◆小ネタ『冗談』(堅物サド×神経質なナンパ師、面倒見の良いオラオラ系)
キケロとエリックは冗談がうまい。その場に四人いれば四人笑う、七人いれば七人笑える冗談を言える。俺は人を笑わせるのが好きだが、滑りがちだ。
「えっ、何て言った?」
上手い冗談を言えるようになりたい。繰り返すとエリックは唇に拳を当てて頬を膨らませた。
「既に神級だろ」
含み笑いをしながら、キケロが茶化す。キケロ宅のキッチンに降った俺の爆弾発言は、キッチンに立っていたエリックだけじゃなく、キッチンから四歩くらいのベッドで寛いでいたキケロにも届いていた。
「何、ゴドー、面白い男になりたいの?」
「面白い男になりたい」
ぶっふぉ、と今度は盛大に噴き出して、エリックは俺をまじまじと見た。
「いや、もう、充分面白いけど!!」
「こういう面白さじゃなくて、その、……なんだ、……故意に人を笑わせたい」
「「……故意に人を笑わせたい?」」
ついに二人は声を揃えて、俺の言葉を繰り返すと、ぷるぷると震えはじめた。俺は、ひとつ咳払い。二人が落ち着くのを待った。
これくらい待てば充分だろうというところで、二人の様子を伺う。恐ろしいほど静かだった。はぁー、と溜め息をはいている。そろそろ。
「俺は、……真面目に、面白いことを言いたいんだよな」
意思表明、二人は盛大に噴き出した。
「どうしたら言えるようになるんだろうな」
首を捻ると、いよいよ二人は呼吸困難になってきて、既に言ってるから!!とエリックが叫び、キケロはベッドの柵に捕まってビクビクしはじめた。
「おまえ、コレ新手のテロだからな!!」
笑い過ぎて涙ぐんだキケロに指摘され、俺はますます首を捻る。
「なんか違うんだよな」
「何が」
「こういう笑いじゃなくて……こう、なんだ、さりげない優しさをスマートにくるむ笑い……というか、うん、……格好いい冗談っていうのか、俺は、格好いい冗談を言って、エリックをときめかせたい」
冗談が得意な二人から、本気で助言が欲しかったので恥をしのんで妄想を晒すと、いよいよ二人の笑いは止まらなくなって、そこから先は何を言っても笑いだす始末だった。
◆小ネタ 『夜の虫けら』(執着攻め×強気受け)
鬼李が深夜にふと目を覚ます時、隣に寝ている永吉はたいてい、猫のように丸くなって呻いている。呻き声で目が覚めたわけではなく、直感的に意識が隣に持ってゆかれて目が覚める。昔より頻度は減ったが、永吉は時折こうして一人で苦しんでいることがある。はじめはどうにか癒してやろうと額の汗をぬぐったり、そっと抱きしめたりしていたが、永吉を苦しめているものの正体を知ってからは、それをやめた。永吉は、鬼李の優しさに苦しめられていた。
気がついたのは、いつ頃だったか。永吉の悋気が、昔とは比べ物にならないぐらい、強くなっていて驚いたことを、永吉に伝えた時だろうか。永吉は気まずそうな顔をした。永吉は鬼李の好意を、気まぐれとしか受け取れない男になっていたのだ。鬼李がいくら優しくしても、喜ぶ代わりに機嫌がいいなと皮肉を口にする。
だから鬼李は、こうして目の前で、丸くなって呻く永吉を、眺めることしかできなくなった。深夜の静けさに、肩を冷やされながら、丸まった永吉の骨格を、耳の穴を、髪の生え際にたまった汗を見つめ、永吉が悪夢から解放されるのを待つ。寝室の一つ隣にある永吉の部屋から、鈴虫の鳴き声が、遠慮がちにあがった。
「鬼李……」
「ん?」
「寒ぃ」
「うん」
眠気のまざった、か細い声。やっと目を覚ました永吉の、野生めいてギラついた瞳が鬼李を見上げた。ようやく許しが出たと身を乗り出せば、永吉がこちらに腕を伸ばした。鬼李が抱きつく前、永吉が抱きついて来て、どきりとする。
「また俺は、呻いてたか?」
「呻いてた」
「うるさかったろ、ごめんな」
「起きちゃった」
鬼李にできることは、求められた時に応じること。
永吉は鬼李に触れられても喜ばない。触れようとしたら、そこに鬼李がいることではじめて喜ぶ。永吉は変わってしまった。
『恩師の声』(ミュライユ×亀、モブ視点)
川越警察署地下にある、川越妖怪警察署の取り調べ室は暗い。蛍光灯がチカチカする狭い部屋に閉じ込めた恩師は、つまらなさそうな顔をして、現れた私を上から下まで見た。
「まだそんな太ってたのか、ちゃんと痩せろよ、可愛いんだから」
警察官になって妻子を持ち、幸せを噛みしめる毎日を送っていた私は、江戸時代の末期、食うに困った両親に売られ、陰間をやっていた頃より体重が五十も増えていた。恩師と私の関係は、元陰間の仕込み屋と陰間であり、つまりこの恩師は、私の初体験の相手なのである。
「可愛いは、もう、よしてください」
照れて反発すると、恩師はふわっとした、涙袋の目立つ笑い方をして、私をときめかせた。白地に薄灰色の、蜜が掛かったような濃淡と、ゆったりと粗い紺の矢絣模様の着流し姿が華やか。5月も中旬の暑さを和らげようとする粋な色合いに惚れ惚れする。
「どうして貴方が、ゴラン・ミュライユを保護していたんですか?」
恩師とテーブルを挟んだ向かい、パイプ椅子にギッコンと音を立てて腰を降ろす。尻の肉が余る感触。椅子が肌にめり込んで痛い。
「別に保護なんかしてねーよ、逆ナンされたから応じてやっただけだ」
恩師はふん、と鼻を鳴らして腕を組んだ。相も変わらず遊び人である恩師にほっとしながら、思い出す。
『っ……ぁ』
生々しく甦った、悪魔の下に組み敷かれた恩師の喘ぎ声。陰間茶屋の奥座敷、畳の上で繰り広げられた戦いの臭いがまだ残る。開かれた敵味方の腹から出る、腸の匂い。恩師の全身から流れ出ている血の、鉄の匂い。部屋の闇が恩師と悪魔の結合部を隠してくれていた事が救いだった。悪魔の腰が恩師の開かれた足の間で揺れる景色。
『んァ、……っう、……ふ、……、っ……』
部屋の隅に固まって怯えていた陰間達は、凍りついて、一言も発する事が出来なかった。ただ、泣いていた。
『く、っ……っ、あ、……ぁ、……あっ』
悪魔のものを挿入され、揺すられてガクンガクンと動く恩師の身体、高く掠れた声、絶対に倒れてはいけないものが倒れた。折られてはいけないものが折られた。巣の中で一番強い者、親鳥を目の前で狩られ、食われた雛達の心情。
『っ……っぁ、ぁ、……く、ん、……ぐ』
恩師は声を堪えて喘ぎながら、陰間達に禁止していた行為中の涙を幾筋も流した。陰間の中には恩師の抱かれ方が下手だったと、後で悪口を言ったものも居た。そんな奴を、私は殴って回った。恩師は私達を守るために戦ってくれたのだし、恩師が時間を稼いでくれなかったら、全員略奪されていた。あの時、助けに来てくれた、鬼の自警団の到着が、少しでも遅かったら、恩師はどうなっていたのだろう、と考えると今もぞっとする。犯されながら、血を吸われていた恩師の真っ青な顔。命を吸う技を持つ恩師に対し、血から命を吸う悪魔たちは、組み合わせとしては最悪だった。最終的に体術の勝負になり、多勢に無勢、恩師は敗北した。せめて陰間の中に、少しでも戦える者が居れば良かったのだが、腕の立つ陰間は皆、出払っていた。
「ミュライユは、パリの一級市民ですよ、こちらでも然るべき対応を取らねばなりません、貴方が個人で客として迎えられる相手ではない」
回想から戻ると、目の前でふてぶてしく椅子に座る恩師の、整った柔和な顔が、やたら性的に見えた。今なら、恩師を犯した悪魔達の気持ちがわかる。この飄々とした態度や仕草を乱してみたい。決して小柄ではない、可愛くもない、どちらかというと大柄でスマートな雰囲気の恩師に、どうしてこんな感情を抱くのか。恩師は組んだ腕を解き、腰を上げた。それから狭い部屋の隅に行き、壁に背を預けると天井を眺めた。
「あァ、だから勝手に住居侵入出来たのか」
「侵入?!」
不穏な言葉を聞き、私は眉間に皺を寄せた。逆ナン、という軽やかな言葉に安心していたが、相手は高位の悪魔だ。何か無茶をされたりしたのではないか、と、年頃の娘を持つ父親のような気持ちで心配した。頭の中には、過去、悪魔に組み敷かれた恩師の痴態が、目まぐるしく浮かんでは消え、浮かんでは消え。
「どうしてミュライユは貴方のホテルに侵入して来たんですか?! あっ、一応相手は高位悪魔ですので、侵入ではなく降臨と呼びますが」
「降臨!」
ぶはっ、と恩師が噴出したので私は顔をしかめた。神権を与えられている高位悪魔を、神のように扱うのは普通の事だ。日本でも守護市民と呼ばれる高位の精霊や妖怪は神のように扱う。
「ちょっと?! 笑い事じゃないですよ?!」
「降臨って、おまえ」
「ミュライユは一級市民です、貴方のお知り合いで言えば李帝などでしょうかね、あの辺りと同一の扱いです」
「李帝と? ……あー、そっか、そうなぁ」
やっと納得したらしい恩師を、私はじとっと睨んだ。ミュライユのような高位悪魔に対し、パリ市が授けている一級市民という身分。この一級市民には、一般市民が守るべき法律が適用されない。この特別扱いは、フランスの属するEUの加盟国、また一級市民認証国までは通用するが、日本を始めとする独自の身分制度を設けている国では、新たな資格を取って貰わないと通用しない。それが今回の、重大問題なのである。一級市民の扱いをどうするか、日本国内の誰かの手引きなら『旅客』として扱うが、自発的に来たのなら日本における一級市民、守護市民の資格を取って貰わなければならない。どちらにせよ、日本政府として一級市民が国内に一人加わった事を把握しなければならないので、こうして恩師を捕らえる事になった。
「それと、もしミュライユに何かされたのなら、それは私達にきちんと報告してください、一級市民の犯罪は、一般市民の犯罪より刑が重い、死刑にだって、してやれますよ!!」
「ふふ、過激だな、……宗次郎、そんなんじゃねーよ、あとその鼻息、やめろ、うるさいし見苦しい」
恩師に指摘され、ぶぅぶぅと鳴っていた鼻息を止める。カラン、コロンと下駄を響かせて、恩師が近づいて来た。心の臓が早鐘のように鳴り、背中がきゅぅと緊張で硬くなった。
「しっかし、なんつぅか、すっかり豚さんだなぁ、昔はあんなに可愛かったのに」
傍に寄って来てくれた恩師の、冷たいすべすべとした手に、頬を撫でられて下半身が騒ぐ。過去、あんなに男らしく映ったのに、今の恩師には若衆のような艶がある。それは、見た目が華やかなせいだろうか。それとも、あの日、悪魔に犯される恩師を、私が少しの興奮を持って眺めてしまったせいだろうか。
「貴方に、処女も童貞も捧げた可愛い生徒に何て事言うんですか」
「童貞はいらなかった」
戦後、学のない陰間達のために開かれた学校。そこで、恩師は仕込み屋から一変、教師として活躍した。檻から出て、男の悦びに目覚めた陰間達に、恩師は何故か人気があった。私もまた恩師を求めた一人だったが、今思えばあれは、自分達を守るために戦ってくれた恩師が、目の前で悪魔に陵辱されたショックを、なかった事にするために、恩師の人格を改ざんしようとしていたのかもしれない。恩師が実は、悪魔との行為を楽しんでくれていたら、という可能性を、私達は捨てきれなかった。だから、受身に回った恩師を随分執拗に淫乱と認定して噂した。
「貴方はするのもされるのも好きでしょう」
決め付けた言い方をすると、恩師はピシャリと私の顎を叩いた。
「へぇ、そうなの」
その時、恩師より一音高い、無邪気な子どもが発するような、楽しげな響きのある声が部屋に響いた。
「亀、されんの好きじゃねーって言ってなかった? 俺の聞き違い?」
恩師でも、戸の傍に立たせた部下でもない、この部屋に居ないはずの存在が、すぅっと私の前に現れた。
「ひっ?!」
声を上げて、腰を上げると椅子がガッシャと倒れた。パサついた獅子舞のような長い髪で顔の半分を覆った悪魔が、姿を現していた。
「何ビビッてんの、さっきまで俺の噂してたじゃん? 亀に聞くより俺に直接聞く方が早くね? なんで俺じゃなくて亀捕まえてんの、意味わかんねーから」
髪の隙間から見える目は鋭く凶悪だったが、キラキラと輝いている。何とも、得体の知れない威圧感。ああ、こいつが・・・例の高位悪魔か、恩師の宿泊したホテルに降臨した記録があり、恩師との間に、何かがあると囁かれている悪魔。
「貴方が、ゴラン・ミュライユですか?」
「わかってる癖に、確認するんだね、真面目だねぇ~」
悪魔はヘラヘラと笑った。何だその態度は。おまえは恩師に多大な迷惑を掛けている自覚が、ちゃんとあるのか。
「勿論、貴方からも直接話を伺いますよ」
「話って、あれでしょ、日本の資格取れって話」
「それもありますが……」
得体の知れない悪魔に、私は心だけは強気で、身体は弱気だった。どうやらガクガクと膝が震えていたらしい。恩師に背中をぽんぽんと叩かれて、やっと震えを自覚する。私達妖怪より身体が大きく、高圧的で化物じみた顔をしている、悪魔が怖い。
「いつから居た?」
恩師は自然な動作で、私の前に立った。
「最初から?」
悪魔は首を傾げて、また笑ってみせた。恩師が目を細め睨むと、悪魔は少し口をへの字にした。
「センセイ……」
恩師の着物を掴むと、恐怖が和らぐ。職務を思い出して、守られる喜びを振り払うと、今度は私が、恩師の前に出た。
「センセイ、貴方は、一般人なんですから、さ、下がっていて、ください!」
「震えてんのに無理すんな、おまえが下がってろ」
恩師がまた前に出ようとするのを、腕で防ぐ。悪魔がじりっと私に一歩近づいた。
「な、何が高位悪魔だ!!妖怪を舐めるなよ、この大入道様の、変幻自在の技を見せつけてやろう!!」
ぐもっと身体の体積を増やす。高位悪魔がたじろぐ様子はなく、私は絶望的な気持ちになった。ああ、駄目だ、殺される。妻子の顔が頭に浮かび、申し訳ない気持ちになったが、恩師を守って殉職なら悪くない。
「いや悪ぃけど、オッサン、チョー邪魔」
耳に入った独特のイントネーション、先程から気になっていた、これは、若者言葉? 目の前の悪魔と目が合うと、顔をしかめられる。堀の深いその顔から、若者言葉の飛び出す違和感。そういえば、日本語、堪能だな。と思わず感心した直後、頬の肉がぐぅっと床に擦りつけられて熱くなった。蹴っ飛ばされて転がったらしい、頬が冷たさを感じた頃、身体のあちこちが打撲の痛みを訴えて来た。そんな私を完全に無視して、悪魔はまっすぐ、恩師に向き合った。
「さっきそこでお亡くなりになってた若者ちゃん、吸収したんだよねー? 交通事故とかマジ悲惨じゃん? お悔やみ申し上げたよね。んで、せっかくだから記憶ごと頂いて、イマドキの日本ルールもついでに理解しといたよん! 亀との関係は日本じゃまだヤリ友っつぅんだね!」
悪魔なのに、この喋り方、仕草。しかし、何故かマッチしている。
「なんつぅか、ドン引きだわ」
「え? 何に?」
「おまえのキャラに」
恩師は頬をヒクつかせ、作り笑いをしているが、恐らく、同族嫌悪だろう。恩師が元禄の遊び人なら、悪魔が吸収した若者は平成の遊び人。気がつくと悪魔は自然な流れで、恩師の顔を両手で包み、己の顔を近づけていた。
「おい、……何だよ」
「亀ったら俺の事チャライとか言ってー、チャラいってつまりー、こういう事かなーっ?!」
「っ」
恩師の頬や顎、唇などにどんどんキスを落として行く悪魔の、性技に慣れた仕草に、ほぅっと見蕩れていた私を無視し、悪魔は恩師の身体に腕を回した。
「……んっ……ふ、ゥ……んぅ」
それから深い口付けをし、恩師がドンと悪魔の胸を押すも、揺るがずにそれを続ける。部屋の外に居た部下達が、入った方が良いか、という顔をし、戸の前に立たせていた部下もまた悪魔に対し、じりっと距離をつめた。捕らえるなら今だ。
「っ、ぁっ?!」
その時、恩師から唇を離した悪魔が、恩師の耳を噛んだ。恩師の湿り声が漏れ、私は部下達に指示をし遅れた。悪魔と恩師は消えていた。
後に、悪魔が日本の一級市民資格、守護市民の資格を取るために学校に入ったと知らされた。一級市民が野放しではまずいと要請を受けた私達としては、学生という身分を手に入れたミュライユは、もう悩みの種ではなくなった。しかし、私だけはモヤモヤして、未だ悩みの種として、彼を認識している。
2014/05/07
『うしのきもち』(生真面目×俺様)
小学校の時に参加した友人宅のクリスマス会。社会人一年目の時に経験した恋人と過ごす落ち着きあるイブの食事。思い出は美しくぼやけているが、未来は恐ろしく鮮明だ。
「家族と俺と、どっちが大事なんだよ」
不貞腐れた牛鬼を前に、あら太は項垂れていた。あら太とその恋人、牛鬼の勤めている『怪PR社』が入ったビルは、地下の妖怪タウンに向けて氷柱のように天から垂れている。
その最下層には、妖怪タウンの夜景が見える、広く大きな窓と透明な床があった。景色を楽しめるカフェとバーの機能を持った店がついており、あら太と牛鬼はそこを利用していたのだが、生憎、あら太はこの景色を楽しめず、席に座っていた。
クリスマスの連休についての話で、牛鬼と揉めていたのだ。
牛鬼はあら太と旅行をしたくて、あら太は両親と過ごしたかった。そのため、冒頭の台詞を吐かれたのである。
「父さんが……、帰って来るので」
今年のクリスマスは家で、親子三人睦まじく食事をしたいのだという母親の願いを、父親があら太に打診して来たのはつい先日の事。あら太は内心、牛鬼に悪い気持ちや牛鬼と過ごしたいという自分の気持ちがあったが、承知した。
人として育てて貰ったのに妖怪の会社に入り、ただでさえ両親に負い目があるあら太としては、両親の小さな我侭に、出来るだけ応じたかった。
「関係ねーだろ」
「あるんです……うちの父は、転勤族なので。本当に、久しぶりなんです、家族が揃うの。だから母が、家族でクリスマスをやりたいと」
あら太の父親は私立の有名小学校で教師をしており、勤務先は全国だ。単身赴任で遠くに行ってしまうと最後、なかなか帰って来れない。母親も教師だが、こちらは公立だ。父親と違って遠くへの転勤はないが、逆に場所を変えて働く事が出来ない職であり、父親とはいつも離れ離れなのである。
その二人が、今度クリスマスに揃う。
せっかくなので、二人で過ごしたらと言ってみたが、この二人は残念な事に、あら太を挟まないと会話が続かないのだ。
「なんでまた、クリスマスなんて時期に揃うんだ、おまえの両親は!通信簿とか付けなきゃいけなくて大変な時期なんじゃないのか?」
「それが……」
両親は仕事が早く、通信簿作業などに追われないのである。
申し訳なさそうに縮こまるあら太に、牛鬼は溜息をついた。
『怪PR社』の入ったビルは、武蔵国川越の時の鐘の地下にある。時の鐘のある町は、小江戸と呼ばれ、江戸の町の景色をそのまま残した通りとして、現在は観光地となり賑わっていた。観光地らしく、江戸の町並に似た佇まいの渋い店達の陰に、そっと現代風の店も混じっており、ひとつ路地に入れば、手頃なカフェやチェーン店がひしめいている。
第一営業部の部長である鶴に呼び止められて、連れて来られたカフェはあら太がいつも入る所よりも単価が高く、客層が落ち着いている。そわそわする心を押さえ、珈琲を口に含ませながら、あら太は鶴が喋り出すのを待っていた。
「次の休み、空いてるか」
鶴はむすっとした顔で、そう切り出して来た。
珍しく牛鬼が誘いを入れて来なかった日で丁度空いていたので、頷くと、鶴はちっと舌打ちしてそっぽを向いた。
「奴ら、やっぱ二人きりで出掛ける気ぃみてぇだな」
「やつ…ら?」
「鬼李と牛鬼だよ」
苦々しい声で、鶴が唸るので、あら太はやっと状況を把握した。いつも鶴の尻を追い掛けている、第一営業部の小野森鬼李は気が多く、美麗な見た目の男にはまず簡単なモーションを掛ける。この鬼李が、牛鬼をとても気に入っている事は有名な話だ。
数日前、クリスマスを家族と過ごすと言い切り、牛鬼に思い切り、不満顔をされたあら太である。胸一杯に、灰色の嫌な予感が広がったのは言うまでもない。
「お二人とも、仲良しですからねぇ」
「デキてんだよ」
優しく表現したあら太に対し、鶴は断定口調で、辛い言葉を吐いた。鶴は元々は鬼李と恋仲であったが、鬼李の気の多さに嫌気が差し、幕末の頃、当時近しい関係であった赤鬼に乗り換えた口である。その赤鬼も、本命は別に居て、今はその本命と良い仲であるというから、近頃の鶴は常に不機嫌顔だ。
綺麗な顔が、台無しだ、とこっそり思う。
目の前に座る鶴の顔立ちは、溜息が出る程美しい。描いたように形の良い眉に、すらりと持ち上がった細目を縁取る睫毛は長く、色合いが淡くて美しい。細い鼻筋と眉目のバランスが絶妙で、人形を眺めているような気持ちにさせられる。
「鶴さんなら、もっと、他に良い人がいくらでも見つかるような気がしますが」
思わず、何も考えずに口にして、はっとした。
「何だそりゃ」
鶴の目がくっと開かれて、黒目がちの瞳が揺れた。
「俺が鬼李にやきもち妬いてるみてぇな言い方だな」
「・・・違うんですか?」
鶴は珈琲から口を離すと、戸惑ったように唇を震わせた。
「鬼李はただの借金取りで、俺は借人だ」
詳細はよく知らないのだが、鶴は身動きの取れない程の借金を抱えていた時期があり、鬼李に肩代わりして貰った事がある。その縁で今、鶴は鬼李に頭が上がらず、一緒に居るらしい。恋仲のように見えるが、そうじゃないと鶴は断言する。
「でも鶴さん・・・」
ただの借金取りが、毎日借人の傍に張り付いて、好きだ好きだと言い続けるでしょうか。そもそも鬼李さんは鶴さんが好きで、鶴さんを助けたいから借金の肩代わりをしたんじゃないでしょうか。
という事を、あら太が言い出せずにもじもじしていると、鶴はケーキメニューをじっと眺め始めた。そして、俺はショートケーキを頼むけど、おまえは?と言い出したので、俺は要りませんと首を振ると、じゃぁチョコレートケーキな、と勝手に決められた。
すいっと手を挙げて店員を呼ぶ鶴を、あら太はじっと見つめた。
涼しげな横顔に、寂しさの陰が降りて魔のような色気がある。あら太の視線に気がつくと、鶴は照れた顔で何だよと口パクした。俳優のような鶴の顔が魅せた、悪戯っぽい表情が胸にぐっと来る。どきどきした余りそっぽを向いていると、こつんと足先を蹴られた。
「それより、おまえだ、あら太、牛鬼とはちゃんとやる事やってんだろ?どうして浮気なんかされてやがんだよ」
鶴の美しい顔によって、夢のような気持ちになっていた心が戻る。浮気、という言葉が胸にずんと伸し掛って来て、あら太はさぁっと青ざめると、鶴を見た。今度はときめく処ではない。綺麗な顔は綺麗なまま、恐ろしい現実を迫って来ていた。
「浮気っ、されてるんでしょうか?」
「さぁな」
放り出された答えが、あら太の頭の中にとある妄想を生んだ。鬼李を家に上げた牛鬼が振り返ると、鬼李が色男顔で迫って来ており、駄目だよ鬼李さん俺にはあら太が!という牛鬼の言葉を無視して、牛鬼を押し倒す鬼李。牛鬼は少し暴れるが、鬼李の金縛りに叶わず、無念そうな顔で服の前を開かれる。
「駄目!牛鬼さん!逃げて!!」
思わず大声を上げたあら太に、鶴は少し驚いた顔をした。
「おいどうした、嘘だよ、ワリかったな、牛鬼は恋人が居るときゃ鬼李を退ける、大丈夫だ、そこんとこは牛鬼を信じろ」
信じろと言われても、鬼李なら牛鬼を力づくでどうこうする事が出来る。
あら太はぶんぶんと頭を振った。
「後を、つけましょう、・・・鶴さん」
「あ゛?」
「次の休み、二人は出かけるんですよね?現行犯逮捕です、鬼李さんが牛鬼さんを襲ったら、鶴さんが出て行って止めてください、俺は牛鬼さんを保護します」
鶴はぽかんと口を開けて、あら太を見ていたが、少し笑いを含んだ顔でいいぜと言った。美男を次次と手に掛ける不届き者を退治してやろう、と凄む。あら太は鶴の手を取り、教えてくれてありがとうございました。と言うと、きりりと顔を引き締めた。
鬼李と牛鬼は、新宿のサザンテラス口で待ち合わせ、楽しそうに冗談を飛ばし合いながら高島屋に繋がる橋に向かった。途中にあるJR東日本のビル前に、suicaペンギンのクリスマス仕様ディスプレイが飾られており、二人は肩を寄せ合って撮ってみた写真を見せ合った。どこからどう見ても男同士の恋人という風で、あら太は胸が痛んだ。
鶴から借りた虚装のセットであら太は子どもに、鶴はその母親に扮しているため、二人にはまず気づかれないと思うが、逆にそれが不安だった。
見たくないものを、見てしまわないだろうか。二人が内緒で行っている、見てはいけないものを、見てしまわないだろうか。
走り交う電車の上に掛かった橋を渡る二人は、手でも繋ぎそうな程、距離が近い。
「やっぱデキてるな」
呆れ顔で呟く鶴の横で、あら太は途方に暮れた。仮に鬼李と牛鬼がデキていたとして、牛鬼との縁を切れる程の強い心を、あら太は持ち合わせていなかった。鬼李との関係に、気がつかない振りをして、牛鬼の傍に居続けたい。そんなあら太の気持ちを、鶴は軽蔑するだろうし、牛鬼は困るだろう。
まず、今日の目的は、その気がない牛鬼に、鬼李が無体を働こうとするのを防ぐ事。それが、牛鬼の方にその気がある場合、どうなるのだろう。仲睦まじい二人を、あら太と鶴はただ見ている事しか出来ない。
「鶴さん、帰りましょう」
「おいおい、まだ1時間も張ってねーぞ」
「もう十分です」
「あら太……」
つんと鼻に痛みが走り、舌が震える。
「牛鬼さんは、嫌がってませんでした、俺、鬼李さんが牛鬼さんにちょっかい掛けるとこ、良く見てましたけど、牛鬼さんは嫌がってて、だから今日は助けなきゃって思って、でも、牛鬼さんは嫌がってなかった」
何とか涙は堪えて、あら太は鬼李と牛鬼の二人にくるりと背を向けた。戸惑った顔の鶴に笑いかけて、鶴の手を握ると、ぐんぐんと二人とは反対の方向に鶴を連れて歩き去った。
結局、鬼李と牛鬼の監視のために繰り出した新宿で、鶴と二人、映画を観て帰って来た休み明け、牛鬼は何事もなくあら太に接した。
あら太が鶴と映画館に行った話をすると、鶴さんに変な事をされなかったか、と逆に心配をされて笑えた。牛鬼さんが鬼李さんにされたような事は、されませんでしたよという厭味が喉元まで出掛かった。
あら太と牛鬼の間が、ぎくしゃくし始めたのはそれからである。主にあら太が、牛鬼を避けて過ごした。補佐として必要最低限の時間は一緒に居るが、それ以外の時を別の人間の元に逃げる。
そうやって、牛鬼を避けて過ごし初めてから一週経ったある日、帰り際のあら太を訪ねて来た者が居た。
訪問者は数ヶ月前、牛鬼とあら太が携わったあるイベント案件で、ディスプレイを制作してくれた会社の担当者だった。
この担当者は、過去にまったく同じような時間帯・タイミングで訪ねて来た事がある。
『怪PR社』はイベント・広告を扱う会社だが、牛鬼とあら太の所属している第二営業部は、主にイベントを扱う事が多い。色々な会社に関わり、意見をまとめてエンドクライアントから発注されたイベントを実行に移す。
その時は、キャラクターもののイベントという事もあり、ディスプレイ制作にかなり重点を置いていた。
牛鬼は三度、制作に注文をつけており、制作会社の担当者は弱りきっていた。牛鬼の言わんとしている事を、担当者は飲み込んでいるものの、なかなか現実的にそれが叶わない状況が続いており、ついに別の制作会社に、追加発注という形で任せようかという話も出て来ていた。
「お忙しい中、お時間頂いて申し訳ございません」
思い出の中の担当者は、よれよれのTシャツを着ていた。まだ暑さの残る季節だった。
『怪PR社』の入ったビルの最下層、妖怪タウンの夜景が見えるラウンジで向かい合うと、担当者のぼろぼろの身なりは景色に浮いた。牛鬼のように、ブランドやオシャレを知っているわけじゃないが、あら太はそれなりにきっちりしたスーツを着ている。対して、担当者はボロボロのジーパンによれよれのTシャツで、酷くみすぼらしかった。
「いえ、こちらこそ何度も無理を申し上げてしまい、すみません、わざわざお越し頂きありがとうございます」
牛鬼ではなく、あら太を呼びつけたあたり、何か泣き言だろうかと勘ぐった。牛鬼はこの会社の前歴と、プレゼンを見て、この会社なら出来るという判断を下し、発注を掛けているため、妥協は絶対に許さない。しかし現実的に辛い作業を強いている事をあら太はわかっていた。
「やっぱり、間に合いませんか?」
単刀直入、問い掛けると、担当者はきょとんとした顔になった。細面で顎が長く、決して美男ではないが、優しい目をした職人気質の男である。表情はすぐに顔に出る、駆け引き下手である。
「どうしてわかったんです?」
「お顔に出ています」
笑いながら指摘すると、頬を染めて下を向く。名刺には、小名絹次(kona kinuji)と書いてあった、石種の妖怪だった。石種は赤子の鳴き声を挙げて人におぶさり、石のように重くなって人を脅かし肝を取る。
小名はしかし、そういう騙し討ちなど、一切出来ないであろう純朴そうな男だった。
「弊社では、今、もし御社の作品が納品期日に間に合わないようでしたら、御社と同業他社様の力も借りなければいけないかも、という話が出ています」
正直に、当時の社内状況を話すと、小名の顔は面白いぐらい、さぁっと青ざめた。
「ちょっと待ってください、すみません、……あの、お言葉ですが!
御社はうちを選んでくれたんです、うちに任せてくれた、納期に間に合うよう一作目は仕上げましたし、二作目だって!」
「ですから、きちんとお礼は払います、しかしこちらにも都合があるんです、クライアントに満足頂けるレベルのものを、使用したい」
その台詞を吐いた時、小名の目にちらりと怒りの炎が上がった。うちの作品は、そのレベルじゃないと言いたいのだな、と詰め寄りたい心を、ぐっと抑えていた。
「判断をするのは、私ではなく牛鬼です」
あら太は静かな声で、言葉を選んだ。
「ですが、私は牛鬼の好みや、発想をある程度、想像出来ます」
「……」
「失礼ですが、御社は全ての装飾に力を入れ過ぎている、細部まで完成されていて、とても良い事ですが、時間がいくらあっても足りなくなるでしょう。
牛鬼が申した完成度の高さ、それは全ての装飾に対してじゃなく、一部の装飾に対してです、要は、人気キャラクターと思われる像のみとか、目立つキャラクターのみとか、ずるい言い方をすると、どこに力を入れて、どこで力を抜くか、そうした逃げも一つ、必要になってきます。こうしたイベント事では、案外、一つの作品の完成度が恐ろしく高ければ、他の作品の完成度が多少低くとも、目立たないものなのです」
「……そんな事」
考えもしませんでした、と項垂れる小名に、あら太は笑いかけた。真っ直ぐな発想、真っ直ぐな心、ほっとする人だと思った。
「私も牛鬼も、御社で仕事が完成する事を望んでいるんです」
元気づけるように、声に力を込める。まだ期日は残っているんですから、頑張ってください、と声を掛けると、小名は顔をあげて、縋るような目をした。
「ですが、どこに力を入れて、どこで力を抜くかなんて、下手をしたら力の抜いたところに注目されて……」
気の弱い人だな、と思いつつ、何か守ってあげたいような衝動に駆られた。
「では、良ければですけれど、見に行きましょうか、私は今日、早く終わりましたから、この後、時間があります、いつも連絡をくれる時間が遅いですし、夜通しの作業になっているんですよね、きっと?」
「あ、ですが」
「この後、会社に戻るのでしょう?」
ぐっと見つめると、小名は額に汗を浮かべ、その後頬を染めた。
「汚い現場ですが……」
「行きましょう」
この日、あら太が指示を出した通りに、小名は作品を仕上げて来て、すんなりと牛鬼の審査を通した。そしてイベント当日にはエンドクライアントから激励されるに至り、今ではエンドクライアントから、直で仕事を貰う事もあるらしい。
あの日と同じ、妖怪タウンの夜景が美しいラウンジで、小名は芸術家風の、風変わりだが趣味の良いスーツを着ていた。対するあら太もスーツで、二人はぴったりと景色に溶けていた。
「あら太さんが居なかったら、僕ら、日の目を見る事なく消えていました、あの時、あら太さんにアドバイスを貰えて、作品をチェックして貰えなかったら本当に、どうなっていた事やら、今考えても恐ろしいですよ」
小名の会社は小さく、あの時請け負った仕事が、数年ぶりに掴んだ大型案件だったらしい。ただの図案担当者だった小名が、今は代表取締役になった背景、それはあの案件から会社に道が開けたため。
「今じゃ、二年先ぐらいまで仕事があるんです、凄いですよ、本当に」
小名は遠い目をして、半年前まできつかった生活に思いを馳せた。
「社員の半分はもう三年以上肝を口にしていなくて、消えかかっていたんですからね」
あら太の頭にふと、腹鼓株式会社という、倒産して社員が次次と姿を消した会社が浮かんだ。妖怪世界は本当に、一寸先は闇だな、と思う。ぞっとしていたところに、小名の手が割入って来てあら太の手を掴んだ。
「良ければ、何か美味しいものでも、奢らせてください、そのために今日は来たんです」
小名の目はキラキラしている。
せっかくなので、ご馳走になろう、と思えたのは近頃牛鬼を避けているせいで人恋しかったため。日付はもう12月の20日である。クリスマス前に、二人でクリスマスをしよう、などという話も出ていたのに、一向にその声も掛からないし、牛鬼はもうあら太に愛想を尽かしたかもしれない。
川越から潜る飛び穴で一番飛び値の安い都心の入口、大宮区役所前に来ると、石焼麻婆豆腐の看板を掲げた隠れ名店に案内された。
そこは以前、あら太も牛鬼と来た事のある、安くて味も申し分ない良い店だった。変わった料理も多く、面白い。
少し先に行けば、百種類以上の酒を揃えた重厚なバーや、本場の味を修行して持ち帰ったというフランス料理店、店内の装飾に凝ったイタリアンや中華のお店などがあるが、あら太はこの石焼麻婆豆腐の店の、飾らない雰囲気が好きだった。もう少し単価の高い店でも良いんですけど、と控えめに言う小名に、あら太は苦笑した。
「俺、貧乏性で、敷居の高い感じのお店、苦手なんです」
心からの言葉だったために、遠慮と取られずにすんなりその言葉は小名に響いたようで、小名もまた笑み崩れた。実は僕もです。という返事に、親近感を覚える。
牛鬼は高い店も、安くて美味い店も知っている。あら太が望めば、気安い店に入ってくれるが、牛鬼自身はどちらかというと高くて雰囲気のある店が好きだ。
そもそも牛鬼とは、根本的に合わないのかもしれない。好みも合わないし倫理も合わない。
小さな店の、小さな入口を潜る。すると、意外に大きな室内が目の前に現れる。二階席に案内され、昔の家らしいぎしぎしという階段を上り二階に上がる。
「あっ」
声を上げたのは、牛鬼が店に居たためだ。それも待ち受けたように、空いた席で胡座を掻いていた。小名が、申し訳なさそうにしている。小名に導かれ、牛鬼の座るテーブルに二人で腰を下ろすと、牛鬼は深い溜息をついた。
「俺に飽きた?」
ぶっきらぼうに問われ、まさか、と素早く否定した。
「こうやって、第三者の手を借りないと、話も出来ない状態が、既に結構きつい」
「すみません」
「俺のこと避けてたよな」
小名の心配顔を他所に、牛鬼は詰め寄る。外部の人間である小名を巻き込み、色恋の修羅場を展開する事に、抵抗があっておろおろしていると、小名は席を立った。
「僕は、下に居ます」
気を利かせてくれたらしい、あら太がすみません、と頭を下げるのにいえいえと優しい声を上げて去って行った。その後ろ姿を見つめる。小名のような優しく、純朴な男が恋人なら良かった。
ちらりと思ったのが、顔に出たのか、ふと顔を上げた瞬間恐ろしい景色を見た。牛鬼の頬に涙が、幾筋か出来ていた。
「牛鬼さ……」
思わず声が切れて、頭が真っ白になった。泣かせた?! 俺が?! という驚きと共に、あの強く頼りになる牛鬼が、泣いたという事実に恐怖した。そこまで追い詰めてしまっていたとは。
「佳祐さんに依頼して調べて貰った、おまえ、見合いするんだろ? クリスマス」
「エッ?!」
「なんで俺に一言も言わないでっ……」
ぶわ、とまた目の表面を涙で濡らし、牛鬼は息を吐いた。
「びっくり、したし……、信じらんなかったけどっ、最近、避けられてたし、俺より見合い、優先したわけだから、覚悟はできてるけど、……おまえはやっぱり、まだ百にも満たない若い妖怪だし、同種の女妖怪と添わせたいっていう、おまえの両親の気持ちはわかるし」
ぼろぼろとまた涙が出る。
「わかってんのに、諦めきれねーから、どうしようかと思っ……」
ふと見ると、伝票には日本酒の注文が大量にあり、牛鬼が実は酷く酔っているのがわかった。あら太達が到着するまでに、結構な量を流し込んだようだ。
「牛鬼さん……」
牛鬼の手に手を重ねる。
「信じて貰えないかもしれませんが、……見合いの話は、初耳でした、けど、牛鬼さんがいるのに見合いなんて絶対にしませんから、そこは安心してください」
鼻に手の甲をあてて、牛鬼はあら太を睨んでいる。
「クリスマスに家族を選んだのは、純粋に両親の我侭を聞いてやりたかったからです。父も母も、俺に人の会社で働いて貰いたくて頑張って来たのに、俺は妖怪の会社に入った、そういう負い目があったから」
言い聞かせるように、ゆっくりと訳を話す。牛鬼は少し髪を乱していて、ほんのり汗ばんだ額に、少しだけ前髪を貼り付かせており色っぽい。
泣く程、小豆が人のものになる事が怖かった牛鬼。避けられていた事に、堪えていた恋人の、何て可愛い事だろう。
「大体ね、貴方が鬼李さんと仲良くしているから、俺はもやもやして、貴方を避けていたんですよ」
ストレートに詰ると、牛鬼は少し目を見開き、まずったという顔をして口に手を当てた。そういう事か、という呟きが、耳に聞こえて来そうなその素直な顔に、小豆は怖い顔を向けた。
「貴方に、別れたいと言われたらどうしようと思って、……鬼李さんの方が好きになったと言われるのが怖くて」
瞬間に、ずどんと体の中に何かが入って来た。
どこかの小物売り場で、これ絶対あら太に似合う、とはしゃぐ牛鬼を誰かの目が見ている。この目線の高さは恐らく鬼李だろう。頭の中に、まるで見て来た記憶のように浮かぶ景色に、あら太は翻弄された。こういうとこ、あら太はあんまり好きじゃないんだよなぁと雰囲気あるレストランの中で、困った顔をする牛鬼に、じゃぁあっちのお店にも入ってみる?と進める鬼李の声。あ、これだこれだ、この気安い感じ!あら太はこっちの店だな、と納得して、楽しげに笑う牛鬼。
「あっ」
体の中から、何かが抜ける。思わず声を上げて、閃きを口にした。
「もしかして牛鬼さん、鬼李さんと出掛けたのって、俺とのデートの下見?」
「えっ」
目の前の牛鬼が、怪訝そうな顔をした。
「何で?」
「あ、その、今、多分鬼李さんの『時間渡し』があって、鬼李さんの記憶が入ってきて……」
牛鬼の顔に、かぁ、と赤みが差した。
「……正解」
「あ、……そうなんですね、はは」
「これでも努力家なんだよ、俺は」
そういうとこ、あんまり見せたくなかったんだけど、この場合は必要か。と呟いて、鬼李さん、いつから怨霊スタンバらせてたんだろう、と続ける。
牛鬼の誤解を解くために、鬼李が使役している怨霊を飛ばして来たのだ。牛鬼のためを思い、牛鬼を支援する鬼李に、少し妬けたが、あら太は気分を良くした。
あら太のために、牛鬼は動いていた。鬼李と遊びに行ったのも、あら太のため。
「牛鬼さんのこういうとこ、嫌いじゃないです」
素直に好きですとは言えず、しかし照れてそう告白すると、牛鬼は安心したように笑った。
「良かった、あら太が見合い、思い留まってくれて」
「あ」
思い留まりたいのは山々だが、両親はその計画を進めているわけで。
「どうしよう、牛鬼さん、どうやって見合いから逃げればいいかな、俺」
「すっぽかせばいいんじゃないか?」
悪びれもなく、牛鬼は言った。
「見合いの時間は、佳祐さんが多分把握してるから、その時間だけ、用事を作れば良い」
ああ、また両親に顔が上がらなくなる、と思いつつ、牛鬼の言う通りにしてしまうのがあら太である。しかも、見合いを潰されて腹を立てている両親のもとに、挨拶に来てしまうのが牛鬼である。
あら太を妖怪会社に引っ張り込んだ嫌な男である牛鬼が、今度はあら太を同性愛に誘ったというので、両親の中で、牛鬼の株が大暴落したのは言うまでもなかった。
22:27 2013/12/1
『鬼の餌』(孤高のエリート部下×万年教育係上司)
『怪PR社』では、管理部の女子社員が中心になって男性社員に向け、バレンタインデーのチョコレートを送る。そのため、ホワイトデーには、今度は管理部の男性社員が中心になり、女子社員に向けて、お返しの贈り物をするのである。
毎年、贈り物の選定をしていたのは、管理部で一番女性に縁のある男、弥助だった。それが今年は弥助の補佐となった柄黒にこの仕事が回って来た。
「初めての仕事で大変だろう?」
柄黒は当然、現在恋人に近い関係で結ばれている田保に買い出しの手伝いを頼みに来たのだが、田保の居る営業部には厄介な男が居た事を忘れていた。
「よし、柄黒、俺が手伝ってやろう」
「要りません青鬼さん、お引き取りください」
上機嫌の青鬼に捕まってしまった。
田保の居る第三営業部に行くには、青鬼の居る第二営業部の前を通らなければならない事を忘れていたのだ。田保の連絡先は知っているのだから、呼び出せば良かったのに、失敗した。
「何だ、つれない奴だな」
深い青色の小洒落た羽織で、また、その整った顔と鬼の貫禄で周囲の視線を集めながら、横を歩く青鬼を無視して第三営業部に向かう。そこで、本日の午後から休暇を取って、明日の休みを使い、田保と一本、弥助はスノボとスキーをやりに越後に向かったと聞かされた。
『怪PR社』は水曜と土曜を休みに設定している会社である。火曜の本日は休日前。柄黒はホワイトデーの買い出しを、明日の休日に設定して田保を誘おうと考えていたのに。あてが外れて気落ちした。
また、田保と出掛ける予定があったのに、その事を柄黒に気取られぬよう上手く立ち回っていた弥助と一本の上司二体が憎らしくなった。柄黒が田保に懐いている事を知っていて、どうしてこのレジャー情報を二体は柄黒に黙っていたのか。
「では柄黒、明日は私とデートだな」
田保の事を聞いた第三営業部の元同期が、気の毒そうに柄黒と青鬼を見比べた。
「貴方は、また何か企んでるんですか?」
柄黒がギロリと青鬼を睨むと、青鬼は少し残念そうに眉を下げた。
「企んではいない、おまえと仲良くなって、うちに引き抜こうと思っているだけだ」
「それを企んでるって言うんですよ!俺は弥助さんの後を継ぐって決まったでしょう?」
苛々と青鬼を詰ると、青鬼はこちらを馬鹿にしたような笑みを浮かべた。
「ふん、弥助の移動までは月日がある。まだおまえに弥助の仕事はこなせないし、滝神は本音で言うと弥助を手放したくないだろう、そもそも今回の話は弥助の我侭だしな、だから、おまえが心を変え、人事が考えを改める可能性だってゼロではない。後を継ぐ人間がいなくなれば、弥助も簡単に移動などできん」
柄黒の気持ちを無視し、ずけずけと講釈をたれる青鬼に、ハァ、そうですか、と柄黒はついに力の抜けた顔で相槌を打った。それから、己の部署に戻るため、営業部の廊下をエレベーターホールに向かい歩き出した。
明日の事を考えると長い溜息が出る。
百歩譲って田保が捕まらなかった事は受け入れよう。しかしせっかくの休日に青鬼と一日中顔を合わせるなんて。用事が済んだら解散、なんて柄黒の望みを叶えてくれる青鬼ではない。きっと夜遅くまでの飲みになる。想像して、柄黒はうんざりと首を横に振った。
廊下の向こうからは、丁度何かの会議を終えた鶴とその右腕、山神が並んでやって来るところだった。一歩後ろにはかつて李帝と崇められ、帝国の長をやっていた鬼李。鬼李の脇を賑やかな第一営業部のエース達が固めていた。
時刻は午後八時。皆、明日の休みに向けて、晴れやかな顔でいる。
「なぁなぁ鬼李ちゃん、頼むぜ、ちょっと顔出してくれるだけで良んだよ」
「鬼李が来るってなると女子の質上がるんだよぉ、持ち帰るのは俺らに任せてくれればイイから!」
鬼李が恐ろしい大妖怪である事を、知らないわけではないだろうに、胆力のある奴らだ、と第一営業部のエース達を眺めながら、柄黒は集団とすれ違った。
そこで、はっとして振り返り、鬼李に声を掛けた。
「李帝、ちょっとお願いがあるのですが」
鬼李が過去に治めていた帝国に、何度か住んだ事のある柄黒は、鬼李を呼ぶ時、つい、帝名で呼んでしまう。
「ここで李帝はないでしょ君、何か用?」
鬼李は顔を顰めたが、足を止めてくれた。
「あの、まだ時間戻しは出来ますでしょうか?」
「出来るけど」
時間戻しとは、鬼李の実に帝王らしい凄技の一つ。簡単に言うと、個人の時間を戻してしまうのである。魂を数時間分抜いて、抜いた分の魂が保有する記憶を無にする。つまり、時間戻しとは、凡ゆる困った出来事を、個人の記憶のレベルであれば無かった事に出来る力だ。
「お願いです、この青鬼部長の記憶を、十五分削ってください!」
鬼李は悪霊を身体に飼う妖怪で、魂を妖力で操作する事が出来る。人の魂だけでなく、物の怪の魂も操作出来るのが、鬼李の恐ろしい所だった。妖怪は歳を取るに連れて魂の量を増やしていく。その原理を活用した画期的な技である「時間戻し」は、帝国では主に戦争から帰還し、PTSDを発症した者を癒すのに使われていた。
「あれは、余り簡単に使って良い技じゃないよ」
鬼李は顔を顰めたが、柄黒は譲らなかった。
「たった十五分ですよ?!」
その時、鬼李の目が、柄黒の後ろ、鶴の耳元に何事かを囁く青鬼と、かぁ、と頬を染める鶴の姿を捕らえた。
「李帝?」
しん、と黙った鬼李の顔は何か思案げだ。据わった目の怪しい光は、まるで愚か者に罰を下す残酷な神のそれであった。
「時間戻しね、お安い御用だよ?」
「えっ」
急に手の平を返した鬼李に不審を覚え、柄黒が眉間に皺を寄せるのと同時、ブワ、と一瞬青鬼の全身から、風が流れた。
「ん?青ノ旦那?」
鶴がいち早く、青鬼の異変に気がついて青鬼を下から覗き込む。鶴がそんな事をしたら、普段の青鬼ならときめいて、すぐに口説きに掛かっただろう。青鬼は鶴を無視し、能面のような顔でキョロキョロと周囲を見回した。嫌な予感がして、鬼李を見ると、鬼李は無情な目で柄黒を見返した。
「大丈夫だよ、明日の午後には戻るように抜いたから」
「な、何分、抜いたんですか?魂……」
「一五〇〇年分」
「そんなに!!俺は十五分って!!」
確信犯の顔をして、鬼李は少し眉を下げて首を傾げた。
「ああ、間違えちゃった、可哀相に青鬼、右も左もわからない世界で困ってるね、まぁ、でも……あいつは本気で鶴を落とそうとしてる所があるから、いつかお灸を据えないと、って思ってたから丁度良いか?」
営業部の廊下には、今や人だかりが出来ており、急に雰囲気の変わった青鬼の周りを第一営業部の数人が囲んでいた。推定百歳。普段、嗜みとして隠しているようだが、内側に持つ妖力というのは何となく伝わるもので、いつもの青鬼から漂う、千歳を超えた大妖怪の雰囲気はない。見た目には変わらないが、青鬼からは一五〇〇年分の魂が確かに抜けている。青鬼を取り巻く空気が、確実にいつもと違っている。青鬼を囲む人垣からは、え、これ、鬼李さんにやられたの?、やっぱ鬼李さん怖っ、戻してやれよ鬼李、また鬼李の悪ふざけか、など軽口が飛び交った。
青鬼は無表情に、己を取り巻く顔の数や、己の着物、建物の造りなどを眺めている。
「鬼李、青ノ旦那を戻せ、おまえ時間戻し使ったろ?」
事態を悟った鶴が鬼李を注意したが、鬼李はそれを無視した。鬼李の横に居た第一営業部のエース達は、にやにやして鶴と鬼李を見比べている。第一営業部のエース二体は、鶴よりもどちらかと言うと鬼李に懐いていると聞いた、あの噂は本当のようだ。
「しょうがねぇ、山神」
つい、と視線で、鶴が山神に指示を出した。鶴の指示を受けて、山神はすっと一歩引くと、本部長の机がある営業部応接室に向かった。赤鬼を呼びに行くようだ。
柄黒は額に、熱い汗が滲むのを感じた。鬼李が恐ろしい力の持ち主である事をわかっていたのに、気安く頼みごとをしてしまった己を恥じる。気が遠くなる思いで、営業部の広い窓に視線をやると、こういう時に限って、夜景が美しかった。『怪PR社』のすぐ近くにはアースポールと呼ばれる地上に続く地下の柱があるのだが、この柱が夜はライトアップされるのだ。夜空を彩る光の柱が、本日は鶯色と檸檬色に、ゆったりと揺らめき、輝いている。
窓から視線を戻すと、柄黒がきっかけを作り、起こってしまった事件の様子が、まだ解決の糸口なく横たわっていた。青鬼を取り囲む第一営業部の面々と、第二営業部の数人。野次馬は確実に増えていた。
鶴は腕組をして、鬼李を睨みつけているが、鬼李は知らん顔だ。
一方で、百歳の青鬼は事態が分からないなりに、状況を悟って大人しくしていた。一五〇〇年前の世間知しかない者が、行成このような白い床と透明な壁に囲まれた近代オフィスの中に連れて来られたら、パニックでも起こしそうなものだが、青鬼は始終無言である。一五〇〇年分の記憶喪失なんて、体験している方はきっと、とんでもないストレスを感じているだろうに。
「取り敢えずな、お前ら、野次馬を辞めにしてさっさと帰ぇれ、あんまりジロジロ見ちゃ可哀相だろう」
『可哀相』の言葉が効いたのか、好き勝手な囁きを交わしながら面白そうに事態を見守っていた人だかりが、わらわらと散って行く。誰の目が見ても、千を越える大妖怪が百歳そこらに縮められて、右も左も分からずに固まっている姿は気の毒に映ったのだ。
「おまえも、後は俺と大将に任せて帰れ」
「いえ、元は俺の軽口が原因ですから!青鬼さんが戻れるまでお世話します!」
強い声で、己の責任を口にすると、鶴は少し笑みを浮かべ、そうか、と応じた。
「鶴っ!」
そこで赤鬼が本部長室から走って来ると、青鬼はひゅっと身を浮かし、数メートル下がった。
「大将、助かった・・・、一五〇〇年は逆光しちまってるらしいんだが、俺ぁ鎌倉以前の言葉ぁ知らねぇから・・・」
「まぁ待て、俺だって、暫く発音していない、通じるかわからん、試しては見るが……えー、あー、そうだな、一曰。以和為貴。無忤為宗。人皆有黨。亦少達者。是以或不順君父。乍違于隣里」
原文の発音なのかもしれない、聞きなれない音の混ざった言葉で、赤鬼は聖徳太子の十七条の憲法を口にした。最近、実在したかどうかを疑問視されている聖徳太子だが、この憲法は有名だ。一五〇〇年前の青鬼が、人の言葉を身に付けようとしたなら、この文言を一度は読んでいる。
「……然上和下睦。諧於論事。則事理自通。何事不成。」
赤鬼の想定通り、青鬼は文章の続きを口にし、赤鬼を見た。
「通じた、みたいだな……」
赤鬼がほっとした声で呟くと、鶴がはぁーと息を吐いた。
これまで、青鬼は現代語がわからず、黙っていたのだろう。赤鬼に言葉が通じた途端、早口で何かを話し始めた。途端に、赤鬼が狼狽し、恐らく、もっとゆっくり話せというような事を言った。
こうして休日、青鬼と通訳の赤鬼という組み合わせの、ごつい鬼二体が新宿東南口の待ち合わせ場所にやって来た。恋仲だという噂の二体が揃って同じ方角から到着したので、昨日はどちらかの家に泊まったのかもしれない、という邪推をしてしまい、柄黒は早くも帰りたくなった。田保の事は好きだし、本能的に触れたくなるが、具体的な肉体関係を想像するところまで、柄黒に男色の趣味はない。
自分達の事でも何となく嫌な感じがするのに、他人の事になると尚、目を背けたくなる。
誰と誰が好き合っている、やったやらないの噂を、好んで行う者達が居るが、柄黒はそういった輩を軽蔑している。理解出来ない。
「悪いな柄黒、うちの青がこんなんなっちまって」
今日の午後に青鬼の記憶が戻るなら、記憶がなくなる前に青鬼がやろうとしていた事をやらせてやるのが良いと鶴が判断をしたため、柄黒は予定通り、ホワイトデーの買い出しに青鬼を連れ出した。
「キョうノひは宜しく頼む」
家で仕込まれて来たらしい、青鬼が現代語で声を掛けて来た。
「良く出来たじゃねぇか、青」
赤鬼の滑らかな現代語が、聞き取れなかったらしい青鬼は戸惑った顔をしたが、褒められた事だけはわかったようで微笑んだ。
「っ」
澄んだ湖に波紋の広がるような、静かで美しい笑みだった。赤鬼が黒目を小さくして黙ったので、見惚れたのだな、と柄黒は推測した。
駅から地下通路を通って到着した伊勢丹の地下は混み合っていた。年配者が多いと思いきや、中には近場の大学生のカップルや修学旅行中の中高生、仕事で移動中に立ち寄ったサラリーマン客なども居る。目当ては一つ二千円前後で、趣味と味の良い洋菓子だ。これまで弥助が請け負っていた仕事である分、期待値が高いのが悩み処だが、弥助程のセンスがなくとも、無難に喜んで貰えるような何かを見つけ出したい。青鬼がいつもの青鬼であったら、きっとこれまでの豊富な女性経験から有益な助言をしてくれただろう。
隅まで綺麗に磨かれ、淡い照明と高級感漂うデザインが購買意欲を掻き立てる地下のフロアを一杯に埋めている販売スペースは、数十種類のブランドが立ち並んでいるにも関わらず、絶妙な配置センスでさっぱりと整備されている。白っぽくライトアップされたガラスケースの中の洋菓子たちを睨みながら、柄黒は唸った。
どれも良く見える。何を買うのが正解なのか、さっぱりわからない。
「ああ、迷惑を掛けたな」
そこで、ぽつん、と滑らかな現代語で、青鬼が言葉を漏らした。
悪夢の終わりが突然に来た。
悩んでいた柄黒の目の前、フルーツポンチなどを売る店の前で、試食カップを受け取った青鬼に、千歳を超えた大妖怪の風格があった。
「戻ったのか青・・・!」
同じく試食を勧められていた赤鬼が、声を上げると、青鬼はふっと笑い、それから顔を顰めた。
「青と呼ぶな赤いノ、貴様、無垢な俺に何て事を……、まぁ色々と世話を焼いてくれた事には例を言うが」
やはり昨日、何かあったのだ。今朝同じ方向からやって来た二体への、柄黒の邪推は当たっていた。
「とんだ姿を見せてしまった、驚いただろう」
正気を取り戻した青鬼が、照れくさそうに柄黒に微笑み掛けて来て、柄黒は心の底から、千歳の青鬼の帰還を喜んだ。
「普段より扱い易かったですよ」
しかし、そこは柄黒である。憎まれ口を叩くと、ははは、と高らかに笑われた。
「こんな事になったついでだ、話をするよりも良い案を思いついた」
「?」
「実は今日、おまえの手伝いを買って出たのには、おまえと仲良くなるという目的の他に一つ、おまえと田保の仲を応援したいというのもあってな、俺の昔の話を少し、聞いて貰おうと思っていたんだが、せっかくだ、いっそ体験して貰おうと思う」
「ハ?!」
「小野森、おまえには『時間戻し』の他、『時間渡し』という技もあるのだろう?」
急にこの場に居ないはずの者の名を呼んだ青鬼の視線の先、地下フロアの隅に鬼李と鶴、野平と牛鬼が居た。
「使えるけど、君、記憶を失うのを欠片も怖がらないね、つまらない」
まるで初めから一緒に行動をしていたかのような自然な会話運びだった。
「貴方達は?!」
突然のメンバー出現に、思わず、慌てた声を上げた柄黒と、ずっと付いて来てたぞ、としれっとした口ぶりで解説した赤鬼が対照的である。
鶴は不機嫌顔で、階段付近の広いスペースに置いてある椅子に座っており、鬼李はその横の壁に背を預けていた。
牛鬼は鬼李の前でスマフォを弄っており、野平は牛鬼の隣で、笑顔でこちらに手を振っていた。
「野次馬でついて来ちゃった、青鬼さん戻って良かったねぇ」
「思いの他、早く元に戻ったね」
野平の軽薄な声に続いて、鬼李の意地悪い声。
「おまえは毎度毎度、人騒がせなんだよ、やる事が!」
鶴は苛立ちを顕に、舌打った。
「だって、赤鬼がなかなか青鬼を床に誘えないって嘆いてたから」
「あ゛?!」
「柄黒が青鬼に時間戻し掛けてくれって言って来た時思いついたの、赤鬼と青鬼って千年ぐらい前は、ラブラブだったらしいじゃん?それで、イタッ」
鬼李の弁解に、鶴の不機嫌顔はいよいよ濃くなり、ついには鬼李を蹴った。
「やり方が回りくどい!!」
「だって、思いついちゃったんだもん、あと、お灸据えようっていうのは本気で思ってたし!!」
「その発想がまず、おまえ何様かって話でな!!」
そこで、喧嘩を始めた鬼李と鶴を横目に、じゃぁ俺、個人的にホワイトデーのお返し買いに行くから、と野平が抜け、俺も、と牛鬼が野平に続いた。趣味の良さそうな二人が、どんなものを選ぶのか気になったが、後で教えて貰えばいいかと踏みとどまる。あまり親しくない柄黒について来られても落ち着かないだろう。
「ところで鬼李、先程の話だが、良ければこの柄黒に、俺の記憶の一部を一瞬渡したいのだ」
「は?!」
一秒前、二人について行かなかった事を柄黒は早くも後悔した。
「時間渡しで、それが可能だと聞いているのだが」
「可能だよ、どの辺り?」
ちょっと待て。
「一五五十年前だ」
「ふぅん?今回戻った付近だね?」
青鬼は一体、何を考えているのだろう。
柄黒の戸惑いに気がつくと、青鬼はまたふっと笑った。百歳の青鬼の、澄んだ笑いとは違う、苦味を含んだ、熟成した笑いである。
「思い出したのだ、あの頃の、私の赤鬼への直向きな好意を、……あの感覚が、少しでも彼の役に立つと良いなと」
青鬼の言葉に、おまえ!と赤鬼が照れた声を上げた。良い年して照れんなよオッサン、と鶴が揶揄った。
青鬼の記憶。何か、柄黒の役に立つかもしれない、と青鬼が判断したその記憶。
「すみません李帝、度々お手数お掛けしますが、私も青鬼さんの記憶、気になります」
普段なら丁重にお断りする申し出だが、つい先程、青鬼が口にした、柄黒と田保の仲を応援したい、という青鬼の気持ちが嬉しかったのもあり、柄黒は青鬼の記憶に興味を持った。
「飲み込まれないように気をつけられる?」
鬼李はおっとりした帝王の顔で、柄黒に伺いを立てて来た。
「はい」
返事をした数秒後、フツッと外界の画が目の前から消えた。胸の中に冷たくて質量のあるものが飛び込んできた。
青鬼の記憶は、実感を伴って柄黒を襲った。
ハァスーハァスーと息を吸って吐き出す音。どこまでも続く草原の道。逃げる人間の後ろ姿、身体は重く空気が刺さるように肌に染みて、青鬼が無理をして実体化しているのがわかった。足がもつれ、転ぶと実体化が解けて、人間が走り去る後ろ姿が見えた。今日も逃げられた。もう駄目だ。消える。
手足に目を向けると、己の身体が透けているのがわかる。青鬼はフラフラと森へ帰ると、森の入口に蹲った。目の回るような空腹に、涙が出た。消えたくないのと、狩りの下手な己の不幸に対する涙で、それを森の陰に潜む、他の鬼たちが笑っていた。
その森はどうやら鬼種の巣窟で、狩りの巧い下手で住める場所を決められているらしかった。青鬼は森の入口、それも道沿いに身体を横たえると、空腹の足しにと周囲の草を食った。夕刻で、森に戻る他の鬼たちが、人の足や、丸ごとを手にして通り過ぎるのを、じっと睨む。
この夜が最後かもしれない。明日の朝には、己は消えているかもしれないと、ぼんやり感じながら、いや、まだ大丈夫だ、やれると無理に明るく考えてみたりして、……しばらくの間、寝転がっていた青鬼の耳に、サクサクと草原を掻き分けて、何かがこちらに来る音が聞こえた。月灯りも傾いた深夜。青鬼は飛び起きて、その何かを見ると、赤い顔をした鬼。赤鬼だった。青鬼は青くない鬼を、生まれて初めて見た。同時に、赤鬼の顔の作りがすっきりしているのを気に入った。純粋な鬼は、醜いのが多い。赤鬼もきっと、何かと混ざっている。
森に済む青黒い鬼達は皆、女怪だろうが、小鼻の大きい、緑ががった青面で、大変醜くかったのだ。母親に白蛇が混ざっていた青鬼は、白青い顔色と花のように整った綺麗な顔をしており、だから狩りが下手なのだと馬鹿にされたが、己の見目が麗しい事に満足していた。同時に、見目の良い者に惹かれる性質だった。
あの赤い鬼と仲良くなりたい。きっとあの鬼は、青鬼と同類だ。青鬼を理解してくれるだろう。
赤い鬼と仲良くする妄想に胸を膨らませながら、段々と近づいて来る赤鬼を凝視していた。
すると、赤鬼の腕に怪我がある事がわかった。その爛れ具合から見て、怪我は恐らく人の呪いによるものだろう。
人の呪いは、流行病と同じように嫌われており、その者の傍に居ると呪いが移る、という妖怪世界の常識があったのだ。見たところ赤鬼は青鬼の五十は年上で、ギラギラした顔や厳つい全身の迫力などを見ると、相当腕が立ちそうだった。だが怪我が深い。このまま森の、他の鬼に見つかったら殺される。青鬼は急いで怪我を隠す大きな草を取りに走り、こちらにやって来る赤鬼が、森に入る前に声を掛け、その呪われた腕を草で覆った。近くで見ると赤鬼は、このまま放っておくと死にそうな程弱っていた。
その日、青鬼は森の中核に居る兄役の鬼を頼った。怪我をした赤鬼を宜しく頼みたいのだと言うと、その鬼は赤鬼の世話を引き受ける代わりに、いつものように青鬼との性交を所望した。青鬼はこの兄役と、餌を分けて貰うために良く性交しており、兄役がそれを求める事に慣れていたので、簡単にその条件を呑んだ。獣のように両手足をついて、兄役の一物を尻に受けて喘ぐ青鬼を、赤鬼は口を開けて眺めていた。驚きと嫌悪、それから興奮。赤鬼が兄役と同じ事をしたいなら、させてやっても良いと思った。思った途端、赤鬼とそれをする己を想像して、いつもは鈍い痛みと、気持ちの悪さだけで終わるそれが、やたら気持ちよく心地良いものになった。
赤鬼を兄役に預けてから数時間、青鬼は赤鬼が、この森に居着いてくれる事を強く願った。あの兄役ならきっと赤鬼の怪我を癒してくれる。しかし翌日になって青鬼は、兄役が赤鬼に食い殺された事を知った。恐ろしい男を、匿ってしまった。お世話になった兄役を、死に至らしめてしまった。青鬼は責任を感じて森を出て、兄役を殺して森を去った赤鬼を殺すため、赤鬼の後を追った。
それから百年、赤鬼を追ううちに逞しく成長し、胆を得て妖力を増し大妖怪として周囲から扱われ始めた頃、青鬼は赤鬼と再会した。当時、赤鬼と青鬼は都を騒がす大妖怪として、それぞれ名を馳せていたが、青鬼は正面から赤鬼と対立する道を選んだ。赤鬼の方には、青鬼の機嫌を取るような動きもあり、歩み寄りが見えたが、青鬼は頑として赤鬼を目の敵にしていた。赤鬼にしてみれば、好いた相手が、己ではない者の仇討ちで、己を恨んでいるという辛い状況であり、柄黒は赤鬼に同情した。青鬼は赤鬼に気があるのに。あの兄役に、青鬼は恋情など抱いていなかった。性交をする代わりに優しくしてくれる相手であり、それ以下でも以上でもなかった。
その日、ついに赤鬼が、青鬼に心を痛めている事を告白した。青鬼があの兄役を慕っていると感じれば感じる程辛い事。青鬼と仲良くなりたい事を言い、赤鬼は青鬼に正面から、言葉でぶつかった。
結果、青鬼は落ちたのである。二体の初夜はそれまでの啀み合いの歴史もあって、やたら盛り上がり、柄黒はその場面をさっさと飛ばしたい衝動に駆られた。
こんなシーンを見せられてもなぁ、と苦笑していると、青鬼がぽつんと赤鬼に告げた。
きっかけをくれてありがとう、私は意地を張っていた。
ニュアンスを汲み取ると、そんなような意味で、柄黒は少し、はっとした。田保は柄黒を憎からず思っている。それは感じ取れるのだが、その先に進めるかどうかで遠慮をして、柄黒はいつも踏みとどまっていた。その、遠慮だと思っていた感情は、実は恐怖ではないのか。青鬼に言葉をぶつけた赤鬼は、勇気を振り絞ってきっかけをつくった。青鬼が意地を張るのを辞められるよう、誘った。柄黒も赤鬼のような思い切りを、発揮するべきではないのか。
ありがとうございました、いらっしゃいませぇ、またお越し下さい、いらっしゃいませぇ、店員の高い声が方々で混ざった雑音が耳に入り、青鬼の記憶が、柄黒から抜け出た。
「最後の濃厚なラブシーンは、必要だったでしょうか?」
柄黒の言葉に、青鬼は少し照れて、不可抗力だと言うと腕を組んだ。
「俺の伝えたい事は、わかったか?」
「敵同士でも打ち解け合えた俺達凄い、という事でしょうか」
「違う、一歩を踏み出すのは大変だが大切だという事だ」
そんな簡単な事、口で言ってくれれば良いんですよと言いかけて、果たしてそうだろうか、と思う。己が恨まれている自覚がある中で、一歩を踏み出した赤鬼の勇気に、柄黒は少なからず感動していた。
俺も、田保さんに言うべき事を言わないと、という気持ちが心の中にあるのは、青鬼の記憶にあった出来事を見たから。
「何だ? 何の記憶を見せたんだ?! 俺達の事か?! それ、俺の許可も取るべきじゃねぇのか?!」
赤鬼が慌てて、青鬼と柄黒のやり取りに混ざって来たが、もう後の祭りである。数秒の出来事だったが、記憶というのは一瞬でインポートされるものであって、もう柄黒の頭には、赤鬼と青鬼の馴れ初めが記録されている。
「田保に男色の趣味はない、踏み込み方など知らんだろう、おまえがリードしてやれ」
「はい」
赤鬼が青鬼に踏み込んだ時の、青鬼の緊張と衝撃を思い出す。意地を張る心が砕け、ただ赤鬼の存在に喜び、赤鬼を全身全霊で歓迎した青鬼の心。赤鬼は青鬼を、言葉一つで幸せにしたのだ。
外していたらそれまでだ。もし、田保さんが俺の覚悟一つで幸せになってくれるのなら。俺の言葉が、田保さんを喜ばせる事が出来るのなら。田保に拒絶されたら、傷つくのは己のみで、田保に害が及ぶわけではない。ならば柄黒は田保に気持ちを打ち明けるべきだ。
居ても立っても居られずに、柄黒はまた電話を掛けた。
『おー、柄黒ー、どしたー?』
今度は、田保の間の抜けた声が耳を包んだ。独特の間延びに心地良さを感じて目を瞑る。
「田保さん、スキー、どうでしたか?」
『え? スキー? ……あっ、そうか』
……あっ、そうか??
「何ですか? 嘘だったんですか? あの情報?」
『いやっ、そのぅ、あれだ、……おまえ今電話平気か?』
周囲を見ると、柄黒の電話に、その場の全員が集中していた。今の電話で、次に会う日取りを決め、そこで告白をしたい。と考えているが、この視線の重圧がある場所で、田保との長電話は何となく避けたい。顔もにやけてしまうし。短めに終わらせよう。皆が待っているし。
「少しなら大丈夫ですよ」
『少しか、弱ったな、……えっとぉ、そっか、時間ねーのか、わかった、んじゃ、とっとと言うけど、……俺なぁ、おまえと肉体関係ありの恋人同士になりてーんだけどどうだ、おまえさえよけりゃ、って何か、電話で言うような事じゃねぇんだが、……お付き合いして欲しい、それで、ホワイトデーにな、もし、その、おまえがまぁ、俺を少しでもアリだなぁーって気持ちがあんなら、ホテル取って会おうぜっていうな、今日、色々下見してみたんだが、初心者の男二人に良いとこ、なんか人気あるみたいで、部屋埋まっちまいそうなんだよな、だから、もう予約してぇんだけど良い?』
あ。
もう。
何。
この人。
ガクンと力が抜けて床に膝を付いた柄黒を、青鬼が驚いて支えた。そして、鶴が座って居た椅子を譲ってくれたので、よろよろとそこに座る。ああ、もう、何だ、この人。
「お願いします」
『ん?それは、予約して良いって事か?』
「はい、どうぞ、宜しく、お願いします……信一さん」
『おぉ、さんきゅー、愛してるぜ毅』
プツ。
電話の切れる音が、こんなに大きく耳に響いたのは初めてだった。
それ程、耳に神経を集中させていたのだ。柄黒はへたりと、椅子の背に寄りかかった。額には玉の汗。
「柄黒、大丈夫か?」
青鬼の気遣いに、ふるふると首を横に振る。
「すまん、俺がけしかけたから」
「何だよおい、玉砕、なのか?!」
青鬼と鶴の、心配そうな様子に対し、赤鬼と鬼李は胡散臭そうな目をしていたのが印象的だった。
「逆に、告白されたんじゃないの?」
鬼李の指摘に、柄黒がこくこく、と頷くと、おいまじか、と鶴が即座に驚きの声を上げた。
「やるな、田保」
青鬼が関心し、赤鬼は大あくびをした。
「つまり田保は、スキーに行ったんじゃなくて、仲良しの友達に付き添って貰って、男同士で入れるホテル探しをしてたんだね」
「ふ、今時、男同士を断るホテルなど少数だろうに」
「男色の気がないから、心配だったんじゃない?」
鬼李と青鬼のやり取りを、耳で聞きながら、柄黒はぼんやり振り返った。いつから、田保と柄黒は、両想いになれて居たのだろう。いつから、ホテルを取るまでに、田保は先に進みたい気持ちになっていたのだろう。どうして、気づいてやれなかったのだろう。
「田保の親父もあれで、結構女誑しだからな、チッ、好かねぇ」
鶴の呟きに、柄黒は当たり前の事を思い出した。
田保も、男なのである。
「青鬼さん、田保さんはその、どちらを? 男役と女役のどちらをするおつもりなんでしょうか?」
柄黒はまだ、具体的にイメージ出来ていないが、田保の方はどんな風に思っているのだろう。
「さてな」
青鬼は涼しい顔で、爽やかに笑った。
ああ、これは、ホワイトデー迄にまた青鬼に話を聞いて貰う必要がある。もし、柄黒が第二営業部に入ったら、こういう相談を、常日頃から、気軽に出来るようになるのか。
などと、一瞬、柄黒の心に誘惑の陰が射した。
2014/03/10
『柄黒の行方』(孤高のエリート部下×万年教育係上司)
先日、元部下の野平が、めでたく第二営業部マネージャーに昇進した。
人より飲み込みが遅く、怠け癖があり、協調性のない野平は大変な問題児で、第三営業部でリームリーダーを務める田保の手元に居た時は、ああ、こいつは気をつけてやらないと、すぐ辞めてしまうなと思った程の駄目部下だった。
それが何とか第二営業部に行き、第二営業部でも手が掛かると問題になっていたが、今は管理部にいる一本に、昔の縁で散々世話を焼いてもらい一人前になり、ついにマネージャーになった。
手の掛かる子程可愛いの法則で、田保は野平が出世したその週に一本と共に野平を祝って酒を飲んだ。純粋に、野平の成長が嬉しくて酒が美味かった。
泥田坊種、田保信一は会社における「教育者」の地位を確率している。 新人が最初に回される第三営業部で、田保の世話にならない者はいない。田保は一部の経営陣を除いて、ほぼ全ての社員の最初の上司だ。厳しすぎず甘すぎず、しかし個人の特徴を踏まえ、必要な事を順序立てて教えて行く。一人巣立っても、また一人やって来る。永遠に終わらない教育の仕事を、田保は特に嫌とも感じず、十年以上続けて来た。
部下を育てるのは良いけれど、自分の出世にも力を入れたらどうか、と昔付き合っていた女妖から厭味を言われた事もある。立派な役職についた部下からは、何となく申し訳なさそうにされたりと、微妙な問題はあるのだが、田保はどちらかというと野心が薄く、自分で言うのも何だが小物なので、自分の出世に関してはあまり頓着していなかった。
それに、人から何と言われようと、一度面倒を見た部下はどんなに出世しても可愛い部下のままだ。今や稼ぎの中核になっていたり、経営に関わっている部下達もいて、そういう可愛い元部下達が会社を動かし易いよう、協力していると思えば、不満は何も出て来ない。問題があれば、呼びつけて教えてやれば良いのだ。
「田保、ちょっといいか」
営業フロア入口の待合スペースで、客用のソファに腰を掛けていた一本が立ち上がってまっすぐこちらに来た。
第三営業部は、飲み代が会社から規定の範囲で出ている事もあり、会社終わりにチームで飲みに行く事が多い。その日もチーム飲み会をしようと、賑やかに退社し、わいわいする部下達と気分良く営業フロアの廊下をエレベーターの方へ歩いて来たところ。あぁ、残念、と思わず呟くと、頼れる部下である根津を捕まえて素早く金を渡した。
「悪いおまえら、今日はおまえらで宜しくやってくれ」
手を上げて号令を掛けると、えーっ、と一斉に批難の声が上がった。大丈夫だ、金は根津に渡してある、と笑って見せたが部下達の不満顔は治らなかった。今日はたっぷりと、田保に愚痴を吐ける日と思っていた部下達である。田保は基本的に、聞き役の上司だった。
「田保さん、俺、それじゃぁ帰ります」
すらりと背の高い眼鏡が、ぽつりと問題発言をし、その場の空気が凍った。眼鏡はガシャドクロ種の柄黒毅という新人である。
「おいおい・・・」
一本が顔を顰めるのが横目に見え、田保は心中で顔に手を当てながら、言葉を選んだ。
「今日の飲み会は、田保さんに聞いて貰いたい事があって参加を決めたので、田保さんがいないなら帰ります」
それは、皆同じなんだよ柄黒。という事を、どうやって伝えよう。
「お前な、せっかく背ぇ高ぇんだから、ぐるりと一回、仲間の顔を見てみろ」
苦笑する田保の顔を、柄黒は正面からじっと見て、眉を寄せた。
「……」
柄黒が言われた通りチームメンバーの顔を見ると、しらっとした様子である事がわかる。はっとした柄黒に、田保は少し安心して、じゃぁ宜しくなと根津の背を叩き、その場を後にした。
田保は、部下の愚痴を聞き、原因解決を考えて動く。田保に言えば何とかなる問題を解決したいのは柄黒だけではない。はじめの内はわからない事だらけ、これまでと勝手の違う事だらけで、会社への不満が多く出て来るので、これを解決してやるのは田保の仕事だった。
しかし愚痴ではなく弱音の場合は年の近い先輩格に指示を出して叱らせる。叱る人間は一人にする、というのが田保の方針で、なるべく憎み合わない組み合わせもまた考える。大体の部下は年の近い先輩格を叱り役につけるが、問題児については、田保が叱り役になる。
「大変そうな奴だな」
管理部に向かう道すがら、一本が漏らした一言は、柄黒について。
「あれは俺が直接叱ってる」
「問題児なんだな」
「……ああ」
柄黒は問題児。しかし野平と違うところは、優秀過ぎるところ。
「名を柄黒毅という」
「何?!……あれが柄黒毅か?!」
齢は五百の大台を超えており、東洋・西洋それぞれの有名大学を出ている。幹部候補社員として、政府機関から引き抜かれ、入社して来た期待の新人。成績も優秀だ。
「仕事は出来るが、恐ろしく協調性がねぇ」
「想像つくな、あの態度」
一本は田保に、反感を持ったようだ。ふん、と鼻息を鳴らした。
「でも、そうか、あいつが、……うちに来るかもしんねぇのか」
困ったように呟いて、一本は黙り込んだ。その言葉の意味に、田保は少なからず驚いた。柄黒は営業成績が良いので、てっきり第一営業部か第二営業部に回されると思っていたのだ。それが、管理部とは。
そもそも、柄黒は三ヶ月の研修期間、第三営業部に所属するが、それが過ぎたらすぐ第一か第二営業部に送られる事が決定していた。しかし、当の柄黒がまだ自分にはわからない事が多いと言い、第三営業部を離れたがらず、ずるずると残留し、気がつけば研修期間は五ヶ月目に突入していた。そろそろ、移動先の話が本格的に持ち上がっても良い頃だった。
「管理部か、意外だな」
「俺も意外だよ、弥助が急に営業部に行くとか言い出してさ、その後釜にって柄黒を指定したんだ」
弥助は管理部の経験者採用係である。他社から引き抜かれた社員の多い『怪PR社』の求人活動は、求人広告を余り使わない。全てが、人事のマンパワーに任されており、採用係には基本的に目利き力と口説き術が求められる。
「弥助の代わりなんて大役、柄黒には少し早いと思うぞ」
素直な感想を漏らすと、一本はほっとした顔になった。
「だよなぁ、俺もそう思う」
エレベーターから降りると、空間の大きさに、すっと視界が開けた。
管理部は会議室フロアの一角にあり、広い総合ロビーと受付、小さなカフェがある。外部の人間が最初に案内される場所であり、出入りの業者などが商談の時間前に付いた際、休んでいてもらえる沢山のソファが置かれていた。
「おぅ、来たか」
弥助はカフェの喫煙席で、煙に塗れて待っていた。一本も田保も喫煙しないため、二人同時に一瞬息を止めた。
「場所を変えるか」
喫煙はするが、配慮の出来る弥助である。さっと席を立つと禁煙席に向かった。その間に懐から口臭消しの粒を取り出してぱくりとやるところがさすがである。弥助の身が少し近づいた瞬間、あれだけ煙に囲われていた弥助から、香の良い薫りが漂った。
喫煙者を嫌う風のある昨今、気を付けているのだろう。
「弥助」
挨拶に声を掛けると、弥助は、んん、と首を捻って田保を見ると笑った。
「ん、田保か、ゴリラかと思った」
江戸時代は岩かと思った、と良く言われたものである。
田保は眉が黒く鼻の大きい、ハッキリした顔だちの大男である。ムチムチと筋肉質で、力は強いのだが、特別、格闘を習ったわけではないので喧嘩は田保より細身の弥助の方が強い。
ゴリラの田保と、妙な迫力のある弥助、少年の姿で時が止まった一本の三人は一見、動物と野党と子ども、というちぐはぐな組み合わせで悪目立ちする。しかし、この三人は『怪PR社』の入社同期にして古株で、江戸時代からの付き合いも長い親友三人組なのだ。
「久しぶりだな、二ヶ月ぶりか?」
「はぁ、長い出張だったぜ、暖かかったけどな」
「琉球か、いいなぁ」
「今は沖縄ってんだぜ」
田保の問い、弥助の嘆き、一本の呟き、弥助の訂正、とぽんぽん会話が続いてから、今度はぱたりと言葉が消える。一ヶ月に一度のペースで会って話をする三人の間には、会話がなくても安心出来る空気というものがあった。
「営業部なんか行って、どうするんだ」
「さっそく来たな、一本から聞いたのか?」
本題に切り込むと、弥助はからりと笑った。
「俺は納得出来てない」
一本の声は硬かった。
「そうかい、あの説明で十分だと思ったんだがなぁ」
弥助は営利な顎を撫で、三白眼を細めた。それから妙な迫力のある、ぬらりとした目付で下から二人を睨んだ。
「おまえらが何と言おうと、俺ぁ親分の下につく、今こそ恩返しだ」
江戸の初期、岡っ引きの親分、鶴の下には、名前に「や」の付く腕利きの手下が三匹居た。弥助、ヤマネ、山神である。後に大親分として名を馳せた鶴のもとで、三匹は「三つの矢」などと呼ばれ持て囃されていた。「三つの矢」の称号は、独立後の旗としても大いに役立ち、救われたと弥助は語る。
カフェは午後七時を過ぎると、急に混みだしてざわざわして来た。あと十五分ぐらいすると、待ち合わせで入っていた客達が場所を移動して、今度はしぃんとなる事を、三人は知っている。
店員が足早にやって来て、田保と弥助の前に珈琲を、一本の前にオレンジジュースと野菜カレーを出した。
一本がひょいとオレンジジュースを両手に持ったタイミングで、弥助は足を組み直すと、遠くを見ながら口を開いた。
「俺ぁ幕末、親分が身を崩していた事に、まったく気がつかないで、悠長に留学なんかしていてよ、昭和になって日本に帰ってから、死ぬ程後悔したんだ、どうしてもっと、親分の事を気に掛けなかったのか」
「気に掛けたところで、防ぎようがなかったよ、あの山神がついててああなったんだからな」
一本がストローから口を離して、慰めを口にする。ストローから跳ねたオレンジの水滴が、ぽつんと顎についてしまっている。それを見た弥助が抜け目なくナプキンを一本に差し出した。
「弥助、逆に考えろ。鶴さんは聡い人だ、おまえなんかじゃ考えの及ばないところで、何かがあって身を崩したんじゃないか? それをおまえがその場に居たからって、止められたとは限らない」
田保は一先ず、一本の側に立って弥助の説得を試みた。柄黒には、弥助の代わりはまだ務まらないし、弥助が鶴の下に行くのには無理がある。江戸時代にはどうだか知らないが、『怪PR社』では、鶴より弥助の方が歴史が長い。
弥助は二人の考えている事が、手に取るようにわかるという顔をして身を乗り出すと、じっと正面から見つめて来た。
「俺は、罪人から岡っ引きになった口だろう、人格の根本の立て直しが必要で、その分、他のやつらより、親分に世話になったんだ、……立派に留学なんか出来るような身分になれたのも、親分のおかげなんだよ、それなのに、……親分が苦しい時、俺は何の役にも立たなかったんだ」
だから今度は何かしたい、なったばかりの部長職で、成績不振に困っている親分の役に立ちたいのだというのが、弥助の言い分だ。
「だが、柄黒はまだ、おまえの後を継ぐには早い」
田保は意識せず、苦い声を上げていた。
「しかし、いつまでも第三に留まらせるわけにもいかねぇ」
む、と何か引っ掛かったのは、弥助の言葉に少しの軽蔑があったからだ。一つ一つの案件が小さく、細々しており、常にチームで成績を数える第三営業部が、新人を教育するためのゆりかごである事は社内に広く知れている事実だ。しかし場合によって、第三営業部のように細々した案件を数多く扱っていく方に向いている者もいて、そういう者はずっと第三営業部に留まる。そういう者の事を、万年第三と馬鹿にする者が、社内には居る。向き不向きというか、大きな案件と小さな案件で、得意不得意があると考える田保は、端から小物であるからと割り切っている自分は棚に上げて、第三に長く留まっている者を特に能力の至らない者とは思っていない。
しかし、弥助は違う。第三から動かない者を、向上心のない者だと見下している。その冷徹な判断が、恐らくスカウトの現場に生きているのだろうが、田保はいつも、むっとしてしまう。
「まぁまぁ、柄黒本人はまだ第三に居てぇって言ってるんだし、弥助もそんなすぐ移動なんか考えねぇで、もうちっと時間に余裕を作ろうぜ、今落としに掛かってる奴だって居るわけだろ?」
一本が弥助と田保、二人の仲を取り持つような発言をすると、弥助はふっと煙を吐くような口で息をついた。
「今、落としに掛かってる奴が揃えば、第一は最強だ、赤ノ旦那が治めてた頃より、凄ぇ成績を出せるようになるはずだ」
弥助の言葉に、一本と田保は顔を見合わせた。過去、赤鬼の元で動いていた鶴の手下である弥助が、どうして赤鬼に張り合うような言い方をするのか。同じ鶴の手下、山神も赤鬼にあまり良い顔をしないところを見ると、過去に何かあったのだろう。
だが、今は江戸時代の赤鬼や鶴、その手下達の微妙な心情を察するより、田保の手元にいる可愛い問題児、柄黒の移動先こそ一番の関心事である。出来たら、柄黒がきちんとその高い能力を発揮出来る所に送り込んでやりたい。
「田保、来週の三日間、柄黒を借りたい」
今日の本題のようである、申し出が弥助の口から出た。柄黒は今月の予算を既に達成し、時間にはいくらか余裕がある。
「構わないが、苛めるなよ」
心配そうな顔で、返事をすると弥助はにたりと笑い、さぁてどうしよう、と意地の悪い声を出した。
シトシト雨の降る小江戸の町を、柄黒と二人きりで歩いている。いつもは行列で買えない鰹節屋の鰹節焼きおにぎりが、今日は並ばずに買えた。
「歩き食いなんて」
上品な顔を歪ませて、柄黒が呟くのを無視しておにぎりに齧り付く。甘く広がる米と香ばしい鰹節のしょっぱさが混ざり大変美味だ。
「美味しい」
不満を口にしていた癖、柄黒は素直に田保に倣っておにぎりを頬張ったようで、横から可愛い感想が漏れるのを、田保は愉快な気持ちで耳に入れた。
「俺、田保さんの元でずっと働いてたい、です」
三日間、弥助のもとに行ってから、少し大人びた柄黒は、何か思うところがあったのか、ぽつんとその頭を撫でたくなるような言葉を口にした。田保は少し照れて下を向いたが、柄黒の望みが叶わない事を良くわかっており、それを少し寂しいと思っている自分の気持ちにも気がついた。
柄黒は入社初日から、周囲のやりように片っ端から反発してみたり、三日目でチーム一大きな仕事を取り、出過ぎた杭になってみたりと、悪気はないのに手が掛かった。悪気があれば、説き伏せれば良いのだが、柄黒はある意味正しい面も備えており、より厄介だった。だから、常に田保が隣に立ち、柄黒の巻き起こす騒動をせっせと鎮めて回った。柄黒の向かうところに、いつも田保がついて回り、柄黒と周囲の距離を、懸命に測り、程よさを探した。
「これまで、俺は一人か、嫌われるかでしか生きて来なかったので、今の、田保さんの傍で生きていられる環境が、とても心地良いんです」
傘越しで顔が見えない。さぁさぁと静かな雨の中で、柄黒の声にだけ温度がある。
「五百年間、ずっとか」
雨の中の小江戸は、時の止まったように静かだった。車も無言で通り過ぎる。
「四度妻を貰いましたが、四度とも嫌われました」
柄黒はすらりと背が高く、顔も悪くないので、女受けしそうだと思ったのだが、気難しい性格は、近くで一緒に居るのには向かないようだ。
「五度目の妻には好かれるかもしれないぞ」
適当に励まして、いっそ次の妻は男にでもしたらどうだ、あ、それじゃぁ妻って言わねーか、などと冗談を飛ばした。田保や一本は男はからきし駄目だが、弥助は一時期、大商人の若旦那に派手に迫られ、彼との間に土子を設けた事もある。弥助の親分である鶴は陰間として、男に春をひさいでいたぐらいだ。
「男の……」
柄黒は冗談に笑うでもなく、返事に困った風で声を途切れさせると、それ以降は黙った。
西方面への飛び穴は、川越の駅前にある。
川越駅まではバスで7分掛かるので、雨の中傘を差してバス亭に向かっているところだった。
最近は一人で契約まで漕ぎ着ける事が増えた柄黒だが、クレーム処理については、まだやり方が分からないらしい。田保が同行して何とか収める事になった。心なしか落ち込んでいる柄黒に、田保は庇護欲をそそられた。何か、優しくしてやりたいが、何も思い浮かばなかった。
バス亭が見えて来て、丁度バスが現れた。
おい走るぞと声を掛けて二人して走ってバスに乗り込み、二人席に腰を掛けてバスが出る。バスに乗ると、自分が雨に少し濡れていた事がわかった。足元や二の腕に、しっとりした感触。
ふいに、手が何かで重くなり、それが柄黒の手だとわかり数度瞬きをした。バスの二人席で、何の断りもなく、上司の手を握る部下に田保は違和感を覚えた。
何だよ、と声を掛けたかったが、柄黒はピリピリと、緊張した空気を振り撒いていたため、田保は大人しくその手を握らせたまま、黙ってバスに揺られる事にした。
「田保、少しいいか」
この間、一本に呼び止められた時と、全く同じ状況で今度は青鬼に声を掛けられた。営業フロア入口の待合スペースで、また部下達の不満の声が上がった。変わっていた点は、柄黒が率先して仕方がありませんよ、お金はあるんですから俺達で楽しくやりましょうとその場を収めた事だ。
第二営業部、部長室に呼ばれて、備え付けのソファに腰をおろすと、青鬼は穏やかな顔で、貴方は相変わらず部下に慕われているな、と一言世辞を述べた。
用件は恐らく、柄黒の行き先について。
「この間、弥助の仕事に同行させたと聞いてな」
青鬼は柄黒を、第二営業部にと考えており、その事を前から田保に訴えていた。
「彼を、管理部にやる気じゃないだろうな」
あぁ、圧力を掛けられている。
とわかって田保は少し眉間に皺を寄せた。
「俺の決める事ではありませんから、わかりません」
「おまえの意思は柄黒の意思だろう、随分、惚れ込まれていると聞いた」
いつもは深く捉えないで居られた惚れ込まれている、という言葉にぎょっとした。この間バスの中で、手を握られたせいだろう。
あれは、クレーム処理に向かう道で心細かったからだと勝手に納得してみたが、変な意味があった線も拭えない。男女の関係以外も多分にある、むしろ大妖怪に限っては、こちらの関係の方が多いのではないかと思える世の中を知っている田保としては、落ち着かない出来事だった。
「いや、それはないです、俺はこんなごっつい男だし、柄黒も女っぽくは決してないから、俺達に限ってそんな事は・・・」
「何を言っているんだ?俺はただ上司としてのおまえが、部下としての柄黒に好かれているのかと思っていたが」
青鬼は革新犯の顔をして、にやりとしたので田保の顔は一瞬でかっと赤くなった。
「いや、その、こないだバスの中で、手を・・・握られたものですから」
「おぉ、そうだったのか、驚いたな、まさかお前たちの間に、そういう関係があったとは」
驚いたと言いながら、目をキラキラさせている青鬼に、田保は一種恐怖を覚えたが、相談出来る人間が他に思いつかず、悩んでいたのもあってぺろりと白状してしまった。
「で、どちらが念者だ?」
「は?!」
一瞬、呆けたのは余りに話が飛躍したからだ。田保の頭に、過去、妙な趣味を持っていた悪魔に、戦場で無体をされた記憶が蘇った。男同士というのは、痛いものである認識が、田保にはある。
「いや、俺は、そういうのはちょっと、考えないですが」
思わず視線を反らしてしまったところを、青鬼の手が頬にあたり、気がつくと真正面で見つめられていた。青鬼の男らしく整った顔に惚けていると、その男前が、すいっと顔を近づけて来た。距離数センチというところで、ガードが甘いぞと囁かれ、混乱した。
どういう事かと問い正そうとして、自分達の姿がどのように映っているのかが気になり、ブラインドが上がったままの、営業部から丸見えの部屋の中である事を思い出した。
慌てて脇を見ると第二営業部の、狼山と傘本がまだ残っており、ぎょっとして青鬼を睨むと青鬼はにやにやしていた。噂にでもなったら、どうするのか。意味ありげなシーンを作られてしまった。
「俺は美形専門の念者だが、おまえに目を付けた柄黒の気持ち、わからないでもないぞ、おまえは、素朴で猛々しいタイプを好む者の目で見ると、なかなか魅力的だと思う」
「・・・いや、あの、俺は弥助に言わせると岩かゴリラだそうで、魅力的だなんて女にも言われた事がない」
「ああ、それは、女からしたら少し華やかさに欠けるだろう、当たり前だ、おまえは女にもてるタイプじゃないと思う」
褒めたり貶したり、わけがわからない。青鬼と顔を合わせていると、またいつ正面から顔を近づけられるか分からないので、只管脇を見ていた。第二営業部の部長室からは、廊下も良く見え、そこに柄黒が居るのがわかった。あ、と思わず声が出そうになった。
先程のシーンを、見られてはいないか。
「うぉっ?!」
今度は本当に声が出た。青鬼がまた顔を近づけて来ていた。近くなって不愉快になるタイプの顔ではないが、男色ッ気のない田保には堪える事だった。
思わず青鬼の胸を押して、嫌がると青鬼は笑って、体を離すと透明な壁に近づき、シャッとブラインドを降ろした。
「柄黒に見られては、おまえも落ち着かないか」
「青鬼さん、悪いが俺は本当に、男には一切興味がない」
「ほう、もったいないな、おまえはムチムチした良い体をしているし、顔のパーツも大きくて男性的な色香がある、俺の趣味じゃないが」
自分を性の対象にされて、ザラザラと背骨に嫌な感じを覚えていたが、趣味じゃないと言われて今度は少し腹が立つ。そこで、ドンドン、と激しいノックの音がして、青鬼が早かったなと呟いて部長室の戸を開けた。
「柄黒……」
青鬼を睨みつけながら、そろそろと部屋の中に入って来た柄黒に、田保は呆然とした顔で、おまえ飲み会は? と声を掛けた。忘れ物があって、戻って来たんです、と返事をしながら、柄黒の顔はまだ険しく青鬼を見ている。
「言っておくが、誤解だぞ」
青鬼は開口一番に、弁解した。
「信用出来ません」
「弱ったな」
弱ったと良いながら、全く弱った様子のない青鬼に、田保はまた少し腹が立った。
「おまえが管理部に行くかと思っていたのにな」
青鬼は聞えよがしに呟いて、ちらりと田保を見た。
「管理部になんか、行きません、ずっと第三に、田保さんの下にいます」
言い切った柄黒に、田保は慌てた。弥助は柄黒を褒めていたのに。なかなか筋が良いと言っていた。
「第三の、ただの営業マンが、俺に勝てると思うのか」
「っ」
青鬼はふんと鼻を鳴らし、厭味ったらしく腕を組んだ。
やっと、田保は青鬼の考えがわかった。
青鬼は、自分が田保に気があるように見せて、自分の田保へのちょっかいを防ぐために柄黒が第三に残るか、第二に来て自分を見張ると言い出すよう導いている。第二に来てしまえば、自分が田保に手を出すなどという事は、ありえない事だとわかるはずなので、まずは柄黒の身柄を第二に移したい。そのために、田保に気のある素振りをしている。
しかし、この策は前提として……。
「どうして、わかったんですか」
柄黒が低い声で、青鬼に問うた。
「俺が、田保さんを好きだって事」
「おい待て」
慌てた声を上げた田保を無視して、青鬼と柄黒は睨み合った。
「俺も前から目をつけていたから、同じ獲物を狙う者の目はわかる」
くっ、と声を上げて、柄黒は青鬼と田保を交互に見た。そして、拳を握った。いや、騙されるな、柄黒。
「わかりました、俺は、第二に行きます、第二で貴方を見張り、田保さんを貴方から守る」
青鬼は満面の笑みを浮かべ、そうかと頷くと田保を見た。
「聞いたか田保、彼は第二に来るそうだ」
新しい玩具を手に入れた子どものよう。
「柄黒、おまえ、そんな決め方……っ」
田保は呆気に取られて、注意をする事が出来ずにいたが、これは由々しき事態である。どうやって、説き伏せようかと頭を働かせるが、上手く考えがまとまらない。
そんな間にも、柄黒の気持ちが、どんどん固まって行ってしまうような気がして焦った。もう何を言っても聞いて貰えないような気がする。
「ちょっと待ちな」
そこに、良く通るすっきりした声が響いた。
開け放しの戸から赤鬼と鶴が顔を出した。見るからにげっという顔をした青鬼に向けて、人形のように整った鶴の顔が、凄みのある笑みを浮かべた。赤鬼と鶴の他、弥助も居る。三人が部屋に入って来ると、青鬼はハァと深い溜息をついた。
「このやり方はフェアじゃねぇ」
鶴は大親分であった頃の、ギラついた目で部屋の中を見回すと、柄黒を見つけてにっと笑った。
「安心しろ柄黒、この青ノ旦那はな、こっちに居る赤ノ旦那の色なんだよ、二人はそりゃぁもう真剣に愛し合っててよ、互いしか見てねぇ……、なぁ両旦那?」
赤鬼が頷き、青鬼が下を向く。
「だから柄黒、おまえは何も心配する事ぁねぇ、自分で行きたい方に行けば良い」
恐らく、青鬼が事を起こすのを、現行犯逮捕で取り押さえるために待っていたのだろう。このタイミング。
柄黒は感動で、震えている。田保は、あと少し早く来てくださいよ大親分、と生娘のような気持ちになっていた。
「弥助」
大親分は今度は、今は上司にあたる己の手下を呼んだ。
「へぇ」
弥助は自分の立場も忘れて、すっかり手下の心で返事をした。
「おめーもだ、俺ぁしっかりやってるつもりなんだが、成績がおっつかねぇ、これは確かに情けねぇ、かつての子分に心配されて、まったく悔しい事だがよ、何れ結果は出して行く、俺を信じて、早まった事はしてくれるな」
「でも、大親分」
「やりたい事をやってくれ」
かくん、と弥助が項垂れて、部屋には数えて二匹の、項垂れた妖怪が出来上がった。赤鬼は柄黒の肩をぼんと叩き、青鬼の頬をぐいっと抓るとその場から去り、鶴がその後に続く。弥助が、おい行こうと声を掛けて来たので、田保は項垂れ妖怪二人を置いて、その部屋を後にした。
後日、柄黒は弥助の補佐に付いた。それからすぐ、第一に入る事が決定している、ヤマネという営業マンと、第二に入る事が決定している波助という営業補佐が第三営業部に入って来た。ヤマネはあのヤマネである。一体、どこから見つけて来たのか。三つの矢が第一に揃おうとしている。弥助は柄黒が仕事を覚え次第、第一の営業に入ると息巻いており、田保は『怪PR社』の行く末は安泰だなどと老年寄りのような気持ちになった。
問題なのはあれから、田保は柄黒に何度か個人的な飲みに誘われるようになった事である。五人目の妻は男にしたらどうだ、などとあの日、冗談で言った事が本当にならぬよう、気をしっかり持たなければ、と密かに構えている。
2:10 2013/12/08
『海のイロ』(危険色男×強気女子)
泉岳寺の裏にある竹林で、その子は生まれた。明け方まで男同士の荒々しい性交が行われていた寝屋に、朝日と共に強いエネルギーが発生した。神々の知らせを受け、すぐに駆け付けた。
我々が現場に着くと、二人の土親は恥ずかしそうに乱れた身を正しながら、宝箱の上を降りた。その宝箱は、よく中堅の妖怪同士が愛用する何の変哲もない木箱で、側面に数箇所、猫が抓を研いだ跡があるばかりでなく、所々得体の知れない液の沁みがついていた。こんな汚い箱の中に、本当に、神格を持つような大妖怪が生まれているのか。しかし、生まれていた。
後に洋次郎と名付けられたその子は、玉のようにつるりとした頬を涙で湿らせ、ぱかんと口を開けて私を見ていた。形の良い目鼻を少し寂しげに曇らせ、良く通る優しい産声を上げていた。箱の中に半分程敷かれた白っぽい土の中、もぞもぞと可愛く蠢くその子を一目見て、私はその子を愛しく思った。そして、衝動的に産みの親より前にその子を胸に抱いた。土の中には、恐らく土親の一方のであろう白い羽が大量に紛れていて、その子の頬や胸、腕や脇を包んでいた。これだけの羽を毟る作業は、相当痛みを伴ったろうと思い、やっとそこで罪悪感に襲われたが、それは後の祭りだった。
振り返ると、白い羽の持ち主、土親の一人、鶴 永吉(つる えいきち)と目が合った。寂しそうな悔しそうな、不安げな顔をしていたが、それが貴方の宿命なのだと心の中で言葉を投げ、私は笑った。頭に、私の産みの親、蛇種の女の顔が蘇った。あの女も、産まれたばかりの私を奪われた時、あんな顔をしたのだろうか。
親より強く産まれるこどもが親を殺さぬよう、神々は役人『育師』を作った。倭国には私や洋次郎のように産まれる数日も前から、神々によって誕生を予知され、祝われる大妖怪が数十年に1度、出現した。その力の強さは貴重であったが、同時に脅威でもあった。だから育師である私には、洋次郎を保護し、育てると同時に、洋次郎を監視し、躾ける義務があった。
「洋次郎、洋次郎!」
よく通るはっきりした声で、中庭を異様に綺麗な顔をした岡引、洋次郎の土親、永吉が駆けて来る。日暮れの中、洋次郎は相撲遊びを終え、衣服を直していた所だった。私と洋次郎の暮らす屋敷は、洋次郎の二親が暮らす泉岳寺の竹林から南に歩いて半刻程の所にある貴船明神の裏林、立派な門構えに門番が付いて、でんと建って居た。
洋次郎は永吉の姿が見えると、慌てて私の足にしがみつき、ぷいっと永吉から目を逸した。一方で永吉は、あっという前に、私と洋次郎の元に来た。
「永吉さん、怯えていますので」
怯えるべきなのは永吉の方なのだが、この可愛らしい新米親は、我が子の異常をわかっていない。己が嫌われているのだと思い、傷ついた顔をして頷いた。
「わかってるよ、これ以上は近づかねぇ」
洋次郎は永吉への興味と、喪失の予感に怯えていた。砂細工を手で持つ、恐怖感。洋次郎が永吉に抱いていたのは、壊してしまいそうで怖い、この気持ちのみであった。しかし産みの親が憎いはずもなく、洋次郎は困惑していたのだ。
「なぁ洋次郎!」
証拠に、永吉が洋次郎に声を掛ける度、ぎゅっと私の足に捕まる洋次郎の腕の力が強まった。
「なぁ、……どうして俺を怖がるんだ?俺はこんなにおまえと仲良くしたいのに、おまえには俺の成分が入ってるんだぞ?おまえは俺から産まれたんだぞ、なぁ、頼むよ、少しくらい口を効いてくれ」
永吉は毎日毎日、朝夕、会いに来る。乳飲み子の頃は、永吉の腕に収まる事もあったが、己の足で動き回るようになってから、洋次郎は永吉に近づかなくなった。
永吉はそれでも洋次郎に会いに来る。時々、もう片方の土親である赤鬼 実道(あかき さねみち)も伴ってやって来た。しかし、二人を前にして、二人がいくら洋次郎を呼んでも、洋次郎は頑なに私の足から離れなかった。
「俺もここで暮らしちゃ駄目かなぁ」
ある日、永吉が相談をしに来た。
「下男のような仕事でも良い、何か役に立ってみせるから……」
思いつめたような顔をして、着物の裾をぎゅっと掴み、耳を真っ赤にして下を向いて、ああ、限界なんだなぁ、と私は感じ取り、洋次郎に目配せした。洋次郎は私に良く躾られていたので、別室に去って行き、込み入った大人の話を聞かないよう気を遣った。
そんな私達のやり取りを、永吉は羨ましそうに見た。
「なぁ、俺の子なんだよな?俺と、実道とで作ったんだよな、あいつ」
力なく、ぽつんと、確認されたので頷く。
「確かに貴方々の成分で出来ています、特に貴方の成分が強く、あの子は鶴種です」
「……っ、……わかるよ、顔が似てるもんなァ」
ついにボロボロと泣き出した永吉を、私は申し訳ないような、気の滅入るような思いで眺め、溜息をついた。
「育てたいですか?」
「当たり前だっ……、どうして、こんな酷い事が出来るんだ、……アンタが強いのは良くわかる、この屋敷に居る奴ら全員、俺なんか一捻りなんだろうな、……それでも、あいつは俺の子なんだ……っ」
「お返しする事は出来ません」
鋭い喧嘩ごしの声色で言い切り、私は永吉を言葉で突き飛ばした。
「あの子はもう、私の子です」
そして、恐らく、言ってはいけなかった言葉を吐いた。神から選ばれた親は私であり、永吉には物理的に洋次郎を育てるのは無理で、洋次郎も私に懐いている。この事実に、私は油断していた。
私は永吉をとても下に見ていたのだ。八百年以上の時を生き抜いた大妖怪であるとはいえ、無害な鶴種である。何か出来るようには思えなかった。しかし、永吉は私を格闘術で気絶させ、この日、手薄だった屋敷から洋次郎を攫った。
愛しい子どもの喪失。私に甘え、私を愛し、私を尊敬して、私の言葉を信じ、すくすくと育っていた小さな生き物が、急に消えてしまった。もし、産みの親に心を乗り換えられたら。私と洋次郎の縁よりも、実の親である永吉との縁の方が、洋次郎には太い繋がりだ。私は、洋次郎を誰にも取られたくないと思う自分の気持ちに気がついた。もし、洋次郎が永吉に心変わりしていたら、私は永吉を殺してしまうかもしれない。
永吉と洋次郎は結局半年間、行方知れずだった。妖世で同心の職に付いていた実道も、事件から五日後に免職処分を受け行方を眩ませた。この処遇に私は腹を立てた。まるで、実道を二人の元に送り出すようなものではないか。内部に、裏切り者がいる。信じられない事だが、私から洋次郎を奪った憎き永吉に、世間は同情的だった。
親子の縁は百年で切れる。短い間しか惹かれ合えない間柄だから、限りある時間を共に居させてやろうという発想だ。
私は洋次郎の居ない、冷えた淋しい屋敷の中、膝にのせた洋次郎の着物を撫で、涙を堪えながら、呟いた。
「何故……」
百年で醒めてしまう親子愛が、何故、こうも慈しまれるのか。親子は百年で、互いから興味を無くすように出来ている。期限の切れた親子愛は、次の繁殖に害を為すものとして、今度は嘲笑の的となる。しかし、私に洋次郎との血の繋がりはない。私は洋次郎が百を過ぎても、洋次郎を愛しているだろう。
三人の出奔から七日目、私はついに自律神経をやられ、情緒不安定になった。そして、身勝手な土親どもを捕らえたら、きっとこの手で殺してやろうと考えた。あの綺麗な岡引の永吉は、罪人の小屋に放り込み、汚い罪人どもに散々陵辱させてから、四肢を引き裂いてやろう。永吉の監視を怠り、永吉がこのような凶行を起こすのを止められなかった実道には、永吉の無惨な姿を見せた後、鋸で首を落とし首だけを封印し無限の苦しみを与えてやろう。
妄想を膨らませて、自分を慰める。
そうでもしなければ、心が耐えられなかった。本気で探せば、見つからないわけがないのだ。捜索隊も世間の目も、グルになって私から洋次郎を隠している。私は誰も頼れず信じられず不眠症を患い、夜中の徘徊を始めた。闇の中を歩いていると、私はこの世にたった一人きりの、無意味で寂しい存在なのだという暗い気持ちに支配された。
そしてある日、思い立って実道と付き合いの長い私の父親、青鬼 涼衛門(あおき りょうえもん)を呼びつけた。涼衛門は齢千を超える堂々たる鬼種だが、私の方が、妖怪としても役人としても格上である。私は涼衛門が何か私を諌めるような言葉を吐いたのを皮切りに、涼衛門が私に隠している事があると難癖をつけ、涼衛門を拷問した。ボロボロの涼衛門を眺め、私は私の中に産みの親への愛が欠片もない事に気が付いた。そして安堵した。この男は私の親であって親ではない。
来る日も来る日も涼衛門を甚振った。
その悲鳴が外に漏れ出すようになった頃、三人はひょっこり、戻って来た。後で聞いた話では、三人は可哀想な涼衛門のため、戻ったらしい。信じられない事に、涼衛門は私に捕らえられる前、実道に向け救援を求める文を送っていた。涼衛門は、己の身が実道に対し人質となることを分かっていた。涼衛門は実道をおびきよせ、私に、洋次郎を取り返させるため、私の元に来ていたのだ。涼衛門は、洋次郎を奪われて気の触れた私を救おうとしていた。それは恐らく親の愛。
……三人の居場所を知った私は、しかし洋次郎を取り返すことを諦めた。涼衛門が私を助けたように、いつか、永吉と実道が洋次郎を助けるかもしれない。洋次郎のために、二人を生かそう。
「亀の旦那、いらっしゃいましたよ」
がやがやした茶屋の裏口で、店員が私のため、私の恋人を呼んだ。品川にたった一軒だけの陰間茶屋『亀屋』は、元は芳町にあった有名陰間茶屋から暖簾分けし、人世と妖世の両方に向けて店を開いている大茶屋だ。寺の多いこの地で、坊主達を上客に大層賑わっており、酉の刻には広間が客で一杯になる。
私は飾り気のない格好に、お粉と紅だけ上物をつけて裏口の井戸に腰を掛け、恋人、亀 長蔵(かめ ちょうぞう)を待った。
「海」
よく響く深みのある長蔵の声が、裏口の玄関から私の名を呼んだ。長蔵は妖怪らしく髷のない野放図な髪型をしていたが、それがよく似合って粋に見えた。無造作な黒髪が鼻に掛かって色っぽい。歌舞伎化粧のように整った大きな目が見栄え良く、赤い唇や小ぶりな鼻もひっくるめ、長蔵は派手で色男だった。着物も季節に合わせて上等なものを揃えるし、女を連れての遊び方が、とても巧かった。
「少し痛い思いをさせるかも」
すぐ近くに来た長蔵の身体から、爽やかな香の薫りがし、私は頬を染めた。長蔵程の良い男が、どうして私のような大して美しくもないただの女を相手にしてくれるのか。
「別に良いよ」
それは恐らく、私が長蔵に与える事の出来る安心感。
「私は簡単には死なないから」
私は、強く産まれた。
身体に長蔵の腕が回ると、言い知れない幸福感で全てを忘れた。可愛い洋次郎の事も、忘れられた。
「ぅ゛……っ」
強い痛みに思わず悲鳴を上げ長蔵を抱き返す。
長蔵は亀種といい、生き物の魂を吸う妖だ。
普通は誰からどのぐらい魂を吸うか調整出来るそうだが、愛すると加減が出来なくなり、強く愛する者程、早く吸い殺してしまうという。
全身の骨が、じゅわりと溶けるような感覚に目の前が白む。長蔵が背中を摩ってくれたが、身体の芯が泡立つような熱い痛みを覚えている中、何の慰めにもならなかった。
「苦労掛けるな」
私の痛みを察し、長蔵が離れるとやっと痛みが引いた。長蔵は私と、長蔵の力が及ばない腕二つ分の距離を取った。
ふとして長蔵を見てしまった。すっきりした顔の慈愛に満ちた目が私を捕えていた。長蔵は過去、何人もの恋人や伴侶を愛で吸い殺している恐ろしい男だったが、私はちょっとやそっとの事では死なない莫大な妖力を持って居た。
私は私の余裕を伝えるため、するりと長蔵に近寄ると、長蔵の腕にピタリとついた。途端に、また骨が軋むような痛みが全身を駆け巡り、長蔵が私を愛しく思ったのがわかった。背中を撫でられて口付けされると、ふわふわと足元が温かくなる。
「痛いか?」
長蔵はいつも不安そうに聞いてくる。私はその度に「痛いよ」と事実を伝えた。
「もっと、痛くして」
しかし私は耐えられる。この痛みは私が長蔵に愛されている印なのだ。
初めて長蔵と交わった夜、骨の溶ける痛みと肉体に受ける喜びの板挟みで気を失った。『亀屋』の地下にある狭い休息室で、私は生まれて初めて、産みの親達に感謝した。私を産んでくれた事、長蔵に愛される強い女に作ってくれた事。産みの親は偉大だった。
「海」
耳を浸す、低く響きの良い声で、長蔵が私を呼んだ。この頃、痛みはもはや骨の中を空にする勢いで、私を襲って来ていた。近いうちに死ぬと予感していたが誰にもそれを言わなかった。
私が死にそうだとわかったら、長蔵は私と距離を置くだろう。
暗く陰っている顔色、やせ細った体つきがわからぬよう、私は我が身に実装を施し長蔵と会った。長蔵は以前より用心深く私を観察し、辛くなったら別れるから、絶対に無理をするなと言った。
それから、土子を欲しがる私を慰めるように、陰間にするために買われて来た見目の良い子どもを宛てがった。その子は草太といい良く私に懐いた。
妖が消える瞬間は、よく煙や風や夢に例えられるが、私の場合は砂のようだった。まず実装がパラパラと崩れ、弱りきった醜い中身が晒された。丁度、『亀屋』の二階で、長蔵と昼寝をする約束があり、段を登ろうとする所だった。何人もが同時に上り下り出来るような広い作りの階段で、右側にあった大きな窓からは陽の光が一杯に降り注いでいた。
段を登ろうとした私に、長蔵が手を差し伸べようとしたその時、私は崩れて消えた。
目の前で起こった出来事の衝撃に目を見開き、乱暴に私を手繰り寄せようとして腕を伸ばした長蔵の、何か悲鳴に近い大きな呼び声が耳に残った。
それから時が経ち、私が甦生されたのは昭和初期、愛しい洋次郎の手によってであった。後で聞いた話だが、永吉と実道は洋次郎を江戸から少し離れた川越の地で育てていた。川越迄、江戸の噂は良く届く。洋次郎は私の訃報を聞き江戸に戻ったという。
永吉に優しく育てられたためか洋次郎は長蔵を恨まず、私を復活させる事を私の死に場所に誓うだけ、誰の事も責めなかった。
私は長蔵に命を吸われながら、十年以上生きた大妖怪であったため、永吉にはもちろん洋次郎の力を持ってしても、簡単には復活させる事の出来ない難易度の高い生き物であった。次第に洋次郎は己の能力を高める事に夢中になり、その過程で悪魔と親交を深めた。
悪魔の師に言われるまま悪魔の国ガリアに渡り、悪魔の恋人を作ると、洋次郎は私や土親達や、倭国を捨てた。生まれながらに定められた、倭国守護市民の役目を放棄し、悪魔の国ガリアで一級市民の地位を得た。
さて、洋次郎は誰の所為で狂ったのか。長蔵に夢中になった私の所為か、私から洋次郎を攫った永吉の所為か、悪魔に魅せられた洋次郎自身の所為か。誰の所為でもない、必然だったのか。
洋次郎はガリア国の上司に命じられるまま、土親である赤鬼を葬り、もう片方の土親である永吉に陰間業を営ませ金を作った。この陰間業の所為で、永吉は気の可笑しい客に気に入られ、連れ去られて身を滅ぼしたという。
今、『亀屋』の大階段には悪魔達の好みで赤絨毯が敷かれており、私はそこで甦った。すぐに長蔵に会いに行こうとした私を、洋次郎は叱った。私は長蔵に殺されているのだ。愛し合っていたとしても、被害者と加害者。接近は二度と許されない。しかし、あれは私が私の体力を隠蔽して起きた不幸な事故だった。何度そう説明しても、洋次郎は聞く耳を持たなかった。
私はしばらく洋次郎と暮らしたが、長蔵への想いが日に日に増して、ついに洋次郎の目を盗み、『亀屋』を飛び出した。
長蔵に会いたい。長蔵の居ない『亀屋』で、長蔵の思い出に縋り生きていくなど耐えられない。長蔵に会う事を禁じる洋次郎は、もう私の可愛い洋次郎ではない。
探し出した長蔵は戦地に居た。
妖怪の世界には、男女の差は余り無い。女でも能力があれば戦士として優秀な働きが出来る。私は傭兵の職につくと長蔵を追った。魂を吸う長蔵の力は、戦地でこそ華咲く。長蔵は目覚しい活躍をしており目立ったため、すぐに巡り会う事が出来た。
むっと粘りつく湿気と熱射が襲い来る南の島、波の荒い満潮の海辺で、甲冑を洗う見覚えのある大男を見つけた。薄灰に藻色の不思議な模様が入った甲冑を、熱心に擦る背に声を掛けた。
振り向いた長蔵は私を見ると真っ青になり、甲冑から手を離した。見る間に、恐らく特注であろうお洒落な甲冑は海に攫われ、ぷかぷかと沖に浮いて行った。一方、長蔵はその場に根づいたよう動かず、私を凝視していた。
私は長蔵に駆け寄ると、洋次郎が復活させてくれた事、また長蔵と共に生きたい事を告げ、長蔵を抱き締めた。長蔵は私を受け止めると、条件反射のようにぎゅっと抱きしめ返し、背中を撫でた。それから丁寧に私の身を己から引き剥がすと、私の頬を叩いた。
苦しそうに、息と声を丸めてなるべく感情が漏れぬように気をつけて、長蔵は私に、この先ずっと何があっても長蔵が私を愛す事は無い事、私に二度と長蔵の前に姿を見せないで欲しい事を告げ、この地を立ち去るよう言った。長蔵の目は、私に強く失望し、今後、決して私に心を許さぬ決意を宿していた。
自然と、涙は出て来なかった。それ程のむごい苦しみを、私は長蔵に与えてしまったのだと、自省するばかりだった。
その日、傭兵の宿舎に戻ると洋次郎がいた。横に、私の後に復活させられた、私と同じ長蔵の寵愛を受けた影間、白百合も待ち構えて居た。白百合もまた、長蔵に拒絶されたらしく、不貞腐れて居たが、同じ想いをした私を見つけると愉快そうに笑った。洋次郎は長蔵をガリアに引き入れるため、白百合に色仕掛けをお願いしたそうだが、作戦は失敗。
翌朝、長蔵は島から姿を消した。単体の戦力として登録されている長蔵の移動は早い。これまで月に1度は耳に入って来た噂もなくなり、長蔵は完全に行方知れずとなった。
当時、急に消えた長蔵の事を戦死したものだと考える者が多数で、洋次郎に下されていた長蔵に関する任も無くなった。私と白百合は長蔵を追う旅に終わりが来た事を、長蔵の死と錯覚して嘆いた。洋次郎は清々していたようだが、白百合は私と同じ哀しみを抱えていた。私は白百合と手を取り合って泣いた。
それからの私達は洋次郎の任に合わせて動き、倭に対する裏切りを重ねて行った。私達が追われる身になったのは、終戦の近づいた真冬。新雪を私達の血がポツポツと赤く染め、寒さは白百合の足指を一本と私の手指を二本奪い、洋次郎の綺麗な顔に赤切れを無数作った。追跡者はシャカシャカと密やかな足音で迫り、急に近づいて来ては私達を負傷させていった。
三日三晩、攻防を繰り広げると、私達はいよいよ追い詰められた。洋次郎の先導でユーラシア大陸の山間部。強力な王の治める中立国、李に逃げ込むと、やっと追跡者の攻撃が止んだ。弱った妖力で100mごとに移動を重ね、辿り着いた私達を李の住民は保護した。
およそ二ヶ月の滞在で、白百合の足指と私の手指は生え揃い、私達は李を出られる身体になった。しかし出発日の前日、事件が起こった。
私達は李帝に呼び出されたのである。
李という国の地表は雪で覆われ、凍てつく痩せた大地が物悲しい。対して、地下世界は暖かく豊かだった。李帝は自らの居城と中央政治組織と、飛び穴だけを厳しい地表環境に置き、住民に過ごしやすい地下を使わせていた。地下世界は二層まで出来上がっており、妖だけでなく、迷い込んだ人間も住んでいるようであった。
私達は地下二層にある難民支援施設で一時保護され、それから一層の宿に移った。二層のごみごみして力強い、少しだけボロな雰囲気も魅力だったが、一層の洗練された都市の景色に私は惚れ惚れした。そこは悪魔の作り上げた街に良く似ており、洋次郎に連れられて訪れたことのあるガリアの街並を彷彿とさせた。戦いを好まぬ悪魔達を受け入れていたら自然と磨かれて輝きだしたらしい。
李帝に呼び出され、訪れた地表の中央政治施設は大陸的な雰囲気のどっしりした建物が揃い、私達を厳かな気持ちにさせた。
多忙な王は私達を城に軟禁した状態で五日間姿を見せなかった。待たされている間、私達は李帝の身辺を世話する者達との会話を楽しみ、時を過ごした。というのも、李帝の居城には極端に余暇を楽しむためのものが無い。書物庫か休憩目的の空間しかなく、何かをして遊ぶ事が出来なかったのだ。一層に戻って街をぶらつき、愉快に過ごしたい気持ちを抑え、私達は李帝の噂だけを楽しみに毎日を過ごした。
聞くところによると李帝は現在、寝る時間も取れない状況が続いており会議や報告会の休憩時間であるぶつ切りの一時間を睡眠にあてるため、寝具を運ぶ専門の者が付いて回っているという。ここ半年の間で、まとまった睡眠時間は三時間が最長だという話を聞いた時、寝汚い白百合が悲鳴を上げた。
そうまでしないと、被支配的な立場に追いやられた妖怪国が、好戦的な悪魔の国々に立ち向かい、且つ戦いに巻き込まれず中立を守る事は難しいという。
やっと李帝と対面をしたのが李帝の居城に入って五日目、天井の高い謁見の間に入ると、緊張で足が震えた。
過去に『育師』をやっていた時、神々から何か仰せつかる時のドキドキする身体の反応が、久しぶりに現れて背中に汗を掻いた。次第に李帝の周辺を守る者や報告をする者、命令を受ける者などであろう沢山の関係者が姿を現し、これから国の統治者と会うのだという圧力が、私達三人を押し潰した。いよいよ李帝が姿を現すという知らせが、乾いた石を叩くような合図で謁見の間全体に響くと、関係者達が一斉に黙った。無言の人ごみが作る堅い空気に、私達はいそいそとひれ伏した。
仲の良い李帝の世話係がやって来て、ひれ伏す必要は無い事を伝えてくれたが、私達はなかなか顔を上げられなかった。特に白百合は生まれも卑しく妖力も私や洋次郎程では無い事を気に病んでか、頑なに床に額を擦り付け体勢を崩さなかった。
少しすると、王座の置かれている台の上にテーブルが運ばれて来て、それと一緒に李帝が歩んで来た。端正な顔立ちに薄い化粧が映え、洋次郎のような天然の人形顔とは別に、神々しい美しさを内側から発していた。
この目の前の人物が、あの豊かな李国を興したのだ。貧しい荒地の小国を中立の強国に迄、統治して高めたのだ。私は純粋な尊敬の眼差しを、李帝に向けた。
白百合は頭を地に付けたまま。
「渡したいものがある、おいで」
李帝は短く言うと、テーブルに数枚の封筒を置いた。
李帝の意図がわからず放けている私達を半ば力ずくで、世話係数人がテーブルまで運んだ。白百合は青い顔で震えていたが、胆力で表情だけは平静を取り繕っていた。洋次郎はいつになく暗い目をして、白百合の青い顔を伺った。
「そんなに怯えないでよ、……今は殺さない」
私にはおよそ検討が付かなかったが、二人の顔に安堵が見えたので、どうやら私達は李帝に殺されるような何かをしてしまっていたらしい。李帝の物騒な台詞が原因で、私までさぁっと青くなった。
しかし、李帝は私達三人の顔色の変化を見ても、表情一つ動かさなかった。ふと、瞬きが一つ。李帝が動くのにつられて、私はやっと簡素だが見目の良い李帝の衣服に気がついた。李帝の手元、卓の上にのった茉莉花の入った真っ白の陶器を含め、一枚の絵のように綺麗だった。
李帝は私の見惚れる目には気が付かず、すっと一枚の封筒を洋次郎に突きつけた。
「これを読んで」
李帝が最初に、卓に置いた封筒の一つ。洋次郎はその封筒を手に取るとすぐに中に入っていた紙を広げた。それは西洋の紙と筆で作られた永吉の手紙だった。
内容は実に典型的な親の手紙で、倭に残して来た洋次郎を気遣うと同時に叱責するもの。洋次郎がガリアに騙されている事、それをわかっていながら目を覚まさせてやれない自分の無力や、洋次郎のこれからの心配。
洋次郎は顔を顰め、一つ目の封筒に入っていた手紙を読み終わると、二つ目に手を出した。李帝はじっと洋次郎を眺め、ふとすると手紙の文字を睨んだ。
洋次郎の横に座って居た私からは、手紙の文面が読み取れたのだが、内容は回を追う事に稚拙になり、己を責め続けるもの、洋次郎を責め続けるもの、思い出の箇条書き、と余裕の無い鬼気迫ったものになり、永吉の精神が追い込まれて行ったのがわかった。
最後は、幼子の書いたような大きくて震えた、でこぼこの筆跡で『くるしいから、たのむ。まだいきてるうちに。たのむから。かなしいからもうおわりたい。つらいけど、おまえにあいたいからいきてるから。まだいきてるから、あいにきて。たのむから、おねがいだから、たのむから。たのむから。あいたいから。たのむから。洋次郎 洋次郎 洋次郎 洋次郎』と紙の終わりまでずっと名前が羅列されている。その紙はクシャクシャにされた後のような、全体がしわしわのみすぼらしいものだったが、一番永吉の想いが正直に詰まっていたように思う。
手紙を眺める洋次郎の顔は、能面のように平坦だったが、洋次郎を見つめていた李帝の目には怒りの涙が溜まっていた。
「こんなものがあるから、俺はおまえを殺せない!」
絶対権力者の激昂に、どよめきが起こり人波が揺れた。洋次郎は手紙を前にして黙り込み下を向いた。その目からホトホトと涙が落ちて、私は何だか裏切られたような気持ちになった。私の親は育師から私を力づくで拐うような事はしなかったので、私は親に育てられた記憶がない。しかし、洋次郎にはあるのだ。
それが羨ましいのか、単純に洋次郎の心が、永吉にも向いている事が気に食わなかったのか、良くわからなかったが、面白くなかった。
面白くなかったのに、ほっとした。
「怖かったね、李帝」
李を出てすぐの雪山小屋で、思い出したように白百合が呟いた。
「殺されるだろうと思ってたから、生かされて驚いてる」
小屋の中央に設置された熱砂柱(ねつさちゅう)で、燃える鬼火の橙光が、洋次郎の人形めいた頬を照らしていた。熱砂柱は西洋の生物化学で生まれた暖をとる便利な道具だが、私にはどうして砂が柱のように溜まるのか、そこに鬼火が灯るのか。仕組みが一切わからない。李国に逃げて来た西洋悪魔達によって、このあたりの雪山小屋には全て熱砂柱が設置されているという。
このような偉大な影響力を持つ李帝から、疎まれて怒鳴られた洋次郎が憐れで、私は自然と口数が減った。永吉は長生きで顔が広いため、李帝とも懇意にしていたのだろう。
優しい李帝は旧知の友が陥った苦境に心を痛めて、今日、私達を呼んだのだ。
可哀相な永吉が、あの手紙の後どうなったのか。私が知るのは数年後。倭国の川越、かつて実道と永吉が、幼い洋次郎を育てた地に、私達は屋敷を構えていた。永吉は、そこに、ある日ふらりと訪ねて来た。
終戦から八年。まだ世間は混乱していたが、大分落ち着いて来ており、行方知れずだった知人や友人のその後が分かり始めて来た頃。永吉と洋次郎の、親子の縁が切れた頃。
永吉は、あれだけ切ない手紙をしたためておいて、私と洋次郎の暮らしを見ると、洋次郎を私に託してくれた。洋次郎を私に託すと言っておいて、私達の家を出た後、三度もこちらを振り返って去って行った。
『筋肉と恋人』(悪女×男前)
出資者の指示で育て屋ベケットに会った。
ベケットにはすでに弟子が一人。
この弟子を倒せば、新しい弟子になれる。
ベケットは大国フィオーレに目を掛けられている育て屋だった。ベケットに送り出してもらえれば、フィオーレの最高兵士『ゴドー』の地位を得るのも夢じゃない。『ゴドー』になれなくても、ジェキンス兵と呼ばれる高給兵士には、確実になれるという。
「初めまして」
極めて男性的な低い声で握手を求めた。カラツボの中心地にある会員制ホテル、その最上階。
「リャマ・ビクーニャです」
「ベケットだ」
黒く四角いテーブルの横で向かい合って挨拶をすると、ベケットの厳しい視線が全身に刺さってきた。紹介者である私の出資者、ライさんの横で、ベケットは鼻の頭を掻いていた。
「握手は苦手なんだ」
ベケットの手は、ズボンのポケットに隠されたまま。態度が悪い。手を引っ込めて、笑みを作る。
「私は現在、クレア・フィオーレ様、ザモ・マグラン様を筆頭に、ヴェレノ兵士新興会、ヴェレノ闘技部会、フィオーレ闘技部会、ヴィンチ健全兵育会、シグマ・ヴェレノ様、ジェド・ヴェレノ様、ニガー・ヴィンチ様、メディア・ルーキン様、アントニオ・トルテ様、ガザ・ヴィンセント様、こちらのライ・イフ・コープス様方からご支援いただき、兵役についております。先月フィオーレ一般闘技、青年の部で一等を取りました」
「最近の一般闘技は実力主義じゃないからな」
「……では何主義なのでしょう」
「享楽主義、おまえみたいな少し顔の良い優男に沢山応援票が入るだろう? そうすると実力者数名に大会から声が掛かる。負けてくれとな」
「っ……」
「無礼なことを」
ライさんが声を上げてくれなければ、殴るか罵るかやっていただろう、気を静めるためにまた笑みを作った。
「元女としましては、容姿にご評価頂けてありがたい」
「女じゃ中の下だが男じゃなかなかのもんだ、男顔なんだな。おまえの性の選択は正しかった。武の才能も男の筋肉あってこそ生かせるものだ」
「……」
「だが信用ならん、女は女に戻りたがる」
「好きで男になったわけじゃないですから」
「リャマ君」
ライさんに窘められ、はっとして口を閉じた。都合の悪いことを言ってしまった。しかし貧しさを理由に転換したことを、理解して欲しかった。
「好きで男になったわけじゃない? おまえは男になろうとしてなったんだ。もとから男で生まれて来たわけじゃないだろう? 何をとぼけたことを! 何が理由でも自分の選択に責任を持て。見かけが男で根性が女じゃ最悪だぞ、甘ったれが、潔く生きろ!」
糞ジジイ。という言葉を飲み込んで、口端を上げた。頬がひくついている。こんな奴の下につくのは嫌かもしれないなぁ。
「リャマ君は今やカラツボで一番の強者ですよ。ヴェレノの紳士もフィオーレの淑女も、彼の噂を聞けば必ず出資すると言い出します。この私も……」
「うちの馬鹿が成人したら二番の強者になるぜ」
ベケットは猫背でくたびれた中年男だが、目の光の鋭さは猛禽のようで油断ならない。自分の育てている戦士に自信を持っているらしく、緩い笑みを浮かべている。少しだけ好感が持てた。己の商品を信じ、誇っている育て屋は気持ちが良い。
「常に強者の弟子を取るのでは?」
ライさんが詰め寄った。
「そいつがうちのに勝てるっていうのか」
「まぁお座り下さい」
その後は延々と私の過去の戦闘シーン上映。テーブルの上に置かれたプレイヤーが、ヴーンと低く唸るのを聞きながら、滅多に口にできない高級なコース料理を平らげるのに集中する。上映が終わった後、ベケットは溜息をついた。
「リャマと言ったか」
「はい」
「男になりきれるか」
「どういう意味でしょう」
「女に戻る気は、ゼロなのかと聞いている」
「ゼロですね、今更、ここまで逞しく成長しておいて戻れませんよ」
「戻れたら戻るのか」
「……」
「戻らないと誓うなら、うちのと一戦やって、勝ったら弟子にしてやる」
突然、潮の流れが変わったので驚いてライさんを見ると、満足気に頷いている。
「戻りません、誓います」
「随分簡単に誓うんだな」
誓わないと一戦許さないんだろ。
誓わないと良い職が遠のくじゃないか。
「私は、その、……裕福になりたくて、そのためには女とか男とか、こだわってられませんので」
「裕福?」
ベケットが顔を顰めた。
「いや、あの、もちろん、誰よりも強くなることが一番の夢ですが、ついでに、その……、成り上がりたいな、と、思っていて」
「どうも、俺はおまえの人格は好きになれんな」
「私だってあんたみたいな面倒くさいオッサン、好きじゃない」
「……ふっ、だろうな、俺達は気が合わん、しかしおまえの戦闘力は本物だ」
「……」
「少し悩ませろ。おまえの誓いは無効だ。金持ちになるのが夢なら、金持ちになったら女に戻るだろうおまえ。それじゃぁ駄目なんだ。俺が育てたいのはフィオーレの『ゴドー』だ。フィオーレの守り神」
「守り神……」
「……二ヶ月俺の元に来い。弟子同然に鍛えてやる。その二ヶ月の間に腹を決める。おまえはうちの馬鹿より強い。だが、うちの馬鹿はおまえより意志が固い。悩みどころだ。二人を並べて考えたい」
思わず、私とライさんは目を合わせて笑った。
「じゃぁ、決まりそうなんだ、弟子入り」
「うん、だから中央に引越しだ、ごめんね」
「なんで謝るの」
「もうここには来られなくなるから、寂しい思いさせちゃうなって」
行き着けの娼館、馴染みの娼婦ユタの横に腰をおろし、髪を拭きながら冗談を飛ばした。
「寂しい思いなんか、させないでよ」
つれない冗談が飛んでくると思ったのに、驚いて横を向くと、娼婦は真面目な顔で、私を見上げていた。小さな顔に乗った、つぶらな目と小さな鼻、たらこがちの唇が愛らしい。
「会えなくなるなんて嫌、あたしここ抜け出してあんたのとこ行くわ、そうしたら、お願い、買いとってなんて言わないから、盗んでとかも言わない、自力で抜け出すから、抜け出せたら匿って」
「そんな危険なことしないで、引越してもまた来るよ。どんなに遠くに行っても俺はユタの客だ、他の娼婦のところにはいかないよ、ユタだけだ、ね、だから物騒なこと言わないで」
「あたしもあんただけの娼婦になりたいの」
「……」
若い娼婦は時折客に恋をすると聞いたことがあるが、もしかしたらこの娼婦は、私を好いてくれているのかもしれない。男の姿をしていれば、男の友人ができ、男の付き合いで娼館を知った。娼婦を可愛く思って、通うようになった。女体に欲望がわく自分に驚きつつ、そんな自分が嫌じゃなかった。挿し込むものがないから、痴態を拝むだけ。それでも楽しかった。
「あんたみたいな玉無し男、夫にしたいと思うの、あたしぐらいなんだから、あんたみたいな、優しい男、守れるのもあたしぐらいだしっ、子どもなんかできなくてもいいし、身体繋げられなくてもいいの、傍にいたいの」
愛を感じて、思わず抱き寄せるとユタは泣き出した。
「ありがとうユタ、良い思い出にするよ」
「思い出になんかなりたくないわ!」
「俺はまだ家がない、君が来てくれても、迎えられる家がないんだよ」
言いながら鼻がつんとして、涙ぐんでいた。
「また来るよ」
ベケットの家は中央地の外れ、沼地の奥にヒッソリと、隠れ家のように建っていた。周囲を林が鬱蒼と囲っていて、近くまで行かないとわからないぐらい、その小屋は自然に溶け込んでいた。庭には少しの野菜や、薬草の類が植わっている。家の前には大きな男の子が待っていた。
十四歳と聞いていたが、身長は百七十を越えているだろう。貧国カラツボでは珍しい、発育の良い子ども。彼は無邪気な笑みを浮かべ、私の少し前を歩いていたライさんに走り寄った。
「お久しぶりです、ライさん!」
「今日はおまえの後輩を連れて来たよ、歳はおまえより上だけどね」
彼はライさんに向けた笑顔のまま、私を見て、笑顔を消した。少し怯えたように顔を顰め、家を見て、また私を見た。
「始めまして、……俺はリャマ・ビクーニャ」
沈黙。挨拶のできない子どもか?
「……ゴドーです」
ゴドーはやっと名前だけ漏らして、ライさんを見た。意地悪をされた弱虫のような顔つきだった。
「元からゴドーという名前なんだっけ、ゴドーになるために生まれて来たようなもんだね」
「……う、……はい」
ゴドーは背の高い子どもだったが、私よりは少し背が低く、丁度口元に顔があった。見上げるゴドーの顔は男らしいがあどけない。緩い笑みを浮かべて、眉を上げるとゴドーは視線を逸らした。
「俺が怖いの?」
聞くと、はっとして目を合わせて来た。
「怖くない」
「ホントに?」
からかうよう覗き込むと、ゴドーは睨みを利かせて来た。
「ゴドー、この人は女の人だよ」
「えっ?!」
ライさんの紳士な紹介に、思わず顔を顰めた。
「このタイミングで言わなくても」
「このタイミング以外にどのタイミングがあるんだ、言わなければ絶対に気づけないだろう」
ゴドーの目が訝しげに、私の顔、首、肩、腕を巡り、がっしりとした腰をとらえた。
「どう見ても男だと思います、けど」
下を向いて、素直な感想を述べる子どもの頭を撫でた。
「それでいい、俺は転換者だ」
「……」
カラツボの子どもなら、転換者の噂を耳にすることがあるだろう。ゴドーは顔を上げ、合点のいった様子で神妙に眉を寄せた。
「出身は?」
ゴドーからの質問。
「西」
「……俺も西だ」
「そう」
「逆もあるんだな」
「将来を見越すとね」
娼婦の稼ぎが一番良い国で、男が女に転換することは少なくない。女が男になることは、あまり例がなかったが、兵士の人身売買業が賑わい始めているから、これからは増えるだろう。
「どう扱えばいいんだ」
「男にしか見えないだろ」
「まぁ」
「女扱いしてみろよ」
「無理」
「だろ」
一度撫でた頭を、パンと叩いて笑う。私は恐らくこの時期、一番男だった。早くベケットの弟子になり、職を得てユタを向かえに行きたかった。ゴドーから居場所を奪うことになるという意識はあまりなかった。ライさんがゴドーを引き取りたがっており、ライさんのもとに行けば、ゴドーは幸せな子どもになれると考えていたためだ。
二ヶ月の共同生活の中で、私はゴドーのやることなすことの全てで一つ上を行っていた。しかし、ついに明日、ベケットが判定を下すというところで、私は腹に激痛を覚えて医者の手に掛かった。女の臓器を持ちながら、男の成長をした身体にはやはり負荷が掛かっていた。女の臓器が、腐ろうとしていた。切除してしまえば、この先痛むことはなくなるというので、手術の予約を入れた。完全な性転換。迷いはなかった。ユタは女で、男の私を愛している。ベケットに事情を話すと、手を打って喜んだ。私に出資する偉い人達も皆、ベケットと同じ反応だろう。散り散りだが、辛うじている家族にも、ここ数年、男として接してきた。男として頼られて来た。私という人間は、男であるほうが都合が良い。
女としての友達、女としての家族、女としての恋人、女の私は何も持っていなかった。誰も私という女を惜しまない。哀しい女の最期だった。
男になるつもりの、男の私が少しだけ、同情で惜しんでやる。さようなら、野心家の大女よ、骨太の少女よ。
性転換専門の、病院の待合室で番を待っていると、よく知った悲鳴が入り口から聞こえた。
「いやっ、私手術なんか受けないわ、離して、離してよっ」
聞き違えるはずのない、ユタの声。数人の男達に取り押さえられて、引き摺られるように入って来た可憐な想い人の姿に、胸が一杯になった。ひと目見れただけで幸せになれる。私は単純な男だった。こんなところで再開しようとは。
「ユタ!」
声を掛けると、ユタは私を見てはっとした。そして涙ぐんだ。
「どうしてこんなところに?」
「それはこっちの台詞だけど」
「……あぁ、リャマ」
「会いたかったよユタ……!」
娼婦にはよく訪れる悲劇。避妊させられるのだろう。私は軽々とユタを取り押さえていた男達を蹴散した。訓練をつみ、屈強な男の腕力を持つ私に、軽く鍛えているだけの男数人を倒すのは訳のないことだった。
「リャマ」
男達を倒し終えた私に、ユタは抱きついて歓声を上げた。
「好きだわ、大好きだわ、愛してるわリャマ」
「俺もだよユタ、家が買えたら迎えに行くからね、それまで元気にしているんだよ」
「駄目よ、今すぐ連れ去ってくれないと、また避妊手術を受けさせられるわ」
「……」
「私もう貴方以外と寝たくないの、家なんかなくていい、お願い、傍において」
ユタの滑らかな頬に、骨ばった男の手を添えた。ユタの細く小さな手が、その手を握って来て、庇護欲を誘われる。
「本当に連れ去るよ?」
ユタは艶やかに笑って目を閉じた。唇を重ねると、ユタは私の首に腕を回し、豊かな胸を押し付けて来た。
「騙されるなよ色男、そいつは男だぜ」
息絶え絶えの声が、足元から聞こえた。倒した男の一人が、ユタを指差して笑っていた。
「え……?!」
信じられない思いでユタを見つめると、ユタはみるみる青くなり、目に涙を浮かべ、口元に手を当てた。
「ごめんなさい」
「ユタ?」
「女になりたかったわけじゃないの、俺、いつでも戻りたかったから、貴方のために女になろうとしたけど、俺は男だから、貴方が好きで、けど俺は男なんだよ」
「っ」
売られたユタの身はユタの意志に反し、女に作られていった。ユタはそれを不服に思いながら、軽い仕事を取るだけの立場でどうにか生きて来た。娼婦に下半身を求めない客の相手をしながら、自己の性への執着を捨てきれず、苦しんできたのだ。
「ユタ……」
ユタは青い顔をしたまま、私に背を向けた。走って病院を飛び出したユタの後を追ったが、どんな道を使ったのか、何度か曲がられているうちに見失った。ユタが男であるなら、私も、女を捨てるのはまだ早い気がした。
医者に相談をすると、今の男性ホルモンの注射に、女性ホルモンを加えることで、どうにか臓器の腐敗をしのげるという。
しかし、私の選択はベケットの不興を買い、さらに想定外、ゴドーとの勝負に、私は敗れてしまった。
私は、ベケットとゴドーの元を去らなければならない。ゴドーは私に対し常に捻くれて居たが、別れの朝だけ、素直に寂しいと言った。ライさんがゴドーを引き取りたがる気持ちが、わかったような気がした。良い子息になるだろう。
私がベケットの眼鏡に適わなかったことで、私の出資者は三分の一になった。ユタはあの日、消えたきり例の娼館にも戻らず行方不明。私は一般闘技で地道に金を稼ぎ、アウレリウスの試験を受け、ヴェレノ邸勤務の身になった。仕事を覚えて、人脈の出来始めた頃、カラツボの娼館に行こうという話が持ち上がった。
余所者の目で見たカラツボは砂っぽくて貧しくて、煌びやかで快楽ばかり主張する堕落した国だった。病気の検診を定期的にやっているという、会員制の、安全を売りにした店に入った。娼婦と娼夫を扱う店で、本館は男娼専門だという。店の天井には最新の大型テレビがつけてあり、娼婦や娼夫の宣伝映像が流れている。数人、娼婦とも娼夫とも取れない人物が混ざっており、その中に見知った顔。
「……、ユタ?」
「おや、お客さん、お決まりですか?」
「彼女を呼んでください」
画面の中のユタは女の上半身と、女の仕草をしながら、下半身の男性器を扱いていた。ユタを指名した私を、仲間達が信じられないものを見る目で眺めた。しかし、私は気にせずにユタのため、財布を取り出した。
「……あっ」
しかし、ユタはどうやら売れっ子らしく、馬鹿高い金額がついていた。
「遠慮、します……」
上擦った声を上げた私に同情し、仲間達が財布を次々に取り出す。
「おい、俺8fまで貸せるけど」
「俺は5」
「……俺、2」
持ってきた金は12f、仲間達に借りても27fで、ユタを買うには300f必要だった。桁が違う。
「誰が買うんですか、あんな金額で」
思わずカウンターの男に質問した。
「ああ、あれは買わせないための額ですよ、すみません」
「……は?!」
「彼女、寿退社するんです」
音が聞こえなくなるほどのショックを、生まれて初めて味わった。店内の騒がしさがまったく耳に入らない。
「どういう意味でしょう?」
「妻として引き取られるんですよ」
「本人は納得しているんですか?」
「しているみたいですね、相手方はあの状態を認めて下さるみたいで、それが決め手になったとか。あ、あの状態っていうのは、身体のあの状態のことですが」
「……はぁ」
暗い声で応じた後、出入り口に向かった。もう女遊びをするような気分ではなくなっていた。
「リャマ、どした?」
「帰る」
「えっ、なんで」
「あの娼婦知り合いだったのか?」
「昔の恋人」
店内がシーンとなり、皆が私に同情の目を向けた。
仲間達と別れて、一人ヴェレノへ。拾った車の中から、街の端で、現地人と乱闘する婦人の姿を見た。恐ろしく強い彼女の、美しい顔に見惚れながら、見覚えがあるなと記憶を辿る。……上司だ。
「ルーキン様」
「あらやだ」
車を出て婦人の手を引き、車に招いた。
「誘拐でもする気かしら、怖いわ」
「お助けしたつもりです」
「ふふ、そうなの、じゃぁありがと」
「何故こんなところに?」
「女の子を買いに……、うっかり街の端に迷い込んじゃって」
「女を? ……婦人が?」
怪訝な目で見てしまった。婦人は少しだけ不機嫌な顔になり、私の股間を掴んだ。
「ふぎゃっ?!」
「貴方だって女のくせに女を買いに来てたんでしょ、おあいこじゃない」
「俺は男です」
「ナイくせに」
「怒りますよ」
「女になりなさいよ」
「はぁ?!」
「付け加えると、私の女になりなさい、貴方の顔好みだわ」
「……両刀なんですね」
「いーえ、レズビアンよ、貴方をおんなのことして、可愛がりたいの。ね、このままじゃ性欲がおさまらないわ。リャマ、できるでしょ、……貴方は、女の子を」
婦人の手がなかなか股間を離れないので、気恥ずかしくなって来て顔に熱が集まる。
「なぁに照れてるの、可愛いわね」
「ちょっと手、やめて下さい」
婦人の手はいよいよ、いやらしく動いて悪戯をはじめていた。
「あの、……っは、だから、やめろって!!」
思わず大きな男声で、婦人の腕を掴む。
「勘弁しろ、俺は今失恋で胸が一杯なんだよ! 何がおんなのこだ、見ろこの身体を、どこを切っても太い骨と筋肉だ! 柔らかさなんて欠片もない、顔だって男らしく厳ついだろうが」
「でも女の影があるわ」
「っ」
「おんなのことして愛されたことある? くすぐったくて気持ち良い思いをしたことがある? 私は貴方をおんなのこにできるし、おんなのこの貴方を愛せるわよ?」
「……」
大きな手で顔を覆う。太い眉を親指でなぞりながら、砂っぽい外の景色を眺めた。誰からも求められなかった女の自分を、求める人。顔を覆う手の指に、婦人はキスをして来た。世の中には自分が男だとか女だとか、ハッキリと認識して、主張できる者がいるらしいが、リャマの場合は違う。どちらなのかわからない。いつまでわからないままなのか、それもわからない。不安に駆られて婦人を抱きしめようとして、逆に抱きしめられ頭を撫でられた。
2011/10/02
お時間ありましたら、かまってください……
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