からめ

『柄黒の行方』(孤高のエリート部下×万年教育係上司)

 先日、元部下の野平が、めでたく第二営業部マネージャーに昇進した。

 

 人より飲み込みが遅く、怠け癖があり、協調性のない野平は大変な問題児で、第三営業部でリームリーダーを務める田保の手元に居た時は、ああ、こいつは気をつけてやらないと、すぐ辞めてしまうなと思った程の駄目部下だった。

 それが何とか第二営業部に行き、第二営業部でも手が掛かると問題になっていたが、今は管理部にいる一本に、昔の縁で散々世話を焼いてもらい一人前になり、ついにマネージャーになった。

 手の掛かる子程可愛いの法則で、田保は野平が出世したその週に一本と共に野平を祝って酒を飲んだ。純粋に、野平の成長が嬉しくて酒が美味かった。

 

 泥田坊種、田保信一は会社における「教育者」の地位を確率している。 新人が最初に回される第三営業部で、田保の世話にならない者はいない。田保は一部の経営陣を除いて、ほぼ全ての社員の最初の上司だ。厳しすぎず甘すぎず、しかし個人の特徴を踏まえ、必要な事を順序立てて教えて行く。一人巣立っても、また一人やって来る。永遠に終わらない教育の仕事を、田保は特に嫌とも感じず、十年以上続けて来た。

 

 部下を育てるのは良いけれど、自分の出世にも力を入れたらどうか、と昔付き合っていた女妖から厭味を言われた事もある。立派な役職についた部下からは、何となく申し訳なさそうにされたりと、微妙な問題はあるのだが、田保はどちらかというと野心が薄く、自分で言うのも何だが小物なので、自分の出世に関してはあまり頓着していなかった。

 それに、人から何と言われようと、一度面倒を見た部下はどんなに出世しても可愛い部下のままだ。今や稼ぎの中核になっていたり、経営に関わっている部下達もいて、そういう可愛い元部下達が会社を動かし易いよう、協力していると思えば、不満は何も出て来ない。問題があれば、呼びつけて教えてやれば良いのだ。 

 

「田保、ちょっといいか」

 営業フロア入口の待合スペースで、客用のソファに腰を掛けていた一本が立ち上がってまっすぐこちらに来た。

 第三営業部は、飲み代が会社から規定の範囲で出ている事もあり、会社終わりにチームで飲みに行く事が多い。その日もチーム飲み会をしようと、賑やかに退社し、わいわいする部下達と気分良く営業フロアの廊下をエレベーターの方へ歩いて来たところ。あぁ、残念、と思わず呟くと、頼れる部下である根津を捕まえて素早く金を渡した。

「悪いおまえら、今日はおまえらで宜しくやってくれ」

 手を上げて号令を掛けると、えーっ、と一斉に批難の声が上がった。大丈夫だ、金は根津に渡してある、と笑って見せたが部下達の不満顔は治らなかった。今日はたっぷりと、田保に愚痴を吐ける日と思っていた部下達である。田保は基本的に、聞き役の上司だった。

「田保さん、俺、それじゃぁ帰ります」

 すらりと背の高い眼鏡が、ぽつりと問題発言をし、その場の空気が凍った。眼鏡はガシャドクロ種の柄黒毅という新人である。

「おいおい・・・」

 一本が顔を顰めるのが横目に見え、田保は心中で顔に手を当てながら、言葉を選んだ。

「今日の飲み会は、田保さんに聞いて貰いたい事があって参加を決めたので、田保さんがいないなら帰ります」

 それは、皆同じなんだよ柄黒。という事を、どうやって伝えよう。

「お前な、せっかく背ぇ高ぇんだから、ぐるりと一回、仲間の顔を見てみろ」

 苦笑する田保の顔を、柄黒は正面からじっと見て、眉を寄せた。

「……」

 柄黒が言われた通りチームメンバーの顔を見ると、しらっとした様子である事がわかる。はっとした柄黒に、田保は少し安心して、じゃぁ宜しくなと根津の背を叩き、その場を後にした。

 田保は、部下の愚痴を聞き、原因解決を考えて動く。田保に言えば何とかなる問題を解決したいのは柄黒だけではない。はじめの内はわからない事だらけ、これまでと勝手の違う事だらけで、会社への不満が多く出て来るので、これを解決してやるのは田保の仕事だった。

 しかし愚痴ではなく弱音の場合は年の近い先輩格に指示を出して叱らせる。叱る人間は一人にする、というのが田保の方針で、なるべく憎み合わない組み合わせもまた考える。大体の部下は年の近い先輩格を叱り役につけるが、問題児については、田保が叱り役になる。

「大変そうな奴だな」

 管理部に向かう道すがら、一本が漏らした一言は、柄黒について。

「あれは俺が直接叱ってる」

「問題児なんだな」

「……ああ」

 柄黒は問題児。しかし野平と違うところは、優秀過ぎるところ。

「名を柄黒毅という」

「何?!……あれが柄黒毅か?!」

 齢は五百の大台を超えており、東洋・西洋それぞれの有名大学を出ている。幹部候補社員として、政府機関から引き抜かれ、入社して来た期待の新人。成績も優秀だ。

「仕事は出来るが、恐ろしく協調性がねぇ」

「想像つくな、あの態度」

 一本は田保に、反感を持ったようだ。ふん、と鼻息を鳴らした。

「でも、そうか、あいつが、……うちに来るかもしんねぇのか」

 困ったように呟いて、一本は黙り込んだ。その言葉の意味に、田保は少なからず驚いた。柄黒は営業成績が良いので、てっきり第一営業部か第二営業部に回されると思っていたのだ。それが、管理部とは。

 そもそも、柄黒は三ヶ月の研修期間、第三営業部に所属するが、それが過ぎたらすぐ第一か第二営業部に送られる事が決定していた。しかし、当の柄黒がまだ自分にはわからない事が多いと言い、第三営業部を離れたがらず、ずるずると残留し、気がつけば研修期間は五ヶ月目に突入していた。そろそろ、移動先の話が本格的に持ち上がっても良い頃だった。

「管理部か、意外だな」

「俺も意外だよ、弥助が急に営業部に行くとか言い出してさ、その後釜にって柄黒を指定したんだ」

 弥助は管理部の経験者採用係である。他社から引き抜かれた社員の多い『怪PR社』の求人活動は、求人広告を余り使わない。全てが、人事のマンパワーに任されており、採用係には基本的に目利き力と口説き術が求められる。

「弥助の代わりなんて大役、柄黒には少し早いと思うぞ」

 素直な感想を漏らすと、一本はほっとした顔になった。

「だよなぁ、俺もそう思う」

 

 エレベーターから降りると、空間の大きさに、すっと視界が開けた。

 管理部は会議室フロアの一角にあり、広い総合ロビーと受付、小さなカフェがある。外部の人間が最初に案内される場所であり、出入りの業者などが商談の時間前に付いた際、休んでいてもらえる沢山のソファが置かれていた。

「おぅ、来たか」

 弥助はカフェの喫煙席で、煙に塗れて待っていた。一本も田保も喫煙しないため、二人同時に一瞬息を止めた。

「場所を変えるか」

 喫煙はするが、配慮の出来る弥助である。さっと席を立つと禁煙席に向かった。その間に懐から口臭消しの粒を取り出してぱくりとやるところがさすがである。弥助の身が少し近づいた瞬間、あれだけ煙に囲われていた弥助から、香の良い薫りが漂った。

 喫煙者を嫌う風のある昨今、気を付けているのだろう。

「弥助」

 挨拶に声を掛けると、弥助は、んん、と首を捻って田保を見ると笑った。

「ん、田保か、ゴリラかと思った」

 江戸時代は岩かと思った、と良く言われたものである。

 田保は眉が黒く鼻の大きい、ハッキリした顔だちの大男である。ムチムチと筋肉質で、力は強いのだが、特別、格闘を習ったわけではないので喧嘩は田保より細身の弥助の方が強い。

 ゴリラの田保と、妙な迫力のある弥助、少年の姿で時が止まった一本の三人は一見、動物と野党と子ども、というちぐはぐな組み合わせで悪目立ちする。しかし、この三人は『怪PR社』の入社同期にして古株で、江戸時代からの付き合いも長い親友三人組なのだ。

「久しぶりだな、二ヶ月ぶりか?」

「はぁ、長い出張だったぜ、暖かかったけどな」

琉球か、いいなぁ」

「今は沖縄ってんだぜ」

 田保の問い、弥助の嘆き、一本の呟き、弥助の訂正、とぽんぽん会話が続いてから、今度はぱたりと言葉が消える。一ヶ月に一度のペースで会って話をする三人の間には、会話がなくても安心出来る空気というものがあった。

「営業部なんか行って、どうするんだ」

「さっそく来たな、一本から聞いたのか?」

 本題に切り込むと、弥助はからりと笑った。

「俺は納得出来てない」

 一本の声は硬かった。

「そうかい、あの説明で十分だと思ったんだがなぁ」

 弥助は営利な顎を撫で、三白眼を細めた。それから妙な迫力のある、ぬらりとした目付で下から二人を睨んだ。

「おまえらが何と言おうと、俺ぁ親分の下につく、今こそ恩返しだ」

 江戸の初期、岡っ引きの親分、鶴の下には、名前に「や」の付く腕利きの手下が三匹居た。弥助、ヤマネ、山神である。後に大親分として名を馳せた鶴のもとで、三匹は「三つの矢」などと呼ばれ持て囃されていた。「三つの矢」の称号は、独立後の旗としても大いに役立ち、救われたと弥助は語る。

 カフェは午後七時を過ぎると、急に混みだしてざわざわして来た。あと十五分ぐらいすると、待ち合わせで入っていた客達が場所を移動して、今度はしぃんとなる事を、三人は知っている。

 店員が足早にやって来て、田保と弥助の前に珈琲を、一本の前にオレンジジュースと野菜カレーを出した。

 一本がひょいとオレンジジュースを両手に持ったタイミングで、弥助は足を組み直すと、遠くを見ながら口を開いた。

「俺ぁ幕末、親分が身を崩していた事に、まったく気がつかないで、悠長に留学なんかしていてよ、昭和になって日本に帰ってから、死ぬ程後悔したんだ、どうしてもっと、親分の事を気に掛けなかったのか」

「気に掛けたところで、防ぎようがなかったよ、あの山神がついててああなったんだからな」

 一本がストローから口を離して、慰めを口にする。ストローから跳ねたオレンジの水滴が、ぽつんと顎についてしまっている。それを見た弥助が抜け目なくナプキンを一本に差し出した。

「弥助、逆に考えろ。鶴さんは聡い人だ、おまえなんかじゃ考えの及ばないところで、何かがあって身を崩したんじゃないか? それをおまえがその場に居たからって、止められたとは限らない」

 田保は一先ず、一本の側に立って弥助の説得を試みた。柄黒には、弥助の代わりはまだ務まらないし、弥助が鶴の下に行くのには無理がある。江戸時代にはどうだか知らないが、『怪PR社』では、鶴より弥助の方が歴史が長い。

 弥助は二人の考えている事が、手に取るようにわかるという顔をして身を乗り出すと、じっと正面から見つめて来た。

「俺は、罪人から岡っ引きになった口だろう、人格の根本の立て直しが必要で、その分、他のやつらより、親分に世話になったんだ、……立派に留学なんか出来るような身分になれたのも、親分のおかげなんだよ、それなのに、……親分が苦しい時、俺は何の役にも立たなかったんだ」

 だから今度は何かしたい、なったばかりの部長職で、成績不振に困っている親分の役に立ちたいのだというのが、弥助の言い分だ。

「だが、柄黒はまだ、おまえの後を継ぐには早い」

 田保は意識せず、苦い声を上げていた。

「しかし、いつまでも第三に留まらせるわけにもいかねぇ」

 む、と何か引っ掛かったのは、弥助の言葉に少しの軽蔑があったからだ。一つ一つの案件が小さく、細々しており、常にチームで成績を数える第三営業部が、新人を教育するためのゆりかごである事は社内に広く知れている事実だ。しかし場合によって、第三営業部のように細々した案件を数多く扱っていく方に向いている者もいて、そういう者はずっと第三営業部に留まる。そういう者の事を、万年第三と馬鹿にする者が、社内には居る。向き不向きというか、大きな案件と小さな案件で、得意不得意があると考える田保は、端から小物であるからと割り切っている自分は棚に上げて、第三に長く留まっている者を特に能力の至らない者とは思っていない。

 しかし、弥助は違う。第三から動かない者を、向上心のない者だと見下している。その冷徹な判断が、恐らくスカウトの現場に生きているのだろうが、田保はいつも、むっとしてしまう。

「まぁまぁ、柄黒本人はまだ第三に居てぇって言ってるんだし、弥助もそんなすぐ移動なんか考えねぇで、もうちっと時間に余裕を作ろうぜ、今落としに掛かってる奴だって居るわけだろ?」

 一本が弥助と田保、二人の仲を取り持つような発言をすると、弥助はふっと煙を吐くような口で息をついた。

「今、落としに掛かってる奴が揃えば、第一は最強だ、赤ノ旦那が治めてた頃より、凄ぇ成績を出せるようになるはずだ」

 弥助の言葉に、一本と田保は顔を見合わせた。過去、赤鬼の元で動いていた鶴の手下である弥助が、どうして赤鬼に張り合うような言い方をするのか。同じ鶴の手下、山神も赤鬼にあまり良い顔をしないところを見ると、過去に何かあったのだろう。

 だが、今は江戸時代の赤鬼や鶴、その手下達の微妙な心情を察するより、田保の手元にいる可愛い問題児、柄黒の移動先こそ一番の関心事である。出来たら、柄黒がきちんとその高い能力を発揮出来る所に送り込んでやりたい。

「田保、来週の三日間、柄黒を借りたい」

 今日の本題のようである、申し出が弥助の口から出た。柄黒は今月の予算を既に達成し、時間にはいくらか余裕がある。

「構わないが、苛めるなよ」

 心配そうな顔で、返事をすると弥助はにたりと笑い、さぁてどうしよう、と意地の悪い声を出した。

 

 シトシト雨の降る小江戸の町を、柄黒と二人きりで歩いている。いつもは行列で買えない鰹節屋の鰹節焼きおにぎりが、今日は並ばずに買えた。

「歩き食いなんて」

 上品な顔を歪ませて、柄黒が呟くのを無視しておにぎりに齧り付く。甘く広がる米と香ばしい鰹節のしょっぱさが混ざり大変美味だ。

「美味しい」

 不満を口にしていた癖、柄黒は素直に田保に倣っておにぎりを頬張ったようで、横から可愛い感想が漏れるのを、田保は愉快な気持ちで耳に入れた。

「俺、田保さんの元でずっと働いてたい、です」

 三日間、弥助のもとに行ってから、少し大人びた柄黒は、何か思うところがあったのか、ぽつんとその頭を撫でたくなるような言葉を口にした。田保は少し照れて下を向いたが、柄黒の望みが叶わない事を良くわかっており、それを少し寂しいと思っている自分の気持ちにも気がついた。

 柄黒は入社初日から、周囲のやりように片っ端から反発してみたり、三日目でチーム一大きな仕事を取り、出過ぎた杭になってみたりと、悪気はないのに手が掛かった。悪気があれば、説き伏せれば良いのだが、柄黒はある意味正しい面も備えており、より厄介だった。だから、常に田保が隣に立ち、柄黒の巻き起こす騒動をせっせと鎮めて回った。柄黒の向かうところに、いつも田保がついて回り、柄黒と周囲の距離を、懸命に測り、程よさを探した。

「これまで、俺は一人か、嫌われるかでしか生きて来なかったので、今の、田保さんの傍で生きていられる環境が、とても心地良いんです」

 傘越しで顔が見えない。さぁさぁと静かな雨の中で、柄黒の声にだけ温度がある。

「五百年間、ずっとか」

 雨の中の小江戸は、時の止まったように静かだった。車も無言で通り過ぎる。

「四度妻を貰いましたが、四度とも嫌われました」

 柄黒はすらりと背が高く、顔も悪くないので、女受けしそうだと思ったのだが、気難しい性格は、近くで一緒に居るのには向かないようだ。

「五度目の妻には好かれるかもしれないぞ」

 適当に励まして、いっそ次の妻は男にでもしたらどうだ、あ、それじゃぁ妻って言わねーか、などと冗談を飛ばした。田保や一本は男はからきし駄目だが、弥助は一時期、大商人の若旦那に派手に迫られ、彼との間に土子を設けた事もある。弥助の親分である鶴は陰間として、男に春をひさいでいたぐらいだ。

「男の……」

 柄黒は冗談に笑うでもなく、返事に困った風で声を途切れさせると、それ以降は黙った。

 西方面への飛び穴は、川越の駅前にある。

 川越駅まではバスで7分掛かるので、雨の中傘を差してバス亭に向かっているところだった。

 最近は一人で契約まで漕ぎ着ける事が増えた柄黒だが、クレーム処理については、まだやり方が分からないらしい。田保が同行して何とか収める事になった。心なしか落ち込んでいる柄黒に、田保は庇護欲をそそられた。何か、優しくしてやりたいが、何も思い浮かばなかった。

 バス亭が見えて来て、丁度バスが現れた。

 おい走るぞと声を掛けて二人して走ってバスに乗り込み、二人席に腰を掛けてバスが出る。バスに乗ると、自分が雨に少し濡れていた事がわかった。足元や二の腕に、しっとりした感触。

 ふいに、手が何かで重くなり、それが柄黒の手だとわかり数度瞬きをした。バスの二人席で、何の断りもなく、上司の手を握る部下に田保は違和感を覚えた。

 何だよ、と声を掛けたかったが、柄黒はピリピリと、緊張した空気を振り撒いていたため、田保は大人しくその手を握らせたまま、黙ってバスに揺られる事にした。

 

「田保、少しいいか」

 この間、一本に呼び止められた時と、全く同じ状況で今度は青鬼に声を掛けられた。営業フロア入口の待合スペースで、また部下達の不満の声が上がった。変わっていた点は、柄黒が率先して仕方がありませんよ、お金はあるんですから俺達で楽しくやりましょうとその場を収めた事だ。 

 第二営業部、部長室に呼ばれて、備え付けのソファに腰をおろすと、青鬼は穏やかな顔で、貴方は相変わらず部下に慕われているな、と一言世辞を述べた。

 用件は恐らく、柄黒の行き先について。

「この間、弥助の仕事に同行させたと聞いてな」

 青鬼は柄黒を、第二営業部にと考えており、その事を前から田保に訴えていた。

「彼を、管理部にやる気じゃないだろうな」

 あぁ、圧力を掛けられている。

 とわかって田保は少し眉間に皺を寄せた。

「俺の決める事ではありませんから、わかりません」

「おまえの意思は柄黒の意思だろう、随分、惚れ込まれていると聞いた」

 いつもは深く捉えないで居られた惚れ込まれている、という言葉にぎょっとした。この間バスの中で、手を握られたせいだろう。

 あれは、クレーム処理に向かう道で心細かったからだと勝手に納得してみたが、変な意味があった線も拭えない。男女の関係以外も多分にある、むしろ大妖怪に限っては、こちらの関係の方が多いのではないかと思える世の中を知っている田保としては、落ち着かない出来事だった。

「いや、それはないです、俺はこんなごっつい男だし、柄黒も女っぽくは決してないから、俺達に限ってそんな事は・・・」

「何を言っているんだ?俺はただ上司としてのおまえが、部下としての柄黒に好かれているのかと思っていたが」

 青鬼は革新犯の顔をして、にやりとしたので田保の顔は一瞬でかっと赤くなった。

「いや、その、こないだバスの中で、手を・・・握られたものですから」

「おぉ、そうだったのか、驚いたな、まさかお前たちの間に、そういう関係があったとは」

 驚いたと言いながら、目をキラキラさせている青鬼に、田保は一種恐怖を覚えたが、相談出来る人間が他に思いつかず、悩んでいたのもあってぺろりと白状してしまった。

「で、どちらが念者だ?」

「は?!」

 一瞬、呆けたのは余りに話が飛躍したからだ。田保の頭に、過去、妙な趣味を持っていた悪魔に、戦場で無体をされた記憶が蘇った。男同士というのは、痛いものである認識が、田保にはある。

「いや、俺は、そういうのはちょっと、考えないですが」

 思わず視線を反らしてしまったところを、青鬼の手が頬にあたり、気がつくと真正面で見つめられていた。青鬼の男らしく整った顔に惚けていると、その男前が、すいっと顔を近づけて来た。距離数センチというところで、ガードが甘いぞと囁かれ、混乱した。

 どういう事かと問い正そうとして、自分達の姿がどのように映っているのかが気になり、ブラインドが上がったままの、営業部から丸見えの部屋の中である事を思い出した。

 慌てて脇を見ると第二営業部の、狼山と傘本がまだ残っており、ぎょっとして青鬼を睨むと青鬼はにやにやしていた。噂にでもなったら、どうするのか。意味ありげなシーンを作られてしまった。

「俺は美形専門の念者だが、おまえに目を付けた柄黒の気持ち、わからないでもないぞ、おまえは、素朴で猛々しいタイプを好む者の目で見ると、なかなか魅力的だと思う」

「・・・いや、あの、俺は弥助に言わせると岩かゴリラだそうで、魅力的だなんて女にも言われた事がない」

「ああ、それは、女からしたら少し華やかさに欠けるだろう、当たり前だ、おまえは女にもてるタイプじゃないと思う」

 褒めたり貶したり、わけがわからない。青鬼と顔を合わせていると、またいつ正面から顔を近づけられるか分からないので、只管脇を見ていた。第二営業部の部長室からは、廊下も良く見え、そこに柄黒が居るのがわかった。あ、と思わず声が出そうになった。

 先程のシーンを、見られてはいないか。

「うぉっ?!」

 今度は本当に声が出た。青鬼がまた顔を近づけて来ていた。近くなって不愉快になるタイプの顔ではないが、男色ッ気のない田保には堪える事だった。

 思わず青鬼の胸を押して、嫌がると青鬼は笑って、体を離すと透明な壁に近づき、シャッとブラインドを降ろした。

「柄黒に見られては、おまえも落ち着かないか」

「青鬼さん、悪いが俺は本当に、男には一切興味がない」

「ほう、もったいないな、おまえはムチムチした良い体をしているし、顔のパーツも大きくて男性的な色香がある、俺の趣味じゃないが」

 自分を性の対象にされて、ザラザラと背骨に嫌な感じを覚えていたが、趣味じゃないと言われて今度は少し腹が立つ。そこで、ドンドン、と激しいノックの音がして、青鬼が早かったなと呟いて部長室の戸を開けた。

「柄黒……」

 青鬼を睨みつけながら、そろそろと部屋の中に入って来た柄黒に、田保は呆然とした顔で、おまえ飲み会は? と声を掛けた。忘れ物があって、戻って来たんです、と返事をしながら、柄黒の顔はまだ険しく青鬼を見ている。

「言っておくが、誤解だぞ」

 青鬼は開口一番に、弁解した。

「信用出来ません」

「弱ったな」

 弱ったと良いながら、全く弱った様子のない青鬼に、田保はまた少し腹が立った。

「おまえが管理部に行くかと思っていたのにな」

 青鬼は聞えよがしに呟いて、ちらりと田保を見た。

「管理部になんか、行きません、ずっと第三に、田保さんの下にいます」

 言い切った柄黒に、田保は慌てた。弥助は柄黒を褒めていたのに。なかなか筋が良いと言っていた。

「第三の、ただの営業マンが、俺に勝てると思うのか」

「っ」

 青鬼はふんと鼻を鳴らし、厭味ったらしく腕を組んだ。

 やっと、田保は青鬼の考えがわかった。

 青鬼は、自分が田保に気があるように見せて、自分の田保へのちょっかいを防ぐために柄黒が第三に残るか、第二に来て自分を見張ると言い出すよう導いている。第二に来てしまえば、自分が田保に手を出すなどという事は、ありえない事だとわかるはずなので、まずは柄黒の身柄を第二に移したい。そのために、田保に気のある素振りをしている。

 しかし、この策は前提として……。

「どうして、わかったんですか」

 柄黒が低い声で、青鬼に問うた。

「俺が、田保さんを好きだって事」

「おい待て」

 慌てた声を上げた田保を無視して、青鬼と柄黒は睨み合った。

「俺も前から目をつけていたから、同じ獲物を狙う者の目はわかる」

 くっ、と声を上げて、柄黒は青鬼と田保を交互に見た。そして、拳を握った。いや、騙されるな、柄黒。

「わかりました、俺は、第二に行きます、第二で貴方を見張り、田保さんを貴方から守る」

 青鬼は満面の笑みを浮かべ、そうかと頷くと田保を見た。

「聞いたか田保、彼は第二に来るそうだ」

 新しい玩具を手に入れた子どものよう。

「柄黒、おまえ、そんな決め方……っ」

 田保は呆気に取られて、注意をする事が出来ずにいたが、これは由々しき事態である。どうやって、説き伏せようかと頭を働かせるが、上手く考えがまとまらない。

 そんな間にも、柄黒の気持ちが、どんどん固まって行ってしまうような気がして焦った。もう何を言っても聞いて貰えないような気がする。

「ちょっと待ちな」

 そこに、良く通るすっきりした声が響いた。

 開け放しの戸から赤鬼と鶴が顔を出した。見るからにげっという顔をした青鬼に向けて、人形のように整った鶴の顔が、凄みのある笑みを浮かべた。赤鬼と鶴の他、弥助も居る。三人が部屋に入って来ると、青鬼はハァと深い溜息をついた。

「このやり方はフェアじゃねぇ」

 鶴は大親分であった頃の、ギラついた目で部屋の中を見回すと、柄黒を見つけてにっと笑った。

「安心しろ柄黒、この青ノ旦那はな、こっちに居る赤ノ旦那の色なんだよ、二人はそりゃぁもう真剣に愛し合っててよ、互いしか見てねぇ……、なぁ両旦那?」

 赤鬼が頷き、青鬼が下を向く。

「だから柄黒、おまえは何も心配する事ぁねぇ、自分で行きたい方に行けば良い」

 恐らく、青鬼が事を起こすのを、現行犯逮捕で取り押さえるために待っていたのだろう。このタイミング。

 柄黒は感動で、震えている。田保は、あと少し早く来てくださいよ大親分、と生娘のような気持ちになっていた。

「弥助」

 大親分は今度は、今は上司にあたる己の手下を呼んだ。

「へぇ」

 弥助は自分の立場も忘れて、すっかり手下の心で返事をした。

「おめーもだ、俺ぁしっかりやってるつもりなんだが、成績がおっつかねぇ、これは確かに情けねぇ、かつての子分に心配されて、まったく悔しい事だがよ、何れ結果は出して行く、俺を信じて、早まった事はしてくれるな」

「でも、大親分」

「やりたい事をやってくれ」

 かくん、と弥助が項垂れて、部屋には数えて二匹の、項垂れた妖怪が出来上がった。赤鬼は柄黒の肩をぼんと叩き、青鬼の頬をぐいっと抓るとその場から去り、鶴がその後に続く。弥助が、おい行こうと声を掛けて来たので、田保は項垂れ妖怪二人を置いて、その部屋を後にした。

 

 後日、柄黒は弥助の補佐に付いた。それからすぐ、第一に入る事が決定している、ヤマネという営業マンと、第二に入る事が決定している波助という営業補佐が第三営業部に入って来た。ヤマネはあのヤマネである。一体、どこから見つけて来たのか。三つの矢が第一に揃おうとしている。弥助は柄黒が仕事を覚え次第、第一の営業に入ると息巻いており、田保は『怪PR社』の行く末は安泰だなどと老年寄りのような気持ちになった。

 

 問題なのはあれから、田保は柄黒に何度か個人的な飲みに誘われるようになった事である。五人目の妻は男にしたらどうだ、などとあの日、冗談で言った事が本当にならぬよう、気をしっかり持たなければ、と密かに構えている。

 

 

 

2:10 2013/12/08