。

「駄目」

駄目に決まってる。

「なんで」
「駄目だから」
「きもい?」
「きもくはないけど変、っていうか、ん、きもいか?」
「きもいのかよ」
「難しいな」
「どっち?」

少し顔を離して、間近で見つめられる。
チェコは無表情に、黒い目で、リオネを観察して来ている。
リオネの次の動きを待っている。
猫のよう。獲物をじっと、夢中で、眺めている。

「きもいっていうか、駄目?」
「俺は駄目なの?」
「は?」

俺は、の「は」とは。
他は良いのに俺は駄目、という意味だ。

そうか、そういうことか。

チェコはリオネの男色に触発されている。
ふらふらと何を考えているのかわからない男、チェコは、その実何も考えていない可能性がある。これまでもうすうす、チェコは単純なのかもしれないと感じていた。その確信を得た。
チェコは男色というものを、リオネを通して知った。
リオネがエリックに恋をする様や、ブルーノを買う様を見て、どういうものだろうと興味を抱いたのだ。

「リオネ……」
「っ」

つん、と唇に唇が当てられた。そのまま唇を舐められる。
どう反応しようかと迷っていたら、目の前に悪戯っぽい猫の微笑。

「駄目なのにしちゃったけど、怒る?」

呆れて、全身から力が抜けた。この男……。

「お」

喋ろうとして開いた口の中に、舌が差し込まれた。がっつりだな。
背に回された手が、ぎゅっと身を締め付けてきた。

深いキスを終えて、チェコは少し満足気にリオネを解放した。

「なんかスッキリした」
「あっそう」
「あっそうって」
「さっき言いかけたことだけど」
「ああ、何?」

怒らない?って質問に答えてやろうというんだぞ。
何、じゃないだろ。

「怒らないからお金貯めろ、ブルーノさん紹介してやるから」
「……」

す、チェコが寂しそうな顔をして、まずいことをした気分になる。
初心者にいきなり男娼はまずかったか。

「いや、冗談」
「うん」

チェコは、リオネにその道を求めている。
リオネが引き摺りこんだようなものだから、当り前かもしれないが。
このままではチェコと恋人同士のような関係になってしまうんじゃないか。チェコに限って、そんなことはない気がする。でも。

もしそんなことになったらエリックが喜ぶ。
リオネがエリックを諦めたと。
そんな場面嫌だ。泣いてしまう。

「俺は、抱くのしかできないよ?」
「だ、そんなことまで考えてねーから」

やってしまえば気が済むだろうかと提案したら一蹴された。
良かった、友人と肉体関係を結ばずに済みそうだ。
そうだろう、少し興味がある程度ではキスで満足だろう。
これでチェコの気まぐれも近々終わり、またエリックに甚振られる日々に戻る。憂鬱だ。

リオネに懐いてくるチェコ
チェコの存在は、リオネを慰める。
気が付かなかった。チェコは、リオネを癒していた。

「おまえのこと好きだな」

チェコが呟くので、

「うん……、俺も」

答える。

「あ、変な意味じゃなくて」

慌てて付け足す。

「うん」

チェコの表情からは、気持ちが窺えない。
何を考えている?

結局授業の終わりまで高庭で過ごし、教室に戻るとエリックとカルロにダダが加わっていた。そして、リオネとチェコの追いかけっこについて二人から事情を聞き、にやにやした。

「リオネはもうチェコとくっつけよ」

何を言い出すのか。エリックの前で。

「デカブツ同士、お似合いだよ……顔の位置が近くて、キスしやすいんじゃない?」

エリックもにやにやしている。泣きそう。
カルロはチェコとリオネを交互に見て、にまっと笑った。

「そういや前にさー、リオネ、チェコのことかっこいいって、やたら褒めてたよな!」
「っ」

今、ばらすなよ。今。

「そー!チェコみたいな色気があればとか……」
「いや、まぁ、……言ってたけど他意はねーし!
 何だよくっつけばって、俺が男で好きなのはエリックのみだし」

ばん、とエリックが机を叩く。

「白けた、話題変えよ」
「っ」
チェコも照れちゃって顔赤いし」

振り返ると、本当に顔の赤いチェコが居た。
ぎょっとして、カルロの肩に捕まった。

「かっこいいとか、言われ慣れてないから」

チェコが言い訳し、ダダがけっと鼻を鳴らした。

「歴代彼女は言ってくれなかったの?」

すっかり吸い辛くなった空気に参りながら、リオネは質問した。
チェコは事実もてていたし、かっこいいという言葉が似合う。
友達の欲目かもしれないが、街中で「ああ、かっこいい人だ」と思えるぐらいには雰囲気がある。

「かっこいいとか、言われたことない」
「へー」
「猫っぽいって言われる」
「ぶっ」

思わず噴出して、鼻が出た。
確かに猫っぽい、とエリックが言う。

猫っぽいチェコの、猫っぽい仕草。
手に、すりっとチェコの手が寄って来た。
心臓が跳ねて、思わず避ける。
避けたのに寄って来る。どくどくと脈が。
少し意識してしまっている。当たり前だ。
高庭でいちゃついた後だ。

手の中に、紙が入れられた。


あ。


返してもらうことを忘れていた。



0:50 2011/12/08