からめ

『夏の陰色』(正義感の強い人間+美しい妖)

 初客を取らされようとしている陰間が、戸にへばりついている。
 嫌だ、お父さんお母さん、嫌だ、嫌だよう。
 陰間の泣き叫ぶ声が耳に響き、明岐(あかき)は唇をぐっと口の中に挟み目を瞑った。今年元服したばかりの明岐の目には、客取りを嫌がる少年が友達のように映った。
 一方で、明岐の前にでんと座っている亀 長蔵(かめ ちょうぞう)という男は、陰間の悲鳴に一切動じず覚書をしげしげと眺めていた。時折、面白そうに口端を上げて明岐をちらりと見ると、傍に仕えさせている若い男に何事か耳打ちしてクツクツと笑う。何て居心地の悪い茶屋なのか。
 明岐はソワソワと胡座の足を組み直した。

 雨季に入ってから立て続けに陰間殺しが起き、芳町では、この陰間茶屋からだけ、まだ被害者が出ていない。各店、一番人気ばかりが襲われるので、茶屋同士の諍いという線を、明岐は疑っている。

 嫌だぁー、と少年のひときわ高い叫び声と共に、大人たちが戸にへばりつく少年を力づくで剥がすのに成功した。
 気がつくと軒先の雨が止んでおり、強い日差しと蝉の声があたりを覆っていた。戸に掴まる少年が見せたあの粘りに似た、長い梅雨がやっと夏に席を譲ったのだ。明岐は耳を澄まし、少年の悲鳴が廊下の奥に消えて行くのを見送った。
「あいつはまだ使えねぇな」
 ふいに、亀が口を開き、傍に居た男をゆるりと見た。
「客が可哀相だ、おまえ、代わってやれ」
「はい」
 よく見ると、亀の横に正座していた男は、小奇麗で華奢だった。
 そうか、こいつ陰間だったのかと気がついて、明岐は不躾な目を男に向けた。男は明岐の視線など気にも止めず、亀に切ない顔を向けていた。
「でも、私はもう二十年も前に卒業した身で……」
「祥(さち)、今日は予約が多くて他の奴ァ使えねぇ。おまえしか居ないんだ」
 亀が祥の言葉を遮るのと、明岐がぐっと眉間に皺を寄せるのは同時だった。二十年、とは。聞き間違いだろうか。祥と呼ばれた男は、あどけない顔つきや皺一つない目元や口元、咽喉など、まだ十代と言われても頷けるような井出達だ。男娼だから若々しく見えるとか、そういう域を超えている。二十年と、確かに言った、祥という男は今いくつなのか。
「おまえに相手して貰えるなんて、今日の客はついてるな」
「はい」
 亀にやんわりと圧力を掛けられた祥は、不満気に、じっと亀を見た。その手が亀の膝にそっと乗せられたのを見て、明岐は家に帰りたくなった。祥は悲しそうな顔で亀を睨んでいるが、亀は素知らぬ顔をして、祥と目を合わせようとしない。すると不意に、祥がポロポロと目から涙を零した。そこでやっと亀は祥の方を向き、祥の頭をそっと撫でた。
「祥……?」
 叱るようなあやすような、曖昧な声色。
「貴方は意地悪です、私が貴方に逆らえない事を知っていてっ」
 祥は、亀を愛しているようだ。
 確かに亀は押出の良い色男だが、本来、祥が愛を向けるべき対象は己の子を孕んでくれる女人だろうに。
「嫌なら俺が代わってやるぞ?」
「それはお客様が可哀想です」
 ふざけた亀の膝をパンと叩きながら祥が言うと、どっとその場に笑いが起こった。大柄で男らしい亀に相手をされては客が可哀相だと明岐も思った。
 部屋には明岐を含め、五人の男が座って居た。
 亀と祥、明らかに陰間ではない厳つい顔の壮年の男と、老人。壮年の方はこの陰間茶屋の主人で、老人は番頭、亀は仕込み屋と名乗ったが、実質この店を切り盛りしているのは亀であると、明岐は確信していた。
 老番頭と主人が、何か話をする度に一々亀に伺いを立てるためである。遜っている様子ではないが、まるで頼りにしている父に意見を確認するようだった。
 一体、この亀という男は何者なのか。
 と、そこで豆腐売りの声が外を通り過ぎ、明岐は時の経過に気がついた。
「ええい、おまえら、事件に関係のない話は後でしろ」
 冗談の飛んだ場は和んでいたが、明岐は御用の件で来訪したのである。
「ああ、そうでしたね旦那、申し訳ねぇ」
 店主の壮年男が口を開くと、フゥフゥと息を吐くように笑っていた老人もヘコリと頭を下げた。
「良ければ、お詫びに只今の売れ残り、亀を抱かせますが」
 冗談はまだ続いていたようである。老人の囁きに、亀がオイと突っ込みを入れた。改めて亀の顔を見ると、なかなかに整っている。体こそごつく男らしいが、なくはないのかもしれない。
 ふと想像して、ぞっとした。
「き、気色の悪い事を申すな!」
 慌ててその申し出を撥ね付けると、どっ、とその場にまた笑いが起こった。すっかりからかわれ、明岐は顔面に熱が溜まるのを感じた。
 不意に、赤くなった明岐の頬を、そよっと涼しいものが撫でた。
 風通しの良い土地のようだ。先程から夏のしめった室内を冷えた風がひっきり無しに裂いて行く。明岐は涼しい風に心地よさを覚え、天井を仰いだ。そしてぎょっとした。屋根裏からこちらを除く、白髪の美しい男が居た。男は明岐と目が合うと、ふっと姿を消した。追って、ずらされた天板の隙間が、すーっと音もなく閉じられた。
 あぁ、また見てしまった。と、明岐は苦々しく視線を戻した。明岐は幼少の頃より、人ならざる者を見つけやすい。
「さてねぇ明岐様、うちも陰間を扱う商売をしてるから、今度の事、他人事とは思えねぇ、しかし今日は祥のような古株まで駆り出される有り様で、もし何かありましたらすぐお知らせに上がります、それで、今日の所は」
 邪魔だから出て行け、と丁寧に言われたのだが、しかし明岐はここを動くわけには行かなかった。父の代から贔屓にしている岡っ引き、今年還暦を迎えるベテランの留吉と、隠居した父が言うには、この陰間殺しの下手人は亀なのである。亀から目を離すわけにはいかないのだ。
 さて、どうしたものかと眉間に皺を寄せた明岐の耳に、留吉の甲高くしわがれた声が蘇る。
『まちげぇねぇよ明岐の旦那、下手人はあの亀って野郎だァ、まずあの野郎の店からは死人が出てねぇし、野郎には黒い噂があるんで』
「時に亀、おまえ、神通力を使うそうだな?」
 試しに明岐は亀に揺さぶりを掛けるため、核心に迫る事柄を挙げてみた。
「あン?」
 亀に話しかけながら、留吉の言葉を反芻する。
『要は、奴が化物だって事が分かりゃ良いんです』
 陰間たちは皆、体から全て血を抜かれて死んでいたのである。
『旦那、一回しか言わねぇんでよぉく覚えておいてくださいよ、あの亀の野郎は、世にもおぞましい胸突きっつぅ技を遣うんでさ。これが、血抜きにどう関係してるかは知らねぇが、亀がそういう人間離れした技を使っている事実、これさえありゃこっちの勝ちでさァ。』
「胸突きと言ったか?骨を砕き肉を内側から捻る恐ろしい技だそうだな」
「ははァ、成程、怪談ですね、俺に似た誰かがそんな技を使って市井を騒がせているなんてなァ、怖いねぇ旦那、旦那もお気を付けくださいよ」
「亀、もう一度聞くが、おまえは……」
 質問の声を強くすると、亀と明岐の間に、老人の番頭が割って入った。明岐に対し、老人は両手をついて、深く頭を下げた。
「お役人様、お言葉ですが、うちの亀はただ喧嘩が強いだけでございます、負けた相手が誇張して言いふらしているんでしょう、そうに違いありません」
「なぁ明岐様」
 気がつくと、亀がすぐ横に立っていた。
「近頃、俺の周りを嗅ぎまわってた狗野郎に、何を言われたか知らねぇが、人の手じゃ俺を捕らえる事ぁ出来ねぇよ、俺ぁいつでも姿を消せるし好きな時に現れて商売が出来る、町役人に都合出来るレベルの坊主なんかにゃぁ手に負えねぇぐらいには歳も食ってる、悪い事ぁ言わねぇ、狗を変えな、真の下手人をとっ捕まえろ、……俺に喧嘩売って痛い目見るのはあんただぜ」
 老練な侍のような、澄んで力強い目をして、亀は明岐に、鋭い言葉の針を刺した。明岐は緊張して、唾を飲み込んだ。
「なぁ、あんたぁホントは立派な方だ、せっかく人生やってんだ、楽しんで過ごしたいだろう」
 いつの間にか、また軒先が雨に濡れていた。激しい通り雨に叩かれ、庭石がプツプツと鳴っている。見送りましょう、と有無を言わさぬ口調で言われ、明岐は嫌々腰を上げた。
 通されていた奥座敷から玄関に出る際、亀は飾り付けられたあの少年を見つけると、下げろという指示を出した。そして、脇に控えていた祥に目配せをする。祥が消えると、廊下を歩くのは亀と明岐の二人になった。店主と番頭は奥座敷に残っており、明岐を見送ったら亀もまたそこに戻り、今度の事について話し合うのだろう。
「……亀、おまえは人ではないのか?」
 玄関を出る際になってやっと、明岐は先程流してしまった事を拾った。しかし、亀が人で無かったとして、下手人であるとも思えなかった。亀は無実だ。先程のハッキリした忠告。己では無いと言い切る亀の目は、嘘を言っている者の目ではなかった。
「どうしてそう思いますんで?」
「先程、おまえが自分で言っていただろう」
「旦那には、隠していてもわかってしまうでしょう」
「何?」
『亀』
 そこでふいに、足元から声がして、見ると玄関の滑らかな踏み石がガラスのように透けて、その中にあの白髪の男が居た。男が水から上がるように、にゅっと踏み石から出ると、明岐はどっと全身に汗を掻いた。
「何だおまえは?!」
『ツル』
「鶴?」
『鶴種のツルだ、鶴と呼べ』
「おぉ、鶴、良い所に」
 異形の登場だというのに、亀は涼しい顔で鶴に声を掛けた。
『何が良い所だ、紹介しねぇで帰す気だったろう』
「そんな事ねぇよ、今紹介しようとしてたろう?」
 亀はどうやら、誰に対しても飄々としている男らしい。鶴はチッと舌打ちをしてから、明岐に向き直った。
『赤ノ旦那』
 明岐の真ん前に立った鶴は、はっと息をのむ程美しかった。こういう奴が相手なら、男も良いかもしれない、などとぼんやり考え始めた明岐に、鶴はさらに顔を寄せた。
『あんたに頼みがある』
「……頼み?」
 茶屋の裏口玄関は日陰で、真夏にも関わらず鳥肌が立つ程冷えている。隣接する長屋には人気がない。
『うちのガキが死にかけてるんだ、助けて欲しい』
 しっとりして柔らかそうな頬や、滑らかな額の曲線、ふわりと赤く膨らんだ唇がこちらの欲を掻き立てるような顔立ちをしている。白い睫毛は一本一本がすぅっと横に倒れていて、端で揃い目尻を長くしていた。
 明岐は鶴に知られぬよう、口の中に溜まった唾をこくりと飲んだ。見ていると、妙な気分になって来る。滑らかな肌は、首や胸元、着物の裾から覗く小さく形の良い手の甲など全て、輝くように白い。きっと手を触れてみたら絹のような、うっとりする感触なのだろう。まるで、細かく丁寧な職人仕事によって作られた人形が、目の前で動く不思議さである。
『俺だってせっかくお休み中の旦那に申し訳ねぇ気持ちはあるんだ、けど、青ノ旦那に勝てるのは、赤ノ旦那だけだ』
 ふいに、青という単語のみが明岐の胸に響いた。そして、何故だろう、二度とその言葉を聞きたくないと思う。
「おい、明岐様……、見惚れてねぇで、話をちゃんと聞いてやれ」
 どうやら、ぼぅっとなっていたらしい、亀にツンツンと腕をつつかれ、明岐はビクンと全身で震えた。目の前の鶴はきょとんとし、瞬きを繰り返した。しかし、数秒経つと怪訝な顔をし、厳しい声を出した。
『旦那、俺の話聞いてなかったのかィ?』
 くいっと頭を傾げる、その動作がまた愛らしく、明岐は鶴から目を逸した。
「いや、そんな事は!聞いていた!!つまり、子どもが死にかけているんだな?!良ければ、知り合いの医者を紹介するが・・・」
 記憶を遡って、どうにか言葉をつくる。
『けっ、人の医者なんかに見せて、妖が治るかィ』
 的外れな明岐の提案に、鶴は呆れた声を上げると、すいっと腕を上げ、二の腕の裏をチラ見せして、明岐の額にデコピンをした。
「うぐっ?!」
 思わず悲鳴を上げると、亀がクツクツと鼻に掛かった笑い声を上げた。
『こっちァ急を要してるンだよ、旦那、ちゃんと聞け!』
「な、何もデコを弾かんでも!痛いではないか!」
『俺の話、ちゃんと聞くか?』
 見るとデコピンの第二陣が控えている。
「あァ、その、すまなかった」
『いいかィ旦那、俺はチトリって妖怪を探してる、そいつがもしかすると、うちのガキを治してくれるかもしれねぇ』
『妖を治す妖が居るのか』
『治すっていうか、方法論だけど……』
「む?!」
『チトリは人や妖を、己の同種にする力を持つんだ、うちの死に掛けのガキは、死霊の魂を吸収する妖で、その性質ゆえに死に掛けてる、だからチトリに、うちのガキを同種に引き込んで貰って、妖としての性質を根本から覆す。そしたら、ガキは元気になれるんじゃねぇかって』
「果たしてそう上手く行くかねぇ」
 亀が横から茶々を入れ、明岐もそのように思ったが、鶴はそれをわかった上で可能性に縋っているようだった。鶴の瞳には決意の色が伺えた。
「それで、俺は何をすれば良いのだ?」
 明岐が先を促すと、鶴は明岐にぐっとまた近寄った。
『旦那には、そのチトリって奴を殺そうとしている青鬼って鬼の大将に、チトリを見逃すよう説いて欲しいんだ』
「青っ……?!何だと?!」
『どうやらチトリは、青ノ旦那に断りなく、青ノ旦那が気に入っていた女怪を同種にしてしまったらしい』
「……」
『しかも、その女怪を孕ませたとかで、青ノ旦那は大層お怒りで……、この辺りじゃ、青ノ旦那に意見出来るのはあんたぐれぇなんだ』
 何やらおかしな色恋沙汰が、妖世界にもあるようだ。明岐は感心し溜息をついたが、先程から胸が苦しく息がしづらい。
 鶴の頼みを聞いてやりたいのは山々だが、明岐には色にまつわる、奇怪な持病があった。青、という単語が出る度、目眩がして頬が強張り、体中がみしみしと痛くなる。明岐は幼少の頃より、青と名の付くもの、また青色自体が全て恐ろしく、嫌で仕方がないという性質を持っていた。青い着物でさえ、見かけると腹がむかむかして胸がつまり息苦しくなるのに、青い鬼など前にしたら卒倒してしまうだろう。
「悪いが、俺は坊主でも神主でもない、無理な頼みだ」
『そこを何とか!』
 鶴はすとんと膝を地べたに付き、両手を前に置いた。
「おい、よせ!」
『この通りだ、旦那、……ガキの命が掛かってんだ』
 髷の無い、垂れ流しの白い髪を地面に付けて、鶴は土下座していた。
「すまん、すまんが、俺には出来ん、顔を上げてくれ、すまん」
 このような全身全霊を掛けた頼みごとをされたのが初めてである明岐は、狼狽して自分もまた膝をついて、鶴の前に頭を下げた。
「青は無理だ、青は無理なんだ、わかってくれ」
『頼む』
「駄目だ!」
 思わず怒鳴っていて、明岐自身驚いた。
 鶴はそこでやっと顔を上げると、真っ直ぐ明岐を見た。鶴の望みを叶えてやりたい。気持ちはあるが、心が萎縮していた。青いものを、見ただけで具合が悪くなる明岐が、果たして青い鬼などを前にして役立つかどうか。
 鶴はぎゅぅっと唇を噛んで、額に汗を浮かべた。
『どうしてだっ……』
 鶴の呻きに、明岐は胸が痛んだ。
 すると、クツクツと亀の笑い声が響き、がっと頭を掴まれる。
「こりゃ良い、この方ァ随分真剣に人生をお楽しみ中だぜ?鶴ゥ!……目ぇ覚ました時には恨み事の一つ二つ、言ってやらなァな」
 笑っているが、呆れている。亀は鶴の側に立って、明岐に苛だっているようだった。
「すまん」
 明岐がまた謝りを口にすると、亀は明岐の頭から手を離した。明岐はそこでやっと我に帰り、体に不快を覚えた。膝をついた地面から、着物を伝って、ヌメった水が沁みてきている。
 鶴の着物も腿の方まで黒く汚れて湿っていた。
『……陰間でもやるか』
 はぁと溜息をついて、鶴が呟くと亀が舌打った。
「何言ってやがる」
『羽根で作った布団も効かねぇし、お百度参りも駄目だった』
 鶴は思いつめた、泣きそうな様子で言葉を続けた。
氏神には最初、こっちを勧められたんだ、俺には向いてるって』
「向いてるもんか」
 亀が唸ると、鶴は笑った。
『おまえに仕込んで貰えるなら、嫌なく覚えられるだろう』
「俺はごめんだぞ」
『どうしてだ?』
「もし、おまえを好いちまったらどうする?
 俺は……二百年来の友を失う事になるだろうが」
『は、俺達に限ってそんな事にはならない』
「わかんねぇだろう、……俺は危険は犯さない」
『亀……』
「駄目だ」
『頼む』
「駄目だ!」
 怒鳴った亀に気圧されて、鶴が黙ると、その場にジーッと蝉の声が割り込んだ。
 ジジジジジジ、ジクジクジクジクと鳴き始めた蝉に感謝。
「李帝の事は諦めろ、そういう運命だったんだろ、大陸じゃどんぐらい偉かったのか知ンねぇが、倭に来てそんな弱っちまうような妖怪は、大妖怪とは言えねぇよ」
 蝉に負けぬ音量、亀の語調は強かった。鶴は何も言い返せず、悲しそうに下を向いたまま。その鶴の、両肩を落とした無念そうな様子を、明岐は数日忘れられなかった。

 さて、明岐が鶴の頼みを無下に断ってから十日後、また陰間が全身の血を抜き取られて死んだ。
 父親と留吉が、早く下手人である亀を捕えなければ、といきり立ち、また明岐を亀の元に向かわせた。陰間茶屋の多くある町は、亀の店がある芳町をはじめ、葺屋町、芝神明と数箇所あるのだが、被害は芳町に集中している。このことからも、下手人は芳町の者であろうと推定された。
 空の晴れた雨降りの、不気味な午後の天気を窓から眺め、明岐はまた亀の居る陰間茶屋の奥座敷に座って居た。そして先客、鶴との間に気まずい沈黙を覚えていた。
「時に……あれから子どもの容態はどうなった?」
『てめぇにゃ関係ねぇだろ』
 鶴は胡座の膝に肘を立てて、姿勢悪く寛いでいた。室内で少し距離を置いて見ると、鶴は痩せぎすでみっともない体つきをしていた。しかし、顔は相変わらず異常に美しい。この鶴の頼みを、どうやったら明岐は叶えてやれるのだろう。死ぬ気でやってみるという手もある。どうなるかはわからんが、明岐の精一杯を示してやって慰める。何かしら力になってやる事が重要なのではないか。
「関係なくはない、あれから気になって夜も眠れん」
 正直な気持ちをぶつけたのだが、鶴は明岐の心を鼻で笑い聞き流した。
 暫くして、祥がしずしずと部屋に入って来た。
『おっ、何だ、亀は留守か?』
 祥一人が現れた事で、鶴がすぐに事情を察し質問を投げたので、祥は言い出し辛い事を言わずに済んだ、という微笑みを浮かべ頷いた。
 祥の後ろから老番頭も顔を覗かせ、あの方は、と祥に聞いた。恐らく老人には鶴が見えないのだろう。祥が鶴の方を手の平で指すと、老人は感慨深い顔をして頷き、実際に鶴が居る位置より少し上に向かい、深々と頭を下げた。
「では、亀はどこに出掛けたのだ?」
 今度は明岐の質問である。老人は明岐にもまた頭を下げると、祥を見た。
「すみません、今日は全部で三店舗廻る予定でして」
「三店舗? この店には、三店舗も姉妹店があるのか?」
「いいえ、別のお店です。あの人は腕が良いですからね、別の店の陰間についても、仕込みの仕事を頼まれる事が多くて。……多忙なのです」
 どこか投げやりな、突き放したような顔をして、祥は亀の事情を明岐に紹介した。一方で老人は鶴の位置に憧れの目を向けたまま惚けていた。過去に何かあったのだろうか。鶴という妖と、この店は一体どのような関係を持っているのか。亀と鶴はとても親しげで、長い付き合いのような雰囲気だったが。
『チッ、良いご身分だなァ。まだ日の高ぇ、こんな時分からよ』
 しかし鶴が、外見を裏切る下卑た発言をすると、明岐の心に宿った鶴への興味はぐんと萎んだ。
「仕方がない、出直そう」
 呟いて、明岐はすっくと立ち上がった。ずんずんと音を立てて廊下を進み、店を出た。
 恐らく、下手人は亀ではない。しかし頼りの父親と留吉は亀と決め付けているし、この二人に意見する程、明岐は己の直感に自信が無い。
 亀の他に怪しい者を見つけるにしても、まだ若く経験の浅い明岐には、留吉の他に頼れる岡引への伝手がない。同心仲間は殆どが父親と同年代で、明岐よりは父親と親しみがあり、相談相手に適さない。
『なぁ、あんた』
「うぉっ?!」
 気がつかなかったが、いつの間にか隣を鶴が歩いていた。
『さっきの話、本当か?』
「さっきの話?」
『俺に同情して、夜も眠れねぇって』
 むくれた顰め面の、瞳に期待の光を少し宿らせ、上目遣いに明岐を覗き込む鶴に、明岐はまた妙な胸の騒ぎを覚えた。
「本当だが、だからと言って俺がおまえの役に立つかどうかは別問題だぞ」
『チッ、思わせぶりな』
 不貞腐れた声色で毒づいて、鶴はそのまま明岐の後を付いて来た。明岐の家まで明岐を見送るとすぅっと消えてしまった。

 それからの朝、定廻りだが、非番の時は好きな場所に行ける明岐は今日、事件の起こった道々を巡ろうと考えて家を出た。すると、鶴がするりと物陰から現れた。
 鶴の姿を見た途端、ふわりとしたものが胸を包んだ。
「鶴……」
『お供するぜ、大将』
 名を呼ぶと、鶴はニヤリと笑って首を傾げた。

 この間の事件で、殺された陰間は四人にのぼる。その殺され方が薄気味悪い事からも、市井の人々から事件は注目を集めていた。
『妙だな』
 一人目の陰間が殺された道で鶴が呟いた。
「何が妙なんだ」
『確か、この道で殺された陰間ってのは、この道に入る直前に、竿売りに目撃されてたんだよな?』
「あぁ」
『この道ァ、夕暮れ……、あっちから来る豆腐売りと、こっちから来る竿売りが交わうから、下手人ももちろん目撃されてなきゃ可笑しい』
「んん?」
 その道は確かに、白塀が続く商人の大屋敷と大屋敷に挟まれて一本道で、そのあっちとこっちからそれぞれ物売りがやって来る。言われてみれば、この一件目の事件前後に下手人の目撃情報がないのは妙だ。
『殺された陰間の方は竿売りが見てたんだろ?』
「ああ……」
『じゃぁ、豆腐売りと竿売りが練り歩く時間帯で間違ぇねぇわけだ、だのに……』
「この日だけ、豆腐売りが休みだったという事は?」
『確かめたか?』
「いや」
『愚図が』
「……」
 可哀想に、育ちが良くなかったのだろう、鶴はその見掛けに反してとても口が悪い。
 もし明岐家に嫁入りとなったら、厳しい躾が待っているだろう。
 と、ここまで心配をしてから、明岐は慌ててその思考を止めた。
 一体、何の心配をしているのか。そもそも鶴は男で、その上妖なのだ。
『……こりゃぁ、人の手じゃ解決出来ねぇわなぁ』
 悶々する明岐を気にも止めず、鶴は呟いて、それから挑戦的な目で、ちらりと明岐を見た。
『うちのガキのために、あんたがひと働きしてくれるってんなら、俺もあんたの力になるんだが?』
「ぐっ……」
 個人的な頼まれ事ならば、断る余地があるのだが、お勤めに関わる事を握られてしまうと、明岐も役人の端くれである。強烈な迷いが生じた。父親や留吉に言われるがまま、自分は違うと思っている男を、下手人として捕らえるのと、青いものに立ち向かうなら、どちらの道を選ぶべきか。答えはもう出ている。あのがっかりした鶴の顔を、もう見たくないという気持ちもあった。明岐は一つ、頼むという言葉を吐き、覚悟を決めたのだった。
 
 それからたった三日後、下手人がわかったという鶴の知らせが、山神と名乗る喋るメジロによって届けられた。明岐は丁度、午後の鍛錬を終えて湯浴みを済ませ、着流しで縁側に寝そべっている所だった。明岐は家のものに友人宅に行くと告げ、山神の案内に応じた。
 それは一瞬の出来事であった。
 こちらにおいでください、と山神が言うので、とある芝居小屋の裏井戸に近づいた。山神はするりと井戸の中に入り、こちらにおいでください、とまた繰り返した。明岐が井戸を覗き込むと、いきなりにゅっと井戸から白い手が出て来て、明岐を井戸の中に引き摺り込んだ。

 気がついたら、江戸の街並から遠く離れた山の頂き近く、竹林の中にある小屋の前に居た。メジロは小屋の屋根にとまると、お客人、参りましたよ、と鳴いた。緑がかった今にも腐って潰れそうな小屋には朝顔の蔓が盛大に巻きついている。
『おぅ、来たか赤ノ旦那』
 戸口から出て来るかと思ったら、鶴は小屋の裏側から顔を出した。綺麗な白い顔に泥がついていて、何とも淫靡である。何をしていたのかと覗き込むと、小さな畑が見えた。
『丁度きゅうりが食べ頃だ、粥もあっためてあるぞ』
 軒先に置いてある駕籠に数本、貧相なきゅうりが積まれていた。
 鶴は明岐を夕餉に誘うつもりのようだ。
「土産が何も無いのだが」
『いやいや、あんたは良いもんをくれたよ』
 こん、と頭に何か小さくて硬い玉が当たり、上を見ると、メジロが口からポコンポコンと玉を吐き出している所だった。
『この人は随分、良い肝を出しますね』
『この間、俺が驚かしてやった時も上玉をゴロゴロ馳走してくれたぜ』
 聞くと、人は驚いたり恐怖したりすると、肝と呼ばれる玉を撒き散らすのだという。妖が人を驚かすのは、この、人の出す肝を喰らうためで、明岐もまた最初に鶴と出会った時、先程井戸に引き摺り込まれた時、大量に肝を出したそうだ。
「しかし、もう下手人がわかったとは。おまえ、本当なら今すぐ俺の岡引として雇いたい程の腕前だぞ」
『ふん、倭の人間風情が生意気な。俺は大陸じゃ李国の大妖、李帝直属、情報役だったんだからな』
「ほぉ……、これはまた、おまえは倭の外を知っておるのか」
『ああ』
「妖は長く生きるというからな、もしや俺よりも年上か?」
『年上も年上、俺ぁ今年で五百を越えるぞ』
 ふ、と思わず息を漏らし、明岐は大きく笑い声を上げた。何が可笑しい! と怒鳴る鶴に、明岐自身も何が可笑しいのかわからなかった。
 小屋の中はたった六間だけで終っており、隅に小さな布団が出しっぱなしになっている。鶴は切ったきゅうりと、粥と芋汁を明岐に振舞った。芋汁は少し苦かったが、塩の効いたきゅうりと粥が美味かった。
 明岐にはしっかりした飯を出しておいて、自分はきゅうりに、先程の玉をすりつぶした粉と塩を掛けてかぶりつくだけの鶴を、明岐は心配した。
 ちゃんと食えて居ないのではないか。心なしか、鶴の体はこの間よりさらに骨ばり頬も落ちて、やつれたように見える。
 妖は肝を食すが、肝が少量しかない時は、肝を潰した粉を掛けて人の食す食べ物も喰い、腹の足しにするという。粉にする肝もなければ、人の食すような、ただの食べ物をそのまま食うとも。しかし、ただの食べ物しか食べないで居ると、妖はすぐに消えてしまうという。そんな話をされた後で、肝の粉を掛けて人の飯を食う姿を見せられると、心配になってしまう。
 鶴が、畑で野菜を育てて居るという事実。妖の主食が肝であるのならば、野菜など育てる必要はない。鶴は妖の中では大分、悲しい暮らしをしているのではないか。
 もし鶴がひもじければ、明岐はいくらでも驚き、鶴に肝を分けてやるのだが。
『ところで』
「んん?」
『今回の件な』
「あ、ああ」
 鶴の生活が気になって、すっかり本題を忘れていた。
『下手人は亀んとこの、祥だ』
「さ、ち……? とは、あの……?」
『ああ』
「……」
『まったく、あんたぁ俺の頼みを断って正解だったよ。祥は俺が頼ろうとしてたチトリと協力して殺しを重ねてた。チトリってのはチトリ種の事を言うもんで、個体の名前じゃねぇんだが、引き続きチトリの事はチトリと呼ぶ。ああ、チトリ本体は昨晩、青ノ旦那に殺された。残念だが骸はない、妖は何か殻や皮を被ってる場合を除き、死ぬと霧散するもんなんだ』
「なっ?!……」
 それでは下手人の一人は消えてしまった事になるのではないか、と明岐は焦った。これでもし祥まで消えていたら、明岐は亀を捕えねばならなくなる。
「聞いてないぞ!!」
 身を乗り出して怒鳴ると、鶴は苦笑い、まぁまぁと手を上げた。
『焦るなよ、大将、……話は最後まで聞け。……チトリは今回、芳町に来てから、二匹の妖を同種に仕立てた。一匹はこの度、青ノ旦那がチトリを殺す原因になった美しい女怪、もう一匹は祥、祥は貉種だったんだが、今はチトリ種になって姿を眩ませてる。この貉種ってのは化けるのが得意で、人の皮も自ら手作り出来る種族だ。あぁ、妖は普通、長く人の世に紛れる時は人の皮ってのを被って人前に出るんだ。ちなみに、この皮は透明なのと、既に顔形が書いてあるものがある』
「ん? ……んん?!!」
 聞きなれない単語に、明岐は咽喉を詰まらせたような声を上げた。鶴はそんな明岐の反応に、ぷっと噴き出すと説明を補足した。
『亀や祥は万人に姿が見えるけど、俺はあんたみたいに霊感の強いもんにしか見えねぇ、……妖が万人に見えるためには、妖力を消費して姿を現すか、人の皮を被るかなんだ』
「……ふ、ふむ」
『チトリは祥の作った祥の姿に化けられる人の皮を被って、祥に成りすまし、青ノ旦那の追跡を逃れてた。同時に、祥はチトリが自分に成り代わっている間に自分の憎い相手の血を抜く殺しを続けた。
 こっからまた、あんたが混乱するような話をするが、妖の世界は地下深くまであってな、地下四層にまで行くと、人の世の事情なんか誰一人知らない。地下四層の妖は、一度も地上に出ず死ぬようなのばかりだからだ。したがって、おや? あんたは芳町で有名なあの陰間茶屋の祥さんじゃないか? なんて声を掛けて来る奴が、四層にはいない。祥はだから、地下に身を潜めながら、時々地上に来て殺しを行った』
「もしかしておまえ、その四層という場所まで、行ったのか?」
『ああ、大分骨が折れたぞ』
「……それは、……苦労を掛けた」
『チッ、それなのに鬼李を治す手立ては結局閉じられてよ』
 尤もな不満を口にした鶴に、明岐はとても申し訳なくなった。鶴が明岐に求めていた、青い鬼の説得は、結局要らぬ事になったのだ。それなのに、鶴は引き受けた仕事を投げ出さず、こなしてくれたのである。この鶴という妖は、どうやら非常に忠義者らしい。
 今度、何か美味いものでも食わせてやろうと心に決めながら、明岐は鶴に話の先を促した。
『まず、チトリ種ってのは、生き物の血を吸うことで、妖が肝を吸収するのと同じ効果を得られる妖だ。血を抜き取られて死んでいた陰間達は、間違いなくチトリ種の手に掛かっている。
 加えて、体が安定する迄、作られたチトリ種は作ったチトリ種に逆らえない。祥は陰間達を殺して奪った血を、チトリに分けに通っていたようだ。
 チトリはその血で、孕ませた女と女の腹の子を養おうとしてた。祥はつまり、チトリに利用されていたのさ。
 しかしチトリ種ってのは普通、少しずつ血を吸って終わりにするみたいでな。
 今回も、チトリは祥に大量の血を持って来るよう求めたが、相手を殺して来いとまでは言ってない。
 こりゃぁ俺の推測だが……、祥は、むしろ殺した陰間達の事を己の意思で前々から殺したいと思ってて、殺したんじゃねぇかな』
「どういう事だ?」
『……殺された陰間達は皆、亀の仕込んだ奴で、亀に一度でも愛され、胸に痛みを覚えた事のある奴だった』
 そこまで言ってから、鶴はきゅうりを齧った。きゅうりの折れるぱきんという音が部屋に響き、部屋の隅に敷きっぱなしであったふとんがもそりと動いた。
 どうやら明岐に姿は見えないが、そこにも何かが居るらしい。
「胸に、痛み?」
 湧いた疑問を口にすると、鶴は顔を顰め、齧りかけのきゅうりを皿に置いた。それから口元に手を添え、明岐に顔を近づけると、声を落とした。
『亀は生き物の命を奪う妖だ、普通に奪う時は、奪う相手やどれぐらい奪うかをコントロール出来る。だが、愛した相手については、理性が効かなくなるとかで、そのコントロールが出来なくなるそうだ。だから、亀に愛されたもんは必ず胸に、命を吸われる痛みを覚えるという。亀の愛が強いとそのまま吸い殺されちまう』
「……それは難儀な」
『あぁ、……しかし祥はそれでも、亀に愛されたかったんだろうな』
「だから、亀に愛される痛みを覚えた事のある陰間達を殺した?」
『陰間の悋気ってのぁ恐ろしいな』
「男と男で、何が悋気だ」
『はっはっは、そうだな、男と男は人の世じゃぁ、あんまりメジャーじゃないらしいからなぁ、まったくあんた人らしいな、……けど俺もなぁ、随分、祥には睨まれたもんだぞ、この通り見てくれは良い方だ、それで亀と仲良しとあっちゃなぁ……? それが、こないだ現れた祥はやたら愛想の良い優しい奴だった。あれを見て、俺はおやっと思ったね。この祥は本当の祥なのか』
「……ふむ」
『怖ぇぞぉ、この話、聞いた時にぞっとしたんだが……、祥は一人目を殺ったその日、四層に作った仮の住処に、酒屋で出会った見ず知らずの男を招いてもてなし、今日は祝いの日なんだと言って、陰間奉仕までしてやったそうだ。戦場でもねぇとこで殺しをやった後、そんだけ良い気分になれるなんてよ、完全に頭可笑しいだろ』
 そこまで言ってから、鶴は明岐から離れると、もそもそと膝を立て、そこに額を付けて黙った。
 明岐はついに嫌な気分になって箸を止めた。鶴も皿に置いたきゅうりに、もう手を伸ばそうとしなかった。
『そんでよ、青ノ旦那がチトリを捕らえた経緯だが……。
 一昨日の晩の事になる。祥は四層と地上を行ったり来たりする事で、妖力を使い過ぎてボロボロだった。そんな祥を見て、こいつはもう長くないと思ったんだな。だから、チトリは祥を見捨て、この土地を逃げ出そうと考えた。それで、祥の作った祥の姿を模した皮を脱いだ』
「な、……地下と地上の行き来というのは、そんなに体力を使うのか?」
『あぁ、大妖怪ならいざ知らず、四層の妖怪なら、地上に辿り着く前に死ぬ事だってある。だから普通はあまり、己の生まれた層を移動したりしない』
「……」
『まず、一人目がやられた現場で、下手人の姿を見ている人の目がなかった。それで、妖にまで聞き込みの範囲を広げたんだが、そしたら妖の目にも、下手人は映っていなかった。俺は、下手人が地下に潜った線を疑った』
「そんな発想は人からは出んな」
『……それで一層・二層と、あの場所の地下は湖だった。三層になると集落があったが、そこは河童種が集まった場所で、それ以外の種が来たらかなり目立つ。にも関わらず、目撃情報がなかったんで、四層まで行った』
「おまえ、まさか……、それでこんなやつれたのか?!」
『これは元からだ、鬼李に掛かり切って、肝取りする余裕がなくってな。まぁ、地層の移動についてはそう案じずとも、……俺は一応五百超えしてるから、大妖怪の域に入る。少し疲れるが死ぬ程の仕事じゃねぇ』
「……しかし、すまなかったなぁ本当に……、無理をさせて」
『だから別に無理じゃねぇ、俺ぁ、五百超えの……』
『五百を超えても鶴種じゃ辛かろう、そう妖質の良い種族ではないだろうに、何て忠義者なのか、愛い奴め』
『あ?!』
 咽喉奥から、低く野太い声が出て、明岐が驚くと、鶴もまた驚いた顔をして、明岐の事を見た。
『今?!』
「知らん、俺じゃない、俺じゃないぞ?!」
『鶴種の妖質が何つった? てめぇ?』
「だから俺じゃない!」
『おまえ以外に誰が居るんだよ?!』
 ぐいっと明岐の胸ぐらを掴み、挑んで来た鶴の肩を掴み、落ち着かせようとその肩を撫でる。やたらと細く頼りなくて、包んでやりたい衝動に襲われたが、ぐっと我慢して鶴を引き剥がした。
「ところでだ、鶴、今は姿をくらましてるという、祥の行方は検討つかんのか?
 俺は至急、祥を捕らえねばならん!」
 鶴の心を宥めるよう、はっきりした声で言うと、鶴はやっと明岐の胸ぐらから手を離した。
『多分、こっちに向かってる』
「何?!」
『おまえの罪を、亀にぶちまけてやると言ってある、……いや、まぁ、既にぶちまけてあるんだが、口封じか報復か、必ず俺のとこに来るはずだ。あいつは今、俺が憎くてしょうがねぇと思う』
「また無茶な! ……危険ではないか、そのような事をして!」
『亀の奴も一緒に呼んであるから、心配ねぇだろう』
「あの男、強いのか?」
『ああ、それに、あんたもいるしな』
「俺?」
 その時である、ひたりと何か小さな手が、明岐の耳を掴んだ。
「ぎゃっ?!!」
 明岐は大きな悲鳴を上げて飛び上がると、あたりを見たが、誰も居ない。
「何だ?! 何か、今、小さな手が耳に?!」
『……、鬼李か? ……起きたのか?どうした?どこに居る?』
 明岐の反応と、部屋の隅の布団が、誰か起き上がったようにぺろりと捲れているのを見て、推測した鶴が手探りに空を掻くと、明岐もまた目を凝らしてあたりを見た。しかし、やはり誰も居ない。
『今は透明で俺にも見えねぇが、恐らく今あんたの耳を掴んだのは鬼李だ、うちの可愛い悪ガキさ』
 ふいに後ろでペタペタと何か歩く音が聞こえ、振り返るとベシッと額を叩かれる。一体、明岐が何をしたというのか。こうも悪戯をされては、腹のうちがむかむかする。姿がない分、憎さが増す。
 鶴は先程から明岐の方を見もせずに、暗闇で物を探す人のように、腕を伸ばしてぱしぱしと空を掻いている。それからやっと、何かをぐるりと腕で閉じ込め己の膝に座らせた。
『起きたなら言え、今日は調子良いのか?』
 鶴の問いに、鶴の腕の中に居るらしい目に見えぬ子どもは何かぽそぽそと小声で発した。
『あぁ、この鬼ノ旦那? 大丈夫だ、今は人をやってて俺を取って食ったりはしねぇ、ありがとなぁ、その気持ちだけで嬉しいから、ほら、動くと体が辛いだろ? 休んでろ』
「鬼?」
『んー、そうだな、さっき自分でうっかり目ぇ覚ましてたし、俺の事恨まないで聞いてくれるんなら教えるが』
「恨むも恨まないも、意味がわからん」
『あぁ、まぁ、遠まわしに言うとだな。あんたは今、妖で居る事をお休みしてるんだよ』
「どういう事だ?」
『さっき教えた人の皮、あるだろ、あれを被って、あんたは人のふりをして生きてるんだ』
「何を言う、俺は、人から生まれた歴とした人だぞ」
『んー、まぁ、そう思わないと休みの意味がねぇし、それで良いと思うぜ』
 明岐の重大な秘密を、まるで天気の話のように口にしながら、鶴はくしゃくしゃと、透明な子どもの頭を掻いた。すると子どもは鶴の膝を離れたらしく、鶴の腕がそっと子どもを手放した。
『あいつもさ、あんな弱々しい透明なガキなんかになる前は、そりゃぁ立派な大妖怪だったんだが、倭に来てからは弱っちまって、あのガキにも、もう大妖怪であった頃の記憶がねぇ、あんたの気ままな人休みと違って、あいつの場合は生死の堺を彷徨ってる』
 鶴が悲愴な顔をして呟くと同時に、天井から、来客ですよという山神の声が聞こえた。
 鶴が席を立つのと、戸口にふらりと祥が姿を見せたのは同時だった。
 ゲッソリと痩せて、頬が落ち、所々抜けて薄くなった髪を振り乱し、両腕を何かに捕まろうとするかのように前に出しており、腕には無数、獣の毛が生えていた。
『もう姿を人形に保つのさえ、侭為らぬらしい』
 山神の呆れたような憐れむような声が、天井から響く。
『ひでぇ有様だ、どうしてこんなんなっちまった?』
『亀さんが愛してあげないからですよ』
 少し毒のある声色で、天井の山神が答えを出すと、鶴はふぅと息を吐いて、明岐の背後に蹴りを入れた。
「な?!」
 どうやら、祥は素早く動いて、明岐の背後に回っていたらしい。
『旦那は下がっててくれ、邪魔だ』
「おい?!」
 祥はとても素早く移動しているらしく、明岐の目には追えない。しかし鶴はスタスタと歩いて、また宙を蹴る。それから、ぐいっと腕と体を使って、しゃかしゃかと動くそれを押さえつけた。
『山神、亀だ、亀を呼んで来い』
『もう来てますよ』
 言葉の通り、小屋の戸口には押出の良い色男、亀が不機嫌な顔で立って居た。
「祥!」
 亀が呼ぶと、鶴の体の下で暴れていたものはぴたりと動きを止めて、祥になった。
「どうしてここに・・・?」
 亀の姿を見つけると、祥は目からボロボロと涙を溢した。
「俺がおまえだけは好きにならんと決めたのは、おまえの事を、長く傍に置きたいと思ったからだった。
 どうしてわかってくれなかった? おまえを可愛く思ってた。おまえがはじめて俺のとこに来たのは、たった三つの時だろう? 俺はおまえを育てながら、幸せになれと思った。だから、俺はおまえを好きにならんと決めて、……仕込みだって他の奴に任せた。好きになってはならんと思って!」
 亀は苛立った声で一気に捲し立てると、ぎゅっと眉間に皺を寄せた。
「どうしてこんな事になった?」
 亀の声は今にも崩れそうに、震えていた。
「貴方が私を愛してくれないから」
 祥の声もまた、掠れて痛々しい。
「俺はおまえが実の子のように愛しかったんだ」
「実の子! ああ! 私は貴方に親の愛など求めていませんでした。真の愛を受け取りたかった。殺される程、愛されたかった」
「俺は殺したくなかった!」
 亀が怒鳴り声を上げると、鶴の古い小屋に音が響き、天井から埃がパラパラと落ちた。
「チトリになれば、私は、貴方に命を吸われても生き延びられるようになります。チトリは、命を吸われても吸い返す事が出来る。貴方は私を殺す心配さえ無くなれば、私を愛する! 私がチトリになれば、貴方は安心して私を愛してくれる」
『ちょっと待て』
 ふいに、鶴が会話に割り込んだ。骸骨のような祥を、体術で捩じ伏せて押さえつけている鶴もまた痩せぎすで、組み合った二人の姿はどこか痛々しい。
『祥、おまえなぁ、亀がいつおまえにチトリになってくれって頼んだ? ……俺は亀の友で、おまえより亀の方が大切だから言っておくが、今回の件は、おまえが勝手に突っ走って、勝手に四人殺したんだ。亀や亀の性質のせいにすんじゃねぇ、自分の間違いだって言え、亀が誤解して責任感じちまったらどうすんだ?』
 追い込まれた人間に容赦のない事を、と感じた明岐と同様に亀もまた少し顔を顰めた。祥は鶴からの厳しい言葉に一度金切り声を上げると、グングンと身を振って悔しがった。
「いいえ、いいえ、事実、亀さんのせいです、あの人が私を愛してくれなかったから!」
 祥の怒鳴り声に、また小屋の天井から、埃がパラパラ落ちる。
 鶴はあまり、掃除が得意ではないのだろうか。
 今度、中間を呼んで掃除させてやろうか。小屋が綺麗になったら、鶴は喜んでくれるだろうか。ぼんやりと頭で、そんな事を考えていた明岐の目に、見逃せない動きが飛び込んで来た。
 暴れる祥を抑えるのに気を取られている鶴の足に、祥が噛み付こうとしている。
「おい、鶴!」
 亀の声が、鶴に危険を知らせたのと同時、明岐の方は素早く十手を抜き、鶴と祥の間に入ろうと動いていた。しかし遅かった。ぐ、という鶴の悲鳴が上がると同時、祥の口は鶴の足に噛み付いていて、がっちりと歯を立てて離れなくなっていた。
「祥、もうやめろ」
 亀の叫びを聞いても、祥の顎はぴくりとも緩まない。亀と明岐、大の男が二人して祥の顎を鶴の足から離そうと試みたが、しかし祥の顎は異様な力で鶴の足に噛み付いている。
『糞、油断した!』
 力なく呟いた鶴の顔は真っ青だ。祥が容赦なくズルズルと醜い音を立て、鶴から命を奪って行く。骸骨のようであった祥の姿が、みるみるとあの若々しく美しい若者に戻って行く。一方で鶴の方は、手や首、胸元の色が異様にま白くなったかと思うと表面を産毛のようなものが多い始めた。頬が痩けてげっそりし額に赤い痣のようなものが浮き上がり、まるで頭から血が滲み出しているような様子だ。
『無念だ、ここまでか』
「おい鶴、諦めるな!」
 亀が励ますと、鶴は力なく笑みを浮かべた。
『俺だって悔しいが……、こうなってしまってはどうしようもないだろ? 見ろ、手足が弱って動物化している。恨めしいぜ……まだ鬼李は病気をしてるってのに、死んでも死にきれねぇ、心残りだ。……この気持ち、わかってくれるなら、頼むよ亀、鬼ノ旦那、鬼李を俺の変わりに治してやってくれ』
「おい鶴、よせ、そんな弱気になるんじゃない……! 祥、やめてくれ、大切な友だ」
 遺言を残し始めた鶴に、亀と明岐は焦った。
 まさか、鶴が死ぬのか。今、明岐の目の前で殺されてしまうのか。
「嫌だ、死ぬな、死ぬんじゃない」
 必死の声を上げると、鶴はくすりと笑った。そして意識を手放した。
 あの、ふんわりした赤い唇は、カサついて真っ白くなっていた。こんな風になる前に、殴られても良いから吸っておけば良かった。などと不謹慎な事を考える。バサバサと耳元で音がして、あの喋るメジロが飛んで来た。メジロは祥の目を潰したが、その目はすぐに再生した。
 しかし、メジロは諦めず、また目を潰そうとして祥に近づき、祥の手に捕まるとバキンと背骨を折られた。
 万事休すと明岐の心も折れかけたその時、祥が異様に苦しみ始めた。
「あぁ゛、痛い、痛い痛い痛い、胸が溶ける」
 祥は鶴の足から口を離し喚くと、きっと亀を睨んだ。
「何をするのです、何をするのです、この痛みは愛じゃない、私を愛する痛みじゃない、処罰する痛み、殺意のある痛み、こんなのが欲しかったわけじゃない!」
「祥……、俺はおまえを愛しているぞ」
 優しげだが、抑揚のない亀の声に、明岐は何故か身震いした。
「嘘だ、こんな痛みを、どうして愛する者に味わわせるんです、もっと甘美な痛みなはず、これは愛の痛みじゃない、愛の痛みであるものか、貴方は私を愛していないっ」
 祥は泣きながら首を振ったが、亀は祥を苦しめる手を緩めなかった。
「祥、……祥、ほら、おまえの望み通り、俺の愛で以ておまえを殺してやろう」
 愛しい者を、殺す覚悟を持った男の恐ろしい覚悟が伝わって来た。亀が果たして、愛で祥を苦しめているのか罰で祥を苦しめているのか、明岐にはわからない。しかし祥は胸を抑え、足をばたつかせて、口から泡を噴き苦しんでいる。
「が……っ、ぁぁぁ、死ぬ、死んでしまう、死ぬのは嫌だ、嫌だっ」
 目から涙を溢しながら、祥は切ない声を上げた。
「皆、死ぬのは嫌さ、祥、おまえは俺に何を求めていた? 俺がおまえに与えられるのは、その苦しみしかないのに、どうして俺に愛されようとした? どうしてだ祥、どうして家族のように傍に居るやり方で、俺を愛してくれなかった?」
 祥はもはやビクビクと痛みで痙攣し、声を出せない様子だったが、亀はそんな祥の頭を撫で、背中を撫でた。
 すると、祥は急に眉間の皺を和らげ、安らかな顔になり目を瞑った。
「死んだのか?」
「ああ」
『可哀想にな』
 鶴はまだ顔が青く、首には白い産毛が生えていたが息を吹き返していた。
「また殺してしまった」
 亀が呆けた顔をして言うと、鶴はまた目を瞑った。
 その時、子どもが鶴に抱きついた。不思議と子どもは透明でなく、明岐の目に映った。
「あ」
 亀が子どもを指し、声を上げた所を見ると、亀の目にも見えているようだ。
『先程、殺された陰間の方々がやって来て、お礼にと魂の半分を置いて逝かれまして』
 死んだはずのメジロが、口を聞いた。ぎゃっ、と叫んだ明岐をからかうように、ブルブルと身体を震わせて折れた背をしゃんと伸ばす。そうして元通りになるとバサバサと飛んで、鶴の肩に止まった。
『成程な、死者に恩を売るとこんなお返しを貰える事もあるのか』
 感心する鶴に、明岐は少し期待した。死者に恩を売る、という行為は岡引業に通じる。岡引は死者のために働く事が多いのだ。

「では、俺は祥を持ち帰る。葬式を上げてやりたい」
 亀はそう言って、祥を抱き立ち上がった。
「墓に入れる前に、知らせに来てくれ」
 鶴の命が助かったのは良かったが、祥が死んでしまった事は明岐にとって痛かった。ただ、祥の発達した歯を見せれば、父親と留吉は納得してくれるだろう。納得してくれなければ、明岐は役人を辞める覚悟で亀を遠くに逃がしてやれば良い。
「それじゃぁな」
 亀は一同に別れを告げると、静かに小屋を出て行った。
 小屋に残された鶴と明岐は、暫く無言でいた。
 色のついた子どもは鶴に抱きついたまま、まだ泣いている。大きな下がり目を涙で濡らし、嗚咽を上げている。顔が整っているせいか、やたらと愛らしい。
「よしよし鬼李、大丈夫だ大丈夫。もう怖い事はない。俺がおまえを置いて死ぬわけないだろう、ほら泣きやめ、いい子だからな」
 鶴は面倒見の良い兄のように、片親の父のように優しく子どもを諭していたが、時々疲れた顔をして、自分も泣きそうになっていた。
「時におまえ、俺の元で働くつもりはないか?」
 嵐の去った静かな小屋の中で、明岐は意を決し申し出た。
 
 その後、人の同心明岐と妖の岡引鶴の組み合わせは非常に世の中に貢献した。鶴の調査力と明岐の正義感が、沢山の事件を解決した。
 透明な子どもは、色と元気を取り戻した。
 さらに六十年の時を経て、人の明岐が死んだ後、己の正体が赤い鬼の大将であった事や、己が人にまぎれて体を休める『人休み』を取っていた事に気がついてからも、今度は妖の同心と、妖の岡引の形で江戸の末期まで相棒の関係は続いたのだった。


2016/7/19

『こわいモノ』(執着攻め×強気受け)


 こわいモノの近くに居続ける事が難しそうだったので逃げた。逃げたら、こわいモノのこわさが増幅した。いよいよ逃げられないぐらいこわくなって、向き合ったら少し、そのこわさを軽減する事が出来た。

「鶴」
 呼んだのに、こちらを振り向きもせず何だよと応じた鶴の肩に手を乗せる。そのままグリリと肩甲拳筋を押したら、を゛ぁっと鈍い悲鳴が上がった。
「凝ってる」
 肩揉みが始まると、鶴は手を止めて鬼李の指の動きに集中した。鬼季と鶴が同居している家の居間は広く静かだ。
 マッサージが終わると、はぁと艶かしく鶴が息をついたので、むらむらスイッチが入る。
「鶴……」
 肩に置いた手で後ろに引っ張り、鶴を仰向けに倒すと、被さってキスをする。鶴は素直に、口内に侵入して来た鬼李の舌に舌を絡めたが、その先に進もうとした鬼李の胸を右手で軽く押した。
「おい」
「何」
「おまえもちったぁ作業しろ」
 昔は囲炉裏があった居間の中心には、巨大な加湿器が陣を取っており、天井のエアコンが送って来る乾いた暖かい風に湿気を交ぜている。過去、鬼が数十匹集まって決起集会を開いたこの部屋は、広いばかりで色気がなく、掛け軸も無ければ美麗な襖絵もない。
「作業って?」
「年賀状、返事を出せとまでは言わねぇ、せめて読め」
「面倒臭い」
「おい、挨拶だろうが」
 鶴は広い居間の隅に積み上げられたダンボール二十箱を見やった。過去、関わった人数の多い鬼李宛の年賀状は箱で届く。こちらからの返事など百枚もしないのだから、良い加減送りつけるのを辞めて欲しい。鶴が傍に居ると、どうしても見ろと言われ二割は最低でも目を通す事になるのだ。
「無理」
 居間の真ん中で、手足を投げ出して寝転がると、仰向けのままだった鶴が匍匐前進でやって来て、ぽてりと頭を胸に乗せて来た。
 ああもう。
「可愛い鶴」
 こうやって素直に甘えてくれる鶴から、幸せと同時に恐怖を得る。一度失いかけた事がある分、闇の記憶は骨の髄まで染みている。こわくて仕方がないものを、抱きしめるのにはいつも覚悟が居る。
「言っとくけどな、俺にだって七箱届くぞ」
 年賀状の話が、まだ続いていた。ちらりと鶴の側にあるダンボールの数を見ると、四箱しかない。
「まぁ、三箱は山神にやって貰うが」
 言い訳するような声色の付け足しに、はいはいと鶴の頭を撫でる。
 過去、岡引として名を馳せた鶴を慕う妖怪の数は多い。鶴は全てに目を通し、必要なら返事も出す。
「鶴は偉いよね」
 褒めてやると、鶴はぎゅぅっとこちらの服に捕まり重くなった。
 やっとその気になってくれたようだ。腰を撫でると、はぁ、と熱い息を吐く。腿を掴むと、ふわりと手に馴染む肉の感触がした。
 鶴は男のくせに、ふわふわしている。骨組は確かに男なのだが、体中。掴むと柔らかいのだ。昔はもう少し骨と皮だった気がする。
 長い陰間時代に、変化してしまったのだろうか。抱きやすい体だ。

 外ではしんしんと雪が降って居る。鬼李と鶴の住んでいる地下一層の天気は雪だ。過去と未来と現在が混ざってしまいそうな、剣呑な空気が屋敷に溢れていた。乱れ始めた鶴の息遣いだけを聞きながら、鬼李は駆け出したくなるような衝動を覚えた。鬼李も思い出したくないし、鶴も思い出したくない出来事が、頭を襲って来た。


 江戸の終わり、完全に力を取り戻した鬼李は用心棒として、日本妖怪同士の勢力争いに巻き込まれていた。一方で鶴は、それまで鬼李復活のために、岡っ引き業を営んでいたのを引退し、小さな長屋の差配人になっていた。山神と二人、長屋の住人の悩みの相談に乗りながら、老夫婦のような暮らしをしており、仕事の合間、骨休めとして時折二人の元に帰る鬼李を、まるで息子を迎えるように、受け入れてくれていた。
「鶴、山神、……帰ったよ」
 その日も、長屋から離れた差配人小屋の玄関に、ひょっこりと顔を覗かせ、二人を呼んだ。すぐに山神が満面の笑みで駆け寄って来た。
「親分、親分!鬼李のぼんが帰りましたよ」
 小屋は玄関を左端に、中央に居間、その奥に台所、右端に奥部屋があり、鶴はこの奥部屋の縁側にいつも寝転がっていた。
「鶴」
 奥部屋につくと、ぶすっと胡座を掻いている鶴の名を朗らかに呼んだ。鶴は鬼李と目を合わせず、庭を睨んでいる。
「チッ、どの面下げて帰って来やがった? ぷらぷら、ぷらぷら遊び歩きやがって……! 二年も音沙汰無かった癖によ、うちは宿屋じゃねぇんだぞ」
「ああ、ああ。駄目ですよ親分、憎まれ口叩いちゃ、せっかく鬼李が帰って来てくれたのに」
「こんな奴、帰って来ねー方がいいんだよ、遠くにでも行っちまえ、その方がいっそ清々すら」
「親分!」
 山神の叱り声に、鶴は少しばつの悪そうな顔をすると、ちらりとこちらを見た。目が合った瞬間に少し瞳を潤ませる。会いたかった癖に、と心の中で詰りながら、鬼李に傍に居て欲しいと言えない鶴の不器用に甘え、距離を置いている自分を恥じる。
 厳重に鍵を掛けた宝箱の中の、隠しておきたい財産を、目の前にした時の喜びと後ろめたさ。誰にも壊されたくない、取られなくない、大切なものを、どうやったら守り通す事が出来るのか。失う恐怖との闘いが、ここまで苦しいものだとは。
「鶴」
 傍に寄ってまた名を呼ぶと、鶴は今度は立ち上がって、縁側で草履をつけ、裏口から出て行ってしまった。
「どこ行くんですか? 親分……?!」
「どこだって良いだろうが、散歩だ」
 いつもの光景過ぎて、鬼李は笑った。鶴と山神の暮らしはいつも平和で暖かく、危険と言えば、鬼李の力を得ようとした妖怪によるちょっかいが掛かった時ぐらいだが、鶴はその手の危険をすぐに察知し、上手く立ち回れる力を持っていた。
 可笑しくなったのはどこからか、未だに鬼李は原因探しをやめられないでいる。
 最近、思い当たったのはこの頃の事。
 いつも散歩に出た鶴は数分で戻って来て、鬼李がまた家を出るまで、鬼李をずっと自分の隣に座らせ、鬼李の手柄話を聞きたがった。
 それが、この日は近所をうろついていた牛鬼を捕まえて帰って来た。
 牛鬼は鬼李について各地を廻り、見聞を広めたいと言った。それを鬼李が認めた。山神が、親分も連れて行ってくださいと助け舟を出し、鶴は不貞腐れた顔で、期待を隠せない瞳で、行っても良いと言った。この時素直に、連れて行けば良かったのだ。
 しかし鬼李は鶴を連れ歩くのがこわかった。傍に置きたい気持ちより、仕舞って置きたい気持ちが勝り、よりにもよって、足手纏いなどという言葉を使って鶴を拒絶した。

 それから二年後、鬼李が再び鶴と山神のもとに帰った時、鶴は赤鬼のもとでまた岡引をしていた。
 鶴は牛鬼と共に帰って来た鬼李に、意地の悪い顔でこう言った。大妖怪同士、似合いだねご両人、土子の顔が楽しみだ。妬く様子も、やはり自分も連れ歩いて欲しいと取縋る様子もなく、只、牛鬼と達者でやって行けよ、と鬼李を見放した態度を取る鶴に、鬼李は焦りを覚えた。
 鬼李は鶴に、まるで興味のない者に接するようにされる事に、慣れていなかった。だから、つれない鶴をまるで気まぐれな味見程度の様子で、力づくで抱いた。この態度は単純な照れ隠しだったのだが、鶴には通じなかった。鬼李は牛鬼との中を弁明するつもりだった。鶴は鬼李が自分を軽んじていると取った。二度と顔を見せるなと言われたのと、祖国から助けを求められていたのとが重なり、鬼李は鶴の前から姿を消した。
 鶴がどこかで健やかに生きていれば、それだけで良いと思った。その方が心が休まる事に気がついた。いつかの鶴が、いっそ遠くに居てくれた方が良いと言っていた事を思いだし、自分も同じ気持ちだったと気がついた。無事で居てくれれば十分だし、鶴なら大丈夫だという自信があった。
 鶴が安定して平和に生きて居る事に何の疑いも抱かなかった。

 だから、山神が青い顔をして、親分を救ってくださいと、訪ねて来た時には何を大げさなと気楽に構えて応じた。嫌な予感を覚えていた心を無視して、頭が気楽な想像ばかり働かせ、やっと寂しくなったのか馬鹿鶴、と心が踊った。

 それでも、焦りは正しく鬼李を急がせた。
 山神が鬼李に助けを求めてやって来た時、鬼李は故郷で再び国を治めており多忙だった。小さな国の皇帝は、国の奴隷と等しかった。己の時間など、一切とれぬ状況だったが、反対する臣下を力でねじ伏せ出国した。パリの前衛芸術家の個人展示場を客として訪れ、そこで地獄をみた。立場さえ無ければ、関係者と過去の来場者全てを皆殺しにしたかもしれない。鬼李は入口に立った時点で、両足から力が抜け、その場に膝をついた。
 入口には、三匹の悪魔に食われるように犯されている鶴の巨大絵があった。鶴と共に連れて来られた他の美しい妖怪の絵も、数多く飾られて居たが、作品数で言うと、鶴の絵が七割、そのうちの半数が無残な陵辱絵だった。
 例えば、人外の姿の悪魔と性交させ、嫌がっている様子を描いてみたり。物理的に入らない大きさの一物を差し込み、気絶させた様子を描いてみたり。興奮剤を打ち込んだ状態で、感覚器に激しい刺激を与え、快楽で身悶えている様を描いてみたり。その殆どが連続絵で、鶴がどんな顔で苦しんだのか、怯えたのか、逆上したのか、どの場面で快楽に支配され、痙攣し恍惚としたのかがわかる。
 中でも、真っ青な顔色と涙やよだれ、鼻水までが精巧に描かれた気絶絵は迫力があり、数人が足を止めていた。
 前衛というだけあり、展示会には様々な工夫があり、絵の他にも、色とりどりの毒々しい玩具が、それを秘部に挿入され、悶えている鶴の絵の前にぶら下がっており、実物を触って想像を膨らませられるような仕掛けなども施されていた。
 その中には、口に取り付ける猿轡のようなものがあり、触った瞬間に、鶴に口付けた時の舌の滑らかな感触や、唇の柔らかさが蘇った。
 可愛らしく照れたり、時には期限が悪くて嫌がったり、鬼李を相手にする時の鶴の正常な姿が思い出された。それと、目の前に描かれている鶴の、性拷問によってボロボロにされた、無残な姿との差を実感すると、涙が止まらなくなった。

 展示会では最後に、来場者が参加出来る、新しい絵の創作をするイベントがあった。
 両手足を鎖につながれ、体中にオイルを塗られた見世物としての鶴が、虚ろな目で展示場の中心、円台の上で幼子のようにぺたりと座り込み、ライトを浴びている。何か悪夢のような、現実とは違う出来事のように思えて、鬼李はその場に立ち尽くした。
 鶴は鬼李の目の前で、乳首を弄られたり、性器をしごかれたりして射精し、腿を掴まれて股を開かされると、にゅるりと秘部で細い棒状の玩具を受け入れた。鶴の秘部を棒状の玩具がちゅくんちゅくんと出入りし始めると、鶴は殆ど吐息のような声で鳴いた。
 鬼李は何度も、このままここで、ありったけの力を使い、暴れようか考えた。鶴を含め、この場の生命を全て消し潰し、体から全ての怨霊を吐き出して消えてしまおうか、迷った。
「っぁ」
 鶴の秘部に、今度は太い玩具が宛てがわれている。
「っ、ん、……ぅ、イッ……! ァァァ!」
 玩具の挿入に合わせ、鶴の嬌声が響くと、観衆が拍手をした。
「はぁ、ぁー……!ぁ、あッ、あッ」
 玩具の動きに合わせ、鶴が喘ぐ。こそこそと手洗いに走る者が現れ、じりじりと前に出る者が目立った。ふいに、円台がすーっと下がりだし、係の男が鶴を肩に乗せるような形で抱いた。
 係の男の前に、観衆が列を作る。始めは一人ずつ、玩具を動かしていたが、誰かが横入りで手を出したのと同時に、我も我もと複数の手が玩具に伸びた。力加減も、動く速さも不定期に体内を暴れる玩具に、鶴は腰をビクビクと震わせて鳴かされ、何度もかぶりを振った。
 下げられた円台が、今度は中心に男性器の張子が付いた馬模型がセットされ上がって来た。
 最初に鶴を抱きとめた男が、今度は馬模型の上に、鶴を被せた。鶴は太い玩具が抜かれた瞬間、ふとすっきりした顔をして、己が置かれた状況を認識した。これから張子の付いた馬の上に乗せられる事を理解した瞬間、ひっと短い悲鳴を上げ身を捩る。そんな鶴を、観衆が協力して、張子の上に乗せた。ずぶん、と張子を呑み込まされて、鶴の腰が痙攣する。
「ふ……ぁッ? あぁあ?!」
 鶴は力の入らない嬌声を上げて達し、ぽかんと口を空けた。
「や、……んぁ、ぁ、う、ぁ」
 与えられる快楽の大きさに、頭が付いて行かず、寝言を零すように喘いで、宙を眺めている鶴を、馬模型は容赦なく上下に揺すった。
「んんぐ、っふ、うぅ?! ぁッ」
 鶴は目を細め、腰から腿を、電流を流されたようにビクビクさせた。
「っぁ、あ、……っぁ、……ああ、あ」
 がくん、がくんと身を揺すり、粗相をするように達する鶴を、観衆達は興奮して眺めている。鶴の顔は涙と汗で蕩け、どろどろだ。
「鶴」
 やっと鶴の傍まできた。近くで眺めると、あまりにその姿はモノに近く、えげつなく卑猥だった。
「鶴……っ、降りておいで」
 鶴の腕を掴む。 
 鶴の顔が鬼李を向いた。
 鶴の脇に腕を通して、鶴を馬の上から降ろすと、観衆が何をするんだと大声を上げた。しかし鬼李の地位を知る観衆達に、鬼李の邪魔をする勇気はなかった。
 鶴を円台に乗せると、鶴は意識があるのかないのか、とろりとした目で、鬼李を見つめた。
「鶴」
 顔が強張って痛い。刺すように冷たい目をしてしまっている気がする。鶴が自分の顔を見て、何を感じるのかを想像する余裕がなく、責めるような顔で、また鶴を呼んだ。
「……、鶴……っ」
 鶴の目が鬼李をとらえ、数秒、瞳に光が戻った。
「鬼李……」
 掠れて小さな、息のような音で名を呼ばれた。
「どうしたの? 何があったの? 鶴?」
「鬼李」
 鶴はまた鬼李の名を呼ぶと、嬉しそうに笑った。ぽろぽろと涙をこぼし、鬼李に腕を伸ばす、身を近づけてやると、ぎゅっとしがみつかれた。
「会いたかった、鬼李、……会いたかった、おまえに会いたかった」
 裏返ったり、掠れたりする声で、素直に再会の喜びを表明する鶴に、鬼李は寒気がした。鶴の声には、幻聴のような遠さがあり、嫌な予感がしたのだ。
「李帝! 動かないでください!!」
 芸術家の声がして、全身に鳥肌が立った。腕の中にあった鶴の熱がなくなり、引き剥がされた鶴の顎を大量の血が流れていた。鶴は舌を噛んだらしかった。芸術家は慣れたように止血を行い、良くあるんです、と笑って弁明した。鶴に関しては、この時が始めての自殺騒動だったらしいが、攫って来たモデルに舌を噛まれる事は日常茶飯事だという。そんな男の手に鶴が堕ちてしまった事が信じられなかったし、防げなかった自分も信じられなかった。
 
 鬼李は二度、自分の帝国を持っており、日本の歴史に合わせると、元寇の頃と第二次世界大戦の頃。一つ目の国は道楽で作ったが、二つ目の国は故郷のために作った。悪魔と共生出来るような環境を故郷の妖怪たちに与えたかった。

 肌寒いその国は、山の上に構えた城を中心に、山岳地域に広がっており、大金を掛けて作った飛び穴のおかげで良く栄えていた。
 戦時中の他国に比べれば豊かで、その分、外敵に狙われやすく、絶対的な力を持つ帝の存在が、まだまだ欠かせない。
「鶴」
 数日ぶりに顔を合わせた鶴は、鬼李の部屋の隅に座り込んでいた。何かの書類を抱え、じっと鬼李を見上げている。部屋の中央や、窓辺にある椅子には目もくれず、床に直接座る鶴に胸が痛む。きっと何か、精神的な理由があるのだろう。しかし、その原因を探ってやる事が、今の鬼李には出来ない。
「山神を帰してしまって良かったの?連れてこようか?」
 回復に向けて、鶴を世話しているのは山神だ。本当は鬼李が、鶴の世話をつきっきりでしてやりたい。しかし今、国を捨てて鶴のもとに走ったら鶴は鬼李を許してくれないだろう。
「鶴?」
 優しい声で呼びかけて膝をつき、傍に寄ると、鶴はふわりと笑った。それから、そっと手にしていた書類を渡して来た。
 それは鬼李の国に住まう者達の戸籍をまとめたものだった。
 人口の変化が激しい国の動きを、いちいち追えずに居た鬼李としては非常にありがたい数字だが、これをどうして鶴が持っているのか。
「どうしたの? これ? 誰が……?」
 言い掛けて、はっとした鬼李の顔を鶴は楽しそうに眺めた。鶴は情報のプロだ。恐らく、山神に手を貸して貰いながら、苦労して作り上げたのだろう。満足げな鶴の顔に、喜びと同時に痛ましさを覚える。どうして、こんなに前向きに、生きようとするのだろう。
「ここから出れたの?」
 恐らく、中に居て指示をするようなやり方で集めたのだろうが、聞いてみる。鶴は急に顔を曇らせ、鬼李の腕を掴んだ。芸術家のアトリエ兼展示会場から、逃げ出そうとする度、酷い目に合わされた鶴は、屋内から出る事に恐怖を覚えてしまっている。この鶴の病状を、少しでも治せたら良い。
「外に出られるようになる事が回復の一歩だからね、誰も叱らないから、散歩だけでもすると良いよ、戸籍調査、ありがとう」
 そろそろ時間だ。
 立ち上がろうとする鬼李の腕を、鶴がまた掴んだ。
「ん?」
 もう少し良いだろう、今日の鶴は元気だ。何も言わない鶴の横に腰を降ろし、鬼李の腕を掴む鶴の手に、手を添えて鶴の声を待つ。
「牛鬼は?」
「あぁ、出掛けてるよ、地中海」
「寂しいな?」
「まぁ……」
 寂しい事は寂しいが、まるで鬼李と牛鬼が恋人同士かのように、気を遣う鶴の心の方が寂しい。鬼李は鶴のために、随分働いて居ると思うのだが、欠片も伝わっていない。
「もし溜まってたら、……俺みたいなので良ければ、相手する、おまえに、恩返しがしたい」
 一日でも早く、回復してくれるのが恩返しだと言いたいが、回復を強制するのは良くない事だと知っている。だから返す言葉を考える。
「病人が何言ってるの。……俺は大丈夫だよ。牛鬼ばかりが相手ってわけでもないし、鶴が心配する必要はないから」
 余り良い返事にならなかったな、と反省すると、鶴は下を向いた。
「おまえに世話を受けっぱなしなのが、癪なんだよ」
「ふーん?」
 癪、という言葉に少し嫌な気持ちになる。どうして鶴は、俺に甘えてくれないのだろう。赤鬼が好きだからだろうか。
「俺は、おまえの、役に立ちたい」
 顔を上げて鬼李を見つめ、熱っぽく語る鶴の頬を撫でる。随分、痩せている。今の鶴の、憔悴によって醸されるしっとりした色香が、ふいに視覚を襲って来た。すっと形よくまとまった鼻や、キラキラと光を含んだ黒目がちのつり目、小さくふわりと膨らんだ赤い唇に思わず指を当てた。そこから、気合を入れて指を離す。
「今の鶴とは、する気になれない」
「……」
「赤鬼の事が好きなんでしょ?」
 突き放すように言うと、鶴は少し考えてから、頷いた。
「でも、赤鬼は鶴の事なんて、どうでも良かったんだね」
 言いながら、腹が立つ。赤鬼は鶴を犠牲に生き延びておいて、鶴の行き先を欠片も案じなかった。鶴を誑かしておいて、守らなかった。
「駄目だよ、頼る妖怪は選ばないと、……俺ぐらい強ければこうして色々と、面倒見てあげられるけどさ」
 自立心が強い鶴が、落ち込むような言葉を選び、投げかける。鶴は少し青ざめて、宙を睨んだ。
「俺は別に、赤ノ旦那に、面倒を見て欲しかったわけじゃねぇ」
 鬼李が居ない間に、赤鬼に鞍替えした鶴の事を、鬼李はどうしても許せなかった。鬼李も牛鬼に手を出したけれど、本気ではなかった。鶴の場合は、本気で赤鬼に靡いた。それが許せない。
「利用されて捨てられて、馬鹿じゃないの」
 意地悪を言うと、するりと、腕に置かれていた鶴の手が落ちた。
「何をしたとか、して貰ったとか、……どうでも良いんだ。俺は鶴種だからな、してやる事が喜びなんだよ」
 ああ、わけがわからない。わからないのに、胸が熱い。
 早く国をどうにかして、鶴の傍に寄り添わなければ。
 
 鶴をこわいと思う気持ちが、底をついてやっと持ち上がって来た。こわい鶴から逃げる事は無意味なのだ。逃げたらその分、こわさが増してしまう。

 この先は、どんな事があっても、傍を離れないと誓った。


2016/7/15

『踊る赤鬼』(尽くし系強面×恋多き紳士)

 忘年会が近い。出し物をどうしようかという悩みが発生する時期である。昔はこうしたイベントごとは、先に立ってまとめていた青鬼だが、ここ数年、部長職についてからはマネージャーに指示を出すだけですべてが終わるので完全に油断していた。
「手抜きか」
 新しいマネージャーの野平が提案して来たのは、とあるPV作成である。人間界の大手ネット広告会社が傑作をネット配信してからというもの、後に続く団体が絶えない、アイドルグループのPVパロである。これを、『怪PR社』でもやろうというのだ。
 部長室で、凝ったパワーポイントの企画動画を見ながら、青鬼は唸った。こんな、猿真似の案など断固認めるわけにはいかない。第一、ダンスなど。
 運動神経は悪くない青鬼なのだが、舞踊の類は心底苦手なのである。
「俺は、自分がダンスが苦手だから反対しているわけじゃないぞ、他社の猿真似案などで満足するおまえの気概を嘆いているんだ」
「うんうん、言うと思った、あのね、続き見てくださいよ」
 部長室には、野平の他に牛鬼と飛頭が居る。忘年会実行委員に任命された三名である。
「この動画の最後に、おまけっていうのを付けるんです、これは人間界の人気動画サイトなどで流行っている動画娯楽テクニックなんですが、本編の後にメイキングとか裏話とか、……おまけをつけるんです。このおまけが結構、受けてる動画が多い、例はこの二作品」
 企画動画にスルリと、PV数やランキングの表示で凄さを誇張した動画作品が現れた。本編のコメント表示とおまけのコメント表示比較。それからおまけの優秀な動画が、いかに噂を呼び、PV数を伸ばしているかなどの立証データが現れた。呆気に取られている青鬼に、野平はキリリとして、ぐっと身を乗り出した。
「忘年会での目玉はこっちです! このダンス動画を撮った後に、メイキング映像でミニドラマを撮ります。おふざけでサスペンス風になって行き、愛憎劇が繰り広げられて、最終的に赤鬼本部長が殺されます。もちろんホントにじゃないですよ、ミニドラマの中で、です」
「ほう……」
「この犯人探しを、忘年会の席で皆さんがするんです。席替えをして、色々な聞き込みをして、全員自分の動機やアリバイ、自分の立場から知り得た情報だけは持っていますが、犯人が誰かは知りません。より多くの人と話をして、あのダンス撮影をした時に、誰がどの日時で、どんな面子で練習したか、何を目撃したかを情報交換するんです。それで、犯人を探して貰う。賞金は十万円です。ちなみに赤鬼部長が答えを知ってて、わかった人は赤鬼部長にお酌をしに行って伝えます」
「複雑そうだが……」
「ええ、でも盛り上がると思いますよ! このネタばらしは後でなので、皆さんにはミニドラマの台詞と役割と、ダンスを覚えて貰うだけ、犯人探しで賞金が出る事は伏せておきます」
「当日、盛り上がりそうだな」
「はい」
「……」
 面白そう。と思わず感じてしまった。その瞬間野平と目が合った。
「結構、時間と体力が要りそうだが」
「いつもの事じゃないですか」
 野平が何でもない事のように言い、牛鬼がええ、と同意する。飛頭が、無理はしませんから、と続けるので、青鬼はうっかり、首を縦にしたのだった。
「この、おまけのミニドラマの脚本は?」
「葉場さんが最近仕事でお世話になってる脚本家に発注しました」
 葉場は第一営業部の映像広告担当者である。目は確かなので、きっと面白い話を書く脚本家だろう。
 頼もしい野平と、その背後に見渡せる、営業部のフロアを眺めて青鬼は楽しい気分になった。なかなかの企画である。情報を集めなければならないから、普段話す機会のない他部署の人間とも口を利くだろうし、肝心のミニドラマも、期待できそうな出来が想定される。
「映像の編集は?」
「技術の映編チームの皆さんがやってくださいます」
「丸投げにだけはするなよ」
「大丈夫です、スケジュールはもう組ませて貰ったので」
「監督は?」
「これも、葉場さんの伝手でこれぞという方に依頼します。あと、監修を鶴さんにお願いしました」
「鶴?」
「あの人、元凄腕の岡っ引きでしょ、プロの目から見て、ヒントをどう散りばめるかをチェックして貰わないと」
 パワーポイントの最後に来て、青鬼は思わず笑みが浮かんだ。犯人が見つからなかった場合、賞金は忘年会実行委員並びに協力者で山分けになっている。鶴を実行委員側に引っ張るのは、懸命な判断である。
「矢助とヤマネははどうするんだ、この二人も元岡っ引きだろう」
「彼らには倫理協力して貰います、映像と情報が全て揃ったら、ちゃんと犯人がわかるかどうか。彼らには逆に、忘年会会場の参加者が犯人を見つけられたら報奨が出ます」
「よく作りこんでる」
 文句なしだ。口のなかでそう呟き、青鬼は企画を後押しした。

 午後十時。『怪PR社』の総合案内フロアは広い。外が夜の闇で暗いため、窓は室内を鏡のように映している。受付の人間は帰宅し、併設されたカフェも閉店した。総合フロアには今、赤鬼と青鬼の二人しかいない。大きな窓と広い空間が使い放題である。窓際のソファを少しどかして、二人は忘年会用のダンスを練習していた。
「だから、青いノ、腕の回転が多い」
 赤鬼の怒鳴り声に、青鬼はびくりと身を揺すった。ダンス撮影はいよいよ三日後。おまけにあたるミニドラマの撮影が終わり、後は本編のダンス撮影。映るのは四十秒程だというのに、素材のために三分もダンスシーンが必要だという。
 赤鬼と共に、就業後の時間をダンス練習に当てて今日で二日目。たった三分のダンスが、どうして出来ないのかと己を責め、くっと声を漏らせば、赤鬼が鼻歌交じりにキレの良いダンスを横で披露し始めた。
「何故、おまえが出来て私が出来ないんだ?」
「知るか。簡単だろうに、こんな舞踊。ほら、♪ふふーふーん、と」
 腰ごと身を動かして、滑らかに回ってからすぐに次の振りを入れる。小気味の良いスナップで手振りのピストル打ちをする赤鬼はプロのダンサーのようである。
 しかし、がたいの良い大の男が、女アイドルの可愛らしい振り付けのダンスをキレ良く踊る光景に、青鬼は少し引いた。
「気持ち悪いぞ、赤いノ」
「そんな事を言ってるから踊れねぇんだよ」
 思えば赤鬼は、舞踊の類にやたらと良い感性を持っている。見た目によらず、芸達者なのである。
流鏑馬なら負けぬのだが」
「懐かしいな、流鏑馬! 俺もあれは得意だったが、おまえには叶わなかった」
 素直に流鏑馬の実力を褒められて照れる。そして、苦手分野を前に得意分野の話をした大人気ない自分に気づき恥じ入った。同時に、赤鬼の懐の深さに感じ入ってしまう。
 青鬼は赤鬼から「こいつにはどうあっても叶わない」と思われたい気持ちが常にあった。だから赤鬼に少しでも青鬼の勝っている部分を突きつけたいのだ。それが今は青鬼の弱味を晒け出しているような状態で、悔しくて地団駄を踏みそうだ。
「青いノ、もう一度初めからやるぞ、良く俺の動きを見ながら頑張れ」
「ああ」
 赤鬼の踊るのに合わせて、自分も懸命に腕と足を動かす。ちらりと窓に映る自分を見た。ぎこちなく、腕と足のリズムがバラバラでみっともない。
 赤鬼のように、生き生きとかっこよく踊れると良いのに、と思ってから、踊る赤鬼をかっこいいなどと思っていた自分に気がついて慌てる。そして、この終わりの見えないダンス練習がほとほと嫌になった。必要最低限、形だけ覚えられれば良いのではないか。
「なぁ赤いノ、思ったのだが、私達のシーンの中心はあの人形鶴だろう、彼は踊りがうまいし、あの顔だから……動画を見る者の9割は彼に目を奪われて、周りをそんなに見ないのでは?」
「あー、まぁ、そりゃぁな、……しかし、一人目立って下手なのは避けてぇだろ」
「め……、目立つ程下手か?!」
 思わず、冷や汗を掻いて聞いたら、赤鬼は視線をそらした。
 目立つ程下手なのか。俺は。
 絶望的な顔で赤鬼を見ると、赤鬼は片眉を上げた。
「まぁ、俺がついてる」
 心強いが、悔しい台詞だ。青鬼はうぅ、と唸った。こんな事で恩を売られるなんてという不愉快と、赤鬼は何て良い奴だろう、今後は少し優しくしようという感謝の気持ちが交じり心が微妙な温度になった。
「あと三日で身につくだろうか?」
「わからん」
 明日はこの総合フロアは、別のグループの練習に予約されている。
 よって、自宅に広い風呂場と鏡のある脱衣所が備わっている鶴の元を訪れなければならない。鶴は第一営業部の部長で、人形のように美しい顔だちをしている。男色の気がある青鬼は、そうした意味で鶴をそれなりに意識しているのだ。鶴の前で不格好な踊りを披露するのは避けたい。
「取り敢えず、今日のうちに少しでも仕上げておきたい、赤鬼、頼む、もう一度見本を見せてくれ」
 真剣な目を向けると、赤鬼は楽しげに笑った。
 何事にも真面目に取り組んでしまうのは性格だった。その日は深夜まで練習し、何とか、大きく外れた動きなどを封印する事が出来た。

 撮影二日前、鶴の家を午後九時に訪れた。その豪邸の前では鶴と同居人の小野森鬼李が赤鬼と青鬼を待ち構えていた。正確には、この小野森が鶴の家の持ち主である。家が豪邸過ぎて、税が払えぬ状態になっていた鶴を、資産家の小野森が助けたという格好だ。資産家の癖に、鶴の尻を追い掛けて会社勤めをしている小野森を、青鬼はあまり良い目で見ていなかった。
「青鬼、ダンス苦手って意外だね」
 一応、青鬼は小野森より上の役職だが、小野森はタメ口だ。
「誰しも一つや二つ、不得手があろう」
「はは、強がり」
「小野森、おまえ、青いノは一応第二の部長だ、敬語を使え」
 赤鬼が注意したが、小野森はふっと笑ったきりだ。
「気にするな赤いノ、年功序列という奴だ」
 小野森は赤鬼や青鬼、鶴より遥かに長い年月を生きている。
「大将、こいつクビにするなら今だぜ」
「俺の権限じゃかなわん」
 赤鬼と鶴が、阿吽の呼吸で憎まれ口を叩くと、小野森は少しむっとしたようだった。
「ちょっと、そこ、仲良くしないで」
 しかし、むっとするポイントがズレている。

 大鏡のある脱衣所に行くと、明るい照明に目が眩んだ。鏡の前に備わった台にノートパソコンを置き、音楽を掛ける。
 本番の撮影に合わせ、鶴を正面に、赤鬼と青鬼がサイドを固める構図だ。小野森は微笑しながら、一人悠々と腕を組んでその様子を眺めている。
「小野森、おまえは踊らないのか?」
「踊るけど、俺は第一のメンバーで踊るし、もう振りは覚えてるから」
 脱衣所に前奏が流れ出したタイミングで問うと、涼しい声で余裕発言をされた。
「青ノ旦那、昨日は頑張ったんだってな」
 赤鬼から、いかに青鬼が下手なのかを聞いていたのかもしれない、鶴は笑いを噛み殺していた。
 鏡台の中央にデジカメを仕掛けて、チェック体制も万全である。
 ダンスシーンが始まり、青鬼はあっという間に間違えた。
「はいストップー!」
 小野森が声を上げ、え、もうか?! と鶴が驚きの声を上げた。
「青鬼には可哀相だけど、赤鬼と鶴が上手すぎて実力差が酷い」
 小野森の冷静な報告に、青鬼はずんと背中に石を背負ったような気持ちになった。
「つまり、私は、やっと普通レベルになったというのに、今度は上手いレベルまで持って行かないと悪目立ちするという事だな」
「可哀相な青鬼」
 小野森は肩をすくめ、首を横に振った。最近まで日本の外に居た小野森は、西洋の仕草が随分染みてしまっている。
「まず見て、これ」
 デジカメの映像を、ノートパソコンで再生すると、赤鬼と鶴のキレのある動きの数秒後に動く青鬼の姿が浮き彫りになった。
「何という事だ・・・」
 確かにこれでは悪目立ちしてしまう。
「下手じゃないんだけど、鈍いっていうのかな、普通に踊れてるのに下手に見える」
「うーん……」
 小野森の指摘は尤もで、赤鬼が困ったように頭の後ろを掻き、鶴が腕組みをした。ああ、わかったよ、私がもう少し動きにキレを付ければいいのだろう、この完璧主義者どもが。
「青いノ、出来るか?」
「無理しねぇでいいんだぜ、青ノ旦那」
 赤鬼の問いと、鶴の気遣いに、青鬼はむすっとした。そして、1時間くれ、と呟いた。小野森が、お、えらいね、と高みからのコメントをし、赤鬼が付き合うぞ、と暖かい声を掛けてくれた。鶴が、それじゃぁ俺は向こうで待ってる、と身を引いてくれた事に救われた。

 こうして営業上層部三人組のダンスシーンだけ、やたらとグレードの高いPVが完成した。
 宴会場はホテルのホールである。『怪PR社』は百人規模の会社だが、忘年会出席者は関係者を含めて百五十人程。ダンスPVの時点で異様な盛り上がりを見せており、皆一応に練習で苦労したからこそ、PVが終わっても、もう一回見たいだのダウンロードしたいだのの要望が飛んだ。
 そして、野平の計画したおまけ映像の、コメディタッチのサスペンスに笑いが起こり、このサスペンスを使った探偵イベントに会場が湧いたのは言うまでもない。

 PV鑑賞と探偵ゲームという目玉イベントが無事終了し、歓談の時間に入ったタイミング。青鬼はホールの外に設置された喫煙スペースに居た。野平を始めとする実行委員達を、どうやって労おうか考えながら、五日間に渡る練習に付き合ってくれた赤鬼の姿を思い出していた。昔から芸能に長けた男だったが、最近の芸能にも順応するとは。
 がたいの良い赤鬼は、踊りがハッキリしていて格好良かった。
「惚れ直した、とでも言うべきか」
 呟くと、ホールから赤鬼がやって来るのが見えた。犯人探しゲームのおかげで何度も酒を注がれ、さすがに酔いがまわったらしい、雰囲気が気だるい。思わず顔を背け、頬の火照りを手の甲で冷やす。
 今更、意識する相手でもないだろうに。
 喫煙スペースに入って来た赤鬼は、青鬼にすぐに話しかけなかった。少し離れた場所に留まり、黙っている。赤鬼の煙草が出す煙の匂いだけが、赤鬼の存在を主張する。何か話し掛けて来いと願ったが、赤鬼は静かなままだ。音のない空間が五分程続いた。長く感じたが、過ぎるとあっという間だった。赤鬼が出て行き、青鬼は焦った。赤鬼が声を掛けてくるのを待って二本目に火をつけたのに。
 気がついたら火をつけたばかりの煙草を捨て、赤鬼の後を追っていた。
 ホールに戻ってみたが、姿が見えず、赤鬼の行動パターンをよく知る鶴に声を掛けると、非常階段だろうと言われ、行ってみる。
「青いノ」
 居た。
「どうしてこんなところに」
 驚いた顔の赤鬼に、それはこっちの台詞だ、と応じながら近づいた。赤鬼は非常階段の端に座り込み、壁に寄りかかっていた。
「酔いを醒ましてる」
 そこに居た理由を簡単に述べて、赤鬼は目を瞑った。隣に座ると、眠そうな笑い声が、赤鬼から漏れた。
「その場所は危険だ、俺に襲われるぞ」
「覚悟の上だ、大事無い」
 ぐっと赤鬼の腕が肩を掴み、ごつい指が顎を掴んだ。それから唇を舐められて、少しの隙間から口内に舌を差し込まれる。荒々しいのは、酔っているせいだろう。
 舌と舌が絡まり、熱が溶け合い、赤鬼の匂いが鼻腔を満たすと夢心地になって思わず赤鬼の首に腕を回す。繋がりが止むと、欲を持った赤鬼の目にひたと捉えられ、青鬼はふっと笑った。
「どうした、そんながっついて」
 さすがにこの場所で最後までは出来ないという心から詰ると、赤鬼もはっとして、表情を緩めた。
 それから黙って数分、見つめて来たかと思うと、赤鬼は少し躊躇いがちに、青鬼の頭を撫でた。
「おまえが、久しぶりに一生懸命になっていて、その姿が何だか愛らしくてな、気持ちが盛り上がったというか、惚れ直したというか……、小さな事だが、苦手なものから逃げずに取り組めて、偉かった」
 褒められて、ここまで嬉しく感じたのは久しぶりだ。
 青鬼はきゅっと口を結び、頬の肉の裏を噛むと俯いた。反応の仕方が、わからなかった。
「出来たら、今日はうちに一緒に帰ってくれ」
 ああ、と掠れ声で返事をすると、赤鬼はまた青鬼の顎を掴んで、繋がりを求めて来た。耳にまだあの、アイドル曲の音楽が残っている。静かな非常階段に、響くような錯覚を覚えた。



2013/12/22 

『鶴に恩返し』(尽くし系強面×恋多き紳士)

 少し肌寒くなった飛鳥山公園で。
「鶴を片付けろ」
 不穏な台詞を恋人から吐かれた。白い朝の陽光が眩しい。
 赤鬼は日向の石段に尻をつき、肩や膝に一杯に乗った猫達の体温でふやけていたが、青鬼は薄色の秋用コートを着込み身を固くしていた。
「どういう意味だ?」
 暗殺なら得意だが相手が鶴ではな、とふざけると青鬼は困ったように笑った。
「場所を変えよう」
 暗殺、片付ける、過去身近だった言葉は遠い歴史の影。平安の世、戦国の世、大戦下、確かに隣で息をしていた死という獣はどこに隠れてしまったのか。ここ五十年程、姿を見ない。

「私は彼を殺せと言っているんじゃない、きちんと振れと言っているんだ」
 赤い窓枠が愛らしいカフェで、若い主婦客の遠巻きな視線に晒されつつ、大柄な男二人は顔をつき合わせた。
「振るも何も鶴と俺は何でもねぇ」
「そう思ってるのはおまえだけだ」
 潜めた低い声で吠え、青鬼は身を乗り出して来た。
 眉間に皺を寄せて凄む青鬼の形相は恐ろしいが、赤鬼と鶴の関係を気にして怒っているのだと思うと自然、口元が綻ぶ。
「何だよ、おまえがそんなに気にするとは思わなかったぜ」
「鶴はおまえを今でも愛しく思っている、そういう相手の居る男と恋人関係で居るのは心地が悪いのだ」
 青鬼はハッキリした口ぶりで、鶴の気持ちを決め付ける。
「おい、鶴にも選ぶ権利があるだろうがよ」
「ああ、彼なら選取り見取りだろう。それなのにどうしておまえなのか?」
 そう言って腕組をした青鬼が、ううんと首を傾げた拍子、青鬼の白銀の髪がサラリと流れた。その瞬間、赤鬼はフワフワとした楽しい気持ちになった。
「なぁ青いノ、ヤキモチは嬉しいが……」
「ヤキモチではない」
「……いいから落ち着いて聞け青二才。まず、おまえも言ったようになぁ、俺のようないい加減な親父に、鶴が好意を抱いているわけがねぇだろうが」
 赤鬼は鶴を陰間だの陰険だの、貶すのが大好きだが、根っこではこの上もなくイイ男だと思っている。自分には勿体無かったのだと過去にされた浮気も、許す事が出来るぐらい。だからこそ、もう二度と振り回されたくない相手なのである。二度と好きにならないと心に決めている。
「それに、あいつは根っからの陰間で、ろくでなしだ、俺の方も願い下げなんだよ」
 よりによって、赤鬼を半殺しにした憎い悪魔と惹かれ合っていたなんて、信じたくなかったし、信じられなかった。陰間をする鶴はいつも辛そうだったのに、鶴が辛そうだからこそ、体は奪われても心は赤鬼のものだったのに。あの時、消えかかって身動きの出来ない赤鬼の手から、するりと逃げ、悪魔の元に走った鶴を赤鬼は百年許せなかった。
 通じ合っていた時の愛情の深さは、裏切られた時に胸を抉る傷の深さに比例する。あの残酷な心変わりを思い出すと、赤鬼は今でも腸が絡み合って、固結びを作りそうになる。
 ふいにカフェの窓に映った自分の顔に、憎しみが貼り付いたのが見えて、慌てて表情を繕った。そんな赤鬼を、青鬼は心配そうに観察しながら、頼んだ紅茶の表面をスプーンで掻き回した。
「赤鬼、俺は曲がった事が嫌いだ。おまえが気づかぬから言ってやるが、鶴の裏切りは茶番だった」
 紅茶から熱が少しだけ白くなって、解放される様子を眺める青鬼の顔は苦い。
「茶番?」
 青鬼は軽く店内を見回し、二人の席近くに他の客が来ない状態であることを確認すると、懐から一冊、雑誌を取り出して壁を背に座っている赤鬼にそれを渡した。
「鶴は、おまえを破った悪魔に己の身を質にして、おまえの命乞いをしたんだ……」
「……」
 青鬼の持って来た雑誌は、古い西洋の読み物で、美術展のパンフレットのようだった。その表紙は、ひと目で強姦された後とわかる鶴の絵で飾られていた。写実的な筆致は、乱れた和装から覗く鶴の赤く勃ち上がった乳首や噛まれた痕のある太腿を精緻に描いている。
鶴はしばらく陵辱画のモデルとして、向こうで見世物にされていた。俺は調べてはじめて知ったのだが、その筋では有名なモデルだったようで、研究本も出ている。そこから当時のおまえらの事情が知れた」
 雑誌をめくると、さっそく1ページ目から、目を逸らしたくなるような、容赦のない描写が目に飛び込んできた。三匹の悪魔に押さえつけられ、後ろから犯されたり腿を噛まれたり、性器をしゃぶられ、喘いでいる鶴の絵。隣には三分割されたコマに、胸までの鶴が描かれていて、一番上のコマでは反応を示していない乳首が、真ん中のコマで弄られて、最後のコマで勃ち上がっている様子が紹介されている。エロを絡めた芸術程、グロテスクなものはない。鶴は愛されるためではなく、素材として連れ去られた。
「ずっとこんな調子で、陵辱絵が続く」
「どこから持って来た、こんな雑誌」
「金を積めば簡単に手に入る。美術史に残るジャンルの一つで、この展覧会は何度も開催されている。倭国から略奪されてきた綺麗な若衆は、ジャポニスムの影響もあり、見世物として非常に人気を博したそうだ」
 ずぅんと落ち込んだ赤鬼に対し、青鬼はしかし容赦なくいらない情報を浴びせた。この事実を、精査しろとばかりに責めるようにいい募った。

「鶴」
 呼ぶと面倒臭そうな声で、こちらを見もせずに何でぇと返事をした鶴に溜息をつく。
「こっちに来い」
 落ち着き払った重い声を出すと、鶴はやっと顔を上げてこちらを見た。しかしチッと舌打ちをした。
「お断りだ、今、手が離せねぇ」
「いいから来い」
 部長室を資料作成室に変更して、深夜までの作業をしていたところである。今朝、青鬼との逢瀬で仕入れた情報が、赤鬼の頭を痛くする。鶴は和装で、はだけた胸元を少し直しながら、むくれたような顔でやって来た。部長室には、鶴と赤鬼しかいない。いつもの状況だが、壁が氷になったようにヒンヤリして、何だか落ち着かない。
「大将、野暮用なら後にしてくんねぇか? 俺ぁ見ての通り、アンタの取って来た大仕事で忙しい」
 鶴は懐手をしながら、チラリと書類が山になったローテーブルを見た。
「つぅか、アンタ今日一日様子が変だぜ、青ノ旦那と何かあったか?」
 それから、大あくび。鶴の揃った長い睫毛があくびで出た涙で少しくっつきあっていた。ふっと浮かんだのは、形の良い細目を涙で蕩けさせながら、眉を寄せて快楽を訴える、壮絶に美しい鶴の悶絶顔だった。思えば鶴とは何度も濃ゆい性交をした。
 思わず鶴から目を背け、そういえば、とさらに記憶を辿る。赤鬼は鶴のよがり涙が好きで、よく犬のようにその涙を舐めた。
「おまえ、まだ俺が好きか?」
「あ?」
 鶴の声は頓狂で、一気に後悔が押し寄せた。これはまずい。
「寝言は寝て言ってくんねぇか?」
 低くて、不愉快そうな一刺しの言葉に、赤鬼は背が凍った。カマの掛け方を間違えた。というか、相手が鶴だからと油断して、思わず素で聞いてしまった。
「いや、そういうような噂を聞いてな」
 誤魔化そうとして口走り、墓穴を掘って額に汗が浮かんだ。
「噂の出所は? あんたは誰から聞いた?」
「俺は……聞きかじっただけだ、誰が言ってたかなんて忘れちまった」
「ふぅん」
 鶴は艶やかな細目をさらに細めて、くっと笑みを浮かべた。
「そんな噂、十日で俺が消してやる」
 鶴は怒ると笑う男である。唇の形や口幅など、計算されているのかと疑う程、綺麗な鶴の微笑みは絵になるが、無機質な人形の瞳は据わっていて、鳥肌が立った。
「別に消さんでも良い、たわいのない噂だ」
 気がつくと背にも汗を掻いていた。
「他に何か聞いてるか?」
「他?」
 もしや鶴は、赤鬼が真実を聞かされたと勘ぐっているのでは。鶴は恐ろしく人の心を悟る能力に長けているし、赤鬼は余りに長い間、鶴に隠し事をせずに来てしまった。
「何も」
 緊張のあまり目を剥いて、ばちりと視線が合ってしまい、赤面する。鶴を意識してしまっている。
「あんた今、俺を抱きたいだろう」
 鶴は困ったような顔で、赤鬼の胸に手を置いて来た。懐に入られ、身動きが出来ない。どうしてわかったのだろう。
「いや……」
 頭の中を、過去、目を楽しませてくれた沢山の鶴の艶姿が回っていた。憎しみで蓋をしていた快楽の思い出が、勢い良く溢れて来ていた。
「全部、知ったのか」
 質問は簡単だが、応答は難しい。鶴は赤鬼に事実を知られたくなかったのだ。ここまで鶴が必死に隠して来てくれた努力をふいにしてしまった。後ろめたい気持ちで目を瞑った。
「どうしてだ鶴」
 赤鬼の声は震えていた。
「おまえは、俺を……、恋人を質に入れ、生き延びた恥知らずな男にした」
 ぽつん、と涙が瞬きで飛んだ。
「あんたには、そういう駄目な役回りが似合いだと思ってな」
「憎まれ口をッ」
 気がつくと手を伸ばし、鶴の腕を掴んでいた。引き寄せようとして、振りほどかれる。もう一度手を伸ばし、今度は肩を掴み抱き寄せた。百年の憎しみを、何とかして打ち消したい。誤解していた事を、ただ只管に謝りたい。
「大将」
「悪かった、鶴、……」
 どうしたら良いのだろう。鶴の真心に応えるためには。鶴の恩に報いるためには。赤鬼は青鬼を愛しているが、もし鶴がまだ赤鬼を求めていたら、鶴のために青鬼から諦めるべきだろうか。鶴が赤鬼にしてくれた事のお礼は、赤鬼が鶴に千年尽くしても足りない。
「おい、よせよ気色悪ぃ、もう衆道の関係じゃねぇんだから」
 そこで、ぐっと胸を押されて身を引き離され、ぽかんとして鶴を見ると、鶴はうんざりした顔で赤鬼を睨んでいた。
「俺ぁ鶴種だ、我が身を削って愛する者に恩を返したり愛を示したりする種族だ」
 鶴の綺麗な顔には、何の感情もない。
「ああ」
 鶴は何を考えているのだろう。赤鬼には理解出来ない。鶴種独自の習性を主張されても、ピンと来ない。
「たまたま、当時の俺の愛する者があんただったから、あの時は、あんたのために頑張った。それだけの事だ」
「でもよ……」
「ちなみに今は別に愛してねぇ、あんたは青ノ旦那とよろしくやってろ。俺に引け目が出来たからって、俺に構う必要はねぇし、構われても俺は迷惑なんだって事を理解しとけ」
 絶句する赤鬼に、鶴はふふんと笑ってみせた。
「俺のために青ノ旦那を諦めようとか考えただろう、あんたは情が深いからな」
 ごそごそとまた懐手をしながら、鶴はそっぽを向き言い当てた。赤鬼は困って眉を寄せ、手持ち無沙汰になった腕を見つめながら頷いた。
「おまえのためなら、何でもと、思ったんだが」
「そんな心遣い、いらねぇよ重苦しい。だから内緒にしてたんだ」
 ばっさりと言われて、赤鬼は唸った。では、どうしたら良いのか。てっきり、鶴は赤鬼をまだ愛しているのかと思っていた。しかし、それは思い違いだという。
 確かにあの当時、浮気と思えた鶴の行動が、赤鬼を想っての事だったとしても、あれから百年以上経った現在まで、その健気な心が残っている保証はない。
「大将」
「あ?」
 高ぶっていた胸を、どうやって落ち着かせようかと考えていた赤鬼の角に、鶴の細くて冷たい手が触れた。
「あんたは居心地悪いだろうが、俺はあんたのために頑張った事を後悔してないぜ」
 顔を上げると、思いのほか近くに鶴の綺麗な顔があった。そこに浮かんでいた穏やかな笑みに胸が一杯になって、だらだらと涙が出た。
「おい……」
 途端、鶴は渋面を作って赤鬼の涙を指で拭った。
「泣く奴があるかよ、だからヤだったんだ、あんたに知られんの、……悪かったよ騙すような事しちまって、俺は、本当にあんたが大好きだったんだよ」
 火に油を注ぐような台詞を口にして、しまったという顔をした鶴に向かい、赤鬼はウグッと声を上げ、ついに嗚咽まで喉奥から飛ばした。
 強面の親父が情けなく泣き始めたのを、鶴は本格的にまいったという顔で眺めていたが、赤鬼が鶴の服の端を引っ張ると、鶴は溜息をついてから、赤鬼の身に腕を回し、背中を撫でてくれた。
「おわっ?!」
 そこで急に鶴の小さな悲鳴が聞こえ、鶴の温度が遠退いた。耳が遠くなったように靄が掛かって、頭の芯がぼうっとする。赤鬼から、鶴が剥ぎ取られたのがわかり、口の骨が全て砕けたように痛み、全身が痺れた。
 金縛りと呼ばれるこの技は、小野森が得意としている。目の前には鶴を持ち上げて、怒りの顔をしている小野森が立っていた。
 小野森は、冷たい目で赤鬼を見下ろしていた。鶴もまた金縛りに掛けられたようで、ぴくりとも動かない。
「浮気は良くないな、鶴」
 小野森は冷えた声で一言だけ呟いて、その場から鶴ごと妖力で消えた。赤鬼だけが部長室に残されて、夜の会社の闇の中、息をしているだけの存在にされた。
 
 小野森に襲撃され、鶴を喪失してから数分。鼻が痛いのは殴られたからのようだった。赤鬼は何度も全身に力を込め、金縛りを解こうとし、皮膚が氷に張り付いて取れるような痛みに呻いた。
 夜の会社の中で、一人で金縛りに苦しめられている状態は、孤独感を増幅させ、赤鬼を落ち込ませた。
 赤鬼が愛し、傍に置きたいと願う者はいつも赤鬼のもとに留まらない。青鬼も鶴も、温度を確かめたその次の瞬間にはいつも消えてしまう。永遠とは何か、欲してはダメなものか。
 鶴、と動かぬ口の中で念だけを生む。
 今頃、どうなっているのか知れない。小野森は鶴に惚れているから無茶はしないと思うが保証出来ない。責められていないといいが。
 鶴、と今度は舌が動き、音が出た。
 そこで、パッと廊下に電気がついた。
「なんと間抜けな……」
 今一番聞きたくない男の声がして、意識を向けると、青鬼が部長室の戸をすり抜けてくるところだった。
「青いノ……」
 親を見つけた迷い子のような声が出た。
「あの怪物が、俺におまえの回収を依頼して来たんでな」
「小野森か」
「おまえ、あんなものが下にいて、やり辛くないのか?」
 赤鬼より、遥かに長生きで力の強い妖怪である小野森を指して青鬼は眉を顰めた。
「別に、問題を起こすわけでもないし、関係はまぁ良好だ」
 扱い辛い部下ではあるが、扱えないわけでもない。
「上司を圧倒的な妖力で金縛りにする部下なんぞ、俺は願い下げだが」
 青鬼の言葉に笑いたかったが、表情も固まっているため笑えない。青鬼はゆっくりと、戸口にある棚、ローテーブルを囲うソファ、赤鬼の座る椅子の背、と手を触れながらやって来た。その存在が近付いてくるだけで、幸福になる。
「青いノ、俺は、鶴を愛するべきか?」
「俺に聞いてどうする、おまえの心の事だろう」
「俺は、おまえを愛したい」
 すっきりしたのは、それが真実だったためだ。鶴に対する引け目や欲望と、青鬼に対する憧れは、性質がまるで違う。
 鶴への償いは、愛以外でやるべきなのだ。
 赤鬼はその事に、やっと気がついた。

 その月終わり、鶴は第一営業部の部長に、赤鬼は営業部全体の本部長に昇格した。同時に第二営業部のマネージャーに野平がついて、新体制が敷かれた。
 これまで通り、鶴と過ごす時間が減る。その事にほっとした自分をいくじなしだと思うが、鶴もまたほっとしているようだった。


2016/7/12

『ここは居酒屋』(真面目×強気、過去の恋)

 

 尊敬しているけれど、恋愛するつもりのない男性から求愛された場合、皆さんはどう対処しますか。

 という質問を投げた居酒屋の一角。

 男だらけの座敷席で、全員が黙り込んで口に含んだビールを飲み下せずに、頬を膨らませている。

「なんて、もしもの話ですけど」

 直球過ぎた質問への、誤魔化しを口にしたら、狗賓種の優男、山神さんが神妙な顔で身を乗り出してきた。

「どなたかに迫られているんですか?」

 誤魔化しを一刀両断、本題に体当たりされ、俺はしどろもどろ、いや……その、と弱い声を出しそっぽを向いた。

 川越、時の鐘向かいにあるこの居酒屋は、明治から続く趣ある鳥料理屋で、『怪PR社』第一営業部の面々御用達だ。五、六人用の個室に区切られた座席に、予約席の札を立てて貰えば、人に邪魔される事なく寛げるのが魅力だった。

 テーブル真上にぶらさがった提灯の、ぼんやりした灯りが照らしている顔ぶれは以下の通りである。仏頂面の赤鬼部長、その右腕の麗しい鶴さん、木の葉天狗の木葉さん、狼種の俺、山神さん。総勢五人の席は、俺の投げた質問で白けていた。

「あの、もう、やめましょうこの話、変な事を聞きました」

 下を向いて、ジョッキに入ったビールを睨みながら声を張り上げると、どっと恥ずかしさが胸を襲った。金色に光を反射するビールの表面に、負けず嫌いで陰気な俺の、剣のある和顔がゆらゆら映った。

「『あやかし広告』の火紗は、おまえに何かして来たのか?」

 ふいに鶴さんの、形のいい唇から、問題の男の名が飛び出して俺はビクリと身を震わせた。

「げっ、相手、『あやかし広告』の妖怪かよ」

 木葉さんが顔を顰めるのと同時に、鶴さんが腕組みをほどき、赤鬼さんの空ジョッキを片付けた。

「……どうして、その、火紗さんと俺のこと?」

 どこまで知っているのか、疑問に思い聞いてみたが、鶴さんはテーブルの窓際に立てられた甘味のメニュー表を眺めるので忙しかった。

「親分は元岡引ですからね、栗犬、……さぁ、困っているなら、ここらで観念して相談なさい」

 山神さんが柔らかな声で、有無を言わせぬ台詞を吐き、木葉さんが「そうだぞ」と適当に話を合わせて来る。言うしかないのか。

 葛藤していたら、目の前にお猪口を差し出された。赤鬼部長が手に日本酒を持ち、不敵に笑っていた。

 鶴さんが甘味を頼み、山神さんが、親分いけません痛風になりますよ、と穏やかに叱るのを尻目に俺と赤鬼部長の飲み比べが始まった。

「栗犬」

 頬が殴られたように熱くなって来た頃、鶴さんのスルリと耳に入る、さっぱりして聞き取りやすい声がした。鶴さんは身を屈めて、俺の顔を覗き込んで来ていた。改めて見ると、鶴さんの睫毛は長く揃っており、キレ長の目の端を綺麗に飾っていた。ぽうっとその奇跡のようなバランスを眺める。鶴さんが美しいのは、赤鬼部長の寵愛を受けているからだろうか。恋する男は磨かれるっていう奴なのだろうか。などと二人が出来ているという噂を思い出して考える。こんな事を考えてしまうのは、全て火紗さんのせいだ。

 俺が、ひっ、としゃくりあげると、鶴さんは満足そうな顔で「ウン、良い感じに酔っ払ったな」と呟いた。

「火紗との関係、言い当ててやろうか」

「……ひっく」

 頭の中に幾枚も障子紙を張ったような酔いの中で、俺は返事をした。そわそわして、尻が寒い。

「おまえと火紗は江戸時代の『人休み』(ひとやすみ)中、目付と奉行の関係で出会った」

 はい、と言おうとして舌がもつれ、咄嗟にコクンと首を縦にした。いつも生真面目で生意気な俺がヘロヘロなのが面白かったのか、鶴さんはふっと口の端で笑った。それから自分に寄りかかって来た隣の赤鬼部長をぐいっと引き剥がした。

「おまえは火紗に憧れ、火紗もおまえを憎からず思っていた。二人は関係こそ持たなかったが、想い合う仲になった。だからせっかくの人休みを、子孫も作らずに終えてしまった。さらに惜しい事に、二人は互いに相手が妖怪と知らなかった。だから人として死に別れたまま離別していたが、最近になって妖怪として改めて出会い、火紗は素直におまえに迫ったがおまえは戸惑って逃げた」

 はい、と言おうとして固まる。頷いたら、俺は「戸惑って逃げている」事になる。出来たら「戸惑って逃げている」のではなく「困っている」事にしたい。

「おい大将、重ぇし熱ぃんだよ、シャンとしろ」

 また寄りかかって来た赤鬼部長に、鶴さんは今度は文句を言った。ぐー、という寝息で、赤鬼部長が返事をすると、鶴さんは顔を顰め、結局そのまま肩を貸してやった。

「火紗さんは……」

「おぅ」

 呟くと鶴さんは視線をこちらに戻し、懐手をした。

「火紗さんは貫禄ある古猫の火車種で、目付役であった人休みの頃は、鏡のように品行方正でした。おっしゃる通り、あ、憧れていた過去は、ありましたよ。それはもう、感じのよい方でしたから。でも、俺は……その清廉さに惹かれていたのであって。その、妖怪として会って見たら、厳しい雰囲気は残っていたものの、押しの強い遊人の一面もあって、えーっと、な、なんか、違うかなって」

「戸惑った」

「……」

「戸惑っただけだろう?それで嫌いになったわけじゃない」

「ええっと……」

 この問答はまずい。最終的に、戸惑いを解消して、火紗さんに流されるのが正解というような答えが出てしまう。

 絶対にそれは、避けなければならない。

「そう決めつけに掛かっては可哀相ですよ、親分」

 答えに窮している俺を不憫に思ったのか、山神さんが助け舟を出してくれ、俺は苦し紛れにキッと鶴さんを睨んだ。

「あの、俺、一応、火紗さんを拒絶したんです。でも、火紗さんの事は今でも尊敬していますし、大事に考えていますから、そこで困っているんです」

 すると、じっと黙って話を聞いていた木葉さんがじれったそうに口を開き、発言した。

「あのよぅ、良くわかんねぇんだけどよぅ、普通はな、意識した事もない野郎に迫られたりしたら一気に嫌ぇになるもんだろぉ」

 釣り上がった太い眉を寄せて、唸る木葉さんは少し青い顔で言った。

「例えば赤鬼部長に迫られてみろよ?」

 天狗種にしてはごつい顔の作りをしている木葉さんの、開いているのか瞑っているのかわからない細目が、糸切れのようにピクピクと瞬きで動く。相当、気色悪いと思っているのだろう。

「俺は無理だぜぇ?いっくら尊敬してても、顔も見たくねぇやってなるわな」

「でも、鶴さんは」

 無理じゃなかったんでしょう。と思って口走って、俺はハッとなり口を噤む。

「鶴さんは陰間だからな」

 木葉さんがハッキリと言い放ち、鶴さんの拳骨を頭に食らった。

「いってぇ、何するんですか」

「俺を罵るなら、痛い目見る覚悟つけてからな」

「別に罵ったんじゃないですよぉ、事実じゃないですか」

「うるせぇよ、てめぇ百まで寝小便してた事言われんのやだろぉが、それと同じだ小僧」

「あ、あ、あーっ、なんでそれ知っ……、言わないでくださいよぉ」

 渋い木葉さんの顔が、みるみる赤くなって行くので、鶴さんは肩を揺らして笑った。俺も一緒に笑った。

「おめぇら、うるせぇ」

 眠りこけていた赤鬼部長が、唸って鶴さんから体を離し、目覚めた。今度は鶴さんの体が、赤鬼部長の方に少し寄った。

 第一営業部の妖怪は皆、口には出さないが、赤鬼部長と鶴さんは、そういう仲なのだと思っている。その所以は元番(つがい)同士という前科があることと、こうした小さい事の積み重ねから。

「はい」

 急に手を上げた俺に、場の全員が同時に注目した。

「えっと、つかぬ事を伺いますが、その、お二人、赤鬼さんと鶴さんは、衆道の関係なんですか?」

「「あ?」」

 鶴さんは心なしか面白そうに、赤鬼さんは忌々しそうに同時に声を上げた。

「違ったらすいません、何かちょっと気になって、違いますよね、……?」

 赤鬼さんがボリボリと顎を掻き、鶴さんが腕を組んだ。

「あ、……なんか、ごめんなさい」

 山神さんに助けを求めると、困ったように笑っている。万事休す。鶴さんに胸ぐらを掴まれるか、下手をすると赤鬼部長に低い声で脅かされる。

「おまえ、どっからどう見て、俺と大将がデキてると思ったんだよ」

 予想外、鶴さんはばつの悪そうな顔で、理由を聞いて来た。どこからどう見ても出来ているように見えますが、と答えて良いか迷う。

「そういう仲の頃もあったが、今は違う、……」

 ぼそりと赤鬼部長が応じてくれ、さらに忌々しそうな顔で続けた。

「この陰間が浮気しやがったんだよ」

 うわぁ、と木葉さんが口に手を当てふざけ、山神さんが少し慌てたように鶴さんの様子を伺った。俺は大人の事情を知って衝撃を受けつつ、赤鬼部長を憐れに思った。

 鶴さんは今ではその事を反省しているのか、心なしかションボリと下を向いた。また、余計な質問をしてしまった。

「……親分、甘味が届きましたよ」

 丁度、店員から甘味を受け取ったばかりの山神さんが、にこりと笑って鶴さんの前に甘味を置いた。

 鶴さんの瞳にみるみる元気が戻り、俺は山神さんを拝む勢いで眺めた。山神さんは心配そうに、鶴さんを見ている。しかし、湧水で磨いた墨を落としたような、澄んだ鶴さんの黒目には、もう甘味しか映っていない。

「鶴、痛風になるぞ」

 赤鬼部長が脅かしたが、鶴さんはそれを無視して、もくもくと食べ始めた。

「親分、半分までですよ」

 山神さんの言葉に、ピタリとスプーンが止まる。

「半分食べたら、後は私が頂きます」

「山神、おまえ、甘いの苦手だろ」

「親分が痛風になっては困りますから」

「あ、それじゃぁ俺貰います」

 木葉さんが手を上げると、鶴さんは歯をむき出して顔を顰めた。赤鬼部長がぷっと噴出し、山神さんが助かりますと笑いを堪え応じた。

 木葉さんは先程の意趣返しとばかりに、まだ半分も減っていない状態の甘味を、さっさと鶴さんから奪った。

「これ、うまいっすねぇ」

 木葉さんは怖いもの知らずである。

 

 そこで、きゃぁーと高い声が聞こえ、我が『怪PR社』の誇る巨乳美女、第二営業部の飛頭さんが胸を揺すってこちらに急ぎ足でやって来た。

 一緒に火紗さんが居る。

「ワッ……?!」

 声を上げた俺を、山神さんがしっと唇に人差し指を当て叱った。

「ごめん永ちゃん、遅れたぁ」

「おう、こっちだ」

 火紗さんが俺の横に座り、飛頭さんが鶴さんの横に座った。

「お身内でお楽しみのところ失礼します、私は『あやかし広告』の火紗でございます」

 火紗さんが木葉さんにだけ名乗った。赤鬼部長と鶴さんとは、既に知り合いという風である。そこでやっと、俺は仕組まれた事に気がついた。赤鬼部長と鶴さんは、初めから俺に、火紗さんとの関係を吐かせる気でいたのだ。

飛頭ちゃんが一回、仕事で一緒になったんだ、その伝から来て貰ったんだよ、……いや、久しぶりだな火紗」

 前半で俺に説明をして、後半で火紗さんに挨拶をし、鶴さんは口端を上げた。飛頭さんが甘えるように鶴さんの腕に腕を絡めた。

「ご無沙汰しておりました、高輪の親分、相変わらずお綺麗で」

「ちっ、人休みで目付なんて高級職につくから、俺ぁ、その後、声が掛け辛くなったんだぞ」

「はは、申し訳ございません、一度やってみたかった職でございましたから」

 火紗さんと鶴さんの間で、ポンポンと交わされる弾んだ会話を聞きながら、俺は少し顔を曇らせた。いかにも知り合いという二人の様子が、俺の胸のうちにジワリと沁みを作って行くのだ。これの正体は、わかっているが、わかりたくない。

「おい栗犬、ヤキモチ妬いてねぇでちゃんと向き合え」

 赤鬼部長が、ズバリと指摘して来たために、俺は顔を上げて、ぶんぶんと手を目の前で振ってみせた。もう、放っておいて欲しい。

「ヤキモチか、嬉しいね、栗犬」

 火紗さんは古猫らしい鋭い三白眼を細め、色の黒い男顔を俺に近づけた。短く、ふわりとした火紗さんの髪が、窓から入って来た夜風に揺れ、香の薫りがした。

「少しやつれたかい?」

 悩みで二週間、飯がのどを通らなかったせいだろう。俺は眉を下げて、火紗さんを見た。

「貴方がやつれるような事を言うから」

 酔いのせいで、言葉にセーブが掛からず、俺は嘔吐するような不快を覚えながら、続けた。

「貴方が、俺の気持ちも知らないで……っ」

 皆が、固唾を飲んで身守っている、この環境が何とか、ブレーキを作っている。火紗さんをここ数日、避けていた分、伝えたい事が溜まっている。

「おい木葉ぁ、吐くならトイレにしろぉ」

 その時、突然、赤鬼部長が木葉さんに脈絡のない声を掛け、木葉さんがえっという顔をした。

 しかし、すぐに合点の言った表情を作ると、手を口に当て、すいませんと呻いて席を立った。その後を赤鬼部長が追う。

「おら、立てるか?」

 赤鬼部長に気遣われつつ、木葉さんが退室し、飛頭さんが心配そうに二人の後ろ姿を眺めた。すると今度は鶴さんが、うっと口に手を当てた。

「俺も具合悪ぃや、飛頭ちゃん肩貸してくんねーかなぁ」

「やだぁ、永ちゃん、大丈夫?」

 鶴さんと飛頭さんが席を立つと、いよいよ俺と火紗さんの他には山神さんしかいなくなり、彼が去ると二人きりにされる。

「山神さん」

 山神さんを縋るような目で見ると、ふわりと天狗種特有の下がり目で優雅に微笑まれてしまった。

「親分には、すぐに席を立つよう指示されていますが、一つだけ、忠告させて頂きます」

「忠告・・・?」

 山神さんは腰を上げ、俺達の向かいに座り直した。そして、鶴さんが飲み残した日本酒を引っ掛けると、ふぅ、と息を吐いた。

「栗犬は負けず嫌いで、強がる性格ですね」

 何を言われるのかと緊張して、火紗さんを見ると、火紗さんは真剣な目で山神さんを見ていた。

「なかなか、素直になれない」

 山神さんの言葉に、顔を顰めた俺とは逆に、火紗さんはウンウン、と力強く頷いた。

「親分と良く似ている」

 山神さんに言い切られ、俺は脳裏に俺の陰気な犬顔と、鶴さんの艶やかな人形顔を浮かべた。

「いや、全然、似てませんよ」

 眉を顰めて否定すると、山神さんは笑った。

「顔貌じゃありませんよ、性格の話です」

 それから急に困ったような、泣きそうな顔になった山神さんに、俺と火紗さんは二人して驚いた。こんな切ない表情をする山神さんは、見たことがない。

「栗犬、先程の貴方の質問に、赤鬼さんが、親分の浮気が原因で別れたという発言をした事、覚えていますか」

「はい」

 木葉さんがちょくちょくつまんでいたが、食い気より飲み気で進んでいた席には、鳥の叩き肉や釜飯がまだ残っていた。山神さんは少し考えてから、釜飯を椀に三つ分けて、俺と火紗さんと自分の前に置くと、箸を取った。

「あれは浮気じゃなくて、略奪だったんですよ」

 ぞっとする程、暗い声だった。

「幕末の頃、赤鬼さんと親分は衆道の関係にありました。そして赤鬼さんは攘夷を強行しており、西洋悪魔と至る所で戦っていたのです」

 あの頃、西洋悪魔達は強かった。肝を加工する技術がずっと進んでいて、自分の魔力を三倍、五倍にして闘っていた。また、肉弾戦を好む日本妖怪に対し、悪魔達はこれも、肝を加工して利用出来る、光線や波動という武器を使った。

「年々、日本妖怪はその数を減らし、赤鬼さんもまた、ある悪魔に敗れました。この悪魔が、赤鬼さんの色だった麗しい『鶴』、親分をまるでモノのように、戦勝品として本国に持ち帰ったのです。親分は格闘技が強いから皆さん忘れがちですが、鶴種は戦えるタイプの妖怪ではありません。赤鬼さんを倒す程の悪魔に、敵うはずがなく、その身を質にされたのです。用意周到な親分は、悪魔に攫われる際、半死人の赤鬼さんが自分を追って来ないよう、浮気に見せる努力をしました。一世一代の大芝居でした。親分は赤鬼さんに『人の皮』を二つ渡し、青鬼さんと使うようにと言い残して日本を発ちました。自分は悪魔に連れ去られて殺されると思っていたので、赤鬼さんのその後を青鬼さんに託したんです」

 山神さんはその場に居たのだろう、少し青ざめ、言葉を続けた。

「だから、私は赤鬼さんが親分を浮気者と責める度に、悔しくなるんです、あの浮気、いえ略奪で一番苦しんだのは親分だ。赤鬼さんのために身を犠牲にしたのに、それを責められる親分が不憫で仕方がない。でも、親分はその事実を隠します。真実を知れば、赤鬼さんが自分を責め、深く傷ついて思い悩む事がわかっているからです、あぁ、まったく、愛情とは厄介なものですね、何て不平等なんでしょう、惚れた弱みとはよく言ったものです、忌々しい」

 感情に任せて声に怒気を含ませる山神さんを、山神さんの話す、事の真相を、俺は胸を痛めながら見守った。店の中は客が減り、静かで寂しい音しかしなくなった。

「俺は鶴さん程、優しい理由で事実を隠してるわけじゃないですよ」

 何となく、山神さんが俺に伝えようとしている事がわかり、落ち着いた気持ちで言葉を選んだ。酒の酔いはもう完全に抜けていた。まさかここまで、掴まれているとはと苦い気持ちになっていた。

「火紗さん」

 横に座る火紗さんを見て、その眼差しの優しさに、胸が苦しくなる。やはり、火紗さんの気持ちに応えるのは、まずいような気がする。火紗さんは山神さんと視線を交わした。

 山神さんは、願うような顔をした。

「最終的に、判断するのは貴方ですよ、栗犬」

 高鳴る心臓の音に耳を傾け、言葉が口の中に充満するのを待った。どのように告白しよう。

 俺はとうに、言う事に決めていた。

「山神さん、鶴さんの話、……教えてくれてありがとうございます」

 俺はこれまで、俺の不幸に火紗さんを巻き込みたくないと思っていた、その一心だった。しかし気がついた。俺が火紗さんに隠していたい事実は、絶対に後でバレる事実だ。その時、火紗さんの苦しみは何れ程になるのだろう。鶴さんの秘密は永遠に隠しておけるものだが、俺の秘密は、どんなに俺が頑張って黙っていても、隠してはおけないもの。

「火紗さん、俺は近々消えてしまう妖怪です」

 慎重に言葉を選ぶ、自分の心が滅入らないように、火紗さんがショックを受けすぎないように。

「俺は、日本狼の幽霊が集合した妖怪でしたから、成分である日本狼が絶滅してしまっては、もう生き残れないんです、……今は肝を食って元気ですが、百年前と比べると体が消える発作なども頻繁にあって、医者には持ってあと十年程だと言われました」

 言い終わった俺の目には、涙が溜まっていた。自分を惜しむ気持ちの他、火紗さんに好かれているのに、悔しい気持ち、火紗さんの悲しみを想像して、苦しい気持ちから溢れた涙だった。

 火紗さんはゆっくり頷いて、そっと俺の手を握った。火紗さんの手の熱に感極まって、俺は思わずすみませんと呟いていた。堪らずに抱きつくとがっしりと抱き返される。

「教えてくれて、ありがとう」

 耳元に火紗さんの声がして、何だか幸せな気分になった。

「おまえが私を拒むのには、きっと何か理由があるのだろうと思っていた、けれど、恥ずかしい話だが、私は……もう好かれていないのかもしれないとも思っていて、ずっと不安だった。だから不謹慎にも、おまえの私を拒む理由が、私個人に依るものじゃなくて、少し喜んでしまったよ」

 火紗さんの声は、震えていた。

 恐怖の他に、感激が込められていて、言って良かったと目を瞑ると、火紗さんの心音が耳に届いた。

「私はおまえに、残りの時間を私と過ごした事を、幸せに思って貰えるよう、最大限の努力をすると誓う、だから一緒になってくれ」

 火紗さんに求愛されたのは二度目だ。一度目の時は、後ろめたくて何も言わずに逃げてしまった。

「はい」

 消え入りそうな声で、頷くと火紗さんは満足そうな笑みを見せて、ぎゅっと強く抱きしめて来た。火紗さんの体からする香の薫りの中で、俺は悔しさと嬉しさが溶け合って一つになるのを感じた。この人と過ごせるこの先の時間が、限られてしまう悲しさと、消える前にこの人と巡り会えて良かったという喜びと、心の中の思いは、非常にごちゃごちゃして整理が出来ない。ただ一つ、命が続く限り、この人に良い思いをさせたい。そして、消える時、この人と一緒で良かったと思いたい、という事だけは明白だった。

 真実を伝えた俺を見て、山神さんはほっとした顔をして席を立った。

 

『李帝の寵愛、鶴の忠誠』(大妖怪の皇帝×ボロキレ妖精)

 生まれ育った武蔵を離れ、駿河丹波、須磨を転々と暮らしてみた。出雲や長門を見聞し、筑前に着いた頃、鶴はその男に出会った。

 倭国の端にある土臭い港町に、まるで天上人のような一行が降りて居た。人間世界では、数万の兵を乗せた艦船が、まだ海の上で睨みを聞かせていたが、妖怪世界の侵略者達は既に港に降りていた。真っ先に闘いに身を投じ、撃たれた瀕死の鬼達がゴロゴロと転がっている恐ろしい港場で、小妖怪どもは息を顰め、事の成り行きを見守っていた。
 鶴はやっと百を過ぎ、安定したばかりの精霊で、もしあの天上人達に見つかったら、俺の命は無いだろうと直感していた。出来うる限り見聞を広め、逞しく育てという親の言葉に従って、各地を旅し、何か変わった事があればそれを知ろうと足を運び、ここまで生きてみたが、まさかこのような危険な現場に飛び込む事になろうとは。鶴を生んだ二匹の女鶴は、己の命を犠牲に鶴を育てた節があり、二匹のためにも何とか生き延びたい。しかし、背骨にビシビシと響いて来る嫌な予感は、紛れもない死の息遣いである。
 船着場のある入江は広く、港としていくつもの店が賑わっていたが、入江を囲う崖の上には青々とした緑が広がっていた。
 ただならぬ妖気に森の獣達は逃げていたが、精霊や小妖怪どもは、動けばそこに居ると気づかれ殺されるとわかっていた。
 現に数時間前、重圧に耐え切れず飛び去ろうとした飛頭蛮が、じゅわりと消し潰された。
 額から汗が落ち、ぽたんと手に沁みた。いつまでここでこうして、じっとしていればいいのだろう。
 天上人達は綺麗な珍しい柄の着物を来て、華やかに上陸したと思えば、襲いかかって来た鬼達を次次と瀕死にしてその場に茶会のような陣を作った。小高くなった見晴らしの良い場所である。そこに台のようなものを置いて腰を掛けると、物を食い酒を飲んで休み始めてしまった。
 天上人達が来るというから、慌てて茂みに隠れた鶴達小物の緊張など、まるで意に介さず、悠々としている。

 上陸から五時間経ち、鶴はじっとしている事に疲れて来た。足が震え、今にもガサリと音を立てて倒れそうである。木立の隙間から見える天上人達は、何か書物を手に話し合いを始めていた。
 その時、砂浜の端で、体の半分を消し飛ばされて転がっていた鬼が目を覚まし、首だけを飛ばして攻撃を仕掛けた。狙うは天上人の中心に居る、下がり目で整った顔だちの、背の高い指導者である。危ない、と思わず考えた鶴は発想が可笑しかった。鬼の首がこの指導者を倒せば、鶴達小物も解放されるのに。

 しかし鶴の思いが通じたのか否か、鬼の首はクシャッと音を立てて消された。妖力の差というのは、これ程まで闘いを一方的にするのかと鶴は目を瞑った。せめてこの指導者ではなく、別の物を狙えば、痛恨の一撃ぐらいは加えられたはずである。
 闘いの前にまず名乗りを上げるという不利な決まりごとにさえ従わなければ、鬼たちは侵略者達に決して負けていなかった。現に港には鬼の他、撃退された侵略者の負傷者も多く溢れていた。先の攻防では、空中で鬼に消し潰された侵略者達の姿もよく見えた。
 大陸の妖怪と、倭の妖怪との間にそこまで実力差はない。むしろ、数の少ない鬼種のみで、あの大量の大陸妖怪を良く蹴散らしたと思う。鬼種以外の倭の妖怪が、腰抜けだった事が非常に悔やまれる。
 勇ましい鬼種達の陰で、こそこそと一斉に茂みに隠れた倭の小さな妖怪達の嫌な側面を見せつけられ、鶴は少し気分を害していた。精霊である自分が歯痒く感じた程だ。
 どうして自分は妖怪でなく、精霊なのかとも思った。精霊は殺生を禁じられている。

 え゛あ゛ぁあぁと奇声を上げ、若い鬼種がまたあの指導者に向かい突撃した。首の鬼が消されたのを見ていなかったのか。
 距離が縮まるその前に、じゅっと消し潰される。大陸から来た大量の妖怪兵は恐ろしいが、この威圧感と絶望感はすべて、あの指導者が存在しているせいだ、と鶴は見抜いていた。
 倭国を旅して回り、沢山の強力な妖怪に出会ったが、あんな圧倒的な力を持つ妖怪は初めてである。興味深いが、近づくには恐怖が優り、動けない。自分がせめてもう少し、特の高い精霊か神か強い妖怪であればと悔しく思ったが、生まれ持った力量には従わなければならない。
 分不相応な望みを果たすには、時と場合を踏まえて、仕掛けなければ。
 そう堅く決意した矢先である、足が滑りガサガサと音がした。青くなった鶴の横には、もっと青くなった小妖怪が居た。同じような場所に隠れていた仲間と思っていたが、この小妖怪はわかっていた。鶴が音を立てた、この方向に妖圧が来る事を。そこら一帯を、じゅっとやられる。
 小妖怪は鶴を蹴って、己の助かる道を開いた。崖から、ぽんと身が放られて、宙に無防備に浮いた感触。死という概念と予感と、凡ゆる感覚が生の終わりを知らせて来た。

 鶴は生涯の最後に、育ってきた故郷の仲間に見捨てられ、あの指導者ならびに恐ろしい天上人達の目の前に落ちた。叫び声は出なかった。必死に崖を登ろうと、背から羽を出して羽ばたき、その羽をバサリと切り落とされると今度は走って森の方へ逃げた。前を塞ぐ大陸妖怪を蹴り飛ばし、突き飛ばし、道を開こうとするが後ろから押さえつけられる。
 転ばされた拍子に砂を掴んで投げつけ、腕をつかもうとして来た者を引っかき、後ろから羽交い絞めにしてきた者に噛み付いた。
 バキンと音がして、足の骨を折られた事がわかると、さすがに悲鳴が上がった。息が出来ず、目の前がチカチカする。痛みで涙と鼻水が出て、砂がそれにひっついて顔がベタベタになった。隠れている間にたっぷりと体中に掻いた汗にも砂がついて、とにかく気持ち悪い。
 あの指導者の元へと、ずるずる引きずられている間、折れた足から痛みの強い波が押し寄せて来て、小便が漏れそうになった。ふっ、ふっ、ふっ、と息が上がる、痛みに悲鳴を上げたいが、泣き叫んであの指導者の前に晒されるのは余りに惨めだと思い耐えた。
 ごしごしと顔を擦られ、大陸妖怪達の何か、からかうような声色がして、胸元を開かれた状態で固定され、顔を上げるとあの指導者が居た。下がり目には静かな知性があり、整った顔には慈愛がうかがえた。その見目の麗しさに懐かしさを覚えたのは、幼い鶴を取り巻いていた両親や育ての親たちが精霊で、美しい顔をしていたためだろう。
 指導者の周囲に居る、武人らしいごつい男達が、にやにやとこちらを見ているので、足の痛みにまた呻きそうになるのを目を瞑り歯を食いしばって耐えた。武人達の前で、ぎゃぁぎゃぁと喚く醜い弱者になるのは嫌だった。殺生は禁じられているが、武芸には興味があり、鶴は武人に憧れていた。骨のある奴だと思われたいなどと、処刑される前であるにも関わらず思っていた。今殺された奴、泣き叫ばなかったなと一言でも良いから評されたい。
 指導者は鶴を汚いものを見るような目で眺めており、それでいて決して目を逸らさない。何か嫌な風に殺そうと考えているのかもしれない。少し我慢強そうだから、より苦しいやり方で死なせて回りへの牽制に使う見世物にしようか、などと。思われていたら。
 自分の考えにぞっとしている鶴の身から、男達が服を剥ぎ取って行く。冬の薄着に、鶴はぶるりと身を震わせた。痛みのあまり、漏れそうになっている小便が、さらに漏れそうで、腿を震わせる。
 男の手が股間を弄り始め、鶴はぎょっとした。ごりごりと尿意を促そうとする。腰を捻り耐えたが足の骨の折れた場所をぐっと押され、急に来た痛みにシャァ、と下が濡れた。誇りを保とうとしていた心が折れて、ぼろぼろと涙が出た。尊厳を傷つけられ、これから命も奪われる。弱者の運命の残酷すぎる現実に、鶴は嗚咽を上げた。
 冷たい海風が、涙と鼻水を冷やす。武人たちの薄ら笑いが耳に届き、殺すなら早く殺して欲しいと思った。その数秒後、鶴の股間を弄って来て、骨の折れた場所を押したその男の首が、ごん、と目の前に落ちた。
 息の止まる思いでそれを見ると、首の中のごちゃごちゃした管や肉がわかって、吐き気がして目の前が真っ暗になった。
 頬を叩かれ、一瞬気を失った事がわかり、疲れきった頭が投げやりな心を作った。もう、どうにでもなれ。
 夕暮れで、海の向こうが赤く染まっており、入江の端の森が色づいて美しい。この景色を明日も明後日も見たいという欲求が起こり、涙が溢れた。
 指導者の男が、横に立つ背の低い男に何か囁いた。
「おまえ、名は」
 侵略者の陣営で、初めて聞いた倭語に、鶴は目をぱちぱちした。
「ツル」
 掠れて、聞き取るのも難しい音量だったが、背の低い男は指導者に耳打ちした。指導者は頷くと、何か言った。指導者の口から、ツルという単語が出た事に、妙な高揚を覚えた。俺の名を呼んだ。絶望していた心に、熱が入ったような、くらくらした感じがして鶴は呆けた。
「李帝はそなたに詫びている、そなたの誇りを汚した部下を恥じている、良く悲鳴を上げなかった、痛みに強い果敢な男だと」
 翻訳しているためか、言葉の順番に違和感を覚えたが、それより指導者が鶴の思いを汲み取り、評価してくれた事に、喜びを通り越して奇跡が起きたような、信じられない気持ちになる。
 夢を見ているのだろうか。無力な、しがない一精霊が鬼をも消し飛ばす大陸の大妖怪に名を呼ばれ、褒められた。
 指導者の優しげで厚みのある声が、鶴の耳をまた擽った。何を言っているのかはわからないが、指導者が鶴の名を口にする瞬間、ツルという音が指導者の口から出る度、体中に大量に汗を掻く。
「李帝はそなたの望みを一つ、叶えると言っている」
 翻訳家の言葉に、鶴ははっとした。
 もしかすると、命を見逃して貰えるかもしれない。取り乱して泣き叫び、命乞いをするのは醜いが、きちんと分を弁えて命乞いをするなら、それは立派な生きようとする者の手段として捉えて貰えるだろう。
「李帝様」
 指導者の名を呼んで、膝と額を地に擦り付けた。
「私は、百を少し過ぎたばかりの若輩でございます。分を弁えず御前に現れた無礼を許して頂けるのなら、恥じ入ってお願い申し上げます。……どうかこの命、見逃してくださいませ。苦労して私を育てた両親に免じて、切にお願い申し上げます」
 自分の漏らした小便の匂う中、額を土につけたまま、ぎゅっと目を瞑り判決を待った。李帝の声がまた耳に響く。また、ツルと鶴の名を口にしてくれた。それが嬉しくて、このぎりぎりの状態で妙に甘い気持ちになる。
 許されても許されなくても、李帝とはこれで最後である。死別となるか、見逃されて離別となるか。
 ふいに、李帝の傍にもう少し居る術はないかという考えが浮かんだ。恐れ多い事だと打ち消しても、李帝が普段はどんな生活をしていて、どのように生きているのかが気になった。そして、どんな者達と関わり、どんな顔をして、どんな考えを持って日々過ごしているのか。それが知りたくて知りたくて辛くなった。
 こんな短い間に、自分は李帝を好いたのだと気がついた。
 悲鳴をあげまいとして頑張っていた自分の心を見抜いてくれた時と同様に、この胸に沸き起こった好意を、また、李帝が見抜いてくれはしないかと願う。李帝の傍で生きてみたい。
 ツル、と李帝の声がした。
 尿の匂いを打ち消す、香の良い薫りが体を包んだ。上品で、位の高い美しい木が、そこに居るような錯覚に陥り、鶴は頬を赤くした。頭に、冷たくて少しだけ重い手の感触がして、顔を上げるとすぐ傍に李帝の顔があった。驚いてビクッと身を震わせると、その冷たくて少し重い手が、今度は頬を触った。分厚い男の手の、優しい肌触りに、とろりと眠気を誘われる。安心と一緒に体の奥が疼くような、妙な気持ちにさせられる触り方だ。
「ツル」
 李帝がまた、鶴のためだけに口を開いた。
 甘い顔が、穏やかに鶴を見つめている。初めて目にしたものを、その存在を確かめるために触って、その名を呼んでみる赤子のよう。李帝は鶴を触って、呼ぶと、満足したように鶴から身を離して行ってしまった。

 その後、李帝の望みで船に招かれた事を知ったのは、なかなか身の拘束が解けず、やはり殺されるのかと落ち込んでいた真夜中の事だった。翻訳家がやって来て、鶴の折れた足を治してくれながら鶴の今後の身の振り方を教えてくれた。
 体を洗い、大陸の服を着た鶴は、李帝の身辺の世話をする見た目の綺麗な男達の群れの中に放られた。男達はプライドが高く、鶴とは口を利かなかったが、鶴は男達の仕事を、見よう見真似で覚える事が出来たので、特に問題はなかった。
 李帝は特に鶴を気にかけるという風はなく、たまに通り掛かりに「ツル」とからかうように名を呼んでくれるぐらいだった。
 船での生活については順風満帆。鶴はこれまでの旅路で船酔いを克服していたので、船の上で具合を悪くして、床に伏せってしまった他の綺麗な男達を尻目に、せっせと李帝の世話に回れた。他の者より多く李帝の傍にいられることに浮かれ、始終にこにこしていたら、あの翻訳家に李帝への想いを見破られ、からかわれる始末だった。

 ある月の大きな日、李帝の酌係として、夜通し傍に侍る機会を得た。招かれていた武人達が去ると、李帝は鶴にも酒を勧めた。李帝と並ぶと、李帝の香の匂いが漂って来て、腰や尻の肉がむずむずした。命乞いをしたあの日のように、体のどこかに触れて欲しい。頭でも頬でも、どこでも良いから李帝に触って欲しくなった。その鶴の思いを察してくれたのか、李帝が不意に鶴の顎に指を触れた。それから額を撫で、長くしていた前髪を耳に掛ける。李帝の手は、今度は熱くて軽かった。
 触れる力が弱く、もっとぎゅっと、感触のわかるように触って欲しくて、鶴は李帝をじっと見つめた。
 この機会にしか、言えないだろうと息を吸い、翻訳家に頼んで教えてもらった大陸語で、「貴方を尊敬しています」と伝えてみると、李帝は少し困った顔をして、鶴に触れるのをやめた。

 李帝に酌をした夜の思い出は、その後数日、鶴を幸せにした。欲を言えばもっと触って欲しかったし、何か語りかけて欲しかった。しかしそれには、鶴は大陸語を知らなすぎる。どうにかして大陸語を学ぼうと、共に働く者達の会話に耳を傾け、自分に何か指示をする人間の表情から感情や意図を察する訓練をした。
 暇があれば翻訳家を引き止め、あれこれと学んだ事を確認し、書き言葉も誰かの仕事を手伝う事で、お礼として教えて貰った。
 しかしそこで、問題として浮上して来た事。
 船に乗っている人間が全て、同じ言葉で喋っているわけではない事がわかった。そして、鶴が必死で言葉を覚えようとしている事が、船の上では有名になっており、語族同士で、同じ言語の者を増やそうという気持ちから諍いが起こり始めていた。鶴がどこの語族の言葉を覚えるかで、喧嘩が勃発するようになり、李帝がそれに余り良い顔をしていないという噂が耳に入った。
 鶴は少し頭を冷やし、手当たり次第に覚える方法を諦め、大陸についてから李帝の膝下で、李帝の操る言葉のみを覚えようと的を絞る事に決めた。そして、それまでは武芸を極めようと、今度は日々与えられる飯や褒美に貰えた酒などを貯め込み、それを献上する事で、武人に稽古を付けて貰うようになった。
 一方で、李帝は少し倭語を覚えたらしく鶴を呼ぶときに「可愛いツル」と呼ぶようになった。この呼び方を初めて聞いた時、鶴は驚いて持っていたグラスを割ってしまい、李帝に声を上げて笑われた。恥ずかしさと嬉しさで、泣きそうになったが、その気持ちを何と表現して良いのかわからず、じっと黙っていた。

「李帝は?」
 鶴の問いはいつも、飽きもせず李帝の有無の確認である。翻訳家は苦笑して、私にはわからない、と応じた。
 大陸に着いてから数ヶ月、鶴は李帝の姿を見る事が出来なくなった。李帝の身は忙しく、鶴の身は不安定だった。あの翻訳家が、自宅に鶴を庇い入れてくれ、何とか宿の目処が立ったものの、翻訳家の妻は鶴に良い顔をしなかった。早くこの家を出なければという気持ちと、このまま李帝とは会えない暮らしの中に、身を投じるのかもしれないという気持ちが、鶴を焦らせた。
 翻訳家はそもそも城の者ではなく、倭との商いに関わっているだけの商人だった。だから鶴が、李帝は今どうしているのかとしつこく聞いて来ても答えようがなく、私の出かけ先は城ではない、とついに苛立って鶴に弁明した。
 そんなに李帝が気になるなら、私の家を出て城に入ると良い。
 翻訳家の放ったその言葉に、鶴は一言も言い返せなかった。
 今の鶴に、城に入る術などない。翻訳家はそれをわかっていて、少し落ち着けという意味で、鶴にそんな台詞を吐いた。翻訳家のその心をわからない鶴ではない。鶴はその日からしゅんとして、ただし手伝いにはきちんと精を出し暮らし始め、どこか地に足のついたような顔つきになった。自分は、李帝のような大妖怪の元に居られる身分ではなかった。そんな諦めの心に、頭を支配され始めた頃、翻訳家の家の前に李帝の豪奢な使いの輿が止まった。
 鶴は名指しされ、この輿に載せられると、さすがに数ヶ月ともに暮らして、少しは仲良くもなれた翻訳家の妻に心配されながら、城に連れて行かれた。
 李帝は鶴を数ヶ月放置していた事について、全くその意識がなかったらしく、昨日会った者に接するような調子で、鶴をじっと見つめるとまた「可愛いツル」と呼んだ。昨日姿が見えぬ事に気が付いて、慌てて探し出したのだという。
 鶴は顔を赤くしたり、青くしたりしながら李帝の真意を探ったが、李帝は単純に忙しく、鶴の事を忘れていたらしかった。
 その、余りに軽い立場が悔しく、小さな己の存在が腹立たしかった。恐らく、李帝は自分の側近、頼りにしている部下達の事は、数日でも姿を消したら訝るだろう。常に傍に置いている妻と思しき女が、数時間でも隠れたら、慌てて探すだろう。
 李帝にとって、なくてはならない存在になりたい。
 そのために、まず言葉を覚えた。これには翻訳家の元でやっていた勉強と合わせると丸半年掛かった。その代わり、何種かが混じっていた大陸語を数種類、覚える事が出来た。読み書きも出来れば、自分で詩を作れるようにまでなったので、鶴は李帝に向けて、時々詩を送った。
 返事は十篇に一度戻って来た。
 その後に李帝の周辺を探った。妻だと思っていた女は姉で、この姉が李帝以上の色好みであり、李帝の世話を焼く美男や美女の半分に手を付けていた。
 世話役から伝令役に身を移した鶴は、手を付けられずに済んだが、鶴とともに船に乗っていた数人は、この姉の手に落ち、姉を信奉している者が数居た。
 一方の李帝にも、もちろん色好みはあったが、それ以上に勢力の拡大を重視しているようで、人間世界の闘いに乗じ、妖怪世界で勢力を伸ばす事に注力しているらしかった。そのために各地から猛者を集めており、その猛者達を近衛と呼び、何かと言うとこの近衛達を傍に侍らせ、可愛がっているという。
 李帝が今、一番必要としてるのは、戦争の役に立つ人間だ。
 自分の身体条件を鑑みて、一番頼りになるような武人にはなれない事をわかっていた鶴は、情報戦略に長けた者になりたいと考えた。鶴は精霊故に、動物や草木の言う事がわかる。大陸語を覚えた今なら、それらの言う事を上手く使って、李帝に有益な情報を有む事が出来るだろう。伝令役の中で地位を確立し、情報役になるまでに一年掛かった。

 思えば船の中で、週に何度も李帝の傍に行けた日々が一番幸せで、恵まれていた。鶴は情報の運び屋として、李帝に有利な情報を届けたが、これは李帝に直接伝えられず、李帝の参謀に伝えるのが習わしだった。李帝は時々、鶴を見つけると「可愛いツル」と声を掛けてくれたが、時間のない李帝は数分と鶴の傍に留まってはくれなかった。
 李帝は武功を立てた武人の事しか見ておらず、気に入りはいつも武人の中から登場する。李帝の脇を固める近衛の武人たちは皆、鶴には逆立ちしても出来ないような武功を挙げており、こそこそと武芸を嗜んでいる鶴に、間接的に惨めな思いをさせた。
 城の中の、李帝の部屋に続く道に、伝令で近づくたび、決してその奥に居る李帝の元に行けない、近くて遠いその距離に、鶴はいつも涙が出そうになった。鶴が報告をしている最中、武人に囲まれた李帝が通る事もあり、その度に李帝は「可愛いツル」と声を掛けてくれたが、それだけである。まるで飼い慣らした珍しい鳥や獣を呼ぶように、李帝は鶴に声を掛ける。決してそこから先、信頼して傍に置くというところまで、鶴を近づけてくれない。

 三年が経ち、やっと鶴の武芸が花開き始めた。
 鶴は知略を駆使して、最小限の武力で武功を挙げる術を覚えた。今や情報役の顔である。情報役として、各地を回りながら不穏な種を潰す。この働きは李帝の心に響いた。
 鶴がただの情報役であった頃、決して入れて貰えなかった李帝の部屋に、他の武人に交じり、入室を許された時、鶴は胸が始終高鳴って苦しかった。見栄えの良い体格の、他の武人たちに比べ、鶴は貧相で頼りなかったが、力比べの席を設けられても、少しの力で大きな者を倒す術を持つ鶴は、決して負けっぱなしではなかった。天賦の才を持つ者には勝てずとも、腕力だけで物を言って来た中堅の近衛には勝利した。
 李帝はもう鶴を「可愛いツル」と呼ばず、信頼の目で、「ツルの意見が聞きたい」と言った。鶴は李帝のために働くのが嬉しく、武功を挙げるのが楽しく、自分が精霊である事が歯痒くなる程、血生臭い場所で生きる事に慣れた。敵を仕留める時は、部下にやらせなければならないのが面倒で、何度も自分で手を下そうとしたが、精霊の能力である動植物の言葉を失うのが怖かった。動植物の言葉を頼る以外にも、情報を得る方法を知っていた鶴だが、鶴にしかないこの能力を、李帝が褒めてくれるので、鶴は己の手が血で汚れないよう、常に気を配って生きていた。
 
 李帝の部屋に、出入りが許されるようになってから五年、一人だけ李帝の部屋に呼ばれた。李帝の部屋は広く、いくつもに分かれていて、そのうちの客間として普段使われている場所、柔らかい綿袋や絹が何十にもひかれた部屋に通された。
 李帝は寛いだ装いで、少し胸元の緩い姿だった。性的な匂いがして、照れている鶴に李帝は笑って手招きをした。
「俺の発音は可笑しくない?」
 耳を疑ったのは、李帝の口から出た言葉が、倭語であったため。
「どうして、その、発音は綺麗ですが」
 鶴は目を白黒させて、李帝を見つめた。
「ツルとツルの国の言葉で話がしたいと思った、・・・ツルが先にこちらの言葉を覚えてしまったから、悔しかったよ」
 李帝の声は優しく、気品に溢れていた。
 倭語に久しぶりに触れ、その懐かしさも胸に染みて、ぽろぽろと涙がこぼれた。
「もったいない事です」
 やっと絞り出せた言葉を、李帝はするりと受け流した。李帝の、今度はぬるく滑る手が鶴の長く伸ばした髪を梳いた。
「可愛いツル、ツルは頑張り屋だね、ここまで力を付けるなんて思わなかった。……俺はもう千年以上生きているけれど、こんなに胸を熱くさせられたのは、ツルが初めての相手なんだよ。だからこうして倭語を学んで、ツルの言葉でツルが好きだと伝えようと思った」
 顎を持ち上げられ、目の前に笑う李帝が居て、鶴は自分がもしかすると、李帝に性の対象として見られているのではないかと思った。その考えは浮かんでからぎゅぅっと鶴の胸を締め付け、その事が何か悪い事のような気持ちが起こった。もし、李帝に夜伽を求められたら、その時自分は李帝を満足させられるのだろうか。誰とも通じた事のない、初心者中の初心者である鶴の性技に、李帝は幻滅してしまうのでは。
 その恐怖が鶴の全身から力を抜き、鶴の身をくたりと床に溶けさせた。
「ツル?」
 心配する声で呼ばれ、鶴はまた泣いた。せっかく李帝から好意を得たのに、万全の準備のない自分が憎かった。
「まだ早いです、私にはまだ早い、……申し訳ありません」
「可愛いツル、俺が怖いの?」
 李帝の声は優しかった。頭を撫でられて、こくりと頷く。
「そう、それなら、怖くなくなったら教えてね」
 あっさりと、李帝は鶴の拒絶を受け入れて、鶴の前から姿を消した。おやすみ、と穏やかに言い捨てて、寝室に消えた李帝に、鶴は申し訳ないやらほっとしたやらで、何とも言えない感情を向けたまま放心してしまった。
 世話役の一人に追い立てられて、李帝の部屋から帰ってからも、放心は終わらなかった。
 李帝は鶴のために倭語を覚え、鶴を好きだという。
 朝の城は騒がしく白い陽光が降り注いで眩しい。鶴がこの先、己を犯した妖怪を手に掛けて動植物の言葉を失うまで、ずっと鶴の話し相手をしていた鳥がやって来て、放心した鶴の顔を可笑しいと笑った。この鳥は後々、鶴が言葉を失ってからも、鶴のために良く働いたが、この時程鶴の役に立った時はなかっただろう。
 鶴、李帝が部屋から見てるよ、変な顔はやめな。
 鶴は一瞬で顔を直し、李帝の部屋を振り返った。鶴を含む近衛が眠る寝所は、李帝の部屋の傍に揃っている。李帝が鶴に笑いかけるのが見えた。鶴は自分が、李帝の特別である事を意識した。
 次に学ぶ事は、性技である。これを覚えれば、鶴は他の武人たちよりずっと、李帝に気に入って貰えるだろう。



2016/07/13

『いやがらせ』(執着攻め×強気受け)


 体内に宿る怨霊を、コントロールする事ができなくなるのは、いつも情緒不安定な時だ。怨霊は容赦なく、既に定員数に達している体の中に入って来て、鬼李の体を膨れ上がらせる。出来たらすらりとした細身の男で居る事が望ましいと考えている鬼李の心を無視して、怨霊は鬼李を見上げる程の巨漢にしてしまう。
 
「うわ、鬼李さんまたそんな成りして」
 朝、会社のある時の鐘に続く小江戸の道を歩いていたら、後ろから聞き覚えのある低く甘い声がした。振り返ると秋晴れの青い空を背に、牛鬼が屈託のない笑みを浮かべていた。
「牛鬼ぃ、俺、具合悪いっぽい」
「見りゃわかりますよ、背ぇ高っ、いくつ?」
「センチで二百はあるかな」
「へぇ、かっけぇ」
 からっと笑って、隣を歩き出した色男を見下ろす。柔らかそうな癖のある黒髪から、艶やかに黒光りした角が覗いていた。
「牛鬼ってさぁ、肌白いよねぇ」
 つるりと房ごとにまとまった黒髪の間に、ちらりと覗く白い首や、鼻と頬の滑らかな肌の様子を見つめながら言うと、牛鬼はさっと頬を赤らめた。
「やめてください」
 下の方にある頭が少しだけ傾いて鬼李に向けられた。上目遣いに睨んできた黒い目は、アーモンド型に整い、睫毛がその縁を飾っていた。百八十センチを超え、全身に程よく筋肉のついた牛鬼を邪な目で見るのは鬼李ぐらいだろう。牛鬼は男として意識される事には慣れているが、若衆として愛でられる事には慣れていない。
「最近、鶴に辛く当たられててさぁ」
「お疲れ様です」
 鶴が鬼李に対して尖っている原因は、鬼李が疲れている鶴に強引に迫っているからなのだが、その背景には、鶴の赤鬼への横恋慕がある。嫉妬から、執拗に求めてしまっているのだ。鬼李は悪くない。
「俺、可哀相」
「はは、あんたらしい台詞だなぁ、……良ければ飲み、付き合うけど」
「宅飲みが良いなぁ、牛鬼ん家、落ち着くから」
「……」
 少し前なら、牛鬼は割と気楽に、しかし恥じらいつつ応じてくれた性交の誘い文句だが、今回は沈黙が降った。仕方がないかと溜息をついて、やっぱ外でいいや、と言いながら牛鬼の頭を撫でると、牛鬼はすいませんと小さく言って俯いた。
 昔、牛鬼が西洋に渡りたいと鬼李に相談を持ちかけて来た時、知り合いの伝を探してやって、その時から始まった関係は、こっそりと最近まで続いていた。丁度大陸に帰国の予定があったので一緒に日本を発って、その旅路で何度か交わり、だからといって互いに特別な関係を望むわけでもなく今日まで来た。
 誘うのはいつも鬼李からで、恋人がいない時は牛鬼は大体いつも応じてくれ、恋人が出来るとその誘いを撥ね付ける。最近、牛鬼がまた例のおかしな趣味によって、まだ百にも満たないみすぼらしい妖怪に夢中である事を、鬼李は知っていた。
「俺、前のあの子、何て言ったっけ、鼠男の……」
「俊輔?」
「そう、俊輔君の方が好きだったな、まだ可愛かった」
「あら太だって可愛いですし、やめてもらえませんか、人の趣味にケチつけるの。言っときますけど、あら太はとにかく性格がいいんです。頑張り屋っていうか、ひたむきでいじらしくて」
「あ、もういい」
「言わせろよ」
「いらない、いらない。興味ないもん。どうして毎回毎回、鼠男とか小豆とぎとか、小物ばっか好きになるの?」
「庇護欲をそそられて……」
 また頬を染めて、惚気る牛鬼にふぅんと冷ややかな返事をしてから、すぅー、と息を吐くと怨霊が上手く体から飛び出した。シュッと身が縮み、牛鬼と同じぐらいの目線になる。すらりとした見た目になった鬼李と、筋肉質な伊達男の牛鬼が並ぶと人目を引き、すれ違った他社の女怪達からの視線が急に痛くなった。
「そういえば牛鬼って、女の子とあんまり付き合わないよねぇ」
「二百年ぐらい前に、揉めて執着されて、刺された事があって」
「トラウマになったわけね」
 並んでみると、整った横顔は惚れ惚れする程、凛として麗しく秋の冷たい空気に映えていた。
「鬼李さん」
「んー?」
「やっぱり今日、うち来ます?」
「えっ、いいの?」
 誘いに応じてくれたのかと思い、喜んだら、牛鬼は少し照れて、ちょっと確認したい事があって、と漏らした。これは単純にその気になっていいのか迷うところだが、牛鬼の照れた顔に少し期待をしておく事にした。

 怪PR社の営業フロアは、広く、ガラスで見渡せるようになっているため、がらんとしていると、とてつもなく寂しい。昼時の営業部員は外出中か、お昼休憩かで留守がちだ。ぽつぽつと残っている部員も、それぞれ一人作業を黙々としていて、全体的に静かである。
「牛鬼さん、これ忘れてますっ!」
 きゃんきゃんとした高めの男の声に目を向けると、今まさに外出しようとしていた牛鬼の後を、牛鬼の恋人にして補佐、小豆あら太が追いかけて行くところだった。ぼさぼさと髪量だけある猫毛やひょろりとした糸眉、その様相はとにかく、ぱっとしない。
「牛鬼って、趣味悪いよねぇ」
 鶴の机に腰を掛けて、営業フロアを眺めていた鬼李の呟きに、鶴は少し考えた間を作って反論した。
「俺ぁ、あら太は可愛いと思うけどな、感じ方は人それぞれじゃねぇか?」
「んー」
「最初は、きょときょとしててちょっときもいな、って思ったけど、笑うと幼い感じがして、なんかこう……癒されるっつーのかな、あと、性格の良さがなんか滲み出てるから」
 キーボードを叩きながらよく喋れるなと感心しながら鶴の姿を観察する。指の先まで整った人形のような美の化身、鶴は鬼李の想い人だが、鬼李の恋人ではない。
「鶴って、ちょいブサに弱いよねぇ」
「あ゛?」
「ああいう地味で冴えない奴とか、赤くてむさいオッサンとかさぁ、鶴が褒める奴の見た目って、大体微妙じゃん、自分が綺麗だから、真逆のものに惹かれるって奴なの?」
「待てよ、俺ぁ、あら太をどうこうしよーって気はさらさらねぇ」
「牛鬼もそうだよね、前の鼠男と良い、今回の小豆とぎと良い、俺には理解出来ない」
「何だ、さっきから牛鬼牛鬼ってよ、復縁でもしたのか?」
「俺と牛鬼の関係は一度だって恋人同士だった事はないよ、ただのヤリ友」
「……今の俺等だな」
 鶴と恋人同士に成りたくて、やきもきしている鬼李の心を知っていての、鶴の台詞にかちんときて睨む。
 しかし鶴は睨み返してきた。
 元来、肝の座った鶴は、ちょっとやそっとの事にはびくつかない。
「鶴、いつになったらお昼食べ行くの?」
「先に行ってろよ、少し時間が掛かる」
 同じ空間に居たら、喧嘩をしてしまう自信があったのでその場を離れた。

「……待ってたのか?」
 ばつの悪そうな顔をして、鶴が少し身を引くのを鬼李は見逃さなかった。鶴は恐らく、鬼李が去ってからすぐに己も席を立った。鶴は、鬼李がフロアからいなくなるのを見計らって、昼に出たのだ。
「一緒に食べようと思ってたから」
「それなら、言えよ」
「言ったら理由つけて断られるでしょ」
 沈黙した鶴の、腕を掴む。
「おい」
 鶴の額に、じわりと汗が浮かんだ。
「医務室行こうよ」
 腹立たしい男を躾けたいと思った。拒絶されている理由が分からず、繋がる事で何とか平静を保とうとしている。
「昼からか?」
 下を向いた鶴の表情は見えない。細い首から、ふわんと鶴の薫りがした。小さな肩を撫で、背を押すと鶴は医務室と反対の方向にトボトボ歩き出した。
「着替え、持ってくる」
「そんなの怨霊に運ばせるよ」
「……」
 非常識なタイミングで求めるようになったのは、嫌がられる理由を、タイミングの所為にしたくて。本当は、もっと情緒ある手順を踏み誘いたいのだが、恐怖がそれを拒んでいる。

「鶴っ」
 医務室に入ってすぐ、名を呼んで抱きしめ耳を噛むと、鶴の身は一気に強ばった。さらに首を噛んで、和装の間に手を入れ、ぐりっと乳首を引っ張ると、ぁ、と鶴の声が上がった。
「ひ、っ……ん」
 慣らさずにいきなり菊座に行為用の座薬を入れたら、さすがの鶴も驚いたらしく、悲鳴に近い嬌声を上げた。
「痛ってぇ」
 鶴の声は涙交じりで、胸がすっとしたが頭が痛くなった。じく、と濡れて来た菊座の中に、指を強引に出入りさせながら、頬にキスをする。
 ベッドに仰向けに押し付けて、覆いかぶさって唇を奪うと、鶴は、んっと身を捩った。ぬるりと柔らかな鶴の舌は甘い。和装の前を開いて、ぴんと立ち上がった乳首を出し、親指で潰すと、指の腹に柔らかな粒の感触がして興奮した。
 鶴の体は、どこを触っても喜びをくれる。
「っぁ、く」
 白くすらりとした鶴の腿を舐め、また噛み付く。すると、鶴の身はビクンと揺れて可愛いくなり、この時だけ憎さがゼロになる。
「噛むの、やめろっ」
 熱に浮かされた鶴の声がして、やだ、と応えると糞、と可愛くない返事が来た。
「鶴」
 呼ぶと、糸の引いた口の中を見せつけながら、鶴は唇をうっすらと開いた。口づけして中に舌を入れると、ふ、う、とくぐもった声を漏らし、素直に舌を絡めて来る。
「っんん、っぅ、ん」
 菊座をこねる指の動きに鶴の背が微かに波うちはじめる。快楽に喜んでいる体が、性器から白い液を零した。はぁ、はぁ、と息を吐いて、鶴は目を瞑った。拍子にぽろりと涙が落ちる。
「鶴」
 呼ぶと、ぽろぽろと涙が増した。
「泣く程嫌?」
「昼間から、は、」
 立場のある鶴を、こんな時間から拘束して、抱くのは良くない事だと、頭ではわかっている。
「ごめんね」
 だから謝る事は出来る。しかし。
「でも鶴が悪いんだよ」
 嫌がらせをやめる事は出来ない。
「なんで、おまえは、わからないんだ?」
「わかっててやってるんだよ?」
 嫌がらせだから、嫌な顔をされるのは仕方がない。この理屈が、今の鬼李の心を支えている。
「っぁ」
 鶴の中に性器を入れると、鶴は目をさらにぎゅっと閉じ、ふぅ、と息を吐いて、ふと目を開けて鬼李を見た。
「あ、っぁ?!」
 向かい合った体制で、鶴の乳首は並んで赤く立ち上がり、性器も半勃ちで酷く性的なのに対し、鬼李は下半身を少し露出した程度だった。
「んぁ、ああっ……は、ぅ……、や」
 ぬつ、ぬつ、と音を立てて菊座を貫く鬼李の一物を、鶴は眉を寄せて受け入れ、絞った。
「鶴、可愛い、可愛いね」
「や、……ぁアッ……ぅ、ぁ……ぁっ……」
 腰の揺れに合わせて上がる鶴の嬌声に、幸せな気持ちになりながら鶴の身に、キスを落としていき、また乳首を潰す。
「鶴の乳首、ぷちっとしてて、気持ちいい……ずっと触ってたい」
「ん、や、ふぁ、……こねるの、やめ、ぅ」
 乳首を擦られるのに合わせて、きゅぅ、きゅぅと中を締める鶴に、鬼李の一物は耐え切れず達した。次いで鶴も、ぷしゅ、と性器からまた白い液を出し、ビクビクと身を震わせた。
「ふク、ぅ……っ」
 一度達しただけでは、収まらない鬼李のものに対して、鶴の性器はしぼんで、フル、フル、と揺れて赤い残像を作っている。
「ウ、……ぅ、ぐン、ぁ……っ、んあ、……やっ……ぁ、アッ」
 ずる、ずる、と今度は動きを大きくし、鶴の身全体を揺する。ギチ、ギチ、とベッドが鳴って、狭い医務室の気温がぐっと上がって行く。自分の体と、鶴の体が、みるみる熱を持って溶け合って行くような錯覚。
「んぁっ、……!」
 蕩けた薄目で喘いでいる鶴が、ふいに深く突かれた瞬間、ぎゅっと目を瞑る。その顔に興奮する。
「っぁ、……っは、ぁ、……ぁゥ、う」
 細かく震えて、何かを堪えている。次はどんな顔になるのか。見てみたくて執拗に突いていたら、鶴は眉間に皺を寄せたまま、次から次へと涙をこぼしはじめた。体力的にきついのだろう、少し顔色が悪い。それでも、気持ちよくはあるようで、性器がまたぴんと勃ち上がってきていた。
「ぅ、……も、やめ、鬼李、っぃ、ん……、しつっけぇ……っぁ」
 眉をひくひくと動かし、目元に苛立ちを潜ませて、鶴が唸る。
「っや、ぁ、ああ?!……っ」
 あと一度、ぎゅっと目を瞑る顔を見たらやめよう、と思い、それをさっさと見るために、体の大きさを変える。鬼李は体を巨漢に変え、太くなった指で鶴の額を撫でた。
「あとちょっと」
 にゅぐっ、と鬼李を咥えている鶴の入口が広がり、鬼李のサイズが変わった事を実感した鶴は、首を振って泣いた。
「っやだ、……っも、……ふぐ、ぅ、っやめ、ぅ」
「好きでしょ、でっかくて太い男根?」
「んぁ、っ」
 ぐぐ、と腰を手前に引くと、鶴は目を見開き、結合部に視線を向けた。
「や、やめろ、夜にしろ、そんなサイズ……っ」
「夜もあげるから、泣かないで」
「嫌だ、……ぅぁ、や、んん!!」
 頬を涙で濡らしながら、鶴は足を閉じようと腿に力を入れた。
「っぃ、ぅ、……っんぅっ……ヒっぅ、や、やだって、ゥ」
 ヌククと小さく進んでくる太い一物に、鶴はついに嗚咽をあげて泣きだし、首を振った。
「嫌だ、嫌、っぐ……んぅウウウ!」
 ずぶりと、鶴の柔らかい場所にそれが到達すると、鶴の腿が付け根からビクビクと跳ねた。
「っう、……っ、……ッ」
 喘ぎとは違う悲鳴に近い声を上げ、鶴が一瞬気を失うと、急に恐ろしさに心を支配される。このまま鶴が死んでしまったら、どうしよう。
 しかし鶴は目を覚まし、息を整えてからクソヤロウと毒づいた。それを待って、動いていい?と聞く。
「ぁ、……はぁ、はぁ、はぁ」
 返事はないが、落ち着いたようなので動かしはじめると鶴の身は今度は丸まって、また反り、腿に不自然な力が入ったり、びくんと上半身が動いたりと忙しくなった。
「ひ、っぅ、……ぅぐ、……アッ……ぁぐっ、……ん……っ!」
 鶴はぎゅぅっと目を瞑り、怯えた顔で、慎重に声を抑え喘いでいる。
 しかし数えると軽く二十年以上、春をひさいでいた鶴は感じやすく、快楽を拾うのがとてつもなく巧い。
「んぁ、ふ、……アッ、……っぁ、あっ」
 悲鳴に近い喘ぎが、ねっとりとした嬌声にすぐさま変化した。鶴の、ぐずぐずになった悶絶顔を、惚れ惚れと眺めながら夢心地で過去を振り返る。最初に手を出した時、鶴はまだ若く、痛みしか訴えない可哀相な青年だった。それが、受身に慣れてここまで淫猥な男に育った。
「こんなエロイ子に育っちゃって」
 口に出すと、鶴はうるさそうに目を閉じた。
 ふと、鶴に執着し、鶴を無残に甚振った絵ばかりを描いて展示した悪魔の絵かきを思い出す。そうしたくなる気持ちは、わからないでもない。鬼李に芸術の才能があったら、鶴を題材に何かを作りたいと思うだろう。
「俺、あの悪魔……ケンだっけ? 今なら気持ちわかるな、あいつが鶴にした事、許せないけど、鶴はああいう奴の心を掴んじゃう、変な色気があるよ」
「……、っぁ、や、っぁぁ、……っく、ふ」
 ごぶごぶと、中に精液が注がれるのを、鶴は目頭や目尻から涙を零し、堪えた。前はこんな表情をされなかった気がする。前は鶴の都合を優先して、鶴が嫌だと言えば聞き、鶴の感じ方に注意を払っていた。鶴が辛さを感じるような性交は、しないようにしていた。それが今は、鶴が何を考えているのか、感じているのかがわからなくなり、このような苦しげな顔をされてしまうようになった。何が変わったのか、何が駄目になったのかわからない。

 蒙古の船で渡来した鬼李に、近づいて来た時の鶴はやっと百を過ぎて、独り立ちしたばかりの精霊だった。捕らえられるまで暴れに暴れ、手が掛かったのを覚えている。しかし聡い鶴は、捕われてからは自分と鬼李の力の差を理解し項垂れてしおらしくなった。
 自分はまだ生まれたばかりで、世間を知らなかったのだと土下座した鶴は闘いにおいて、敗北したら命を取られるという場面しか知らない子どもだった。自分を苦労して百まで育ててくれた両親に、こんなすぐ死んでしまっては面目が立たない、何とか命だけはと訴える鶴の見当違いな心配が面白かった。
 鬼李は鶴を殺す気など毛頭なく、捕らえて飼う気だったのだから、ああわかったとすんなり、その願いを聞いてやった。そんな鬼李の思惑など想像もつかない鶴は有難がって、当時大妖怪然として振舞っていた鬼李に、弟分のように懐いた。
 鬼李は鶴を宦官にでもして侍らせようと考えていたのに、山育ちで宦官どころか陰間の概念も知らないうぶな鶴が愛らしくて、計画は変更に。それとなく自分の好意を諭しながら、ゆっくりと迫っていたあの頃が懐かしい。数千年の時をただ生きるのに飽きて、大陸で一つの勢力を作って遊んでいた時代。鬼李は鶴以外に楽しみが多くあった。
 国に連れ帰った鶴に、自分の治める領土の広さや、下僕の多さを自慢するのが楽しく、勢力が広がるのが楽しく、鶴の一挙手一投足に、びくびくしていなかった。

「急に盛っちゃって、ごめんね」
 付け焼刃とはわかっているが、一応の礼儀として。着替えを済ませて、ぼんやりとベッドに腰を掛けている鶴を横から覗き込み、詫びた。
 鶴の返事はなく、鶴の木目細かな肌には、窓から注がれる昼の健康的な陽の光が当たっていた。鶴は呆れと疲れを交ぜて、灰色にしたような顔で、鬼李の事を見もせずに床を睨んでいた。

 過去、部下として可愛がっていた他の弟分達、鶴より逞しくごつかった彼らを、鶴は目の敵にしていた。あの頃の鶴は、鬼李の役に立つという事に喜びを見出しており、自分は鬼李の懐刀になるのだと言っていた。実際に、田舎で拾った綺麗な小物と思っていた鶴が、格闘や諜報活動を覚えて活躍しはじめた時には惚れ直した。自分の倍もある大男を投げ飛ばしたり、敵地の様子を動物や人間を手懐け、探る事の出来た鶴は、周りから一目置かれるようになった。

「もう夜は休むといいよ、鶴……、俺、今日は牛鬼の家に行く」
 あの頃と違って、鶴は鬼李の事を信奉していない。けれど努力で強さを身につけた鶴には、牛鬼のような生まれつき才能と強運に恵まれた男は眩しくて憎らしい相手。
「あら太がいるから、牛鬼はおまえの誘いになんか応じねぇよ」
 ふん、と笑った鶴の顔には案の定、焦りが見えた。
「でも、家に呼んでくれたよ」
「じゃぁ俺も今夜は誰か家に呼ぶか」
 疲れ果てている癖に、鬼李に対抗しようとする鶴に、少し気分を良くする。まだヤキモチを妬かれる地位には居た。
「誰を呼ぶの?」
「……浩二とか」
「あぁ、あの魑魅魍魎ね、何かあったら殺しちゃうかもしれないって伝えといて」
「そのときは俺も殺せよ」
 ふいに、かっと熱の出るような怒りを思い出し、胃酸が食道にせり上がって、喉が痛んだ。そういえば鶴に最初に手を出したのは鬼李ではなく、鬼李の下僕だった。よりにもよって、可愛がっていた生え抜きの近衛達が鶴に手を付けた。そこから捻れた。
 大事な宝物を汚された怒りに我を忘れ、鬼李は慈しみ育てていた近衛達を皆殺しにした。自分の力に寄って来る者への嫌悪感。全ての下僕が、自分の懐に入って来て、大切なものに手をつける泥棒のように思えた。だから、鬼李は大陸にある自分の勢力をごっそり捨てた。
 おりしも倭国に、再び訪れて勢力を広げようとしていた頃で、鶴は人の変わったような鬼李に怯え、故郷についたと同時に鬼李の目を盗み逃げ出した。船の中で何度か抱いた鶴の体は、細いだけで色気は一切なく、甚振られ貫通させられた鶴の喘ぎ顔は、恐怖のみに彩られ痛々しかった。
 鬼李は未だ、汚された鶴が一人泣いて身を洗っていたあの場面を思い出すと怒りの渦が胸を覆い、息ができなくなる。鬼李が信じ、頼って来た近衛の手で穢された鶴はまだ無垢な清い精霊で、ただただ美しかったのに。
 鬼李でさえ、手を出せずにいた光のような存在が、地に落とされたあの絶望。鶴が、自分は妖怪になったようだと告げたのはその数日後だ。零落した精霊は妖怪になるそうだ。鬼李が手を下すまでもなく、鶴を最初に犯した男は、鶴の手で殺されていた。あの殺しが、まずかったみたいだと言って、笑った鶴に鬼李は打ちのめされた。自分が攫ってこなければ、鶴はずっと精霊でいられたのではないか。こんな事にはならなかったのではないか。生まれて初めて、自分の勝手に悔いを覚え、他人に平和を願った。
 しかし、鶴の平和を願う一方、自分以外の男の手に落ちた鶴が憎くて仕方がない。嫌がるのを押さえつけ、何度も無理に傷の癒えきっていない、その体を開いて上書きするように精を注いだ。
 
「あれっ?! 鶴さん?!」
 結局、鶴を連れて牛鬼の家に向かう事になり、出迎えた牛鬼は驚いた顔をした。牛鬼の家は、三重県桑名市の川沿いにあり、長閑な住宅街の只中にぽつんと存在していた。デザイン住宅とでも言えばいいのか、近代建築家が好むような、剥き出しの鉄筋が目立つ不思議な作りをしている。
 天井の吹き抜けで、広く見えるリビングに通されて、牛鬼を抱いた事のある黒いソファに、鶴と並んで腰を掛ける。牛鬼は渋い青草柄のティーカップとソーサーで、紅茶を運んで来ると二人の前に座った。
「びっくりしましたよ鶴さんと一緒に来るなんて、俺、最初いつもみたいに、鬼李さんに、その、誘われたのかと思って、ちょっと緊張してたのに」
 屈託なく笑って、余計な事を言う。いつもみたいに、という言葉に、鶴がむっとするのがわかり、鬼李は冷や汗を掻きながらも笑みを浮かべた。鶴が怖い、怖いけど嬉しい。何だこの状況。
「あ、どうぞ、紅茶……! こないだ飛頭さんがお裾分けしてくれて、なんか美味しいお店のらしいです、女の子って親切だよなぁ」
 飛頭ロミは鶴が誑し込んでいる良い体の女で、しかし本命はこの牛鬼だった。ピリッと鶴の体から苛立ちの電気が放たれたのを感じて、鬼李は逃げ出したくなった。
「俺ぁ、その買い物に付き合わされたぜ、……」
「あ、鶴さんと飛頭さんって付き合ってんだっけ」
 まず、牛鬼には悪意がない。だからこそ鬼李はハラハラする。ギリギリ体の関係があるようだが、飛頭は牛鬼に夢中で、鶴はしょっちゅうその恋の悩みを夜通し聞かされてうんざりしている。そんな状況を鬼李は知っているので、妬く気にもなれず、黙認している。
「そーゆんじゃねぇよ」
 鶴の声は地を這うように低い。いつもの鶴じゃない。
「ほー、ヤリ友って奴っすか?いっけねぇんだ」
「あ゛?」
 場を和ませようとして、ふざけた牛鬼に鶴が片眉を上げる。
「あの、俺、甘いもの食べたいな!なんか今日疲れちゃっててさぁ」
 鬼李は慌てて二人の間に割り込んで、甘いもの、という言葉で、何とか鶴の苛立ちを誤魔化した。
 牛鬼は、あ、と一声発して席を立つと、キッチンでカッパンと何か缶を開ける音を出した。

 テーブルに、ヨックモックの焼き菓子が加わり、鶴がそれをサクサクと平らげて行く。山神がいたら、親分其処らへんで、と声を掛けたくなる勢いである。
「お二人とも夕飯は?」
「食べて来た」
 三重に行く飛穴は川越にはなく、わざわざ品川に飛んで、それからやって来た。品川のJRから京急に乗り換える道の途中にある飛穴を利用するのだが、それには川越から品川を繋ぐ飛穴がJRの駅ホームにあるためにJR駅ナカを通る必要があった。そして、エキュート品川の楽しげな飲食店街に、鬼李と鶴は簡単に引っ掛かった。
「残念、松阪牛の美味い店が近くにあったのに」
 牛鬼は大げさにあーと溜息をついた。
「妖怪店員はちゃんと働いてるのか?」
「はい、ちょうど今日は彼がシフトに入ってる日なんで案内しようと思ってたんですけど」
 鶴は細く、気難しげな顔をしているので、あまりイメージがわかないかもしれないが、食いしん坊である。松阪牛、と聞いて少し目に輝きが走ったのを、鬼李は見逃さなかった。
「もっと早く言えよ」
 気怠げな調子で、興味無さそうに見せているが、本当はとても悔しがっているのが、鬼李には手に取るようにわかって憐れだった。今度行こうね鶴、と声を掛けてあげようかと迷っている間に、牛鬼が会話を繋いだ。
「いやぁ、さっき、ヨックモックの缶開けた時に思い出したんですよ、すみません、鬼李さん一人なら俺が何か作ればいいかと思ってて……」
 おっと爆弾投下ぁ。その話題は何か、まずい気がする。
「何だおまえ、料理できんのか?」
「え、まぁ」
 鶴は食い専、作るのはど下手くそである。一度台所に立つと、あらゆる具材を台無しにしてしまうので、江戸時代、山神にいつもこっ酷く叱られていた姿を思い出す。
 食いしん坊故に、作ってみたいなと思う事は何度かあるようで、台所を預かっていた山神に頼み込み、挑戦していた所はよく見かけた。が、いつも撃沈して異臭のする酷いものを製造していた。
「明日の朝ご飯にでも、何か作りましょうか? 鬼李さんなんか結構ツボってくれたっぽくて、この人、前に大陸でえらい人だったじゃないですか、そん時、雇ってたプロより美味いって言ってくれて」
「牛鬼!!! 牛鬼あのさぁ、俺、テレビ見たいかも!!」
「え? はぁ、いいっすけど、何て番組?」
 これ以上、鶴の牛鬼嫌いが進行するのを避けたくて、慌てた声を出すと、鶴がふっと笑い声を漏らした。
「上等だ、牛鬼、そこまで言うなら見せてみろ、てめぇの実力をよ」
「え? 何何?」
「実は俺も料理は得意なんだよ」
「ちょ!!! 嘘でしょ!!!」
 思わず叫んだのは、鶴の負けが目に見えていて、可哀相だったからだが、鶴はそれを俺が、鶴のゲテモノ料理を口にしたくないためだと思ったらしい。
「てめぇに食わせる気はねぇから安心しな」
「へー、鶴さん料理得意なんすね、せっかくだから何か作ってくださいよー、台所貸します」
 牛鬼は本当に、悪意がない。と信じたい。
「おう、悪いな」
 のしのしとキッチンに進んでいく鶴を、おろおろと見つめ、牛鬼に助けを求め、ちらりと視線をやると牛鬼は少し冷ややかな顔をしていた。
「えっ?!」
 思わず、ぎょっとして声を出すと、牛鬼は鬼李に顔を近づけ、鶴の後ろ姿をちらりと見ると呟いた。
「黒じゃんアレ」
「は?」
「アレ、鬼李さんに普通に気ぃあるじゃん、俺、心配して損した」
「何、何を見て、言ってんの?」
「はー、やってらんねぇ、当て馬とか、疲れるわぁ」
「当て馬?」
「ん、久しぶりに鬼李さんに良くして貰おうかと思ったのに、なんかガッカリっていうか、あら太に手を出す手順とか、鬼李さんのやり方見て確認する予定だったのにさぁ」
 小声で呻いて、ソファに沈み込んだ牛鬼は、不機嫌顔でどきりとする。美形の怖い顔は、とても色っぽい。
「よし、ぇぃ、膝枕してやろう」
 牛鬼が少し笑いながら、腿に頭を乗せて来て、何事かと思い、牛鬼と鶴を見比べる。鶴がさっそくフライパンから溢れんばかりの火を出しており、心配になった。
「牛鬼、ちょ、鶴が何か危なっかしい」
「ほっとけばいんじゃないかなぁ、やれるって自分で言ったんだからさ、っふ、まさかこっちで俺と鬼李さんがいちゃいちゃしてるとは思わないで、可愛いなぁ」
 膝の上で、べっと小さく舌を出した牛鬼は、色男の貫禄に溢れ眩しかった。牛鬼は悪意がないように話すのが巧いが、本当は全て、悪意で話していたのかもしれない。慌てる鬼李や、気分を害する鶴を見て、楽しんでいたのかもしれない。ぞっとしたが仕方がない。痴話喧嘩に巻き込んだのはこっちなのだから。
「ごめん牛鬼、変な思いさせちゃって」
「いやー、ほんと、追い返そうかと思ったけど、まぁいいっすよ、面白いもん見れたんで」
 にこっと笑い、牛鬼ははっきりと迷惑を訴えた。こういうところが、鶴とは根本的に合わない所以なのかもしれない。これが鶴なら、まず迷い無くこちらの心配をして来て、自分の負担などは二の次という発想で接して来るだろう。
「鶴が、沢山ヤキモチ妬いてくれて楽しかった」
「でしょうね、あれだけの反応、なかなか見せないでしょあの人、俺が頭フル回転させて色々引き出さなかったら、今頃三人で仕事の雑談して終わりでしたよ、今度何か奢ってくださいね」
 牛鬼は得意顔で、まっすぐ鬼李を見て来た。営業は心理戦。牛鬼はベテランの営業マンだ。鬼李のように、怨霊を駆使して本音を引き出すといったような特別な能力を使って商談をするわけではない。正真正銘、実力勝負で働いているトップ営業マンの手腕だった。
 鬼李は少し黙って、荒れていた最近の自分を振り返り、溜息をついた。
「俺は、鶴の事を決めつけ過ぎてたのかもね、赤鬼ばっかり見て、俺の事見てないって」
「良くわかってるじゃないですか、その通りだと思います」
 ボン、とキッチンで嫌な音が響き、牛鬼は少し顔を顰め、片付けは鬼李さんがやってくれるんですよね? と切り込んで来た。うん、と嫌々ながら返事をする。
 時刻は二十時を回り、先程付けたテレビでやっていたニュースの内容が、二巡目になった。
「多分、鶴さんの、赤鬼部長が好きだっつーのは自己暗示だ。あの人、赤鬼部長のために凄い苦労したから、……だけど、さっきの感じから見て、鬼李さんの事は鬼李さんの事で好きだと思うんだよな、ただ、鬼李さんは常に鶴さんの事好き好き言いすぎてて有り難みに欠けてるっつぅか、ちょっと突き放すぐらいすれば良いんじゃないですか?」 
「つ、突き放す??? 好きなのに敢えて突き放すの?!」
「……鬼李さんみたいに、力があって寄って来る女や若衆が多くて、駆け引きなんかする必要がなかった人にありがちなんだけど、『おまえが欲しい』だけがアプローチじゃねぇって話でさ」
 牛鬼の腕が、ぐっと首に回った。顔を急に引き寄せられ、目の前に牛鬼の整った面が迫った。
「例えば、アプローチの期待とか予感させるような行動をしておいて、気まぐれだったって体裁を取ってみたり」
 目の前で美形が、唇を動かして喋っているのを見せつけられ、ドキドキしていた鬼李の胸を、牛鬼は今度はすっと押して遠ざけた。
「?!」
「今みたいなね、期待させて置いて何でもない、っていう」
「っ……」
 ときめきを返せ、と言おうとしてゾクリと何かを感じ、顔を上げると鶴がソファに肘を乗せ、不敵に笑っていた。
「楽しそうじゃねぇか鬼李、邪魔なら帰ぇるぜ」
「鶴、ちがっ……!これは……!」
「そういえばおまえは出会ったばっかの時も、やたら屈強な野郎どもを侍らしてたよなぁ、あいつらも愛人だったのかね、……俺がどんなに頑張って努力して、あいつらに並べるようになったかなんて、想像もつかねぇだろ」
「あれは……!そもそも鶴は別枠で!近衛にっていうより、傍に侍らせる宦官にするつもりで……っ」
 ぶふぅ、と牛鬼が噴出すのと同時に、鶴の鉄拳が鬼李の頬を襲った。

 どうやら殴られて気を失っていたらしい、鬼李の頭にしくしくと牛鬼の泣き声が響いて来て、すっと目が覚めて行く。どうしたのだろう、あの強い男が泣かされるような事が、と目を開けると、テーブルに並べられた鶴の糞料理を前に、牛鬼が涙を流していた。
 慌ててまた目を閉じたが時既に遅く、鬼李、と鶴に呼ばれた。
「起きたんなら手伝ってやれ、牛鬼が可哀相だ」
 牛鬼を可哀相にしているのは誰だ、と心中で唸りつつ、のろのろと起き上がって鼻の息を留める。
 食卓に用意された水の量を確認してから、覚悟を決めて、がこがこと酷い飯をなるべくその形を見ずに咽喉に突っ込み水で胃に流し込み、舌を刺激する得体のしれない感触に耐える。鬼李さぁん、俺もう無理ですっ、と横で牛鬼が泣き声をあげた。
 目の前でしょんぼりした鶴がもそもそと失敗作を自分でも始末している。その額には脂汗が浮いていた。鬼李はとにかく無心で、がこがこと胃に豚の餌を放り込む作業に従事した。
「ごち、そ、う、さま……でした」
 呟いて、ソファに倒れこむと、ああ、死なないで鬼李さん、と牛鬼がわめく。青い顔をしているのだろう、ピタピタと頬や額の温度を確かめられ、寝たら駄目です死にます、と冗談を飛ばされる。鶴は黙って、空になった料理の皿を見ていた。

「それで、結局、ちゃんと決着付けたんでしょうね」
 牛鬼の家に二人して泊まらせて貰ってから三日後、牛鬼に呼び出された喫茶店で、鬼李は頭を抱えた。
「んん、何となく……」
「ついてねーのかよ!」
 自宅で化学兵器を製造された牛鬼の怒りは尤もだが、鶴との関係はあれから変わっていない。
 鶴は相変わらず、鬼李に対して素っ気ないし、借金取り呼ばわりをする。ただ、鬼李は鶴に対して、無茶な要求をしなくなった。
 


2016/07/12

『闇の怨霊、光の鶴』(執着攻め×強気受け)


 キラキラと光る善良なものになりたい、という欲求が俺の内側を刺激するのは、俺の成分には人間が多く含まれているから。
 人間はいつも清らかになることを目標に転生を繰り返している。

「鶴……?」
 腹の上で腰を振る綺麗な男に声を掛けると、とろりとした目で見つめられた。疲れて来ている。細腰に手を伸ばし揺すってやると、鶴はその人形めいた顔を歪ませ嫌がった。
「っぁ、っめろ馬鹿……っ、ァ、……アッ」
 狭い医務室で行為に及んでいる妖怪の数は結構居ると思うが、鶴は会社でするのが余り好きではない。懸命に声を殺す様が愛しくて虐めたくなった。
「でけぇ声出んだろうがっ」
 華奢だが威力のある鶴の握り拳に殴られて、鼻から熱く鉄臭いものがじわりと漏れた。
「ぅ、ぁ、……マゾか、でかくしてんじゃねぇッ」
 殴られても鶴の腰を揺するのを止めない俺に、鶴は今だけは逆らえない。ぁ、ぁ、と小さい声を上げて眉を下げ、快楽に飲まれて行く鶴を眺めながら、鶴と俺はつくづく美と醜で対立しているなと思う。同じ鳥系の妖怪にも関わらず、死んだ人間の気から生まれた陰魔羅鬼種の俺と、死んだ人間を我が身を犠牲に生き返らせるという鶴種の鶴の、この違い。
「鶴、顔、蕩けてる」
「ぁ……、ッ」
 彫刻に見間違う、美を意識して掘られたような真っ直ぐな眉や黒目がちの細目を、涙や汗でグズグズにぼやけさせている鶴の頭を撫でる。
 この関係は俺が鶴に前払いで沢山の性交の約束を入れたため成立しているのだが、最近関係が軟化して、まるで恋人同士のようになっている。
 汗でしめった空気と、薬品の匂いで鼻の芯がクラクラ。電気を消した狭い医務室のベッドに、男二人が重なって激しく動いているこの淫らで暗い空間で、鶴は囚われて来た螢のように儚げに淡く輝いていた。小さな窓から入って来る、妖怪タウンの薄緑の光が、鶴の白い身体を照らしている。元陰間らしい、ぷくりと体積のある鶴の乳首を、親指の腹で強く擦ると、ぐに、という柔らかな粒の感触がした。同時に、下がきゅっと締まる。
「鬼李っ」
 鶴が俺の名を呼び、達したので嬉しくなり身を起こして、鶴を抱きしめると、中が緩くなった。
「もっと締められない?」
「もう力入んねぇ」
「じゃぁ、首でも締める?」
「勘弁しろ」
 それじゃぁまた乳首でも弄るかと手を伸ばしたところで、扉にコンコンと伺いの音が鳴った。
「おい鶴、まだ居んだろ、飲み行くぞ」
 第一営業部、部長の赤鬼だった。
 鶴は赤鬼の下、第一営業部のマネージャー職で、赤鬼の仕事を補佐している。俺も第一の所属だが、部長でもマネージャーでもなない、ただの営業だ。鶴の傍で働きたいというだけのために、特に労働を必要としてない俺が真面目に働いている事実はなかなか稀有だと思う。
「大将、俺は今日は具合悪ぃんだって言ったろう」
「飲んで治せ」
「っンぁ?!……アッ」
 まだ繋がったままの下半身を揺らしたら、鶴は簡単に喘いだ。胃酸が喉まで持ち上がって来たのは、腹に重い一撃を食らったためだ。
「おい、また会社でやってやがんのか、陰間」
 ドン、と扉を叩いた赤鬼の良識ある台詞を鼻で笑う。鶴側の事情を知っている身としては恩知らずめと蔑みの心が生まれる。しかし、鶴にやられた腹が痛く言葉が出ない。
「陰間じゃねぇよ、俺ぁもう女としかやらねーって決めたんだからなぁ大将、ちょっと持ってな」
 腹を抱えて痛みに耐える俺を他所に、鶴はさっさと俺の一物から離れ、ガーゼで汗を拭い出した。
 換気扇を回し、互いの性器に被せていたコンドームを始末する。香玉を撒いて臭い消しの煙を発生させると、ぼうっと見ていた俺の頬を叩き、母親のように褌から袴まで衣服を整えてくれ、煙が消えた1分後には赤鬼が向こうにいる扉を開けた。
「また小野森とやってたのか」
 黒髪黒目が威圧的な、全体的に骨ばった、背の高い俺はどうやっても女には見えないのに、赤鬼は断言した。
「やってねぇ」
 ばればれの嘘を、どうして通そうとするのかが分からず不貞腐れた顔でいると赤鬼の背に続いて、鶴が去ろうとするので慌ててその腕を掴んだ。
「おぅ、何だ、小野森も来るか」
 赤鬼の能天気な誘いを無視して、鶴の腕に力を込めると、鶴がさすがに意を汲んで、歩を止めた。
「大将、やっぱ具合悪ぃや、飲みには青ノ旦那でも誘って行ってくれ」
「青いノは部飲みだ」
 体内の怨霊に時刻を聞くと午後九時、営業部の飲みは大体十時から始まる事が多いので、混ざりに行けない事もない時間だった。怨霊の集合体、という特性を持つ俺は、身体の外に自由に出て行く怨霊達によく物を聞くが、その拍子に怨霊の呟きを耳にする事があり、大体その呟きは俺の気づきに繋がる。
『青い鬼と赤い鬼は幸せそうだ、うらめしい』
 この時聞こえた声から推測すると、赤鬼と青鬼はよりを戻したようだった。今日の鶴が、少し切なげだったのはそのせい。
「なら、大将が第二の部飲みに混ざってくりゃぁ良い、青ノ旦那の色だとでも言ってよ、事実、そうだろう」
「何が色だ、放っとけ」
 鶴に茶化され照れた赤鬼は、すんなりと鶴を諦めて去っていった。
 医務室のある廊下はオフィスの端、掃除の業者ぐらいしか出入りしない場所にあって、人通りは少ない。
 赤鬼が長い廊下の曲がり角の向こうに見えなくなってすぐ、俺は鶴に抱きついた。
「清々したな、これでもう鶴は俺のもの」
「残念だが鬼李、おまえはただの借金取りだ」
 満足に取立てさせてくれない癖に、何が借金取りかと突っ込みたくなったが堪える。
「高給取りの癖にいつまでも借金したまんまにしてんのは、俺に抱かれたいからだろ?」
「いや別に、自宅の固定資産税がきついだけだ」
 鶴は陰間時代、客から貢がれた豪邸に今も住んでおり、現在、固定資産税に深刻に苦しめられている。
「代わりに払おうか?」
「やめろ、これ以上借金膨らんだら、俺は腹上死する」
 俺の身体に巣くう霊どもは、日に百万から二百万の肝を稼ぎ出す。コントロールしているので、法に触れるような悪さはしないが、霊は妖怪より人に見えやすく肝を獲得しやすいのだ。そのために、俺はほとんど働かずに生きていける数少ない恵まれた妖怪だった。

 思えば十三世紀、領土を持っていた俺はハン族に触発され、倭に来た。それが俺と鶴の関係の始まり。鶴は当時も非常に美しかったため、俺は鶴を召し上げた。数年の主従関係を持ち、俺達は信頼しあっていた。しかし突然、鶴は姿を消し、俺は逃げた鶴を捕まえようと倭国まで鶴を追いかけた。そして、気がついたら倭国に迷い込み、帰れなくなってしまったのだ。連れて来た怨霊は異国の倭に違和感を覚えたのか、するすると抜けて行き、気がつくと俺は幼子の姿で泣いていた。鶴を追いかけ初めてから、五十年の月日が経っていた。
 鶴は賢く、逃げながらも俺を観察しており段々と無力になっていった俺を不憫に思って逃げるのをやめた。俺の頭を撫で、困ったように食い物を差し出しては、傍に居てくれるようになった鶴に感動した。
 幼子でいれば、鶴は優しくしてくれる、と学んだ俺は以来、多くの時を幼子の姿で鶴に寄り添った。

「鬼李のぼん、丁度良いところに」
 妖怪メトロから降りたところで、手前の車両に乗っていたらしい鶴の手下、狗賓種の山神に声を掛けられた。物腰の柔らかなこの手下は、江戸時代かご屋の番頭を勤めていた事もある品の良い壮年の色男だ。鶴の横に居るせいで霞んでいるが、第一営業部では一二を争う美男子だろう。下がり目の優雅な天狗顔をしている。
「これを親分に届けてくれませんか、私は急な訪問が入ってしまい、出来たらすぐ向かいの列車に乗りたいんです」
「良いけど、俺はもうぼんじゃないぞ山神、この上背を見て」
「山神にはぼんはどんな姿をしていてもぼんですよ、それでは、宜しくお願いします」
 掴みどころのない山神が風のように去って行った後には、薄い紙袋の向こうに透けた、くだらないエロ本が残されていた。
 何が届けてくれ、だ。
 紙袋の中のエロ本表紙には、『はちきれおっぱい! うけとめて!』と煽り文字が入っている。おっぱい、という単語と鶴に渡すという事実により、数日前久しぶりに抱いた鶴の乳首の感触を指に思い出し、昼間からイヤラシイ気分になってしまった。あの柔らかい小さな粒の感触が懐かしくて、今日の鶴の予定はどうなっているのだろうなどと気持ちが盛り上がって来てしまう。
「お、えっちな人発見」
 真横から声がして、視線をやると牛鬼が居た。
 するりと紙袋が取り上げられ、牛鬼はそれをさっと自分の鞄にしまう。
「えっ、それは鶴の……!」
「渡したら、鶴さんはせっかくのハナ金に女とやりたくなるんじゃねぇのかな、そうしたら淋しいだろ? 俺に取られたって言えば角立たねーから、多分、来週の火曜に野平あたりが、ちゃんと鶴さんに戻すよ」
 そう言ってひらひらと手を振ると、丁度来た列車に乗り去って行った牛鬼を、俺はポカンと見送った。流れるようにスムーズなカツアゲだった。後には、妖怪メトロの心音がゆっくりと響くばかりだ。

「……いや、どうしてそうなった?!」
 低く唸った鶴の顔は青ざめ、力んだ目が潤んでいる。
「ふざっけんなよ?!」
 エロ本に何をそんな本気でと言おうとして、はたと気がつく。何かが挟んであったのでは。山神から直接受け取ろうと、最下層まで来ていた鶴に、オフィスに入ってからすぐに会って、牛鬼に奪われた事を知らせたらこの反応である。
「牛鬼の訪問先はどこだ?」
 ピリッとした声で聞かれ、動揺したが、何とか平静を保ち体内の怨霊に聞くと『新宿三丁目』と帰って来た。瞬時に新宿三丁目と声に出すと、鶴は妖力で消えた。
 それ程大事なものをエロ本に挟ませるなよと思いつつ、山神もそういう事は口頭で伝えてくれと不満を覚えた。しかし、やってしまった失敗は取り返せないので、まず何を手伝えるのか考える。
 鶴のこなすべき事務作業を、代わりにやろう。

 第二、第三の電気が消えて、いよいよ営業フロアに一人という頃になって鶴が帰って来た。俺を見つけると、さっきは取り乱して悪かったと小さく詫び、自分の席でパソコンを立ち上げる。
「鶴、もう十一時だから帰ろ、……鶴の分も終わってるから今送る」
「……」
 放心状態という言葉がしっくり来る。鶴は起動音を立て目覚めて行くパソコンのディスプレイを能面のような顔で眺めていた。
「鶴?」
 声を掛けると、ぴく、と動くので意識はあるようだ。
 傍に行って、肩を撫でてやるとぎゅっと腕にしがみつかれて一瞬、興奮しそうになった。鶴の細い手が俺の腕を握っている。鶴のほのかな体温が感じられた。
「鶴? どうしたの?」
 エロ本取られたの、そんなに辛かったの? とふざけて聞いたら睨まれて、俺は大人しく次の言葉を待つことにした。
「人は死体や遺品が残るが、妖怪は全部消えるだろ?」
「ん?」
 光の偏ったフロアの一角で、綺麗な鶴に死の話題を持ち出されるとぎょっとする。体内に沢山の怨霊を抱えている俺は、人の心で怪談を怖がる。
「何、突然」
「おまえは赤鬼が死んだ時、いなかったから、見なかったろうが、跡形も……なくなるんだ」
「……」
「消えるんだよ、どこにも何の痕跡もなくなる、使ってたもんまでなくなる」
 鶴の言い方には語弊があり、正すべきかどうか迷う。俺が赤鬼や山神、鶴に聞いた話では赤鬼は消えかかっただけで、消えたわけではなかった。
「これを読めよ」
 バサッと胸に突き出されたのは、問題になったエロ本だ。その間に写真と屋敷の間取図が挟まっており、それはどちらも鶴の自宅についての写真と間取図だった。写真は、あの豪邸の前で鬼の会合が開かれている様子で、恐らく攘夷に参加した鬼達だ。皆勝気な笑顔を浮かべている。その中には赤鬼と青鬼の姿もあり、今より余所余所しく離れた所で写真に写りこんでいた。
 遅れて、便箋もひらりと出て来たので目を通す。
『青ノ旦那、アンタには知らせておいた方が良いと思って筆を取った。実は赤鬼は消えかけたんじゃなくてホントに消えてる。想像の通り、今の赤鬼は俺が鶴種として復活させた赤鬼だ。
 で、ここからが本題なんだが。
 鶴種が復活させる事が出来るのは死体のある人間か、死に場所がはっきりした妖怪だけだ。この先、もしまた赤鬼が無茶して消えかかった時には、俺の屋敷の庭先に鶴種を連れていくようにしてくれ。他のところで復活させようとしても、失敗しちまう可能性が高い。だから、俺のうちの間取、これを大切に保管しておいてくれ。赤鬼の死に場所を覚えておいてくれ。これからはアンタが俺より赤鬼の傍に居るようになるはずだから、アンタに全てが掛かってる、わかったな』
 鶴らしい細々して読みやすい字で作られた手紙には、赤鬼の醜態が晒されていた。妖怪にとって、消えるという事は不名誉中の不名誉だ。
 鶴は、本当はあの屋敷を手放したくないのだ。という事が、手紙からわかった。あの屋敷だけじゃない、赤鬼の事も。
「鶴、俺より赤鬼の方が大切な理由って何? ……なんでなの?」
 妬けたので、強気に迫ると鶴はにやりと笑った。笑って誤魔化された。
 電気を消してフロアを後にすると、見回りの業者さんが遅いですよと迷惑顔をしてここまで来ていた。
「すみません、お疲れ様です」
 声を掛けて、会社を出るとメトロは終わっていた。

 妖怪タウンに降りられる階段を淡々と降りる。途中にあるバスの管で時刻表を確認すると三十分後に終電が控えていた。バスの待ち合いベンチに、並んで座った。
 地上から地下に氷柱のように作られる妖怪ビルは、近年はデザインに凝った奇抜な作りのものもあるが大体は同じような氷柱状で、真上から垂れ下がっている。
 夜も明るい妖怪タウンの光が、下からチラチラと氷柱に当たり美しいが、隣の鶴は眠っていた。
 妖怪の街の景色も、人の街の景色とあまり代わりがない。
 ビルが上にも下にもある事と、天井が少し低い事。交通機関が全て空中にあたる中間層にある事ぐらいしか、違いは見あたらない。寝息を立てている鶴の温かみを感じながら、ぼんやりしていたら妖怪バスの終電が来た。バスは酔っ払ってふらふらしている。列車は国が大掛かりな生物化学で、どれも見た目を人の世の列車に似せて作っているが、バスは民間の運営なので見た目もバラバラ。深夜ともなると、人の呼ぶバスには似ても似つかないものがやって来る。
 細長く胴の太い象の身体に、ひょっとこの顔をつけた珍妙なバスは、一応窓もついていて、中に客も入っている。客室に声を掛けたが、どの客も酔って眠っており、運転が酷いのかどうか、知らせてくれるものがいない。
「大丈夫かなぁ……? こいつに乗って……?」
「大丈夫だよぉ、俺、酔ってねぇから!」
「酔ってる奴ほど、酔ってないって言うんだよね?」
「おわぁ、それよりお客さん! キレーな若衆従えちゃってお楽しみかぁい、俺も混ざりてぇー」
 ひょっとこ顔がくんくんと鶴の身体をかぐので、不快になり他の帰宅方法を探そうと考え始めたところで、鶴がぱちりと目を覚ました。
「ん、バスか」
 呟いてさっさと乗車してしまう。
「鶴っ!」
 声を出して止めたが、鶴は乗車した席でまた熟睡し始めた。こんな時間に鶴を肥溜めのようなバスの中に放置して帰る事は出来ない。腹をくくって乗車すると吐瀉物の匂いがした。一番前に座っている客が寝げろをしている。
「鶴、降りよう、ひどいよこのバス」
 悲鳴を上げる俺を他所に、鶴は、すよすよと気持ちよさそうに寝ている。
 結果、運転は荒く、社内の空気はすえていて、俺はあっという間に酔い、吐いた。

「なんかごめんな」
 鶴の家の広い風呂に、向かい合って入って、やっと完全に目を覚ました鶴が謝りを入れて来た。時刻は深夜二時。
「いつも、九時には眠っちまうから」
「はやっ!」
「飲み会とかだと、気を張るから起きてられるんだけど」
 反省した鶴が、宙を睨みながら詫びてきた。
「許さない」
 言ってやると鶴は意外そうな顔をして、どうせ俺なら許すだろうという自分の気持ちがあった事に気がつき、恥じて目をそらした。
「ごめん」
 小さい声で、謝罪した鶴に背を向ける。
「人前で吐いたの久しぶりで凄い恥ずかしかったし」
「鬼李……」
「鶴、重かったし」
「悪い」
「結構、作業重い仕事多かったし」
「悪い、鬼李、私事でほんと迷惑掛けた、許してくれ」
 バシャン、と鶴が立ち上がる音がした。
 近くまで来た気配。
「この家くれたら、許してあげる」
 ピタリと気配が止まった。
「家って……」
 近年の地価上昇で、手放さざるを得なくなった鶴の負の資産は、赤鬼のために取り置かれている事。それでも、鶴が手放したくないと強く願っているこの家を、俺は鶴の手の届く所に置いてやりたかった。
 日々自由に動き回り、多量の肝を持ち帰る怨霊の稼ぎなら、鶴が作ってしまっている少しのマイナスもカバーして、税を払い続ける事が出来るだろう。
「丁度さ、怨霊の莫大な稼ぎの使い先が欲しかったんだよ。これまで、趣味じゃない贅沢をやってみたり、投資に手を出してみたり色々したけど、ストレス溜まるだけでさ、慈善団体への寄付とかは、俺の人間の邪悪な部分が拒否しちゃって出来なくて、でも、この家が欲しいっていうのは俺の単純な欲望だから鳥肌とかも立たないし、俺に売ってよこの家」
「お前への借金、これ以上増やすのはちょっと……」
「違うよ、俺が欲しいんだよ、この家」
 言い切ってやったら、沈黙のスイッチを押してしまったらしく、静かな時間が流れ始めた。サラサラと湯の入れ替わる音に耳を済ませて、屋内に温泉装置があるとか、どんだけ豪華なんだよこの家、と改めて家の良さを実感する。赤鬼の事など、どうでも良い。鶴が手放したくない素敵な家を引き取る。鶴ごと引き取れたら良いのに、とぼんやり思う。
「ッ……ふ」
 小さい声がして、横を見ると鶴が泣いて居た。ぎょっとして盛大な水音を立て起き上がると、ウロウロと鶴の廻りを動き回り、様子を伺う。
「鶴、鶴ごめん。どうしたの? もしかして家を俺に取られると思ってる? 取るつもりじゃない、鶴が手放したくなさそうだったから、せめて俺の所有なら鶴の手が届くだろうって、そう思って」
「それが苦しいんだよ」
「それが、そう、……そうなの?!」
「おまえはどこまで浄化されたら気が済むんだよ、人間で出来てるからなのか? 時を進むごとに善良になって、俺は逆に段々どろどろして、腹の底が汚くなってく、おまえが清くなればなる程、俺は俺が汚くなって行くのがわかって、辛い」
「鶴は汚くないだろ?!」
「産まれた時は精霊だった、それが妖怪になって、きっとそのうち悪い妖怪になんだろうな、おまえの気持ちを利用して、自分の思い通りにするし、青ノ旦那に大将取られたくねぇんだって口でちゃんと言わねーで、グジグジ遠まわしに牽制してみたりしてよ、意地が悪ぃ、青ノ旦那の魂はまっつぐだ、俺のは捻じ曲がってカチカチでどうやっても解けねぇ、みっともねぇぐにゃぐにゃの……」
 喚く口を塞いで、抱きしめるとやっと泣き止んだ。少し心が晴れたのは、鶴が失恋を自覚しているから。
「良かった、鶴、このまま無自覚に尽くし続けんのかと思ってたから」
「無自覚なわけあるかよ」
「ちゃんと失恋したら、ちゃんと俺と恋出来る」
「おまえとするかはわかんねぇ」
「酷い」
「おまえこそ無自覚に俺に利用されてんじゃねぇよ」
「無自覚じゃないよ、俺は、ちゃんと鶴の良心の呵責とか計算しながら利用されてるもん」
 良いながら、鶴の乳首を弄りだした俺の手を、鶴の指がきゅっと抓った。
「おまえ、思ったより清くなってない、安心した」
 笑った鶴の顔、頬と額にキスをすると、鶴はむずがって口をへの字にした。



2016/07/11

おまけ
牛鬼「もしもし佳祐さん? 佳祐さんが言ってたエロ本、言われた通り鬼李さんからカツアゲしたけど、なんか鶴さんが後で取りに来ちゃったよ?」
山神「上出来です牛鬼、我々は恋のキューピッドですよ」
牛鬼「どういうことですか?」
山神「実はあのなかには、親分が作成した、とある情熱的なラブレターが入っていましてね。嫌味っぽくなってないか、誠意が伝わるか等のチェックを頼まれてたんです、私」
牛鬼「!!! なんでそれ早く言ってくれなかったんですか!! クッソー! 見たかった!!」
山神「まぁ、いいじゃないですか、貴方は貴方で小豆さんに妬いて貰ったんでしょう?」
牛鬼「お陰様で」
山神「やれましたか?」
牛鬼「か、軽くは」
山神「貴方程の人がああいう小道具によるアクシデントに頼ることになるとは。小豆君、恐ろしい子!」
牛鬼「やー、ほんと、色々鈍くて苦労するわ」
山神「頑張ってくださいね、応援していますよ」
牛鬼「さんきゅー、佳祐さん」
山神「心残りは、今回の件でますます親分が貴方を嫌いになっただろうという点ですね、残念です」
牛鬼「えっ?!」
山神「それでは」
牛鬼「俺、嫌われてるんですか?!」
山神「……」
牛鬼「嫌われてるんですか?!」


無自覚だったのは牛鬼さんでした。

『泣いた青鬼』(尽くし系強面×恋多き紳士)



 『怪PR社』の営業部フロアは、第一第二第三を壁でハッキリと分けている。しかし透明に透き通ったその壁は、音こそ遮断されているが、誰がどんな動きをしているのか見渡せるようになっていた。

 個人プレイヤーの多い第一営業部は今日も人影がなく、人海戦術が得意の第三営業部はどうやら集団行動を乱した誰かが誰かに叱られており、それをチームメイトらしい者達が見守っている。
 青鬼の治める第二営業部は、個人プレイヤーが多いものの、それなりにチームでの仕事も多いので雑談で盛り上がっている者達がちらちら居る。
「青鬼さん、これ、大変なゴシップ写真、見つけちゃいましたよ~」
 のっぺら坊種の自由人、野平によって、さっそく青鬼も雑談に巻き込まれた。
 昭和30年頃の街中スナップ写真である。白黒テレビが出た頃だ。写真の中央には、気難しい顔をした老人、人の姿をした青鬼が孫と手を繋いで映りこんでいた。
「これ、青鬼さんですよね?実装ですか?」
 パソコンのデスクトップに送られて来た写真に、青鬼は目を細めた。
「こないだ休暇を取った時のものだな」
「え、それじゃぁ……」
「ああ、実装はしていない、人の皮を被っている」
「記憶ごと人をやってたんですか?」
「せっかくだからな、両親も人を選んだ」
「贅沢ですね~」
「戦争が起こって散々だったが」
 妖怪の休暇は、肝無しで生活が出来る「人になる」事である。『人の皮』は高額だが良いものは百年もつし、その間、人のように生きられるため、妖怪として働かないでいられる期間を設けられる。
「あ、確か、赤鬼さんと一緒にお休みされたんですよね?」
 雑談の中に、牛鬼が紛れて来た。
「そうだ、あいつから誘って来て、私は付き合いだったんだが、あの男……戦争で人の皮を失ってな、何を思ったか未練がましく人として生きている私に取り付いて来て、おまえもさっさと休みを終わらせろと……まったく身勝手な」
「そいつは身勝手ですね」
 苦笑する牛鬼に、そういえば、と野平を見つつ話を振った。
「おまえらも最近、二十年ものぐらいの『人の皮』を使って、揃って休んで来たばかりなんだろう?」
「あぁ~、そうですね、最近まで。楽しかったですよ~」
 星の数程いる妖怪同士、長寿といえど顔見知りになる機会は少ない。
 野平と牛鬼は江戸中期から交流を深めていたらしいが、青鬼はこの二人に出会ったのは、二人が会社に入って来てからだ。
「幼子の目線は久しぶりで新鮮でした」
「牛鬼は中学の先生に悪戯されたよね」
「おい、余計なことばらすな」
 衝撃の過去を他人に暴露された牛鬼が、顔を赤らめたところで、牛鬼の営業補佐、小豆がやって来た。
「皆さん仕事してください」
 牛鬼や野平と違い、小豆は真面目だ。
「それと青鬼さん、赤鬼さんがお呼びです」
 透明な壁の向こう、第一営業部の赤鬼がこちらを見ていた。
 溜息をついて席を立つ。きっとまた身勝手な話を振られるのだろう。

 『怪PR社』は2001年に設立された若い会社で、それなりの規模に成長して来てはいるが、妖怪世界の目で見るとまだまだ赤子のような会社である。
 科学技術が人の世で発達するのに従って、人の心が妖怪から離れていった近年、人の心、妖怪用語で言うところの『畑』から取れる肝が不足し始めた。妖怪達は、人の肝を取るための知恵を出し合い、計画的に行動を起こすようになった。これまで、個人単位で行っていた収穫を集団単位で行うようになった。人の世を真似、会社を作り、利益を出す方法を考えるようになったのだ。
 青鬼は平成に入るまでずっと妖怪会社への勤めを渋っていた妖怪であり、妖怪社会人としては新米だ。野平や鎌立、狼山などに比べれば、長く勤めているものの外に出れば赤子のような扱いを受ける。

「よぅ、青いノ」
 赤鬼はギラリと鋭い黒目で青鬼をひと睨みすると、黒い部長椅子に背を預けた。地位は同じなのだから、席を立って出向かえるべきだろう、とばかりに戸の傍で待っていると手招かれる。
「席を立て赤いノ、私はおまえの部下じゃないぞ」
 赤鬼のもとに歩みを進めながら抗議すると、赤鬼はふんと鼻を鳴らし、消えた。
 ルノアールでいいか?と耳元に声が聞こえ、赤鬼が妖力でさっさと移動した事がわかる。
「妖力の無駄使いだ、妖力車か徒歩で行け、東武バスでも良い」
 赤鬼は川越駅前マインにあるルノアール、喫煙席で、人間のサラリーマン客に混じり寛いでいた。ジャラジャラした金属で全身を飾り、高いスーツを着て、あの酷い目つきで周囲に睨みを利かせている赤鬼の姿を、青鬼は恥じていた。どこからどう見ても極道者である。
「妖力車は嫌いだ、気味が悪ぃ」
 鼻と眉間に皺を寄せて、煙を吐き出す赤鬼から煙草を取り上げる。
「妖怪の癖に、何を人ぶっている」
 赤鬼の吸いかけを肺に送ると、肝の薫りがした。
「肝入りか?人のブランドだが?」
「最新の技術で肝を混ぜてる、良いだろ」
「箱で寄越せ」
「横暴な」
 話をする場所に妖怪の店ではなく、いちいち人の店を選ぶところも鼻につくが、自分は人の文化に通じている風を前面に押し出し、実際に人の文化を取り入れる妖怪技術にアンテナが高いところも、気に食わない。赤鬼はいつも人の世ばかり見ている。
「この煙草を今度サンプリング販促したいんだが、規模がでかい」
「うちから何人か貸し出せというんだな」
「さすが話が早ぇや、牛鬼か野平を貸せ」
「どちらも駄目だ、うちの目玉になる大型案件を抱えている」
「鎌立は?」
「駄目だ、野平と組んで、超大型の案件を抱えている」
「傘本は?」
「初めての中型案件と格闘中だ」
「鵺……」
「野平や鎌立と共に超大型を進めている」
「おい、お互い扱うもんは大型ばかりなんだ、そこんとこを少し妥協してくれねーと」
「狼山なら都合できるが?」
「ド新人じゃねーか、いらねぇよ」
飛頭はどうだ」
「うちの風紀が乱れる」
「巨乳は嫌いか?」
「貧乳派だ」
 互いに、話が逸れたと思ったために一呼吸を入れて、フワフワとした椅子に背を預けた。平安時代には、敵対する陰陽師に使役され、闘った事もある仲だが、今は互いのために協力する立場にある。赤鬼との関係は時と共によく変わる。
「それなら、玉天狗はどうだ?」
「企画部に移動するんだろ?」
「十二月まではこっちにいる、今は引継ぎの作業がメインで、新規の仕事はない」
「玉天狗か……」
 うん、と唸って考え込んだ赤鬼に、青鬼は言いたい事があった。玉天狗は青鬼に気があり、ちょっかいを掛けて来る。おまえは、その事をどう思うのかと。自分達は何度か蜜月を過ごしたが、いつも年月と共にその愛は風化した。気がつくと互いに別の相手がいたりして、あまり長続きする事はなかった。今はどういう気持ちでいるのか。玉天狗の気持ちを知ったら、赤鬼はどんな反応をするのだろう。青鬼が昭和の時代に、「人」をやった際の赤鬼は酷かった。青鬼が結婚した女や娘、孫の前にしょっちゅう現れて、青鬼は呪われていると吹き込んだ。おかげで妻や娘、孫に恐れられた青鬼は孤独になり、時折姿を現しては自分を抱く赤鬼の虜になった。死んで妖怪の記憶が戻ってからは、自分の「人」休みを台無しにされた事に気がついて赤鬼を恨んだが、その恨みも五十年経った今は消えた。あの時、自分に憑りつく程、自分に執着を見せた赤鬼は何を思っていたのか。今、その気持ちはどうなっているのか。
「天狗は好かんか?」
 苦い顔の赤鬼に問うと、赤鬼は口をへの字にした。
 それから、「好かん」と素直に認めた。「私も好かん」と笑うと、少し考えて言葉を選ぶ。
「だが、玉天狗は仕事が出来る、きっと役に立つぞ」
 我侭だがな、と心の中で付け加える。勝手な赤鬼と我侭な玉天狗が、どのように協力体制を築くのか見ものだな、などと悠長に構えて、青鬼は玉天狗を赤鬼に貸す事に決めた。
 ガヤガヤした声が聞こえ顔を上げると、午前中の買い物帰りと見える客などが、ルノアールの薄暗い店内に入って来ていた。
「良い時計だな」
 ふいに指摘されて目をやると、腕の時計は十二時を指していた。青い腕にピッタリ収まっている銀色の腕時計は人の職人が拵えたもので、細かな装飾が施されている。人として死ぬ時一緒に焼いてもらい、こちら側に持って来たものだ。
「やらんぞ赤ん坊」
「いらんわ青二才」
 そこで、憎まれ口を叩き合う青鬼と赤鬼の席に、ちょうど人間が割り入って来た。体の中に、人間が侵入して来る気持ち悪さといったらない。こういう時、見えている側と見えていない側で、どちらが不快を覚えるかというと、もちろん見えている側だ。人間には青鬼や赤鬼は見えていないが、青鬼や赤鬼には人間が見えている。自分の半分まで入って来た老婆に、赤鬼は舌打ちして席を譲った。
 妖怪店員が申し訳なさそうにしているので、大丈夫だと一声掛けると会計を済ませた。

 『怪PR社』は妖怪メトロ『時の鐘駅』直結のオフィスビルに入っており、贅沢にも地上に近いB1~B5階を丸々使っていた。オフィスビル自体はB29階まであり、妖怪メトロと通じる最下階は壁と床が透明で、地下に栄える妖怪都市が見下ろせるようになっている。
 午後八時。遅い帰社になったなと腕時計を見てから、青鬼は今日あった事を振り返った。午後の営業は上手く行き、受注に繋がる予感がした。また忙しくなる。問題は午前中、赤鬼に相談された内容だ。玉天狗に何と言って説明しようか。
「青ノ旦那」
 早口で呼ばれて、振り向くと第一営業部のマネージャー、鶴種の鶴 永吉(つる えいきち)が窓辺の歓談ソファから立ち上がった処だった。人の世の夜景にも似た、闇の中を蠢くカラフルな光の景色、妖怪都市を背にした鶴は映画俳優のように軽やかにこちらに歩いて来る。
「鶴……」
 待ち伏せされていたらしい。
「チョイとお時間頂けますかぃ?」
 詰められる事がわかっているので、時間など一秒も与えたくない。しかし、そこは大人である。何だ、と短く応じた。
「昼にうちの大将から相談を受けたろう」
 妖怪都市のネオンに照らされた鶴の整った顔は、幻想的で美しく、目に心地が良い。しかし油断してはならない。鶴は赤鬼の右腕だ。
「私の人選が気に食わないんだな?」
 当たりをつけると口端だけツイと上げ、御名答、と目を細めた美男子は腕組みをして、さらに近づいて来た。
「うちの状況を考えた上での判断だ、覆る事はない」
 昔から綺麗なら、男でも女でもぺろりと平らげて来た色好きの青鬼にとって、鶴はつい気を許したくなってしまう対象であり、困った相手だった。近い距離から上目遣いにされ、ほだされそうになった自分を叱り、睨む。
「怖い顔したって駄目だぜ旦那、アンタだって知ってるだろ、うちの大将と玉天狗は敵同士だ」
「敵同士とはまた旧時代的な!確かに鬼種と天狗種は不仲だが、そこは現代人として、互いに尊重し合えば乗り越えられる、現に私と玉天狗はこれまで上手くやって来た」
 種を越えて力を合わせようという、妖怪協定の思想を盾に言葉を作ると、鶴の目は怒りを宿し一瞬煌めいた。誤魔化しが通じない男である。
「おいおい、しらばっくれるなよ、そういう問題じゃないんだ、うちの大将も玉天狗も、揃ってあんたに気があるだろう、二人は牽制し合ってる」
「おまえの妄想に付き合う気はない」
「こっちこそあんたの逃げ口上なんざ聞きたかねぇさ、俺はただ第一が荒れるのを防ぐために、こうしてあんたを待ち伏せたんだよ、玉天狗以外の奴を寄越せ」
「無茶を言うな」
 これは話が長引くと互いに悟り、黙ってフロア内に併設された喫茶に足を運んだ。
 改めて正面で向き合うと、真っ直ぐに引かれた眉や細い目、睫ひとつひとつの傾きなど、丁寧に作られた人形のような鶴の顔は、一瞬ぎょっとする程美しい。和装の肌蹴た胸元なども妙に性的だ。
 赤鬼が弱っていた幕末の頃、陰間をしていた事もある癖に、鶴はあまり男の目を意識しない。自分の見た目を客観視して、出来たら肌を隠す格好をしていて欲しいものだが、これは赤鬼が口を酸っぱくして言っているらしいので、青鬼は触れないでおくべきだろう。
「なぁ青ノ旦那、俺は何も牛鬼や野平、鵺を貸せと言っているわけじゃねぇ、鎌立か傘本……あの辺りだ」
 頼んだアイスコーヒーに、次々とガムシロップを入れながら、鶴は行き成り本題に入った。
「五つも入れるのか?」
 咽喉が痛くなりそうな味を想像して指摘すると、鶴はキョトンとして甘いのが好きなんだと漏らした。
「鎌立ならうちの大将のお気に入りだし、組んでる相手は鵺と野平だろ?あの二人なら鎌立の抜けた穴ぐらい埋められる」
「鵺は最近、お子さんの調子が悪いそうで忙しくあまり頼れない、野平は次期マネージャーだ、玉天狗から引継ぎの仕事を受けるので忙しい、実質、鎌立が色々と動き回っているんだよ、勘弁してくれ」
「それじゃぁ、傘本の持ってる案件、狼山辺りに引き継げねぇのかよ」
 ミルクも二つか、とうんざりした思いで鶴の手元を睨みながら、青鬼は窓の外、妖怪タウンの煌びやかな光を見つめた。壁も床も透明なせいで四方から入って来る七色のネオンが、静かな空間を賑やかに錯覚させる。
「傘本は今、ようやく掴んだ中型案件に対峙してる、最後までやらせてやりたい」
「チッ、妥協って言葉を知らねぇな」
 鶴は不貞腐れたような顔をして、ドロドロのアイスコーヒーを一口飲むと、懐から手帳を出しパラパラと捲った。
「それじゃぁ残るはアンタだな、手下(てか)に調べさせたんだが、毎週木曜の朝に定期訪問しているC客が居るだろう?」
 手下を『てか』と呼ぶ鶴はいつになったら補佐と言い方を直せるようになるのか。岡引の時代が長かったのがいけないのか。
「C客だとしても入ると大きい会社だ、疎かにする事は出来ない」
「大丈夫だ、俺が責任を持って定期訪問してやる」
「……」
「その代わり、あんたは今回の煙草サンプリング案件の方に、うちの大将と一緒に訪問してくれ。新規取引でKPIの設定もまだなんだ。第二と協力してこなすのに、無理のないような握りをしてきてくれ。玉天狗と大将で訪問したんじゃ先方の前で喧嘩しかねないからな」
「成る程」
「それでよぉ、余計なお世話かもしれねぇが、こうして毎週のデート時間確保してやった事だし、さっさとくっついてくれないか、大将はアンタに前の「人」休みで酷ぇことしたの気にしててよ、臆病になってるんだ、ここはアンタがひとつ大人になって、男心汲んでやってくれ」
「……か、勘違いしてくれるな、私と赤鬼は!」
「好い加減、腹決めてくんねぇと、俺が大将とっちまうぜ」
「……」
 悔しい事に、言い返す言葉が思い浮かばず、呆然としていたら伝票を持っていかれた。目下の者に奢られるなどと慌てて席を立ったが時は遅く、鶴はあっという間に支払いを済ませてしまった。
「おい、これを」
 札を出したが緩く笑われて撒かれてしまい、鶴はもう帰りだったらしい、メトロの方面に去って行った。艶かしい後姿に、ヒリヒリと焦燥感。長く赤鬼の傍で、赤鬼を支えてきた鶴に本気を出されたら、という恐怖が、青鬼をその場に縫い付けられたように立ち尽くさせた。

「よぅ、青いノ」
 問題の木曜朝、赤鬼は相変わらずのやくざな格好で、JR王子駅すぐの飛鳥山公園をふらついていた。妖怪メトロ『飛鳥山公園』駅から昇り出てすぐ、時間も早いしと園内に足を進めたら二歩で出会った。
 顔に似合わず、小動物好きである赤鬼の足元には、数匹の猫がじゃれついていた。
「その毛玉ども、何とかならないか?」
 反対に青鬼は愛らしい小動物が苦手であり、頬がひきつくのを押さえられなかった。
「何だ、蛇は飼いならす癖に」
「蛇には毛がない」
 生理的な問題だ。
「ちょっと待て、それじゃぁ写真だけ」
 大きな手で足元の猫を救いあげると、一匹を肩に、一匹を手に乗せて顔を近づけ、ポーズを取る。撮れという事か。
 要望に沿って、iPhoneで撮ってやると赤鬼は素直に猫を茂みに返した。一匹が名残惜しそうにニャーニャーと鳴いてついて来たが、赤鬼が相手にしないとわかるとトボトボと帰って行った。
 飛鳥山公園は植物が多く、広い道はジョギングする人間や、木々に挨拶廻りをする妖精で溢れていた。頂上の売店裏に妖怪メトロの出口がある関係で、JR王子駅までは公園を降りていく必要があった。
「撮った写真だが、どうする、送るか」
 鳥の鳴き声や木々の囁き、妖精の笑い声が自然の道を包んでいる。気持ちの良い空気に毒されて、横を歩く赤鬼の手を握ってしまいたいな、などとらしくない事を考えた。
「あー、鶴に送信してくれ、俺の方にはいらん」
 そこで、チクリと一刺し。
「どういう事だ?」
「あいつ、オッサンと猫って題名でフォルダ作ってるんだ、コレクションに加えてやろうと思ってな」
 鶴は第一のマネージャーであると同時に、赤鬼の補佐でもある。普段、行動を共にしているせいで、赤鬼と猫の組み合わせを多く見かけ、その度に撮った写真が溜まって行ったのだろう。強面の赤鬼と愛らしい猫のミスマッチに、上機嫌で携帯カメラを構える鶴の姿が想像でき、これまでは何とも思わなかった心が、少しだけ萎縮した。
「美人補佐にからかわれて好い気になっているんだな、格好悪い事この上ないぞ赤鬼、鼻の下をのばしすぎておかしな顔にならんよう気をつけろ」
 猫と赤鬼の写真を眺めながら、憎まれ口を叩くと赤鬼の顔は一気に不機嫌になった。
「いいから送っとけ、青二才」
「ぐずるな赤ん坊、朝からおまえと顔を合わせているこっちの身にもなれ、景色はこんなにも爽やかなのに、私の心はどんよりと暗い」
「ふん、嫌われたもんだなぁ、……まぁお互い様だがよ」
 何故か、今日はいつもより口が辛い。
「大体、おまえは鶴に尻に敷かれすぎだ、色魔人め」
「あ゛ぁ?!」
 長く生きているせいか、同じ相手と何度もくっついては別れを繰り返す。その度に、辛く苦しい思いをしたり、喜びでおかしくなりそうになったりする。いつになったら淡々と冷静に、恋路と向き合えるようになるのか。
「うちの飛頭には身だしなみを注意する癖に、鶴にはあんな格好でふらふらさせて、身贔屓も大概にしろ」
飛頭は女で鶴は男だ、並べるな、……それに、俺は鶴にだって忠告してるぞ、あんまりその、誘うような素振りを見せるなと」
「誘う?」
「あれは一時期、陰間をやっていたからな、変な色気がついちまって、ちょっと弱ってんだ、無意識なんだろうが、こう、つい目で追っちまうような仕草が多いというか」
 敵は思いの他、進軍していたようである。
「そりゃぁ赤ん坊、てめぇが鈍感なだけだ、事実、鶴はてめぇを誘ってるんだよ、一回抱いてやれ」
 なるようになれと、葉っぱを掛けると、赤鬼は苦虫を噛み潰したような顔で、顔の前で手を振った。
「ねぇねぇ、鶴とはもう百年も前に終わってる、幕末の頃は確かにそういう関係にもあったがな、お互いもう何とも思っちゃいねぇはずだ、俺が攘夷で力を使い果たして消えかかった時、陰間してまで復活さしてくれた時は、鶴程の相手はこの先現れねぇとか何とか思ったが、明治に入った途端、よりによって西洋妖怪と浮気されてな、ありゃぁ苦い思い出だ、陰間の奉公だって、単に股のゆるいあいつの性に合ってただけかもしんねぇしよ」
「長年の相棒に何て言い草だ」
「相棒なんて綺麗な仲じゃねぇよ、腐れ縁だ」
 幕末の頃といえば、青鬼は赤鬼と共に攘夷に明け暮れていた。この頃の青鬼には人の恋人があり、鶴と赤鬼に関係があろうが、なかろうがどうでも良いという立場だった。しかし、今は二人が気になって仕方がない。この感情は、いくつになっても厄介であり不愉快であり、青鬼の苦手とするところだった。

「やっぱり、大将と青ノ旦那に商談行かせて、正解だったな」
 鶴が満足気に、商談記録を手にニヤニヤしている。自分の采配に満足し、悦に浸っているのだ。鶴の掌の上で転がされている気分になり、青鬼は溜息をついた。
「おっと幸せが逃げるぜ」
 鶴は目敏く青鬼の溜息に反応すると、ひらりと記録用紙を青鬼の前にかざした。
「いやぁ、さすが青ノ旦那だぜ、商談の流れは全て大将の望みのままだ、アンタが口を挟んだ形式が一つもない、第二に振られる仕事の量ぐらいか?アンタならこういう対応してくれるって思ってたよ、アンタは補佐の同行って決めたら、とことんお口にチャックしてくれるタイプの男だ、玉天狗じゃそうはいかねぇ、こいつはこうだって閃いた事は口にしないと気がすまねぇからな」
 小会議室はテーブルが低く、向かい合う相手の足元まで見える。和装の隙間から覗く鶴の艶かしい足が気になって、先程から青鬼は書類に集中できずにいた。
「鶴さん、太腿見えてます」
 盗み見る青鬼を他所に、玉天狗が指摘した。
「ほらこれだ、見えてんじゃなくて見せてんだよばぁか」
「誰に見せてるんですか?」
 鶴の隣に腰掛けた玉天狗は、芸術家風の髭をぴくぴくさせながら、じっと鶴の美しい腿を見つめた。歌謡曲を良い声で披露しそうな玉天狗の風貌を、ダンディと褒める女怪社員は数いるが、青鬼は賞賛出来ずにいた。すらりと背が高く、優しい玉天狗であるが、頑固で我侭という悪い側面ばかり知っている身としては、あまりオススメできない物件である。
「青鬼さんを誘っているなら無駄ですよ、彼は僕以外には興味がないんですから」
「決め付けるな、さっきからムラムラしている、鶴は一回私に抱かれた方が良いな」
「青ノ旦那、セクハラって奴ですよ、俺はもう陰間は引退してんだからね」
「冗談だ鶴、気分を害したなら謝る」
 青鬼と赤鬼、玉天狗並びに第一の数人が絡む大規模な煙草サンプリング案件は、『鬼加工株式会社』からの発注である点から社内では「鬼煙草案件」と呼ばれていた。月一で大規模な会合を開き、全国展開に向けて動いている。会合前にこうして、青鬼と玉天狗、赤鬼と鶴の四人で簡単な打ち合わせを行っていた。
 赤鬼と共に臨んでいる毎週木曜朝の商談内容を、玉天狗や鶴に情報共有し、会合は二人が資料を作成して進行する。
「何がセクハラだ馬鹿っ鶴、そんな色魔みたいな格好してやがるからだろ、変な目で見られんのが嫌なら明日から洋装で来い」
 この間、青鬼に指摘された事を気にしていたのか、いつになく強い口調で、赤鬼が鶴を嗜めた。
 驚く青鬼と玉天狗を前に、鶴は少しばつの悪そうな顔をして黙り込むと、するりと出ていた足を着物の内側に引っ込めた。社内の妖怪の半分はまだ和装で、鶴のようにだらしない格好でいる者が二割。鶴が叱られる言われはないのだが、意識してしまう側としては、鶴が堅い和装かいっそ洋装になってくれると助かるのだ。
「よく言った、赤いノ」
「貴方が言わなければ僕が言っていましたよ」
 青鬼と玉天狗の賞賛を得て、赤鬼は少し得意顔になり、わかったな、鶴、と年頃の娘の父親のように言った。
「糞オヤジが」
 鶴がぼそりと反撃したが、皆、聞こえなかったふりをした。

 「鬼煙草」案件もついに終盤、長かった下準備を経て、ついにサンプリング販促が開始された。各地の地下施設でのイベントと、居酒屋やカラオケ店を中心とした喫煙者へのキャンペーンガール派遣が行われ始めたのだ。データを揃えた上で動いているため、そこまでの不安はないが広告効果は水物である。青鬼は休日を使って、地下施設のイベントに繰り出した。ロック歌手のライブの合間に宣伝を入れ、その場で配るのと会場の脇に数個用意するのとで手を打っている。昔はテレビや映画でCMを流したり、ポスターで宣伝する事が出来たが、煙草の規制が厳しくなり、こうした地道な活動がメインになってしまった。喫煙人口が限られて来たというのも原因の一つで、あまり派手に広告をうつ予算もない。こんな処まで人の世の影響を受けなくても、と喫煙者である青鬼は思う。
「休みに呼び出して悪かったな」
「もとから来る気だったから気にすんな、こっちこそすまねぇな、うちの大将、だらしねぇもんで」
 今日、赤鬼は昼から酒を飲み潰れてしまい、結局夕方に開始するこのイベントに足を運んだのは青鬼と鶴のみだ。会場の盛り上がりを一段高い関係者見学席から眺めつつ、横にいる鶴の洋装に、胸騒ぎを覚える。
 鶴は赤鬼に叱られてからというもの、洋装で出勤して来ており、赤鬼に対する思いの深さを見せ付けられたようだった。
「もう和装はしないのか?」
 身勝手なことに、また鶴の艶かしい和装が見たくなって着た青鬼は、休日の和んだ空気の中で、つい聞いてしまった。
「大将に叱られるからな」
 しょんぼりした鶴の横顔に、そんなにも赤鬼を、と危機感が募った。青鬼は赤鬼に禁止されたぐらいで、自分の自由を諦めたりする玉ではない。しかし鶴は違う。鶴は赤鬼に従順だ。鶴には勝てないかもしれない。失恋の予感がして咽喉奥が震えた。
「でも、青ノ旦那が見てぇってんなら、話は別だ」
「何?」
「帰りに寄ってかねぇかい、家ではこれまで通り和装だからよ」
 赤鬼に想いを寄せる者同士、語らうのも良いかもしれない。
 頷くと、鶴は緩やかに笑った。絵に描いたような形の良い目が、細められて黒目がちな瞳が煌く。負けても仕方がない、鶴は綺麗だ。

 イベント終了後、売り切れたサンプリング煙草のコーナーを見て、青鬼は恋敵である事を忘れ、鶴と手を叩き合い喜んだ。コンサート会場で配られた煙草は全てはけ、サンプリング企画の一つは成功した。
 二人は近場で一杯飲み、ほろ酔い気分で酒を買って鶴の家に向かった。赤鬼に想いを寄せている身として、迂闊に他人の家に上がるべきではないとちらりと想ったが、相手は鶴だ。
「青ノ旦那、俺の家はこの真下だ」
 銀座五番出口からすぐ、今は洋菓子屋が入っているビルの前で鶴が止まった。下に沈むと、閑静な妖怪高級住宅地が現れた。でんとした面構えの日本家屋が立ち並ぶ一帯に、気後れして少し酔いが醒める。鶴の家はその中の一つで、なかなかの大きさだった。
「随分、立派な家だな」
「おぉ、陰間時代に客から貢がれたんだよ」
 表玄関から入るとすぐに広い庭が見え、見惚れていると、鶴はさっさと家の中に入ってしまい、慌てて後を追う。
「これだけ大きいと手入れが大変だろう」
「休日に色々やってくれる人を雇ってんだ、好い加減、固定資産税がきついから手放そうかとも思ってるが」
 ちゃぶ台の置いてある広い部屋に通され、腰を落ち着けると、すぐ傍に日干しして取り込んだばかりという体の布団が見えて緊張した。
 鶴にその気はないだろうが、布団というもの自体を意識してしまう浅はかな自分がいて、思わず目を逸らした。逸らした先で、洋装を脱ぐ鶴が見えてまた目を逸らす。
「懐かしい薫りがする、……良い家だな」
 正面のちゃぶ台を睨みながら、苦し紛れに言葉を吐き出すと、ぱさりと鶴の服が落ちる音が返って来た。
「そうだな、俺ぁ江戸時代、岡引だったから、こんな良い家で暮らすことぁなかったが」
 帰り道で買った酒を取り出して、煽る。酔ってしまえば、多少の事故にも良い訳が出来るだろう。まして鶴は陰間だった。いや、鶴に手は出さない。そんなつもりで上がりこんだわけではない。
「でも、ああ、大将の家なんかこんなだった気もするなぁ」
「同心時代か」
 思わず低い声が出たのは、『人の皮』を被って同心をやっていた赤鬼を思い出したからだ。今の世程、肝の取れ辛い時代でもなかったのに、何を人に化けて遊んでいるのかと軽蔑していた頃だ。
「大将は今も昔も人好きだ、アンタが人だった頃、何度も抱きに行ったのはあんたが人だったからだろうね」
 薄々、勘付いていた事をずばりと指摘されて、青鬼は急に、何か確信していたものを崩されたような気分になった。やはりあの時、赤鬼が青鬼を求めたのは、青鬼が人だったから。現に、今の赤鬼は青鬼に何もしてこない。それは青鬼がもう人ではないから。
 酒が廻り、心が弱くなっている。ポロポロと涙が零れだして弱った。鶴にこんな無様な姿を晒したくない。ぐいっと袖で涙を拭い、一瓶をラッパした。
「おいおい青ノ旦那、ヤケ酒は体に悪ぃよ、大将が勝手なのは昔からだ」
 着替えの途中で、止めに来た鶴の姿は目に毒だった。和装の帯が緩く、腹まで見える。鶴の体は痩せているくせにふんわりして、触り心地がよさそうだった。
「鶴……」
 名を呼ぶと、優しく手から酒瓶を奪われ、あやすように頬を撫でられた。本能が理性に勝ち、鶴の体を畳に押し倒すと、ふわりと花の薫りがした。
「誘惑が過ぎるぞ、この陰間」
 わざと嫌な言い方をしてやると、鶴は艶やかな笑みを浮かべて、青鬼の首に腕を絡めて来た。
「やっと落ちたな、このむっつりスケベ、一度アンタとやってみたいと思ってたんだ」
 なるほど、股がゆるい。
 赤鬼の言葉を思い出しながら、鶴の唇を吸おうと、顔を近づけたところでぴたりと迷いが生じた。
 赤鬼に自分が失恋するのは良い、だが、赤鬼を支える鶴を赤鬼から奪うのはどうなのか。
「ギブアップだ」
 そこで、どこからともなく声がして、思わず鶴から顔を離した。
 広い和室の奥、襖がガラリと開いた。
「遅ぇよ大将、俺の操、奪われそうだったぞ」
「陰間が良く言うぜ」
 赤鬼が襖の向こうから現れ、鶴がそれを当たり前のように受け入れる。青鬼は恐らく、嵌められた。
「どういう事だ、赤いノ? 鶴? 返答次第じゃ妖怪大戦争だぞ」
 怒りを抑えて聞くと、赤鬼が溜息をついた。
「いや、その、俺はだな、真実の愛って奴をだな」
「大将、きめぇ」
 補佐にスパリと切られて、赤鬼は口をつぐんだ。
「鶴、翻訳を頼む」
 鶴から身を離しつつ、乱れた衣服を整えた。酒の酔いが一気に醒めて行くのがわかる。
 自分でも意識しないうちに、青鬼は怖い顔になっていた。
「いや何、大将がなかなか青ノ旦那に素直じゃねぇからよ、ちょいと喧嘩になってな? このままじゃ青ノ旦那を玉天狗に取られちまうぞって脅したんだ、そしたらこの阿呆、それでも良いとか抜かしやがる、もう青ノ旦那の気持ちを無視した行動は起こさねぇって」
「……」
 なるほど、確かに「人」休みで赤鬼が青鬼に行った無体は許される事ではなかった。しかし、最後には青鬼も赤鬼を認め、愛していた。
「青ノ旦那が選んだ相手が、青ノ旦那を幸せにすんなら自分は身を引くってよ、そんな健気な玉かよ、だからこっちもかっとなってよ、俺が青ノ旦那をタラし込んでもかって言ったら、ああと言った」
 段々と話が見えて来て、怒りが呆れに変わっていく。
「じゃぁどこまで我慢出来んのか、我慢比べだってんでそこの襖に仕舞ってやったんだ」
「で、お前等が今にもおっぱじめようってトコで、俺が悲鳴を上げたってわけだ」
「だから言ったんだよ、あんたは青ノ旦那を誰かにやるなんて事、絶対できやしねぇんだ」
「うるせぇ鶴、黙ってろ」
 全てが仕組まれていたとしたら、いつから、どこまでだろうか。ここまでして一体、何が楽しいのか。疲れ過ぎて考えがまとまらない。
「何をやってんだ、おまえらは二人して」
 力の抜けた声で呻くと、二人は声を合わせて、だっておまえ(アンタ)が玉天狗なんかと噂になるから、と応じた。
「玉天狗は念者だ、私も良い年をして抱かれる趣味はない」
「でも大将には抱かれるんだろ?」
「それは……」
 鶴の指摘に、口篭ると赤鬼が足早にやって来た。
 ぎゅっと手を掴まれて、心臓が五月蝿く鳴り始めた。誘惑に流される感覚とは違う、独特の緊張感が漂う。
「青鬼、俺はな、本当はずっと……永遠におまえと恋仲でいたいんだ、けど、おまえがいつも俺に飽きて他に行く、おまえはお互い様だと思っていたようだがな、俺はおまえの気持ちを察していつも身を引いてたんだよ、先の「人」休みの時は心底悪かったと思ってる、だけどあの時は、この鶴がな、直前に西洋悪魔と消えちまって、俺は……鶴にまで背を向けられて、気がおかしくなってたんだ、それでおまえと一緒に人の世に逃げたのに、おまえは俺じゃない奴と添い遂げようとしやがるから」
「何を言ってる」
 確かに人であった時、青鬼は同性の赤鬼に惹かれていた癖に、許婚の女と結婚した。愛していたわけではない、そういうものだという気持ちで夫婦になった。赤鬼が戦争で死んでからは、女の生んだ子を愛し、時が作った愛着で女も愛し、幸せに人として生きていこうとした。赤鬼に惹かれたわけや、赤鬼から送られていた愛の言葉を深く考える事なく、赤鬼を思い出の中に仕舞い、省みなかった。だから赤鬼は現れた。
 赤鬼はあの時も、襖の中で我慢比べをしていた。そして、我慢出来なくなり、飛び出して来たのだ。人の前に現れるという事は、妖力の強い赤鬼といえど、かなり疲弊する仕事だったろう。
「俺はおまえの気の多さを知っている、どこまでも続く妖怪の命の果ての無さを知っている、ずっと同じ相手は辛かろう、だから、心に余裕がある時は、おまえの好きにさせてやりたかった」
「まぁ、浮気も一種のプレイだよなぁ、っつぅか、大将は大将で青ノ旦那が他行ってる時は愚痴りつつも楽しんでたじゃねぇか、別の妖怪で」
 外野から野次が入り、はっとして我に返る。
 赤鬼の言葉が本当なら、青鬼は随分と勝手な男になってしまう。浮気はお互い様だと開き直っていた青鬼にしてみれば、寝耳に水の話である。
「あぁ、鶴、おまえに手を出したのは失敗だったな、あの浮気は辛かったぞ」
「大将は粘着質過ぎんだよ、ありゃ悪かったな、反省してる、だから今こうして荒療治だけど手ぇ貸してやってんだろ」
 鶴は相変わらずの艶姿で、ちゃぶ台に腰を掛けて二人を見守っていた。
「良かったら俺ん家好きに使えよ、俺ぁ飛頭ちゃんに遊んでもらう、陰間やってからもう男はからっきし駄目になってなぁ、女が一番だよ、結局のところ、おっぱいがないと生きていけねぇ」
飛頭は牛鬼が好きなんじゃなかったか?」
「おぉ、本命はもちろんな、だが遊び相手ってんなら合格点もらってんだ、色男はお得だろ?」
 はは、と高らかな笑い声を上げ、鶴が退散していくのと、赤鬼がぐっと身を乗り出すのは一緒だった。
「おい、よせ、今はそんな気分じゃない」
「さっきまで鶴に盛ってたろう」
「念者と若衆じゃ立場が違うだろう、心の準備がだな」
「俺が若衆をやっても良い」
「それはちょっと、その気になるのに問題が」
「ならおまえが若衆をやるしかないだろう」
 やる以外ないのか、という突っ込みは通じず、実に六十年ぶりに、青鬼は赤鬼と交わった。途中、あらゆる時代の赤鬼との思い出がぶり返し、赤鬼の言うように、確かに、青鬼の心が赤鬼から離れる事の方が多かった事実に驚いた。赤鬼が本当に何度も何度も、青鬼を思い身を引いていたとしたら、青鬼は何て酷い男だろう。青鬼にその事実を悟らせる事なく、それを繰り返し続けて来た赤鬼の、何て健気な事だろう。
「何を泣いてる」
 言われて気がつくと、目から涙が零れていた。行為が終わったものの、体は重なったままだった。鶴を抱こうとした畳に、布団を敷いて行っていた。人の家で何をやっているのかという冷静な考えが頭を過ぎったが、それよりも、赤鬼の事について、青鬼は反省しなければならない事が多すぎた。
「思い出していたんだ、確かに俺ばかり、おまえに飽きていた」
「ああ」
 思い出の中で、浮気をされた覚えが一つもない。いつも青鬼が他に気をやった、その後で赤鬼にも相手が出来ていた。それでいて、青鬼が一人になった時、いつも赤鬼は寄り添って来た。
 あれは、タイミングを見計らっていたのだ。
「しつけぇ男は嫌いだろう」
「好みじゃないが、おまえなら別だ、限界が来るまで耐えるんじゃない、おまえはもっと俺に文句を言うべきだった、怒るべきだった、やきもちぐらい妬け」
「おまえは気が多い男だからな」
 最初は確かに、赤鬼は怒っていた気がする。それが何時の頃からか、するりと別れられるようになった。赤鬼も視野が広くなって良かったと勝手な事を思っていた。赤鬼は耐えていただけだった。
「悪かった、赤鬼、俺は酷かった」
「酷かったのは俺だろう、おまえの人休みを台無しに」
「もういい、よせ」
 赤鬼の言葉を聴けば聴く程、胸が苦しくなった。
 気の多い青鬼に惚れたばかりに、妖怪の命が果て無いばかりに、惨い苦しみを与えてしまった。赤鬼がやたらと『人の皮』を被って、記憶を失い、人の世に逃げて行く訳がわかった気がした。



2016/07/11

『オトナとコドモ』(世話焼き攻め×マイペース営業マン)

 二年前、営業から人事に回された時、妙な感覚に襲われた。突然、何もないところで転んだ時のような放心状態。
 少しほっとした自分がいた一方で、作りかけの砂山を崩されたような、変な悔しさも残っていた。
 自分がそうしたスッキリしない状態のまま移動したという経緯もあり、一本は現在、人事として出来るだけ丁寧に、調整を受ける当人の気持ちに沿った仕事をしたいと考えていた。

 
 問題の男、野平は武蔵国川越、時の鐘地下に本社を構える『怪PR社』第二営業部の中堅営業社員だ。のっぺら坊種の特技を生かし、担当の好みの顔で営業に行くという荒業で、新規顧客獲得一位の座を二年連続達成している。
 他者を茶化すのが大好きという悪癖はあるが部内での評判も良いのでマネージャーをやらせたい。

 会社から徒歩二秒にある、小江戸の町並を道端のベンチから眺めつつ、一本は蕎麦を掻き込んでいた。そろそろ野平がこの道を通るはずだ。
 時の鐘は人の世では観光地になっており、土日祝日には屋台が出る。
 妖怪企業の休みは水曜と土曜になるため、『怪PR社』は日曜の今日も元気に営業していた。
「おっ、来たな!」
 蕎麦を脇に置いて、身を乗り出す。
「野平、のっぺ! のんのんー!」
 野平は男の癖に女の行くような店や、女の好むようなものが好きで、今日も小江戸の道沿いにあるベーグル屋に、ランチをしに行っていた。同僚の牛鬼に裏を取り、一本は野平を待ち伏せた。
「うわっ、やだ、変な人がいる」
 元部下とは思えない失礼な反応で、野平は一本から距離を置いて止まった。わざと怯えたような姿勢で、今にも逃げ出しそうだ。
「ちょっとここ座れ」
 隣を指差すと、野平は涙袋のある優しげな目を細めて、笑った。
「汚い食べかけのお蕎麦が置いてあって座れません」
「汚いって言うな、食いもんだぞ」
 蕎麦をどけて、今度こそ、とばかりにポンポンと隣を叩く。
 しかし、野平は動かない。すらりとしたシルエットが、良く目立つ。他社の女怪達が見惚れて通り過ぎて行くのを見て、一本は何となく、損をした気になる。
 おい、と声を掛けると、野平は首を傾げ、さらに笑みを深くした。
「ねぇ、それじゃぁ一本さん、隣座ってあげる代わりに、前髪上げるか分けるかしてくれないかなぁ、顔全然見えない」
「良いんだよ、俺からは見えんだから」
 意地の悪い提案に、舌打ちをして応じる。野平の見た目、薄紫の髪をピタリと整えて後ろに流し、涙袋のあるパッチリとした目を晒した二十代後半の男。は、一本が過去、無理をして作っていた姿そのまま。
「俺が居るから、顔隠しちゃったんですか?」
「いや、切るのサボってたらこうなった」
 ぐらりと野平の姿が傾いて、一本の顔を覗き込む。
「相変わらず、可愛いですね」
「人より早く止まったからな」

 一本は十二歳で外見年齢が止まり、営業をしていた頃、外に出られる見た目を作るのにとても苦労した。
 十以上歳を取らなければならなかったので、『虚装』だの『老け薬』だの『瞬間催眠香水』だの、早くに歳が止まってしまった妖怪のためのお助けグッズには相当お世話になったが、どれも日常的に使える程、上手く使いこなせなかった。
 結局、落ち着いたのは、妖力で化ける『実装』という手段で、これはいつも気を張っていないといけない上、相当量、肝を消費するため食費もかさんだ。
 毎日十以上歳を取るために気持ち悪くなる程肝を食べ、四六時中、妖力を使って『実装』し、よく疲労で倒れていた。
 多忙な次期は足先が消えかけていた事もある。

「あ、わかった、なんか見覚えあると思ったら、オールドイングリッシュシープドッグだ、一本さん、知ってる? 前髪の長い犬、あれに似てるよ?」
 無邪気にからかって来る野平の、顔面は実装で覆われている。
 歳を取る実装で、自分は相当疲弊したが、顔を作る実装は、どれぐらいの妖力がいるのだろう。
 現在、野平が社内用に使っているその顔は、大人の一本の顔だった。
「おまえ、そういや何で俺の顔してるんだ?」
 改まって聞いたのは初めてだった。野平の顔がどこか幼く呆けたのを見て、この元部下が、遥か年下の妖怪であった事を思い出す。
「うわぁ、……やっっっと本人から聞かれたよ、何年越し?」
 言い方からして、野平はこの問いを待っていたらしい。誰かが質問するシーンは、何度もあったが、その度に野平は作りやすいからだの、気分だの、最初に覚えた顔だの、適当な事を言っていた。
「だってほら、他の奴が先に聞いてたし」
 素直な良い訳をすると、野平はやっと隣に腰を下ろし、ぼんやりと、目の前に並ぶ瓦葺屋根の美しい街並を視界に入れた。黒光りする瓦の下では、江戸時代からの門構えで未だ商いを続ける人々が賑やかに声を掛け合っていた。隣同士で店番をしながら、会話をする微笑ましい人間達の様子に、一本は心を和ませた。そういえば今日は漬物屋が新作を出すと宣言していた日だ。繁盛店だから、夕方、行列が出来る前に買いに行かなければ。
「単に貴方は、俺のことなんかどうでも良かったんでしょ?」
 飛んでいた意識が、野平の不貞腐れたような声で戻された。
「あ?」
 意味がわからずに怪訝な顔を作ると、野平はにっこりと笑った。
「俺、相手にされてないな~って落ち込んでたんだけど?」
「意味わかんねぇ」
「貴方は、姿を盗まれたのに、何とも思わなかったの?普通はもっと突っ込む、っていうか嫌がるよね?」
「あー」
「考えなかったの? なんでこいつ、俺の顔使ってるんだろうって」
 野平の言い分は、つまり、一本にもう少し、姿を使われた事を怒れという事らしい。
「そりゃ、まぁ、少しは……でも、あ、思い出した、おまえ、俺の客結構引き継いだだろ? その関係でじゃなかったか?」
「いえ、その頃、俺はそんなに成績の良い営業マンじゃなかったので、確か貴方の客は半分ぐらい牛鬼が、残りは青鬼さんが引き継いでたと思います」
「ありゃ?!」
 混乱して来た頭を、野平の手が軽く撫でて来た。
 おい、年上の男に向かって失礼な。
「もう、良いです、貴方がいかに普段何も考えないで生きている人かってわかったので」
「おい」
 怒りの声を上げた一本を無視し、野平の手はそのまま、一本の長い前髪をすくい分けた。すると、一本が普段隠している一本の十二歳の顔が、世間に晒され、さっそく観光客らしい猫娘の女子高生グループが、通りすぎながら、今お蕎麦食べてた子可愛くなかった、と囁いて行き、顔に熱が集まる。
 野平の瞳に映りこんだ己の顔。久しぶりに見たが、相変わらず幼い。
 長い睫に囲まれた皿のように大きな目が、パチパチと儚げに瞬いている。小さな口に、くるりとまとまった鼻やふっくらした頬が揃い、非常に愛らしい。
 この容姿には、大体の者をデレデレさせる力があるが、一本は歳も歳なので、どちらかというとデレデレしたい側だった。さらに言うと、男寄りの妖怪としては、構われるより構いたい、愛されるより愛したい。
 女にはよく、見た目を指して頼りないとか、男を感じないとか、百年早いとかギャップがキモイと言われて振られた。
 好きで早く時が止まったわけじゃないのに、と憤りつつ、俺は本当はこんなじゃないんだ、と思う。だから、あまり顔を見られたくない。
「あっ!」
 顔を振って前髪を戻すと、野平は悲しそうに眉を下げた。
「せっかく分けてあげたのに」
「オッサンのアイデンティティが損なわれるんだよ、あの面晒してると」
 低く呟き、食べかけだった蕎麦に手を伸ばす。ずっ、と音を立てて口に流し込むと、よく噛まずにごくんと飲む。小さな咽喉につまり、えほっと悲鳴を上げて背を丸めた。野平の優しい手が背中を摩った。
「大丈夫?」
 憮然として、はぁはぁ息をついている一本に、野平はにこりと笑いかけた。
「俺はねぇ、一本さん、昔の一本さんに憧れてたんですよ。かっこいいなぁ、あんな風になりたいな~って、ずっと思ってて、一本さんが居なくなった時、一本さんが居ないのが嫌で、一本さんになるつもりで、この格好始めたんです」
「おー、そうかい」
 調子の良い奴め、と唇を突き出してみせると。野平は少し困った顔をした。
 何だか、久しぶりに褒められたような気がする。誰かに認められる事は、嬉しい反面でいつもむず痒い。本当に野平がそんな理由で自分の姿をしていたのだとしたら、かなり気分が良いが、少し恐縮もしてしまう。今の野平は、一本が営業に居た頃の十倍以上稼いでいる。どうコメントすれば良いかわからない。
「信じてませんね?」
「そんな活躍してた覚えねぇからなぁ」
「直属の部下にしか見えない部分って、ありますからね」
 もっと聞きたい、けれど、これ以上聞いたら可笑しくなりそうとも思う。嬉しいのに、何故か悔しさが込み上げる。
「営業なんて所詮、体力だからなぁ」
 もちろん才能や気質も関係しては来るだろうが、一本が続けられなかった理由は、第一に妖力の不足だった。大人の姿を、実装で保ち続けながら毎日生きる事に限界を感じた。
 ふと見ると、野平は眉間に一つ、皺をつくっていた。
「疲れたらそこで終わりですか?」
 ぐっ、と胸に刺さる言葉だった。二年前、体力があれば、続けていたかもしれない営業職の事を思う。徐々に上がりつつあった成績表を見上げ、思い悩んでいた過去が蘇る。あの時の人事だった一つ目の鬼、壱目は一本に、営業は向いていないと言い放ち、このままじゃ消えると忠告した。
 野平が手を上げて、通りがかりのアイスキャンディー売りを呼び止めた。ラムネ味を二本購入すると、一つを一本に手渡した。袋を開けて、口に入れるとシュワリとラムネの味が広がった。甘酸っぱい粒が練りこまれていて美味い。
「俺、引き抜きの話受けてるんですよね」
 野平の呟きに、一瞬、息を呑んで固まった一本に目配せし、野平は笑った。
「『あやかし広告』から、マネージャー職で」
 動揺して歯と歯の間に挟んだアイスを、口の中に入れそびれ、口端から溶けたアイスが零れた。
「わ、アイス零れてる、ベタベタになりますよ」
 野平の手が口端を拭ってくれ、はっとなりハンカチを出して渡した。野平は苦笑い、ハンカチで手を拭うと、自分もアイスを口に入れた。
「悪い、ちょっと、びっくりしたから」
 齧った分のアイスを片付けながら、冷や汗が額を濡らしていくのを感じた。衝撃でドキドキし始めた心臓をなだめつつ、野平の横顔を盗み見る。
「マネージャーなんて、大変なだけでそんなに給料変わらないから、気は進まないんだけど、会社を移動するっていうのには、少し魅力を感じるんですよね」
 今日、そのマネージャー職を任せる話を持って来た身としては、完全にやり辛い言葉を吐かれてしまった。
「だから俺……『あやかし広告』の人事に、営業職でなら移っても良いって言ったんです」
「えっ?!」
「でも駄目でした、要は営業を育てる人材が足りないって話で、一人勝ちの営業マンばかりっていうのが悩みなんだって」
 ハラハラしている一本の胸のうちを見透かしたように、一本の反応を見ながら、野平は話を続けた。ラムネアイスの、酸っぱい味ばかりが目立って感じる。唾液が大量に口内を満たしている。
 時計を見ると、昼休みは終わっていた。
「行くなよ」
 思わず、素直な言葉で縋った。
「この会社で、おまえの望みを……なるべく叶えられるよう、俺、頑張るから、本当は今日、おまえをマネージャーにしたいって話、しようと思って待ち伏せてたんだけど」
「ええ、聞いてます、青鬼さんから」
「……」
「貴方が俺を推薦して会議開いてくれたんでしょう?最近俺の事、色々な人に聞いて廻っていたらしいですし……、きっと会議では、それだったら最近業績回復した牛鬼でも良いなって話が出て、俺と牛鬼で票が割れて、鶴さんが俺に一票入れて決まったとか、そんなところでしょう」
「良くわかったな」
「鶴さんは牛鬼さんみたいな才能タイプ好きじゃないですからね、それに、今のマネージャーやってる玉天狗さんは天狗閥だから鬼の青鬼さんとはソリが合わない、企画部に移動っていう話も出てますから、きっと俺か牛鬼が、玉天狗さんに代わるんだろうなって」
「まぁ、その、そこまでは詳しく、教えられねーけど」
「アタリでしょう?」
 普段、営業先の担当を通して営業先の社内情勢をつかみ、担当社の稟議を通させるところまでを行う野平を相手に、これ以上隠す事は不可能なのかもしれない。自分の立ち入った事のない他社の情勢を把握するような男が、自社の情勢がわからないわけがないのだ。
「ああ」
 困ったように下を向くと、ふふ、と野平の笑い声が降った。
「良いですよ、俺、マネージャーやりますよ、『あやかし広告』の引き抜きも受けません」
 えっ、と声を出して顔を上げた。
「一本さんの頼みですからね」
「の、野平っ、おまえ、いいのか?」
「って言いたいところですけど」
 喜ばせておいて、突き落とす。
「さっきランチ中に『あやかし広告』の方が乱入して来て、どうしても来てくれって頭下げられたんです、そんなに俺を必要としてくれてるんだって、ちょっと心動かされましたよね」
「うちだっておまえが必要だ」
「さぁ、どうでしょう」
「おまえの望みを、極力叶えられるよう、頑張る」
アイスは途中から、ポタポタと溶けていた。手に大きな蟻が、登って来ていた。
「それじゃぁ一本さん、しばらく実装生活に戻ってくれません?」
「え?!」
「俺の憧れた、一本さんの姿を、また見せてください」
「憧れ、って、……今はもう、俺、営業じゃねーから」
「俺は、営業をやってる一本さんに憧れたんじゃないんです。一本さん自身に憧れたんです。全身の実装、大変そうだった……。俺はのっぺら坊種だから、顔面を常に実装しなければいけなくて、社会人はじめの頃は凄く苦しかった。きつくて何度も休んだり、実装をしないで会社に行って叱られたり、どうして俺ばっかり、って思ってた。……だから貴方が毎日毎日、弱音を吐かずに実装を続ける姿を見て、感銘を受けたんです」
「……」
 野平の目は力強く真っ直ぐで、その気持ちに嘘はないのだとすぐにわかった。一本は頷くしか、道がなかった。


 次の日から、一本は実装で通勤した。
 朝の小江戸で店を開いているのは、コンビニとカフェのみ。初日から途中で倒れたり消えかけるわけにはいかないので、燃料補給とばかりにカフェに寄って珈琲を注文した。妖怪向けのカフェだったが、人にも店を開いており、人の皮を被った店主は人の世に向けて料理ブログまでやっている。豆腐小僧種のこだわりなのか、豆乳どーなつや豆乳クレープ、豆乳チーズケーキ、豆乳飲料がカラフルにメニューを賑やかしていた。そんな中から、珈琲を選んだ一本に、店主が珍しいねと声を掛けて来た。
「チーズケーキは?」
「いらねぇ」
「ん?どうしたい?今日はご機嫌斜めかい?」
 店主の馴れ馴れしい様子に、一本は顔を顰めたが、恐らく野平と勘違いをしている、と気がついて慌ててやっぱりくれと言った。どうして一本が野平に合わせるような格好を取らなければいけないのかとも思ったが、考えてみると、この姿を使っている年月は野平の方が長い。
 灰色のどっしりした陶器に入った珈琲をチビチビと飲みながら、赤い日本傘の下で朝の空気を味わった。整然と同じ高さに保たれた瓦葺の美しい小江戸の景色を眺めながら、しみじみとその美しさに感じ入った。
 秋になったら寺巡りにでも行こうかな、と相模国の鎌倉を頭に浮かべながら、紅葉が綺麗なのはやはり円覚寺だろうかと考え始めたその時、のっぺセンパァイ!と黄色い声と一緒に二の腕に女の頭のぶつかる感触がした。近い距離から、香水の良い匂いをさせて、女怪のろくろ首種、飛頭が伸ばした首をぐいぐいと二の腕にぶつけて来ている。目の前にはデンと巨大な胸があって、風流に想いを馳せていた空気が飛んだ。
「あのぉ、聞きたい事があってぇ!」
 飛頭は体を上下に揺らしながら喋るので、その度にゆさゆさと胸が揺れる。
「お、おう」
 胸に視線が引き付けられ、離れない。
「ちょっとやだ、のっぺセンパイ欲求不満?ロミの胸超見てない?!怖いぃぃ!」
「ば、ばか、しょーがね、じゃねー、悪い!」
 ぐっと気合で視線を胸から上げ、飛頭の伸びた首の方を見たら、つけ睫とデカ目効果で、これ以上可愛い生き物はいないのではないかという程、可憐な女の顔があった。ドキンと胸がなって、何だこのトキメキ、久しぶり、と思っていると、飛頭はごそごそと紙袋を出して、中から高価そうなハンカチを出した。男物である。
「これ、牛鬼さんに! 復活祝いっていうか、ここんとこ、ずっと調子悪かったじゃないですかぁ~、それが先月、積み上げ一位とか超嬉しかった、かっこよかったですぅっていう、そういう気持ちでぇ、喜んでくれると思いますぅ?」
「あ、おう、そうだな……多分」
「やぁだぁぁ、のっぺセンパイ今日テンション低いぃぃ、ロミと牛鬼さんが上手くいかなくて良いの?!」
「良くは、ないと思うけど」
「もういいっ! あら太君に聞くっ!!」
 嵐のような出来事、とはこの事で、ズンズンと去っていく飛頭の後ろ姿を見て、飲み終わった珈琲を店主に返すと、そうか、そうだよなと今更ながら気がつく。この姿は、一本のものであって一本のものじゃない。野平として認識している者が多数で、一本として認識している者の方がむしろ少ないのだ。
 たった二年前なのに、大人の姿で生きていた頃の、あの自分を知っている者は、もうどこにもいないような気がした。

 午前中の会議が終わり、諸々の書類を各課へ届けに管理部フロアを出ると、おはようございます野平さん、と社内清掃を任せている清掃業者、『あかなめ清掃』の管理者と思われる男に呼び止められた。
「お仕事順調ですか~?」
「はぁ、はい」
「俺さっき企画部の会議室で見ちゃったんですよぉ、野平さんと仲良いあの巨乳のろくろ首、牛鬼さんに何かプレゼントしてましたよ、浮気じゃないっすか?」
 業者とも仲良くしているのか、と驚きながら、答えに困っていると後ろに人の気配がした。
「あれ?! 野平さん?! ド、ドッペルゲンガー?!」
「おはようございます要さん、俺が本物ですよ~? 今日もパンチラ見れました?」
「見れました!! いやぁ~、『怪P』の女子社員、やっぱレベル高いですよね、見えた時の幸せ度が違いますもん」
「あんな忙しい現場に居るのに絶対ミニスカって凄いよね、いっそ見せに来てるよね、しょっちゅう書類落としてしゃがむし」
「赤鬼部長がなんか叱ったらしいっすよ、給湯室で陰口叩かれてましたもん、格好をもう少し堅めにしろって言われたって」
「まじで、赤鬼さん清楚好きだからなぁ、余計な事言わないで欲しい」
「まったくですよねぇ~」
 パンチラなど、これまで意識さえしていなかった自分は枯れているのだろうか。
 そういえば、今朝、巨乳の谷間を見て思い出したが女との接触も一年以上ない。二年前、大人の姿をしていた頃はそれなりに機会があったが、子どもの姿で通勤出来るようになってからはご無沙汰だ。
「あ、そうだ要さん、紹介しとくね、一本さん・・・! 昔俺の上司だった人で、俺の元ネタっていうか、この人の顔を俺が普段使わせてもらってるんだよ」
「え?! じゃぁこっちが本物なんですか?!」
「本物っていうか、元ネタ?」
 しげしげと見られて、額に汗を掻いた。早くこの場を去りたい。
 廊下の向こうで、『あかなめ清掃』の清掃員が、要さーんと声を張上げたために救われた。要が呼ばれた方に去った後、野平をちらりと見て、何か話題を、と探す。
飛頭さんの事、大丈夫、なのか?」
「え?何が?」
「気になっていたんじゃ……?」
「え?! なんで?!」
「あんなに仲が良いのに、何ともないってことはないだろう?」
「違いますから、もぉ、ちょっと男女が仲良いとオッサンはすぐそういう話に持ってくなぁ」
「牛鬼は良い男だけど、おまえだって、その、俺の顔ではあるが、しっかりしているし、人は中身だろ」
「だから違うから」
 強い口調で、苛立ちが滲んだ声だった。
 一本は野平と会話をしたかっただけで、不快にさせたかったわけではない。しょんぼりと黙ると、野平はするりと、一本の頬を撫でた。
「ほんとに『実装』して来てくれたんですね、俺のために」
 肌触りを確かめなくても、見れば『実装』とわかるだろう。最近は『実装』に近い完成度を誇る『虚装』技術も、手軽に利用出来る世の中になったが、まだまだ『実装』と『虚装』の間にはクウォリティに差があると思う。
「……ところで、今日。良かったらランチ一緒しませんか?」
 突然、ランチなどとカタカナで言われて戸惑う。飯、と漢字を吐き、生きて来た一本としてはむず痒かった。承知すると、野平は嬉しそうに笑った。
 ランチというとあのベーグル屋だろうか。
 それとも最近西武線川越駅前に新しく出来たスパニッシュカフェのランチだろうか。何にせよオシャレな店に連れて行かれるのだろう、悪目立ちしないようにしたいので、ネットで作法をチェックした。取り敢えず、パスタを音を立てて吸わないようにするのと、楊枝で歯の隙間に挟まった食い物をシーシー言いながら取らなければ大丈夫そうだった。
 一本さん、と声を掛けられて昼の時間になったのがわかった。野平は管理部までわざわざ向かえに来た。連れて行かれたのは駅前だったが、落ち着いた雰囲気のスタイリッシュな蕎麦屋だった。川越は小江戸近郊や住宅街こそ昔風の街並を残しているが、駅前は賑やかにビルが立ち並んだ雑多な場所であり店も多い。その中から、よくもここまで一本好みの良い店を選んでくれたと野平の気まぐれに関心した。
「おまえも蕎麦好きなのか?」
 聞くと、野平はうーんと首を捻った。
「普通?」
 それじゃぁ、なんでこんな蕎麦好きが大喜びするような場所を知っているんだよ、と聞きたかったが、また余計な質問をして空気を悪くするのも嫌だった。
「これは、絶対美味いぞこの店」
 品書きのシンプルでこだわりに溢れた顔ぶれと、客層のいかにも蕎麦通という風情に胸を打たれ、一本は興奮して拳を握った。出てきた蕎麦は、やはり美味かった。蕎麦湯も、いくら飲んでいても飽きないような、むしろ単品で注文しても金が取れるというぐらい、さっぱりして味が深かった。
「夜来て、酒も一緒に注文したいなぁ、今度」
「そうですね、今度」
 野平はどこか照れたように、今度、という言葉を囁いた。
 そういえば、憧れられていたんだよな、俺はこいつに、と思い出して、一本は急に、もしかしてこの店も俺の好みに合わせて選んでくれたのでは、と思い至った。
「美味しかったですか?」
「良い店だな、ここ」
 野平の問う声に、手料理を彼氏に聞く彼女のような、温かさを感じてそっぽを向いた。照れくさい。
「それじゃぁ、来週の金曜夜、暇ですか?」
「あ、予定はまだない」
「空けといてください、またここ来ましょう、お酒飲んで、久しぶりにゆっくり話をしたいんですけど、良いですか?」
「おう」
 野平の誘いは、いつも自然だ。

 あ、野平さん、と廊下ですれ違い様に若手の営業に呼び止められた。喫煙スペースに続く人のいない場所だった事も手伝って、狼種の彼は立ち話しようと足を止めた。誤解を解こうと口を開く前に、頭を下げられた。
「『山姥会』への同行ありがとうございました。おかげ様で契約取れました。野平さんに交渉して貰わなかったら駄目でした」
「凄いな」
 『山姥会』は通信教育業界の大手だ。
「ええ、これで今月達成です」
 狼種の彼の名は、確か狼山。良くミスをして叱られている姿を目にする。将来有望な新人に恩を売る名目で面倒を見る人間は多くいるが、あまり評価の高くない新人の面倒まで豆に見ているのだな、と考えて、やはり野平はこの会社に必要な妖怪だという思いを強くした。
「野平さんの商談で覚えた聞き方使ったら、こないだ別のところでも契約決まったんですよ」
 興奮して懐っこく、喜びを語って来る狼山に戸惑っていると、喫煙スペースから、牛鬼がやって来た。
「何してんだぁ狼山、一本さんと仲良かったっけおまえ?」
「え?」
「この人、野平じゃねーぞ?」
 え、と繰り返して狼山は慌てて一本の顔を見ると、わけがわからないという表情を作り牛鬼を見た。牛鬼はふぅ、と溜息をつくと狼山の首を腕で絞めた。
「おまえは好い加減、そのウッカリ改めろぉ~! 野平がこんな誠実そうな表情するかぁ? あいつはいつもヘラヘラヘラヘラ無責任そぉ~に笑ってんだろぉ?」
「すみませんんん」
 そのまま、狼山は牛鬼に引き摺られ、その場を去ってしまった。実は一本と野平をすぐに見分けた牛鬼の方が少数派で、間違えてしまった狼山の方が多数派だという事を明かしたかったが、二人は既にエレベーターの向こうに消えていた。
 付き合いの長い人間には、さすがにわかるようだ。

「野平さん」
 もう呼ばれ慣れて来てしまった、その名に反応して振り向くと、会議室前で鎌イタチ種の女怪、第二営業部の鎌立が資料の相談を野平に持ちかけたところだった。野平は優しい顔をして、わかりやすい表現に直した方が良い箇所や、確認を取っておくべき事項を指摘していた。最後に、下調べの丁寧さなどを上げて鎌立の仕事を褒め、競馬のクリアファイルに収納されているところをからかった。鎌立は照れつつも、からかいに困って、野平の腕を軽く叩き拗ねてみせる。
 良い雰囲気だと思い眺めていたら、野平と目が合って急に気まずさが首をもたげた。

「こういう店は、落ち着かないですか?」
 小江戸の街並は時代劇のセットのようだ。しかし、一つ路地に入ると現代的な都会の景色になってしまう。若い女性向けの小物屋や、サラリーマン向けの飲食チェーン店、判子屋や写真屋、不動産屋、薬局、コンビニといった店が並ぶ中、テラスのついたカフェ兼パン屋に野平と二人で昼飯を取りに入った。店内には昼休みのOLが多く、男は恋人の付き合いで来たという風な奴ばかりで、男二人組の野平と一本は浮いていた。
「ここのパン屋は肝の量をかなり大目にしてパンを焼いてくれてますから、疲れに良いですよ?」
 恥ずかしいという気持ちが、野平には備わっていないのだろうか。一本ばかりがそわそわして落ち着かない。
「あの~ぉ、お二人は双子とか、だったりするんですか?」
 外まで続いているレジ行列の中から、砂撒き種と思われる髪に鉱物のよう煌めきの含まれた女と、飛縁魔種と思われる妖艶な女が声を掛けて来た。
「ええっと、俺がのっぺら坊種でね、この人イケメンでしょ? 姿借りてるの」
「のっぺら坊種~! すご~い!」
 何が凄いのか、キャァキャァと笑いながら、二人が場を華やかにしてくれるので、一本は野平の様子を伺った。出来たらこの二人をこのまま同席させて、今の羞恥プレイ状態から抜け出したい。
「二人とも観光?」
「そうなんですぅ、ここのパン屋『るるる』に載っててぇ~、おいしそうだったから寄ったんですけどぉ、人気店過ぎて困っててぇ、もう並ぶの諦めて他行こうかなぁ~とか思ってたんですけど!」
「そうだね~、この時間混むから、また夕方とか寄れば? 喜多院の五百羅漢様達にはもう会って来た?」
「まだですぅ~」
「あの人達三時ぐらいからお昼寝入っちゃうから、早めに行った方が良いよ」
「えーっ、嘘、やばい」
 どうやら、野平には二人を同席させる気はないらしい。
「まぁでも、喜多院までこっから三十分掛かんねーから、そんな急ぐ事もないとは思うぞ。パン気になるなら、俺三つも食べれねーから、二人とも一つずつ好きなの選んで食べてけば、席も二つ空いてるし」
 横槍を入れると、二人はすぐイイんですかぁ?! と黄色い声を上げて座った。飛縁魔種の女は、飛縁魔種だけあり非常に美しく、胸や尻がでかかった。思わずじっと見ていたら、うふ、とばかりに笑みを浮かべられてかぁっと頬に熱が貼った。
「え、やだ、何何、恋?」
 砂撒き種の女が茶化すと、飛縁魔種の女が楽しそうに、イケメンに熱い目で見られちゃったぁ~、などと言うので、困って野平に助けを求めたら、野平は面白くなさそうに椅子の背に寄りかかり、通行人などを眺めていた。
「ごめん、俺、女性慣れしてねーから、不躾に見ちゃった」
「えー?! 意外~! モテそうなのにー! 職場に女の子いないんですかぁ?」
 飛縁魔種の女が身を乗り出すと、大きな乳が揺れ、嫌でも見てしまう。
 はっとして目を逸らすと、あぁ~、と悪戯っぽい声が上がり、もしかしてご無沙汰かぁ~? と色っぽい声で言い当てられる。
「ちょっ、エンちゃんまだお昼っ! すぐ盛るのやめて!」
 砂撒き種の女に咎められて、飛縁魔種の女が身を乗り出すのをやめた。この子になら、血を吸われても良いなぁ、などと妖怪らしからぬ事を考えてしまう。
「ねぇじゃぁ貴方、インスタやってる?友達になろうよ」
 飛縁魔種の彼女に言われ、慌ててスマフォを取り出す。それを、野平が取り上げて、懐にしまった。
「えっ?!」
 声を上げたのと同時に、野平の冷ややかな目に射抜かれて凍った。何を怒っているのか、ここまで機嫌の悪い野平は見た事がない。
「うちの会社、ナンパ禁止なんですよ~」
 初耳だ、という言葉も恐怖で出て来ない。野平の怒りがびしびしと伝わって来る。それは女達にも伝わったようで、飛縁魔種の女も砂撒き種の女も急に大人しくなった。
 もそもそと全員が無言でパンを片付けると、帰り際、二人を喜多院へ行ける観光バス乗り場へと案内し、特に名前を教えあうでもなく別れた。
 せっかくの出会いが、という言葉が咽喉元まで上がって来ていたが、野平があまりに不機嫌なので、どうにか飲み込んだ。
「おい」
 声を掛けると、ぐっと腕を掴まれて細路地に連れ込まれた。
 何かと思ったら目の前に自分の顔、野平の顔が迫っていた。唇に、同じ形の唇が触れる。
「?!」
 言葉にならない言葉で疑問を伝えると、野平はやっと機嫌を治し、うっすらと笑みを浮かべた。
「俺、一本さんとセックスしたいんだね、理解した」
 理解した、と言う野平に対して、一本は混乱した。
「セッ?!」
「良く落ち込んでたんだよ、貴方の事、妄想して抜けるから」
「抜っ」
「俺、ショタコンだったのかなーって、でも、今の姿の貴方もいける、っていうか今の姿の方が燃える、いや、どっちでも燃えるなー、どっちが本命なんだろう?」
 ぱくぱくと口を動かして、一本は自分に男色趣味はない、と伝えようとしたが、野平の機嫌がまた悪くなっても困るので、今度改めてセックスに誘われた時に伝えようと思う。というか、何故、同じ姿の自分とやりたいなどと思ったのか。
「ナ、ナルシストなのか?」
「それはどうだろう?」
 野平は一向に、近い距離のままで、ここは細路地で、会社の近くで、バクバクと心臓が音を立てて、危険を知らせている。
「一旦、下触らせてくれない?」
「今度な」
「駄目」
「いやその、駄目とかは俺が決める事だろ?!」
 大の男二人が、細路地で密着して性的な雰囲気になっている。建物の影で完全に歩道から死角になっているし人気もないけれど。まだ昼だし。モラルの問題が。
「溜まってるくせに」
「や、そん、おまえ何っ?!」
「ご無沙汰なんでしょ」
「ご無沙汰だけどな?!」
「今度良いなら今でも良いでしょ?」
「野平っ!」
 また唇に、唇が当たり、今度はねっとりと舌が口元を舐めて来る。
「うっ」
 ベルトが外される音と、下着の中に他人の手が入って来る感触に体が縮こまった。親指と中指で円を描いた野平の手が、一本のものをぬる、ぬる、と扱き出す。太腿に力を入れ、感じないようにしたが、意識がそこに集中して余計快楽が得られてしまい、ついに荒い息のなかに喘ぎが混ざった。
「一本さんの形覚えました、いつか全身一本さんに実装して、一本さんのこと、一本さんにそっくりな姿で苛めてあげますね」
「っぁ、野平、やめ、……出、ぅ」
 くるりと手を丸めて、下着を汚さないよう受け止めてくれた野平の手を、ぼんやりと眺めていたら、その手が野平の口元に行った。
「おい?!」
 まさかと思って掛けた声もむなしく、野平はごくんと咽喉を鳴らしそれを飲んだ。へたりと、その場に尻をついて、剥き出しの性器がスゥスゥとするのも気にせず、野平を見上げると、野平は苦い、と呟いて眉間と鼻筋に皺を寄せていた。
「おまえ、正気か?」
 力の無い声で問うと、野平は辛そうに口をもごもごさせると、まぁねと呟いた。その声はがらがらしている。一本の出した液は、酸味が強かったらしい。
「一本さん、苦いチューさせて」
「は?!ざっけんなよ、今おまえ、俺の、俺の!……んぅ゛っ」
 ぐいっと頭を捕まれて、また唇を奪われたが今度はぐっと歯を食いしばっていたので、表面を舐められただけだった。
「何その顔、レイプされたみたい」
 指摘されて気がついた。怖いという感情が全面に出た顔で、野平を見ていた。
「俺は、レ、……襲われた、のか?」
 聞いてみると、野平はぷっ、と唾を吐いた。
「襲いたくなんかなかったですよ、今週の金曜日に、勝負を仕掛ける予定だったんです、それが……」
「ああ、あの蕎麦屋で……勝負?」
「ええ、自宅に招いて良い雰囲気を作って合意の上でやる予定でした」
「ベロベロに酔わせて?」
「ええ、良くわかりましたね、……あ、言い忘れてましたけど俺、貴方の事が好きです」
 それは、この態度を見ればわかる。いや、わかるか? と色々と突っ込みを入れながら状況を整理した。
 野平は一本をセックスしたいと思う程好きで、先程不機嫌になったのは一本が女に鼻の下を伸ばしていたから。そうなると、野平がいきなりこうしてキスをして来たのは、ヤキモチが募っての事だ。そして、その場の勢いに任せて手淫をし、精液を飲み干して本気度を知らせた。
 野平が、一本を性的に好き。
「想像してなかった!」
 呟いて、思い起こすと色々と覚えのある、野平の発言や行動の数々に深い意味を感じる。相変わらず地に尻をついて呆然としている一本を、野平は不安そうに、見下ろしている。
「貴方のことずっと好きだったから、さっき、取られるかもしれないと思って、怖くなってこんなこと、しでかしちゃいました。
 久しぶりのミスですよ。覚えてますか? 俺は仕事でミスが多くて、良くフォローしてもらいましたね、貴方のお陰で俺はここまで来れた」

 二年前、行かないでくださいと涙目になって、自分を引きとめていた野平は、行かないでくれれば何でもしますと言った。だから行かないでください、一本さんが居るから勤め続けているんです、一本さんが居なくなったら俺は生きていけない、一本さん行かないで。今の野平からは、想像出来ない、いくじなしでトロかった、あの野平はどこに行ったのだろう。あまり出来の良くなかった野平の世話をするのが、一本の仕事だった。一本が唯一営業に貢献した事は、野平という営業マンを育てたところにある。
 一本が移動する少し前から、野平は営業のコツを掴み成績を上げて来ていた。野平が一人でやっていけると思えたからこそ、一本は移動したのだが。

「そうか、俺はおまえが心残りだったんだ」
「え?」
「忘れてた、あんまり、あの後スムーズに、おまえは成長していったから」
「ええ、おかげさまで」
「それと思い出した、俺、あの時、おまえはずっと営業で居てくれ、とか、言わなかったか?」
「……」
「おまえに、勝手に自分の思いを託したっていうか、うん、俺は多分営業職が好きだったんだ、本当は離れたくなかった、だからおまえに……」
「ええ、良く思い出してくれましたね、何でも言う事聞きますって言った俺に対しての、願いみたいな形であんな事言うから、俺、結構重く受け止めて、引き抜きの話にもそのポリシー持ち出したんですけど、その事けろっと忘れてマネージャーやれみたいな事言って来たから、ちょっとむかつきましたよね」
「悪かった」
 くしゃりと頭を撫でられ、だからそれは年上の男にやったら失礼だぞとまた思う。しかし、しゃがみ込んで来た野平が、あまりにも優しく額や頬にキスを落とすので、一本はさっきまで怯えていたのが嘘のように安心した気持ちになった。
「野平……」
「何ですか?」
 まだ、好きだと言えるまでの感情はないけれど。
「おまえの事、嫌じゃない」
「セックスは?」
「わかんねー」
「そこ、結構重要ですけど」
 ぐっと身を乗り出して来た野平の肩を押して、顔を背けた。照れくさい。
「あ、顔赤い、脈アリでしょうか?」
「照れてるだけだ馬鹿」
 時計を見ると、あと五分でランチの時間が終わるところだった。
「俺、マネージャー、やりますよ」
「っ!」
 ぽつりと野平が吉報を口にして、喜んだ拍子に実装が解けた。先程までの緊張状態が、精神に結構な負荷を掛けていたらしい。戻ったが最後、どっと疲れが出て、もう実装する元気が出ない。
「なんで小さくなってるんですか?」
「なんか安心して」
「まぁ、良いですけどね、自分の気持ち、確認出来ましたし」
「確認?」
「いや、俺、本気で悩んでたんですよ、貴方のこと見かけるたびにムラムラしちゃって、ショタコンなのか、単に貴方が好きで、貴方にムラムラしているだけなのか」
「そのために俺に実装させたのか?二週間近く」
「ええ」
「俺の熱意を計るとかそういうつもりじゃなく?」
「貴方が仕事に一生懸命なのはわかってますし、貴方に行かないでくれとか言われたその瞬間に他社に行く選択肢はなくなりましたからね」
「……」
「マネージャーの話だって、要は出世ですから、逆に嬉しいぐらいですよ?」
 にっこりと、腹の立つ笑みを浮かべる野平の両頬を、パンと音がする程、小さな両手で打った。人の努力を何だと思っているのか。
「馬鹿野郎!!!」
 怒鳴って、身辺を整えると路地を抜けた。
 丁度、訪問の帰りらしい牛鬼とその営業補佐、小豆が通りがかったので、これ幸いと小豆に抱きつき、怯えた顔で路地を指差す。
「そこで、野平に、チューされたッ!!」
 小豆の顔が怪訝なものを見る目で、路地を向き、牛鬼がよし、と腕まくりをする。
「何発殴れば良いですか?」
 路地から出て来た野平が、喧嘩準備万端の牛鬼と、自分を変質者でも見るような目で見ている小豆に出くわす五秒前である。



2016/07/11