からめ

◆小ネタ 『なしなし』(世話焼き攻め×マイペース営業マン)

 のっぺら坊種の野平には顔がない。妖力を消費し、誰かの顔をつくる。誰の顔がいいかを自由に選べる変わり、社会人として働く際には、常に誰かの顔を借り……妖力を消費しなければならない。

 童の姿で時の止まった一本もまた、社会では大人の姿を保つよう要求され、妖力を消費して体をつくらねばならない。

 野平は一本が営業部で働いていた時、部下として入ってきた。そしていつの間にか一本の顔で出勤してくるようになった。理由は一本を尊敬しているから、だという。一本が体をつくる負担に耐えきれず、営業部を去ると、野平は一本の代わり、頼りになる中堅として活躍するようになった。無理して大人になった一本の顔は、本来のこどもである一本の顔とはまったく別もの。一本がこどもの姿で社内業務をこなしている間、野平は例の大人になった一本の顔を使い、実績をあげた。大人になった一本の顔は、野平の顔として広く認知されるようになった。

「ところで一本さん」

 過去、毎朝鏡の中に見た己の、ぱっちりした二重が目の前で空を見上げている。野平と二人で休憩に出たカフェのテラス席、テーブルに運悪くべったりと鳩の糞がついていた。野平と一本は瓜二つの顔をした大人とこども。はたからは親子と思われているかもしれない。

「社会人としてやっていくために顔をつくるっていうのは、ちょっと語弊がありませんか」

 外回りの営業として、毎日、社会から顔を要求され生きている野平を、よくやっていると褒めたらそんな返事が来て。

「語弊?」

「顔なんかなくても、俺は、社会人やれますし、……貴方だってこどものまま社会人やれてるじゃないですか」

 ありのままの姿を認めてくれない社会に、不満を持つもの同士、愚痴ろうとしたのに。野平は一本と違う視点で、己の顔なしをとらえていた。

「顔がないと何か言われる社会で、……大人じゃないと何か言われる社会で、俺達は苦労してると……、思うんだけどな」

「俺は、割と楽しんでますよ」

「……」

「俺、貴方の顔、好きなんで」

 堂々とこの顔使える今の環境に、満足してます。と続いた野平の言葉が一本の耳穴に届くことはなかった。一本は照れて、耳を塞いでいた。野平は一本と同じ顔をしているが、同じ声ではなかった。野平の声を聞くと、どうしても野平を意識してしまう。野平が笑いながら、顔を近づけてくる。野平は己の顔を、より一本の顔に近付けようと、やたら一本を観察してくる。しかし、どんなに野平の顔が一本に近付こうと、一本を愛しそうに見つめて微笑む、その顔は、一本の顔ではない。

 もはや、野平には顔がある。一本の体は、まだない。

 

 

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◆小ネタ『冗談』(堅物サド×神経質なナンパ師、面倒見の良いオラオラ系)

 キケロとエリックは冗談がうまい。その場に四人いれば四人笑う、七人いれば七人笑える冗談を言える。俺は人を笑わせるのが好きだが、滑りがちだ。

「えっ、何て言った?」

 上手い冗談を言えるようになりたい。繰り返すとエリックは唇に拳を当てて頬を膨らませた。

「既に神級だろ」

 含み笑いをしながら、キケロが茶化す。キケロ宅のキッチンに降った俺の爆弾発言は、キッチンに立っていたエリックだけじゃなく、キッチンから四歩くらいのベッドで寛いでいたキケロにも届いていた。

「何、ゴドー、面白い男になりたいの?」

「面白い男になりたい」

 ぶっふぉ、と今度は盛大に噴き出して、エリックは俺をまじまじと見た。

「いや、もう、充分面白いけど!!」

「こういう面白さじゃなくて、その、……なんだ、……故意に人を笑わせたい」

「「……故意に人を笑わせたい?」」

 ついに二人は声を揃えて、俺の言葉を繰り返すと、ぷるぷると震えはじめた。俺は、ひとつ咳払い。二人が落ち着くのを待った。

 これくらい待てば充分だろうというところで、二人の様子を伺う。恐ろしいほど静かだった。はぁー、と溜め息をはいている。そろそろ。

「俺は、……真面目に、面白いことを言いたいんだよな」

 意思表明、二人は盛大に噴き出した。

「どうしたら言えるようになるんだろうな」

 首を捻ると、いよいよ二人は呼吸困難になってきて、既に言ってるから!!とエリックが叫び、キケロはベッドの柵に捕まってビクビクしはじめた。

「おまえ、コレ新手のテロだからな!!」

 笑い過ぎて涙ぐんだキケロに指摘され、俺はますます首を捻る。

「なんか違うんだよな」

「何が」

「こういう笑いじゃなくて……こう、なんだ、さりげない優しさをスマートにくるむ笑い……というか、うん、……格好いい冗談っていうのか、俺は、格好いい冗談を言って、エリックをときめかせたい」

 冗談が得意な二人から、本気で助言が欲しかったので恥をしのんで妄想を晒すと、いよいよ二人の笑いは止まらなくなって、そこから先は何を言っても笑いだす始末だった。

 

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◆小ネタ 『夜の虫けら』(執着攻め×強気受け)

 

 鬼李が深夜にふと目を覚ます時、隣に寝ている永吉はたいてい、猫のように丸くなって呻いている。呻き声で目が覚めたわけではなく、直感的に意識が隣に持ってゆかれて目が覚める。昔より頻度は減ったが、永吉は時折こうして一人で苦しんでいることがある。はじめはどうにか癒してやろうと額の汗をぬぐったり、そっと抱きしめたりしていたが、永吉を苦しめているものの正体を知ってからは、それをやめた。永吉は、鬼李の優しさに苦しめられていた。

 気がついたのは、いつ頃だったか。永吉の悋気が、昔とは比べ物にならないぐらい、強くなっていて驚いたことを、永吉に伝えた時だろうか。永吉は気まずそうな顔をした。永吉は鬼李の好意を、気まぐれとしか受け取れない男になっていたのだ。鬼李がいくら優しくしても、喜ぶ代わりに機嫌がいいなと皮肉を口にする。

 だから鬼李は、こうして目の前で、丸くなって呻く永吉を、眺めることしかできなくなった。深夜の静けさに、肩を冷やされながら、丸まった永吉の骨格を、耳の穴を、髪の生え際にたまった汗を見つめ、永吉が悪夢から解放されるのを待つ。寝室の一つ隣にある永吉の部屋から、鈴虫の鳴き声が、遠慮がちにあがった。

「鬼李……」

「ん?」

「寒ぃ」

「うん」

 眠気のまざった、か細い声。やっと目を覚ました永吉の、野生めいてギラついた瞳が鬼李を見上げた。ようやく許しが出たと身を乗り出せば、永吉がこちらに腕を伸ばした。鬼李が抱きつく前、永吉が抱きついて来て、どきりとする。

「また俺は、呻いてたか?」

「呻いてた」

「うるさかったろ、ごめんな」

「起きちゃった」

 鬼李にできることは、求められた時に応じること。

 永吉は鬼李に触れられても喜ばない。触れようとしたら、そこに鬼李がいることではじめて喜ぶ。永吉は変わってしまった。

 

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『恩師の声』(ミュライユ×亀、モブ視点)

 川越警察署地下にある、川越妖怪警察署の取り調べ室は暗い。蛍光灯がチカチカする狭い部屋に閉じ込めた恩師は、つまらなさそうな顔をして、現れた私を上から下まで見た。

「まだそんな太ってたのか、ちゃんと痩せろよ、可愛いんだから」

警察官になって妻子を持ち、幸せを噛みしめる毎日を送っていた私は、江戸時代の末期、食うに困った両親に売られ、陰間をやっていた頃より体重が五十も増えていた。恩師と私の関係は、元陰間の仕込み屋と陰間であり、つまりこの恩師は、私の初体験の相手なのである。

「可愛いは、もう、よしてください」

照れて反発すると、恩師はふわっとした、涙袋の目立つ笑い方をして、私をときめかせた。白地に薄灰色の、蜜が掛かったような濃淡と、ゆったりと粗い紺の矢絣模様の着流し姿が華やか。5月も中旬の暑さを和らげようとする粋な色合いに惚れ惚れする。

「どうして貴方が、ゴラン・ミュライユを保護していたんですか?」

恩師とテーブルを挟んだ向かい、パイプ椅子にギッコンと音を立てて腰を降ろす。尻の肉が余る感触。椅子が肌にめり込んで痛い。

「別に保護なんかしてねーよ、逆ナンされたから応じてやっただけだ」

恩師はふん、と鼻を鳴らして腕を組んだ。相も変わらず遊び人である恩師にほっとしながら、思い出す。

『っ……ぁ』

 生々しく甦った、悪魔の下に組み敷かれた恩師の喘ぎ声。陰間茶屋の奥座敷、畳の上で繰り広げられた戦いの臭いがまだ残る。開かれた敵味方の腹から出る、腸の匂い。恩師の全身から流れ出ている血の、鉄の匂い。部屋の闇が恩師と悪魔の結合部を隠してくれていた事が救いだった。悪魔の腰が恩師の開かれた足の間で揺れる景色。

『んァ、……っう、……ふ、……、っ……』

 部屋の隅に固まって怯えていた陰間達は、凍りついて、一言も発する事が出来なかった。ただ、泣いていた。

『く、っ……っ、あ、……ぁ、……あっ』

 悪魔のものを挿入され、揺すられてガクンガクンと動く恩師の身体、高く掠れた声、絶対に倒れてはいけないものが倒れた。折られてはいけないものが折られた。巣の中で一番強い者、親鳥を目の前で狩られ、食われた雛達の心情。

『っ……っぁ、ぁ、……く、ん、……ぐ』

 恩師は声を堪えて喘ぎながら、陰間達に禁止していた行為中の涙を幾筋も流した。陰間の中には恩師の抱かれ方が下手だったと、後で悪口を言ったものも居た。そんな奴を、私は殴って回った。恩師は私達を守るために戦ってくれたのだし、恩師が時間を稼いでくれなかったら、全員略奪されていた。あの時、助けに来てくれた、鬼の自警団の到着が、少しでも遅かったら、恩師はどうなっていたのだろう、と考えると今もぞっとする。犯されながら、血を吸われていた恩師の真っ青な顔。命を吸う技を持つ恩師に対し、血から命を吸う悪魔たちは、組み合わせとしては最悪だった。最終的に体術の勝負になり、多勢に無勢、恩師は敗北した。せめて陰間の中に、少しでも戦える者が居れば良かったのだが、腕の立つ陰間は皆、出払っていた。

 

「ミュライユは、パリの一級市民ですよ、こちらでも然るべき対応を取らねばなりません、貴方が個人で客として迎えられる相手ではない」

 回想から戻ると、目の前でふてぶてしく椅子に座る恩師の、整った柔和な顔が、やたら性的に見えた。今なら、恩師を犯した悪魔達の気持ちがわかる。この飄々とした態度や仕草を乱してみたい。決して小柄ではない、可愛くもない、どちらかというと大柄でスマートな雰囲気の恩師に、どうしてこんな感情を抱くのか。恩師は組んだ腕を解き、腰を上げた。それから狭い部屋の隅に行き、壁に背を預けると天井を眺めた。

「あァ、だから勝手に住居侵入出来たのか」

「侵入?!」

 不穏な言葉を聞き、私は眉間に皺を寄せた。逆ナン、という軽やかな言葉に安心していたが、相手は高位の悪魔だ。何か無茶をされたりしたのではないか、と、年頃の娘を持つ父親のような気持ちで心配した。頭の中には、過去、悪魔に組み敷かれた恩師の痴態が、目まぐるしく浮かんでは消え、浮かんでは消え。

「どうしてミュライユは貴方のホテルに侵入して来たんですか?! あっ、一応相手は高位悪魔ですので、侵入ではなく降臨と呼びますが」

「降臨!」

 ぶはっ、と恩師が噴出したので私は顔をしかめた。神権を与えられている高位悪魔を、神のように扱うのは普通の事だ。日本でも守護市民と呼ばれる高位の精霊や妖怪は神のように扱う。

「ちょっと?! 笑い事じゃないですよ?!」

「降臨って、おまえ」

「ミュライユは一級市民です、貴方のお知り合いで言えば李帝などでしょうかね、あの辺りと同一の扱いです」

「李帝と? ……あー、そっか、そうなぁ」

 やっと納得したらしい恩師を、私はじとっと睨んだ。ミュライユのような高位悪魔に対し、パリ市が授けている一級市民という身分。この一級市民には、一般市民が守るべき法律が適用されない。この特別扱いは、フランスの属するEUの加盟国、また一級市民認証国までは通用するが、日本を始めとする独自の身分制度を設けている国では、新たな資格を取って貰わないと通用しない。それが今回の、重大問題なのである。一級市民の扱いをどうするか、日本国内の誰かの手引きなら『旅客』として扱うが、自発的に来たのなら日本における一級市民、守護市民の資格を取って貰わなければならない。どちらにせよ、日本政府として一級市民が国内に一人加わった事を把握しなければならないので、こうして恩師を捕らえる事になった。

「それと、もしミュライユに何かされたのなら、それは私達にきちんと報告してください、一級市民の犯罪は、一般市民の犯罪より刑が重い、死刑にだって、してやれますよ!!」

「ふふ、過激だな、……宗次郎、そんなんじゃねーよ、あとその鼻息、やめろ、うるさいし見苦しい」

 恩師に指摘され、ぶぅぶぅと鳴っていた鼻息を止める。カラン、コロンと下駄を響かせて、恩師が近づいて来た。心の臓が早鐘のように鳴り、背中がきゅぅと緊張で硬くなった。

「しっかし、なんつぅか、すっかり豚さんだなぁ、昔はあんなに可愛かったのに」

 傍に寄って来てくれた恩師の、冷たいすべすべとした手に、頬を撫でられて下半身が騒ぐ。過去、あんなに男らしく映ったのに、今の恩師には若衆のような艶がある。それは、見た目が華やかなせいだろうか。それとも、あの日、悪魔に犯される恩師を、私が少しの興奮を持って眺めてしまったせいだろうか。

「貴方に、処女も童貞も捧げた可愛い生徒に何て事言うんですか」

「童貞はいらなかった」

 戦後、学のない陰間達のために開かれた学校。そこで、恩師は仕込み屋から一変、教師として活躍した。檻から出て、男の悦びに目覚めた陰間達に、恩師は何故か人気があった。私もまた恩師を求めた一人だったが、今思えばあれは、自分達を守るために戦ってくれた恩師が、目の前で悪魔に陵辱されたショックを、なかった事にするために、恩師の人格を改ざんしようとしていたのかもしれない。恩師が実は、悪魔との行為を楽しんでくれていたら、という可能性を、私達は捨てきれなかった。だから、受身に回った恩師を随分執拗に淫乱と認定して噂した。

「貴方はするのもされるのも好きでしょう」

 決め付けた言い方をすると、恩師はピシャリと私の顎を叩いた。

「へぇ、そうなの」

 その時、恩師より一音高い、無邪気な子どもが発するような、楽しげな響きのある声が部屋に響いた。

「亀、されんの好きじゃねーって言ってなかった? 俺の聞き違い?」

 恩師でも、戸の傍に立たせた部下でもない、この部屋に居ないはずの存在が、すぅっと私の前に現れた。

「ひっ?!」

 声を上げて、腰を上げると椅子がガッシャと倒れた。パサついた獅子舞のような長い髪で顔の半分を覆った悪魔が、姿を現していた。

「何ビビッてんの、さっきまで俺の噂してたじゃん? 亀に聞くより俺に直接聞く方が早くね? なんで俺じゃなくて亀捕まえてんの、意味わかんねーから」

 髪の隙間から見える目は鋭く凶悪だったが、キラキラと輝いている。何とも、得体の知れない威圧感。ああ、こいつが・・・例の高位悪魔か、恩師の宿泊したホテルに降臨した記録があり、恩師との間に、何かがあると囁かれている悪魔。

「貴方が、ゴラン・ミュライユですか?」

「わかってる癖に、確認するんだね、真面目だねぇ~」

 悪魔はヘラヘラと笑った。何だその態度は。おまえは恩師に多大な迷惑を掛けている自覚が、ちゃんとあるのか。

「勿論、貴方からも直接話を伺いますよ」

「話って、あれでしょ、日本の資格取れって話」

「それもありますが……」

 得体の知れない悪魔に、私は心だけは強気で、身体は弱気だった。どうやらガクガクと膝が震えていたらしい。恩師に背中をぽんぽんと叩かれて、やっと震えを自覚する。私達妖怪より身体が大きく、高圧的で化物じみた顔をしている、悪魔が怖い。

「いつから居た?」

 恩師は自然な動作で、私の前に立った。

「最初から?」

 悪魔は首を傾げて、また笑ってみせた。恩師が目を細め睨むと、悪魔は少し口をへの字にした。

「センセイ……」

 恩師の着物を掴むと、恐怖が和らぐ。職務を思い出して、守られる喜びを振り払うと、今度は私が、恩師の前に出た。

「センセイ、貴方は、一般人なんですから、さ、下がっていて、ください!」

「震えてんのに無理すんな、おまえが下がってろ」

 恩師がまた前に出ようとするのを、腕で防ぐ。悪魔がじりっと私に一歩近づいた。

「な、何が高位悪魔だ!!妖怪を舐めるなよ、この大入道様の、変幻自在の技を見せつけてやろう!!」

 ぐもっと身体の体積を増やす。高位悪魔がたじろぐ様子はなく、私は絶望的な気持ちになった。ああ、駄目だ、殺される。妻子の顔が頭に浮かび、申し訳ない気持ちになったが、恩師を守って殉職なら悪くない。

「いや悪ぃけど、オッサン、チョー邪魔」

 耳に入った独特のイントネーション、先程から気になっていた、これは、若者言葉? 目の前の悪魔と目が合うと、顔をしかめられる。堀の深いその顔から、若者言葉の飛び出す違和感。そういえば、日本語、堪能だな。と思わず感心した直後、頬の肉がぐぅっと床に擦りつけられて熱くなった。蹴っ飛ばされて転がったらしい、頬が冷たさを感じた頃、身体のあちこちが打撲の痛みを訴えて来た。そんな私を完全に無視して、悪魔はまっすぐ、恩師に向き合った。

「さっきそこでお亡くなりになってた若者ちゃん、吸収したんだよねー? 交通事故とかマジ悲惨じゃん? お悔やみ申し上げたよね。んで、せっかくだから記憶ごと頂いて、イマドキの日本ルールもついでに理解しといたよん! 亀との関係は日本じゃまだヤリ友っつぅんだね!」

 悪魔なのに、この喋り方、仕草。しかし、何故かマッチしている。

「なんつぅか、ドン引きだわ」

「え? 何に?」

「おまえのキャラに」

 恩師は頬をヒクつかせ、作り笑いをしているが、恐らく、同族嫌悪だろう。恩師が元禄の遊び人なら、悪魔が吸収した若者は平成の遊び人。気がつくと悪魔は自然な流れで、恩師の顔を両手で包み、己の顔を近づけていた。

「おい、……何だよ」

「亀ったら俺の事チャライとか言ってー、チャラいってつまりー、こういう事かなーっ?!」

「っ」

 恩師の頬や顎、唇などにどんどんキスを落として行く悪魔の、性技に慣れた仕草に、ほぅっと見蕩れていた私を無視し、悪魔は恩師の身体に腕を回した。

「……んっ……ふ、ゥ……んぅ」

 それから深い口付けをし、恩師がドンと悪魔の胸を押すも、揺るがずにそれを続ける。部屋の外に居た部下達が、入った方が良いか、という顔をし、戸の前に立たせていた部下もまた悪魔に対し、じりっと距離をつめた。捕らえるなら今だ。

「っ、ぁっ?!」

 その時、恩師から唇を離した悪魔が、恩師の耳を噛んだ。恩師の湿り声が漏れ、私は部下達に指示をし遅れた。悪魔と恩師は消えていた。

 

 後に、悪魔が日本の一級市民資格、守護市民の資格を取るために学校に入ったと知らされた。一級市民が野放しではまずいと要請を受けた私達としては、学生という身分を手に入れたミュライユは、もう悩みの種ではなくなった。しかし、私だけはモヤモヤして、未だ悩みの種として、彼を認識している。

 

 

2014/05/07




『うしのきもち』(生真面目×俺様)

 小学校の時に参加した友人宅のクリスマス会。社会人一年目の時に経験した恋人と過ごす落ち着きあるイブの食事。思い出は美しくぼやけているが、未来は恐ろしく鮮明だ。

 

「家族と俺と、どっちが大事なんだよ」

 不貞腐れた牛鬼を前に、あら太は項垂れていた。あら太とその恋人、牛鬼の勤めている『怪PR社』が入ったビルは、地下の妖怪タウンに向けて氷柱のように天から垂れている。

 その最下層には、妖怪タウンの夜景が見える、広く大きな窓と透明な床があった。景色を楽しめるカフェとバーの機能を持った店がついており、あら太と牛鬼はそこを利用していたのだが、生憎、あら太はこの景色を楽しめず、席に座っていた。

 クリスマスの連休についての話で、牛鬼と揉めていたのだ。

 牛鬼はあら太と旅行をしたくて、あら太は両親と過ごしたかった。そのため、冒頭の台詞を吐かれたのである。

「父さんが……、帰って来るので」

 今年のクリスマスは家で、親子三人睦まじく食事をしたいのだという母親の願いを、父親があら太に打診して来たのはつい先日の事。あら太は内心、牛鬼に悪い気持ちや牛鬼と過ごしたいという自分の気持ちがあったが、承知した。

 人として育てて貰ったのに妖怪の会社に入り、ただでさえ両親に負い目があるあら太としては、両親の小さな我侭に、出来るだけ応じたかった。

「関係ねーだろ」

「あるんです……うちの父は、転勤族なので。本当に、久しぶりなんです、家族が揃うの。だから母が、家族でクリスマスをやりたいと」

 あら太の父親は私立の有名小学校で教師をしており、勤務先は全国だ。単身赴任で遠くに行ってしまうと最後、なかなか帰って来れない。母親も教師だが、こちらは公立だ。父親と違って遠くへの転勤はないが、逆に場所を変えて働く事が出来ない職であり、父親とはいつも離れ離れなのである。

 その二人が、今度クリスマスに揃う。

 せっかくなので、二人で過ごしたらと言ってみたが、この二人は残念な事に、あら太を挟まないと会話が続かないのだ。

「なんでまた、クリスマスなんて時期に揃うんだ、おまえの両親は!通信簿とか付けなきゃいけなくて大変な時期なんじゃないのか?」

「それが……」

 両親は仕事が早く、通信簿作業などに追われないのである。

 申し訳なさそうに縮こまるあら太に、牛鬼は溜息をついた。

 

 『怪PR社』の入ったビルは、武蔵国川越の時の鐘の地下にある。時の鐘のある町は、小江戸と呼ばれ、江戸の町の景色をそのまま残した通りとして、現在は観光地となり賑わっていた。観光地らしく、江戸の町並に似た佇まいの渋い店達の陰に、そっと現代風の店も混じっており、ひとつ路地に入れば、手頃なカフェやチェーン店がひしめいている。

 第一営業部の部長である鶴に呼び止められて、連れて来られたカフェはあら太がいつも入る所よりも単価が高く、客層が落ち着いている。そわそわする心を押さえ、珈琲を口に含ませながら、あら太は鶴が喋り出すのを待っていた。

「次の休み、空いてるか」

 鶴はむすっとした顔で、そう切り出して来た。

 珍しく牛鬼が誘いを入れて来なかった日で丁度空いていたので、頷くと、鶴はちっと舌打ちしてそっぽを向いた。

「奴ら、やっぱ二人きりで出掛ける気ぃみてぇだな」

「やつ…ら?」

「鬼李と牛鬼だよ」

 苦々しい声で、鶴が唸るので、あら太はやっと状況を把握した。いつも鶴の尻を追い掛けている、第一営業部の小野森鬼李は気が多く、美麗な見た目の男にはまず簡単なモーションを掛ける。この鬼李が、牛鬼をとても気に入っている事は有名な話だ。

 数日前、クリスマスを家族と過ごすと言い切り、牛鬼に思い切り、不満顔をされたあら太である。胸一杯に、灰色の嫌な予感が広がったのは言うまでもない。

「お二人とも、仲良しですからねぇ」

「デキてんだよ」

 優しく表現したあら太に対し、鶴は断定口調で、辛い言葉を吐いた。鶴は元々は鬼李と恋仲であったが、鬼李の気の多さに嫌気が差し、幕末の頃、当時近しい関係であった赤鬼に乗り換えた口である。その赤鬼も、本命は別に居て、今はその本命と良い仲であるというから、近頃の鶴は常に不機嫌顔だ。

 綺麗な顔が、台無しだ、とこっそり思う。

 目の前に座る鶴の顔立ちは、溜息が出る程美しい。描いたように形の良い眉に、すらりと持ち上がった細目を縁取る睫毛は長く、色合いが淡くて美しい。細い鼻筋と眉目のバランスが絶妙で、人形を眺めているような気持ちにさせられる。

「鶴さんなら、もっと、他に良い人がいくらでも見つかるような気がしますが」

 思わず、何も考えずに口にして、はっとした。

「何だそりゃ」

 鶴の目がくっと開かれて、黒目がちの瞳が揺れた。

「俺が鬼李にやきもち妬いてるみてぇな言い方だな」

「・・・違うんですか?」

 鶴は珈琲から口を離すと、戸惑ったように唇を震わせた。

「鬼李はただの借金取りで、俺は借人だ」

 詳細はよく知らないのだが、鶴は身動きの取れない程の借金を抱えていた時期があり、鬼李に肩代わりして貰った事がある。その縁で今、鶴は鬼李に頭が上がらず、一緒に居るらしい。恋仲のように見えるが、そうじゃないと鶴は断言する。

「でも鶴さん・・・」

 ただの借金取りが、毎日借人の傍に張り付いて、好きだ好きだと言い続けるでしょうか。そもそも鬼李さんは鶴さんが好きで、鶴さんを助けたいから借金の肩代わりをしたんじゃないでしょうか。

 という事を、あら太が言い出せずにもじもじしていると、鶴はケーキメニューをじっと眺め始めた。そして、俺はショートケーキを頼むけど、おまえは?と言い出したので、俺は要りませんと首を振ると、じゃぁチョコレートケーキな、と勝手に決められた。

 すいっと手を挙げて店員を呼ぶ鶴を、あら太はじっと見つめた。

 涼しげな横顔に、寂しさの陰が降りて魔のような色気がある。あら太の視線に気がつくと、鶴は照れた顔で何だよと口パクした。俳優のような鶴の顔が魅せた、悪戯っぽい表情が胸にぐっと来る。どきどきした余りそっぽを向いていると、こつんと足先を蹴られた。

「それより、おまえだ、あら太、牛鬼とはちゃんとやる事やってんだろ?どうして浮気なんかされてやがんだよ」

 鶴の美しい顔によって、夢のような気持ちになっていた心が戻る。浮気、という言葉が胸にずんと伸し掛って来て、あら太はさぁっと青ざめると、鶴を見た。今度はときめく処ではない。綺麗な顔は綺麗なまま、恐ろしい現実を迫って来ていた。

「浮気っ、されてるんでしょうか?」

「さぁな」

 放り出された答えが、あら太の頭の中にとある妄想を生んだ。鬼李を家に上げた牛鬼が振り返ると、鬼李が色男顔で迫って来ており、駄目だよ鬼李さん俺にはあら太が!という牛鬼の言葉を無視して、牛鬼を押し倒す鬼李。牛鬼は少し暴れるが、鬼李の金縛りに叶わず、無念そうな顔で服の前を開かれる。

「駄目!牛鬼さん!逃げて!!」

 思わず大声を上げたあら太に、鶴は少し驚いた顔をした。

「おいどうした、嘘だよ、ワリかったな、牛鬼は恋人が居るときゃ鬼李を退ける、大丈夫だ、そこんとこは牛鬼を信じろ」

 信じろと言われても、鬼李なら牛鬼を力づくでどうこうする事が出来る。

 あら太はぶんぶんと頭を振った。

「後を、つけましょう、・・・鶴さん」

「あ゛?」

「次の休み、二人は出かけるんですよね?現行犯逮捕です、鬼李さんが牛鬼さんを襲ったら、鶴さんが出て行って止めてください、俺は牛鬼さんを保護します」

 鶴はぽかんと口を開けて、あら太を見ていたが、少し笑いを含んだ顔でいいぜと言った。美男を次次と手に掛ける不届き者を退治してやろう、と凄む。あら太は鶴の手を取り、教えてくれてありがとうございました。と言うと、きりりと顔を引き締めた。

 鬼李と牛鬼は、新宿のサザンテラス口で待ち合わせ、楽しそうに冗談を飛ばし合いながら高島屋に繋がる橋に向かった。途中にあるJR東日本のビル前に、suicaペンギンのクリスマス仕様ディスプレイが飾られており、二人は肩を寄せ合って撮ってみた写真を見せ合った。どこからどう見ても男同士の恋人という風で、あら太は胸が痛んだ。

 鶴から借りた虚装のセットであら太は子どもに、鶴はその母親に扮しているため、二人にはまず気づかれないと思うが、逆にそれが不安だった。

 見たくないものを、見てしまわないだろうか。二人が内緒で行っている、見てはいけないものを、見てしまわないだろうか。

 走り交う電車の上に掛かった橋を渡る二人は、手でも繋ぎそうな程、距離が近い。

「やっぱデキてるな」

 呆れ顔で呟く鶴の横で、あら太は途方に暮れた。仮に鬼李と牛鬼がデキていたとして、牛鬼との縁を切れる程の強い心を、あら太は持ち合わせていなかった。鬼李との関係に、気がつかない振りをして、牛鬼の傍に居続けたい。そんなあら太の気持ちを、鶴は軽蔑するだろうし、牛鬼は困るだろう。

 まず、今日の目的は、その気がない牛鬼に、鬼李が無体を働こうとするのを防ぐ事。それが、牛鬼の方にその気がある場合、どうなるのだろう。仲睦まじい二人を、あら太と鶴はただ見ている事しか出来ない。

「鶴さん、帰りましょう」

「おいおい、まだ1時間も張ってねーぞ」

「もう十分です」

「あら太……」

 つんと鼻に痛みが走り、舌が震える。

「牛鬼さんは、嫌がってませんでした、俺、鬼李さんが牛鬼さんにちょっかい掛けるとこ、良く見てましたけど、牛鬼さんは嫌がってて、だから今日は助けなきゃって思って、でも、牛鬼さんは嫌がってなかった」

 何とか涙は堪えて、あら太は鬼李と牛鬼の二人にくるりと背を向けた。戸惑った顔の鶴に笑いかけて、鶴の手を握ると、ぐんぐんと二人とは反対の方向に鶴を連れて歩き去った。

 結局、鬼李と牛鬼の監視のために繰り出した新宿で、鶴と二人、映画を観て帰って来た休み明け、牛鬼は何事もなくあら太に接した。

 あら太が鶴と映画館に行った話をすると、鶴さんに変な事をされなかったか、と逆に心配をされて笑えた。牛鬼さんが鬼李さんにされたような事は、されませんでしたよという厭味が喉元まで出掛かった。

 あら太と牛鬼の間が、ぎくしゃくし始めたのはそれからである。主にあら太が、牛鬼を避けて過ごした。補佐として必要最低限の時間は一緒に居るが、それ以外の時を別の人間の元に逃げる。

 そうやって、牛鬼を避けて過ごし初めてから一週経ったある日、帰り際のあら太を訪ねて来た者が居た。

 訪問者は数ヶ月前、牛鬼とあら太が携わったあるイベント案件で、ディスプレイを制作してくれた会社の担当者だった。

 この担当者は、過去にまったく同じような時間帯・タイミングで訪ねて来た事がある。

 『怪PR社』はイベント・広告を扱う会社だが、牛鬼とあら太の所属している第二営業部は、主にイベントを扱う事が多い。色々な会社に関わり、意見をまとめてエンドクライアントから発注されたイベントを実行に移す。

 その時は、キャラクターもののイベントという事もあり、ディスプレイ制作にかなり重点を置いていた。

 牛鬼は三度、制作に注文をつけており、制作会社の担当者は弱りきっていた。牛鬼の言わんとしている事を、担当者は飲み込んでいるものの、なかなか現実的にそれが叶わない状況が続いており、ついに別の制作会社に、追加発注という形で任せようかという話も出て来ていた。

「お忙しい中、お時間頂いて申し訳ございません」

 思い出の中の担当者は、よれよれのTシャツを着ていた。まだ暑さの残る季節だった。

 『怪PR社』の入ったビルの最下層、妖怪タウンの夜景が見えるラウンジで向かい合うと、担当者のぼろぼろの身なりは景色に浮いた。牛鬼のように、ブランドやオシャレを知っているわけじゃないが、あら太はそれなりにきっちりしたスーツを着ている。対して、担当者はボロボロのジーパンによれよれのTシャツで、酷くみすぼらしかった。

「いえ、こちらこそ何度も無理を申し上げてしまい、すみません、わざわざお越し頂きありがとうございます」

 牛鬼ではなく、あら太を呼びつけたあたり、何か泣き言だろうかと勘ぐった。牛鬼はこの会社の前歴と、プレゼンを見て、この会社なら出来るという判断を下し、発注を掛けているため、妥協は絶対に許さない。しかし現実的に辛い作業を強いている事をあら太はわかっていた。

「やっぱり、間に合いませんか?」

 単刀直入、問い掛けると、担当者はきょとんとした顔になった。細面で顎が長く、決して美男ではないが、優しい目をした職人気質の男である。表情はすぐに顔に出る、駆け引き下手である。

「どうしてわかったんです?」

「お顔に出ています」

 笑いながら指摘すると、頬を染めて下を向く。名刺には、小名絹次(kona kinuji)と書いてあった、石種の妖怪だった。石種は赤子の鳴き声を挙げて人におぶさり、石のように重くなって人を脅かし肝を取る。

 小名はしかし、そういう騙し討ちなど、一切出来ないであろう純朴そうな男だった。

「弊社では、今、もし御社の作品が納品期日に間に合わないようでしたら、御社と同業他社様の力も借りなければいけないかも、という話が出ています」

 正直に、当時の社内状況を話すと、小名の顔は面白いぐらい、さぁっと青ざめた。

「ちょっと待ってください、すみません、……あの、お言葉ですが!

 御社はうちを選んでくれたんです、うちに任せてくれた、納期に間に合うよう一作目は仕上げましたし、二作目だって!」

「ですから、きちんとお礼は払います、しかしこちらにも都合があるんです、クライアントに満足頂けるレベルのものを、使用したい」

 その台詞を吐いた時、小名の目にちらりと怒りの炎が上がった。うちの作品は、そのレベルじゃないと言いたいのだな、と詰め寄りたい心を、ぐっと抑えていた。

「判断をするのは、私ではなく牛鬼です」

 あら太は静かな声で、言葉を選んだ。

「ですが、私は牛鬼の好みや、発想をある程度、想像出来ます」

「……」

「失礼ですが、御社は全ての装飾に力を入れ過ぎている、細部まで完成されていて、とても良い事ですが、時間がいくらあっても足りなくなるでしょう。

 牛鬼が申した完成度の高さ、それは全ての装飾に対してじゃなく、一部の装飾に対してです、要は、人気キャラクターと思われる像のみとか、目立つキャラクターのみとか、ずるい言い方をすると、どこに力を入れて、どこで力を抜くか、そうした逃げも一つ、必要になってきます。こうしたイベント事では、案外、一つの作品の完成度が恐ろしく高ければ、他の作品の完成度が多少低くとも、目立たないものなのです」

「……そんな事」

 考えもしませんでした、と項垂れる小名に、あら太は笑いかけた。真っ直ぐな発想、真っ直ぐな心、ほっとする人だと思った。

「私も牛鬼も、御社で仕事が完成する事を望んでいるんです」

 元気づけるように、声に力を込める。まだ期日は残っているんですから、頑張ってください、と声を掛けると、小名は顔をあげて、縋るような目をした。

「ですが、どこに力を入れて、どこで力を抜くかなんて、下手をしたら力の抜いたところに注目されて……」

 気の弱い人だな、と思いつつ、何か守ってあげたいような衝動に駆られた。

「では、良ければですけれど、見に行きましょうか、私は今日、早く終わりましたから、この後、時間があります、いつも連絡をくれる時間が遅いですし、夜通しの作業になっているんですよね、きっと?」

「あ、ですが」

「この後、会社に戻るのでしょう?」

 ぐっと見つめると、小名は額に汗を浮かべ、その後頬を染めた。

「汚い現場ですが……」

「行きましょう」

 この日、あら太が指示を出した通りに、小名は作品を仕上げて来て、すんなりと牛鬼の審査を通した。そしてイベント当日にはエンドクライアントから激励されるに至り、今ではエンドクライアントから、直で仕事を貰う事もあるらしい。

 あの日と同じ、妖怪タウンの夜景が美しいラウンジで、小名は芸術家風の、風変わりだが趣味の良いスーツを着ていた。対するあら太もスーツで、二人はぴったりと景色に溶けていた。

「あら太さんが居なかったら、僕ら、日の目を見る事なく消えていました、あの時、あら太さんにアドバイスを貰えて、作品をチェックして貰えなかったら本当に、どうなっていた事やら、今考えても恐ろしいですよ」

 小名の会社は小さく、あの時請け負った仕事が、数年ぶりに掴んだ大型案件だったらしい。ただの図案担当者だった小名が、今は代表取締役になった背景、それはあの案件から会社に道が開けたため。

「今じゃ、二年先ぐらいまで仕事があるんです、凄いですよ、本当に」

 小名は遠い目をして、半年前まできつかった生活に思いを馳せた。

「社員の半分はもう三年以上肝を口にしていなくて、消えかかっていたんですからね」

 あら太の頭にふと、腹鼓株式会社という、倒産して社員が次次と姿を消した会社が浮かんだ。妖怪世界は本当に、一寸先は闇だな、と思う。ぞっとしていたところに、小名の手が割入って来てあら太の手を掴んだ。

「良ければ、何か美味しいものでも、奢らせてください、そのために今日は来たんです」

 小名の目はキラキラしている。

 せっかくなので、ご馳走になろう、と思えたのは近頃牛鬼を避けているせいで人恋しかったため。日付はもう12月の20日である。クリスマス前に、二人でクリスマスをしよう、などという話も出ていたのに、一向にその声も掛からないし、牛鬼はもうあら太に愛想を尽かしたかもしれない。

 

 川越から潜る飛び穴で一番飛び値の安い都心の入口、大宮区役所前に来ると、石焼麻婆豆腐の看板を掲げた隠れ名店に案内された。

 そこは以前、あら太も牛鬼と来た事のある、安くて味も申し分ない良い店だった。変わった料理も多く、面白い。

 少し先に行けば、百種類以上の酒を揃えた重厚なバーや、本場の味を修行して持ち帰ったというフランス料理店、店内の装飾に凝ったイタリアンや中華のお店などがあるが、あら太はこの石焼麻婆豆腐の店の、飾らない雰囲気が好きだった。もう少し単価の高い店でも良いんですけど、と控えめに言う小名に、あら太は苦笑した。

「俺、貧乏性で、敷居の高い感じのお店、苦手なんです」

 心からの言葉だったために、遠慮と取られずにすんなりその言葉は小名に響いたようで、小名もまた笑み崩れた。実は僕もです。という返事に、親近感を覚える。

 牛鬼は高い店も、安くて美味い店も知っている。あら太が望めば、気安い店に入ってくれるが、牛鬼自身はどちらかというと高くて雰囲気のある店が好きだ。

 そもそも牛鬼とは、根本的に合わないのかもしれない。好みも合わないし倫理も合わない。

 

 小さな店の、小さな入口を潜る。すると、意外に大きな室内が目の前に現れる。二階席に案内され、昔の家らしいぎしぎしという階段を上り二階に上がる。

「あっ」

 声を上げたのは、牛鬼が店に居たためだ。それも待ち受けたように、空いた席で胡座を掻いていた。小名が、申し訳なさそうにしている。小名に導かれ、牛鬼の座るテーブルに二人で腰を下ろすと、牛鬼は深い溜息をついた。

「俺に飽きた?」

 ぶっきらぼうに問われ、まさか、と素早く否定した。

「こうやって、第三者の手を借りないと、話も出来ない状態が、既に結構きつい」

「すみません」

「俺のこと避けてたよな」

 小名の心配顔を他所に、牛鬼は詰め寄る。外部の人間である小名を巻き込み、色恋の修羅場を展開する事に、抵抗があっておろおろしていると、小名は席を立った。

「僕は、下に居ます」

 気を利かせてくれたらしい、あら太がすみません、と頭を下げるのにいえいえと優しい声を上げて去って行った。その後ろ姿を見つめる。小名のような優しく、純朴な男が恋人なら良かった。

 ちらりと思ったのが、顔に出たのか、ふと顔を上げた瞬間恐ろしい景色を見た。牛鬼の頬に涙が、幾筋か出来ていた。

「牛鬼さ……」

 思わず声が切れて、頭が真っ白になった。泣かせた?! 俺が?! という驚きと共に、あの強く頼りになる牛鬼が、泣いたという事実に恐怖した。そこまで追い詰めてしまっていたとは。

「佳祐さんに依頼して調べて貰った、おまえ、見合いするんだろ? クリスマス」

「エッ?!」

「なんで俺に一言も言わないでっ……」

 ぶわ、とまた目の表面を涙で濡らし、牛鬼は息を吐いた。

「びっくり、したし……、信じらんなかったけどっ、最近、避けられてたし、俺より見合い、優先したわけだから、覚悟はできてるけど、……おまえはやっぱり、まだ百にも満たない若い妖怪だし、同種の女妖怪と添わせたいっていう、おまえの両親の気持ちはわかるし」

 ぼろぼろとまた涙が出る。

「わかってんのに、諦めきれねーから、どうしようかと思っ……」

 ふと見ると、伝票には日本酒の注文が大量にあり、牛鬼が実は酷く酔っているのがわかった。あら太達が到着するまでに、結構な量を流し込んだようだ。

「牛鬼さん……」

 牛鬼の手に手を重ねる。

「信じて貰えないかもしれませんが、……見合いの話は、初耳でした、けど、牛鬼さんがいるのに見合いなんて絶対にしませんから、そこは安心してください」

 鼻に手の甲をあてて、牛鬼はあら太を睨んでいる。

「クリスマスに家族を選んだのは、純粋に両親の我侭を聞いてやりたかったからです。父も母も、俺に人の会社で働いて貰いたくて頑張って来たのに、俺は妖怪の会社に入った、そういう負い目があったから」

 言い聞かせるように、ゆっくりと訳を話す。牛鬼は少し髪を乱していて、ほんのり汗ばんだ額に、少しだけ前髪を貼り付かせており色っぽい。

 泣く程、小豆が人のものになる事が怖かった牛鬼。避けられていた事に、堪えていた恋人の、何て可愛い事だろう。

「大体ね、貴方が鬼李さんと仲良くしているから、俺はもやもやして、貴方を避けていたんですよ」

 ストレートに詰ると、牛鬼は少し目を見開き、まずったという顔をして口に手を当てた。そういう事か、という呟きが、耳に聞こえて来そうなその素直な顔に、小豆は怖い顔を向けた。

「貴方に、別れたいと言われたらどうしようと思って、……鬼李さんの方が好きになったと言われるのが怖くて」

 瞬間に、ずどんと体の中に何かが入って来た。

 どこかの小物売り場で、これ絶対あら太に似合う、とはしゃぐ牛鬼を誰かの目が見ている。この目線の高さは恐らく鬼李だろう。頭の中に、まるで見て来た記憶のように浮かぶ景色に、あら太は翻弄された。こういうとこ、あら太はあんまり好きじゃないんだよなぁと雰囲気あるレストランの中で、困った顔をする牛鬼に、じゃぁあっちのお店にも入ってみる?と進める鬼李の声。あ、これだこれだ、この気安い感じ!あら太はこっちの店だな、と納得して、楽しげに笑う牛鬼。

「あっ」

 体の中から、何かが抜ける。思わず声を上げて、閃きを口にした。

「もしかして牛鬼さん、鬼李さんと出掛けたのって、俺とのデートの下見?」

「えっ」

 目の前の牛鬼が、怪訝そうな顔をした。

「何で?」

「あ、その、今、多分鬼李さんの『時間渡し』があって、鬼李さんの記憶が入ってきて……」

 牛鬼の顔に、かぁ、と赤みが差した。

「……正解」

「あ、……そうなんですね、はは」

「これでも努力家なんだよ、俺は」

 そういうとこ、あんまり見せたくなかったんだけど、この場合は必要か。と呟いて、鬼李さん、いつから怨霊スタンバらせてたんだろう、と続ける。

 牛鬼の誤解を解くために、鬼李が使役している怨霊を飛ばして来たのだ。牛鬼のためを思い、牛鬼を支援する鬼李に、少し妬けたが、あら太は気分を良くした。

 あら太のために、牛鬼は動いていた。鬼李と遊びに行ったのも、あら太のため。

「牛鬼さんのこういうとこ、嫌いじゃないです」

 素直に好きですとは言えず、しかし照れてそう告白すると、牛鬼は安心したように笑った。

「良かった、あら太が見合い、思い留まってくれて」

「あ」

 思い留まりたいのは山々だが、両親はその計画を進めているわけで。

「どうしよう、牛鬼さん、どうやって見合いから逃げればいいかな、俺」

「すっぽかせばいいんじゃないか?」

 悪びれもなく、牛鬼は言った。

「見合いの時間は、佳祐さんが多分把握してるから、その時間だけ、用事を作れば良い」

 ああ、また両親に顔が上がらなくなる、と思いつつ、牛鬼の言う通りにしてしまうのがあら太である。しかも、見合いを潰されて腹を立てている両親のもとに、挨拶に来てしまうのが牛鬼である。

 あら太を妖怪会社に引っ張り込んだ嫌な男である牛鬼が、今度はあら太を同性愛に誘ったというので、両親の中で、牛鬼の株が大暴落したのは言うまでもなかった。

 

 

 

22:27 2013/12/1

『鬼の餌』(孤高のエリート部下×万年教育係上司)

 『怪PR社』では、管理部の女子社員が中心になって男性社員に向け、バレンタインデーのチョコレートを送る。そのため、ホワイトデーには、今度は管理部の男性社員が中心になり、女子社員に向けて、お返しの贈り物をするのである。

 毎年、贈り物の選定をしていたのは、管理部で一番女性に縁のある男、弥助だった。それが今年は弥助の補佐となった柄黒にこの仕事が回って来た。

 

「初めての仕事で大変だろう?」

 柄黒は当然、現在恋人に近い関係で結ばれている田保に買い出しの手伝いを頼みに来たのだが、田保の居る営業部には厄介な男が居た事を忘れていた。

「よし、柄黒、俺が手伝ってやろう」

「要りません青鬼さん、お引き取りください」

 上機嫌の青鬼に捕まってしまった。

 田保の居る第三営業部に行くには、青鬼の居る第二営業部の前を通らなければならない事を忘れていたのだ。田保の連絡先は知っているのだから、呼び出せば良かったのに、失敗した。

「何だ、つれない奴だな」

 深い青色の小洒落た羽織で、また、その整った顔と鬼の貫禄で周囲の視線を集めながら、横を歩く青鬼を無視して第三営業部に向かう。そこで、本日の午後から休暇を取って、明日の休みを使い、田保と一本、弥助はスノボとスキーをやりに越後に向かったと聞かされた。

 『怪PR社』は水曜と土曜を休みに設定している会社である。火曜の本日は休日前。柄黒はホワイトデーの買い出しを、明日の休日に設定して田保を誘おうと考えていたのに。あてが外れて気落ちした。

 また、田保と出掛ける予定があったのに、その事を柄黒に気取られぬよう上手く立ち回っていた弥助と一本の上司二体が憎らしくなった。柄黒が田保に懐いている事を知っていて、どうしてこのレジャー情報を二体は柄黒に黙っていたのか。

「では柄黒、明日は私とデートだな」

 田保の事を聞いた第三営業部の元同期が、気の毒そうに柄黒と青鬼を見比べた。

「貴方は、また何か企んでるんですか?」

 柄黒がギロリと青鬼を睨むと、青鬼は少し残念そうに眉を下げた。

「企んではいない、おまえと仲良くなって、うちに引き抜こうと思っているだけだ」

「それを企んでるって言うんですよ!俺は弥助さんの後を継ぐって決まったでしょう?」

 苛々と青鬼を詰ると、青鬼はこちらを馬鹿にしたような笑みを浮かべた。

「ふん、弥助の移動までは月日がある。まだおまえに弥助の仕事はこなせないし、滝神は本音で言うと弥助を手放したくないだろう、そもそも今回の話は弥助の我侭だしな、だから、おまえが心を変え、人事が考えを改める可能性だってゼロではない。後を継ぐ人間がいなくなれば、弥助も簡単に移動などできん」

 柄黒の気持ちを無視し、ずけずけと講釈をたれる青鬼に、ハァ、そうですか、と柄黒はついに力の抜けた顔で相槌を打った。それから、己の部署に戻るため、営業部の廊下をエレベーターホールに向かい歩き出した。

 明日の事を考えると長い溜息が出る。

 百歩譲って田保が捕まらなかった事は受け入れよう。しかしせっかくの休日に青鬼と一日中顔を合わせるなんて。用事が済んだら解散、なんて柄黒の望みを叶えてくれる青鬼ではない。きっと夜遅くまでの飲みになる。想像して、柄黒はうんざりと首を横に振った。

 廊下の向こうからは、丁度何かの会議を終えた鶴とその右腕、山神が並んでやって来るところだった。一歩後ろにはかつて李帝と崇められ、帝国の長をやっていた鬼李。鬼李の脇を賑やかな第一営業部のエース達が固めていた。

 時刻は午後八時。皆、明日の休みに向けて、晴れやかな顔でいる。

「なぁなぁ鬼李ちゃん、頼むぜ、ちょっと顔出してくれるだけで良んだよ」

「鬼李が来るってなると女子の質上がるんだよぉ、持ち帰るのは俺らに任せてくれればイイから!」

 鬼李が恐ろしい大妖怪である事を、知らないわけではないだろうに、胆力のある奴らだ、と第一営業部のエース達を眺めながら、柄黒は集団とすれ違った。

 そこで、はっとして振り返り、鬼李に声を掛けた。

「李帝、ちょっとお願いがあるのですが」

 鬼李が過去に治めていた帝国に、何度か住んだ事のある柄黒は、鬼李を呼ぶ時、つい、帝名で呼んでしまう。

「ここで李帝はないでしょ君、何か用?」

 鬼李は顔を顰めたが、足を止めてくれた。

「あの、まだ時間戻しは出来ますでしょうか?」

「出来るけど」

 時間戻しとは、鬼李の実に帝王らしい凄技の一つ。簡単に言うと、個人の時間を戻してしまうのである。魂を数時間分抜いて、抜いた分の魂が保有する記憶を無にする。つまり、時間戻しとは、凡ゆる困った出来事を、個人の記憶のレベルであれば無かった事に出来る力だ。

「お願いです、この青鬼部長の記憶を、十五分削ってください!」

 鬼李は悪霊を身体に飼う妖怪で、魂を妖力で操作する事が出来る。人の魂だけでなく、物の怪の魂も操作出来るのが、鬼李の恐ろしい所だった。妖怪は歳を取るに連れて魂の量を増やしていく。その原理を活用した画期的な技である「時間戻し」は、帝国では主に戦争から帰還し、PTSDを発症した者を癒すのに使われていた。

「あれは、余り簡単に使って良い技じゃないよ」

 鬼李は顔を顰めたが、柄黒は譲らなかった。

「たった十五分ですよ?!」

 その時、鬼李の目が、柄黒の後ろ、鶴の耳元に何事かを囁く青鬼と、かぁ、と頬を染める鶴の姿を捕らえた。

「李帝?」

 しん、と黙った鬼李の顔は何か思案げだ。据わった目の怪しい光は、まるで愚か者に罰を下す残酷な神のそれであった。

「時間戻しね、お安い御用だよ?」

「えっ」

 急に手の平を返した鬼李に不審を覚え、柄黒が眉間に皺を寄せるのと同時、ブワ、と一瞬青鬼の全身から、風が流れた。

「ん?青ノ旦那?」

 鶴がいち早く、青鬼の異変に気がついて青鬼を下から覗き込む。鶴がそんな事をしたら、普段の青鬼ならときめいて、すぐに口説きに掛かっただろう。青鬼は鶴を無視し、能面のような顔でキョロキョロと周囲を見回した。嫌な予感がして、鬼李を見ると、鬼李は無情な目で柄黒を見返した。

「大丈夫だよ、明日の午後には戻るように抜いたから」

「な、何分、抜いたんですか?魂……」

「一五〇〇年分」

「そんなに!!俺は十五分って!!」

 確信犯の顔をして、鬼李は少し眉を下げて首を傾げた。

「ああ、間違えちゃった、可哀相に青鬼、右も左もわからない世界で困ってるね、まぁ、でも……あいつは本気で鶴を落とそうとしてる所があるから、いつかお灸を据えないと、って思ってたから丁度良いか?」

 営業部の廊下には、今や人だかりが出来ており、急に雰囲気の変わった青鬼の周りを第一営業部の数人が囲んでいた。推定百歳。普段、嗜みとして隠しているようだが、内側に持つ妖力というのは何となく伝わるもので、いつもの青鬼から漂う、千歳を超えた大妖怪の雰囲気はない。見た目には変わらないが、青鬼からは一五〇〇年分の魂が確かに抜けている。青鬼を取り巻く空気が、確実にいつもと違っている。青鬼を囲む人垣からは、え、これ、鬼李さんにやられたの?、やっぱ鬼李さん怖っ、戻してやれよ鬼李、また鬼李の悪ふざけか、など軽口が飛び交った。

 青鬼は無表情に、己を取り巻く顔の数や、己の着物、建物の造りなどを眺めている。

「鬼李、青ノ旦那を戻せ、おまえ時間戻し使ったろ?」

 事態を悟った鶴が鬼李を注意したが、鬼李はそれを無視した。鬼李の横に居た第一営業部のエース達は、にやにやして鶴と鬼李を見比べている。第一営業部のエース二体は、鶴よりもどちらかと言うと鬼李に懐いていると聞いた、あの噂は本当のようだ。

「しょうがねぇ、山神」

 つい、と視線で、鶴が山神に指示を出した。鶴の指示を受けて、山神はすっと一歩引くと、本部長の机がある営業部応接室に向かった。赤鬼を呼びに行くようだ。

 柄黒は額に、熱い汗が滲むのを感じた。鬼李が恐ろしい力の持ち主である事をわかっていたのに、気安く頼みごとをしてしまった己を恥じる。気が遠くなる思いで、営業部の広い窓に視線をやると、こういう時に限って、夜景が美しかった。『怪PR社』のすぐ近くにはアースポールと呼ばれる地上に続く地下の柱があるのだが、この柱が夜はライトアップされるのだ。夜空を彩る光の柱が、本日は鶯色と檸檬色に、ゆったりと揺らめき、輝いている。

 窓から視線を戻すと、柄黒がきっかけを作り、起こってしまった事件の様子が、まだ解決の糸口なく横たわっていた。青鬼を取り囲む第一営業部の面々と、第二営業部の数人。野次馬は確実に増えていた。

 鶴は腕組をして、鬼李を睨みつけているが、鬼李は知らん顔だ。

 一方で、百歳の青鬼は事態が分からないなりに、状況を悟って大人しくしていた。一五〇〇年前の世間知しかない者が、行成このような白い床と透明な壁に囲まれた近代オフィスの中に連れて来られたら、パニックでも起こしそうなものだが、青鬼は始終無言である。一五〇〇年分の記憶喪失なんて、体験している方はきっと、とんでもないストレスを感じているだろうに。

「取り敢えずな、お前ら、野次馬を辞めにしてさっさと帰ぇれ、あんまりジロジロ見ちゃ可哀相だろう」

 『可哀相』の言葉が効いたのか、好き勝手な囁きを交わしながら面白そうに事態を見守っていた人だかりが、わらわらと散って行く。誰の目が見ても、千を越える大妖怪が百歳そこらに縮められて、右も左も分からずに固まっている姿は気の毒に映ったのだ。

「おまえも、後は俺と大将に任せて帰れ」

「いえ、元は俺の軽口が原因ですから!青鬼さんが戻れるまでお世話します!」

 強い声で、己の責任を口にすると、鶴は少し笑みを浮かべ、そうか、と応じた。

「鶴っ!」

 そこで赤鬼が本部長室から走って来ると、青鬼はひゅっと身を浮かし、数メートル下がった。

「大将、助かった・・・、一五〇〇年は逆光しちまってるらしいんだが、俺ぁ鎌倉以前の言葉ぁ知らねぇから・・・」

「まぁ待て、俺だって、暫く発音していない、通じるかわからん、試しては見るが……えー、あー、そうだな、一曰。以和為貴。無忤為宗。人皆有黨。亦少達者。是以或不順君父。乍違于隣里」

 原文の発音なのかもしれない、聞きなれない音の混ざった言葉で、赤鬼は聖徳太子の十七条の憲法を口にした。最近、実在したかどうかを疑問視されている聖徳太子だが、この憲法は有名だ。一五〇〇年前の青鬼が、人の言葉を身に付けようとしたなら、この文言を一度は読んでいる。

「……然上和下睦。諧於論事。則事理自通。何事不成。」

 赤鬼の想定通り、青鬼は文章の続きを口にし、赤鬼を見た。

「通じた、みたいだな……」

 赤鬼がほっとした声で呟くと、鶴がはぁーと息を吐いた。

 これまで、青鬼は現代語がわからず、黙っていたのだろう。赤鬼に言葉が通じた途端、早口で何かを話し始めた。途端に、赤鬼が狼狽し、恐らく、もっとゆっくり話せというような事を言った。

 

 こうして休日、青鬼と通訳の赤鬼という組み合わせの、ごつい鬼二体が新宿東南口の待ち合わせ場所にやって来た。恋仲だという噂の二体が揃って同じ方角から到着したので、昨日はどちらかの家に泊まったのかもしれない、という邪推をしてしまい、柄黒は早くも帰りたくなった。田保の事は好きだし、本能的に触れたくなるが、具体的な肉体関係を想像するところまで、柄黒に男色の趣味はない。

 自分達の事でも何となく嫌な感じがするのに、他人の事になると尚、目を背けたくなる。

 誰と誰が好き合っている、やったやらないの噂を、好んで行う者達が居るが、柄黒はそういった輩を軽蔑している。理解出来ない。

「悪いな柄黒、うちの青がこんなんなっちまって」

 今日の午後に青鬼の記憶が戻るなら、記憶がなくなる前に青鬼がやろうとしていた事をやらせてやるのが良いと鶴が判断をしたため、柄黒は予定通り、ホワイトデーの買い出しに青鬼を連れ出した。

「キョうノひは宜しく頼む」

 家で仕込まれて来たらしい、青鬼が現代語で声を掛けて来た。

「良く出来たじゃねぇか、青」

 赤鬼の滑らかな現代語が、聞き取れなかったらしい青鬼は戸惑った顔をしたが、褒められた事だけはわかったようで微笑んだ。

「っ」

 澄んだ湖に波紋の広がるような、静かで美しい笑みだった。赤鬼が黒目を小さくして黙ったので、見惚れたのだな、と柄黒は推測した。

 

 駅から地下通路を通って到着した伊勢丹の地下は混み合っていた。年配者が多いと思いきや、中には近場の大学生のカップルや修学旅行中の中高生、仕事で移動中に立ち寄ったサラリーマン客なども居る。目当ては一つ二千円前後で、趣味と味の良い洋菓子だ。これまで弥助が請け負っていた仕事である分、期待値が高いのが悩み処だが、弥助程のセンスがなくとも、無難に喜んで貰えるような何かを見つけ出したい。青鬼がいつもの青鬼であったら、きっとこれまでの豊富な女性経験から有益な助言をしてくれただろう。

 隅まで綺麗に磨かれ、淡い照明と高級感漂うデザインが購買意欲を掻き立てる地下のフロアを一杯に埋めている販売スペースは、数十種類のブランドが立ち並んでいるにも関わらず、絶妙な配置センスでさっぱりと整備されている。白っぽくライトアップされたガラスケースの中の洋菓子たちを睨みながら、柄黒は唸った。

 どれも良く見える。何を買うのが正解なのか、さっぱりわからない。

 

「ああ、迷惑を掛けたな」

 そこで、ぽつん、と滑らかな現代語で、青鬼が言葉を漏らした。

 悪夢の終わりが突然に来た。

 悩んでいた柄黒の目の前、フルーツポンチなどを売る店の前で、試食カップを受け取った青鬼に、千歳を超えた大妖怪の風格があった。

「戻ったのか青・・・!」

 同じく試食を勧められていた赤鬼が、声を上げると、青鬼はふっと笑い、それから顔を顰めた。

「青と呼ぶな赤いノ、貴様、無垢な俺に何て事を……、まぁ色々と世話を焼いてくれた事には例を言うが」

 やはり昨日、何かあったのだ。今朝同じ方向からやって来た二体への、柄黒の邪推は当たっていた。

「とんだ姿を見せてしまった、驚いただろう」

 正気を取り戻した青鬼が、照れくさそうに柄黒に微笑み掛けて来て、柄黒は心の底から、千歳の青鬼の帰還を喜んだ。

「普段より扱い易かったですよ」

 しかし、そこは柄黒である。憎まれ口を叩くと、ははは、と高らかに笑われた。

「こんな事になったついでだ、話をするよりも良い案を思いついた」

「?」

「実は今日、おまえの手伝いを買って出たのには、おまえと仲良くなるという目的の他に一つ、おまえと田保の仲を応援したいというのもあってな、俺の昔の話を少し、聞いて貰おうと思っていたんだが、せっかくだ、いっそ体験して貰おうと思う」

「ハ?!」

「小野森、おまえには『時間戻し』の他、『時間渡し』という技もあるのだろう?」

 急にこの場に居ないはずの者の名を呼んだ青鬼の視線の先、地下フロアの隅に鬼李と鶴、野平と牛鬼が居た。

「使えるけど、君、記憶を失うのを欠片も怖がらないね、つまらない」

 まるで初めから一緒に行動をしていたかのような自然な会話運びだった。

「貴方達は?!」

 突然のメンバー出現に、思わず、慌てた声を上げた柄黒と、ずっと付いて来てたぞ、としれっとした口ぶりで解説した赤鬼が対照的である。

 鶴は不機嫌顔で、階段付近の広いスペースに置いてある椅子に座っており、鬼李はその横の壁に背を預けていた。

 牛鬼は鬼李の前でスマフォを弄っており、野平は牛鬼の隣で、笑顔でこちらに手を振っていた。

「野次馬でついて来ちゃった、青鬼さん戻って良かったねぇ」

「思いの他、早く元に戻ったね」

 野平の軽薄な声に続いて、鬼李の意地悪い声。

「おまえは毎度毎度、人騒がせなんだよ、やる事が!」

 鶴は苛立ちを顕に、舌打った。

「だって、赤鬼がなかなか青鬼を床に誘えないって嘆いてたから」

「あ゛?!」

「柄黒が青鬼に時間戻し掛けてくれって言って来た時思いついたの、赤鬼と青鬼って千年ぐらい前は、ラブラブだったらしいじゃん?それで、イタッ」

 鬼李の弁解に、鶴の不機嫌顔はいよいよ濃くなり、ついには鬼李を蹴った。

「やり方が回りくどい!!」

「だって、思いついちゃったんだもん、あと、お灸据えようっていうのは本気で思ってたし!!」

「その発想がまず、おまえ何様かって話でな!!」

 そこで、喧嘩を始めた鬼李と鶴を横目に、じゃぁ俺、個人的にホワイトデーのお返し買いに行くから、と野平が抜け、俺も、と牛鬼が野平に続いた。趣味の良さそうな二人が、どんなものを選ぶのか気になったが、後で教えて貰えばいいかと踏みとどまる。あまり親しくない柄黒について来られても落ち着かないだろう。

「ところで鬼李、先程の話だが、良ければこの柄黒に、俺の記憶の一部を一瞬渡したいのだ」

「は?!」

 一秒前、二人について行かなかった事を柄黒は早くも後悔した。

「時間渡しで、それが可能だと聞いているのだが」

「可能だよ、どの辺り?」

 ちょっと待て。

「一五五十年前だ」

「ふぅん?今回戻った付近だね?」

 青鬼は一体、何を考えているのだろう。

 柄黒の戸惑いに気がつくと、青鬼はまたふっと笑った。百歳の青鬼の、澄んだ笑いとは違う、苦味を含んだ、熟成した笑いである。

「思い出したのだ、あの頃の、私の赤鬼への直向きな好意を、……あの感覚が、少しでも彼の役に立つと良いなと」

 青鬼の言葉に、おまえ!と赤鬼が照れた声を上げた。良い年して照れんなよオッサン、と鶴が揶揄った。

 青鬼の記憶。何か、柄黒の役に立つかもしれない、と青鬼が判断したその記憶。

「すみません李帝、度々お手数お掛けしますが、私も青鬼さんの記憶、気になります」

 普段なら丁重にお断りする申し出だが、つい先程、青鬼が口にした、柄黒と田保の仲を応援したい、という青鬼の気持ちが嬉しかったのもあり、柄黒は青鬼の記憶に興味を持った。

「飲み込まれないように気をつけられる?」

 鬼李はおっとりした帝王の顔で、柄黒に伺いを立てて来た。

「はい」

 返事をした数秒後、フツッと外界の画が目の前から消えた。胸の中に冷たくて質量のあるものが飛び込んできた。

 青鬼の記憶は、実感を伴って柄黒を襲った。

 

 ハァスーハァスーと息を吸って吐き出す音。どこまでも続く草原の道。逃げる人間の後ろ姿、身体は重く空気が刺さるように肌に染みて、青鬼が無理をして実体化しているのがわかった。足がもつれ、転ぶと実体化が解けて、人間が走り去る後ろ姿が見えた。今日も逃げられた。もう駄目だ。消える。

 手足に目を向けると、己の身体が透けているのがわかる。青鬼はフラフラと森へ帰ると、森の入口に蹲った。目の回るような空腹に、涙が出た。消えたくないのと、狩りの下手な己の不幸に対する涙で、それを森の陰に潜む、他の鬼たちが笑っていた。

 その森はどうやら鬼種の巣窟で、狩りの巧い下手で住める場所を決められているらしかった。青鬼は森の入口、それも道沿いに身体を横たえると、空腹の足しにと周囲の草を食った。夕刻で、森に戻る他の鬼たちが、人の足や、丸ごとを手にして通り過ぎるのを、じっと睨む。

 この夜が最後かもしれない。明日の朝には、己は消えているかもしれないと、ぼんやり感じながら、いや、まだ大丈夫だ、やれると無理に明るく考えてみたりして、……しばらくの間、寝転がっていた青鬼の耳に、サクサクと草原を掻き分けて、何かがこちらに来る音が聞こえた。月灯りも傾いた深夜。青鬼は飛び起きて、その何かを見ると、赤い顔をした鬼。赤鬼だった。青鬼は青くない鬼を、生まれて初めて見た。同時に、赤鬼の顔の作りがすっきりしているのを気に入った。純粋な鬼は、醜いのが多い。赤鬼もきっと、何かと混ざっている。

 森に済む青黒い鬼達は皆、女怪だろうが、小鼻の大きい、緑ががった青面で、大変醜くかったのだ。母親に白蛇が混ざっていた青鬼は、白青い顔色と花のように整った綺麗な顔をしており、だから狩りが下手なのだと馬鹿にされたが、己の見目が麗しい事に満足していた。同時に、見目の良い者に惹かれる性質だった。

 あの赤い鬼と仲良くなりたい。きっとあの鬼は、青鬼と同類だ。青鬼を理解してくれるだろう。

 赤い鬼と仲良くする妄想に胸を膨らませながら、段々と近づいて来る赤鬼を凝視していた。

 すると、赤鬼の腕に怪我がある事がわかった。その爛れ具合から見て、怪我は恐らく人の呪いによるものだろう。

 人の呪いは、流行病と同じように嫌われており、その者の傍に居ると呪いが移る、という妖怪世界の常識があったのだ。見たところ赤鬼は青鬼の五十は年上で、ギラギラした顔や厳つい全身の迫力などを見ると、相当腕が立ちそうだった。だが怪我が深い。このまま森の、他の鬼に見つかったら殺される。青鬼は急いで怪我を隠す大きな草を取りに走り、こちらにやって来る赤鬼が、森に入る前に声を掛け、その呪われた腕を草で覆った。近くで見ると赤鬼は、このまま放っておくと死にそうな程弱っていた。

 その日、青鬼は森の中核に居る兄役の鬼を頼った。怪我をした赤鬼を宜しく頼みたいのだと言うと、その鬼は赤鬼の世話を引き受ける代わりに、いつものように青鬼との性交を所望した。青鬼はこの兄役と、餌を分けて貰うために良く性交しており、兄役がそれを求める事に慣れていたので、簡単にその条件を呑んだ。獣のように両手足をついて、兄役の一物を尻に受けて喘ぐ青鬼を、赤鬼は口を開けて眺めていた。驚きと嫌悪、それから興奮。赤鬼が兄役と同じ事をしたいなら、させてやっても良いと思った。思った途端、赤鬼とそれをする己を想像して、いつもは鈍い痛みと、気持ちの悪さだけで終わるそれが、やたら気持ちよく心地良いものになった。

 赤鬼を兄役に預けてから数時間、青鬼は赤鬼が、この森に居着いてくれる事を強く願った。あの兄役ならきっと赤鬼の怪我を癒してくれる。しかし翌日になって青鬼は、兄役が赤鬼に食い殺された事を知った。恐ろしい男を、匿ってしまった。お世話になった兄役を、死に至らしめてしまった。青鬼は責任を感じて森を出て、兄役を殺して森を去った赤鬼を殺すため、赤鬼の後を追った。

 

 それから百年、赤鬼を追ううちに逞しく成長し、胆を得て妖力を増し大妖怪として周囲から扱われ始めた頃、青鬼は赤鬼と再会した。当時、赤鬼と青鬼は都を騒がす大妖怪として、それぞれ名を馳せていたが、青鬼は正面から赤鬼と対立する道を選んだ。赤鬼の方には、青鬼の機嫌を取るような動きもあり、歩み寄りが見えたが、青鬼は頑として赤鬼を目の敵にしていた。赤鬼にしてみれば、好いた相手が、己ではない者の仇討ちで、己を恨んでいるという辛い状況であり、柄黒は赤鬼に同情した。青鬼は赤鬼に気があるのに。あの兄役に、青鬼は恋情など抱いていなかった。性交をする代わりに優しくしてくれる相手であり、それ以下でも以上でもなかった。

 

 その日、ついに赤鬼が、青鬼に心を痛めている事を告白した。青鬼があの兄役を慕っていると感じれば感じる程辛い事。青鬼と仲良くなりたい事を言い、赤鬼は青鬼に正面から、言葉でぶつかった。

 結果、青鬼は落ちたのである。二体の初夜はそれまでの啀み合いの歴史もあって、やたら盛り上がり、柄黒はその場面をさっさと飛ばしたい衝動に駆られた。

 こんなシーンを見せられてもなぁ、と苦笑していると、青鬼がぽつんと赤鬼に告げた。

 きっかけをくれてありがとう、私は意地を張っていた。

 

 ニュアンスを汲み取ると、そんなような意味で、柄黒は少し、はっとした。田保は柄黒を憎からず思っている。それは感じ取れるのだが、その先に進めるかどうかで遠慮をして、柄黒はいつも踏みとどまっていた。その、遠慮だと思っていた感情は、実は恐怖ではないのか。青鬼に言葉をぶつけた赤鬼は、勇気を振り絞ってきっかけをつくった。青鬼が意地を張るのを辞められるよう、誘った。柄黒も赤鬼のような思い切りを、発揮するべきではないのか。

 

 ありがとうございました、いらっしゃいませぇ、またお越し下さい、いらっしゃいませぇ、店員の高い声が方々で混ざった雑音が耳に入り、青鬼の記憶が、柄黒から抜け出た。

「最後の濃厚なラブシーンは、必要だったでしょうか?」

 柄黒の言葉に、青鬼は少し照れて、不可抗力だと言うと腕を組んだ。

「俺の伝えたい事は、わかったか?」

「敵同士でも打ち解け合えた俺達凄い、という事でしょうか」

「違う、一歩を踏み出すのは大変だが大切だという事だ」

 そんな簡単な事、口で言ってくれれば良いんですよと言いかけて、果たしてそうだろうか、と思う。己が恨まれている自覚がある中で、一歩を踏み出した赤鬼の勇気に、柄黒は少なからず感動していた。

 俺も、田保さんに言うべき事を言わないと、という気持ちが心の中にあるのは、青鬼の記憶にあった出来事を見たから。

 

「何だ? 何の記憶を見せたんだ?! 俺達の事か?! それ、俺の許可も取るべきじゃねぇのか?!」

 赤鬼が慌てて、青鬼と柄黒のやり取りに混ざって来たが、もう後の祭りである。数秒の出来事だったが、記憶というのは一瞬でインポートされるものであって、もう柄黒の頭には、赤鬼と青鬼の馴れ初めが記録されている。

「田保に男色の趣味はない、踏み込み方など知らんだろう、おまえがリードしてやれ」

「はい」

 赤鬼が青鬼に踏み込んだ時の、青鬼の緊張と衝撃を思い出す。意地を張る心が砕け、ただ赤鬼の存在に喜び、赤鬼を全身全霊で歓迎した青鬼の心。赤鬼は青鬼を、言葉一つで幸せにしたのだ。

 

 外していたらそれまでだ。もし、田保さんが俺の覚悟一つで幸せになってくれるのなら。俺の言葉が、田保さんを喜ばせる事が出来るのなら。田保に拒絶されたら、傷つくのは己のみで、田保に害が及ぶわけではない。ならば柄黒は田保に気持ちを打ち明けるべきだ。

 居ても立っても居られずに、柄黒はまた電話を掛けた。

 

『おー、柄黒ー、どしたー?』

 今度は、田保の間の抜けた声が耳を包んだ。独特の間延びに心地良さを感じて目を瞑る。

「田保さん、スキー、どうでしたか?」

『え? スキー? ……あっ、そうか』

 ……あっ、そうか??

「何ですか? 嘘だったんですか? あの情報?」

『いやっ、そのぅ、あれだ、……おまえ今電話平気か?』

 周囲を見ると、柄黒の電話に、その場の全員が集中していた。今の電話で、次に会う日取りを決め、そこで告白をしたい。と考えているが、この視線の重圧がある場所で、田保との長電話は何となく避けたい。顔もにやけてしまうし。短めに終わらせよう。皆が待っているし。

「少しなら大丈夫ですよ」

『少しか、弱ったな、……えっとぉ、そっか、時間ねーのか、わかった、んじゃ、とっとと言うけど、……俺なぁ、おまえと肉体関係ありの恋人同士になりてーんだけどどうだ、おまえさえよけりゃ、って何か、電話で言うような事じゃねぇんだが、……お付き合いして欲しい、それで、ホワイトデーにな、もし、その、おまえがまぁ、俺を少しでもアリだなぁーって気持ちがあんなら、ホテル取って会おうぜっていうな、今日、色々下見してみたんだが、初心者の男二人に良いとこ、なんか人気あるみたいで、部屋埋まっちまいそうなんだよな、だから、もう予約してぇんだけど良い?』

 あ。

 もう。

 何。

 この人。

 ガクンと力が抜けて床に膝を付いた柄黒を、青鬼が驚いて支えた。そして、鶴が座って居た椅子を譲ってくれたので、よろよろとそこに座る。ああ、もう、何だ、この人。

「お願いします」

『ん?それは、予約して良いって事か?』

「はい、どうぞ、宜しく、お願いします……信一さん」

『おぉ、さんきゅー、愛してるぜ毅』

 プツ。

 

 電話の切れる音が、こんなに大きく耳に響いたのは初めてだった。

 

 それ程、耳に神経を集中させていたのだ。柄黒はへたりと、椅子の背に寄りかかった。額には玉の汗。

「柄黒、大丈夫か?」

 青鬼の気遣いに、ふるふると首を横に振る。

「すまん、俺がけしかけたから」

「何だよおい、玉砕、なのか?!」

 青鬼と鶴の、心配そうな様子に対し、赤鬼と鬼李は胡散臭そうな目をしていたのが印象的だった。

「逆に、告白されたんじゃないの?」

 鬼李の指摘に、柄黒がこくこく、と頷くと、おいまじか、と鶴が即座に驚きの声を上げた。

「やるな、田保」

 青鬼が関心し、赤鬼は大あくびをした。

「つまり田保は、スキーに行ったんじゃなくて、仲良しの友達に付き添って貰って、男同士で入れるホテル探しをしてたんだね」

「ふ、今時、男同士を断るホテルなど少数だろうに」

「男色の気がないから、心配だったんじゃない?」

 鬼李と青鬼のやり取りを、耳で聞きながら、柄黒はぼんやり振り返った。いつから、田保と柄黒は、両想いになれて居たのだろう。いつから、ホテルを取るまでに、田保は先に進みたい気持ちになっていたのだろう。どうして、気づいてやれなかったのだろう。

「田保の親父もあれで、結構女誑しだからな、チッ、好かねぇ」

 鶴の呟きに、柄黒は当たり前の事を思い出した。

 田保も、男なのである。

「青鬼さん、田保さんはその、どちらを? 男役と女役のどちらをするおつもりなんでしょうか?」

 柄黒はまだ、具体的にイメージ出来ていないが、田保の方はどんな風に思っているのだろう。

「さてな」

 青鬼は涼しい顔で、爽やかに笑った。

 ああ、これは、ホワイトデー迄にまた青鬼に話を聞いて貰う必要がある。もし、柄黒が第二営業部に入ったら、こういう相談を、常日頃から、気軽に出来るようになるのか。

 などと、一瞬、柄黒の心に誘惑の陰が射した。

 

 

2014/03/10