からめ

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からめ

創作BLを公開しています。

『筋肉と恋人』(悪女×男前)

 出資者の指示で育て屋ベケットに会った。
 ベケットにはすでに弟子が一人。
 この弟子を倒せば、新しい弟子になれる。

 ベケットは大国フィオーレに目を掛けられている育て屋だった。ベケットに送り出してもらえれば、フィオーレの最高兵士『ゴドー』の地位を得るのも夢じゃない。『ゴドー』になれなくても、ジェキンス兵と呼ばれる高給兵士には、確実になれるという。
「初めまして」
 極めて男性的な低い声で握手を求めた。カラツボの中心地にある会員制ホテル、その最上階。
「リャマ・ビクーニャです」
ベケットだ」
 黒く四角いテーブルの横で向かい合って挨拶をすると、ベケットの厳しい視線が全身に刺さってきた。紹介者である私の出資者、ライさんの横で、ベケットは鼻の頭を掻いていた。
「握手は苦手なんだ」
 ベケットの手は、ズボンのポケットに隠されたまま。態度が悪い。手を引っ込めて、笑みを作る。
「私は現在、クレア・フィオーレ様、ザモ・マグラン様を筆頭に、ヴェレノ兵士新興会、ヴェレノ闘技部会、フィオーレ闘技部会、ヴィンチ健全兵育会、シグマ・ヴェレノ様、ジェド・ヴェレノ様、ニガー・ヴィンチ様、メディア・ルーキン様、アントニオ・トルテ様、ガザ・ヴィンセント様、こちらのライ・イフ・コープス様方からご支援いただき、兵役についております。先月フィオーレ一般闘技、青年の部で一等を取りました」
「最近の一般闘技は実力主義じゃないからな」
「……では何主義なのでしょう」
「享楽主義、おまえみたいな少し顔の良い優男に沢山応援票が入るだろう? そうすると実力者数名に大会から声が掛かる。負けてくれとな」
「っ……」
「無礼なことを」
 ライさんが声を上げてくれなければ、殴るか罵るかやっていただろう、気を静めるためにまた笑みを作った。
「元女としましては、容姿にご評価頂けてありがたい」
「女じゃ中の下だが男じゃなかなかのもんだ、男顔なんだな。おまえの性の選択は正しかった。武の才能も男の筋肉あってこそ生かせるものだ」
「……」
「だが信用ならん、女は女に戻りたがる」
「好きで男になったわけじゃないですから」
「リャマ君」
 ライさんに窘められ、はっとして口を閉じた。都合の悪いことを言ってしまった。しかし貧しさを理由に転換したことを、理解して欲しかった。
「好きで男になったわけじゃない? おまえは男になろうとしてなったんだ。もとから男で生まれて来たわけじゃないだろう? 何をとぼけたことを! 何が理由でも自分の選択に責任を持て。見かけが男で根性が女じゃ最悪だぞ、甘ったれが、潔く生きろ!」
 糞ジジイ。という言葉を飲み込んで、口端を上げた。頬がひくついている。こんな奴の下につくのは嫌かもしれないなぁ。
「リャマ君は今やカラツボで一番の強者ですよ。ヴェレノの紳士もフィオーレの淑女も、彼の噂を聞けば必ず出資すると言い出します。この私も……」
「うちの馬鹿が成人したら二番の強者になるぜ」
 ベケットは猫背でくたびれた中年男だが、目の光の鋭さは猛禽のようで油断ならない。自分の育てている戦士に自信を持っているらしく、緩い笑みを浮かべている。少しだけ好感が持てた。己の商品を信じ、誇っている育て屋は気持ちが良い。
「常に強者の弟子を取るのでは?」
 ライさんが詰め寄った。
「そいつがうちのに勝てるっていうのか」
「まぁお座り下さい」
 その後は延々と私の過去の戦闘シーン上映。テーブルの上に置かれたプレイヤーが、ヴーンと低く唸るのを聞きながら、滅多に口にできない高級なコース料理を平らげるのに集中する。上映が終わった後、ベケットは溜息をついた。
「リャマと言ったか」
「はい」
「男になりきれるか」
「どういう意味でしょう」
「女に戻る気は、ゼロなのかと聞いている」
「ゼロですね、今更、ここまで逞しく成長しておいて戻れませんよ」
「戻れたら戻るのか」
「……」
「戻らないと誓うなら、うちのと一戦やって、勝ったら弟子にしてやる」
 突然、潮の流れが変わったので驚いてライさんを見ると、満足気に頷いている。
「戻りません、誓います」
「随分簡単に誓うんだな」
 誓わないと一戦許さないんだろ。
 誓わないと良い職が遠のくじゃないか。
「私は、その、……裕福になりたくて、そのためには女とか男とか、こだわってられませんので」
「裕福?」
 ベケットが顔を顰めた。
「いや、あの、もちろん、誰よりも強くなることが一番の夢ですが、ついでに、その……、成り上がりたいな、と、思っていて」
「どうも、俺はおまえの人格は好きになれんな」
「私だってあんたみたいな面倒くさいオッサン、好きじゃない」
「……ふっ、だろうな、俺達は気が合わん、しかしおまえの戦闘力は本物だ」
「……」
「少し悩ませろ。おまえの誓いは無効だ。金持ちになるのが夢なら、金持ちになったら女に戻るだろうおまえ。それじゃぁ駄目なんだ。俺が育てたいのはフィオーレの『ゴドー』だ。フィオーレの守り神」
「守り神……」
「……二ヶ月俺の元に来い。弟子同然に鍛えてやる。その二ヶ月の間に腹を決める。おまえはうちの馬鹿より強い。だが、うちの馬鹿はおまえより意志が固い。悩みどころだ。二人を並べて考えたい」
 思わず、私とライさんは目を合わせて笑った。


「じゃぁ、決まりそうなんだ、弟子入り」
「うん、だから中央に引越しだ、ごめんね」
「なんで謝るの」
「もうここには来られなくなるから、寂しい思いさせちゃうなって」
 行き着けの娼館、馴染みの娼婦ユタの横に腰をおろし、髪を拭きながら冗談を飛ばした。
「寂しい思いなんか、させないでよ」
 つれない冗談が飛んでくると思ったのに、驚いて横を向くと、娼婦は真面目な顔で、私を見上げていた。小さな顔に乗った、つぶらな目と小さな鼻、たらこがちの唇が愛らしい。
「会えなくなるなんて嫌、あたしここ抜け出してあんたのとこ行くわ、そうしたら、お願い、買いとってなんて言わないから、盗んでとかも言わない、自力で抜け出すから、抜け出せたら匿って」
「そんな危険なことしないで、引越してもまた来るよ。どんなに遠くに行っても俺はユタの客だ、他の娼婦のところにはいかないよ、ユタだけだ、ね、だから物騒なこと言わないで」
「あたしもあんただけの娼婦になりたいの」
「……」
 若い娼婦は時折客に恋をすると聞いたことがあるが、もしかしたらこの娼婦は、私を好いてくれているのかもしれない。男の姿をしていれば、男の友人ができ、男の付き合いで娼館を知った。娼婦を可愛く思って、通うようになった。女体に欲望がわく自分に驚きつつ、そんな自分が嫌じゃなかった。挿し込むものがないから、痴態を拝むだけ。それでも楽しかった。
「あんたみたいな玉無し男、夫にしたいと思うの、あたしぐらいなんだから、あんたみたいな、優しい男、守れるのもあたしぐらいだしっ、子どもなんかできなくてもいいし、身体繋げられなくてもいいの、傍にいたいの」
 愛を感じて、思わず抱き寄せるとユタは泣き出した。
「ありがとうユタ、良い思い出にするよ」
「思い出になんかなりたくないわ!」
「俺はまだ家がない、君が来てくれても、迎えられる家がないんだよ」
 言いながら鼻がつんとして、涙ぐんでいた。
「また来るよ」


 ベケットの家は中央地の外れ、沼地の奥にヒッソリと、隠れ家のように建っていた。周囲を林が鬱蒼と囲っていて、近くまで行かないとわからないぐらい、その小屋は自然に溶け込んでいた。庭には少しの野菜や、薬草の類が植わっている。家の前には大きな男の子が待っていた。
 十四歳と聞いていたが、身長は百七十を越えているだろう。貧国カラツボでは珍しい、発育の良い子ども。彼は無邪気な笑みを浮かべ、私の少し前を歩いていたライさんに走り寄った。
「お久しぶりです、ライさん!」
「今日はおまえの後輩を連れて来たよ、歳はおまえより上だけどね」
 彼はライさんに向けた笑顔のまま、私を見て、笑顔を消した。少し怯えたように顔を顰め、家を見て、また私を見た。
「始めまして、……俺はリャマ・ビクーニャ
 沈黙。挨拶のできない子どもか? 
「……ゴドーです」
 ゴドーはやっと名前だけ漏らして、ライさんを見た。意地悪をされた弱虫のような顔つきだった。
「元からゴドーという名前なんだっけ、ゴドーになるために生まれて来たようなもんだね」
「……う、……はい」
 ゴドーは背の高い子どもだったが、私よりは少し背が低く、丁度口元に顔があった。見上げるゴドーの顔は男らしいがあどけない。緩い笑みを浮かべて、眉を上げるとゴドーは視線を逸らした。
「俺が怖いの?」
 聞くと、はっとして目を合わせて来た。
「怖くない」
「ホントに?」
 からかうよう覗き込むと、ゴドーは睨みを利かせて来た。
「ゴドー、この人は女の人だよ」
「えっ?!」
 ライさんの紳士な紹介に、思わず顔を顰めた。
「このタイミングで言わなくても」
「このタイミング以外にどのタイミングがあるんだ、言わなければ絶対に気づけないだろう」
 ゴドーの目が訝しげに、私の顔、首、肩、腕を巡り、がっしりとした腰をとらえた。
「どう見ても男だと思います、けど」
 下を向いて、素直な感想を述べる子どもの頭を撫でた。
「それでいい、俺は転換者だ」
「……」
 カラツボの子どもなら、転換者の噂を耳にすることがあるだろう。ゴドーは顔を上げ、合点のいった様子で神妙に眉を寄せた。
「出身は?」
 ゴドーからの質問。
「西」
「……俺も西だ」
「そう」
「逆もあるんだな」
「将来を見越すとね」
 娼婦の稼ぎが一番良い国で、男が女に転換することは少なくない。女が男になることは、あまり例がなかったが、兵士の人身売買業が賑わい始めているから、これからは増えるだろう。
「どう扱えばいいんだ」
「男にしか見えないだろ」
「まぁ」
「女扱いしてみろよ」
「無理」
「だろ」
 一度撫でた頭を、パンと叩いて笑う。私は恐らくこの時期、一番男だった。早くベケットの弟子になり、職を得てユタを向かえに行きたかった。ゴドーから居場所を奪うことになるという意識はあまりなかった。ライさんがゴドーを引き取りたがっており、ライさんのもとに行けば、ゴドーは幸せな子どもになれると考えていたためだ。
 二ヶ月の共同生活の中で、私はゴドーのやることなすことの全てで一つ上を行っていた。しかし、ついに明日、ベケットが判定を下すというところで、私は腹に激痛を覚えて医者の手に掛かった。女の臓器を持ちながら、男の成長をした身体にはやはり負荷が掛かっていた。女の臓器が、腐ろうとしていた。切除してしまえば、この先痛むことはなくなるというので、手術の予約を入れた。完全な性転換。迷いはなかった。ユタは女で、男の私を愛している。ベケットに事情を話すと、手を打って喜んだ。私に出資する偉い人達も皆、ベケットと同じ反応だろう。散り散りだが、辛うじている家族にも、ここ数年、男として接してきた。男として頼られて来た。私という人間は、男であるほうが都合が良い。
 女としての友達、女としての家族、女としての恋人、女の私は何も持っていなかった。誰も私という女を惜しまない。哀しい女の最期だった。
 男になるつもりの、男の私が少しだけ、同情で惜しんでやる。さようなら、野心家の大女よ、骨太の少女よ。

 性転換専門の、病院の待合室で番を待っていると、よく知った悲鳴が入り口から聞こえた。
「いやっ、私手術なんか受けないわ、離して、離してよっ」
 聞き違えるはずのない、ユタの声。数人の男達に取り押さえられて、引き摺られるように入って来た可憐な想い人の姿に、胸が一杯になった。ひと目見れただけで幸せになれる。私は単純な男だった。こんなところで再開しようとは。
「ユタ!」
 声を掛けると、ユタは私を見てはっとした。そして涙ぐんだ。
「どうしてこんなところに?」
「それはこっちの台詞だけど」
「……あぁ、リャマ」
「会いたかったよユタ……!」
 娼婦にはよく訪れる悲劇。避妊させられるのだろう。私は軽々とユタを取り押さえていた男達を蹴散した。訓練をつみ、屈強な男の腕力を持つ私に、軽く鍛えているだけの男数人を倒すのは訳のないことだった。
「リャマ」
 男達を倒し終えた私に、ユタは抱きついて歓声を上げた。
「好きだわ、大好きだわ、愛してるわリャマ」
「俺もだよユタ、家が買えたら迎えに行くからね、それまで元気にしているんだよ」
「駄目よ、今すぐ連れ去ってくれないと、また避妊手術を受けさせられるわ」
「……」
「私もう貴方以外と寝たくないの、家なんかなくていい、お願い、傍において」
 ユタの滑らかな頬に、骨ばった男の手を添えた。ユタの細く小さな手が、その手を握って来て、庇護欲を誘われる。
「本当に連れ去るよ?」
 ユタは艶やかに笑って目を閉じた。唇を重ねると、ユタは私の首に腕を回し、豊かな胸を押し付けて来た。
「騙されるなよ色男、そいつは男だぜ」
 息絶え絶えの声が、足元から聞こえた。倒した男の一人が、ユタを指差して笑っていた。
「え……?!」
 信じられない思いでユタを見つめると、ユタはみるみる青くなり、目に涙を浮かべ、口元に手を当てた。
「ごめんなさい」
「ユタ?」
「女になりたかったわけじゃないの、俺、いつでも戻りたかったから、貴方のために女になろうとしたけど、俺は男だから、貴方が好きで、けど俺は男なんだよ」
「っ」
 売られたユタの身はユタの意志に反し、女に作られていった。ユタはそれを不服に思いながら、軽い仕事を取るだけの立場でどうにか生きて来た。娼婦に下半身を求めない客の相手をしながら、自己の性への執着を捨てきれず、苦しんできたのだ。
「ユタ……」
 ユタは青い顔をしたまま、私に背を向けた。走って病院を飛び出したユタの後を追ったが、どんな道を使ったのか、何度か曲がられているうちに見失った。ユタが男であるなら、私も、女を捨てるのはまだ早い気がした。
 医者に相談をすると、今の男性ホルモンの注射に、女性ホルモンを加えることで、どうにか臓器の腐敗をしのげるという。
 しかし、私の選択はベケットの不興を買い、さらに想定外、ゴドーとの勝負に、私は敗れてしまった。
 私は、ベケットとゴドーの元を去らなければならない。ゴドーは私に対し常に捻くれて居たが、別れの朝だけ、素直に寂しいと言った。ライさんがゴドーを引き取りたがる気持ちが、わかったような気がした。良い子息になるだろう。


 私がベケットの眼鏡に適わなかったことで、私の出資者は三分の一になった。ユタはあの日、消えたきり例の娼館にも戻らず行方不明。私は一般闘技で地道に金を稼ぎ、アウレリウスの試験を受け、ヴェレノ邸勤務の身になった。仕事を覚えて、人脈の出来始めた頃、カラツボの娼館に行こうという話が持ち上がった。
 余所者の目で見たカラツボは砂っぽくて貧しくて、煌びやかで快楽ばかり主張する堕落した国だった。病気の検診を定期的にやっているという、会員制の、安全を売りにした店に入った。娼婦と娼夫を扱う店で、本館は男娼専門だという。店の天井には最新の大型テレビがつけてあり、娼婦や娼夫の宣伝映像が流れている。数人、娼婦とも娼夫とも取れない人物が混ざっており、その中に見知った顔。
「……、ユタ?」
「おや、お客さん、お決まりですか?」
「彼女を呼んでください」
 画面の中のユタは女の上半身と、女の仕草をしながら、下半身の男性器を扱いていた。ユタを指名した私を、仲間達が信じられないものを見る目で眺めた。しかし、私は気にせずにユタのため、財布を取り出した。
「……あっ」
 しかし、ユタはどうやら売れっ子らしく、馬鹿高い金額がついていた。
「遠慮、します……」
 上擦った声を上げた私に同情し、仲間達が財布を次々に取り出す。
「おい、俺8fまで貸せるけど」
「俺は5」
「……俺、2」
 持ってきた金は12f、仲間達に借りても27fで、ユタを買うには300f必要だった。桁が違う。
「誰が買うんですか、あんな金額で」
 思わずカウンターの男に質問した。
「ああ、あれは買わせないための額ですよ、すみません」
「……は?!」
「彼女、寿退社するんです」
 音が聞こえなくなるほどのショックを、生まれて初めて味わった。店内の騒がしさがまったく耳に入らない。
「どういう意味でしょう?」
「妻として引き取られるんですよ」
「本人は納得しているんですか?」
「しているみたいですね、相手方はあの状態を認めて下さるみたいで、それが決め手になったとか。あ、あの状態っていうのは、身体のあの状態のことですが」
「……はぁ」
 暗い声で応じた後、出入り口に向かった。もう女遊びをするような気分ではなくなっていた。
「リャマ、どした?」
「帰る」
「えっ、なんで」
「あの娼婦知り合いだったのか?」
「昔の恋人」
 店内がシーンとなり、皆が私に同情の目を向けた。

 仲間達と別れて、一人ヴェレノへ。拾った車の中から、街の端で、現地人と乱闘する婦人の姿を見た。恐ろしく強い彼女の、美しい顔に見惚れながら、見覚えがあるなと記憶を辿る。……上司だ。
「ルーキン様」
「あらやだ」
 車を出て婦人の手を引き、車に招いた。
「誘拐でもする気かしら、怖いわ」
「お助けしたつもりです」
「ふふ、そうなの、じゃぁありがと」
「何故こんなところに?」
「女の子を買いに……、うっかり街の端に迷い込んじゃって」
「女を? ……婦人が?」
 怪訝な目で見てしまった。婦人は少しだけ不機嫌な顔になり、私の股間を掴んだ。
「ふぎゃっ?!」
「貴方だって女のくせに女を買いに来てたんでしょ、おあいこじゃない」
「俺は男です」
「ナイくせに」
「怒りますよ」
「女になりなさいよ」
「はぁ?!」
「付け加えると、私の女になりなさい、貴方の顔好みだわ」
「……両刀なんですね」
「いーえ、レズビアンよ、貴方をおんなのことして、可愛がりたいの。ね、このままじゃ性欲がおさまらないわ。リャマ、できるでしょ、……貴方は、女の子を」
 婦人の手がなかなか股間を離れないので、気恥ずかしくなって来て顔に熱が集まる。
「なぁに照れてるの、可愛いわね」
「ちょっと手、やめて下さい」
 婦人の手はいよいよ、いやらしく動いて悪戯をはじめていた。
「あの、……っは、だから、やめろって!!」
 思わず大きな男声で、婦人の腕を掴む。
「勘弁しろ、俺は今失恋で胸が一杯なんだよ! 何がおんなのこだ、見ろこの身体を、どこを切っても太い骨と筋肉だ! 柔らかさなんて欠片もない、顔だって男らしく厳ついだろうが」
「でも女の影があるわ」
「っ」
「おんなのことして愛されたことある? くすぐったくて気持ち良い思いをしたことがある? 私は貴方をおんなのこにできるし、おんなのこの貴方を愛せるわよ?」
「……」
 大きな手で顔を覆う。太い眉を親指でなぞりながら、砂っぽい外の景色を眺めた。誰からも求められなかった女の自分を、求める人。顔を覆う手の指に、婦人はキスをして来た。世の中には自分が男だとか女だとか、ハッキリと認識して、主張できる者がいるらしいが、リャマの場合は違う。どちらなのかわからない。いつまでわからないままなのか、それもわからない。不安に駆られて婦人を抱きしめようとして、逆に抱きしめられ頭を撫でられた。


2011/10/02



お時間ありましたら、かまってください……
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『幸せな馬』(下半身馬の男×総攻め色男)

丸二日、何も口に入れていない。

 亀を保護した馬はまだ目を覚まさず、馬の目が無ければ、この屋敷のものは誰一人亀の身を案じなかった。
『俺にも食事を出してくれ、働いてるだろ、馬の世話をしてる』
西洋の細長く高さのある食卓に着席はさせられるが、食べ物が亀の前にだけ置かれない。もくもくと食事する七人の西洋悪魔達は、せっかく亀が懸命に覚えたスペイン語で訴え掛けたのに、容赦なく亀を無視した。

昨日、倭語で主張したら何を言っているのか分からない、という顔と仕草で転がされたため、亀は健気にも必要なスペイン語を独学で覚えた。しかし予想できた事だがその労は報われなかった。
『なぁ、頼むよ、あんたいつも残すだろ、少しだけわけてくれよ』
上流階級者達の、プライドに訴える圧力など屁でもない。隣に座った見目麗しい婦人に、微笑みと目線で魅了の攻撃をかけてみた。
異国の珍しい顔立ちをした黒髪黒目で背の高い男に婦人が少しの興味を持っていた事を、亀は己が性的な手法で相手を言うなりにできる事を知っていた。
婦人は何か言いたそうな口の形を作って、物欲しげな目をしたが、大勢の目があるその場では行動出来ないようだった。

後でくれるかもしれないが、今欲しい。出来るだけ早く、一刻も早く何か口に入れたい。亀は攻撃の矛先を婦人から向かいの年若い男に変えた。
「俺が死んだら、兄貴、悲しむぞ」
目の前の男は、確か馬の弟だ。
馬の話では、兄弟仲は良好。馬が執着している亀に死なれたら困る筈だ。
「頼む、……あまりにひもじくて、うっかりお前の兄貴の耳、かじりそう」
弱々しく呻くと、声が掠れた。婦人と目が合う。

『両手を前に出せ』

弟馬が、唐突に命じて来た。やっと亀に何か与える気になったようだ。亀は食べ物を乗せやすいよう、ちゃっかり手のひらを上にして、手を出した。
『指は何本ある?』
五本だ、と相手にわかるように指の股を広げた。そこで気付いた。亀種の原型、水掻きがぬらりと己の指の間で光った。千年以上、完全な人型を保ち優雅に暮らして来た己の身が醜く型崩れしていた。それは、亀の心を冷水に浸した。
人を模して生まれるため、妖怪は人と同じ生命活動をする。つまり、ものを食べて排泄する。それをしないでいると人の姿が弱り、妖怪の原型が剥き出しになる。亀は長らく、己の原型を見ずにここまで生きて来られたので、妖怪としてとても恵まれていた。
しかし長く続いた悪魔達との戦争で弱っていた身に、強制絶食が追い討ちを掛けた。
完全な人型を保っている西洋悪魔達の中で、水掻きのある手を晒している亀は、明らかに劣った存在として薄ら笑いを向けられている。
亀の崩れた手を前に、東洋妖怪全体を見下すような空気が出来たためか、今度は配膳のために働いていた使用人、飛頭種の女怪が呼び止められた。弟馬は脈絡もなく、その女怪に服を脱ぐようにとスペイン語で命じた。
女怪は驚いた顔をして、その場で固まると、亀に視線で助けを求めた。
「あんたに服を脱げと言ってる」
「それくらい聞き取れてるわよ」
「どうする?」
「脱ぐわけないでしょ!」
「……俺はコイツらを力ずくで黙らせる事は出来るが、この家の中であんたの立場が悪くなるのは避けられない、……助けて大丈夫か?」
「……」
女怪は反射的に亀に助けを求めた一方で、職を失う覚悟は出来ていなかった。一時、耐えれば……という迷いが顔に出ていたので、亀は面倒臭くなり畳み掛けた。
「こんなとこであんたが裸になんかなったら、俺達東洋の妖怪は、ますますコイツらにとって動物だ、あんなみっともない手の股を晒した俺が言えた事じゃねぇけど」
「あの、……」
「なんだよ」
「……助けて」
消え入るような声だったが、確かに聞こえた。亀は屋敷の用心棒であるヴァンパイア達が来る前にけりをつけようと急いだ。
まず婦人から、続いて向かいの年若い男から、亀種は生き物から等しく命を吸うが、完全に吸いきるか少しだけ吸うかはコントロール出来る。婦人からは数分気絶する程度、男からは三日三晩苦しむ程度吸い込み、他は逃げ出す姿を眺めるに留めた。怯えを孕んだ悪態を亀に投げつつ、無力になったと思い込んでいた猛獣の牙に、慌てた様子が小気味良い。
しかし、亀から一番遠い席に座っていた少女の悲鳴は気になった。あんな金切り声で屋敷を走り抜けたら、せっかく寝たきりになっている馬を起こしてしまうかもしれない。
「ありがとう!」
誰も居なくなった食堂で、女怪は礼を口にしてから窓に急いだ。窓から飛んで逃げるのだ。
「ちょぃ待ち」
亀は窓枠に足を掛けた女怪に駆け寄ると、下から覗いて眉を下げた。
「なぁ、あんた、頼みがある」
「ごめんなさい」
一瞬、脈のある顔をしたが、女怪はすぐにそっぽを向いた。
「……まだ何も言ってねぇ」
「言わなくてもわかるわ、厄介な頼みね」
「俺もここから逃れたい」
「ごめんなさい」
「あんたに何とかして貰おうなんざ思ってねぇ、俺の身内に俺の居場所と苦しみを伝えてくれ」
「ごめんなさい」
女怪は亀の色仕掛けに負けぬよう、亀と目を合わせないようにしていた。
ダメ元だったが、取りつく島が無さ過ぎる。しかし、亀はめげない。
「……あんた、家族は?」
「兄が一人」
「俺にも妹がいる」
嘘だった。
しかし女怪は心を動かされたようで、溜め息をつくと、黙って下を向いた。それを、亀は了解と取った。
「この屋敷のすぐ傍、あんた、赤穂浪士は好きかい?……」
泉岳寺なら、行ったことあるわ」
枕詞から推測で、女妖は応じた。泉岳寺には、赤穂浪士の墓がある。
「その裏に竹藪があってな、……鶴、って男に口を利いてくれ」
「高輪の親分ね」
「よく知ってるな」
「地元だもの、……ついでに、あんたが悪魔どもと戦争して負けたことも知ってるわ」
「相性が悪かったんだ、あのヴァンパイアどもさえ出て来なけりゃ……」
「負けた奴等は皆そう言うわね」
「……」
好き放題言ってから、亀に活路を開いてくれた女怪は飛頭種らしく首を宙に持ち上げた。いよいよ飛び立つらしい。
「身体は口で運ぶのか?」
「まさか!顎が外れちゃうわ、こうして、腕を頭にしがみつかせるのよ」
「ふぅん……」
「あ、言っておくけど、私が飛べるからって、後で迎えに来て欲しいって追加注文は受け付けないわ」
用心深く、女怪は釘を刺してきたが、これには亀の方にその気がなかった。
「安心しろ、俺は位置が判れば移動出来る、鶴にこの結界さえ何とかして貰えれば、こんなとこ一瞬でオサラバだ」
亀にとっては何でもない事実だったが、女怪は敏感に二人の間にある妖力差を察知するとふんと鼻を鳴らした。
「何それ、凄いとでも言って欲しいの?足を使わずに移動出来る大妖怪様には、あたしみたいな魑魅魍魎の助けなんかいらないって?」
「何怒ってるんだ、お前が鶴に俺の窮状を知らせてくれないと、俺はいずれこの屋敷で悪魔どもに嬲り殺されちまうよ」
「……」
「あんた、名は?」
「ハナ」
「俺の命を頼んだぞ、ハナ」
「ずるい言い方」
「よぅく気負ってくれ!」
久しぶりに歯を見せて笑った気がする。ハナは恐らく処女だろう。求めるのに馴れていない野太い視線を寄越した。腕に抱えられた頭が、すっと亀の目の前に来た。亀はハナの頭を、ハナの身体から受けとると、ふんわりと軽い、駄賃のような口付けを施した。
ハナは数秒、亀を眺めると、名残惜しそうに飛び去った。
曇った空の向こうに小さくなっていくハナの姿が、すっと消えた頃、バタバタと足音を立ててヴァンパイアどもが駆け付けた。例によって、亀の命吸いは多勢のヴァンパイアを前にあまり効果を発揮せず、亀はものの数分で捕らえられ折檻部屋に連行された。
屋敷の隅にある使用人のための狭い部屋、そこに押し込められた後、タオルとバケツを持ってやって来たヴァンパイアは、男色の気がある三人だけだった。
二十数名要るヴァンパイア兵士は、半数以上が貧しく荒れた地で育った元人間である。若さ故のマウント的な性交を好むので性質が悪かった。
「ゥあ、……はっ、アッ……」
空腹の身体は、快楽で無理に力み、ギシギシと鳴った。体臭が濃く、恰幅の良いヴァンパイアの一物を尻に挟みながら、亀は声をどうやって堪えようか、その事に気をとられていた。
油断すると腰を捕まれ、中を掻き回すように抜き挿しされる。
「ぅンッ……く、ふっ、んっ……んン、く」
鼻から漏れる声は、快楽によって甘えた響きを持ち、亀を落ち込ませた。
倭国には亀のような背の高い男を力任せに犯せるような生き物は居ない。入道種や牛鬼種は巨大な身体を持っていたが、亀種を思うままに扱えるような力は持っていなかった。
「ふァ?!っ……アッ?!……ぁぁ、っやめ、そこ、……っあ」
すっかり感じやすい場所を把握されてしまった身体がビクビクと跳ねた。やめろと言い掛けておきながら、軽く腰を持ち上げて、その場所を責めやすいようにしている己の浅ましさに涙が出た。
興奮の滲んだ早口の異国語が、荒っぽく身体の上を飛び交っている。
「あがっ……ぅ、く、……んん!」
飢えで貪欲になっている直腸が、精液の熱と栄養を喜んだ。頭が破裂したのかと勘違いするような刺激を受けて、脚がビンとなり、息が止まった。
気を失っている間に悪魔は交代しており、貫かれる事で発生する揺さぶりで目を覚ます。
口内に生ぬるい舌が侵入していて不快だった。危うく噛むところだったが、踏み留まる。
加えて、亀の目が確かなら、今、亀を犯しているヴァンパイアを残して、部屋の中、気を失う前は生きていた二体は殺されて倒れている。それも、数秒前に。嫌な予感がして目を閉じたら、亀に被さっていた最後の一体も亀の上に命を失って倒れた。
「んぅ……っく」
死んだ男が体内から抜かれ、目を開けると馬が居た。久し振りに拝んだ馬の瞳は相変わらず青く澄んで美しい。
砂色の短い髪と筋肉質で大柄な体躯は、太っていたら相撲取りにもなれただろう立派さである。少しの丸鼻と、窪んだ目玉。西洋悪魔の顔立ち。
性交による臭気の漂う狭い部屋の中、馬は亀の友人だった頃と変わりない人型で立っており、少し笑っていた。
「酷い目に遭うのが趣味なのかい? 前もそんな姿だったね」
「どうやって殺した?……」
「彼等とは主従の関係がある、死ぬように命じたんだ」
「……契約ってやつか」
悪魔同士、主従の関係で結ばれている者達が、契約と呼ばれる呪いを掛け合っている事を、亀は先の悪魔との戦争で知った。
亀は個人で悪魔と闘っていたが、人脈があったので、何度か攘夷志士と力を合わせている。その際、敵の情報をきちんと集めていた集団から、そうした悪魔の文化を学習した。
「君がこの屋敷から外に出られないのも、契約のせい」
「っ?!」
「結界か何かだと思っていた?」
血の気が引くのと一緒に、全身から力が抜けた。
いつ、呪いを掛けられたのか。その呪いはどうやったら解けるのか。悪魔の技術は進んでいて、いつも亀の理解を超える。
契約とは何か。どのような仕組みなのか。どうしたら亀はこの屋敷から逃れられるのか。
そうして亀が幽閉される事となった馬の屋敷は、高輪の地下一層にあった。地上には、陽向に人の大名屋敷、日陰に鬼種や神々の街があった。所謂、高級地である。
よって、鶴は助けにくるなり文句を垂れた。
「何、高位悪魔なんかに捕まってんだよ!このオタンチン!ここまで入ってくんのに、いくら使ったと思ってんだ!」
馬に囚われてから十日、友情に熱い鶴種の岡引は屋敷のお抱え庭師の手伝いに姿を変えてやって来た。馬の留守を見計らって、亀の昼寝する部屋の戸を叩いて来た。
「面目ねぇなぁ親分」
部屋は二階にあったため、鶴は木の上である。小柄だがやせ形で骨のしっかりした岡引は、野性味のある美形だった。枝を持つ腕には筋が浮き出ていて、折角の円やかな頬には古傷が幾つか残っていた。色気のある造作をしているのに、艶の出し方を知らず、結果、せっかくの美形を腐らせていた。
陰間として仕立てたら上等になりそうだが、生憎、鶴は岡引業と子育て、無職の攘夷志士を援助するので忙しかった。
「何が親分だバカ野郎、心配させやがって!」
綺麗な岡引はつり目をさらに吊り上げて苛立ちを露にしたが、瞳には友の無事を喜ぶ優しい光が灯っていた。
そんな鶴に癒されつつ、亀は鶴をするりと部屋に招き入れた。鶴も素早く部屋に入り込む。
二十畳はあろうかという大部屋には、亀のためにと畳が敷き詰められていたが、そこは亀の部屋ではなく、馬の部屋だった。
亀は常に馬の脅威に晒されながら暮らしている。馬がその気になると、問答無用で性交の相手をさせられるのだ。
昨日、俺を便器と勘違いしてねぇかと軽口を叩いたら殴られた。
「赤ノ旦那は元気かい?」
「相も変わらず……!懲りずにまだ攘夷の志士さんをやってるよ!俺の稼いだ金でな」
「しょーもねぇ、……息子は?」
「クソ悪魔にバカ高い授業料を払って、勉学してる」
「大変だな……」
「大変だよ、……陰間でもするか?稼げるんだろ?」
亀が突っぱねる事を、わかった上での発言だ。
望み通り諭す。
「お前みたいに色気ねぇ奴にゃぁ無理だ」
「なんだよつれねーな、これでもほら、造作は良い方だ」
「そのご自慢の造作に古傷がある上、お前は骨ばり過ぎなんだ、まずそう」
「まず?!……少し傷ついた」
「そりゃすまん、せっかく助けに来てくれたのに」
「ホントだよ、バカ野郎」
雑談をしばらくやり、状況を報告。鶴もまた、悪魔の契約について、知ってはいるが仕組みがわからんと首を捻る。鶴はそれについて調べておくと言い残し去って行った。
馬はその日、帰ってくるなり亀を抱いた。
鶴の事がバレたわけでは無く、外で何か嫌なことがあったようで、不機嫌が亀の身に触れる指先から伝わって来た。
馬は亀を上に乗せ、快楽に弱い亀が、自分から腰を振りだしてしまうのを眺めては悦に浸る所があった。
「気持ちいいの? 亀?」
日中、鶴を招き世間話をした畳の、昼と夜の温度差を足で感じる。
はぁ、はぁ、と己の荒い息遣いを耳で感じ、体温の上昇を察知した。しかし、冷たい部屋は大きすぎて、亀の身体がいくら熱くなっても、しんしんと足先や、肩を冷やしに来る。
「っぁ、っ……ァっ、……っ、んく、……っぁ、あぅっ、ふ、……んぅ……っ……ぁ、く」
腰を振り、喘ぎながら、馬の反り勃ったいちもつに身体の内側の肉で何度も吸いつく。時々、絞るように締め付けながら腰を持ち上げて落とす。
自分がされたら、気持ちが良いだろうという事をやってやった。馬が満足すれば、行為は終わる。
早く眠るために、亀は努力した。
「奉仕してくれてるの?それとも淫乱なの?」
「……っぁ、黙っ……てろ……んっ、ぅん、ん……、ふ、んゥ」
亀を貫く馬の一物は、一度精を放ったが、まだ元気だった。まずい、と亀は頭の隅で最悪の事態を想定した。
「今日は少し、無理をさせるよ」
嫌な予感は大概当たる。馬は亀の腰を持つと、亀の小さな菊座から、ぬろん、と汁にまみれた己を抜いた。そして、亀を四つん這いにさせるとサシュッと蹄で畳を擦った。
馬は時々、人型をやめて亀を犯す。この方が、気持ちが良いのだろう、ごめんねと謝りながらいつもより精を放つ数が増える。
人の上半身と馬の下半身を持つ馬種との性交を、西洋ではどのようにこなすのだろう。後ろからのし掛かられ、尻穴をぐぬりと拡げられる感触の恐ろしさといったら無い。
ぬっ、と中を埋め尽くす体積。少し動くだけで悪寒がするのに、ぐむんっ、ぐむんっ、と長く素早く動き、内壁を容赦なく擦る。
「はっ、……ぁぐっ、……ぁ、……ぁっ、……かはっ」
腹に、時折ぽこんと盛り上がりが出来るたび、身体に力を込めて、怯えを示す亀の肩に、馬は前肢を掛け労った。
「君は……っ、愛しく思うと、制御できずに相手の命を吸うそうだねっ……?」
ん、と頭を縦に振って頷く。今、口を空けたら吐くか絶叫してしまう。ざぁっ、と熱いものが内部に注がれると、じんと腹が内側から温められる。
馬の動きが止まって、やっと息が出来るようになると、亀は恐怖による胸の痛みと喉奥の震えが堪えられなくなり泣き出した。
「はぁ、……、はぁ、はぐっ……、ゥ、ぐ」
「亀、契約は君の意思を縛る。僕から逃れようとか、僕を殺そうと考えたら、それが実現不可能になるんだ」
「っん、……く、……っぐ、……んっ……、っう」
「でも、君がもし、僕を愛したら、君は僕から逃れられる」
「ひっ、……ん、っ……、ぐ」
情けない事だが、涙と嗚咽が止まらず、憎まれ口も叩けなかった。
「君が僕を意図せず殺せた日、僕は最高に幸せな気持ちで死ねるだろう、……その日が待ち遠しいよ、亀」
「……は、……そんな日、……来るもんかよ、この馬野郎」
「愛してるよ」
馬は呟いて、また亀の身体の中で動き始めた。
「ぅア?!……やめ、……もうダ……、ぁっ、……、……や……っ、ぐ、……ァがっ……や、……ぁ……あ゛ぁっ……っ、ん、……は」
腕に力が入らず、頭を布団に擦りつけるようにして、足をがくがくさせ、尻穴に持ち上げられる形で、馬に揺さぶられている亀を、馬は容赦なく突き続けた。
「ふ、ぃウっ?!……ぐ、ーっゥァ、ん、……ぁ……っ、はぁ、うぐ、んゥ」
びくびくと腰を震わせ、ぐったり中を緩ませた亀の身に、鞭を打つようにまた性器を挿す。亀はまたぐすぐすと泣き出したが、馬は亀を犯すのを止めなかった。


好きで仕方がないのに、どうしてこんな酷いことをしてしまうのか。
愚かな馬の名はフェルナンドといった。
彼が倭に上陸してまず驚いたのは、男女の境が曖昧で、男の身体の線が細い事。その中で、亀は比較的大柄で堂々としており、男らしかった。
しかし、亀と密に話をする仲になり、亀と話をするために覚えた倭語が達者になった頃、フェルナンドはすっかり亀に恋していた。
それは小さな興奮の積み重ねにより形成された、色欲にまみれた想いだった。亀の身を隅々まで舐め回してみたい。気絶するまで精液を注ぎたい。
始まりが友情であった分、背徳も手伝って欲望は加速した。
例えば顎の細い事や、髪質が柔らかな事、腰の骨の脆そうな所や、悪魔に比べて、身長の割に軽い体重など。
亀の身体の節々から、ふとした瞬間、妖怪特有の色香が漂う。その度に気が狂いそうな程、興奮した。
土地の運用を商売にしている男に、土地を買う資金を出すためだけに呼ばれたフェルナンドは、運用者の男に全てを任せ、亀とばかり会い、邪な想いを募らせ、結果、亀の身を滅ぼした。
フェルナンドが亀を無理矢理抱いた日、亀がフェルナンドではない、可憐な妖怪に恋していた事を知った。
その妖怪と亀との仲を裂こうしたら、亀に攻撃され重体となった。フェルナンドは資産家で、格の高い貴族だった。
亀はフェルナンドの敵討ちの対象として、フェルナンドに恩を売りたい悪魔達に攻撃された。
亀が運営していた陰間茶屋は潰れ、亀が愛し、傍に置いていた陰間達は、亀と離れ離れになった。

今になってわかったことだが、フェルナンドは亀に恨まれていることを恐れていたが、望んでいた。亀が、フェルナンドを殺したくて日々フェルナンドを殺害する計画ばかり練って過ごしている。それは素敵なイメージだった。そうなった亀の頭の中は、フェルナンドで埋め尽くされている。
しかし実際の亀は、あまりフェルナンドに興味を示していなかったばかりか、名前さえおぼろ気で、愛しても憎んでもいないという態度だった。
フェルナンドはどうにかして、亀を夢中にさせたかった。
しかし、亀はどんな酷いことをしても、その時に怒りを示しはするが、フェルナンドに対し、強い感情の高まりを覚える事はなかった。翌日にはけろっとして、何か諦めたような態度で接してくるのである。
意のままにならぬ亀への感情は、フェルナンドの中でばかり肥大化して行き、亀の一挙手一投足に振り回される日々が続いた。
元来、優しい気質故に、恨まれるための無体をする事がフェルナンドには段々、辛いことになった。すると、優しく接する場面が増えた。
次第に亀も笑顔や親しみを見せてくれるようになった。性交も、亀の気が乗らない時は諦め、亀の気持ちを高める努力をして、行うようになった。
そうしてある日、留守にしていたフェルナンドは、帰ってすぐ目にした花瓶に歓声を上げた。綺麗に飾られていたのは、フェルナンドが密かに咲くのを心待ちにしていた花だった。
亀が、フェルナンドの心を汲んで花を摘ませたという事が、後になってわかった時の興奮たるやいかに。
いつもは部屋に閉じ籠っている亀が、花瓶の置かれたテーブルについて本を読んでいた事。喜ぶフェルナンドの顔を見て、悪戯の成功した子どものように愛らしく、にやりと笑った。
またある日、ただの癖なのだろうが、フェルナンドの突き出た額の、性交で滲んだ汗を亀が拭ってくれた時の事、そのついでに頭を撫でられて、それだけで喉奥が爆発するような、心臓を素手で握られたような心地がした。

フェルナンドは、じわじわと亀と自分の心の距離が縮んでいることを実感した。そして、亀を溶けるほど愛した。愛されたいと願った。
亀に愛されるということは、殺されるという事。
亀に殺されるということは、過去、亀に働いた自分の様々な無体が帳消しになるという事。早く亀に、自分を愛し、殺して欲しい。
願いはある夜、叶い掛けた。
いつもの寝室、性交の後、亀を腕に抱いて寝ていた時、窓の外には桜が満開で、月明かりに照らされて綺麗だった。行為の後は、疲れて寝てしまう亀が珍しく起きていて、心細そうな声で、過去に養っていた陰間達への想いを口にした。
無事でいるだろうか。
フェルナンドは何の気無しに、様子を見に行こうかと気遣いの言葉を掛けた。自分は彼等に対し、償いをしなければいけないし、亀の身を滅ぼしたのは自分で、とても後悔していると、初めて漏らした。
心からの言葉だった。
「っ?!」
骨を縮めるような、内臓が酸で分解されるような、胸につまる痛みを覚えた。それは、亀に愛された印だった。
喜びと興奮で起き上がると、フェルナンドは亀に、その事を訴えた。
「亀、……ぁぁ、亀、胸が痛い、ありがとう! 僕を愛してくれた! 亀が僕を……っ!」
「っ……」
驚いたような、慌てたような、微妙な表情で、亀はフェルナンドから目を背けた。
「嬉しい、……亀、……ありがとう、……叶わないと思っていた、……こうなることは、無理だと思っていた」
唇を奪って、口内を舐め回す。その間も痛みがあり、吐き気を伴う鈍痛が、骨の隅々を襲った。
「……やめろ、っフェルナンド、……」
「痛い、亀、全身……っ、砕けそうだ」
亀の足の間に、するりと指を入れ、くぬっと中を拡げた。
「……っンぁ?!」
ずるる、と亀の中に腰を沈めると、首の骨に割れるような痛みを覚えた。
「んぐ、……んん?! っ……っめろ、殺しちまうから、……離れろ、……俺から離れろ、……っ、バカ馬っ」
背骨に泡立つような、熱さを感じながら腰を振る。
「ぅ、っん、ぁ?! ……あっ?! ……ぁ、あっ」
「愛してるよ、亀、ありがとう、やっと通いあった」
ぎゅっと鼻に皺を寄せて、遠くを見る目をした亀の頭を撫でる。抱き締めると、にゅうっと中が蠢いて喜びを示してくれた。
「亀……っ!」
名を呼ぶと、ついに息ができなくなり、目の前が真っ白になった。

「亀……?」
終わりは突然で、しかし、フェルナンドの預り知らぬところで、計画的に進められていたようだった。
目の覚めたフェルナンドの傍、昨夜、熱く交わっていた相手、亀は消えていた。屋敷中、何処を探しても亀の姿がなく、屋敷の者全てに捜索をさせても見つけられなかった。
亀は友の力を借り、フェルナンドの元から逃れた。それはとても簡単な事だったのだが、思い付きもしなかった。
契約はつまり、亀の意思を縛るもの。
亀は友人に、亀を拐わせたのである。その事がわかるのは、事件のずっと後の事で。結果として、フェルナンドは亀に命を吸われず生き延びた。
当然、フェルナンドは亀を捜索した。倭国にも協力を仰いだ。
そこで紹介されたのが土地の岡引、鶴だった。
この鶴は、亀の雲隠れに荷担していた男だったのだが、この時は初対面で、亀との関わりなど想像すら出来なかった。
人形のように整った顔に、無数の猛々しい傷をつけた柄の悪い井手達と、乱暴な態度、無法者の香り。
しかし、土着の有力者らしい頼りになる受け答えと、的確な質問をされていくうち、フェルナンドは鶴をすっかり信用した。
いよいよ倭国内の、悪魔と妖怪の対立は激しさを増しており、妖怪で頼れる相手が、酷く限られていたのもある。鶴が全て任せて欲しい、フェルナンド自身には余計な行動をしないで欲しいと言うので、大人しく屋敷で鶴の働きを待った。
そして、優秀な鶴は二日後、亀からの手紙を持ってフェルナンドの元を訪れた。そこには、亀の切実な願いがしたためられていた。
愛したものの命を吸う、己の身の不幸を嘆き、これまで多くの哀しみを体験して来た事を訴えていた。
愛で殺してしまう恐れがあるから、フェルナンドと距離を置きたい事。亀がいかにフェルナンドを失いたくないか。フェルナンドの死によって辛い想いをするか。切々と綴られており、フェルナンドは赤面した。
亀の時折見せる寂しそうな、崩れるものを眺めるような痛々しそうな視線を思い出した。あれは、愛した故に滅ぼして来た者達の事を想っていたのだろう。
その手紙を読んで、フェルナンドは亀に再び会う事を諦めた。しかし、亀への想いは数日離れただけで転げたく成る程、強烈に募った。せめて、亀の姿を拝みたい。
鶴に頼んで、知り合いの画家を亀の元に送った。画家は西洋で名を馳せた緻密な筆致の天才だった。
画家はフェルナンドの元に、一月に一枚のペースで亀の絵を送った。細かな画家の筆遣いで、そこに生きているように描かれた愛しい亀は、始めこそフェルナンドを癒した。しかし次第に、フェルナンドの亀に触れたいという欲を増長させ苦しめる元になった。
それは、画家が性的な欲求に究極を感じる男であったことも災いしていた。画家の描く亀はいつもやたらと艶かしく、実際、亀という男は色を商売にしていたので、そうした空気を常に纏わせていた事もあるのだが。絵が、やたらと扇情的なのである。フェルナンドは亀への欲望が、再び暴力的な激しさを持って昂っていくのを感じた。亀が恋しいあまりに、大男の身で、泣き止めぬ夜もあった。
そんなある日、画家はフェルナンドに囁いた。自分は亀の居所を知っている。
画家の手では買えない貴重な美容液と交換で、亀の元にフェルナンドを連れて行く。
画家は、あの粗野だが美しい岡引の鶴に夢中になっており、鶴の顔の傷を何としても治したいと語った。フェルナンドは、画家の願いを聞き届け亀に会いに行った。
画家に美容液を施してやるという善行が、フェルナンドの判断を狂わせた。フェルナンドを失いたく無いという亀の心を気遣う気持ちが、亀に触れたい欲に負けた。負けたという意識もない、勢いのままの行動だった。

亀は泉岳寺の裏、竹藪の中にある鶴の家の庭先で、蟻の巣を眺めていた。
亀がフェルナンドの元を去って、丁度一周、季節が回り、庭は生命の匂いで溢れた、むっとする緑と鮮やかな花々で埋まっていた。
騒ぎを起こしそうな黒い雲の隙間から、青い空が急にぽっかりと出ている不思議な空。
真っ白の陽が、雲の切れ間から、沢山の植物のうち亀の周りにある少しだけを特別に照らしていた。
庭には敷石があり、フェルナンドはその硬い道を、革靴の音をさせて亀に近付いた。
「鶴は出てるぜ、油臭ぇから寄るなよキチガイ
フェルナンドを画家と勘違いしたらしい、亀は下を向いた姿勢を崩さず、こちらに、微妙に背を向けたまま声を掛けて来た。
「亀……」
名を呼んだ瞬間、シュワシュワシュワシュワと草むらで虫が鳴き出した。
亀は停止している。近付いて抱き締めると、盛大に胸を押された。亀はフェルナンドを突き飛ばそうとしたようだったが、覚悟して抱き付いたので、身体が離れ離れになる事はなかった。
「亀、……亀、亀、……っ」
名を連呼すると、亀は耳を塞いだ。しかし、腕の骨、頭蓋骨、背骨を、泡のようなものがジワジワと蝕む感触は、紛れもない亀の愛情だった。
「どうやって、ここに来た?!」
「会いたかった、亀、僕を恨む?」
「糞!! 離れろ!!!」
「会いたかったんだ!!」
いっそ、遠くへ逃れれば良かったのだ。フェルナンドを殺さないよう、やれることをやりきるとしたら、亀はフェルナンドが、簡単に場所を特定出来ないような場所にいくらでも行けた。しかし、そこまで徹底出来なかったのは、心の何処かで、このように出会ってしまう事を期待していたのだ。
「嫌だ、もう嫌だ、……失いたく無い、頼む、フェルナンド、……離してくれ、離れてくれ!」
「時間が無い、素直になって、この瞬間を最高にして、亀、幸せな死を、僕に送って、……勝手でごめんね」
恐る恐る、亀がフェルナンドの腰に腕を回す。フェルナンドのキスを受け入れフェルナンドに抱き付いた。
フェルナンドは亀とキスを交わしながら、中指を亀に挿入して、細かく震わせた。
「ふ、……ぁ?! っ……ぁ」
感じ入った声を上げ、亀がぎゅっと強く抱きついて来たその時、亀の姿が見えなくなった。命を吸われることは、即ち妖質の消滅である。頭から消えるとは、残念な事だ。
 愛しい肉の感触に包まれた指からも力が抜け、最後は革靴の中に収まっていた足の、微妙な冷えの感触だけが残った。それと、亀が愛しくて堪らなかったという、確かな感情が、その場に漂う。
 フェルナンドの消えた庭先で、亀がよろけて倒れ、フェルナンドの指を追って、己に指を挿入し、浅ましく一人で悶えたことを、フェルナンドが知ることは永遠になかった。

 フェルナンドの幸せな死は、色鮮やかな花々にしんしんと溶けていった。



2015.2.22

『可哀想な馬』(下半身馬の男×総攻め色男)

 葉月の末。頭上には青と白のクッキリした美しい晴れ模様が広がっていた。風鈴がひっきりなしに高く鋭い警報のような音を上げ騒いでいた。
 妖怪世界と人間世界、双方に向けて門を開いている陰間茶屋、江戸は芳町の『亀屋』を、主人兼仕込み屋として切り盛りしている亀は、朝から忙しく働いていた。
 その日は数ヶ月に一度ある大掃除の日だった。
 亀には一つ、企みがあった。近頃、懇意になった悪魔の友人、フェルナンドに陰間の味を教えてやろうという企みだった。
 大掃除は陰間達に一日暇をやって、あかなめの掃除隊を雇い大々的に行う。しかし、あかなめの掃除隊は仕事が早く、昼過ぎに解散となることが多かった。この日も例に漏れず早めに仕事は終わった。
 店に亀一人だけになってから、亀は満を持して、店で一番人気の陰間、白百合を呼びつけた。それから、あの憎めぬ悪魔を呼んだ。
 フェルナンドは既に何度か茶屋に顔を出しており、白百合とは馴染みだ。
「はァ、凄い、……興奮する、素敵だよ」
 しかし、陰間茶屋の奥座敷、招いた客は亀の予期せぬ、大胆な悪事に走ったのだった。
 でこぼこの、醜い顔に似合わず、優しく綺麗な声をしたフェルナンドは、うっとりと呟いて亀を見た。
 特別にタダで、白百合を抱かせてやると約束をして、白檀の部屋にフェルナンドと白百合を詰め込んだところまでは、順調だった。
 しばらくして、フェルナンドが亀を呼びに来た。白百合の具合が悪そうだというので、亀は慌てて駆け付けた。
 窓際、白百合は意識がなく横たわっており、駆け寄ろうとした亀の横を、身体の半分を馬にした悪魔が追い抜いた。そして、蹄で白百合を軽く踏みつけると、亀に服を脱ぐように命じた。
 日当たりの悪いその部屋の、畳からは白檀の薫りがして、大男が裸にされ突っ立っている情景を、滑稽さから少しだけ救ってくれた。
「それ以上近づかないで」
 気絶している白百合が心配で、裸のまま前進しようとした亀を、悪魔は嗜めた。
「君は命を吸う力があるそうだね、けれど、相手の懐に入らなければ、その力は使えない」
 亀種の生態は、西洋にも伝わっているらしい。事実だった。
「……どうしてこんな事をする? 俺が白百合を虐めて来たと思ってるのか? それは違う、愛情を持って育て、仕込んで来た」
「どうでも良いよ、それより、身体に油を塗ってみて」
 野郎が何を考えているのかわからない。愛しい白百合に、これまで春を売らせて来た亀が憎いのだろうか。
 しかし、亀を辱めた所で、白百合の屈辱が取り消されるわけではない。野郎に、それを分からせてやるにはどうしたら良いのか。
「早く、油を塗って、そこ、白百合の化粧台に乗ってる」
「こんな事して何になる」
「……僕の愛を伝えるには、これしかないと思ったんだ!!」
 呆れた男だ。と亀は蔑んだが、立場は弱い。この手の馬鹿は何をしでかすか分からない。
「一度白百合にきちんと聞いてくれ。俺は無理やり、陰間達を仕込んだわけじゃない、陰間達とは、信頼しあって商売をしている」
 興奮するための成分が含まれた店の油を、全身に塗りたくるには抵抗があった。亀はどうにか、油を塗る前に説得が出来ないか試みたが、悪魔は亀がぐずぐずしているのを見ると、前足でばすんと人質を軽く踏みつけ、亀を睨んだ。
「この子、人間だろ? 蹴っただけで死んじゃうね」
 八畳ある部屋の窓際、夕暮れの逆行が、フェルナンドの悪魔らしいシルエットを、ぐっと白壁に躍らせた。
「わかった、言うとおりにする」
 大事な店の商品を壊されたら困るので、亀は言われるままにした。部屋の隅に置いてある、白百合の化粧台から油をそっと手に取ると、それを全身に塗り込んで行く。手のひらには、男らしいゴツゴツした感触。筋肉質で分厚い、雄の身体が浮かび上がった。この身体は、興奮されるためではなくするためにある。
「次は、乳首を摩って、勃起させて」
「悪趣味だな」
 愛されるために性感帯を刺激される陰間達と違い、嘲られるためにそこを刺激される己を憐れに思った。亀の仕込み屋としての右手は、可愛い陰間をつくるために働くのであって、厳つい男の身体を、見世物にするため、働くのではない。
 顔を顰め、逡巡している亀に、フェルナンドは焦れて、また白百合を軽く踏みつけた。
「よせ」
 亀は慌てて叫び、恐る恐る、あるかないか分からない、小さな己の乳首を擦った。硬くプツリと膨らんだそれは、胸筋に貼り付いた小石のようだった。
 「なぁ、……楽しいか?」
 嫌な気持ちで問い掛けると、フェルナンドは飛び出た額に隠れている目を光らせ、触れたいよ亀、と囁いた。
 悪魔は興奮していた。
「っ」
 瞬時に、亀は身の危険を感じた。先程までの、性的悪戯への呆れとは違う、貞操への執着だった。陰間達にはは、早くに性の意識を低く持たせ、開放的な貞操観念を植え付ける癖、己の貞操に関しては、異様に重く受け止めている。その醜い心まで、実感して絶望した。
「次は、菊座だね」
 緊張した二つの目が、互いの腹を探りあった。そして、亀が観念した。ノロノロと尻の穴に中指を添える。
「っぅ、クッ……」
 油まみれの中指が、つん、と中に入った途端。酷い圧迫感で、膝をついた。
「手伝ってあげて」
 野郎が指示をすると、気を失っているように見えた白百合が、ぱかりと目を開けて起き上がった。
「白百合?」
「亀さん、ごめんなさい、私達、共犯なんです」
「?!」
「ほんの少しの辛抱ですから……、これが済んだら、この人は私を身請けしてくださいます」
「……ほんとか?!」
 白百合は妖怪を見、触れる事が出来る貴重な人間で重宝していたのだが、如何せん、人間には老いが来る。身請けして貰える見た目でいられるのは、あと二年が限度だった。
 焦る気持ちがあったのだろう、ポロポロと涙を流し、亀に縋り付いて来た可愛い店子を、亀は罵る気になれなかった。
「ご免なさい、ご免なさい、我が身可愛さにご恩を忘れて、こんなこと」
 恩も何も、これまで、散々白百合に春を売らせ潤って来た亀である。溜め息だけついて、納得の顔をした。
「……白百合」
 呼ぶと、白百合は近づいて来た。そして、亀の頬を撫でた。そのまま、するりとその手で肩を撫で、背中を擦り、尻の筋をなぞる。白百合の、丸くすらりとしている癖、確かな硬い男の指が、穴の中に入って来た。
「っ……」
 亀のような大男でも、尻で感じるように出来ているのだから、人体は不思議だ。妖怪は人体を模して出来ているそうだが、種族によって内部の造りは異なる。もし己の身体の初期設定を、己で決められるなら、亀は、亀のような厳つい男の尻からは、気持ちよくなるスイッチを抜いておきたいと思う。
「ゥあっ?!……っ」
 しかし、そこにはきちんと前立腺があった。白百合は優しく、そこを撫でた。くりくりと弄っては、擦って刺激する。額に脂汗が滲んだ。
「ア、……っぁ」
 むき出しの、快楽を司る部位を刺激され、亀は湿った声を漏らし射精した。かくんと足から力が抜け、膝をついた姿勢のまま屈むと、尻の穴が、白百合の優しい細い指に、ひくひくと吸い付いているのがわかり、恥ずかしくなった。
「亀さん、可愛い」
 白百合が呟き、指の数を増やす。
「っ、……ゥわ?!」
 悲鳴をあげ、白百合にしがみつくと、白百合の指は激しさを増した。
「何だろう、この気持ち、心が踊るよ、……亀さん、これは何?」
 油でギトギトの白百合の指が、クチュクチュと音を立て、中を荒らす。
「んっ、ん、……ゥ、クッ……うっ」
 声を抑えると、頬にキスをされた。
「駄目だよ、ちゃんと声出して、煽らなきゃ」
 亀の教えを、亀に囁く白百合の無邪気さが恐ろしい。
「っ……アッ」
 素直に声を出すと、ぎゅぅっと抱き締められる。耳の中に舌が入って来て、目の前が白んだ。白百合は影間を卒業しても、仕込み屋で食って行けるだろう。
「っ、あ、ぅ……んク、んん」
 白百合の愛撫に悶えながら、息を荒げ、フェルナンドを見上げた。悪魔は男の腕程ある馬の一物を赤く勃起させ、亀を眺めていた。
「ア、……まさか、あれ、挿れんのか?!」
 思わず、声を震わせた。
 野郎の馬である下半身に、怯えてへなへなと座り込んだ亀の身体を、白百合は宥めるように撫でてくれた。
「大丈夫ですよ、亀さん、私のようなもやしでは、あんなのに突き挿されたら死んでしまうでしょうが、貴方は丈夫だし、がっしりしていますから、耐えられるでしょう」
 西洋悪魔には多い種らしいが、日本妖怪にはあまり見ない、馬種。後で聞いた話だが、野郎がこれまで人の姿でいたのは、亀の気を引くために健気に実装していたらしい。
「……はっ、ぁウ、……ゥぐっ?!」
 ごり、と何か体積のあるものが、内部に入って来たと思ったら、白百合は指を四本揃え、手を半分程、中に突っ込んで来ていた。
「はぁ、凄い、こんなに広がるんだねお尻って、スゴクいやらしい…っ、ここ、こんなにしちゃって大丈夫なんですか? 亀さん、私、何だか怖くなって来ました」
「バ、カ……っ、っぁ、……一番怖ぇと思ってんのは俺だよッ」
 サシュ、サシュ、と畳に蹄が落ちる音がして、フェルナンドが近づいて来た。
「口でやる、口で、ちゃんと飲むから、こんなん突っ込まれたら死ぬだろ?!」
 頬を生理的な涙で濡らしながら、馬の下半身に乗った馴染みある上半身に懇願した。
 野郎は心底、亀が愛しいという顔をして笑うと、毛深い大きな手で亀の頭を撫でた。
「はァ、髪の毛、すべすべだね」
「っ」
「やっと触れた、亀」
 今なら、この悪魔の命を吸える。しかし、悪魔を殺したら、白百合の身請け話はなくなる。
「こんな事になって、残念だけど、……僕は君の事が、どうしても欲しかったんだ」
 悪魔は馬の下半身をしまい、亀よりも少し大きいぐらいの体格に戻った。膝をついて朦朧としている亀に、視線を合わせてしゃがむ。
「優しく抱くよ、亀、怖がらせてごめんね」
 それから、いつものおっとりした声で、亀を包み込むように抱くと、優しく耳を噛んで来た。白百合の指が、遠慮がちに身体から抜けると、今度は野郎の長い中指と、人差し指が二つ、入って来た。
「っふッ?!くっ……?!」
 内でぱくんと指が距離を取って、菊座を限界まで広げに掛かる。あぁ、俺は千年も生きた大妖怪でありながら、若い未熟な男のように犯されるのか。長生きをし、逞しく育ち、頼られる事に慣れた自分が砕かれる……。
 頭のどこかで、陰間達と自分を分けて考えていたが、とんでもない。運に見放された人間が行き着く先は同じなのだ。
「っうアァ……、ぁ、はっ……っ」
 人型になったとはいえ、大きめである野郎の一物の上に身を被せられると、切り裂かれるような衝撃が下肢に走った。野郎は一物が天を向くように座っていた。真下から貫かれる感覚に足から力が抜ける。
 途端、ずるずるずると勢い良く、ヌメったものが分け入って来て、背骨周りの筋肉が、きゅうっと攣りそうになった。
「ぃっ……ん、んんっ……く、っぁ、ぁ」
 裏返った声と共に、性器から雫が飛び、己の身体に舌打ちする。尻の穴を一物で埋められて達するのは陰間の中でも一部の層。仕込む側であれば、いいぞ筋が良い、おまえは天性の淫乱だと煽るが、我が身に起こった事件である。
「お尻慣れてるの?」
 野郎の心配そうな問いかけを無視して、脇に控えている白百合を見た。頬を紅潮させ、興味深げな様子だった。亀とフェルナンドが交わった事に対する、憤りは特に無いようだ。
「っぁ」
 腰を持たれ、揺すられる。
 乱れる姿を白百合には見せたくない。
「っひ、ぅ、……は、……ん、白、百合、……ぉ、んぐ、向こうっ、行……、っぁ、ア、っやめ……、……んぐ」
 白百合に、この場を離れるよう指示を出したいのだが、催淫効果のある油のついた指で、さんざん嬲られた尻穴が、溶けて熱く粘り、野郎の巨大な一物を貪るのに熱中しており、亀は言葉を発する事が出来なかった。
 足を折ったり伸ばしたりして、快楽を訴えながら、咽喉を開けて喘ぐ。野郎は嬉しそうに亀の腰を揺すりながら、亀を眺めて居た。
「亀、ねぇ亀、怖いの無くなった?」
「っぁ、ッァ、……っぁ、アッ、っぁ、わ、かんね……、くっ、ぁ」
「後ろ向いて」
 野郎は言って、無理やり亀の身体を押すと、白百合に手伝わせ、亀を四つん這いにさせようとした。
「抜い、うごか……すな、もう、抜っ……、う」
 長い一物は、亀に入ったまま、グリュンと滑らかに中を抉り、その鋭い衝撃に亀は気を失いそうになった。
「っは、っぁ……ぁ、ァ」
 はー、はー、と息を吐いて、四つん這いで息を整えていると、一度静かになった一物が、信じられない程、奥まで入って来た。
「っぁ?!」
 こつり、と肩に平たい圧迫を覚え、次の瞬間、腰を中心とした、胃や肺、心臓のあたりにまで響く盛大な悪寒がして部屋の隅、化粧台を見た。
「死、……ぬっ、だろ?!……やめ、っ」
 亀の身体に、馬が伸し掛って居た。長い一物の半分が既に中に収まっている。
「嫌だ、よせよ、壊れるだろそんなん、入るわけ、っぁ、あぁあぁぁああ?!」
 もこ、と下腹部が膨れた感触を肌で覚え、ヒヤリと額に汗を掻く。奇跡的に中は破れなかったようだが、それでも何かの拷問かと思うような体験だった。
 じゅわ、じゅわ、と熱いものが内側を浸して行く。馬が射精しているのだ。肛門が馬の逸物に擦られる音を耳で拾いながら、内部を得たいの知れない大きさの異物が掻き回す恐怖に歯をくいしばる。
「っ、……っは、ぅ、ぐ……んぐっ、っふ、も、……もう、やめ、ぅ」
 大量の精液が腹を満たし、内側で泡立っている。
 ふいに亀の頭を、白百合が撫でてくれ、安心のあまり涙が出た。
「白百合」
「はい」
「……白、百合」
 白百合の名を呼ぶと、落ち着く。
「さぁ、亀さん、もう大丈夫です、これで終わりですから、痛いのも辛いのも最後ですよ」
 白百合の言葉に、安心して瞬きする。涙がポタポタと溢れた。やっと終わる。
「んァ?!……っ」
 ゆっくりと動いていた馬の逸物が、突然深く沈み込んで来たかと思うと動きを激しくした。
「はっ、……は! ぁ……、うぁ、……っ、ん、ふ……っ」
 内部を擦る逸物は、亀が気を失い掛けるギリギリまで暴れると、また熱い液を振り撒いて、気がつくと下肢にぽっかりと風の通る道が空いていた。腿を伝いこぼれていく精液が、膝で冷えて気持ち悪い。
 しかし、これで白百合の余生は幸福なものになる。
 白百合は口が堅いから、この日の事は誰にも何も言わないだろう。フェルナンドは、想いを遂げられ、満足して白百合に良くしてくれるだろう。
 ここまでされたのだ、せめて白百合を養子にして貰おう。フェルナンドの財産は莫大だ。
「良かっ……はぁ、白百合、……これで幸せになれるな?」
 はぁ、はぁ、と喘ぎながら、やっとの思いで笑った。一度犯されるだけでもこんなに精神を削られるのに、影間達は来る日も来る日も客を取らされ、行為を強要されるのだ。改めて、己の扱う商品の歪さを実感し、申し訳なく思った。
「はい、私、幸せになります、……亀さん」
 目を涙で潤ませ、キラキラさせながら、白百合は笑った。他の陰間達より美しく、聡い白百合はいつも亀の気に入りで癒しだった。気持ちが沈んだ日は、白百合を休みにさせ、一日中傍に置き、話し相手にした。
「お世話になりました。さようなら」
 白百合がそっと頬にキスをして来て、嬉しくて今までの苦労が飛んだ。一人前になった陰間を、仕込み屋が抱く事は滅多にない。陰間に請われれば話は別だが、仕込み屋から誘うのは野暮な気がして、手が出せなかった。
 何かのはずみで、白百合が甘えて来てくれはしないかと思いながら、ここまで、見守るだけにして来た。それを今、後悔した。フェルナンドに身請けさせたら、白百合とはもうお別れになる。白百合の居ない店を想像して、切られるような痛みを咽喉と胸に覚えて、気がついた。
 どうやら亀は白百合を好いている。
 それは、気がついてはいけない事だった。
「ぁ……?!」
 白百合が青ざめ、胸を抑える。
「亀さん?」
 ぎゅぅ、と、胸を抑える手に力が篭る。
「ぁ?!……っ、すまん、……好きだ白百合、俺から離れろ!!」
 自覚すると早い。亀は叫んだ。
 白百合は弾かれたように、亀を拒絶し、亀の顔を己から遠ざけた。
「嫌だ、私が貴方に何をしたんです、キスしたぐらいで好きにならないでくださいっ」
「うるせぇ、おまえは前から俺の気に入りだったんだよ!! 早く逃げろ!!」
 亀種は愛でコントロールを失う。白百合が慌てて逃げようとするのをフェルナンドが止めた。
「何するんですか?! 離してくださいっ!!」
「亀は、白百合が好きなの?」
 フェルナンドは白百合の腕を、ギリギリと掴んで居て離さない。
「おい、馬鹿、そいつを離せっ、殺しちまう!!」
「がっ…、っぁ、苦しぃ、亀さ…っ、やめて…」
 白百合の苦しそうな声に、亀は頭に血が上った。
 強い酒を大量に飲み干したような、頭と心臓、胸に来る熱を覚えた。フェルナンドがドシャリと倒れ、白百合が驚いて亀を見た。
「さっさと逃げろ!!」
 亀はフェルナンドの命を吸い、気絶させた。咄嗟の事で加減出来なかったので、殺してしまった恐れもある。しかし、白百合は無事逃げ、命を繋いだ。

 この事件さえなければ、人気陰間茶屋『亀屋』は現在もまだ続いていたかもしれない。フェルナンドを半殺しにした亀は、悪魔達に裁判で有罪の判決を受けた。当時、倭国の法律は悪魔と問題を起こした妖怪を守る事が出来なかった。

 ここから、たった一軒の茶屋と悪魔勢力の戦いが始まった。よく半年も無事で居られたものである。亀は店を閉めて、悪魔と戦い、借金まみれになった。陰間達には暇を出したのだが、店の八割の陰間は居残った。
 襲われては撃退する。その繰り返し。次第に、闘いの目的はぼやけ、戦いの中で、亀に仲間を半殺しにされた悪魔達は、新たに亀への怨みと憎しみを蓄積させた。もはや、亀を破滅させなければ、悪魔側は納得が出来ないという所まで来ていた。
 フェルナンドは悪魔の中でも、位の高い男だった。そのため、フェルナンドの家によく思われたい悪魔達が次々と決起し、一大勢力を作り上げた。フェルナンドはわざわざ倭語を覚える程、倭を愛していたのに、どこでどう間違ったのか。

 亀がフェルナンドと出会ったのは、ある小間物屋の座敷前。
 フェルナンドは人懐っこく勉強家で、趣味がよく、亀はフェルナンドと話をするのが楽しかった。
 だから亀は、フェルナンドを己の切り盛りする陰間茶屋『亀屋』に呼んだ。気に入りの友人に、己が仕込んだ可愛い陰間を抱いて貰いたかったのだ。
 フェルナンドは亀の進めるまま、白百合と何度もお茶をした。しかし、白百合が誘っても、全く白百合に手を触れず、その気が無いのではないかという噂が立った。
 亀は腑に落ちなかった。フェルナンドに『亀屋』の話をした時、ハッキリと男が男を抱く場所である事を伝えていたし、フェルナンドは大変な興味を示していた。今思えばフェルナンドは、亀を抱くつもりでいたのだから、当然の反応だったのだが、この時はそれがわからなかった。
 白百合を気に掛ける癖、抱こうとはしないフェルナンドを、亀は最初、白百合に、本気で惚れてしまったのではないかと勘ぐった。
 それであれば、白百合はこの如何わしい商売から足抜けすることができる。その考えを白百合に漏らすと、白百合は大層喜んだ。以来、いつもどこか物憂げで口数の少なかった白百合が、フェルナンドと一緒に居ると笑ったりふざけたり出来るようになった。これで、亀のフェルナンドに対する評価はうなぎ登りになった。こいつに何としても白百合を預かって欲しい。
 早く身請けの話が出ないかと、茶屋の内部は沸き立った。
 しかし、悪魔は一向にその気配を見せず、白百合が焦れて、悪魔と寝たいのだと亀に漏らした。亀は、例によって白百合に甘かった。
 そこで、悪魔と白百合に、大掃除のあの日、奥座敷を貸してやったのである。

 あれから随分と、坂を下った。
 悪魔達の襲撃はいつも夜だった。亀は千年のエネルギーが尽きる程、闘いに妖力を注ぎ込んで、運命共同体のようになった陰間達を守ることに重きを置いた。悪魔には、妖怪を食したり犯したりすることに抵抗のない個体が多いのだ。陰間達が悪魔の手に渡らぬよう、力の限り闘った。
 それでも、ついに終わりが来た。綺麗な陰間達は戦利品として目をつけられていたらしく、兵士として闘いに出てきた悪魔達の手つきにはならなかった。その代わり、闘いに破れ、弱りきった亀の身に勝利の興奮がすべてぶつけられた。
 亀はあろうことか陰間達の目の前で、悪魔どもに輪姦されてしまった。
 悪魔たちの一物が出ては入り、中で熱液を出し、尻の穴を麻痺させるのを、呆然と、しかし痛みと悔しさで泣きながら、眺める事しか出来なかった。
 悪魔たちは亀の身体を二巡半し、駆けつけて来た鬼の自警団に、その行いを咎められ、やっと亀の身を離した。亀の育てた可愛い陰間達は皆、さらわれて姿を消していた。
 鬼の自警団は、悪魔達への切り札代わりにまだ本調子でないフェルナンドを、白百合に付き添わせ連れてきていた。フェルナンドは、輪姦され雑巾のように転がっていた亀を見て、悲痛な声を上げて駆け寄ると泣いた。泣いて、泣いて、泣きつかれ、意識を失った。
「あーぁ、可哀相なお義父さん」
 腿の裏、強い衝撃が走り、蹴られたのだとわかった。その部屋は、丁度、フェルナンドが初めて亀を抱いた、陰間茶屋『亀屋』の奥座敷、白檀の間だったのだが、もう白檀の香りなどしなかった。江戸も終わりに近づいて居る動乱の時『亀屋』は襲撃と貧困によって、ボロボロになっていた。
「白百合っ?!」
 亀の元に、白百合は九つで来たのだが、その時からもう、白百合の猫かぶりは完成されていたのだ。今、死に掛けの亀を、ぶすっとした顔をして見下ろしている男は、亀の愛した可憐な優しい陰間ではなかった。
「その名で呼ぶなよ、木偶の坊っ」
「?!」
「ははっ。壮観。恐怖の死神様も強姦された後は痛々しいね。凄い興奮する。俺そういう暴力受けたことないからわかんないんだよね、基本的に皆優しかったからさ、ねぇ、どんな気持ち?無理やりされるって、辛いの?
 俺、あんたと違ってか弱く見えるからさ、愛されて抱かれる事しか知らないんだ」
 何を言われているのか、わからずに黙っていると、また蹴られた。
「惨め?」
「っ」
 微かな血の匂い。亀を襲った集団はヴァンパイア種で、それに似た匂いが、白百合から香った。
「ねぇ、惨めかって聞いてるんだよ、答えろよ、俺の事好きな癖に、どうして輪姦とかされてるんだよ、馬鹿なの?」
「白百合、……おまえ、誰だ、白百合?……白百合?」
「ふっ、俺の本質わかってなかったのな、それでも仕込み屋か」
 恋は盲目、という言葉を言おうか言うまいか迷っていると、白百合はしゃがんで、亀の頭を撫でた。
「で?どうして反撃しなかったの?」
「っ」
 声を出すのも苦しくて、途中で言葉が途切れた。
「誰のために俺が人間やめて来たと思う、誰のために変態馬の養子やってると思う、あんたどんだけ俺を振り回せば気が済むの」
 亀の記憶の中で、笑っている白百合と、目の前の眉間に皺を寄せた、少し老けた白百合が、どうにも合致しない。
 白百合が過去、醸していた人間らしさは、弱々しさは、どこに行ったのか。
「俺、あんたなんか別に好きじゃなかったんだ、あの日、あんたが俺を好きだと気づいて、俺を逃がしたあの時からだよ。夜、いつもあんたが馬に突っ込まれて、ヒィヒィ言ってる姿を思い出して、興奮しちゃうようになったんだ!! どうしてくれるんだ、俺はあの茶屋を身請けで一攫千金して逃げ出したら、普通に女と結婚し、幸せになろうと思ってたんだぜ!! それがこんな、蚊みてぇな身体になってあんたのとこ戻って来るなんて、バカみてぇ」
「……白百合」
 亀は無意識に、手を伸ばした。白百合はその手を取り、指をちろりと舐めてきた。
「なぁ、さっきのも見たかったな、どんな風にヤられた? 嫌だって言った? やめてってお願いした? 力づくで屈服させられたんだよな? 悔しい顔したか? ……燃えるね! 俺、あんたのそういう姿に、そそられるんだって、あの時知ったんだよ」
 楽しそうな白百合の、口の中に大きな犬歯を見た時、白百合がもう、人でない事。亀の天敵である吸収系の悪魔になっている事に気がついた。
 ヴァンパイア種、チトリ種、飛縁魔種と数種あるが、どの種族も人間を含めた他種族を、仲間に招く力がある。
「白百合……っ」
 気付いたら白百合を抱きしめていた。
「……」
「白百合、好きだ」
「うん、今度はいくら吸っても死なないよ」
 別れてから半年しか経っていないのに、白百合は亀と同じぐらいの体格まで育って居た。白百合は恐らく、ヴァンパイア種になったのだろう。心身の成長は、身体のつくりが悪魔になったため。
「フェルナンドの家には、ヴァンパイア種が数人、働いてるんだ。仲間にして貰った」
 白百合は亀のために、人の一生を捨てたのだ。
「っ」
 今の白百合は、いくら好いても消えたりしない。安心して思いきり、愛しく思える。闘いの後で、流血の止まらない身体の傷を、白百合は丁寧に舐めてくれた。輪姦された事や、陰間達にその様を見られた事で、壊れそうになっていた精神が見る間に回復した。
 これからは、白百合がそばにいる。白百合を愛しても白百合を殺さない。これまでの沢山の不運や不幸、苦労はこの時を迎えるためにあったのだ。
「好きだ、白百合、好きだ、好きだ」
「うん、俺も好きですよ、死んでも良いくらい、好きですよ」
 白百合は亀に好かれる痛みに顔を歪めていた。
「不吉な事言うなよ、おまえはもう死なないんだろ、俺に好かれても大丈夫になったんだろ」
「うん」
「こんなに嬉しい事が待ってるなら、俺は輪姦ぐらい、何度でもこなす」
「バカな事言ってないで、眠ってください、貴方、足元消えかけてますよ」
 半殺しにされてからの輪姦だったため、亀はもう瀕死だった。
 もしかすると、このまま、死ぬかもしれない。愛しい白百合に抱かれて死ぬのなら、幸せな最期だ。
 安心して、目を閉じた。
 吸収系の化物が、亀種に対抗出来るのは、亀種に命を吸われても、吸い返す事が出来るから。
 亀が目を覚ました時、白百合は消えて居た。どうやら亀に命を吸わせておいて、亀から命を吸い返さなかったため、消えたらしい。

 事件の後、フェルナンドに軟禁され弄ばれる立場になった亀はふと、白百合が亀に働いた無体について、あれは白百合の復讐だったのではないかと気がついた。気がついたが、気がついたからといって状況は何も変わらなかった。
 ただ、苦味が口の中いっぱいにひろがっただけだった。

『甘味デート』(総攻め色男の失恋と友情)

 久しぶりに鶴の顔でも拝もうかと『怪PR社』第一営業部に足を運んだ。部員に声を掛けると部長室に通される。
 すると戸の前に、いつもの顔ぶれが立ち並んだ。
「……ヤのつく手下どもか、ご苦労な事だ」
 『怪PR社』営業フロアの、ガラス張りの壁と広い窓は陽光を程よく取り入れ、心地良いオフィス環境を提供している。お天道様の光を背に、鶴と揃って見目の麗しい鶴の子分達は、ギラついた目で俺の進路を阻んでいた。
「親分に何か御用ですか?亀さん」
 鶴のイチの子分、甘渋い男前の山神は、親の敵でも見るような目をして、じりっと一歩俺に近づいた。
「何だい、剣呑だなぁ、俺ぁもう堅気だぜ、そこどきな」
 鶴は『怪PR社』の第一営業部部長、俺は『怪PR社』の顧問弁護士秘書である。面会を阻まれる理由はどこにも見当たらない。そもそも江戸時代だって、俺が親父と仰いでいたやくざと、鶴が旦那と仰いでいた同心が敵対していたにも関わらず、俺と鶴は仲良しだった。
「なぁ、親父のつかいで立ち寄って、チョイと顔が見たくなっただけだ、イジワルすんなよ?」
「イジワルではありません、しかるべき措置です。貴方のような妖怪を親分に近づけさせるわけにはいきません」
「……俺のような妖怪って? 自虐のための陰間業で破滅仕掛けてたてめぇらの親分に、生き残れる陰間の立ち居振る舞い方を教えてやった良い妖怪のこと?」
「だまらっしゃい」
 事実、陰間の仕立て屋なんて俺の珍しい職のおかげで、鶴は生き残ったと思うのだが。どうだろう。
「恨むなら赤鬼を恨めよなぁ、それか鬼李。鶴が赤鬼に依存しちまったのぁ、あいつが鶴を袖にしたせいだろう?」
「責任転嫁しないでください、親分を完全な陰間にしたのは貴方です」
「……やれやれ」
 江戸時代、鶴は死んだ恋人の赤鬼を復活させるため、鶴種の自虐奉公を実践した。鶴の周囲はそれを止めていたが、俺は友人として鶴の意思を尊重した。やり方を選べ、慎重にやれと忠告した上で、俺は鶴に緩やかな破滅の道を示してやった。しかしそのことを、鶴が堕落したのは、俺に陰間の技を仕込まれた所為だと思い込んでいる奴等に言っても無駄だ。腑に落ちないが、冤罪を受け止めるのには慣れている。
「俺はいっつも貧乏くじ」
 ぼやくと、山神の後ろでヤマネが顔を歪ませた。
「黙れ死神」
 低い声でぼそりと言われ、怒りはわかなかったが悲しみが起こった。
 俺が、何度、妻子を吸い殺したか。
 愛する者の命を吸って、生き永らえる亀種への最大の罵り文句。
 咽喉が詰まって、次の言葉が出て来ない。
 ぐっと押し黙った俺を前に子分どもに少しの緊張が走り、不穏な空気を感じてか、近場に居た女子社員が人を呼ぼうかと腰を浮かせた。お前ら職場でガチの口喧嘩嗾けんなよ。
「ひでぇ事言うね、俺だって傷つくぜ」
 ギリギリ、応えられた俺に山神は少しすまなさそうな顔をした。

「其処ら辺にしてやれ、山神」
 そこでやっと真打、鶴が登場して俺は胸を撫で下ろした。目の下に疲れジワをつけて、少し老けた様子の鶴に胸が痛む。苦労しているようだ。
「おぉ、鶴、会いたかったぜ! 鬼李の坊はもうお国に帰ったか?」
「帰ったが今年はひと月だ、すぐ戻る」
 毎年四月になると、鶴の大切な恋人、鬼李はイベリア半島の地下にある『リ国』へ国賓として呼ばれる。
 そこは過去、鬼李が興し、帝として治めた国で、鬼李は未だに国民から人気があるようだが、民主主義のその国に、国王として戻る気はないとその人気に背を向けている。しかし年に一度だけ、こうして戻っては国の様々な相談事を受け、やれるだけの事をやって来る。ひと月から長い時は半年、帰って来ない。
「鶴みてぇな名器を腐らせちゃまずい、鬼李が留守の間は俺が使っておこうかと誘いに来たんだ」
 親父極まりない冗談を投げると、鶴は顔を顰めて舌打ちした。
「変態が」
「それ褒め言葉」
 山神が凄い形相で睨んで来ているが、俺に鶴を恋人にしたいという気持ちはない。
「仕事慣れたか?」
「まだあんまりだ」
 能力はあるが、器用じゃない鶴は、新しい仕事につくと出だしで躓く事が多い。鶴は目に見えて、就いたばかりの部長職に苦労しているようだった。
「甘味食いに行こうぜ」
「ああ、相変わらずタイミングが良いな、長蔵は」
 鶴は腕を上げて伸びをすると、さっぱりした顔で俺の横に並んだ。
「2階か?」
「2階」
 言葉の通り、俺と鶴で『2階』と呼んでいるそのカフェは『怪PR社』のある川越、時の鐘から徒歩1分も経たぬ所にある売店の2階に、ひっそりとある。良く陽の入る、森の中にある小屋のような雰囲気の、小洒落た内装。気持ちの良い木の床や白い壁に、自然志向のランチメニューと、凝ったスイーツの顔ぶれが揃い、若い女性客が溢れていた。男が居ても、それは女に連れて来た風の奴のみで、鶴と一緒じゃなければ絶対に入店出来ないその場所に、俺は今日もでかい身体を縮めて登場した。
 この店には妖怪店員はいなかったが、代わりに精霊店員がいて、元精霊の俺と鶴には少し懐かしい気持ちを起こさせた。
「こんにちわぁ」
 精霊らしい、整った顔立ちで、精霊店員が俺達に笑い掛けた。鶴がほっとしたような顔をして、おうと応じるのを眺めて俺も安心する。疲れている鶴が、少しでも安らげば良い。
「鶴さん!」
 唐突に、後ろから高い声がした。小柄な愛らしい青年が、息を切らして立っていた。
「天野?」
 急いで階段をかけ上って来たらしい、上の段に足を掛けた状態でぜぇぜぇと身体を揺すり、腿に片手をついて息を整えている青年を、俺と鶴はポカンとして見つめた。
「山神さんに頼まれてさ、俺も急遽だけど同席させて!」
 大声で叫んでから、もわっと口からニンニクの匂いをさせてゲップ。俺は少し眉間に皺を寄せた。鶴も引いたらしい、すんすんと青年の口元の匂いを嗅ぎ、じとっとした目になった。
「天野、おまえ、……この臭い餃子か?!」
「向かいのラーメン屋に居たら、急に山神さんが来て、鶴さんが胡散臭い奴と仲良くなり過ぎないよう見張って欲しいって」
 胡散臭い奴って、まさか俺の事かな。
 店のガラス戸にうっすら移る己の姿をチラ見する。図体こそでかくて剣呑だが、顔面はそれなりだろう。くっきりとした二重の目は少し大きすぎる所はあるが、アーモンド型の綺麗な形をしているし黒目がちだ。小鼻も小さいし、唇も薄く目立たず、上品に収まっている。
 灰色の羽織に、薄く萌黄の掛かった白地の着物、赤茶の筆使いで花唐草を走らせた自慢の春衣装は、大分爽やかだと思うのだが。
 まぁ、そうやって気合が入りすぎた爽やかが、逆に胡散臭いって言われるとそれまでなんだがな。
「山神の奴、使えるもんは何でも使うんだな」
「鶴さんには、いつもお世話になってるので」
 俺の嘆きを他所に、鶴と天野は顔を寄せ合い花の咲いたような景色を作っていた。
 天野という苗字から推測して天邪鬼種だろうか。中性的な童顔が愛らしい。しげしげと眺めていたら、やっと俺の方を見た。笑い掛けてやると、天野は一瞬ぎょっとした顔をして、チッと舌打つ。わぁ、やな感じ。
「天野くん? て呼べばいいのかな? 天野ナニ君?」
 声を掛けると、今度は少し口の中をもごもごさせ頬を染める。あ、なんだ、舌打ちは照れ隠しか。
 過去、妻に持ったことがあるのだが、天邪鬼種には自分の気持ちと反対の事を言ったりやったりする癖がある。
「アンタ、は……」
「俺の名はアンタじゃありません、亀種の亀 長蔵(かめ ちょうぞう)と申します、以後お見知りおきを」
「亀、さんって、鶴さんの間男?」
「違います」
「あー、天野、こいつは友達だ、……そういう関係を持ったことはあるが、過去の話で……」
「えっ?! そういう関係って?! 亀種と、そういう関係になって、一緒に居て大丈夫なのかよ、命吸われて殺されちゃうんじゃ?!」
「……」
 まぁ、そういう反応、慣れましたが。
「そんな見境ないみたいな言い方、やめてくれます? 愛してなければ、吸いません」
 亀種は、数が少ない割に良く物語に登場する。愛する者の命を吸って長生きする種族、なんて悲しい習性が、物語に使われないわけがない。人の世界には単純に長生きで目出鯛生き物として知られているが、妖怪世界では惚れられたら吸い殺されるなんて認識もあり、ちょっと異物扱いされている。
「いや、まぁ、そこは。仮に命吸われても、こいつになら良いかなと思えるぐらいの仲だから、気にしてねぇよ」
 大親友過ぎる返答をしてくれた鶴に感謝しつつ、そんな鶴の言葉に怪訝な顔をした天野に傷つく。
 生まれ種に対する不信感をぶつけられたのが、久しぶりだったせいだろう。そうだ、俺はこういう反応をされる存在だったなと実感してしょんぼりする。ここ最近、皆自分の心を隠す術に長け、俺に不快な思いをさせないよう気を遣ってくれるような面子と絡んでいたから尚更。新鮮な心の痛みを味わう。
 さて、俺達は窓際、階段と窓の隙間にある四人掛けのテーブルに収まった。鶴の横に座った俺を完全に無視し、天野は鶴にだけ見えやすいようメニュー表を固定した。
「おまえは豆乳チーズケーキ」
「うん、豆乳チーズケーキ」
 俺がいつも頼む品名を覚えている鶴に、注文を任せると、窓の外を眺める。薄い雲の綿が重なって光を遮っているが、青空が綿の隙間に見える、良い天気。
「俺はパブロバにしよう」
 パブ、何?
 ふいに聞きなれない言葉が耳に入り、鶴に視線を戻す。
「……珍妙な響きだ」
 きょとん顔で尋ねると、鶴は不敵に笑った。
「4月限定メニューの洋菓子だよ」
 言われて、季節限定のメニュー表を探すと、それは天野が手にしていた。天野に身を寄せて覗き込むと、天野がびくりと身を震わせた。傷つくから、そんな怯えないで欲しい。
 写真を見ると、パブロバはただのショートケーキに似ていた。
メレンゲと生クリームで出来てて美味いんだ」
「ふぅん」
「ふわふわとサクサクの食感が良いぞ~」
「ふぅん」
「作ろうとすると爆発するから作れなくて」
 それはおまえが作ろうとするからだろ。
「俺ぁもう今月に入って四度も食いに来てる」
 四度。
「そりゃ食いすぎだな」
 痛風の気がある鶴に対し、叱りを入れつつ、背の関係でこちらを見上げる形になった鶴に一瞬心を掴まれる。甘味の話をする時の鶴は、目を輝かせ、わくわくした顔をしているので非常に可愛い。思わずその頭を撫でた。すりすりと頭上を摩った後、後頭部をなぞり、耳をきゅっと掴んでから手を離すと、鶴は少しぽぅっとした顔をした。それから、はっとして怒りの形相を作る。
「おい、今、何した?!」
「気持ちよかったろ」
「こういうのやめろ、誤解されんだろ?!」
「誤解されたところで、事実は違う」
「馬鹿野郎、鬼李にそんな言い訳が通用すると思ってんのか?」
 噛み付くような唇の動きで、眉間に皺を寄せた鶴の頭を、また撫でる。
「まぁまぁ、鬼李は怖いが、俺も伊達に千年生きてねぇよ」
 鬼李の魂操縦の攻撃は、魂を吸う俺にはあまり効かない。
 そこで何時の間に席を立っていたのか、天野が人数分、セルフサービスの水を取って戻って来た。不思議そうな顔をして俺と鶴を見比べた天野に、鶴は溜息をついた。
「天野、改めて言うが、俺とこいつは何でもねぇ」
 天野はちらりと俺を見てから、複雑な顔をし、窓の向こうを見た。
「何かあっても、別に良いと思いますけど」
「あ?」
 天野が問題発言をした、そのタイミングで、俺の頼んだ豆乳チーズケーキと紅茶が来た。天野の頼んだおにぎりセットが続いて並べられる。渋い色の盆に敷かれた笹の葉に雑穀米の焼きおにぎりと、漬物、梅、ほうじ茶のセット。最後に来たのは鶴の頼んだパブロバで、ふわふわの生クリームがカラメルを覆い、苺ソースとドライ苺が華やかにまぶされている。……うん。
「パブロバ、美味そう」
 思わず指摘すると、鶴が大きな声で、だろ?!と応じた。大の男二人が、甘味を前にはしゃいでいるという光景も、月二のペースで見ていれば対して珍しくなくなるのだろう。店員や常連の中に、俺達を訝る視線はなかった。観光客らしい女怪二人組のみが、奇異の目をちらりとこちらに向けた。
 窓の外、足下の鐘つき通りでは、本日も観光客が賑やかに露店をひやかしている。
「一口くれ」
 強請ると、無意識だったのだろう、鶴はスプーンで取ったばかりの一口分を俺の口に直接ひょいと運んだ。
 その瞬間に、パシャと音がして何かと思ったら天野が卵型の白い折畳み携帯を構えていた。え、撮った?何で?
 鶴がパシンと天野の携帯を取り上げたが、その鶴の手を天野が弾き、携帯が開け放しの窓の外に飛んだ。アッと声を上げて腰を浮かした俺の目に、窓の下で携帯が落ちてくるのを待つ弥助が映った。
 弥助は不敵な笑みを浮かべ、落ちてきた携帯をキャッチすると、さっとその場を去る。……やられた。
「天野、おまえ、良い働きすんじゃねぇか」
 スプーンでシュッと宙を殴り、むっとした顔の鶴が天野に皮肉を投げると、天野は一気にしゅんとなり、椅子に座り直した。
「……俺、鶴さんが、亀種に吸い殺されるって聞いて」
「だから、そんな心配は無用って言ったろーが……!」
「鶴さんは綺麗だ」
「そりゃぁ、鶴種だからな?!」
 ちらり、と天野が俺を見た。俺は精一杯、爽やかな笑みを浮かべた。
「天野くん、本当に、……鶴の言う通り、心配はいらないよ? 俺、鶴みたいな賢くて面倒臭いタイプはちょっと好みと違うんだ、俺は、どっちかっていうと何も考えないおバカちゃんタイプが好きでなぁ」
「おい、俺だっててめぇみたいな自己愛野郎は好きじゃねぇぞ?!」
 ああもう、これだから古い妖怪は。少しオシャレが好きだとすぐナルシスト扱いするんだから。クソジジイめ。
「でも、アンタさっき、鶴さんの頭撫でてたろ?!」
「君だって、猫とか犬を可愛いと思った時、その頭を撫で撫でするだろ?」
「オイオイ、誰が猫とか犬だてめぇ、そこになおれ」
 お怒りの鶴の頭をまた撫で撫でする。可愛い可愛い。
「ところで鶴、撮られた写真、回収した方がいいか?」
「頼んで良いのか?」
「任されよう、その代わり、ここの払いはおまえだ」
「豆乳チーズケーキは?」
「テイクアウトにしといてくれ」
「あいよ」
 鶴の返事と同時にがたんと席を立った俺を、行かせまいとして天野も席を立った。そんな天野に鶴がぴしゃりと水を掛けて、俺は気を取られた天野の脇をすり抜け店を出た。
「悪いなぁ七郎、着替えを後で貸してやる」
 鶴の悠長な声と、つめてぇ、という天野の呻き声を背に、店の階段を降りた。売店前に出てから、カフェの入っている2階をちらりと仰ぎ見た。あっちに行った、と弥助の去った方角を指差し、窓から頭を出している鶴が居た。
「パブロバ食い終えたら、俺も追う」
 甘味最優先。鶴らしい。
 ザシザシと己の走る音が響く。街は午後の活気で溢れている。妖怪世界のビジネス街、外回りの妖怪達ががやがやと外を歩いていた。
「お兄さん、お兄さん、鰹節おにぎり美味しいよ!」
「味噌屋の田楽食べてかない?味の広がりには自信があるよ」
 食いしん坊の胸に刺さるお声が方々から飛んでくるが、無視をして進む。
 川越の小江戸、細道の溢れたこの街で、どうやって弥助を捕まえようか。弥助が普段、足を運んでいる場所はどこだろう。
 まずは情報収集。弥助は頭が切れるので、追手の一人である鶴が予想するようなところは避けるだろう。鶴以外の人間が口にする場所に目星をつける必要がある。
 出来れば、弥助が普段あまり意識せず言葉を交わしており、よもや、そこから情報が漏れるなどと思わぬであろう人物。友達未満の顔馴染み。
『お、久しいな、……そろそろ春物が仕上がりか』
 怪PR社における鶴の次の親友、マルセル・シュオに連絡を入れてみた。
『マルセル、悪い、急な頼みなんだが』
 マルセルとは着物の趣味が似ており、良いのを仕立てると自慢し合う仲だ。一緒に風俗に行く事もあるが、好みが似ているので、大体目当ての子の取り合いになる。
『何だ、何かあったのか? 金だったらねぇぞ』
『金じゃねぇ』
 確かマルセルはデザイン部、弥助の所属する管理部とは同じフロアだ。弥助と会話をすることもあるだろう。
『おまえんとこの管理部に居る弥助って奴、知ってるか』
『知ってるぞー、良く喫煙室で一緒になるからな、あ、丁度今目の前通ったとこ、代わるか?』
 時刻は午後三時。簡単な事だが、会社員なのだから休憩程度に外出する事があっても、普通はすぐ会社に戻るのだ。

 怪PR社の玄関口にあるカフェで、呼び出した弥助は不機嫌だった。
「営業妨害だぜぇ亀の御仁、俺にゃぁあんたに用なんかねぇんだ」
 顧問弁護士秘書の呼び出しを反故に出来ない弥助の立場を利用した。
「俺はある、なぁ、天野の携帯で撮影した例の奴、鬼李の坊には見せんでくれよ、面倒事はキライなんだ」
「ちっ」
 弥助は舌打ちをして卵のようなその携帯を俺に放った。それから煙草を口に運び、煙を吐き出すと今度は愉快そうに口端を上げた。
「『2階』から俺の姿を見つけた時のあんたの顔、傑作だったぜ、……これに懲りたら親分にもう近づくなよ」
 弥助が言うから憎まれ口になるが、迫力のない小童が口にすれば強がりになってしまうだろう台詞。
 俺は嫌味な程、満面の笑みを浮かべた。
「俺が近づかなくても、鶴が近づいて来る、俺達は仲良しだからな」
 言ってやると、弥助はまだ随分残っている煙草を、ぎゅぅと灰皿に押し付けて潰した。それから、懐から臭い消しの粒が入った缶を出して、口に数粒放る。襟首と袖に消臭スプレーを掛けてから、ゆったりと立ち上がって、じゃぁなと呟き消えた。俺の反撃文句など、完全無視である。嫌いだ。
「あれ、弥助さん、もう面会終わり?」
「マルセルか、サボりもほどほどにな」
「サボりじゃねぇよ、俺も呼ばれてるんだ」
 弥助とマルセルの会話が終わると同時、大柄な悪魔が、俺の前にぬっと現れた。
 金の髪を黒染めし、日本に帰化した今は妖怪の元悪魔。しかし風貌はどう見ても悪魔のマルセルは、相変わらずのバタ顔で俺の前に座った。
「よぉ」
 声を掛けると、マルセルはへらっと人好きのする笑みを浮かべた。過去、陰間の若衆に技を仕込んでいた、念者の極みに居るはずの俺をクラクラさせるぐらいの良い顔だ。これが過去、男という男、女という女を食いあさった野郎の実力である。
「貴方はやっぱり趣味が良い」
 マルセルのしみじみした呟きに、俺は気分をよくした。得意になって腕を広げ、くるりと回ってみせる。
「だろう? これはおまえに自慢しないとと思っていた」
 鼻高々になった俺に、マルセルは今度は優しく笑いかけ、うんうんと頷く。
「どこで作ったんだ?」
 マルセルの問い。良い問いだ。これは妖怪専門の老舗呉服屋で作ったのだ。
「東銀座の『しき屋』だ」
「はぁー、良いとこで作ったなぁ」
「ボーナスが飛んだ」
 散財を嘆いてみせているが、実はちっともこたえていない。ふぅん、いいなぁ、と感心してくれるマルセルに、今度は着物の柄を良く見て貰おうと羽織を脱ごうとしたところで思い出す。
「それよりこいつだ、パスワードが知りたい」
 危なく天野の携帯の件を相談しそびれるところだった。
「えっ、ナニ、他人の携帯パスなんて俺、知らないよ」
「おまえに聞くんじゃない、持ち主に聞くんだ」
 そこでカツカツと軽い足音、喫茶店の喫煙ブースに天野がやってきて、俺とマルクスの組み合わせを見てぎょっとした。
「おまえは他人を言いなりにさせる力があるだろ?」
「一回血を吸わないと駄目だ」
「じゃ、吸えば良い」
「そうやって、簡単に言うけどなぁ……」
 文句を言いつつ、マルセルが腰を浮かせ、天野が事態を悟り逃げようとする。ぶ、と声がして、天野は後ろから来た鶴にぶつかったようだった。でかした、鶴。
「長蔵、これテイクアウトの豆乳チーズケーキ」
 いや、ケーキの事は今はいい。まず天野だ。
「鶴さん!! ちょ、離してっ!!」
 しかし、そこはさすがの鶴である。逃げようとする天野の腕をがっちり掴んでの暢気さだった。
「天野、もう観念してあの写真を削除しろ、簡単だろ?」
 天野はしかし、ふるふると首を振り、きっと俺を睨んだ。
「つ、鶴さんには鬼李さんって心に決めた人がいるんだ、諦めろ死神!」
 出た、死神。
 また言うのそれ。良い加減泣いちゃうでしょ。
 マルセルが少し顔を顰め、天野と俺を見比べる。俺は天野の携帯を開いた。旧式の、折りたたみの携帯。白くて卵のように丸い。
 それをぱくんと開いてびっくり、待ち受けがマルセルだった。
「え゛っ、……え゛ぇえ?!」
 俺の、潰された猫のような呻き声に不審を覚えたマルセルが、俺の手元を覗き込み、ハ?! と声を上げて携帯から身を離した。
 うんうん、そりゃ、そうなるよな。気持ち悪いよな。どう考えてもこれは天野退治の流れだな。
「ばっ?! 閉じろ糞野郎!!」
 言葉使いの悪すぎる天邪鬼を無視して、俺はマルセルに見えやすいように、携帯画面をマルセルに向けて示した。
「な~んか、こういうの久しぶりだな? 昔は良く隠し撮りとかされてたもんなおまえ、やっぱ気持ち悪いなぁ」
 からからと笑いながら、悪意の言葉に同意を促す。
「黙……っ、黙れ、返せ!!」
 天野の声は細く弱く、裏返っていた。
「あ、もしかして君、昔マルセルのこと追いかけてた人?」
 冗談で言うと、天野がさぁっと青ざめた。マルセルを見ると、マルセルは天野の携帯、待ち受けを睨んでいる。難しい顔。これは相当辛辣な言葉をぶつける気だ。天野は額に汗を浮かべ、目を泳がせている。
 あー。ちょっとやり過ぎたかもなぁ。ごめん、今度慰めてやろうな。
「こういうの、心臓に悪いよ、七ちゃん」
 七ちゃん? 誰? 今度狼狽するのは俺の番だった。マルセルの頬が、ぶわっと赤くなる。ナニその反応。
「お、おまえが大嫌い過ぎるから、毎日顔見て呪おうと思ったんだよ!!」
 苦しすぎるだろその言い訳。天野の弁明にマルセルは口元を押さえ、照れをやり過ごそうと目を瞑っていた。
「何もう、可愛い、何なの、可愛いっ」
 ぶつぶつと漏れる言葉からして、マルセルは天野を好きだ。おいマジか。
 天野もマルセルを好きだし。おい。何だこの展開、面白くねぇ。
「惚気は他所でやってくれねぇか?」
 呆れたような鶴の声に、俺はやっとショックから立ち直った。そして、ピーンと閃く。
「そうだぞ、マルセル、俺というもんがありながら、・・・あんなガキに気ぃ取られんなよぉ」
 するりとマルセルの腿を左手で摩り、ぐぃっと身を寄せる。つぅっと手を足の付け根に持っていくと、もどかしい刺激になる事を知っている俺の手は慣れた動きで、そのまま中指で、留めの動き。トン、と腿の弱いところを叩いた。
「っぁ?!」
 マルセルがビクリと身を揺する。色男、堕ちたり。
「んな?! 何すんだ亀ぇ?!」
 天野によって頬を、俺によって耳を赤く染められたマルセルは真っ赤だ。
 余裕綽綽で念者の頂点に居た何様俺様悪魔様のマルセルはもう居ない。
「気持ちよかったろ?」
「こういうのやめろ!!」
 マルセルにがしっと頭を持たれると、さすがにぞわっと背が毛羽立つ。悪魔の大きな手は怖い。
「怒るなよ、頭持つな、髪が乱れるだろ」
「おまえが怒るような事するからだろ!!七ちゃんの前で!!誤解されたらどうすんだよ?!」
 その七ちゃんっていうのやめろ。なんか腹立つ。
「えー? 誤解ってなぁに? 傷つくぅ! あの沢山の夜達の事を忘れたの?」
 飲み明かしたり飲み明かしたり乱交したり。
「忘れたよもう! 忘れさせて!! 今は七ちゃんが一番大事なの」
「何だよ~、真面目か~? つまんねぇこと言うなよ~」
 おまえが居たから楽しかったあの頃。おまえを中心に回っていたダメ男達の集い。それなりに好きだったあの空気。
「忘れさせてくれないと、絶交するよ」
 ちっ、話の通じない。
「マルセルっ」
 天野が少し感動したような声で、マルセルを呼んだのも気に食わない。
「ごめん、俺、昔、奔放だったから、こういう友達結構いるけど、今は違うから」
 少しの間を開けて、天野が頷くと、マルセルは安心したように笑った。良い雰囲気だ。何でだよ。何でこうなった。解せぬ。
「なぁマルセル、おまえが七ちゃん一番でも、俺はおまえが一番だぞ? おまえが誰を好きでも関係ないね、七ちゃんからおまえを奪ってやろうな?」
 もう意地だ。天野にマルセルは渡さん。
 言ってやると、しぃんと場が静まり返った。俺に好かれるという事は、殺される事と同意義。
「その冗談、笑えねぇぞ長蔵」
 凍りついた空気に、実は俺が一番傷つくという事をわかっている鶴が溜息をついた。
 天野が、その大きな目からぽろぽろと涙を流し始めた。おいおい、泣くなよ。
「七郎」
 マルセルが今度は真面目に、天野の名を呼ぶと隣に呼んだ。
 天野は気配からして、数百年は生きてるだろう大妖怪のようだが、精神不安定な奴だなぁ。と呆れている俺を無視して、マルセルは天野の肩を撫でた。それから俺をちらりと見る。そっと右手を出し、親指を立てた。グッジョブ、ってか。
「嫌だ、マルセル……、嫌だ、俺……」
 天野は単純らしく、すっかり俺がマルセルを吸い殺すものと思っている。
「七郎」
 天野の悲しみに照れつつ、喜びつつ、マルセルは俺の嘘をどうバラそうかと言葉を選んだ。そして最終的に、涙の伝う天野の頬に唇を寄せていちゃつく道を選んだ。
 てめぇら仕事中だろ。
「なんて、嘘だ嘘」
 良い加減、面倒臭くなり白状すると、天野はきっと俺を睨んだ。
「天邪鬼種舐めんな、他人の言が嘘か真か、見抜くことだけは得意なんだよ!!」
 ん?
「おまえさっき、本気で言ってた、・・・おまえ、多分自覚ねぇんだろうけど、マルセルの事好きだよ」
「はぁ?!」
 今度は俺が青ざめる番。そんなわけあるか。ないと言ってください誰か。
「え、マジで?」
 マルセルの頓狂な声が響き、俺の全身からぶわっと汗が出た。あれ、これ、マジの奴か。
「え?!」
「だから笑えねぇって言ったんだ」
 鶴が忌々しげに吐き捨て、俺とマルセルを見比べた。
「まだ好きだったんだな?」
 同情したような顔で、俺を見るな。やめろ。
 うぅぅ、ぐすっと呻き声と鳴き声。天野がマルセルの命を惜しみ、本格的に泣き始めた。
「七郎、七郎泣くな、大丈夫だから、俺は」
 マルセルが慌てて、天野を抱きしめて頭を撫でてやるのを、むっとした顔で見つめてしまって、気づく。
 ホントだ、好きかもしれない。
「あれ? マジか、俺、マルセルの事、好きだ」
 ぽろりと告白すると、身体に心地良く生命の入って来る気配がした。
 対して、マルセルが胸を押さえ、顔を顰めたのを俺は見逃さなかった。
「亀、悪いけど俺には七郎が……」
 そこで言葉を切らして、マルセルは身体を丸めた。意識した途端に、タガが外れたのか、久しぶりだったからか。他者の生命を吸い取る力が抑えられない。どくどくと全身に血が回る、その血に全てアルコールが含まれているような、すぅっと酒の酔いが広がる感覚に似ている。早く気持ちを抑えないと吸い殺してしまうと、頭ではわかっているのに、本能に逆らえず、乾いた咽喉に水を流し込むように、ぐんぐんと吸ってしまう。まずい。
「こ、これが例のアレか!! 命吸われるって感覚? 胸痛ってぇ、身体んナカ、酸で溶かされてるみてぇ、胸に何か、興奮するみたいな奴がぐっとクるし、阿片キめたみてぇ、……やべぇ、これっ」
 マルセルが喫茶店の低いテーブルの上に、倒れ込んでぜぇぜぇと息を乱し始め、天野がマルセルの名を呼び、その身を揺するのが最後に見えた景色。
 俺はどうやら、鶴に蹴り倒されて意識を失ったらしかった。

「なぁ亀、見ろよこれ、可愛いの」
 『怪PR社』の医務室で、目を覚ました俺の横にはまさかのマルセルが付き添っていた。屋根裏部屋のように狭い、斜めの天井と一つしかないベッドの上、寝かされた俺の腹横に腰をかけたマルセルは、ぴんぴんしている。
「七ちゃんってさぁ、俺からのメール基本無視するんだけど、実は全部返信作ってたっぽくて」
 見せられたのは、天野の携帯の未送信メールボックスに、ずらりと並んだマルセルへの返信メール達の顔ぶれ。
 どれも長文の返信になっていて、きっと長文で送るのが恥ずかしくて、送るのを辞めたのだろうとわかり、和む。
「こういうところが好きなんだよ」
「ああ」
 ぽつりと言われて、納得して頷く。今は少し落ち着いて、マルセルが好きだという気持ちはない。
 どうやら好きだと言ってもごく軽く好きな段階だったようだった。時々、好きだなと思うぐらいの相手。俗にいう気になっている相手という段階だったのだ。良かった。
「なんか、ごめんなぁ。気持ち、応えられないだけじゃなくて、気づいてさえもいなくて」
 改まって、マルセルにその事を気に掛けられると照れる。そして、謝られると確かに、寂しさを感じる。マルセルとだったら、共に生きられたのに、という気持ちがぐっと胸に迫った。
「おまえがヴァンパイアだからって、油断してた」
 他者から命を吸うという点で、亀種とヴァンパイアは同系統。マルセルは俺が好きになっても死なない、数少ない他者だ。だから……。
「油断して好きになった」
「ああ」
 マルセルは俺に吸われた分の命を、俺から血を吸うという形で、取り返す事が出来る。
 マルセルなら、好きになっても殺さないで済む。
 その事実が大きかった。振り返ってみると、その事実があったからこそ、積極的に心のガードを解き、自由な感情を向けられた。好きになった人を殺し続ける、寂しい生き方に、俺は多分疲れていた。
「あー、気持ち悪い、目眩がするっ」
 やめよう、こんな反省会。先程からぐるぐると巡ってくる不快感を、大声で報告して身体を伸ばす。
「大分血を吸った」
 だろうね。俺も、大分おまえの命を吸った。それにしても……。
「吸うなら俺が目を覚ましてからにしろよ、せっかく血ぃ吸われんのって気持ちいいのに」
「知るか」
「俺の命吸い、楽しんだ癖に」
「まぁまぁ確かに気持ちよかったけど、殺されるかと思ったわまじで!! あの時は!!」
 俺も、殺すかと思った。
「大体、血吸いはほら、触れないと出来ないし、大量に吸うとなると噛み付く必要あるだろ? その絵面を七ちゃんに見られたら俺死ねるじゃん」
「あー」
 はいはい。七ちゃんね。七ちゃんが大好きなのね。わかったわかった。
「長蔵」
 そこで、医務室の戸の向こうから、鶴の声がして、マルセルが開けに行くと、鶴が居た。
「大丈夫か? さっきは悪かったな……、おまえがマルセルを吸い殺す勢いだったから技掛けた」
「おぉ、気にすんな、止めて貰えて良かったよ、むしろ」
 そこまで言ってから、鶴の後ろ、不吉な影を見て俺は息を止めた。
「李帝っ」
 青ざめて呟くと、鬼李は鶴を脇にどけて俺に近づいて来た。
「俺の居ぬ間に鶴とデートしたらしいね」
 地を這うような、恐ろしい声。
「友達だからな」
「ふぅん、友達が、こういうことするんだ」
 やっぱり送っていたか弥助よ。鬼李はアイフォンに映る、俺と鶴のラブラブ写真(天野が撮った、カフェであーんしている写真)を俺につきつけた。
「まぁ、それを言うならおまえもな」
 そこで鶴が、自身のスマフォを取り出し、美女を左、美少年を右に、接待されているのにも関わらず、頗る不機嫌顔の鬼李の写真を取り出した。
「あぁこれね、見てわかるように嫌々接待されている様子だけど?」
 鬼李は不機嫌がぶり返したらしく、刺々しい声で写真の状況を説明した。
「え?まさかこれを浮気とか言うつもり?」
 この言い方はずるい。鶴は少し言葉に詰まってから、悔しそうに顎を掻いた。
「言わねーけど、ほら、お互い様? っつーのか」
「納得出来ない!! 俺が国政の重くて難しい問題に頭痛めて頑張ってた頃、鶴は長蔵といちゃいちゃしてたなんてっ!!」
「あ゛?! そんなん、俺だって納得できねーわ、おまえは日頃、さんざん牛鬼といちゃいちゃしてんだろ」
「俺は牛鬼のこと本気で好きにならないけど、鶴は他の奴のこと本気で好きになるじゃん、赤鬼の事とか……」
 その、鬼李の言葉が、ぴりっと場の空気を刺激したのがわかった。
 鶴の周りの気温が、二度ぐらい下がったように感じ、俺は身震いした。
「……良い加減しつけぇ、赤鬼のことは、そりゃ好きだったわ、当然だろ。赤鬼は俺を信頼してくれてたからな!! てめーみたいに、俺を足手纏いっつって置いてったりしない」
「俺は鶴を危険に巻き込みたくなくて」
「もういい」
 鶴が疲れた声をあげ、医務室を出て行くと、鬼李は一気に殺気立ったが、ふとしてその気配を鎮めた。
 そして、ぐるりと俺を振り返り、言い辛そうに顔を歪める。
「長蔵、これは冗談じゃないから真面目に聞いて欲しいけど、本当にこれ以上、鶴に関わらないで」
 何回言われたか知れない台詞に、はーいと間延びした声で応える。
「君は死神の自覚をもっと持つべきだよ、誰かと関わるという事は、誰かを殺す恐れがあるって事なんだから」
 そんな事は百も承知だ。
「少しは周りの事を考えて、生き方を選んで欲しいな」
 暗に、他者と関わらずに生きろと言っている鬼李に、俺は笑いかけた。
「まぁ安心しろよ、鶴の事は殺さないし、鶴は俺になら殺されても良いと言ってくれている」
「……なるほど、わかった。君のことはもう封印してやれば良いのかな?」
「封印って、また過激だな」
 それは鶴が許さないと思うが、久しぶりに聞いた忌まわしい言葉に身が竦んだ。
「顔が青くなったね」
 鬼李の指摘に、俺はぎこちなく笑った。
 俺は過去に何度か、山の奥や海の底に封印された事がある。あれは無限の寂しさを味わう生き地獄だ。
 ただただ、誰かと関わりたくて、封印をした者を呪い邪悪になった。
 邪悪になったら最後、暴れて災害の原因になったりもした。
「鶴に近づくな」
 二度目の鬼李の忠告を、俺は聞き流し、笑った。
 生きる限り、他者に害を及ぼす。そういう宿命は、もう受け入れたのだ。それを一緒に受け入れてくれる友と関わって何が悪い。
 開き直らないと、生きて行けない。

 だから鬼李には悪いが、鶴と俺の甘味デートは、この先もずっと開催されるだろう。

『狼ユーレイ』(無口な喧嘩屋×ヘタレ)


 リストラされそうだと後輩から相談を受けた。

 創設五百年の歴史を持つ『ぬり壁セキュリティ』に勤める白鬼種の白鬼 陽太郎(しらき ようたろう)とその後輩、鶴種の鶴 洋次郎(つる ようじろう)の仕事は、要人警護である。近頃、政治家の広報活動をはじめた『怪PR社』の社員を悪党から守るため、役員のみならず末端の社員まで万遍なく警護する。外出する営業の送り迎えや、定期的な社内巡回を行う。
 江戸の頃から、大企業の活動には危険が付き物。古くは用心棒と呼ばれていた喧嘩の達人たちは今、セキュリティと呼ばれている。

「陽太郎さん!」
「ウワッ」
 声を掛けられて、驚いて飛び上がる。直前まで息を殺していたとしか思えない、心臓に悪い近づき方をして来たこの男は『怪PR社』の営業、狼山 大輔(かみやま だいすけ)だ。営業フロアのトイレ、真昼間は殆ど使われないため、陽太郎はよくそこにこもり、用を足していた。ザー、と便を流す音に見送られながら、トイレを後にしたら真後ろに突然、妖の気配がした。男が悪党であったなら、完全に敗北していただろう冷や汗が滲む。
「あ、すみません、驚かせてしまって」
「……気配消すのやめてください」
 何度言っても行動を改めてくれない相手に、何度も同じことを言うストレス。陽太郎の顔面は、自然とムッツリしたものになった。
「すみません……、どうも、癖で」
 狼山は大きく眉尻を下げた。陽気な仕草だった。特別目を引く美形というわけではないが派手な顔の作り。そこに居るだけで明るくなる、圧倒的なプラスの力を持っている。
 一緒に居て楽しい人という感想を誰しもに抱かせるのが狼山という男の特徴だった。丸鼻とどんぐり目が特徴的な、愛嬌のある顔面。誰とでも仲良くなれそうな、人懐っこそうな瞳の温度。
「外出ですか?」
「はい、同行お願いできますか?」
「午前中とお昼にも出られてましたよね」
「すみません、またちょっと別件で」
「狼山さんは、本当に外出が多いですね……」
 単純に感想として呟いたのだが、陽太郎の厳つい顔つきから、迷惑そうにしていると見えてしまったのだろう狼山は申し訳なさそうに頭を下げた。
「すみません、……営業力が低いので、数こなさないといけなくて、いつもお手数お掛けしております」
 小さくなった狼山に、溜め息を掛ける。
 どうにも誤解されやすい。
 陽太郎は鬼種と天狗種の間に生まれたため、泣く子も黙る強面の持ち主だった。陽太郎の鋭い目付きには、今のような行き違いを引きおこすのは勿論、女性には遠巻きにされてしまう呪いが掛かっており、関わりたくもない血気盛んな野郎どもはホイホイ引き寄せてしまう。そうして荒くれ者に絡まれては喧嘩する、という日々を送っていたら、ついに喧嘩が仕事になってしまった。
「仕事ですから」
 月並みな言葉で応じると、腰の低い狼山は、すぐに頭を下げた。
 しかし、卑しさを感じさせないのは顔を上げた瞬間にバチッと視線を合わせてくるため。狼種特有の大きな口が、いつも笑った形をつくっていて気持ちがいい。いつも小洒落た高そうなビジネスシャツを着こなし、ひと世で流行りの髪型をしている狼山を前にすると、陽太郎はどうしても己を振り返ってしまう。もう少し、俺も身だしなみを考えるべきだろうか。
 神々と親交の深い白鬼の土親(つちおや)から受け継いだ、鬼種にしては見栄えのいい白い肌は趣味の登山でこんがり焼いてしまい、白髪も整えるのが面倒で束にしている現状。本当は結ばずに流す方が良いことはわかっているが、長い髪が首に絡まるのが嫌だった。服装も全身安っぽい軽装で『ぬり壁セキュリティ』の腕章をしていなければ、ただのチンピラである。
 そんな陽太郎の勤める『ぬり壁セキュリティ』には、陽太郎と同じような柄の悪い風貌の男達が集まっていた。そこに例の洋次郎が異次元のように美しい顔立ちをして雑ざっている。よって、洋次郎は『ぬり壁セキュリティ』における紅一点の扱いとなっていた。男色を嗜む大妖怪層、社内の主戦力にあたる屈強な男達を次々と虜にした洋次郎は、もしかするとその手の才能があったのかもしれない。洋次郎を弟のように思っている陽太郎でさえ時折ぐっとくる美形。そんな皆のアイドル洋次郎が、あと一ヶ月でリストラされてしまいそうなのである。
 何としても阻止しなければ、社員の士気に関わる。

 狼山と並んでオフィスを出ると、夏の湿気と熱射に襲われる。これだから都心は嫌いなんだ。登山したい、と心中でぼやく。
「はぁー、アツいっすねぇ~ぇ」
 狼山が横で、間の抜けた声を上げた。
 真っ青な空に入道雲が浮かぶ小江戸、川越の街は今日も妖怪社会人達で賑わっていた。それは川越の地下一層に長距離移動を一瞬で行える『飛び穴』が開いているためだ。妖怪達は基本、地下に走る妖怪メトロか『飛び穴』を使って移動する。しかし狼山は地上を歩き、人世のバスや列車を使いたがる。
「冷たいキュウリでもかじりながら歩きましょうか!」
 陽太郎が同意する前に、小江戸の街並みに店を構える漬物屋から、勝手に二本買ってくる。
「かつお風味とうめ風味、どっちがいいですか?!」
 狼山の暢気な顔面を眺めていると、つられて明るい気持ちになってしまうから不思議だ。周囲の目には変わらずに映っているだろうが、顔面の筋肉が緩んだ。
「……うめ」
「えーっ?! 俺もうめです! じゃんけんしましょう?!」
「あ、それじゃぁ、かつおでいいです」
「マジっスか?! ありがとうございます!」
 おごられているので、そこは譲りますよと呟きながら受け取る。かじるとフワリ、うめの風味が広がった。
「狼山さん、これうめです」
「えっ?!」
 オーバーに驚いた顔をする狼山が間抜けで、噴き出すと心のうち、憂鬱だった何かがころりと落ちた。
「マジか~! 間違えた~!」
「いいですよ、今からでも交換しますか?」
「わ~! いらないです、いらないです」
 きゃっきゃとはしゃぎながら歩みを進める。バス停に着くと、ひと世のバスがまず到着し、うっかり乗り込みそうになった狼山を止める。三分後にやってきた妖世のバスに乗り込むと、バスに常駐しているらしい競合のセキュリティ会社『犬狼警備』のセキュリティと目が合った。ギッと睨まれたので睨み返す。ピリリッと車内に緊張が走ったところで狼山に肩を押され、何かと思うと狼山は『犬狼警備』のセキュリティにニコッと感じの良い笑みを浮かべて見せた。一瞬、面食らったが、狼山に対して相手のセキュリティがペコリと頭を下げたのを見て気がつく。狼山は、陽太郎の無用な威嚇をフォローしてくれたのだ。
 改めて、ほとんど息を吸うように、マウントの取り合いをしてしまう自分に気がつく。狼山のように、笑顔を浮かべて共存しようなどとは思い至らない。誰かと接する時、どちらが強いか決めておかないと落ち着かない性質。

「陽太郎さん、元気ないですね」
「お前は逆に……、なんでそんな元気なんだ?!」
「元気ではないんですが、落ち込んでても仕方ないっつーか! 肉がうまいっつーか!」
 リストラ寸前にも関わらず、陽太郎の後輩、洋次郎は輝く笑みを浮かべ、肉を口に運んだ。『怪PR社』での仕事を終えて、二人でチェーンの焼肉屋に来ていた。
「まだ決定じゃなかったんだよな? 一応?!」
 洋次郎の皿に、食べごろを数枚放り込んでやりながら聞く。
「んー、はい、でも、転職活動をして欲しいって、また言われて……」
 今日は洋次郎が本社に呼び出されており、陽太郎はそれが気掛かりで、この後輩を焼肉屋に連行したのだ。
「……、会社は一体、おまえの何が気に入らないんだ?!」
「わかりません」
「……」
 綺麗な顔をキョトンとさせて、後輩は話にならない報告を口にした。
「真面目に……、残る気あるのか?」
「ありますけど……」
「俺はおまえにやれるだけのことをやってやりたいと思うが、おまえがおまえのためにやれるだけのことをやってやらなかったら、……」
「わかってます」
 洋次郎は不愉快そうに返事をして、それから眉間にシワを寄せた。
「わかってます」
 同じ言葉を繰り返して、はぁ、と溜め息をついて。
 どうにも、問題意識が低そうだった。
 もし洋次郎がリストラをされたら、同僚達はストライキをすると息巻いている。陽太郎は洋次郎の先輩で、教育係だ。名前が似ているからという上司の気まぐれで命じられた役だが、割り振られたからには全力でこなそうと意気込んでいた。
 蓋を開けてみると洋次郎は優秀で、殆ど陽太郎の手を煩わすことなく職務に励んだ。時折愚痴をこぼしたり、ありがちな悩みを打ち明けて来ることはあったが、特別手の掛かる後輩ではなかった。
 勿論、フォローに入って死にかけるようなことも数度あったが、洋次郎の落ち度ではない部分であり、絆が深まりこそすれ、この後輩を厄介に思うような事件はこれまで起きてこなかった。だからこそ不可解で理不尽で、何とかならないかと思う。

「おっ、センパイじゃねぇか」
 早朝の営業フロアに、珈琲の匂いが漂っていた。陽太郎をからかう意図をもって声を掛けてきたのは第一営業部のマネージャー、鶴 永吉(つる えいきち)だ。片手に珈琲を持って手招きしてきた。永吉は洋次郎の土親で、洋次郎と同じ人形めいた顔面の持ち主である。裏返した掌のうち、人差し指だけをチョイチョイと丸めてこちらを呼ぶ、気取った仕草が様になる。
「お父さんを後輩に迎えた覚えはありませんよ」
 永吉にならって、洋次郎の立場からの呼び名で発言すると、永吉はつくりもののような顔を器用に歪めた。
「誰がお父さんだ、バカ野郎」
 それから、まぁ座れとフリースペースの丸テーブルに、陽太郎を促した。たまった報告書類を片付けようと早めに出社したのだが、仕方なくそこに座る。
「俺もいただいていいですか」
「おぉ」
 どうやら珈琲は、あの寝坊助の洋次郎が用意したものらしいフリースペースに置かれたポットには、洋次郎の字で《ご自由にどうぞ》とあった。コポコポと薫り高い珈琲が紙コップに注がれていく様子を眺めながら、洋次郎が既に出社していることに感心する。
「あっ、センパイ!」
 すると、本人がトイレから戻ってきた。
「珍しく早いな」
「ちょっと、頑張ってるアピールです」
「……あぁ」
 そこで、やっと飲み込めた。これは洋次郎の健気な努力の産物なのだ。洋次郎を包む現実の厳しさは、洋次郎が一番よく体感している。口に含んだ珈琲は、酸味が強くて舌が痺れた。
「洋次郎、ちょうど良かった、おまえも座れ」
 永吉が洋次郎に声を掛けると、丸テーブルには、大柄な陽太郎が永吉と洋次郎の美形二人を侍らすような景色ができあがった。
「時間とって悪いな、陽太郎、洋次郎。つかぬことを聞くが、……おめぇら狼山と仲良かったよな」
「はぁ、まぁ」
「俺はフツー」
 ぼんやりした声で、首を傾げて返事をする陽太郎と、きっぱりとフツーと言い切る洋次郎に、永吉はむっと口をすぼめた。
「歳、近かったよな」
「三倍近く俺らのが食ってます」
「あいつまだ百にも満たねぇの知らねぇの、八十六歳って下手すりゃそこらの人間より若いだろ」
 相手が永吉だからと、洋次郎は敬語を使わずに話をする。親とはいえ、取引先なのだからと常より注意しているが、改めるつもりはないらしい。
「百も三百も似たようなもんだ、いいから聞け」
 永吉は眉間にシワを寄せて唸った。
「狼山はこれまで、長年連れ添った人間の妻に墓を買ってやるつもりで働いててな」
「妻?」
「片方がヒトの子じゃ、番届けは出せねぇから人の世で言う夫婦って括りで話をする、妻ってのは番の片割れみたいなもんで……」
「知ってっけど」
「女は寿命で死んでるが、狼山はまだ女を引き摺ってる」
 そういえば狼山の話にはよく、アキという人間の女が登場する。死んでいたとは知らなかった。
「狼山は墓を購入したら、そこに自縛されるつもりなんだ」
「自、縛?」
「あぁ……、あいつは女に義理立てしてる、女に、その一生を自分のために使わせたなら、自分の一生も、女のために使うべきってな」
「うぇ~?! マジメだな~!」
 大口を開けて目をむいた洋次郎に対し、陽太郎は神妙な顔つきになって思わず呟いた。
「……愛していたんですね」
 すると、ぶっ、と横で洋次郎が噴いて、急に恥ずかしくなる。陽太郎は愛などという単語を口にする面構えではなかった。しくじったと思い頬を染めると、センパイ、ストレート過ぎませんかとからかいの追撃をくらった。
「おっ、珍しい組み合わせですねぇ」
 そこに問題の男、狼山がやってきて、洋次郎がにやりと人の悪い笑みを浮かべた。
「出た~、純愛男」
「えっ、なんすか?! なんすか!!」
「おまえとアキさんの話をしててな?」
 アキの名が出ると、狼山はパッと嬉しそうな顔をして、お惚気ならいくらでもお聞かせしますが! と冗談を口にした。
「狼山」
「はい!」
 そんな狼山に、永吉は一拍考え込んでから決意したように口をひらいた。
「ありていに言うと、俺はおまえを墓にとられんのが嫌だ」
「……は、はい」
「せっかく一人前に育った……、その、優秀な社員を見送るのが忍びねぇ」
「えっ、そんな、優秀だなんて、へへへ」
「本気で言ってる」
「あ、……はい」
「次の恋に行けとは言わねぇ、一度自分を死者から切り離してみちゃくれねぇか、こいつらみたいな、歳の近い妖怪となら話も合うだろうし、一緒に遊びに行ったりでもしてよ、妖怪として生きることを楽しんでみたらどうだ、……ヒトとの恋には死別が付きもんだ、妖怪同士だって寿命の違いで死別する、……例えば俺の番相手、鬼李は俺の百倍生きてるし、これからも百倍生きるだろうよ、あいつは俺が自分より先に死ぬことを覚悟して俺と連れ添ってる」
 その時、永吉の言葉が終わるか終わらないかのところで、ごんっと鈍い音がした。一同が視線をやると、下がり目が艶っぽい色男、怪PR社の常務取締役を勤める永吉の番相手、鬼李がドアに正面からぶつかっていた。
「うわぁ、間ぁ悪ぃ……」
 洋次郎がうんざりした顔で呟き、永吉が心なしか小さくなって、洋次郎に隠れるよう、身を寄せた。
「ちょっと聞き捨てならない、俺の気持ち都合よく想像しないでくれる……?」
「……今、取り込み中だ、鬼李、……後にしてくれ」
「覚悟なんか全然できてないから」
 最後は低く言い捨てると、鬼李はドアを透かし、去っていった。物を透かして通るには妖力がいるのだが、鬼李は当たり前のようにすべての物を透かして通る。妖力という財産の有り余った鬼李だからこその所作だった。
「……何だよ鬼李のやつ、あんな大人げねぇ態度とるなんて、らしくねぇよな」
 永吉は、少し萎れた声になって、陽太郎に同意を求めてきた。
「後で謝れば許してくれますよ」
「お、……俺が悪いのか?」
「わかりませんが、なんか怒ってますし……、謝っておいた方がいいんじゃないですか?」
 陽太郎の適当な助言に、永吉は縋るような顔になって頷いた。
「そうか……、そうだな」
「永吉がそうやって折れるから、李帝が我儘になるんじゃねぇの」
「あいつが我儘なのは前からだ」
 洋次郎に指摘され、ぶすっとした顔になりながらも、永吉の目は鬼李の消えた先を心配そうに追っていた。

 その日、狼山は二件の同行を依頼してきて、ひとつは海を越える場所にあった。マチュピチュで有名なインカである。多い時は一日に三度も倭を離れる。飛び穴の発達した妖怪社会では、当たり前となっている移動距離だが、人間の感性では異常なことらしい。
 狼山は海を越える訪問になると決まって地図を眺め、遠いなぁと呟いた。
「陽射しに目を潰されそう」
「遠くがチカチカしますね」
 口を開けた途端、口内の粘膜がほとんど使い物にならなくなる高地。
 崖から覗いた谷底は、クッキリと深い。谷を覗き込む体が、そのまま谷に引き擦られる気がして胸が騒ぐ。首の後ろに掻いた汗が冷たい。
 アンデス山脈、冷涼なスニ地帯。
「毎回、ここまで来てるんですか?」
「チャスキを頼るには、チャスキの本陣に顔を出すのが一番なんです」
 インカは世界一飛び穴の多い国で、情報発信の中心地だった。情報の集まるところに人の目も集まる。世界中の広告代理店が、インカの持つ広告枠を買いつけに来ていた。
「……毎回、壮観ですね」
 高原の上、浮遊する岩肌の城が見えてきた。そこに発光する乳白色、または虹色の炎や閃光が頻繁に出入りする様は圧巻だ。世界に向けて、瞬間移動するチャスキ達が出発と帰着の合図として発光しているのだが、傍目には空に浮かぶ城が沢山の光をまとって輝いているように見えた。
「あぁ、アキにも見せてやりたかったなぁ」
 城を惚れ惚れと眺めながら、狼山が呟く。
 陽太郎は返答に困った。
「足元、気をつけてくださいね」
 城のふもとにフワフワと浮いている上部が水平な岩に乗る。岩は二人を乗せると、まるでエレベーターのようにグンと上昇し、城に向かって動きだした。
「今回は四社分だから、すぐだよ」
「はい」
 妖怪の情報キャッチは基本、夢を観ている時である。夢を使ってニュースを得たり、娯楽番組を楽しんだりする。妖怪達の夢に、ニュースや娯楽番組を届けるのがチャスキの仕事であった。
「いつもお越しくださって、ありがとうございます!」
 狼山とチャスキの商談を、部屋の隅で盗み聞く。普段は狼山を送り届けてすぐに引き返すのだが、海を越える商談の場合、待つ事が多い。
 岩肌の城には蜂の巣を思わせる無数の部屋があった。狼山と陽太郎が通された部屋は、城の上部にあるのか窓が大きく光の入りやすい明るい部屋だった。
 数値や専門用語がまざるため、何を言っているのかはよくわからなかったが、狼山の話を相手は興味深そうに聞いていた。商談をする狼山は、快活で男らしく魅力的だった。
 アキという女の死をきちんと受け入れられれば、次の恋に進むのは容易そうである。女達が放っておかないだろう。
 狼山のようないい男に愛されたアキという女は、幸せ者だなとしみじみ思いながら、陽太郎は部屋の隅でまどろんだ。午後二時の睡魔に勝てなかった。そして商談の終わった狼山に、ゆるく笑われながら起こされた。
「……すみませんでした」
 城から高地の崖に降りる途中、謝ると狼山はクスクス笑って、なんか悩み事ですか、と謝罪をはぐらかした。
「眉間に皺スッゴかったっすよ」
「あ、すみません、怖い顔しちゃって」
「いや、怖い顔は元からじゃないっすか」
「……はは」
「せっかく寝顔は可愛いのに」
「は……?」
「陽太郎さん、商談中によくスヤスヤしてますよね、そん時、天使みたいな顔してるじゃないですか。それが今日は寝顔も怖かったので、どうしたのかなって」
「いや、寝顔? ……いや、うん」
「恋人とかに、指摘されないですか? 寝顔めっちゃ可愛いって」
「こ、恋人いません」
「エッ!!」
「もう、百年ぐらいいません」
「は?! 百年とか、俺が生まれる前からじゃないっすか、マジっすか」
「いい感じになる相手とかはたまにいるんですが、やることやると離れて行かれちゃうんですよね」
「セックス下手?」
「恐らく……」
「……、強引過ぎるんじゃないっすか」
「顔見て決めつけないでください」
「じゃぁ、何が原因で?」
「……さぁ?」
「会話をしないとか?」
「ん、……そういえば、してませんね」
「それだー!!」
 おどけて叫ぶ狼山の顔に、笑いを誘われて噴き出すと、目の前で狼山もへらっと笑い、あたたかな気持ちになった。
「ちゃんと会話しなきゃ駄目ですよ」
 トン、と肩に肩をぶつけられて、それが妙に嬉しい。
 『ぬりかべセキュリティ』の男達と違い、『怪PR社』の社員はあまりボディタッチをしない。人懐っこい狼山でさえ、まるで接触を避けているかのように距離をとって話をするのが常だった。それが肩と肩とはいえ、接触されたのだ。心の距離を詰められたような気になった。
「どんな会話するんですか」
「えー、そりゃ、気持ちいい? とか大丈夫? とか今の良かった? とか」
「あー、無理っす」
「無理そー、陽太郎さん言わなそー」
 きゃーきゃーと下ネタで盛り上がりながら、高地の崖に降り立つ。
 崖の上にある飛び穴は、球状の建物で囲われており、そこに向かうまでの道のりは細道。前と後ろに並んで歩く。狼山の背中は生命力に溢れていた。こんなに生き生きと仕事をしている狼山を、どう元気つけようというのか。誰の助けも必要ない、健康で健全な男のように思えた。

 だからその日、永吉から狼山の家に行こうと誘われた時、本当に気楽な気持ちで首を縦にし、同僚達と開催する宅呑みに誘われた時と同じように、酒とツマミを提げて待ち合わせ場所に向かった。
 妖怪メトロにおける怪PR社の最寄『時の鐘駅』改札前。
「おう」
 永吉が朗らかに笑って、陽太郎に手を上げた。美青年の待ち合わせ相手という立場に浮かれて、陽太郎は口元に笑みを浮かべた。
 しかし、美貌の永吉は横に李帝こと怪PR社の幹部、鬼李を立たせていた。
「あっ」
 デート気分になっていた己を恥じながら、永吉の番である大妖怪に、陽太郎は頭だけカクンと下げ、挨拶した。
「行くか」
 何とも不思議な組み合わせの三人。
 癖なのだろう、顎の下をカリカリと引っ掻きながら、永吉が歩みだす。美麗な見た目に相応しくない親父臭い仕草だったが、それを指摘する者は誰もいなかった。

「この街、はじめて来ました」
 川越から妖怪メトロで八分。中仙道の走る地上、住宅密集地に狼山のうちはひっそりとあった。高層マンションの建ち並ぶ駅前から徒歩で十分、一軒家の並ぶ閑静な住宅街は人の気配に溢れ、あたたかだった。
「知り合いが住んでなきゃ、来ねーわな」
 勝手知ったるという風に、前方を足早に進む永吉の背と、永吉の隣を歩く鬼李の背には、溶けて混ざり合ったような落ち着きが感じられた。
 番の二人というのは、眺めていて気分が良い。
 そこには、縁があった。
「お二人は、いつから番になられたんですか」
 質問すると、振り返った永吉はニタリと人の悪い笑みを浮かべた。
「なんだ? 羨ましいのか?」
「いや、別に」
「おまえが真面目に相手欲しいんなら、縁談の一つ二つ、世話してやるんだが、どうだ? まず男か女か、歳の頃はいくつの奴がいいか、詳しく条件出してみろ」
「えっ」
「腹子がいいとかこだわりあるなら、同種の女に限定されるから、ちっと骨ぇ折れっけど、まぁ、鬼種同士は色が違くても腹子が作れるらしいから……」
「あっ、腹子とか、こだわりはないです、俺、土子ですし」
 種族の違う男女や、同性の番は土から子を作る。
 土の上で、互いの妖質を混ぜ合わせれば土の中に子が生まれる仕組みである。陽太郎の両親は、どちらも男で種族も違うため土子の仕組みを使って子を成した。
「おまえもそろそろ四百を超えるだろ、生んでおかねーと授からなくなるぞ」
 一般的に五百歳を越すと子が出来辛くなり、奇跡的に子ができても、子は親を超える大妖怪になりやすく、生まれたばかりの子による親殺しが起こりやすくなるのだ。
「わかっちゃいるんですけどね」
 永吉の脅しとも取れる忠告に、曖昧な返事をして話を終わらせた。むつましい誰かを見るのは微笑ましいが、自分のこととなると現実感がない。
 午後七時、帰宅する家族を迎える声が方々で上がる中、とある団地の前に老人が立っていた。こちらに気がつくと、ゆっくりと手を上げる。
「狼山!」
 永吉が声を掛けると、老人は重々しくお辞儀した。
「相変わらず、よく馴染んでるな、その皮」
「……上物を、……こしらえましたんでね」
「狼山、さん?」
「……あァ、陽太郎さん、……これはこれは、よくぞいらして、……人間としてお会いするのは、はじめてですねぇ」
 にこりと笑った老人の、大きな口は確かに狼山のものだった。
「この皮は……アキのものです。アキが死んだ時、俺は一文無しだったんで、借金して、作って貰いました」
 人の身体を原料に作られる人の皮は、妖怪が人になるために必要な高級品だ。十年被れるもので百万、三十年で一千万、五十年で五千万、百年で一億の肝がいる。陽太郎が一ヶ月働いて稼げる肝の額は三十万。人の皮を買うというのは大変な買い物だ。
「……凄いっすね、皮被ってる妖怪はじめて見ました!性別違くても大丈夫なんですね?! ほんと、その、狼山さんって感じ」
「いやぁ、……ははは」
 皮の加工を褒められて、狼山は嬉しそうだった。
「しかし、わかんねぇな、わざわざそんな動き辛そうな人間に化けてどうすんだ? 何で若ぇ奴ってのはこう、翁とか老婆になりたがる?」
「年齢コンプレックスじゃない? 本体が若いから」
 永吉と鬼李に指摘され、狼山は困ったような顔をして下を向いた。
「……、アキと、同じ年頃の見た目になりたくて」
「人間の近所付き合いもしてんだぜ、こいつ」
「アキの葬儀で顔を合わせて以来、よく気遣ってくれるようになりました」
 幸せそうに笑う老人は、愛する人を目と鼻の先に感じながら、余生を楽しんでいるように見えた。
「あ、狼山さんがまたブツブツ言ってる」
「話し相手が欲しいのかもね、老人ホームとか、そろそろ検討された方が良さそう」
「ねー、なんか可哀想」
 団地の二階から、声を潜めた噂話が降ってきた。
 陽太郎達妖怪は人の目に映らないが、人の皮を被った狼山は目視できる。空間と会話する老人は、さぞ奇怪に映るだろう。
「さぁ、狭い部屋ですが」
 団地の単身者用住居は、一つの部屋に何もかもが詰まっていた。キッチン、トイレと風呂場の入口、窓、押入。これで部屋の壁がすべて埋まっていた。押入の襖が不自然に新しくて目に眩しい。部屋の隅に作られた小さな神棚には、仏壇と微笑む老婆の写真と、絹の美しい蓋布に包まれた骨壺らしきものが置かれていた。
「ほら、アキ、皆さんいらしてくれたよ、もう鬼李さんと永吉さんはわかるね、あと……こちらがいつも話してる陽太郎さんだよ、ね、強そうでしょ、こんな顔してるけど、凄く優しい好い人なんだよ」
 老婆の写真が、部屋の照明を反射して光る。
 老いた女の目元には、妙な色気があった。これは、若い頃たいそう美人だっただろう、狼山が夢中になる女だ。そうであって欲しい。
 その時、ドンドンと戸を叩く音がした。
「すみません、おじいさん!どうか開けてください!!」
 永吉が顎に手をあて、目を細めて戸の向こうを伺う。狼山が重い溜息をついて腰を上げた。陽太郎が気遣うような目を向けると恥ずかしそうにして、下を向く。
「いい加減にしてくれないか」
 迷惑そうなしわがれ声で、狼山が戸を開けた。
「大輔!!」
 声の主は体当たりでもするような勢いで部屋に押し入ると、律儀に靴を脱ぎ捨てて、畳を滑るように部屋の中央まで進み、真新しい襖を開けた。
 そこには、一人分の布団が収納されていた。来訪者は次に、トイレと風呂場の戸を開け、最後に窓を開けた。窓の外は平らな外部である。ベランダのない、安い部屋だった。三階の眺めだけが広がっている。
「……っ、お孫さんは、どこに?!」
 押し入って来た青年の声には、求めた相手に出会えなかった怒りが滲んでいた。
「だから、何度言ったらわかるんだ、俺に孫なんかいな……」
「騙されないぞ!!」
 ついに青年は血走った目で狼山の襟首を掴んだ。
 見たところ人間である彼には、陽太郎達が見えていないらしかった。
「俺とアンタのお孫さんは、愛し合ってるんだ」
 青年は、よく見ると陽太郎にどこか雰囲気の似ている荒っぽい顔つきをしている。ひゅっと背が高く、腕や肩に筋肉の詰まった戦闘特化の体格。
「アイツをここに、今朝、送り届けた!! それからずっと見張ってた」
「……、離してくれ、これは迷惑行為だ。前にも言った通り、大輔は俺の名前だし……、ここには俺しか住んでいないよ」
「アイツはここの鍵を持ってた、アイツはここに住んでる、ここで愛し合ったこともある!! 頼む、アイツを出してくれ、アイツには俺が必要なんだ、俺にもアイツが必要だ」
「……、帰ってくれ」
「アンタが居るから、アイツは素直になれない! 俺達は愛し合っているのに……っ」
 青年は涙ぐんで、愛を訴えたが狼山は困惑顔のまま、青年を眺めていた。
「あのぅ、……大丈夫ですか」
 開けっ放しのドアから、お隣の住人らしき中年女の顔が覗いた。続いて、同じくお隣らしい若夫婦の顔も覗き、やっと青年は狼山から手を離した。もう一度部屋をぐるりと睨んでから、悔しそうに顔を歪めて部屋を出て行った。青年の荒い足音が遠のくまで、誰一人、口を開かずにいた。
「すみませんでした、……お騒がせして」
 足音が消えて、やっと狼山が頭を下げた。隣人達はほっとした顔になった。狼山の謝る声に見送られ、隣人達も帰って行く。
「何だあいつァ」
 狼山が戸を閉め、疲れたようにこちらを振り向くと開口一番、永吉が唸った。狼山は「さぁ」と眉を下げた。それから妻の遺影に目を走らせ、うるりと瞳の表面を湿らせた。
「こんなこと、アキが生きてる頃は、なかったんですけど」
 言いながら、狼山はするりと耳の後ろをこすった。シュルシュルと音がして、皺だらけの肌が耳に集まって行く。生き物のような動きで、集約されていったそれは、しまいにころりと黒い玉になって、耳の後ろから落ちた。狼山がそれを耳の中に入れるのを、そんなところにしまっておくのかと感心しながら見ていたら、見慣れた若く愛嬌のある、狼山の顔がこちらに気が付いた。
「すみませんでした、驚かせてしまって、陽太郎さんも、せっかく来てくださったのに」
「あ、いや」
「……俺、夢遊病か、二重人格なのかもしれません」
「は?!」
 とんでもない告白をされて、鼻から声が出た。
「実は……、これがはじめてじゃないんです。俺と愛し合ってるって男に、詰め寄られるの、……人間なら、ああして追い返せるんですけど、妖怪の場合、……決まって俺が関係を否定した途端、逆上して襲って来ます、本当に怖い」
 狼山の顔色は、真っ青。あの朗らかな狼山が、まさかこんな悩みを抱えているなんて。
 驚いて返事をできずにいる陽太郎にかまわず、狼山はおぼつかない足取りで遺影に近づいた。慣れた様子で手を合わせる。
「……ねぇアキ、どうか、……俺を守ってね。凄く怖いよ、君の居ない世界は怖いことだらけだ」
 しかし震え声の狼山に、永吉は呆れ顔を向けた。
「おい、よせよみっともねぇ、死んだ女房に甘えても、おちちはもう出ねぇぞ」
「みっともなくていいです、永吉さんのお説教、もう聞き飽きました」
「あのなぁ、おまえ、両親殺して生まれて来てるんだ、もっとちゃんと生きろよ」
「……二人の母には、悪いことをしました。けど、俺は……、アキがいないと、ダメなんです、無理なんです」
「狼山さん、……」
 思わず名を呼ぶと、狼山は諦めたような顔をして陽太郎を見た。
「すみません、見苦しくて」
「何か、大変だったんですね、……俺、気がつけなくて」
「まぁ……、元から俺は、早くアキの墓代が貯まらないかなって、そればかり考えて生きてるんですけど」
「でも、こいつと話してる間は楽しいんだろ?」
「陽太郎さんは、……優しくて話しやすくて好きです」
「もっと伝えろ、こいつ鈍いから、はっきり伝えねぇとわかんねぇぞ、辞める前に日頃の感謝を伝えてぇんだろ」
「はい」
 辞める、という言葉に驚いて眉間に眉を寄せた。
 狼山は照れくさそうな顔で、墓代が貯まりまして、と理由を述べた。
「俺、昔は弱虫のいじめられっ子だったので、陽太郎さんみたいな強い男、ちょっと憧れちゃうんです。陽太郎さんとふざけてる間は、こういう、プライベートのボロボロさを忘れられる。俺、貴方みたいな、女を必要としない、強い男になりたかった」
「え? ……いや、女要りますよ俺、こう見えて性欲スゴくある方なんで」
「あ、そういうんじゃなくて、あの、精神的な部分」
「はァ……」
「陽太郎さんみたいな、タフな男に、生まれて来たかったです」
 勝手に、強い認定をされても困ると思ったが口には出さなかった。
 確かに生まれてこの方、誰かに助けて欲しいとか、守って欲しいと思った事はなかった。しかしそれは、困っていればすぐに両親や友人が気に掛けてくれたおかげかもしれない。いつも、問題を乗り越えた後に救われていたことに気が付いて感謝をする。
「俺、潮土なんですよ」
 潮土(しおづち)は女同士、精土(せいづち)は男同士の間で生まれた土子のことを指す。狼山が潮土の男であるのに対し、陽太郎は精土の男だった。
「わかるぜ、俺も潮土だからな。俺達は多分、普通の男より繊細にできてる……」
 永吉が優しい声を出して、狼山の反応を待った。
「……」
 永吉の優しい顔に、陽太郎は見蕩れた。これまで、女を好んで抱いて来たが、美しい男も悪くない。
 女にはフラれてばかりだが、男となら上手く行くかもしれない。例えば人懐っこい狼山のような男なら、陽太郎の淡白さにめげず傍に居てくれるかもしれない。
「永吉さん」
 狼山は永吉に、申し訳なさそうな顔をした。
「ありがとう、俺のことを……、心配してくださって、優しい声を掛けてくれて」
 陽太郎は狼山の、こうした素直な心が好きだった。
 もし、狼山が女であれば、この悲しい未亡人をそっと胸に抱いてやった。
 惜しいのは、狼山ががっしりした、普通の男であることだ。
 さすがに自分と目線の近い、筋肉質でむちむちした男を抱く気にはなれない。
「礼には及ばねぇよ、俺はただ、おまえを失いたくないっていう、俺の我侭を通そうとしてるだけだ、なぁ狼山、潮土同士、仲良くやろうぜ、……寂しい時は、呼んでくれれば話相手になるから、な、墓は墓でちゃっちゃと建てちまって、地上にも女にも区切りつけて、次は妖怪の街に住めよ、地下二層とかどうだ?」
「……ご自身がそうなら、わかると思いますけど、潮土の男は面倒臭いですよ……、寂しい時に呼んで良いなんて言ったら、しょっちゅう呼びつけます、いつだって寂しいんですから」
「わかった。そしたら、しょっちゅう呼びつけろ。この陽太郎と、うちの倅と力を合わせて駆けつける」
「……ぅ、……そんなんされたら、好きになってしまうかもしれません。永吉さんにはもう鬼李さんがいるのに……、怖いです、俺、もう、誰かを好きになるの怖いんです、アキが死んだ時みたいな苦しいのも嫌だし、アキの次ができたら、アキを好きだった気持ちが、……アキだけだと思って生きて来た今までが否定されそうで……っ」
「あー、ったく、素面で涙ぐむな」
 ゴシャ、と音がした。永吉の投げた缶ビールが、狼山の肩に命中した。
「飲め」
「こんなん、開けたら泡噴きます」
「泡だらけになって飲め」
「嫌です」
「嫌でも」
 めそめそした狼山と永吉のやりとりに、滑稽さが滲んで来た頃、くすくすと鬼李が笑い出した。
「赤ん坊が、産声を上げてるね」
「鬼李、……空気読め」
 やっと場が和んで来て、酒盛りがはじまった。
 数時間掛けて酒を飲み尽くし、全員が酩酊した頃、潮土の男二人による『何気ない相手の言動に傷つくあるある』がはじまり、精土の陽太郎には全く理解のできない話が続いた。

 自分が眠ってしまったことに気が付いたのは、身体の上に何か、重みを感じて目を覚ましたため。豆電球の光を頼りに狭い部屋が視界に入る。永吉と鬼李の姿はなく、時計の短針は二時を差していた。
 身体の上に乗っていたのは狼山だった。
「陽太郎さん……」
 狼山は機嫌よく笑っていて、恥ずかしそうに眉を下げていた。
「重いですか?」
 小声で、申し訳なさそうに聞かれて狼狽える。
「いや?」
 君の重みなんて、俺にはたいして負担じゃないと言ってやりたくなる聞き方だった。陽太郎は右手を、そっと狼山の腿にあてた。狼山が嬉しそうにその手に手を重ねる。えろい、と脳みそが判断して血の巡りが急によくなった。口から欲情した息が漏れた。
「包まれたいですか? 包みたいですか?」
 舌舐りをしてから、早口に囁いてきた狼山に圧倒され、心臓が派手に縮み、派手にはねた。
「包まれたい」
 かたい声が出た。
「わかりました、……俺のアツくて狭いとこで、搾ってあげます」
 陽太郎の胴を挟む狼山の腿に、ぎゅぅっ、と力が入りそれだけで勃起した。
 勃起したことが、何故バレたのか狼山の指がそこに絡んで来て眉間に皺が寄る。鬱憤のようなものが、パラパラと下半身に積もって行くのがわかった。
「陽太郎さんの、立派で美味しそう」
 ゆるく笑みの形になった狼山の目は、うるうると濡れていて、暗闇で光った。もの欲しげに半分開かれた口を縁取る、つるりとした唇も唾液で濡れていた。ゆるゆると扱かれ、あと少しというところで手が離れてもどかしい。鬱憤がまた溜まる。気がつくと、ゆっくり、狼山の身が倒れて来ていた。
 卑猥に崩れた顔面が目と鼻の先。
「んっ……ぅン、ん、ふ」
 とろり、と腹の上に液体の感触。狼山が射精したらしい。
「はぁ、……、汚してすみません、これでシモのクチ濡らすんで」
 むしょうに頭を撫でてやりたくなり、手を回すと狼山はすっと目を閉じた。
 撫でられる瞬間を待つ犬のよう、手先に力が篭る。
 わしわしと狼山の頭を掻くと、ぺろぺろと顎や首を撫でられる。
「頭撫でられるの、……嬉しい、……陽太郎さん」
 ぺろぺろと頬まで舐められながら、愛しさでわけがわからなくなった。
 陽太郎と狼山は、愛し合っているのかもしれない。
「っぁ、……んぅ、っふ、あ、っぁ、……ん……っ」
 じゅっ……じゅっと狼山の下半身から穴をならす音がして、快楽を訴える、ねっとりした声が鼓膜を揺らした。
「慣らしてるところ、見てぇんだけど」
「ん……」
 要求すると、頬にチュッとキスをされ、狼山の体が急に遠のいた。
 狼山は仰向け、腕と震える両足で身を支え、尻穴の見えやすい体勢になって、わかりやすいように大きな手の動きで尻穴を弄って見せてくれた。
「素直かよ……っ!!」
 陽太郎が喜びと興奮で、怒ったように囁くと、狼山はピタリと手を止めて、心配そうにこちらを見た。それから指を使って、穴を拡げて見せて来た。もう何かを言う余裕もなく、夢中でその身を掻き抱き、押し倒して、ほぐされた尻穴に性器を挿入した。
「うァ、……嬉し、陽太郎さん……、俺の中、入って来たっ」
「はァ、……くっ、……すげぇなコレ、しまる、俺、男はじめてで、はァ」
「ぁ、……あっ、……いっ、……ぁっ、ひ、……くんっ、ン、アッ……ぁ」
 柔らかいものに、むにゃむにゃと突進する女との性交しか知らなかった身体が、硬いものを砕くような、攻撃的な男との性交に驚き、燃えるのがわかった。
 闘うことが何より好きな陽太郎にとって、ガツンガツンと確かな手応えのある男との性交は、この上なく心地よく癖になるものだった。
「ぅ……ひぐっ、……あア、っぶつかっ……すご、ぅ、も……っぁ、ナカ、ぐちゃぐちゃ、陽太郎さん、……やめ、穴壊れっ……っぁ、陽太郎さ、もう、……これ一旦、っぁ、終わっ……ん、……ふ、やめ、……、っぁ」
 狼山の喘ぎに、悲鳴が交じっても腰を振るのを止められなかった。狼山の耳から、ころりと黒いものが落ちた。しかし、そんな事を気にしてなどいられなかった。
「んぇ?!……っぁ?!あン?!っは、何?!……ぁ?!」
 それまで、楽しそうな顔をしていた狼山が急に悲しそうな顔になった。
「っうぁ?!え?!陽太郎さ、……っは、っぁ?!何し、ぅ、……何?!ぁ?!……っぁ、止ま、……っァ゛?!やっ……んン゛!!」
 口に手を入れて、喘ぎを堪える狼山に腹が立って、体重を掛けて、挿入の衝撃を強めてやる。
「うぐっ?!……ぅ゛っ、っぁふ、っ陽……、っざけ、やめッ……っぁ゛、けんな、……っぁ、何考っ……っんっァ゛?!は、っぅ、ぐ、んンッ」
 ビクビクと腿を痙攣させて、眉間に皺を一杯に寄せた狼山が射精もせず絶頂を迎えた。
「はァ、ぁ、あンっ……ぅ、はァ、……はァ、ぅぐっ……ンは」
 ついに狼山の目から、だらだらと涙が溢れはじめたが、腰を止める事ができず性交は朝まで続いた。
「……、っハァ、……っハ、ぅ……ぅ、ぅ」
 やっと腰を止められたと思ったら、狼山はさめざめと泣いていた。腰を引いて狼山の中から出ると背中がひんやりした。目一杯掻いた汗に冷された身体を、いつ脱いだのかわからない服で拭いて、まだ泣いている狼山の肩を撫でる。
「狼山さん、凄い、……その、エロかったです」
 感想を伝えると空気が凍った。
「あの、……止められなくて、すみません、でした」
「……ハァ、っ……ぅ、……ぐ、……ダメです、コレ、なんかもう、……ちょっと、殺したいかも」
「は……?!」
 殺気を感じて身を避けると、獣のような形状に変化した狼山の手が、陽太郎の眠っていたあたりに置かれていた。その爪の鋭さから、もしそこに寝たままだったら死んでいた事を悟り、ぞっとする。
 ザワザワと頬の肉を揺らし、狼山の内側から狼男の原型が現れた。特撮映画のような、グロテスクな大口がカパッと開く。妖怪の原型は人の観念から影響を受け、その時代によって異なる。昔は犬のような姿をしていた狼男が、このような恐ろしげな生き物になるとは。
 陽太郎は部屋の隅に放られていた己の荷物を、飛び掛かってくる狼山を避けながら掴み、狼山の部屋を飛び出した。部屋の中では、すぐに距離を詰められる。三階分の階段を駆け降り、滑るように追い掛けて来た狼山に、階段の終わりでタックルをかました。鬼種の力技に、若い狼男は吹っ飛んだ。団地を囲むフェンスにキャンと哀れな悲鳴を上げてぶつかる。巨大な動物は、気を失い動かなくなった。動物の股ぐらから、白濁した液体がトロリとこぼれた。
 さすがにこれを放っておけない。
 どうしたものかと頭を悩ませて、永吉に連絡することを思いついた。
『おう、どうした』
 電話の向こうに、永吉のやたら聞き取りやすくて耳に心地の良い声が流れた。
『あの、実は今、狼山さんが暴……っ?!』
 目の前で巨大な口がバクンと閉まる音がした。鋭い犬歯が、空間を裂いた。全身に鳥肌が立ち、生命の危機を感じた。反射神経の良い我が身に救われたと胸を撫で下ろす暇もなく、また目の前で獣の口が開く。
 さっ、と身を低くして攻撃を避けるとまた鬼種のバカ力を込めてタックルをかます。獣は面白い程、高く飛ばされ、団地の二階に突き出たベランダの角に強く背を打たれてまた鳴いた。それから、ドン、と重い音を立てて落ちたので慌てて駆け寄る。
 狼は、また気を失っていた。
「すまねぇな陽太郎、うちの社員が迷惑駆けて」
 真横で声がして、永吉が立っていた。空間移動で来てくれたらしい。
 永吉の横には鬼李と艶やかな女も立っていた。
「アキさん、アンタも何か言うことないか?」
「……うちの亭主、エロかったろ?」
 アキはユーレイらしく、ぼやりと揺らめいてから発言した。
「エロ、かった……っすね」
 二人の会話に、永吉は顔をしかめた。
「陽太郎さん、もう名前覚えちまったよ……。うちの亭主のこと、可愛がってやってくんないかな、……あたし成仏したいんだ。残した仔犬が心配のままじゃ、浮かばれねぇんだよ」
 腕組みをしたアキの、腕にのった乳から目を離せずにいると真面目に聞きなと額を蹴られた。ユーレイは濃度が高くないと、妖怪に触れない。
「随分、濃いな?」
 人柱でも、特殊能力者でもない霊に触られたのははじめてだ。
「俺が濃度を助けているからね」
 鬼李の補足に、女がにこりとした。
「この濃度なら、セックスできそうだな」
「……もしかして、……昨夜の狼山さん、アンタ?」
「夫だったらこうするって演技はしてたけど、まぁ、あたしだな」
「あれ演技だったのか……」
 おかげで陽太郎は狼山と愛し合っているような錯覚に陥った。軽く失恋気分である。
「まぁ、興奮した陽太郎さんの腰使いがあんまりにも乱暴で、途中で嫌になって抜けちまったけどね」
「あっ、……はい、それでよく振られます」
「はっはっは、今度生まれ変わったら口説きに行こう、女の扱いを教えてやる」
「……やめてください、狼山さんに呪われそう」
「呪いたいのはこっちだよ、墓に自縛なんかされちまったら、居心地悪くて次に行けない」
 そこで永吉が、ちらりと視線を狼山の身に注いだ。
「アキさん、狼山が面倒くさい奴で、うんざりしてたんだな」
「正直に言うと、そうだな、可愛い亭主だと思っていたし、今も思ってるが……、こんな暴走は願い下げだよ」
「気持ちはわかるが、……あんた人霊法違反だぜ、肉体を保有する霊魂の許可なしに憑依することは人道に反する」
「うちの亭主は人じゃない」
「……言うと思ったぜ」
 永吉は苦笑うと、物陰に目をやった。
「そこにアンタが拵えたストーカーがいるだろう?」
「……拵えたなんて人聞き悪いね」
「あれは人間の狼山に迷惑を掛けてる」
「……?」
「人の皮被ってる狼山は厳密に言うと人間と定義されるんだ」
「……」
「人間に迷惑を掛けたら、その時点でアンタ悪霊だ」
「あたしは……、成仏したかっただけだ」
「しつこい亭主も悪かったし、あんたが亭主に相手を作らせようと必死だったのもわかる、情状酌量の余地ありだ、氏神への届けは出さねぇでやる、……でも、ちょっと反省してくれねぇか? 人間にとってはたいそうな年寄りでも、百歳以下の妖ってのは、俺達の世界じゃ未成年だ。守ってやるべきいたいけな存在なんだよ、身体乗っ取られて好きでもねぇ奴とセックスさせられてたなんて、可哀想だろうが。浮かばれねぇのはわかるが、ちょっとおとなしくしててくれ、亭主の身体を弄ぶのをやめにしてくれ」
「……」
「亭主のことは、俺達がしっかり面倒見るからさ、なぁ陽太郎」
「いや、……俺は、あの」
「俺達が、きっちり、責任持って狼山があんたの墓にとりつくのを防ぐ、なぁ陽太郎」
「あ、はい……、友達として」
「……」
 アキの目が狼山と、陽太郎の間を行ったり来たりする。
「大輔くん泣かせたら、ただじゃおかないよ?」
「はい」
 陽太郎の返事を聞くと、アキは満足そうに笑い、消えた。
「……女は強いね」
 黙って成り行きを見守っていた鬼李が、一言漏らすと永吉は笑った。
「女二人から生まれた俺はもっと強ぇぞ」
「知ってる」
 鬼李が頷くと、二人の間には確固とした絆が垣間見えた。もし、狼山と陽太郎の間に愛が生まれたら、同じようなやり取りを二人も交わすのか。少しだけ気になった。
 
 その事件から数日後、怪PR社内、ぬり壁セキュリティ出張オフィス兼更衣室で鉢合わせた後輩は陽太郎を見て笑みを浮かべた。
「陽太郎さん!」
「おー」
「俺、リストラ回避できました!」
「へっ?!」
「なんか無実の罪を着せられてたみたいで、よく狼山さんと伺うお得意さん……『鬼加工株式会社』から、俺が社長の息子さんをたぶらかしてるって難癖つけられてたみたいなんです、俺、顔がこの通りなんで、そういう誤解受けやすくって、……」
 話を聞いてヒヤリとしたのは、例の夜に味わった狼山の壮絶な色香を思い出したからだった。中に女が入っていたとはいえ、男色趣味のない陽太郎を、転がした程である。そこでふと、洋次郎の整った顔が近づいて来た。洋次郎は少し声を落として続けた。
「犯人は、狼山さんだったらしいっすよ」
「は……?!」
「『鬼加工株式会社』の社長ご子息、狼山さんとデキてたらしいっす」
「へぇ」
「……超意外じゃないっすか?!」
「まぁな」
「担当変更して、もう二度と近付かないって狼山さんが謝罪して、解決したみたいですけど、……いやー、マジとばっちりでした! 酷いのは、怪PR社が俺の方を疑ってうちにクレーム入れてたとこですけど! まぁ、俺と狼山さん並べて、俺疑うのは仕方ないっちゃ仕方ないですけど、せめて事実確認しろよっていう」
「……」
「先方、息子さんが現在人休み入ってるとかで過敏になってたそうで、訴訟するとかしないとかまで話が進んでたそうですよ」
 人休み、とは妖怪が人の皮を使って人の一生を送ることである。記憶を飛ばして、まるごと人の感性を学ぶ。贅沢な勉学故に、一部の恵まれた妖怪しかやれない。妖怪社会において、人の感性を持つ妖怪は大企業に就職しやすく、親は少し無理をしてでも我が子に人休みを与える風潮があった。
「あっ、これ、その息子さん」
 息をのんだのは、洋次郎の見せてきた写真の人物が、あの日狼山宅に押し掛けてきた人間の若者であったため。
「人の皮に不具合があったみたいで、霊感持ちを矯正してたのに狼山さんが接触したせいで一部霊感も戻っちゃったみたいで親御さんがフォローするのに追われて大変だったみたいっす」
 狼山の妻も、手を出した相手が悪かった。
 永吉が懸命に動いていたのは、この問題を解決するためもあったのだろう。

「えっ、今日陽太郎さんだけなんですか?!」
 狼山宅の戸が、開いてすぐ目の前で閉められた。
「皆さん、都合悪くなってしまったみたいで」
 戸の向こうに気配があったので、事情を話す。
「そうだったんですね、それなら、今日は外に出ましょうか! ちょっと待っててください!」
 陽太郎はあの後、狼山の担当を外されたが、事情を知らされた狼山から、迷惑を掛けたと謝られた。あれから、狼山のうちに遊びに行く文化が定着し、陽太郎は常連メンバーになった。日によって永吉と洋次郎、狼山の上司である牛鬼など、顔ぶれは違ったが、陽太郎だけは必ず毎回集まりに参加した。狼山の妻に、夫を頼むと言われたことや一度抱いた相手への愛着など、要因は色々とあった。
「そんなに意識しないでください、他意はありません」
「……すみません」
 一方で、狼山は陽太郎と二人きりの空間を目に見えて避ける。
「また、妻が貴方に抱かれるんじゃないかって、どうしても疑ってしまって……、ホント、嫉妬深くて恥ずかしいんですけど」
「……俺が抱いたのは狼山さんです」
「いや、あれは妻でした」
「できたら俺も、奥さんの方を抱きたかったですけど」
「くっ……、腹立つ、絶対抱かせません! 妻は俺を愛しているんですからね!」
 何故か、抱いた相手から恋のライバル認定をされている。
 どうやって覆して行こうかと思いながら、今日も言葉足らず、ままならない。


2016/10/12

『おやしらず こしらず』(執着攻め×子持ち強気受け、第三者目線)

 洋次郎が教育を任された虎松の二親は、川越の賑やかな観光地のただ中、地下一層の高級マンションに居を構え、広いキッチンを持っていた。
 二親とも仕事が忙しく、一ヵ月に一度しかこの空間を使わない。
 よって、家事手伝いのアルバイトも兼任している『育師』の洋次郎がもっぱらそこに陣取っており、この家の中で、キッチンのどこに何があるのかを一番知っているのは洋次郎であった。
 明日、虎松とその二親に持たせる弁当の仕込みが終わったばかり。本日一家は外食のため夕飯の準備が必要無い。昨日は虎松の試験勉強に付き合い遅くなった事だし早めに引き上げよう。
 『育師』は、生まれつき妖力の強い、大妖怪になる事を約束された子ども……才児の家を訪ね、子どもにその生き方を指導・教育する。洋次郎は万年貧乏のために虎松の二親から金を貰い家事手伝いのアルバイトもやっていた。
「今日、機嫌いいね」
 ふと、声変わりした虎松の悪意ある一言が真後ろから聞こえ、洋次郎は固まった。
 振り返るとすぐ傍に無機質な虎松の顔があって、慌てて正面に向き直る。
「早く帰れそうだから、機嫌いいの……?」
 猿、虎、蛇の要素を持つ鵺種の虎松は、塩気のあるさっぱりした顔つきに獰猛な目をした、不気味な見た目の男だった。得体のしれない雰囲気を漂わせ、じっとりと見つめて来る。
 洋次郎はこの才児と目が合うといつも怯えてしまう。首や腕、脚が規格外に長い癖、胴にはみっしりと筋肉がつまっている。
「当たり前だろ、仕事終わりは誰だって早い方が良い、……そんな風に責めるような言い方される筋合いはねぇな」
 強気な声を出したが、緊張が顔に出ていたらしい。頭を撫でられて、額にキスをされる。虎松は十八、洋次郎より二百近く年下だが、洋次郎より二十センチ背が高く、洋次郎を師として尊敬しない問題児だった。
「洋次郎……」
「何だよ?」
「早口は怖がってる時、俺は洋次郎に危害を加えたいわけじゃない」
「年上の男の頭を撫でるな」
 気安く、洋次郎を恋人のように触る虎松を厳しい声で叱ってから、洋次郎は逃げるように玄関に向かった。
「見送るよ」
「イラネェ」
 鬼種と鶴種の間に生まれた洋次郎は、妖力はそれなりだが、種族としてはか弱い鶴種だ。本当は鬼種に生まれたかったが、生まれる親を選べないのと同様に、二親どちらの種になるかも選べない。
「洋次郎……」
「何だよ?」
「……どうして最近、俺と目、合わせないの」
「あ?」
 断ったのを聞かず、見送りについて来た虎松が不貞腐れた声で質問して来た。女物の靴が四足、出しっぱなしの玄関に立つと左側にある収納箱の上、設置されたタブレット端末にタッチしてタイムカードを押す。午後六時半。突っかけた靴のつま先を床にこんこんしてから、振り返る。
「西洋人でもねぇのに、いちいち目なんか見ねぇ、……じゃぁな」
「待って」
 玄関の戸を、虎松に後ろから片手でぐっと抑えられ、扉を開けない状況。
虎松は洋次郎の体を玄関と自身の体で挟み、人世で流行っている所謂「壁ドン」を仕掛けて来た。
「……おい、扉を塞ぐな」
「もうちょっと居なよ、虎ちゃんも海ちゃんもまだでしょ、二人が来るまで居てよ、……寂しいから」
 まずいまずいまずい。
 家庭を訪ねて才児の育成を手伝うという『育師』の仕事は、家庭を訪ねるというシチュエーションが人世で家庭教師と呼ばれる仕組みに似ている。洋次郎が贔屓にしているAV女優が演じていた家庭教師ものの、エロ展開を思い出した。家庭教師ものは大抵教師から迫るのだが、その作品は生徒が教師を襲うという流れだった。
「帰る」
「……」
 情けない事に、恐怖で声が裏返った。
 さっさと帰ってテレビを見て寝たい。
「洋次郎、……なんで俺にそっけないの」
 首の後ろに息があたる。耳の裏をすんと嗅がれ腰に電気を流されたような衝撃が走った。脚から力が抜け、膝が折れる。
「おまえが、こういうことしてくるからだろ」
「洋次郎が喜ぶかと思って」
「喜ぶかバカ、……離れろ」
「やだ」
 背を丸めて、身動きの出来ない洋次郎の肩を、虎松が噛んだ。
「虎松、やめろ」
「やめない」
 洋次郎はどちらかといえば快楽に弱く遊び好きだが、虎松とそういう関係になるのは避けたい。
「虎松……」
「……」
 前から嫌な予感はしていたのだ。洋次郎は鶴種として、己の顔面が整っている事を知っていたし、それを利用して男とも女とも良く遊んだ。
 しかし、一方で力に物を言わせて、洋次郎を手篭めにしようとする連中とも出くわしていて、彼らの執念深さと恐ろしさを良く知っていた。
 教え子にその気配を感じたのはいつからか。何をどう間違って、こんな事に。やけに懐かれていると思っていたが、それは虎松の二親がどちらも女妖で、男親に飢えているからなのだと判断していた。
「虎松」
「何?」
 兎も角、この才児とそういう関係になる気は欠片もない。生理的に無理なのだ。虎松の親は、洋次郎が母親と認識している女妖、蛇神 海(へびがみ うみ)なのである。
「無理だ、離れろ、……おまえは俺にとって弟みたいで……、俺は弟とヤる趣味はねぇ」
「海ちゃんは俺の母親だけど、洋次郎の母親じゃないよ」
「俺は、海の事を実の親より親だと思ってる」
 洋次郎は内心慌てながら、冷静な声で説得を試みた……。
 しかし、チュッと首筋にキスをされ額から汗が滲んだ。
「虎松……、やめろ」
 もう返事が来ない。腰を後ろからホールドされ、かたいものを尻たぶに押し付けられた。
 ダメだ、ヤられる……。
 その時だった。
 玄関をすり抜けてとんでもない客が姿を現した。
 サーッと足元をエネルギーを持った風が吹き抜けるような、空気の震えと共にやって来たのは陰魔羅鬼(おんもらき)種の小野森 鬼李(おのもり きり)。洋次郎の命を狙う大妖怪だった。
 鬼李は『怪PR社』という妖怪会社で常務取締役を任されている。
趣向を凝らしたスーツ姿が眩しく、その整った井出達が何とも怪しげな色気を放っている。
 下がり目と大陸めいた彫りの深い顔立ちが迫力と華を持つこの大妖怪は、その身に莫大な妖力を備え、中堅妖怪を(下手をすると千歳の大妖怪クラスも)易々と消滅させてしまう恐ろしい存在である。
 その内側から滲む強大な力と、数千の時を生きて来た者の風格に気圧されて停止していた洋次郎と虎松を横目で見て、鬼李は目を細めた。
「面白い、赤子が赤子に迫っている」
 独り言に近い声色で呟いてから、ゆっくりとこちらを向き、ふっと息を吐く。
 途端にずるりと虎松が意識を失って伸し掛かって来た。同年代で群を抜き妖力が高く、国立の守護市民養成学校では上位十名の一人として試験をパスをした虎松が瞬殺された。いや、殺してはいないようだが。息を吐くだけで意識を奪うなんて、どんな技を使ったのか。
 茫然としている洋次郎に、鬼李がゆっくりとまた口を開こうとして、あの技で今度は洋次郎を仕留めるつもりなのだと気が付く。
 咄嗟に虎松を担いだまま、『足を使わず』に逃げた。意識を空高く俯瞰で見た世界に合わせ、ボールを投げるように己の身を妖力で遠くに放るイメージ。それは瞬間移動とも呼ばれる妖の技で、妖力を大量に消費する。
 まず海の職場に現れ、帰り支度をしていた海に気を失った虎松を預け、自分は実の親である鶴 永吉(つる えいきち)の元に走った。
 永吉を愛する鬼李は、永吉の目の前で洋次郎を殺せない。
 そもそも鬼李に命を狙われる事になった原因はこの永吉にあり、洋次郎が出世のため、鬼李の執着している永吉を酷い目に合わせたのがまずかった。
 洋次郎を産んだ時の永吉は、別の妖怪と番の関係を結んでいたため、鬼李のような恐ろしい男の存在を洋次郎は知らずに居たのだ。

「洋次郎?」
 永吉は『怪PR社』の営業部にある会議室で、数人の社員達と何事かを話し合っている所だった。
「仕事中にごめん、匿って」
「ハ?!」
「い、命が危ない……!」
 鶴は現在、第一営業部のマネージャーとして、常務取締役を兼任する部長の鬼李を補佐する重要なポジションに居た。
 そこに、百をとうに過ぎて親子の縁が切れた息子が突然来訪するのはとても非常識だ。しかし、己の命が惜しかった。
 幸い情の深い永吉は、嫌な顔一つせず会議の進行を部下に任せ、すぐに会議室の外で洋次郎に取り合ってくれた。
 永吉は、もう百を過ぎた洋次郎に今だに我が子のような愛を注ぐ。永吉ならきっと洋次郎を助けてくれるだろう。これで生き延びられる。
 
 洋次郎は一通り、鬼李から受けた恐怖と被害を言いつけた。
 しかし永吉は洋次郎の訴えを、一旦鬼李に確認するという悠長な対応で洋次郎を落ち着かせようとした。
 ……鬼李という大妖怪は、永吉にとっては優しく偉大な男かもしれないが、洋次郎にとっては恐ろしい処刑人だ。
 それを、永吉は理解していない。
 仕方なく、洋次郎は永吉の傍に居るという方法で身を守る事に決めた。
 丁度、永吉がGW明けの代休に入るタイミングだったので、寝食を共にしたい旨を伝え、受け入れ体制を整えて貰う。
 『怪PR社』はGW中こそ忙しく、それぞれGWと時期をずらして休みを取るような会社だったため、幸い鬼李は日中、会社だ。

「これ、随分前に買った奴だけど……、うちで一番寝心地良いんだ」
 永吉と同じ部屋で眠りたいという我儘に、永吉は照れた顔をして応じ、客間からわざわざ洋次郎の布団を持ち出して来てくれた。
 部屋数の多い立派な日本家屋の、中庭に面した襖仕切りの二部屋。銀座五丁目の地下一層、妖の世界における高級住宅地で、鬼李と鶴は暮らしていた。手伝いの者を週末ごとに呼んで、何とかこの家を維持しているらしい。
 屋敷の風格ある外観に反し、永吉の部屋は生活感に溢れていた。
 観察図鑑や、数独本、クロスワードパズル、競馬・競艇・競輪・バイク雑誌、家庭の医学、痛風は治る! などの題名がついた書籍類が違い棚を賑やかしている。床の間にも、バイクのヘルメット、バッカンと竿用ケース、登山リュックなどが並べられており微笑ましい。久しぶりに感じる、足の裏を舐める畳の感触に、洋次郎は深く息を吸った。
ほんのりと、永吉が恐らく過去、影間時代に使っていた香の薫りがして胸が詰まる。
 江戸の終わり、永吉に陰間業をやらせたのは洋次郎だ。

「ちょっと寝てみろ」
 敷いたばかりの柔らかに膨らんだ布団の上、しゃがんだ永吉が上目使いに声を掛けて来た。永吉と布団のツーショットはどこか淫靡で、洋次郎は思わず目を逸らしてから、眉根を寄せた。どうしても、そういう目で見てしまう、見られてしまう永吉が悲しかった。
「今?」
「今、寝心地悪かったら他のもあるし」
 過保護かよ。
「俺、どこでも寝られっから」
 横になったら動きたくなくなるし、とぼやいて違い棚から競艇雑誌を取ると、部屋の隅に寄せてあるちゃぶ台についた。
 そーか? と呟くと、永吉は茶菓子を取りに部屋を出た。
 己の身を守るために永吉と離れたくない洋次郎としては、余計に細々動いて欲しくないのだが、永吉はそんな息子にはお構いなしで、タシタシと細く小さな脚音を廊下に響かせ台所に向かった。慌てて後を追い、台所で追いつくと、永吉は振り返って不思議そうな顔をした。そしてふと笑った。嬉しそうな目を、しないで欲しい……。
「お、どうした? ゆっくりしてろよ、お客人」
「永吉の近くに居ないと、俺、李帝に殺される恐れがあるから」
「だから、そんな事になんねぇよう言っとくって言ってんだろ」
 台所は、もはやキッチンと呼ぶべき近代化された空間で、グレーに統一された壁と柱、作業テーブルを天井の奥からほんのり卵色の光が照らしていた。
 虎松の二親が持つキッチンも立派だがこの家のキッチンはそれを通り越して物々しい。
 装飾のように機能美に優れた、恐らく性能も良いのであろう新品の家電に溢れている空間に、洋次郎は圧倒された。ここで料理すんのは、ちょっと緊張だろうな。羨ましさよりも異世界感。溜息が出た。
 まるでモデルルームの最新式高級家具が並べられている景色に、永吉が悪戯小僧のように存在している。
 ふっ、と思わず小さく噴いて、おい笑うなと窘められる。
「このキッチン、ちょっと立派すぎねぇ?」
「山神を喜ばそうとして、業者と相談したらこうなった」
 この家にしょっちゅう料理を作りに来る山神という男は、江戸時代、永吉が岡引をやっていた頃の永吉の子分である。
 現在も永吉の右腕として有能な働きを見せている山神は、永吉の家がある地下一層の真下、二層で独り暮らしだ。時折、永吉と鬼李の生活を気に掛け料理を作りに来ているという。
「喜んでたか?」
「おう!感動して泣いてやんの、可愛いとこあるだろ?」
「毎日作りに来そうな勢いだな」
「それはお断りした、飯作ってくれるより右腕しててくれる方がありがてぇって説き伏せたら今度はむくれる始末だ」
「ふ、扱い辛ぇ」
「全くな」
 ころころと笑いながら、茶菓子を揃える永吉の、小さな背中が愛らしい。昔は親として認識していたが、今は交わる相手として好ましい綺麗な一つの個体である。しかし、永吉はそんな洋次郎の邪な想いを、欠片も意識していないだろう。永吉は歪んでいる。
 可哀想に、まだ子離れ出来てねぇんだろうなと洋次郎は責任を感じた。
 普通は百を越えると、妖怪の親子関係は消滅する。親が次の子を作るためとされている妖怪の遺伝子に組み込まれた仕組みだ。百を過ぎて親を慕う子、子が百を過ぎているのに子を慕う親は不健全で、異常な個体なのだ。
「李帝は、いつ帰る?」
「そろそろじゃねぇか」
「李帝と土子作んねぇの?」
「……バカ言え」
「俺みたいのができんのを、心配して作んねぇの?」
 軽い気持ちで聞いてみたら、永吉は振り返って怖い顔をした。
 妖怪の繁殖には数パターンあるが、一般的には二通り、同じ種族の男女で交わり女が腹に子を宿す腹子による繁殖。これは妖力が弱く寿命の短い魑魅魍魎に多い手法で、大妖怪と呼ばれる部類の層は腹からの出産というグロテスクなやり方を好まぬため、あまり用いない。
 次に、別種の男女と男同士、女同士の間で用いられる土子による繁殖。近年では同種の男女でも用いられるようになった土から子を作る手法である。洋次郎や虎松はこれで生まれた。よって、洋次郎の二親は二人とも男で、虎松の二親は二人とも女である。
 そして五百歳を超える大妖怪同士の間には、稀に二親の力をはるかに上回る生まれながらの大妖怪が誕生する事があり、こうした妖怪が若さ故の癇癪などで二親を殺し、暴走する事を防ぐため、神々は『育師』の制度を作った。『育師』は強力な子の生まれた二親の元に派遣され、二親を助ける。
 二親の力と子の力が拮抗している場合、通う形を取るが、子の力が二親をしのぐ時、『育師』は二親から子を取り上げる。
 洋次郎は永吉とその番相手よりはるかに力を持って生まれ、『育師』である海の手に、赤子の段階で委ねられた。
 気を遣って接してやらないと消し潰してしまう恐れのある二親と接している時より、海と接している時の方が安心出来た事。洋次郎にとっては海こそが親であり尊敬出来る相手だったが、九つの時、洋次郎は実の親である永吉により海の元から連れ去られた。
 己の力を高められる大切な時期に『育師』から離された不利益を、永吉にぶつけるのは間違っていると今ならわかるが、当時は恨みや苛立ちが先立った。癇癪を起こして二親を殺してしまわなかった自分を褒めてやりたい。それぐらい、不愉快な事件だった。
 理解の無い親に、可能性を狭められた。か弱い鶴種に生まれてしまった事も、何となく産みの親が悪いような気がした。だから洋次郎は二親を己のために利用することに、まったく抵抗がなかった。勝手な親には勝手に振る舞ってもいいものだと思った。
 しかし、それで残った負の思い出にまだ悩まされている現実。胸の痛みに、未だ振り回されている。後味の悪さと、二親に対する小さな愛の自覚と。
 永吉と顔を合わせると、己の醜さや間違いを指摘されるようで辛い。

 永吉には、陰間の道以外にも沢山の生き残る術があったはずなのだが、拐された事を恨んでいるという息子に対する罪滅ぼしなのか、永吉は陰間になる道を選んだ。
 身体に丸みを、仕草に色気を、発言と表情に魔性を、胎内、さわり心地、滲む薫り、対面した際の風情に中毒性を持たせて多くの客を狂わせると永吉は出世した。永吉の値段はたったの半年で八倍に、一年で十六倍、二年で三十二倍になった。傍からは天賦の才で華を開かせたように見える永吉の陰間業だが、粗野で柄の悪い、凄味のある顔つきが板についていた岡っ引きが、そんな肉体改造に成功するには、大変な苦労があったろう。
 永吉の「鶴」という陰間の名は遠く、西洋にも渡っていて、芸術家を中心に熱狂を生んでいた。その活躍ぶりだけを見ると、永吉は籠の鳥とはいえ、天に与えられた美貌で富と名声を手に入れた幸運な男のようにも見えた。しかし実際は辛抱だけの日々を過ごし、最終的に精神を病んだ。
 永吉は陰間業で、他人を楽しませる事は出来たが、自分を楽しませる事は出来なかった。元来、行為だけで楽しめる性質ではないのかもしれない。考えたくないが、永吉は陰間の所業を苦難として耐え、忍んでいた。
 それは陰間になってからの永吉が洋次郎と話をする時、いつもそわそわして、どこか期待するような……、縋るような目をしていた事からわかった。
 あれは、もう許すという言葉を待っていた。もう陰間などやらなくて良い、恨みは消えたと、いつ言って貰えるのか、じっと待っていた。洋次郎はそんな永吉の心に気づいていて気づかぬふりをしたのだ。それは恨みや、罪を償わせたいという純粋な気持ちからではなく、もっと汚く残酷な、己の都合のため。
 あの頃、洋次郎には永吉の稼ぎが必要だった。
「洋次郎……」
「何だよ」
 ピピピピ、ピピピピとキッチンの壁でタイマーが規則的なアラーム音を鳴らした。怖い顔の永吉は、唇を震わせ、何か言葉を探している。
「俺は、おまえを産んだ事を、欠片も後悔していない」
「ぉぅ……」
 自分でそう言葉にしてからやっと、ほっとした顔になった永吉に、洋次郎は寂しさを覚えた。
 何となく、永吉が洋次郎という個体との距離を、測りはじめたような気がしたのだ。いよいよ親子としての別れが近づいて来た事。永吉が、前に進もうとしている。
「妹が欲しいな」
「……ふ、バカヤロ、鬼李も俺も年だ」
 笑ってはぐらかしながら、満更でもない親の背を、子として、どのように押してやればいいのか。
 永吉は千歳、鬼李も二千歳を超えている。
 五百の大台を超えた大妖怪同士では、子が出来難い事は世の理だが、二人ならという予感もする。
「最近は千歳同士でも、土子作れるって聞くけど、……去年、ニュースでさ、鬼種と妖狐種の……、千歳超えしてる男女が……」
「あぁ、育師が二人付いた奴、九州の」
「順調に育ってるって、こないだ小っちゃい新聞記事で、……」
「一人でふらふら『足を使わない』移動しちまうから、しょっちゅう海外で保護されてるんだろ」
「赤子のうちから『足を使わない』とか、妖力どうなってんだよって」
「ハハ」
 永吉と久し振りに交わす言葉の、なんて軽く心地よいことだろう。気がついたら夜の九時になっていた。
「どうしてここにいるの?」
 帰宅した鬼李は、仕留めそこなった洋次郎と対面し驚いた顔をした。直後、ふっと噴出し洋次郎を指さして続けた。
「もしかして、防衛策?」
 笑ってしまうような、お粗末な浅知恵だと言いたげに笑みを深める。
 しかし、鬼李のような大妖怪と戦い、無事で居られる妖怪が一体どれほどの数いるのか。その中で、洋次郎を庇ってくれる妖怪はどれほどか。
「永吉の見てる前じゃ、さすがに俺に手ぇ出せねぇだろ?」
「君、何か誤解してない?」
「誤解?! 何を?!」
「俺の顔を見て、わからない?」
 鬼李は柔らかに微笑んでいる。
 大妖怪の優美な、伺う視線に洋次郎は不安を煽られた。
 今から帰るという知らせを寄越した鬼李を、永吉は玄関の外まで迎えに出て、それに洋次郎もくっついて今、ここに立っている。地下一層の、地上と変わらぬ夜の景色。墨色の空があって月と星があって。外灯の下、真っ暗な道に卵色の光、スポットライトを当てられているように、姿を照らされた鬼李は、どこかステージ役者のような堂々とした存在感で洋次郎を圧倒した。
 閑静な高級住宅地の夜、舞台のはじまる前に似た、得体の知れない緊張が、ふわふわ漂っていた。
「鬼李、……洋次郎がおまえに怯えてんだが、何したんだ?」
「何も……、あぁ、男に襲われているのを助けたかな? ……気絶させた彼、大丈夫だった? もしかして恋人同士だったらごめんね?」
 恋人同士なんかじゃねぇし、だったとしてもあんたには隠す。
 洋次郎は警戒をくっきりと顔に浮かべ、鬼李を睨んだ。
「あんたは、……何、を……っ、考えてる?」
「それはこっちの台詞だね、……驚いたよ、君が鶴を……永吉を頼るなんて」
 永吉も洋次郎も同じ鶴種であるため、鬼李は永吉を呼ぶ名を改めた。呼ばれ慣れていない名で呼ばれた永吉が少しはにかんで口元に手を添えたのを、洋次郎は見逃さなかった。
「永吉しか頼れなかったんだよ、あんたから身を守るためには……」
「残念だが、君をどうこうするつもりはない」
「信用出来るか、あんたは本気出せば、守護市民だって葬れる力を持ってる」
「持っていても使わない、分別があるからね」
 数秒睨み合って、洋次郎が負けた。
 鬼李の静かな、服と皮膚を破るような、全て見透かす瞳に耐えられなくなって、永吉の後ろに隠れるはめになった。
 すると、くすっと笑って小動物を愛しむような目をすると鬼李は屋敷の奥、自室に消えた。
 鬼李が去った後、ハァと息を吐いてしゃがみ込んだ洋次郎の頭を、永吉が撫でる。永吉はそれから、洋次郎、一個良いか? と切り出し、恋人って危ねぇ奴じゃねぇよな? と親らしい疑問をぶつけてきた。

 翌朝、目を覚ますと鬼李の顔が目の前にあった。
 木目の美しい日本家屋の天井を背に、優美な顔が洋次郎を覗き込んでいた。立ったままこちらを見下ろしている元皇帝の涼やかな目元には呆れ……。まるで虫の死骸に出会ってしまったような、冷淡な観察の目が降り注いで来ていた。
「おぐっぁ?!」
 鬼李の顔に悲鳴を挙げて、『足を使わずに』移動する。しかし寝ぼけて座標を間違えたため、中庭に掘られている池の中に降りて、金魚が驚いて腰元で跳ねた。
 池は腰が埋まる深さで、良く透き通っている。
「庭を荒らさないで」
「好きでこんなとこ落ちたんじゃねぇ!」
 鬼李の批難に、怒鳴り声を返すと山神が渡路に顔を出した。
「鬼李、洋次郎、遊んでいないで配膳を手伝ってください」
 鬼李と永吉はどちらも炊事が出来ないため、毎食、山神を呼んでおり、その代わりに二人で二層にある山神の家の家賃を払うという関係を結んでいた。
 二人の家と山神の家は、真上と真下の関係にあり、個人用のアースポールを通して行き来自由にまでしているという。親分子分の関係も、ここまで来ると家族の域だ。
 時間は六時二十分。
 鬼李と永吉は毎朝、六時半に朝食の席に着くという。
 山神がわざわざ作りに来ている朝食を口にしないのは失礼だと永吉が怒り、鬼李に洋次郎を起こして来るよう言い付けたらしい。
 一方で、永吉は毎朝、鬼李と自分と、山神のものと合わせて三人分の洗濯をし、鬼李は屋内の壊れ物を修繕する担当だという。そして、休みの日に掃除の業者を呼んで家屋の手入れをする。そんなサイクルで回っている家の暮らしに、洋次郎は今、紛れ込んだ。
 爺どもの活動開始時間、早すぎだろ。
 何とか顔を洗い、永吉の数少ない洋服を物色して何とか着られそうなものを身につける。
「起きろ」
 しかし欠伸が出て、ペシンと永吉に腿を叩かれた。お茶の間は和洋折衷。テーブルが置かれており、畳の部屋の中心だけフローリングが敷かれていた。
「なんかゴテゴテしい椅子だな」
「李国が揃えてくれたものだよ」
 一つの国から贈られたもの、という事は相当値の張る椅子だろう。洋次郎はうへぇと苦い顔をして、おっかなびっくり腰掛けた。
 それから、ねみぃ、と呟きながら山神の焼いた鮭に箸をつけた。口に放ると二秒後、じわっとした甘みが口に広がる薄塩味の鮭に感動。
「あ、美味っ……」 
 呟くと、山神が目を細め、たんと御上がりなさいと呟いて口端を上げた。
「まぁ、おまえにしてみると、おふくろの味か」
 永吉がしみじみ漏らすと、山神がついに声を上げて笑う。
「いやですよ親分、私はこんな物騒なお子様、産んだ覚えありません」
 洋次郎が永吉の元で暮らしていた時も、山神は永吉一家の食を世話していた。山神は時々、鬼李を兄、洋次郎を弟に見立て、二人を自分と永吉の間の子のように扱う事があり、永吉もまた、そんな風な関係性をやんわりと認める。
「相手が山神だったら、俺もこの子をこんなに敵視しなかったんだけどね」
 鬼李の呟きに、洋次郎が緊張すると山神がまた笑った。
「ですって親分、私達の子どもなら、鬼李は慈しんでくれるそうですよ」
「何ふざけた事言ってんだ」
「俺はもう、土子を作れるような身体じゃないからね」
「あ? そんなら……俺だって千超えだろうがよ、どっこいだろ?」
「千なんて、……」
 言い掛けて、鬼李は洋次郎を見た。
「洋次郎、君の子なら可愛がってあげても良いよ」
「あ?」
「君は永吉を酷い目に合わせたから、好きになる事は正直難しいけれど、君の子なら永吉の成分を持つ子どもになるだろ、愛しい永吉の孫なら、……とっても可愛がれると思う」
「……っ、んな予定、ねぇから」
「おいおい、隠すなよ、聞かせろよ」
 永吉は興味津津の顔だ。
 鬼李も丁寧に鮭の骨を取りながら、山神は米を噛みつつ、黙って洋次郎の答えを待っている。
「ん、まぁぼちぼち、最近狙ってんのは地登利 雲(ちとり くも)、あんたら、知ってるかな、海の弟で長蔵んとこで仕込みやってた奴、……優しくて顔がイイ。まぁ、本命はずっと長蔵で変わりないんだけど、あの人は生き様がイイなって思ってて……、悪い神様みたいなさ、害ある存在の自覚を持って生き続けるってどんな気持ちだろうな、見た目も凄くセクシーだし、殺されてぇーって思う」
「……おい待て」
 愛する者の命を吸う、亀種の長蔵に対する永吉の警戒は素早かった。
「ん?」
「長蔵って、あの長蔵だよな?」
 ああ、あの長蔵だ。死神だ。
「永吉も仲良いよな、俺は海伝いに仲良くなったんだけど、こないだも二人で森林浴行ってさ、すげぇ良かった、あの人、休暇の過ごし方色々知ってっから」
 健全な関係であるように繕ったが、永吉の目は厳しいまま。
「いつからだ?」
 長蔵からは、決してバレないだろう関係。
「えー? そんなん覚えてねぇよ、うちに良く遊びに来てたじゃん」
「答えろ」
 いつから交流がはじまったのかではない。
 いつからセックスをするようになったのか……。それは戦後、永吉が国外で見世物をやっていた頃。長蔵の私生活が、爛れに爛れていた頃。何もかも底辺の水準で、誰も道徳を口にしなかった頃。
「俺が強請った時だけ優しくしてくれる。それだけの関係、長蔵は悪くない」
「もう会うな」
「……なんでだよ」
「危険だからだ」
「親友の癖に、信じてやんねぇんだな」
「うるせぇ」
「親分、だから私は再三、口を酸っぱくして言ってたんです、あの人は録な人じゃないと」
「うるせぇよ」
 苛立った永吉が、むっつりと黙り込んでしまったのを堺に、食卓の会話は消えた。

 それから、永吉が長蔵を訪ねたのはその日の午後。
 永吉の傍を離れられない洋次郎を強制的に連れ、長蔵のランチ休憩に乗り込んだ。川越の地下一層、妖怪タウンには、地上から氷柱のように垂れている妖怪ビルと、一層に聳える妖怪ビルの二種類。そのうち、氷柱型のビルの一つ、地上川越の観光地「時の鐘」の真下から氷柱のように地下に垂れている「時の鐘ビル」に『怪PR社』は入っていた。
 長蔵の務める『土星事務所』も同じビルにあり、必然的にビルの傍にある飲食店で落ち合う事になった。定食屋の庶民的な内装に、洋次郎は安心して溶け込んだが、永吉は少し浮いていた。
 そこではじめて、洋次郎の親だった頃の永吉と、今の永吉は雰囲気が違うという事に気がついた。
 鬼李は生まれながらの王侯貴族で、恐らく自然に、手にするものや行く先に、上品さを求める。鬼李の傍にいる永吉にも、それが染み込んだのだ。
 汚く小さな店の中、土のついた石ころがひしめく空間で、永吉は紛れ込んだ宝石のようだった。
「こういう店、久しぶりに入ったな」
 呟いた永吉に、だろうな、と応じると不思議な顔をされた。昔、洋次郎の親だった永吉は、こういった雰囲気の店にしか入らなかった。
 焼肉定食を二つ頼んでから、改めて店内を見回すと、昭和の香りが漂っていた。
「あ」
 いつ見かけてもときめく、長身の伊達男が店の入口に立ったのを見つけて声を上げる。アーモンド型の目を涼しく細めて、軽く腕組をしながら亀 長蔵(かめ ちょうぞう)がやって来た。長蔵は洋次郎の育師である海を愛で吸い殺したことのある恐ろしい男だったが、それでも惹かれる。
 長蔵は、永吉の横に気まずそうに座っている洋次郎を見ると、全てを悟ったらしく、ゆるく笑った。
「裏切ってて、すまんかったな」
「てめー……」
 座りながら早々と詫びた長蔵に、永吉は苛立ち、洋次郎は肩身が狭くなった。永吉との友情があるから、長蔵ははじめ洋次郎を拒絶した。洋次郎との関係が永吉に知られたら、長蔵と永吉の友情にはヒビが入る。
 長蔵が永吉を特別な友として心の支えにしていた事を知っていながら、どうしても長蔵が欲しかったあの頃。長蔵が永吉を失う不幸をわかっていながら、長蔵に甘えた。
 長蔵に好かれたい殺されたいと思った過去と、まだその気持ちが消えきらない今。実の親を不幸にした自分を受け入れられず、かといって生き延びた命を捨てるような馬鹿をしたら、不幸な親をさらに不幸にすると思えて。それなら、すべて愛のせいにしたかった。
 それは長蔵にしてみれば迷惑な希望で、そういう考えが透けていたから、長蔵はついに洋次郎を愛する事はなかったのだが、長蔵は洋次郎のそうした甘えを、大切な友人を失う覚悟で受け入れてくれたのだ。
 だから今、長蔵は素直に何の言い訳もせず、永吉との友情を洋次郎のために捨てるつもりでいる事を永吉に詫びた。
「さすがに絶交だ」
「覚悟の上だ」
 涼しい顔で、永吉の怒りを受け流す長蔵に、永吉がぎゅっと拳を握った。
「おまえは俺と仲良く会話しながら、ずっと、これまで、俺の顔を見るたび、おまえの息子は俺の手付きだ、お気の毒様だと思っていたんだな?」
 心にも無いだろう罵りを口にして、永吉は長蔵を何とか不愉快にしようとしている。長蔵はひとつ、溜息をつくと永吉を正面から見据えた。
「俺がそういう風に思う奴だと、本気で考えるおまえじゃないだろうに、そんな憎まれ口を叩かせてしまって、本当にすまん、……腹が立つよな?」
「そりゃぁおまえ、……俺が、どんだけこいつのために、犠牲を、……信っじらんねぇ」
「すまん」
「命より大切なんだ、こいつは、……正直、俺の命をてめぇにやるのは良いんだ、こいつの命だけはやれねぇんだよ、わかるか、息子なんだ、……可愛くてしょうがねぇんだよ」
「ああ」
「この気持ちが異常なのはわかってるんだ、もう二百年も経ってるのに、どうしてまだ可愛いのか……」
「ふっ」
 少し涙ぐんだ永吉の訴えに、長蔵は微笑した。
 永吉が鋭い目で、長蔵を睨むと、長蔵は少し困った顔になり洋次郎を見た。
「何が可笑しい?!」
「永吉、もうやめよう、長蔵は悪くねぇから、……俺が、しつこく強請ったんだ」
 ついに洋次郎が声を上げると、長蔵が落ち着いたよく通る低い声で、はっきりこう言った。
「可愛いんじゃねぇだろう、……可哀相なんだろう?おまえの不幸を気にしてる洋次郎が」
「あ?」
「おまえら二人とも、哀れみあってんだ」
 ぐっ、と永吉が唇を噛んだのと、洋次郎が息をのんだのは同時だった。
「ずっと不毛だと思ってたが、こればっかりはお前らが歩み寄らねぇと、互いに互いを知らな過ぎる、おまえらどっちも、もう幸せなんだから、気に掛け合うのは終わりにしろ、キリがねぇ」
 長蔵は親子の、心臓の音を無視して、近くを通った店員に雑穀おにぎりセットを頼んだ。
「意味がわからん」
 永吉が炭酸の抜けた炭酸飲料のような、スカスカの声を上げると、長蔵はクツクツと肩を揺らした。
「あと、そうだ鶴、あのな、鬼李の坊はおまえを、幸せにしてぇらしい」
「俺だってあいつを幸せにしてぇよ」
「だからおまえらも、もうちょっと互いを知れ」
「あ?!」
「あっ、……わかる、俺はわかった。李帝と永吉はもう十分、幸せなんだってこと」
「ああ」
 長蔵の言いたい事を察知して叫ぶと、永吉はむっと口を窄めた。
「洋次郎に手を出してる事について、最初に俺を責めに来たのは李帝だった」
「……っ?!」
「鶴の親友の俺が、愛した者を愛で殺す俺が、よりによって鶴の大事な息子に手を出してやがるとは何事かって、殺されるかと思った。あの時の剣幕、見せてやりてぇ」
 思い出したのか、長蔵はうっすら額に汗を掻いて、瞬きを繰り返した。
 本当に怖かったのだろう。
「だからさ、俺は教えてやったんだよ、身を守るために、……真実を」
 相も変わらず飄々とした態度の長蔵に、永吉は怒りを削がれて来たようで、ちゃっかり長蔵の頼んだ雑穀おにぎりセットが来るとすぐ、付け合せの漬物を奪った。
「鶴は、もう親子の縁なんかに縛られてねぇって」
「は?!」
「洋次郎って一匹の可哀相な妖怪に、同情してるだけなんだぜって」
「意味がわからん」
「……、恋人が優しすぎて苦労しますよねぇ李帝さんも」
「ほんとに」
 タイミング良くやって来た鬼李は恐らく会話を聞いていた。
 定食屋にまた一人、浮いた存在が加わり、四人席の椅子が全て埋まった。大柄な長蔵の横に、すらりとしているが背の高い鬼李が座ると壁のよう。二人は視線を合わせると、やれやれという顔をして永吉を見た。
「おいおまえら、なんだ? 言いたいことあるんなら言え?」
 永吉が唸ると、長蔵が眉を下げた。
 鬼李が店員にすっと手を上げて長蔵の手に握られている雑穀おにぎりを指差した。同じものをください。
「つまり鶴は、洋次郎を可哀相に思ってるだけなんだよ」
 鬼李の指摘に、永吉が首を捻る。
「我が子だから、可愛いし可哀相なんだろ」
 永吉の反論に、長蔵が鬼李の言葉を引き取って続けた。
「おまえなら、よその子でも同じように可愛いがるし可哀想に思うだろってこと」
「そう」
「それで実際、洋次郎のことは可哀想と思わないでいいんだ」
 二人が息を合わせて指摘すると、永吉は渋い顔をした。
 オイお前ら、いつからそんな仲良くなったんだよと漏らし、二人を睨む。
「いやぁ、それがこの大妖怪様がね。どうも、俺の事も洋次郎の事も、ほんとは大嫌いな癖に、永吉と仲の良い奴とは良い関係築いておきたいらしくてね、接近してきてくれたんですよね。洋次郎の方には、この通り、こんな怯えられちゃってるけど」
「え、え……?!」
 つまり、と真相に気がついた瞬間、洋次郎はかっと頬が染まった。
 鬼李は洋次郎と、関係を改善しようとして洋次郎を訪ねて来た。
 それを洋次郎が、一方的に自分を殺しに来たのだと思って、慌てて永吉に保護を求めた。
 困惑している洋次郎の頭を、長蔵がぐしゃっと撫でてくれた。
「そういうわけだから、おまえはもう俺に愛されようとすんな」
 洋次郎が長蔵に殺されたがっていたことを、長蔵は見抜いていた。
「そ、……そんなんじゃ」
 ぐりぐりと強く撫でられて、ぼろぼろと涙が出た。
 死の優しさから突き放されて、恐ろしかった。
 長蔵という存在が、遠のいた事による、不安感。
「洋次郎」
 鬼李の声に顔を上げると、鬼李は永吉と目線を合わせて、それから洋次郎を見た。
「鶴が気に掛けている君の事を、俺も気に掛ける。いつでも頼りに来ると良い」
「俺の事、殺すとか言ってた癖に」
「過去の事だよ、互いに忘れよう?」
 どうして、この大人たちは優しいのか。どうして、優しくなれるのか。
 大変な目に遭わせたのに。
 責められもせず、手を差し伸べられたら、誰も俺を責めない変わりに俺が俺を責める。
「俺が、君を気に掛けるの、嫌?」
「嫌じゃない……」
 親子の縁は百年で切れる。
 親子の情も百年で切れる。
 情というものは、親子だから生まれるものではないのだと気がついた。
 永吉が洋次郎を愛する気持ちは、親子という枠を超えて妖怪と妖怪の。
 それは永吉が山神を気に掛けるのと、長蔵を気に掛けるのと、永吉を巡る全ての妖怪を気に掛けるのと同じで、尊くて有難い、失いたくない関心だ。
 同じだけの関心を、永吉に向けたい。

 洋次郎は以来、鬼李と永吉のもとを頻繁に訪れるようになった。



2015/06/15

『畑のミカタ』(甘党の親分+親分大好き子分)

 以津真(いづま)種の以津真 弥助(いづま やすけ)は、先日、管理部から営業部に異動した。周囲には反対され、上司からも渋い顔をされた異動だったが、無理を言って通して貰った。

 異動してみると十年ぶりについた営業の仕事は楽しかった。人事の仕事にもやりがいはあるが、やりがいを感じられる頻度が違う。
 まず弥助の扱うイベント商品は早ければひと月で結果が出る。そして数字でしっかりと成果がわかり、やることをやれば八割方成功し感謝される。多少の事故や衝突は起こるが予測して動けば対処出来るし、困難を解決したという達成感を味わえる。
 対して、弥助がこれまでやってきた人事の仕事は、他者を一定の距離を取って観察し、昇格や降格を決めるもので。仕事は成し遂げても含みが残り、その成果がわかるのには年単位の時が要る。
 成功するのは十人に一人で、後は不満を漏らされる事の方が多かった。
 内部の揉め事に巻き込まれずに済むと求人担当者になってみても、やはり上手くいく者は少なく、悪くすると苦労して招いた者から騙されたなどと罵られる。
 江戸の時代に世話を受けた岡引の親分、鶴(つる)を助けるつもりで営業部に戻った弥助だったが、本当は自分が管理部から逃げたかっただけなのかもしれない。
 強引に自分の後を次がせた管理部の後輩、柄黒(がらくろ)の愚痴を聞きながら、ふとそんな事を思う。柄黒は最近、他社から引き抜いたばかりの制作部チーフ須根(すね)のフォローで精神を削られていた。
 小江戸のはずれにあるレトロなカフェバー。そこで、弥助と柄黒は飲んでいた。小江戸の和風な街並みを殺さぬ、趣ある古い洋館の中にその店はあった。昼はカフェ、夜はバーとして機能しており川越の地ビール、何かの大会で金賞を取ったCOEDOを五種類も生で飲める。黄金色の照明がカウンターを照らす以外は、ほとんど闇色の店内が色合い良く、西洋画のような空間を楽しめた。
 かれこれ四時間。隣は二度も入れ替わったが、柄黒の嘆きは尽きることを知らない。それだけ鬱憤が溜まっていたのだろうが、そろそろ場所を変えるべきかと弥助は思案していた。
「大体ね、うちの条件を気に入って、あの人がうちを選んだんですよ? それを俺が強引に連れて来たみたいな甘えた言い方をするから頭に来るんですっ」
 そう唸りながら、手元のカプレーゼからモッツァレラチーズを避け、トマトだけを掘り出して口に運んだ柄黒に可愛さを覚えて笑みが溢れた。二百と少ししか生きていない弥助に対して、柄黒は齢五百の大台を越えている。可愛いなどと感じるのは失礼かも知れないが、弥助は悪戯心に任せて指摘した。すると、柄黒はしまったという顔をして頬を染めた。それから、弥助の友人にして柄黒の恋人である田保には黙っていてくれるように言った。弥助は顔を顰めると、誰がそんな不粋な真似するかよと呆れた。
 見渡すと店内には、弥助や柄黒と同じ二人連れの妖怪サラリーマン客が多く席を占めている。観光客らしき人間客が放つ明るい空気と対照的な、苦労の滲む暗い空気を醸す妖怪客達が少しだけ煩わしい。弥助は柄黒を促し店を出て、その日は結局、自宅に柄黒を招き朝まで柄黒の愚痴を聞いた。

 それから数ヶ月、梅雨が明けると弥助は第一営業部のNo.2になっていた。
 国家を財布に持つ案件を引っ張って来る元一国の王、小野森 鬼李(おのもり きり)を除き、弥助に勝てる第一営業部のメンバーは一人も居ない。第二営業部の牛鬼や鵺にはまだ届かないにしても、なかなかの成長スピードだと、自分で自分を褒めてやりたい。鶴の治める第一営業部の成績にも大分貢献し、当初の目的を果たせたのと、順調に事が進む楽しさと。
 油断するには充分なタイミング。
 大口の取引先から発注予定の案件を逃した。
その解離は円にすると約二億。一人で埋められる数字では無かった。鶴が責任を取らされ降格処分を受けると、第一営業部の長は鬼李が務める事になった。鶴を助けようとして、鶴の首を絞めた。
 三日、食事が喉を通らなかったが四日目には何とか気持ちを切り換えた。
 これから弥助が取り組まなければならないのは、己が空けた穴の修復。常時求められる予算数字を守りつつ、マイナス補填のため案件を増やして稼働する。第二営業部から牛鬼を招き、大型イベントを複数スタートさせ、巻き返しを図る。
 当然、その取り組みによって弥助と牛鬼の仕事量は倍になり、二人の残業は深夜まで続いた。
 ある日、時の鐘地下から出る妖怪メトロの終電を逃し、午前零時のタクシーで川越駅の飛び穴に向かった時の事。道中、隣で熟睡する牛鬼の寝顔を盗み見ると、スッキリと整った顔に形の良い目鼻が付いた男前であった。綺麗な四角の額から延びた崖のような鼻は小鼻が小さく筋が通っていて、滑らかな頬やがっしりした力強い顎が男らしい。
 ふと眠る牛鬼の向こう、外の闇で濁った窓にみすぼらしく痩せた己の顔が映った。凄みのある三白眼でギロリと睨んで来る元やくざ者の口許が、ざまぁねぇなと呟いて歪む。
 普通に生きているだけで他者を救える牛鬼の、存在としての素晴らしさ。見た目にも美しく、いかにも神々に愛されている。
 それに比べ、大切に思う恩人さえ満足に救えない自分の、助けようとしてとどめを刺してしまったその害悪ぶりに嫌気が差す。
「弥助さん」
「……ん、」
 そこで、疲れで掠れた牛鬼の声が耳に響き、瞬きすると、隣に寝ていた牛鬼のハッキリして大きな目がうすく開かれていた。
「あんた管理部戻れよ」
「何?」
「営業、向いてねぇ」
「何だよ藪から棒に」
 今回、大穴を空けた事もあり言い返し辛いが、弥助は営業として、自分で言うのも何だがそれなりの成果を出している。向いてない事はないと思うのだが。
「腑に落ちてねぇ顔だな」
 タクシーが目的地に着くのと同時に、牛鬼は弥助を正面から見て、弥助の胸のうちを言い当てると、さらに続けた。
「あんたの営業は甘い、……焼畑農業みたいだ」
 意味を聞く程、弥助は愚かではなかった。何か牛鬼から見て至らない点があるのだろう。まずは牛鬼のやり方と己のやり方の違いをヒントに悪いと思われる点を見つけ、改める。
 それを改める事が出来なければ、弥助は営業部のお荷物。
 牛鬼の言葉は、弥助の心を深く抉った。

 かぁー、いけ好かねぇなぁと拳を握り締めた鶴に弥助は眉を下げた。所沢にある弥助の自宅は人世の住宅地に紛れてひっそりと建っている。甘味を手作りし、鶴を招待した休日の午後。こざっぱりとした和洋折衷の一軒家、二階で餡蜜と抹茶ババロアを前に親分子分が親交を深めていた。
 鶴は弥助の尻拭いに降格させられたのだが、逆に気が楽になったと弥助を許し、こうして悩み相談にまで乗ってくれている情け深い親分である。
「確かに販売力のある奴は時として焼畑やっちまうけど、言い方ってもんがあらァな?」
 弥助の側に立って腹を立ててくれる鶴に有り難みを感じつつ、鶴の口からも出て来た焼畑という言葉に、いまいちピンと来ない。弥助は鶴に教えを請おうと口を開き、しかし思い止まった。これは、単純な仕事の確認事項ではない。己の頭で考えて答えを出すべき問題なのだろう。
 辞書で引けば焼畑農業とは、耕耘・施肥を行わず、作物の栽培後に農地を焼き、一定期間放置して地力を回復させる農業と出る。それが営業にどう繋がるのか。弥助なりの解釈で、何通りかは思い浮かべられたが牛鬼に営業を辞めろと言わせる程の事には繋がらなかった。
 例えば一年に一度しかイベントを開催しない顧客は放置して次の発注を待つし、要求が多過ぎて満足してくれない顧客についても放置して他でも上手く行かない事をわからせる。
「何にせよ、至らない点があるンです、よォく考えて改善します」
「まァ頑張れ」
 バシッ、と肩を叩かれて気合いが入る。所沢の平和な空を、ヘリコプターがバリバリと音を立てて通過していた。今度こそ鶴に恩を返す。決意すると心が軽くなった。
「これ、お土産に」
 餡蜜と抹茶ババロアは、痛風の気がある鶴の身を管理する山神(やまかみ)に注意され、事前に山神の許しを得た小量しか出す事が出来なかったが、甘いもの好きの鶴に饅頭を土産として持たせるのまでを禁止されてはいなかった。
 見送りに付いて行った所沢の駅で、エスカレーターを登りながら包みを渡すと、鶴はニヤリと悪い笑みを浮かべた。
越後屋、そちも悪よのう?」
「いえいえ、お代官様程では」
 ベタな冗談で場を和やかしながら、鶴は嬉しそうに口許を綻ばせ、大事に包みを懐に仕舞った。弥助と鶴、二人だけでの行動は思えば江戸時代以来である。鶴の周りにはいつも赤鬼や山神、鬼李が居て、中々独り占め出来る機会がなかった。
 何となく、楽しい気持ちになって来て、弥助は鶴と一緒に改札を通った。
「おいスケベ、家までの見送りは必要ねぇぞ」
「誰が親分相手に下心なんか持ちますか、飲みにお誘いしようと思ってンです、有楽町なら親分ン家の眼と鼻の先ですよね」
 鶴は鬼李と共に銀座地下の高級地に屋敷を持っている。元は鶴一人で所有していたのだが、固定資産税を払えなくなり、鬼李に買い取って貰ったのだという。
「……、しゃーねぇなぁ、ちょっと付き合ってやるかぁ」
 鶴は言いながら、楽しげだった。
 そして有楽町駅に着くとすぐ、駅前の果物屋で食べ歩き用の莓を買った。
「観光客ですか?」
地元民らしからぬ鶴の行動に皮肉を溶びせると鶴は勝ち誇った顔をして目を細めた。
「果糖を摂取する喜び!」
言いながら、得意げに赤い粒を犬歯で串から引き抜く。
「今日は山神さん居ないですもんね」
痛風を患っている鶴は口にできる食物を、女房役の部下に厳しく監視されている。
「あ? バカ野郎、山神が居ても居なくても俺ぁ果糖を摂取するぞバカ野郎、この野郎バカ野郎」
「たけしですか」
他人の観察が得意な鶴の物真似は上手く、弥助はクツクツと息を漏らしながら指摘した。妖怪の著名人だけでなく、人間の著名人も頭に入れているらしい。
鶴は、弥助の江戸時代からの上司で、職人が丹精を込めて作った美しい人形のような井手達をしている。果実を食む形の良い唇も、駅前の広場で催されているイベントの良し悪しを厳しく観察している涼やかな目元も、つい見入ってしまう迫力を備えていた。
男色の気がある男や、面食いの女達が鶴に注ぐ憧れの目が心地好い。どうだ、俺の親分の器量は。これで頭も面倒見も良いんだぜ。是非関わりたかろう。俺は既に子分としてお側にいるがな。
得意な気持ちで鶴の横を歩く時間、弥助は悩み事を忘れて悦に浸った。
それから、さて、どこに親分を案内しようかと頭を働かせる。鶴はこれまで赤鬼の趣味に付き合い、大衆居酒屋にばかり出没していたが、小豆や天野、野平と出掛けて行く時は、子洒落たカフェやレストラン、女性に人気のあるスタイリッシュな和食屋に入る。
ここから近くて、美味しくて鶴の趣味に合う店はどこだろうと考えて弥助はすぐにいくつかの店を思い付いた。管理部に居た時、他社の人間を引き抜く際は相手の好みに合わせ、あらゆるジャンルの高級店を調べたので、この界隈だけでそれなりのレベルの店を二十軒は案内出来る。
過去、趣味のブログでそうした店の情報をまとめて遊んでいた所、リサーチ会社から是非調査スタッフになってくれとスカウトされたぐらいである。
「この辺りだと、何があるんだ?」
弥助の得意分野を知る鶴の、率直な問いに弥助は笑みを深めた。
「中華でオススメのお店がありますけど、親分好みの凝ったスイーツを出す店となると東銀座まで歩きます。有名なパティシエがいるフレンチで……」
「歩くぞ」
速さを競うクイズに答えるような鶴の返事に、ニヤリとしてからハイと応じる。銀座から東銀座迄は大通りに高級店が建ち並び目に楽しい。鶴と二人、ブティックや画廊などを冷やかしながら歩く。江戸の時代、日本橋を意気揚々と見回った頃を思い出す。鶴は江戸の外れ、高輪を治める親分であったから、日本橋には疎く、弥助の案内を面白がってくれた。
そんな昔を懐かしみながら、隣の鶴を見る。鶴は弥助の案内する店を楽しみにしているようで、機嫌よく鼻唄を歌っていた。
そこに突然、鬼季から強制力のある誘いが入った。< 二人ともお休み中に悪いんだけど、ちょっと良いかな >
今は称助と鶴の上長にあたる鬼季は、かつてー国の長を務めていた大妖怪である。妖カを大量に消費するため、便利ではあるが一般的にあまり使われることのない念を飛ばす連絡手段で、平然と声を掛けて来る超人だ。
 責任感が強いのか職人気質なのか、鬼李は己の置かれた立場でこなせる仕事を精一杯こなす男で、部長職の仕事をフルにやれる範囲の限界までやっていた。結果として、第一営業部の成績はまるで独立した会社としてやって行けそうな程システム化され、売上もこれ迄の会社全体のものに並ぶ勢いである。
 赤鬼や鶴の治めていた時代を、遊んでいたのかと疑ってしまいそうになる程、その結果は歴然としていた。鶴は鬼李のマネージャーとして充分な働きをしていたが、どうしても前の部長として比べられる事が多い。
 表には出さないが、内心苦しく感じている事だろうと弥助は慮っていた。

さて、鬼李からの念に応えるべく、鶴はスマートフォンを出すと鬼季の呼び掛けに応じた。
『どうした?』< これから妖務省の大臣と食事するんだけど来られる? >
『これから?!』< うん、突発的に空いた時間を知らせて貰ったからね >
妖務省といえば人の統べる倭国……『日本』の行政機関のひとつである。何か重要度の高い話をするのだろう。鶴と弥助は顔を見合わせ、直ぐに鬼季の指定した店に向かった。
場所は妖務省側に指定された築地にある料亭で、店はこの会食のために貸し切られていた。東銀座から歩ける距離だったが、鶴はタクシーを使った。
「さすが、集合が早いね鶴」
丁度店の前でスーツ姿の鬼李と合流した。
「お前が愚図り出さねぇか心配でな」
「うん、あと少しで泣くところだった」
顔を合わせた途端、鬼李と鶴は軽口を叩きあって再会を喜んだ。四六時中一緒に居るくせに、呆れた仲の良さである。
暗い照明の店内では、三人の人間が既に席に着いて待っていた。
上座で涼しげな一重をじっと闇に向けている男が霊感持ちで、後の二人はあまり見える性質ではないらしい。可哀想に霊感の無い二人はキョロキョロと不安そうに辺りを見回していた。
妖務省で出世をするのは、強い霊感の持ち主が殆どのため、大抵の職員は感度を高める訓練をするという。
この訓練の一つに、妖怪や守護霊など、目に見えない存在と何度も接触するというものがあり、今日は鬼李がその接触に協力をするという形で、この会食が設定されたそうだ。
「久し振りだね、政右衛門」
声を掛けるのと同時に、鬼李は妖力を使った。
薄い闇色の空間に、ボッと火が灯るように妖怪三体の姿が浮き出た。途端、霊感の無い二人から大量の肝が溢れ出て、血が広がるようにザァッと床を滑った。妖怪世界では、肝の価値は絶大である。この場に溢れた肝だけで、円にして数百万。ここまで大量の肝が流れる光景を、弥助ははじめて見た。
「わっ?! わぁぁぁ! うわぁぁぁ!」
人間の一人が喚いて立ち上がると、政右衛門と呼ばれた上司が顔を顰め、睨んだ。立ち上がった人間は良く見るとまだ二十代前半だろうか、あどけない丸い目が愛らしかった。睨まれた若い人間が生唾を飲んでまた着席すると、鬼李は面白そうに口角を上げて弥助と鶴の姿を見せる事をやめた。
「刺激が強すぎたかな?」
鬼李は若い人間に優しく声を掛けたが、若い人間は下を向いて震えているばかりである。
「いえ、お恥ずかしい、この通り軟弱で」
代わりに応えた政右衛門が、苛立ちを僅かに頬の震えに顕した。
霊感の無い二人からは、先程からザラザラと肝が出続けている。一握りぐらいなら猫ババをしてもバレないのではと弥助は思わず企んだ。
「妖怪に何か恐ろしい思い出でもあるのかな?」
「へっ……?! ぁ…っ?!」
鬼李が負けじと若い人間に声を掛けると、若い人間は虚を衝かれたような声を上げてまた椅子から腰を上げた。
「少し落ち着け」
政右衛門は一声、部下を注意すると、今は普通の人間には見えないはずの鶴や弥助の座る場所、それから鬼李に残念そうな笑みを向け、丁寧に頭を下げた。
「不躾で申し訳ございません、彼は幼少時、憑依犯罪に捲き込まれた事がありまして……、友人を亡くしているんです」
「……それはまた、お辛い経験をされたようで」
「はい、……幸い、彼は産土神に保護をされて事なきを得たのですが」
悪霊による犯罪は規制のラインが難しい。鬼李に支配された魂達のように、害を出さぬ例もある。一概に取り締まれない。
まず、人の恐怖感情から産出される『肝』は、妖怪世界の食物兼エネルギー源である。野生の悪霊が生産する肝は国の年間予算のうち二割を占めている現実もあり、手を出し辛い分野なのである。
「あの、」
若い人間がやっと口を開いた。
「わ、私はその、そもそもの……妖法に疑問を覚えています。ひ、人は妖怪の作物ではありません。どうして、妖怪が人の肝を獲る事を、法が許しているのでしょうか」
「よせ」
政右衛門の制止に、若い人間が黙る。少しの沈黙の後、鬼李がまた面白そうに含みのある笑みを浮かべた。
「君は私達妖怪の、滅びを望んでいるのかな?」
「えっ?!」
「君達が植物や君達より弱い動物を刻むように、私達妖怪も君達の思念エネルギーをほんの少し分けて貰う、それを禁じられては私達妖怪は滅びてしまうよ? 君は私達妖怪が生きている事に疑問を覚えているということ?」
「あ、わ、私はそんなつもりでは、……その、今の妖法はあまりにも、人間を馬鹿にしているので、それを」
鬼李が意図的に過激な言葉を使い、分かりやすい牽制をするのには訳がある。恐らく、あの話を出すのだろうと話の流れから弥助と鶴は察した。
近頃、人の世で流行っている追跡型ネット広告についてである。リターゲティングと呼ばれるこの広告は、ここ最近、妖怪世界で物議を醸している。
平たく言うと効率的な肝の収穫に役立つ画期的な技術として広告産業の枠を超え、注目されているのだ。しかし、この広告は個人を追跡する性質を持つため、憑依法に引っ掛かる恐れがある。
「なるほど、君はつまり、もっと人間の意思を尊重して欲しいと言いたいんだね」
「あ、まぁ、……ハイ」
にっこりと笑う鬼李と、罠に掛かった若者の怯え。
「じゃぁ、妖怪や幽霊、不思議な現象に興味を持っていて、積極的にこちらに関わろうとしている人間からなら肝を取っても良い?」
言いながら、鬼李はまるでホワイトボードにパワーポイント資料を映すように、全員の頭上にイメージ映像を結んだ。
心霊サイトやオカルトサイトを巡回する人間、テレビの心霊特集後にネット検索を掛ける人間、占いサイトに日参している人間の姿が浮かび上がる。
「これらの肝を量産する貴重な人種への接触を強化出来れば、妖怪世界は大きく変わる。地下に住む貧困層も肝を摂取出来るようになり、今、社会問題になっている絶滅種の増加を食い止められるようになるんだ」
「地下? 絶滅……種?」
人間の若者が首を傾げるのを、政右衛門が苦々しく見守った。妖務省の人間であれば、押さえておくべき知識なのだろう。しかし、鬼李は丁寧な説明を続けた。
「妖怪には、生まれつき寿命が長い大妖怪と、生まれてから三年程で消えてしまうような、可哀想な短命の妖怪がいて、後者の種族は今、どんどん種の絶滅によって姿を消しているんだよ」
頭上のイメージ映像が、地層のイラストをメインに図解したものに変わった。イラストの地表部分に、文字で大妖怪と説明された天狗のイラスト、地下一層には裕福な妖怪と説明された塗壁や河童のイラスト、二層、三層には普通の妖怪と紹介された小豆洗いや一つ目のイラスト、最後に四層、五層のあたりに弱い妖怪と紹介された豆腐小僧や垢嘗などが描かれている。
「イラストはイメージだけど、現在、垢嘗種なんかの無害な妖怪を中心に、消滅に向かってる種族が絶えなくてね」
イメージが突然、昭和らしい白黒の世界を映し、花見を楽しむ人間達に混ざって、踊っている手足のひょろ長い妖怪が映り。
「例えば、去年消滅したこの枝転がしって妖怪はね、こういう花見の席で、人が桜を持ち帰りたいと思ったら桜の小枝を折って落とす妖怪。びっくりした人間は、ラッキーと思うと同時に枝の折れ跡が不自然と気づいて不気味がる。その時に出す肝で生きていたんだけど、近頃は春に地表に上がるだけの体力も尽きて消滅した。桜の木には迷惑なんだけど、人間には結構、愛されていたのにね」
政右衛門が残念そうに頷き、若い人間も口を開けて眉根を寄せた。
「今の時代、霊感のある人間の数が減り、妖怪は生き延びにくくなった。無害な妖怪にとっては特に辛い状況だね。……弱いものから消えていくというのは、自然の摂理かもしれないけど、せっかく生まれた命だし、守りたい」
「はい……」
思わずといった様子で、若い人間が相槌を打った。
「それに、法に従って健全に暮らす妖怪の数が増えれば、人間に対する悪霊の犯罪も減らせるんだよ、人間の目には悪霊は見えないけど妖怪の目には見えるからね。妖怪側に、邪悪な霊を見掛けたらすぐに産土神に通報する姿勢を徹底して貰う」
「……、そんな事、妖怪が、してくれるんですか?」
「妖怪は人間の出す肝がないと生きていけないから、人間の事は大切に思ってるよ、肝を貰うために驚かすけど、命を奪うような時代錯誤、犯罪者ぐらいしかやらない」
「な、なるほど……」
「例えば、今の犯罪未遂事件の要因内訳から推察しても地上に住む妖怪の数が今の二倍になっただけで、悪霊による犯罪は18%も減少する」
三人の頭上に、悪霊犯罪の件数やその犯罪内容、未遂件数、未遂となった理由の割合グラフ等が並んだ。
「ほんとだ、……妖怪による通報、って、結構数多いんですね」
若い人間はすっかり、鬼李の言葉に頷いており、政右衛門もまた、真剣な顔をして鬼李の言い分に同調しているようだった。
「もし、何かできることがあれば……」
ここで初めて、それまで黙っていた中年の人間が口を開き、身を乗り出した。
「失礼ですが、政右衛門の代わりに、伺わせてください。どうしたら貴方の考えるような形に、今の状況を近づけられますか。
監視の役割をこなす妖怪が増えることで、犯罪を防げるというのは、とても有益なご意見です。我々は、年々増える悪霊の犯罪に、大いに頭を悩ませておりまして。
どうしたら、貴方に協力できるのでしょう?」
この瞬間、政右衛門と鬼李が心で手を取り合ったのがわかった。この食事会の狙いは政右衛門ではない。この中年男だ。
政右衛門は妖務省のトップだが、ワンマンではない。部下のうち、キーマンの理解を得なければ進められない事柄もあるのだろう。
恐らく、鬼李と政右衛門は既に本懐一致しており、政右衛門の側の内部調整を鬼李が手伝ったのだ。これは、よく牛鬼が行っているプレゼン代行。
あぁ、そういうことか。
弥助は口の中で呟いた。
薄暗い店内を、行灯がぼんやりと明るくしている。皆、夕日のような色の灯りに包まれており、どこか運命共同体のような心の近さを感じる中、鬼李は沢山の約束を取り付けた。
まず、リターゲティングに憑依違反法は適用されない事。
妖怪に悪霊の通報を積極的に行わせるための喚起プロモーションイベントの開催。
地上の妖怪数を増やすための、誘致運動の開催。
鬼李と鶴で通報喚起のプロモーションイベントを、弥助が誘致運動を担当し、スケジュールをつくった。その案件規模は一億と八千万。< 弥助はこの仕事こなしたら、もう過去の事はチャラだよ、頑張ってね >
そろそろお別れのタイミングで、鬼李から急に念が来た。鶴にも送っているのかと思ったら、弥助にだけのようである。< 牛鬼に何を言われたのか知らないけど、俺は君を頼りにしているから >
「っ……」
飾り気の無い言葉だったが、鬼李に言われると妙に高揚する。過去、二度も最高指導者の立場に居ただけあり、声を掛ける絶妙のタイミングを知っている。< さぁ、最後にまた一瞬だけ君達の姿も見せるよ、笑顔つくって >
これは、鶴にも送られた念のようだ。
また、炎の点るような要領で、鬼李の他に弥助と鶴も闇から現れた。最初に顔を合わせた時は探るような目をしていた恐ろしい二体の妖怪が、今度はにっこりと笑った顔で現れる。その心理効果は絶大だろう。霊感の無い人間二人は、今度は肝を出さずにお辞儀をした。
結局、鶴とのデートを叶えられぬまま、その日は解散したのだが、弥助はすっとした気持ちで家路に着いた。

翌日の川越、時の鐘地下に聳えるビルの最上階。
 地上に近い地下一階から五階までを贅沢に使っている怪PR社の地下二階、営業フロアは今日も陽光が薄く入っており心地好い。
「おう」
「ん、珍しいな、弥助さんが俺をランチに誘うなんて」
牛鬼を訪ねると、いつも何かふざけないと気のすまない男は戯れ言をほざいた。朝の十時に何がランチか。
「面ァ貸せ」
同行の相手などを、営業同士が待つためのスペースとして、エレベーターの横、窓際に設けられた小さな休憩スペースのソファに並んで座る。牛鬼は何故かニヤニヤして、弥助の顔を眺めていたが、弥助の顔が真剣であるため、笑みを消した。
「こないだ、お前に言われた事をな」
「こないだ? 何か言いましたっけ俺?」
焼畑農業
「あぁ」
「あれは、相手との問題共有、土台の把握が出来てないっていう指摘だったんだよな」
「……」
「俺の営業は、需要に甘えてた」
「鬼李さんの営業を見たんだってね」
「あぁ」
「あの人は、需要を作るとかいう以前に、……先方の課題を見抜いて解決しに行くからな、……敵わねーよ」
牛鬼は言いながら、するりと両手を組むと、微笑んだ。
「実はさ、俺も昔、あの人に焼畑って言われたんだよな」
「?!」
「あの言葉キツいよねー!」
どうやら、弥助は牛鬼にはっぱを掛けられたらしい。
「おっまえ!」
腹が立ったあまり、牛鬼のかっちり整えられた髪をぐしゃぐしゃにしてやると牛鬼は笑いながら嫌がった。
「牛鬼さん、時間です」
タイミング良くやって来た牛鬼の補佐に助けられ、去って行く牛鬼の背中を眺め、はてと首を傾げる。一体、牛鬼は何故ニヤニヤしていたのか。
その謎は丁度五分後。鬼李に呼ばれた部長室で、弥助の営業スタイルが、牛鬼と良く似ているという指摘を受け、わかった。
自分に似たタイプの弥助が、課題を解決出来たことを、牛鬼は単純に喜んでいたらしい。
それは、やたらむず痒い感情で、沸々と胸を熱くした。昨日割り振られた大型案件を、絶対に成功させようと思う。


2016/7/21

『雲の巣』(天才×平凡)


 怪PR社、企画部は幾つかのグループに分かれている。
 そのうち玩具や文具、常用小物についての企画を出しているグループをグッズGと呼ぶ。分かり易い例を上げるとアイドルグループのコンサートや、車のメーカーショー、スポーツ大会、展示会などのイベントで販売されるグッズの企画を行う。グループ内には三つの班があり、実績やアイデアを比べられ、競争させられる仕組みになっていた。
 地登利 雲(ちとり くも)は三班の班長で、現在グッズGで一番大きなイベントの案件を扱っていた。予算も多く優遇されている。三班は雲が班長になってから、安定して好成績を残すようになった。
 しかし、雲はこの現状に満足せず、次の大型案件を獲得するための手立てを探していた。競争社会で生き残るには、常に思考し、危機意識を持つ必要があると考えていた。
 よって、今も四日後に開かれるイベント設計会議に向けて、一手打っておかなければという考えで、雲の頭は支配されていた。

「古葉(こば)、良いところに」
 廊下で呼び止めた女怪の部下は、にこりと艶やかな笑みを浮かべ立ち止まった。既に根回しの完了しているいくつかの問い合わせと、調査の発注を指示すると、部下はそれぞれ何時までに出来るかを報告してくれた。ついでに今週の自分の予定と、近頃気になっているバーを二件紹介し、立ち去った。
 肉食だなぁ、と感じ入りつつ嫌いじゃないと結論をつけて足を進める。
 成長とは、幾つになっても実感出来るものだ。
 数千年の時を生きる大妖怪、育て親の亀種は雲にこの言葉を繰り返し聞かせた。今、それを実感している。今でこそグッズGトップの班で、長を任されている雲だが、昔は手先が不器用で、役に立たないお荷物社員だった。

「どれだけ生きても、上には上がいるよねぇ、俺、二百を超えたら神様みたいな扱いを受けるもんだって、小さい頃は思ってたよ・・・」
 川越、ヴァンパイアの名が付く小洒落たバーで、野平が不貞腐れた声をあげた。生き血から栄養を取る妖怪、チトリ種である雲を、野平が面白がってこの店に連れて来た。それが半年前。今ではすっかり常連になった。
 店内には、やはり名前につられるのかヴァンパイア種や、チトリ種と同じく生き血を啜る妖怪、飛縁魔種を良く見かける。ヤギのミイラがディスプレイにあったり、手すりが鎖で覆われていたりと、内装が凝っている。
 だが、人の集まる一番の訳は、飯の旨さだろうと雲は判断していた。気に入りのメニューの一つである、ガーリックライスを口に運びながら、今日、野平の言いたい事を、どうやって言わせてやろうかと考える。
「僕は……、育ての親が亀種だからなぁ」
 野平の顔色を伺いつつ、言葉を選んだ。
「長く生きるってのは、当たり前の感覚で、まぁ実際、生きてみると長く生きるのが大変な事ってわかるんだけど、長生きを誇るって発想はあんまり無いな」
 暗い店内に浮かび上がる、野平の顔、その眉間に寄った皺を眺めながら言う。怪PR社では、営業が己の取って来た仕事を、どこの誰に割り振るかを決める。製作部で己の評価に繋がる大型案件や、質の良いものをじっくり作らせて貰えるような仕事を得るためには、営業に近づき接待をするのが一番だ。しかし、案外、皆これを考え付かない。糞真面目に質の面でわかって貰おうとして、製作にしかわからないようなこだわりを見せ、結果、営業に理解されず憤り、対立して自分の首を締める。わかって貰おうとするのではなく、わからせるという手法を、どうして皆が使わないのか、不思議でならなかった。
 やり方は簡単。大型案件を数多く取って来る営業を接待し、味方につけた上で、己のチームを誇ってみせる。直接的に頼むのではなく、チームに都合の良い成績を数字で報告する。営業は数字好きだ。雲に言われたから雲を選ぶのではなく、自分が雲を数字で評価し、選んだと思わせる。これが雲の連勝の秘訣だった。
 野平にはこの間も超大型の案件で指名を貰った。その仕事で雲と、雲のチームはA評価を受け、夏のボーナスは昨年の二倍貰った。
「まぁ、群で育たないとわかんないかもねぇ」
 野平はふっと笑みを浮かべて、酒を飲み干した。雲は店員を呼び、野平に新しく何を頼むか聞いた。
「スコッチ」
 野平が好きなのはスペイサイド産だ。店員にそれを頼むと、良く覚えてるねぇ俺の好きなの、営業に来る? と軽口が飛んで来た。
「営業はちょっと……」
「そう嫌がる程大変じゃないよ、一年もてば楽になる」
「はは」
「雲は顔が良いから、売れるよ」
「ありがとう」
 目鼻立ちのハッキリしたチトリ種と、造作が整いやすい蛇種の間に生まれた雲の顔は、一つ一つのパーツは大きいものの、目鼻が配置よく置かれているため均等な美しさを持っていた。しかし、それは味気なく整い過ぎて、機械につくられたような顔だとよく言われた。
「移動しておいでよ、第二に」
「ふ、随分買ってくれてるな? さては僕に惚れてるな?」
「ちょっとやめてよ、違います」
 からかうと、野平は眉を下げて笑った。
「冗談だよ」
 顔が良い営業、口が巧い営業、誠実で熱い営業、わざと不遜な態度で主導権を握る営業……、様々。多くの営業を接待して来た雲は、恐らく野平より営業という人種を理解しているだろう。一番、味方につけて心強いのは、顔に頼らずに人格のみで勝負をして来た営業だ。顧客の信頼度が高く、製作からの注文を、顧客にきちんと交渉してくれる。
「でもさぁ、雲は向いてると思うよぉ、気遣い出来るし」
 陰間茶屋で育てられ、仕込みの仕事を数年やり、何かと目聡い陰間を相手に気を配った経験が生きているのだろうか。気遣いが出来る、と褒められる事が多い。しかし気を回しすぎて疲れる事も多い。
「俺はそういうの、鈍いからなぁ……、マネージャーなんて、たいそうな役をやれるほど、営業が得意なわけじゃないんだ」
 野平は今日、年嵩の部下に散々馬鹿にされて面目を潰されたと噂に聞いた。だから、長生きが何だ、という話になるのを想像していたのだが、少し違うらしい事を、雲は察し始めていた。どうやら野平の憤りは、部下に対してより『年嵩の部下』を扱わなければならない会社の環境に対して向けられているようだ。
 雲は社歴八年のベテラン社員にして、齢三百を越す大妖怪である。妖怪の平均寿命は異様に長生きの一部上流層を除けば二百から三百。二百を超えれば、大妖怪の域に入るのだが、怪PR社には千を越す化物がごろごろと居る。
「雲は江戸育ちだから、想像つかないだろうけど、妖怪の群に存在する長生きの序列ってのはさぁ、結構厳しいもんでさぁ、うちの村はそんなに大きくなかったから、百を超えてるってだけで凄いスターだったんだ。実際、長生きの妖怪って凄いんだよ、長く生きられる知恵と力を持ってるんだからさ、尊敬すべき存在だよ、だから俺、強く出られないんだよな、年上に。だって俺よりずっと生存してる……」
 野平は囁いて、また笑った。苦笑いだった。解決出来ない問題を愚痴っても、しょうがない事をわかっている。
 雲はうぅんと唸った。野平は確かに、一番仲の良い牛鬼に対してでさえ、年上だという点から、あまり指示という指示を出さない。雲に対しても、どこか遠慮があるように感じられる。どうしたものかと頭を悩ませ、そして、無難な答えを口にした。
「時代が変わったんだ、歳なんか気にしてたらやって行けないよ、君は会社に評価されて、地位を得たんだからさ」
 慰めるように、野平の肩をぽんぽんと叩く。
 それから、自然な会話の流れで、数字でわかる三班の実績をさりげなく伝え、現在、野平が苦戦している企業が、最近発表したプレスリリースや、それに関連する企画案も一緒に紹介した。これで、次のイベント設計会議は貰いだろう。

『ごめん』
 しかし、結果は大敗。
『この間、愚痴った通りでさ……、鵺さんの意見をどうしても無下に出来なくて』
 電話口の野平は、心底申し訳なさそうだった。
 三班を採用してくれると踏んでいた野平が、部下の年増妖怪から、二班の実力を押されて意見負けしてしまった。チームでつかんだ大型案件は、発注先もチームで選ぶと、そういえば野平は言っていた。根回しを野平までに留めて居た事を、雲は後悔した。野平の下に居る鵺という女妖は、プライドが高く昔気質で、物事をじっくり観察し判断するため、雲の小細工が通じにくい相手だった。
 確かに、今回野平のチームが持って来た『ギリシャ悲劇』という美術展は、上野西洋美術館で開かれる美術マニア向けのイベントである。相当にストイックな物造りの精神が必要とされる案件だ。これまで雲達が得意として来た、高級嗜好でブランドとのコラボさえしていれば喜ぶセレブ階級へのグッズ展開ではない。どちらかといえば、芸術肌の、文化オタク向けで、目が厳しい。リーズナブルで質の良い品を作り上げなければ売れない。
 つまり純粋に物欲に訴えかけられなければ勝利はない。
「逆に、良かったよ」
 大型の案件を逃し、元気のない班員達が詰まったミーティングルームに、明るい声を掛ける。
「僕らの実力じゃ、まだ難しかった」
 八人は入れる大きめの箱に、三班の総勢四人が円卓で顔を合わせている。イベント設計会議後、すぐに反省会を開いた。
 いつもは、設計会議で割り振られた仕事の段取りを話し合う楽しいミーティングが、今日は通夜のような静かで気の重い駄目出し会となった。プレゼンを任せた部下、女怪の砂壺は泣いてしまっていた。その背を古葉が撫でており、もう一人、クールな雪嶋は足を組み、負けた企画書を眺めていた。
 今回の大型案件を得るために、砂壺に1週間掛けて作らせた企画書、なかなか、良い出来だと雲は感心していたのだ。派手で画期的な一方で数値による丁寧な説明のついた、いつもの三班テイストに忠実な企画書。砂壺に落ち度はない、あるとしたら雲に。
 根回しに意識を持っていかれ、物事の本質を見失っていた。
「皆、いいかい?」
 雲は口を開き、言葉を選んだ。
「この企画書は、良く出来ていたと思う。これが六本木の森美術館や、乃木坂の国立美術館、上野でも東京都美術館の案件なら絶対に通ってた。それが、今回は西洋美術館……、少しこだわり色の強い客層を持ってる箱が相手だった。話題性より、質。物珍しさより実用。重視されるポイントを押さえてなかった。これは、僕の判断ミス。職人気質の業者開拓が不十分な、うちの弱点を意識してなかった」
「チーフ、それはうちらも把握しておく事でしたから、一人でまとめんでください」
 雪嶋が口を開き、砂壺がハンカチを口に当てながら、こくこくと頷いて、またポツンと涙を零す。雪嶋が続けた。
「あたし、二班がマニアックに走って失速してるの、笑っとったんです、何て内向きで、利益のない企画だろう、オナニーかって……けど、二班の造るもんは良いもん多い、一般にはわからんけどマニアにはわかる、悔しいけど当然の結果や思っとります……」
「うん」
 同様の意見が、古葉や砂壺から出て、最後に雪嶋が、今後の方針について、少し口にしたが、誰もマニアックを取り入れなければ、という言葉は口にしなかった。
 利益を考えない作りこみすぎる品を企画する事に、抵抗があるのだ。今回は負けたが、次回は勝つ。そんな幻想が皆の頭を支配している。
 雲もまた、結果が出てみなければわからない、などというフワリとした考えを抱いている。
 思考停止である。
 まずい、と心の底で感じながら、データが欲しいと自分に言い訳する。
 そうして蓋を開けてみると、二班の企画したグッズは売れた。
 当然、次のイベント設計会議でも一番大きな案件は二班の預かりとなり、いよいよ方向性を改めるか、何か画期的な打開策を打ち出さなければならなくなった。

 その日、雲は自宅で土曜の休みを過ごしていた。
 チャイムが鳴ると、音で脳みそが揺すられ、気持ちが悪くなった。二日酔いで目の奥が時々白む。吐き気と戦いながら来訪者を出迎えた。
 まさに、雷に打たれたような顔になってしまった。来訪者は分厚いメガネの向こうから、蔑みの目をして雲を見つめていた。グッズG二班、班長、黒羽茂(くろば しげる)である。
 雲の部屋は田園都市線、用賀駅から徒歩二分圏内にあるマンションの最上階。使っていない部屋が荷物置き場で、運の悪い事に玄関の戸を開けたタイミングで、扉が物の雪崩で開き、荷物が廊下に散らばった。
「酷い部屋だな」
 黒羽はまだ百と少しの歳であったはずだが、重音の声と溢れる妖気で、不遜な台詞を吐いた。
「あぁ、ちょっと、一人になって長くて……、見苦しくて悪いね」
 生意気だと感じたが、雲は優しく笑った。ガキの挑発に乗ってはならない。
「片付けてやろうか?」
「いや、いいよ」
 断ったにも関わらず、黒羽は中に入って来た。
「二百生きると、荷物も増えるか」
「三百だ」
 黒羽はどすどすと雲の巣に上がり込むと、雲の大事な自室の前で足を止めた。今は戸が開いて中が丸見えの、物置となっている部屋をしげしげと眺め、汚ねぇな、と眉を寄せた。
 雲は朦朧としながら、どのように怒ろうか、慌てようか迷い、大人の忍耐を発動させた。
「何しに来たんだ、君」
 やっと出て来たその言葉は平凡だった。いつもそうなのだ。雲には独創性がない。言葉ひとつ取っても。感情ひとつ取っても。
 何かを造る力が、圧倒的に不足している。
 ものを作れる、製作に関わる全ての人間にコンプレックスを抱きながら、結果の分析や状況報告、時流を読む事で地位を得て来た。
「あんたがどんな顔してるのか、見に来た」
「いつも通りのイケメンで残念でした、帰ってくれ、僕は休みの日に会う友は選びたい、君はもう少し僕に好かれないといけないね」
「まぁ、そのうち」
 黒羽は雲の精一杯の抵抗、刺つきの言葉をさらりとかわした。そして、物置部屋の荷物を、片端から部屋の外に移動させはじめた。他人の住居に強引に侵入した上、家探しを始めた黒羽に、雲は不安を覚えた。何をする気なのだろう。通報しようかな。
「死体でも埋まってそうだ」
「君も埋まるか?」
「……」
 冗談に乗ってやったのに、無視するとは。
 ガサガサと物置部屋が悲鳴をあげて、中にあったものがどんどん掘り出されていく。
 二十年前に育て親から貰った高価な着物の包み、八ヵ月前に売上一位を記録した某ブランドとのコラボ商品、百年前に病気で死んだ陰間が残した煙管。思い出の品が、黒羽の手で乱雑に部屋から取り上げられ、廊下に干される。
「ねえ、何か探してる?」
 聞くと、ちらりと顔を上げ、しかし何も言わずにまた作業に戻る。
「まさかホントに掃除してくれる気? いらないよ、そんなお節介。僕の顔を見に来たなら、もう見れたでしょ。帰ってくれ、これ以上居座るなら警察を呼ぶよ」
 雲は本気だったが、黒羽は動じなかった。何か、創作をしている芸術家みたいに聞く耳を持たず、手を動かし続けている。
「ねぇ」
 気味の悪さを覚え、背を壁に付けた。これが外なら逃げ出せば良いのだが、ここは雲の巣である。
 雲は生まれて最初の百年を、人の皮を被って生きた。人として死んでから初めて、己が妖怪として生を受けたことを知った。妖怪としての、多感な最初の百年。この時間を、生涯、滅私奉公に生きる商家の奉公人として消費した。お陰で気遣いは身に付いたが、己の性格や好み、主張があまりハッキリしない男に育ってしまった。
 誰かと一緒にいると、絶えず誰かの影響を受け、知らず知らずに調子を合わせてしまう。だから雲は巣に独り、じっとしている時が一番心地よく落ち着いた。雲だけの、雲らしい生き方、時間の過ごし方を、誰にも邪魔されない場所。そこに、侵入者。
 巣の中の生き物を、撃退しなければ。
「警察呼びますよ」
 今度はiphoneを耳に宛てながら脅した。すると、黒羽がふいにアッと叫んだ。
「これだ!」
 何か分厚い、革表紙のノート。あれは確か……。
「覚えてないか? うちの班からあんたの班に、販売部数で勝てるものが出たら、くれる約束だったよな?!」
 黒羽の手にあったのは、デザイン部のマルセル・シュオから貰い受けたアイデアノートだった。ヴァンパイアのマルセルとは、吸血種繋がりで良く飲みに行く。確か自分には独創性がないという悩みを相談した際、参考になれば良いがと譲り受けたのだ。
「駄目だ、それは俺がマルセルから貰った大事な……」
「くれる約束だった!」
 しかし、黒羽は頬を紅潮させ、主張を曲げない。
「好きにしろ」
 すまんマルセルと心の中で謝りながら、雲は強盗に知の財をひとつ、差し出した。

「えッ?! ……って事は結局、そいつにマルセルのアイデアノート、渡しちゃったの?!」
 ヴァンパイアの名が付くバーは今日も賑やかだ。友人、白百合 草太(しらゆり そうた)のハスキーな大声が耳に響き、雲は顔を顰めた。
「声、大きいよ」
「オッサン、サイテー!」
 眉間に皺を寄せて雲を罵ってから、度の強い酒で咽喉を焼く草太を、その恋人、鶴 洋次郎(つる ようじろう)が心配そうに見守っている。一方で、洋次郎にもたれ掛かり、マルセルがいびきを掻いていた。何時もの面子の安心感。
「僕はどうも、押しに弱い」
「セックスを断るのは上手いくせにな」
 洋次郎は戯言を吐いてから、草太の酒を取り上げて飲み干す。鶴種らしい異様な整い方をした顔面は、しかし鬼種が混ざっているせいか力強く、男らしい。
「君の誘いは直球過ぎて、冗談だと思うから」
「俺のこと嫌い?」
「そういう所が、直球だって言ってるんだよ」
 同僚の黒羽が、突然自宅に押し掛けて来たのは二日前。雲は黒羽に、友人のマルセルが雲に授けてくれた知の財、マルセルのアイデアノートを奪われてしまった。この事をマルセルに謝ろうと、マルセルを飲みに誘ったのだが、ヴァンパイアの名が付くそのバーは人気店であり、吸血系の種族が屯する場でもあった。草太と洋次郎の二人が飲んでいる所に鉢合わせ、今に至る。
「洋次郎、眠い」
 恋人の浮気に一ミリも嫉妬せず、草太は洋次郎に寄りかかった。
「ちょ、でかい男が二人して、かよわい鶴種に寄り掛かんな!! おい、マルセル起きろ、おまえは雲に寄り掛かれ」
 鬼種が混ざっているとはいえ、鶴種の洋次郎は線が細い。ヴァンパイア種の二人に伸し掛られ、慌てる様は少し愛らしい。
「じゃ、僕はこれで」
 お茶目っぽく笑い、腰を浮かせる。
「待っ、助け……ッ」
 洋次郎が縋る目をするのを見届けてから、マルセルの肩を掴み、洋次郎を救う。それから、くしゃくしゃとその頭を撫でてやると、洋次郎は安心した顔をして、猫のように目を細めた。
「ちょっとやめて、妬けるから」
 草太が不機嫌な声をあげ、カップルがふと黙って見つめ合う。二人は何の前触れもなく口付けを始めた。
「おい、やめてくれ、こんな公共の場で」
 マルセルが起きて居れば、力尽くで止めてくれるのだが、今、悪魔のヒーローは熟睡している。
「洋次郎は、見られながらするの、好きだもんね」
 二人は舌を絡めだした。
「だから、よしなさいって」
「っぁ……っ、白百合っ」
「草太って呼んで」
 草太……白百合は当時、悪魔から疎まれ恐れられていた雲の育て親、亀 長蔵(かめ ちょうぞう)の死んだ恋人として有名だった。故に悪魔側の勢力として暗躍していた洋次郎によって、利用されるために甦らされた。二人は、その時の縁が元になり、現在めでたく恋人同士になっている。
「んっ」
 草太の手が、ついに洋次郎の尻を掴み、揉み始めた所で雲はいよいよ青くなった。
 何て迷惑な友人達なのか。こんな所でおっぱじめないで欲しい。
「洋次郎!!」
 そこで、叫んだのは新顔、今来たばかりという様子の天邪鬼種、天野だった。店の混雑は最盛期。午後八時の店内は人と妖が混ざり合って、飲めや唄えやの大騒ぎだった。仕事帰りでスーツの天野は、先程からずっと眠りこけて、役立たずになっているマルセルの恋人だ。雲と同じ、怪PR社の社員である。雲の接待対象にあたる営業職。よって、雲は天野を愛想笑いで迎えた。この天野は、最近、洋次郎の天敵となっている。
「こないだお前から貰った菓子、腐ってたぞ?!」
 言うなり、洋次郎の肩を鞄で叩く。いちゃついていた草太と洋次郎が身を離し、雲はほっと胸を撫で下ろした。
「痛ぇ……って、食ったの?勇気あるゥ」
 甘党の洋次郎は、暇があれば菓子を食っており、それを周囲にも分け与える。おかげで、洋次郎と付き合い始めてから、草太は少し太った。
「おまえから貰った物だからな!食うわ!!俺は天邪鬼種なんだぞ!!」
「ッ、マジあんた、俺の事嫌いなら関わらなきゃいいのに」
「じゃぁ、おまえはマルセルの近く寄るな! 俺はおまえの姿が見えると、ついつい声掛けちまうんだよっ」
「うーん、つまり天邪鬼で、嫌いな奴に程、関わろうとしちゃうって事か?」
「そうだよ、糞ったれ」
 額に血管を浮かせながら怒鳴る天野を、洋次郎はころころと笑った。
 雲はハァと溜息をついて、涎を垂らしているマルセルの口元を、使われていない手拭きで拭いてやった。草太は天野の事を完全無視している。その時、洋次郎がピンと天野の額を指で弾いた。
「ちょっと、苛めちゃダメだよ?」
 雲が嗜めると、洋次郎はクツクツと笑った。
「クッ、おまえっ!!」
 呆気に取られていた天野が、ぎろりと洋次郎を睨んだ。そして、洋次郎の前に腰を置くと、店員にビールとガーリックライスを頼んだ。
「守護市民だか何だか知らないけどな……っ、偉そうにしてられるのも今のうちだぞっ、おまえみたいな奴は、いつか身を滅ぼすんだ、……お、親不孝なっ、……おまえなんか、……どうしてッ……、土親はあんな立派な人達なのに!!」
 洋次郎の両親は、どちらも怪PR社の営業部に居る。本部長の赤鬼と、第一営業部長の鶴である。別れて、もう互いに別の相手が居る元つがいの妖怪同士が近い場所で暮らし、働いているのには、洋次郎が関係しているのではないかと雲は勘ぐっていた。洋次郎は土子として百年、二人の元で育たなかった。よって、二人は洋次郎を育て足りなく思っているのではないか。どんなに親不幸な子どもでも、親は子どもを気に掛けてしまうのが世の常である。妖怪の親は普通、子が百を過ぎると親心を失うものだが、洋次郎は二人に二十年も育てられていなかった。
「まぁまぁ天野さん、洋次郎がロクデナシなのは今に始まった事じゃないだろ、堪えて堪えて」
 長生きの妖怪同士の間には、土子が出来難い。ただし、出来た土子は親の力を数十倍にした形で生まれ、生まれながらの大妖怪となる。よって、洋次郎は現在、倭国から守護市民の地位を授かり、税金で生活をしている。
 週に二度の訓練と、月に一度の魅せ試合をこなす勤めは果たしているが、週五で遊んで暮らしている。そんな洋次郎を、雲は羨ましく思っていた。しかし、洋次郎になりたいかと問われると、そんな事はなかった。
「おまえのせいで鶴さんがどれだけ苦労したか、わかってんのか」
「あんたには関係ねーだろ、元犯罪者の癖に」
「おまえだって犯罪者だろ!」
 抉り合うような会話である。雲はマルセルを揺すり、起きてくれと囁いた。マルセルが起きてくれれば、この場を鎮めてくれるだろう。
 しかし、マルセルは気絶したように寝入っている。
 どうしたものか。
「一旦、君ら場所移動したら? 酔いが回って感情的になってるよ、このまま居たら、お店に迷惑掛けちゃいそう」
「うるせぇな、感情的にもなるわ。こいつ、……俺になんか恨みでもあんのか? 毎度毎度、人の古傷開いて塩塗りこんで来やがって」
「だって、あんたは糾弾されるべきだ! 親不孝者!」
 宥めたと思ったら、また言い合い。洋次郎が何か喋る度、食ってかかる天野を、雲は正直煩わしく思う。気に入らない相手など、生きていれば山のように現れるだろう。全員に喧嘩を売っていたらきりがない。どうして天野は嫌いであるという感情を抑えきれないのか。堪え過ぎてしまう事が悩みである雲にとって、堪え性の無い天野は正反対過ぎて訳が分からぬ腹立たしい相手だった。
「天野さん、お店来たばかりの所で悪いけど、マルセルを連れて帰るのを、手伝ってくれないか?」
 しかしそこは大人である。雲は普段から天野に対し、天野が苦手である事を億尾にも出さず振舞っていた。
「何だよ、帰んの?」
 洋次郎の問いに、困ったように頷く。
「平和主義者なんだ」
 洋次郎と草太が移動してくれないのなら、天野を移動させる。
「このチビ、何とかしてくれよ」
 今、物理的に何とかしようとしている最中だが、という言葉を飲み込み洋次郎のスッキリした、絵に描いたような顔を見つめた。
「君が反省したら黙ってくれるんじゃない?」
「反省は、してる」
 適当な事を言ったのだが、素早く重々しい声が返った。
「いや、してない!!」
 しかし、天野がまた難癖をつけに声を上げた。
 どうしてマルセルはこんな面倒な奴と付き合っているのだろう、と純粋に疑問に思う。
 確かに、洋次郎は人に責められるような生き方をして来た男だが、世の中にはそんな奴、五万と居る。洋次郎の土親達は、洋次郎を多少気に掛けながらも、それぞれ別々の相手と平穏に上手くやれているのだから、今更洋次郎を過去の事で責めても誰も幸せになれないだろう。
「反省は、してるんだ」
 洋次郎がまた、呟いた。
「じゃぁ、会いに行ってあげたら」
 提案すると、しかし首を横に振る。
「百過ぎの親子がつるむなんざ、みっともねぇ」
「まぁ、確かにあまり世間体の良い組み合わせじゃないけど、君らには事情もあるし……」
 普通、親子の縁は百で消える。
 妖怪の本能は、どうやら百を区切りに、親が子から興味を失うよう設定されているらしい。妖怪もまた、自然の生き物の一部なのだ。長く生きる分、多種多様に交われるよう仕組まれている。親が子に抱く、子が今、どこで何をしているのか、無事でいるのかといった心配、健全な親心が、子が百を超えたあたりでなくなってしまう。その感覚を、雲は身を持って味わい知っている。しかし、たまに顔が見たくなるのは何故だろう。初恋の相手のように無償に会いたくなる。
「ていうか、納得出来ねぇんだよ」
 そこで天野が、怒りを押し殺した静かな声で呟いた。天野は最近、鶴と仲良くしているため、鶴の事情に敏感だ。
「なんで、鶴さんも赤鬼さんも、こいつの事を許してるんだ?!」
「それはやっぱり、子どもが可愛いからじゃないかな」
「そんなの変だ、いくら子どもでも、やって良い事と悪い事があるだろ、こいつ赤鬼さんの事殺してるんだぞ?! 鶴さんには身売りさせて、おかしいよ!!」
「天野さん……」
「っぁーっ、もう、正義感ありますアピール超うぜぇ……」
 ぼそりと草太が放った一言に、かっと天野の頬が染まった。天野が草太の胸ぐらを掴み、雲は眉を下げ、マルセルを見た。
 まだ寝ている。
「申し訳ないけど、厳しい事を言わせて貰うよ、天野さん」
 気の滅入る役を、買って出る。出来る事なら、マルセルにこの場を収めて貰いたかったが、仕方がない。
「……僕は、洋次郎の友人だから、彼を庇うような言葉に聞こえるかもしれないけど、赤鬼さんや鶴さんの事も考えて、言わせて貰いたい。
 ……君が納得するために、三人にまた再び、辛い想いをさせるわけにはいかないんだ。
 この問題は赤鬼さんと鶴さん、洋次郎の間でもう解決済みなんだから、二人が君に洋次郎を責めてくれと頼んだわけじゃないのなら、もう騒ぐのをやめてくれ」
 過去は過去と割り切らなければ、生きられない者達が居る事をわかって欲しい。
「……、俺は……っ」
 天野の顔色が、さっと青ざめる。やっと己の無粋な行いに気がついたようだった。気がつくのが遅い。
「もう行こう」
 丁度、天野の頼んだビールとガーリックライス、雲が頼んだスコッチが運ばれて来た所だったが、雲はマルセルをぐいっと持ち上げて背負うと店の入口に向かった。
「洋次郎、ご馳走様」
「ぁ?!」
 洋次郎は遊びが派手なため、余り金を持っていない。おいコラ、ふざけんな、後でちゃんと徴収するぞ、マジで!と情けない声を上げて、見送ってくれた。

 背負ったマルセルの重さに、汗を掻きながら秋の本川越駅前を歩く。酔っ払いの熱が肩を燃やして辛い。
「さっき、悪かったな」
 天野がぽつんと謝って来たので、いえいえーと柔らかい返事をして、よいしょっ、とマルセルを担ぎなおす。
「鶴さん、一言も言わないからさ、あいつの事、……その癖、あいつの魅せ試合、必ず観に行くんだ、健気じゃん、俺、鶴さんが小野森さんに、なかなか素直になれないの、あいつのせいなんじゃないかって思えて、なんか、腹立たしくて」
 恐らく鶴や赤鬼の心に、もう洋次郎は居ないだろう。産んでから百年経った子に、執着する親は異常だ。
「君は、お節介だねぇ」
 つい、するりと思った事を口にすると、天野は反省したように口篭り下を向いた。
「こないだ、黒羽さんにも同じ事言われた」
 不意打ちで名前が出て、雲は酔いがすっと覚めた。
「何、黒羽……っ?」
「黒羽さんって、今、凄い恋愛で悩んでて、あ、ここだけの話な? 俺、黒羽さんとこのチームに仕事振る事が多いから、良く飲みに行ったりするんだけど、もう毎回毎回、延々とその子の話で……、こないだ俺、ついにキレて、そんな好きなら家行って告白して来いって怒鳴って、無理やりその子の家まで黒羽さん連れて行ったんだ」
「へぇ……」
「でも結局、黒羽さん玉砕して、……泣いて帰って来て、何があったかも言ってくれない、このお節介って言われた」
「それは……、また……、痛い話だねぇ」
 あの高圧的で、職人気質の、偉そうな黒羽が失恋で泣いたのか。雲は少し愉快になり、背中のマルセルが気にならなくなった。
「それ、いつの話?」
「二日前」
 という事は、黒羽が雲の元にノートを奪いに来たのは、その失恋事件があった当日。それなら黒羽の常識外れな行動も頷ける。失恋後で、やけになっていたのだ。
「ハハッ……」
 思わず、声を上げて笑ってしまった。黒羽の人間らしさにほっとする。
 雲が昔、制作部のお荷物だった頃、黒羽は雲の驚異だった。グッズGには、グッズ製作研究の仕事がある。実際に製品を制作して研究を重ね、完成させる仕事だ。雲は手先が不器用で、製作研究の場では役立たずだった。ひたすら事務仕事のみをこなした。何か少しでも製作に関わりたいと、企画書を作ってみたが、製作に関わった事の無い者が作った企画書は評価されなかった。細々した気遣いが出来るため、何とか事務仕事はこなせたが、よくアルバイトと間違えられた。いつ雲を社員からアルバイトにするのかという問いが耳に入るたび、雲はいつでも出せる机の中の辞表に、そっと思いを巡らせた。しかし、雲は心痛に耐えながら企画書を作り続け、二年経ち、認められるようになった。
 五回に一回は企画書が通るようになり、社歴三年目、雲はヒット商品を出した。雲を馬鹿にしていた者達から祝福の声を貰い、雲は舞い上がった。やっと認められた。やっと俺は皆に望まれて働けるようになった。この喜びを糧に、良い企画書をもっと沢山、作ろう。
 そこに黒羽が入って来た。
 黒羽は恐ろしく手先が器用で、才能のある男だったが、製作研究より企画立案に興味を持っており、雲の企画書作りや事務仕事を積極的に手伝いに来た。寡黙で真面目な黒羽を、雲は後輩として可愛がった。黒羽の才能と、ストイックな姿勢を尊敬し、自分も黒羽のようであったら、と思う日々が続き、ある日、得体の知れない不安感に襲われた。それは妬みの感情だった。
 有能な黒羽が、周囲に高く評価されるのは当然だとわかっていながら、雲は黒羽を疎み、遠ざけた。
「よし、それじゃぁ今から黒羽を呼びつけて慰め会しよう」
 耳元で声がした。マルセルが今になって目を覚ましたのだ。
「え? 今から?」
 雲が聞き返すと、マルセルは元気よく今から! と叫んで雲の背を降りた。
「俺ん家は今酒無いし、七ちゃん家はボロだから雲ん家が良いな」
「いや、待っ、……僕は家に人を入れるのはちょっと、……あの、……っ」
「じゃぁ、黒羽呼ぶな?」
 雲の言葉に、マルセルも天野も耳を貸さない。勝手な奴らの勝手な思いつきに振り回されるのは、雲の本意ではない。しかし、嫌と言える空気ではなかった。
「俺、一回行ってみたかったんだよなァ雲ん家、いつもはぐらかされてさ、全然呼んでくれないの」
「……」
 酔っ払ったマルセルに肩を持たれながら、雲は胃がキリキリするのを感じた。天野が黒羽に連絡を入れているのを尻目に、どう逃げようか考えたが、何も思いつかない。
 そうして、何故か黒羽とマルセルと天野が、雲の大切な自宅、リビングのローテーブル前に陣取る事になった。フローリングの中央スペースに畳を敷いている雲の巣のリビングは好評を博し、真似しようだとか、ここで昼寝したいだとか、賑やかな声が上がった。しかし雲は自宅に誰かが居るという状況が嫌だった。酒を四人分と、ツマミを用意するため、不愉快な気持ちで冷蔵庫を開いた。はぁーと長い溜息が漏れて、慌てて三人の方を盗み見る。負の感情を察知される事も嫌なのだ。何て面倒な奴なのか、と己を笑う。
「手伝うか?」
 はっ、と息を呑んだ。雲の視線の先には、マルセルと天野の二人だけ。黒羽は雲の真横に居た。
「っ」
 思わず口に手を当てると、黒羽はニヤリと、見透かしたような笑みを浮かべた。
「家に押し掛けられるのが、苦手なんだってな」
「……まぁ、ね」
「俺はあんたと違って、そういう気遣いというか、下調べというか、根回しというのか? ……が、苦手だ」
「君がそれも出来ちゃったら、いよいよ僕が君に勝てる事、ゼロになっちゃうから良いんだよ」
「悪かったな」
 スイスイ、と冷蔵庫から何か取り出しながら、黒羽は詫びを口にした。
「あの日、俺は、頭が可笑しくなっていたんだ」
「知ってるよ、天野さんから聞いた」
「何っ?!」
 コシャ、と黒羽の手の中で、卵が割れた。黒羽でも、色恋事で動揺するのだな。
「あーあー、もう、しょうがないな」
 上着のポケットから、ハンカチを出して渡してやると、黒羽は恥ずかしげに頬を染めた。少し可愛い。ついでに眼鏡がずれているのを直してやると、すまんと掠れた声で呟く。額に黒髪が汗で張り付いていて、少し色っぽい。
「あー、その、つまり ……そういうわけだから、マルセルのノートも返す……」
「ん、どうも、……ははっ、良かった、正直言うと君の事、常識ないなって思って、嫌いになる所だったから、事情がわかると許せそうだ」
「……」
 あの時、少し、ラッキーだと思ったのは、嫌いになる理由を欲しがっていたから。素直にノートを渡してしまったのは、これで黒羽を疎む自分を正当化出来ると思ったから。
 その事に気が付いて、また溜息が出た。
「き、」
「ん?」
「嫌いには、……なるな」
 開けっ放しの冷蔵庫の、清潔な白い光に照らされた黒羽の頬に、涙が無数、垂れている。
「え?! ……ちょ、どうした?!」
 己の涙に気が付いた黒羽が、卵を拭いたハンカチで、頬を拭き始めたので慌てて布巾を取ろうと腰を浮かせる。すると、その腰をぐるりと腕で囲まれた。そのまま、力一杯引っ張られ、黒羽の腕の中に収まる。
「好きだ」
 黒羽の、湿っぽい声は震えていた。
 恐らく、二日前、告白をするつもりで押し掛けて来た黒羽を、雲は帰れオーラで出迎えた。社内で雲が心がけて居る、誰に対しても優しい、何者をも受け入れる雰囲気が、あの時の雲には無かった。巣の中に、誰も入れたくない、巣に近づくなという拒絶の姿勢。慣れない告白作業を実行しようとしていた黒羽は、いつもと違う雲を前にして、動転した事だろう。
 あの奇怪な行動は、照れ隠しだったのかもしれない。マルセルのノートをこじつけに使ったのだ。
「いや、その、僕、一応仕込み屋してたから、男もイケるけど、念者経験しかないよ?」
 雲は的外れな返事をした。
「あんたともっと、仲良くなりたい」
「それは別に良いけど」
 良いけど、と無責任な肯定の言葉を口にしてから、雲は失敗したという気持ちになった。
「ほんとか?!」
「えっ、うん……」
 次の瞬間、黒羽が大声で泣き始めたのだ。こんな大げさな喜び方をされては、友達としてとか、同僚としてとか、言い訳出来なくなる。
「あの、黒羽……くん?」
 怖々声を掛けると、黒羽はまた卵を拭いたハンカチで頬を拭った。それから、ありがとうと息を吐くように呟き、ぎゅうっと雲を抱きしめた。 「おめでとう、黒羽」
「良かったなぁ!」
 リビングから、天野とマルセルの軽口が飛んで来て、黒羽は耳まで赤くなった。それから雲を解放すると、冷蔵庫からヒョイヒョイとまた何かを取り、勝手に台所に立って料理を始めた。
「なぁ雲、喜べ! 黒羽は料理上手いぞ」
 マルセルが朗らかに、彫りの深い顔に笑みを浮かべた。いつもの仏頂面からの、目一杯の笑みは、ギャップの効果でやたら華やかに映った。つくづく、天野には勿体無い男だと思う。
 黒羽は、油揚げに納豆が入ったツマミをつくった。青葉とネギも織り込まれていて、中々美味そうである。
 ほうれん草と大根を茹でてインスタントラーメンについてた柚子塩をふりかける知恵も、雲を唸らせた。
「これ、明日味噌汁に入れようとしてたお揚げ」
 しかし、雲は意地悪を口にした。
「何?!」
 黒羽は動揺して目を見開き、あわあわと料理と雲を見た。
 何とも、気分が良い。
「……雲、おまえ、朝はいつもバナナ一本だろ?」
「うん」
 マルセルがツッコミを入れなかったら、そのまま落ち込ませておこうかと思ったのだが、残念。
「気をつけてね、黒羽、この人、心開いた相手には結構意地悪だから」
 マルセルが要らぬ解説をつけるのを聞き流しながら、雲は黒羽の作品に箸をつけた。消費する立場で、黒羽の創作物に接するのは初だ。
「あ、美味しい」
 呟いてから、ふと、これまで黒羽が生んできた、沢山のものに想いを馳せた。黒羽の率いる実力の二班が、雲率いるパフォーマンスの三班に勝利した事。
 何ともあっけなく、ストンと、この正しく自然な結果を受け止められる自分に気がついた。勝たなくて良い、追いつけるように頑張ろう。全てが一緒なわけじゃない、黒羽になろうとしなくても良いんだ、雲は雲のやり方で、黒羽の良い所を、取り入れられるように、黒羽が雲に勝っているその部分だけ、黒羽の背中を見る事を恐れず、立ち向かおう。
 黒羽が生み出したものは、こんなに素晴らしいのだから。


2014/9/8

『つちおや』(執着攻め×子持ち強気受け、第三者視点)

 泉岳寺の裏にある竹林の小屋で、その子は生まれた。明け方まで男同士の荒々しい性交が行われていた小屋の奥部屋に、朝日と共に強いエネルギーが発生するのを確認し、私は走った。
 私を始め、手伝いの者が現場に駆けて行くと、二人の土親(つちおや)は恥ずかしそうに乱れた身を正しながら、宝箱の上を降りた。その宝箱は、よく中堅の妖怪が愛用する何の変哲もない木箱で、側面に数箇所、猫が抓を研いだ跡があるばかりでなく、所々得体の知れない沁みがついていた。こんな汚い箱の中に、本当に神格を持つような大妖怪が生まれるのだろうかと疑問に思っていたが、果たして生まれた。
 後に洋次郎と名付けられるその子は、玉のようにつるりとした頬を涙でヌラヌラと湿らせ、ぱかんと口を開けて私を見ていた。形の良い目鼻を少し寂しげに曇らせて、透き通った優しい産声を上げながら、箱の中に半分程敷かれた白っぽい土の中で、もぞもぞと可愛く蠢いていた。私は一瞬でその子を愛しく思い、衝動的に産みの親より前にその子を胸に抱いた。土の中には、恐らく土親の一方のであろう白い羽が大量に紛れていて、その子の頬や胸、腕や脇を包んでいた。これだけの羽を毟る作業は、相当痛みを伴ったろうと思い、やっとそこで罪悪感に襲われたが、それは後の祭りだった。
 振り返ると、白い羽の持ち主、土親の一人、鶴 永吉(つる えいきち)と目が合った。寂しそうな悔しそうな不安げな顔をしていたが、それが貴方の宿命なのだと心の中で言葉を投げ、私は笑った。頭に、私の産みの親、蛇種の女の顔が蘇った。あの女も、産まれたばかりの私を奪われた時、あんな顔をしたのだろうか。

 親より強く産まれる運命の妖怪をきちんと育てるために、神々は『育師(いくし)』という役人を作った。倭国には私や、洋次郎のように産まれる数日も前から、神々によって誕生を予測され、祝われる大妖怪が数十年に一度、現れた。その力の強さは貴重であったが、同時に脅威でもあった。私にはその子が、己の巨大な力で二親を殺してしまわぬよう、倭国に仇為さぬよう、その子が百になる迄その子を観察、保護し、躾ける義務がある。私はその時、神々から派遣された『育師』だった。

「洋次郎、洋次郎!」
 よく通るはっきりした声で、中庭を異様に綺麗な顔をした岡引、洋次郎の土親、永吉が駆けて来る。日暮れの薄黄色い光の中で、洋次郎は丁度、相撲遊びを終えて、衣服を直していた所だった。私と洋次郎の暮らす屋敷は、実道と永吉の暮らす泉岳寺の竹林から南に歩いて半刻程の所にある、貴船明神社の裏林、立派な門構えに門番が付いて居た。
 洋次郎は永吉の姿が見えると、慌てて私の足にしがみつき、ぷいっと永吉から目を逸した。
 一方で永吉は、あっという前に私と洋次郎の元に来て、ぐんと身を乗り出し、洋次郎に近づいた。
「永吉さん、怯えていますので」
 本当に怯えるべきなのは、永吉の方なのだが、この可愛らしい新米親は、我が子の異常をわかっていない。己が嫌われているのだと思い、傷ついた顔をして頷いた。
「わかってるよ、これ以上は近づかねぇ」
 生まれてからずっと、私に育てられて来たとはいえ、洋次郎が永吉を怖がる理由はない。
 永吉はわかっていないが、洋次郎は永吉への興味と、喪失の予感に怯えていた。砂細工を手で持つ恐怖感。洋次郎が永吉に抱いていたのは、壊してしまいそうで怖い、この気持ちのみであった。しかし、産みの親が憎いはずもなく、洋次郎は困惑していたのだ。
「なぁ洋次郎!」
 証拠に、永吉が洋次郎に声を掛ける度、ぎゅっと私の足に捕まる洋次郎の、腕の力が強まった。
「そんなに怯えないでくれ、俺はおまえをとって食いやしねぇ……、どうして俺を怖がる? 俺はこんなにおまえと仲良くしたいのに、おまえには俺の成分が入ってんだぞ? おまえは俺から産まれたんだぞ、なぁ、頼むよ、少しくらい口を効いてくれ」
 可哀相な事に、永吉は毎日毎日、朝夕会いに来る。乳飲み子の頃は、永吉の腕に収まる事もあったが、己の足で動き回るようになってから、洋次郎は永吉に近づかなくなった。永吉はそれでも洋次郎に会いに来る。時々、もう片方の土親である赤鬼 実道(あかき さねみち)も伴ってやって来た。しかし二人を前にして、二人がいくら洋次郎を呼んでも、洋次郎は頑なに私の足から離れなかった。

「俺もここで暮らしちゃ駄目かなぁ」
 ある日、永吉が相談をしに来た。
「下男のような仕事でも、何でも、何か、役に立ってみせるから……」
 思いつめたような顔をして、着物の裾をぎゅっと掴み、耳を真っ赤にして下を向いて、ああ限界なんだなぁ、と私は感じ取り、洋次郎に目配せした。洋次郎は私に良く躾られていたので、別室に去って行き、込み入った大人の話を聞かないよう気を遣った。
 そんな私達のやり取りを、永吉は羨ましそうに見た。
「なぁ、俺の子なんだよな? 俺と、実道とで作ったんだよな、あいつ」
 力なく、ぽつんと、確認されたので頷く。
「確かに貴方々の成分で出来ています。特に貴方の成分が強く、あの子は鶴種です」
「……っ、わかるよ、顔が似てるもんなァ」
 ついにボロボロと泣き出した永吉を、私は申し訳ないような、気の滅入るような思いで眺め、溜息をついた。
「育てたいですか?」
「当たり前だっ……、どうして、こんな酷い事が出来るんだ、……アンタが強いのは良くわかる、この屋敷に居る奴ら全員、俺なんか一捻りなんだろうな、……それでも、あいつは俺の子なんだ……っ」
「お返しする事は出来ません」
 鋭い喧嘩ごしの声色で言い切り、私は永吉を言葉で突き飛ばした。
「あの子はもう、私の子です」
 そして、恐らく、言ってはいけなかった言葉を吐いた。神から選ばれた親は私であり、永吉には物理的に洋次郎を育てるのは無理で、洋次郎も私に懐いている。この事実に私は油断していた。
 私は永吉をとても下に見ていたのだ。八百年以上の時を生き抜いた大妖怪であるとはいえ、無害な鶴種である。何か出来るようには思えなかった。しかし、永吉は私を格闘術で気絶させ、この日、手薄だった屋敷から洋次郎を攫った。
 それは恐怖体験であった。愛しい子どもの喪失である。私に甘え、私を愛し、私を尊敬して、私の言葉を信じ、すくすくと育っていた小さな生き物が、急にその姿を消してしまった。もし、産みの親に心を乗り換えられたら。私と洋次郎の縁よりも、実の親である永吉との縁の方が、洋次郎には太い繋がりだ。私は、洋次郎を誰にも取られたくないと思う自分の気持ちに気がついた。もし、洋次郎が永吉に心変わりしていたら、私は永吉を殺してしまうかもしれない。

 永吉は洋次郎を拐うと、その姿を忽然と消した。妖世で同心の職に付いていた実道も、事件から五日後に免職処分を受け行方を眩ませた。この処遇に私は腹を立てた。まるで、実道を二人の元に送り出すようなものではないか。
 信じられない事だが、私から洋次郎を奪った憎き永吉に、世間は同情的だった。
 親子の縁は百年で切れる。短い間しか惹かれ合えない間柄だから、限りある時間を共に居させてやろうという発想だ。
 私は洋次郎の居ない冷えた淋しい屋敷の中、膝にのせた洋次郎の着物を撫で、涙を堪えながら呟いた。
「何故……」
 百年で醒めてしまう親子愛が、何故、こうも慈しまれるのか。親子は百年で、互いから興味を無くすように出来ている。期限の切れた親子愛は、次の繁殖に害を為すものとして、今度は嘲笑の的となる。
 しかし、私に洋次郎との血の繋がりはない。私は洋次郎が百を過ぎても、洋次郎を愛しているだろう。
 三人の出奔から半年、私はついに自律神経をやられ、情緒不安定になった。そして、身勝手な土親どもを捕らえたら、きっとこの手で殺してやろうと考えた。
 あの綺麗な岡引の永吉は、罪人の小屋に放り込み、汚い罪人どもに散々に陵辱させてから、四肢を引き裂いてやろう。永吉の監視を怠り、永吉がこのような凶行を起こすのを止められなかった実道には、永吉の無惨な姿を見せた後、鋸で首を落とし首だけを封印し無限の苦しみを与えてやろう。
 妄想を膨らませて、自分を慰める。
 そうでもしなければ、心が耐えられなかった。本気で探せば、見つからないわけがないのだ。捜索隊も世間の目も、グルになって私から洋次郎を隠している。私は誰も頼れず信じられず不眠症を患い、夜中の徘徊を始めた。闇の中を歩いていると、私はこの世にたった一人きりの、無意味で寂しい存在なのだという暗い気持ちに支配された。
 もはや世間が誘拐騒ぎを忘れ、洋次郎という可哀相な子どもの存在を記憶から失った頃、私は思い立って父親の青鬼 涼衛門(あおき りょうえもん)を屋敷に呼びつけた。
 涼衛門は齢千を超える堂々たる鬼種だが、私の方が、妖怪としても役人としても格上である。私は涼衛門が何か私を諌めるような言葉を吐いたのを皮切りに、涼衛門が私に隠している事があると難癖をつけ、涼衛門を拷問に掛けた。
 ボロボロの涼衛門を眺め、私は私の中に産みの親への愛が欠片もない事を確認した。そして安堵した。この男は私の親であって親ではない。産みの親との絆など、取るに足らぬものだ。
 数日して、私は涼衛門に対する虐待を神々から咎められ『育師』を罷免された。

「長蔵さん、姉さんが来たよ」
 がやがやした茶屋の裏口で、弟が私のため、私の恋人を呼んだ。品川にたった一軒だけの陰間茶屋『亀屋』は、元は芳町にあった有名陰間茶屋から暖簾分けし、人世と妖世の両方に向けて店を開いている大茶屋だ。寺の多いこの地で、坊主達を上客に大層賑わっており、酉の刻には広間が客で一杯になる。
 私は飾り気のない格好に、お粉と紅だけ上物をつけて裏口の井戸に腰を掛け、恋人の亀 長蔵(かめ ちょうぞう)を待った。乾いた井戸の縁に座っていると、このままふわりと身を後ろに倒し、暗闇の底に沈んでしまいたい衝動に駆られる。ぐっと手の指に力を入れて、死を我慢していると、やっと二階の窓が開き、寝起きの長蔵が顔を出した。
 長蔵は妖怪らしく髷のない野放図な髪型をしていたが、それが長蔵には妙に似合って粋に見えた。無造作な黒髪が鼻に掛かっていて色っぽい。歌舞伎化粧のように整った大きな目が見栄え良く、赤い唇や筋の通った鼻もひっくるめ長蔵はとても派手だった。着物も季節に合わせて上等なものを揃えるし、女を連れての遊び方も巧い。

 職と洋次郎を失った哀しみで寝たきりになっていた私に、救いの手を差し伸べたのは種違いの弟、地登利 雲(ちとり くも)だった。雲は『亀屋』に住み込みで勤めており、陰間に仕込みを入れる「仕込み屋」の職にあった。『亀屋』の主人である長蔵は、早くに両親を亡くした雲の育て親でもあった。私と雲は母が同じ、しかし雲の父は私の父、涼衛門によって殺されていた。
 だから涼衛門を痛めつけた私を、雲は救ったのかもしれない。

「海」
 よく響く深みのある長蔵の声が、裏口の玄関から私の名を呼んだ。長蔵の顔は艶やか過ぎて、直視すると恥ずかしくなるため、私はそっぽを向いたまま長蔵を待った。
「少し痛い思いをさせるかも」
 すぐ近くに来た長蔵の身体から、白檀の薫りが届き、私は頬を染めた。
長蔵程の良い男が、どうして私を相手にしてくれているのか。
「別に良いよ」
 それは恐らく、私が強いから。
「私は簡単には死なないから」
 強く産まれた事に、また改めて喜びを覚える。
 身体に長蔵の腕が回ると、言い知れない幸福感で全てを忘れた。帰って来ない可愛い我が子の顔が脳裏を過ぎったが、私はもうあの子の母親にはなれない。『育て屋』の職を失った瞬間あの子の事も失ったのだ。
「ぅ゛……っ」
 強い痛みに思わず悲鳴を上げ長蔵を抱き返す。
 長蔵は亀種といい、生き物の魂を吸う妖だ。
 普通は誰からどのぐらい魂を吸うか調整出来るそうだが、愛すると加減が出来なくなり、強く愛する者程、早く吸い殺してしまうという。
 全身の骨が、じゅわりと溶けるような感覚に目の前が白む。長蔵が背中を摩ってくれたが、身体の芯が泡立つような熱い痛みを覚えている中、何の慰めにもならなかった。
「苦労掛けるな」
 私の痛みを察し、長蔵が離れるとやっと痛みが引いた。長蔵は私と、長蔵の力が及ばない腕二つ分の距離を取った。
 ふとして長蔵を見てしまった。すっきりした顔の慈愛に満ちた目が私を捕えていた。
 長蔵は過去、何人もの恋人や伴侶を愛で吸い殺している恐ろしい男だったが、私はちょっとやそっとの事では死なない莫大な妖力を持って居た。
 私は私の余裕を伝えるため、するりと長蔵に近寄ると、肩に手を置いて顔を近づけた。
 みしりと骨が軋むような痛みを覚え、長蔵が私を愛しんだのがわかった。背中を撫でられて口付けされると、ふわふわと足元が温かくなった。
「痛いか?」
 長蔵はいつも不安そうに聞いてくる。私はその度に「痛いよ」と事実を伝えた。
「もっと、痛くして」
 しかし私は耐えられる。この痛みは私が長蔵に愛されている印なのだ。

 初めて長蔵と交わった夜、骨の溶ける痛みと肉体に受ける喜びの板挟みで気を失った。『亀屋』の地下にある狭い休息室で、私は生まれて初めて、産みの親達に感謝した。私を産んでくれた事、長蔵に愛される強い女に作ってくれた事。産みの親は偉大だった。

「海」
 耳を浸す、低く響きの良い声で、長蔵が私を呼んだ。この頃、痛みはもはや骨の中を空にする勢いで、私を襲って来ていた。近いうちに死ぬと予感していたが誰にもそれを言わなかった。
 私が死にそうだとわかったら、長蔵は私と距離を置くだろう。
 暗く陰っている顔色、やせ細った体つきがわからぬよう、私は我が身に実装を施し長蔵と会った。長蔵は以前より用心深く私を観察し、辛くなったら別れるから絶対に無理をするなと言った。

 さて、妖が消える瞬間は、よく煙や風や夢に例えられるが、私の場合は砂のようだった。まず実装がパラパラと崩れ、弱りきった醜い中身が晒された。丁度、『亀屋』の二階で、長蔵と昼寝をする約束があり、段を登ろうとする所だった。何人もが同時に上り下り出来るような広い作りの階段で、右側にあった大きな窓からは陽の光が一杯に降り注いでいた。
 段を登ろうとした私に、長蔵が手を差し伸べようとしたその時、私は崩れて消えた。
 目の前で起こった出来事の衝撃に目を見開き、乱暴に私を手繰り寄せようとして腕を伸ばした長蔵の、何か悲鳴に近い大きな呼び声が耳に残った。

 それから時が経ち、私が甦生されたのは昭和初期、愛しい洋次郎の手によってであった。後で聞いた話だが、永吉と実道は洋次郎を江戸から少し離れた川越の地で育てていた。川越迄、江戸の噂は良く届く。洋次郎は私の訃報を聞き江戸に戻ったという。
 私を復活させる事を私の死に場所に誓い、妖力を高めるため、あらゆる努力をし、ついに私を復活させた。
 しかし、私は長蔵に命を吸われながら、十年以上生きた大妖怪である。そう簡単には復活させる事の出来ない難易度の高い生き物だった。洋次郎は私を復活させるため、当時、妖怪達の間で排斥の対象となっていた悪魔と親交を深めてしまった。
 悪魔の師に言われるまま悪魔の国ガリアに渡り、悪魔の恋人を作ると、洋次郎は倭国を捨てた。生まれながらに定められた、倭国守護市民の役目を放棄し、悪魔の国ガリアで一級市民の地位を得た。
 洋次郎は売国奴になってしまった。
 そうして、悪魔の洗脳をうけた洋次郎は、ガリアの上司に命じられるまま、土親である赤鬼を葬り、もう片方の土親である永吉に陰間業を営ませ金を作った。この陰間業の所為で、永吉は気の可笑しい客に気に入られ、連れ去られて身を滅ぼしたという。
 
 今、『亀屋』の大階段には悪魔達の好みで赤絨毯が敷かれており、私はそこで甦った。すぐに長蔵に会いに行こうとした私を、洋次郎は叱り、私が長蔵に殺された事実をゆっくりと言い聞かせた。
 私が私の体力を隠蔽した事によって起きた不幸だったが、洋次郎は聞く耳を持たなかった。
 私は長蔵に会いたくて、洋次郎の目を盗み、『亀屋』を飛び出した。
 そして、探し出した長蔵は戦地に居た。
 私は長蔵を追って、傭兵の職についていた。魂を吸う長蔵の力は、戦地でこそ華咲く。長蔵は目覚しい活躍をしており目立ったため、すぐに巡り会う事が出来た。
 むっと粘りつく湿気と熱射が襲い来る南の島、波の荒い満潮の海辺で、甲冑を洗う見覚えのある大男を見つけた。薄灰に藻色の不思議な模様が入った甲冑を、熱心に擦る背に声を掛けた。
 振り向いた長蔵は私を見ると真っ青になり、甲冑から手を離した。見る間に、恐らく特注であろう小洒落た甲冑は海に攫われ、ぷかぷかと沖に浮いて行ったが、長蔵は言葉も発せずその場に根づいたよう、動かなかった。
 私は長蔵に駆け寄ると、洋次郎が復活させてくれた事、また長蔵と共に生きたい事を告げ、長蔵を抱き締めた。長蔵は私を受け止めると、条件反射のようにぎゅっと抱きしめ返し、背中を撫でた。それから丁寧に私の身を己から引き剥がすと、私の頬を叩いた。
 苦しそうに、息と声を丸めてなるべく感情が漏れぬように気をつけて、長蔵は私に、この先ずっと何があっても長蔵が私を愛す事は無い事、私に二度と長蔵の前に姿を見せないで欲しい事を告げ、この地を立ち去るよう言った。
 長蔵の目は、私に強く失望し、今後、決して私に心を許さぬ決意を宿していた。
 自然と涙は出て来なかった。
 それ程のむごい苦しみを、私は長蔵に与えてしまったのだと、自省するばかりだった。その日、傭兵の宿舎に戻ると洋次郎が待ち構えて居た。
 長蔵に育てられたという元影間の白百合という美しい男も一緒だった。洋次郎は訳あって、長蔵をガリアに連れて行きたいのだという。
 しかし次の日、長蔵は島から姿を消した。単体の戦力として登録されている長蔵の移動は早い。これまで月に一度は耳に入って来た噂もなくなり、長蔵は完全に行方知れずとなった。
 当時、急に消えた長蔵の事を戦死したものだと考える者が多数で、洋次郎に下されていた長蔵に関する任も、突然に無くなってしまった。私と白百合は長蔵を追う旅に終わりが来た事を、長蔵の死と錯覚して嘆いた。洋次郎は清々していたようだが、白百合は私と同じ哀しみを抱えていた。私は白百合と手を取り合って泣き、私達は運命共同体になった。

 それからの私達は、洋次郎の任に合わせて動き、倭に対する裏切りを何度も重ねた。私達が追われる身になったのは、終戦の近づいた真冬。新雪を私達の血がポツポツと赤く染め、寒さは白百合の足指を一本と私の手指を二本奪い、洋次郎の綺麗な顔に赤切れを無数作った。追跡者はシャカシャカと密やかな足音で迫り、急に近づいて来ては私達に次々と致命傷を負わせた。
 三日三晩、攻防を繰り広げると、私達はいよいよ追い詰められた。洋次郎の先導でユーラシア大陸の山間部。強力な王の治める中立国、李に逃げ込むと、やっと追跡者の攻撃が止んだ。弱りきった私達を李の住民は保護してくれた。
 それから、およそ二ヶ月の滞在で、白百合の足指と私の手指は生え揃い、私達は李を出られる身体になった。しかし出発の前日、事件が起こった。私達は李帝に呼び出されたのである。

 李という国の地表は雪で覆われ、凍てつく痩せた大地が物悲しい。対して、地下世界は暖かく豊かだった。李帝は自らの居城と中央政治組織と、飛び穴だけを厳しい地表環境に置き、住民に過ごしやすい地下を使わせていた。地下世界は二層まで出来上がっており、妖だけでなく、迷い込んだ人間も住んでいるようであった。
 私達は地下二層にある難民支援施設で一時保護され、それから一層の宿に移った。二層のごみごみして力強い、少しだけボロな雰囲気も魅力だったが、一層の洗練された都市の景色に私は惚れ惚れした。そこは悪魔の作り上げた街に良く似ており、倭国に追われる前、洋次郎に連れられて訪れたガリアの街並を彷彿とさせた。戦いを好まぬ悪魔達を受け入れていたら自然と磨かれて輝きだしたらしい。
 しかし李帝に呼び出され訪れた地表の中央政治施設は中華的な、統制された建物が揃い、私達を厳かな気持ちにさせた。

 そして、多忙な王は私達を城に軟禁した状態で五日間姿を見せなかった。待たされている間、私達は李帝の身辺を世話する者達との会話を楽しみ、時を過ごした。というのも、李帝の居城には極端に余暇を楽しむためのものが無い。書物庫か休憩目的の空間しかなく、何かをして遊ぶ事が出来なかったのだ。一層に戻って街をぶらつき、愉快に過ごしたい気持ちを抑え、私達は李帝の噂だけを楽しみに毎日を過ごした。
 聞くところによると李帝は現在、寝る時間も取れない状況が続いており会議や報告会の休憩時間であるぶつ切りの一時間を睡眠に使っているため、寝具を運ぶ専門の者が付いて回っているという。ここ半年の間で、まとまった睡眠時間は三時間が最長だという話を聞いた時、寝汚い白百合が悲鳴を上げた。
 そうまでしないと、被支配的な立場に追いやられた妖怪国が、好戦的な悪魔の国々に立ち向かい、且つ戦いに巻き込まれず中立を守る事は難しいという。

 やっと李帝と対面をしたのが李帝の居城に入って五日目、天井の高い謁見の間に入ると、緊張で足が震えた。
 過去に『育て屋』をやっていた時、神々から何か仰せつかる時のドキドキする身体の反応が、久しぶりに現れて背中に汗を掻いた。次第に李帝の周辺を守る者や報告をする者、命令を受ける者などであろう沢山の関係者が姿を現し、これから国の統治者と会うのだという圧力が、私達三人を押し潰した。いよいよ李帝が姿を現すという知らせが、乾いた石を叩くような合図で謁見の間全体に響くと、関係者達が一斉に黙った。無言の人ごみが作る堅い空気に、私達はいそいそとひれ伏した。
 仲の良い李帝の世話係がやって来て、ひれ伏す必要は無い事を伝えてくれたが、私達はなかなか顔を上げられなかった。特に白百合は生まれも卑しく妖力も私や洋次郎程では無い事を気に病んでか、頑なに床に額を擦り付け体勢を崩さなかった。
 少しすると、王座の置かれている台の上にテーブルが運ばれて来て、それと一緒に李帝が歩んで来た。端正な顔立ちに薄い化粧が映え、洋次郎のような天然の人形顔とは別に、神々しい美しさを内側から発していた。
 この目の前の人物が、あの豊かな李国を興したのだ。貧しい荒地の小国を中立の強国に迄、統治して高めたのだ。私は純粋な尊敬の眼差しを、李帝に向けた。
 白百合は頭を地に付けたまま。
「渡したいものがある、おいで」
 李帝は短く言うと、テーブルに数枚の封筒を置いた。
 李帝の意図がわからず放けている私達を半ば力付くで、世話係数人がテーブルまで運んだ。白百合は青い顔で震えていたが、胆力で表情だけは平静を取り繕っていた。洋次郎はいつになく暗い目をして、白百合の青い顔を伺った。
「そんなに怯えないでよ、……今は殺さない」
 私にはおよそ検討が付かなかったが、二人の顔に安堵が見えたので、どうやら私達は李帝に殺されるような何かをしてしまっていたらしい。李帝の物騒な台詞が原因で、私までさぁっと青くなった。
 しかし、李帝は私達三人の顔色の変化を見ても、表情一つ動かさなかった。手元に置かれた湯呑を手に取ると口に運び、瞬きを一つ。李帝が動くのにつられて、私はやっと簡素だが見目の良い李帝の衣服に気がついた。茉莉花の入った真っ白の陶器を含め、一枚の絵のように綺麗だった。
 李帝は私の見惚れる目には気が付かず、すっと一枚の封筒を洋次郎に突きつけた。
「これを読んで」
 李帝が最初に、テーブルに置いた封筒の一つ。洋次郎はその封筒を手に取るとすぐに中に入っていた紙を広げた。それは西洋の紙と筆で作られた永吉の手紙だった。
 内容は実に典型的な親の手紙で、倭に残して来た洋次郎を気遣うと同時に叱責するもの。洋次郎がガリアに騙されている事、それをわかっていながら目を覚まさせてやれない自分の無力や、洋次郎のこれからの心配。
 洋次郎は顔を顰め、一つ目の封筒に入っていた手紙を読み終わると、二つ目に手を出した。李帝はじっと洋次郎を眺め、ふとすると手紙の文字を睨んだ。
 洋次郎の横に座って居た私からは、手紙の文面が読み取れたのだが、内容は回を追う事に稚拙になり、己を責め続けるもの、洋次郎を責め続けるもの、思い出の箇条書き、と余裕の無い鬼気迫ったものになり、永吉の精神が追い込まれて行ったのがわかった。
 最後はまるで幼子のような、大きくて震えた、でこぼこの筆跡で『くるしいから、たのむ。まだいきてるうちに。たのむから。かなしいからもうおわりたい。つらいけど、おまえにあいたいからいきてるから。まだいきてるから、あいにきて。たのむから、おねがいだから、たのむから。たのむから。あいたいから。たのむから。洋次郎 洋次郎 洋次郎 洋次郎』と紙の終わりまでずっと名前が羅列されている。その紙はクシャクシャにされた後のような、全体がしわしわのみすぼらしいものだったが、一番永吉の想いが正直に詰まっていたように思う。
 手紙を眺める洋次郎の顔は、能面のように平坦だったが、洋次郎を見つめていた李帝の目には怒りの涙が溜まっていた。
「読んだね?」
「……はい」
「こんなものがあるから、俺はおまえを殺せないんだよ!忌々しい!」
 絶対権力者が、激昂した。
 どよめきが起こり人波が揺れた。洋次郎は手紙を前にして黙り込み下を向いた。その目からホトホトと涙が落ちて、私は何だか裏切られたような気持ちになった。私の親は育師から私を力づくで拐うような事はしなかったので、私は親に育てられた記憶がない。しかし、洋次郎にはあるのだ。
 それが羨ましいのか、単純に洋次郎の心が、永吉にも向いている事が気に食わないのか、良くわからないが面白くなかった。
 面白くないのに、ほっとした。

「怖かったね、李帝」
 李を出てすぐの雪山小屋で、思い出したように白百合が呟いた。
「殺されるだろうと思ってたから、生かされて驚いてる」
 小屋の中央に設置された熱砂柱(ねつさちゅう)で、燃える鬼火の橙光が、洋次郎の人形めいた頬を照らしていた。熱砂柱は西洋の生物化学で生まれた暖をとる便利な道具だが、私にはどうして砂が柱のように溜まるのか、そこに鬼火が灯るのか。仕組みが一切わからない。李国に逃げて来た西洋悪魔達によって、このあたりの雪山小屋には全て熱砂柱が設置されているという。
 このような偉大な影響力を持つ李帝から、疎まれて怒鳴られた洋次郎が憐れで、私は自然と口数が減った。永吉は長生きで顔が広いため、李帝とも懇意にしていたのだろう。
 優しい李帝は旧知の友が陥った苦境に心を痛めて、今日、私達を呼んだのだ。
 可哀相な永吉が、あの手紙の後どうなったのか。私が知るのは数年後。
 戦後の倭国、川越で、かつて実道と永吉が、幼い洋次郎を育てた地に、私達は屋敷を構えた。終戦から八年。まだ世間は混乱していたが、大分落ち着いて来ており、行方知れずだった知人や友人のその後が分かりはじめて来た頃。永吉と洋次郎の、親子の縁が切れた頃。
 永吉がふらりと、私達を訪ねてきた。横にいたのは李帝だった。
 永吉と李帝は、恋人同士なのだという。
 そして、あれだけ切ない手紙をしたためておいて、永吉は私と洋次郎の暮らしを見ると、洋次郎を私に託してくれた。永吉は私達の家を去った後、三度もこちらを振り返って去って行った。


2014/9/28

『お疲れ様です、要さん』(マイペースエリート×庶民派苦労人)


 21世紀の妖怪世界は、人間世界とほぼ同じ。
 妖力や貧富の差はあれど、経済で回る仕組みが作られ、ほとんどの妖怪は人と関わらず生活している。人を襲って『肝』を収穫する仕事は第一次産業、日本の都市部ではあまり見られなくなった。

 地下一層、地表から氷柱のように聳える妖怪オフィスビル群のひとつを地下一階から五階まで贅沢に使用する大企業、『怪PR社』の朝は喧騒に塗れている。
 沢山の会議や業務連絡で忙殺されている社員達は、要達外部の清掃員などに一々気を止めない。
 廊下を走って行く女性社員や、数人でガヤガヤと言葉を交わしながら通り過ぎて行く集団に、返って来ないと決まっている「お疲れ様です」を投げるのは苦ではない。そういうものだとわかった上でやっているため、挨拶が壁打ちでも要は気にならなかった。
 しかし、「あの人達は僕等の事を景色としか思っていないんだろうなぁ……」と新人がしみじみ呟くのを聞くたび、少しだけ寂しい気持ちになった。

「要さん」
 後ろから声を掛けられて、振り返ると『怪PR社』の管理部部長、狗賓種の滝神が立っていた。
 狗賓という種族は、天狗の系統に分類される。要の属する垢嘗という種族より、妖怪の格が高い。
 何となく気後れして、一歩後退った。
「あ、滝神さんお疲れ様です~」
 にっと笑って流れ作業のような挨拶をした要に対し、滝神はゆっくりと目を合わせ、お疲れ様と律儀な返事をした。それから、いくつもの会議室に続く広い総合ロビーで、沢山あるソファのうち、わざわざ要が作業する傍のソファに座った。
「面談ですか~?」
 そんな傍に座られては、声を掛けざるを得ない。
「……はい……、良くわかりましたね」
「何となく」
「勘が鋭いんですね」
「……はは、そーすね」
 午前十一時。
 管理部の部長がこの時間に総合ロビーで人を待つ用事はほとんどが面談だ。
 この頃になると社内の空気も落ち着きだし、人の行き来も減って、ぐっと作業が捗る。
 日の光が射す窓の掃除は気持ちが良い。
 地中にある妖怪タウンに、天候庁の役人が地上からわざわざ持ってきている麗らかな陽光……。陽光は、地中一層で暮らす妖怪しか味わえない贅沢な公共サービスだ。これに照らされる事が出来るというのが、要には喜びだった。
 キュキューッと窓が音を立てる。
 自分の舌の細胞から作った万能スポンジが、みるみる窓を美しくいくのを楽しみながら、ふと窓ごしに滝神を見ると、まだニコニコしてこちらを眺めている……。
「……」
 五分以上沈黙が続いたにも関わらず、滝神は要から目を離さない。
 辛抱強い……。と苦々しくその様子を認め、要はこっそり顔を顰めた。
 できれば、無視したい。凄く無視したい。
「良い天気っすねぇ」
 しかし、要は空気を読む男だった。
「はい」
「晴れてると、テンション上がりません?」
「はい」
「週末も晴れるといいっすね」
「はい」
 滝神に気を遣って声を掛けながら、何故いつもこうなる、と要は内心舌打ちをしていた。
 大好きな窓拭きをしている時に限って、滝神に捕まる。
 滝神は窓際で作業する要の傍にやって来て、まず名前を呼んで話し掛けて来た後、近くに腰を落ち着ける。日の光に目を細めながらじっと要を見つめ、無言の圧力で会話を促して来る。
「ずっと晴れにするって事は、出来ないんすかねぇ」
「……さぁ、どうでしょう。僕は曇りも好きですよ」
 目の前の窓硝子には、柄の悪い要の外見に対比された、上品な滝神の姿が映り込んでいた。
 滝神はじっと見つめて来る癖に、何を話しかけても受け身で、次に繋がる返事をしない。要がいつも何かと話題を探さなければならなかった。
「こう天気が良いと、仕事放り出して遊び行きたくなりますねぇ」
「はい」
「週末は何かご予定あるんですか?」
「……特に……、ありません、……」
「へぇ~……、じゃぁ、いつも何してるんですか?」
「……いつも、……そうですね、ぼんやりしていますかねぇ」
「……はは! ぼんやりって! 暇人ですか! ひなたぼっこ??」
「暇人です……、ひなたぼっこ、……好きですね」
「……へぇ~」
 あーもー、めんどくせぇ。
 そこで一つの窓が終わり、スポンジ洗浄のため床に置いた機械の前、屈むと滝神が目の前にやって来て足を折り、目線を合わせて来た。
 思わず、へらっと愛想笑いをしたが、顔が近くて気まずい。
 この距離に近づいて来て、一体何を話そうというのか。
「……」
 滝神は要をじっと眺めるだけ。口を開こうとしないので、じわっと額に汗を掻いた。
 ……何なんだよ。一体、何がしたいんだよ。
 滝神の行動が、謎過ぎて変な気分になる。厄介な男に気に入られてしまった。
「あ、そういえば最近、多比良さんと小柄な鎌イタチ種の女の子、よく一緒に居ますよねぇ、知ってますか? 第二営業部の野平さん……、前は巨乳のろくろ首と仲良くしてて」
「はい」
 結局、要が話題を振った。
「良いですよねぇ、あんな美女二人の間を行ったり来たり……、羨ましい。
 俺の周りは男ばっかりで、……二層の現場なら女性比率高いって聞きますけど……」
「はい……」
「最近、彼女と別れちゃって、ご無沙汰なんですよねぇ……。
 って朝からする話じゃねーなこれ。
 ……あの、ところでこの距離何ですか? 若干作業し辛いんすけど!」
「……」
 少し強い口調だったからだろうか。
 うざい、という空気が漏れ出さないよう細心の注意を払っていたのに、滝神は傷ついたような顔になっていた。何かまずい事を言ってしまったのだろうか……。
 下ネタはアウトだったのか……。
「あ、すみません、くだらない話しちゃって」
「いえ……」
 慌てて笑顔を作って、腿に手をつくと頭を下げた。
 少し下の角度から見た滝神の顔は、良くも悪くもない、普通の顔で、そういえばこんな顔をしていたなと、今思い出した程だった。やや大きな口に、天狗特有の下がり目がなかったら記憶に留めるのが難しい類の顔。
 それでも、厚めの一重に細い眉、鋭い三白眼の揃った柄の悪い要の顔に比べると、感じの良い顔立ちというだけで、女怪にモテそうではあった。
「滝神さん?」
「あ……」
 何か考え込んでいる様子の滝神に声を掛けると、滝神はハッとして咄嗟の笑みを浮かべた。
「あぁ、どうやら、気を遣わせてしまったみたいで、ごめんなさい」
「や、俺も、……朝から下ネタ、すみませんでした……」
 滝神は少し、言葉を選んでいる風。何を言い渡されるのだろう。
「あの、えっと、要さんはオシャレですよね」
「えっ……?!」
 滝神の澄んだ目が、要の隅々、耳のピアスやネックレスの絡んだ首元を順々に捉えていく。
「……あ……、や、別に……、単に女好きなんすよ、……ウケるから、こういうの付けてると」
「ウケる?」
「あ、ええっと引っ掛けやすくなる? ナンパ成功率が上がるっていうのかな、んーっと」
 想定外の指摘と、久しぶりに褒められた事で舞い上がり、耳に熱が集まった。
「今度、僕にもオシャレを教えてください」
「え、いいっすけど、俺別にそんなオシャレじゃ……」
「ここに連絡をください」
 すっと名刺を渡されたが、随分前に一度貰った事があるのでいらない。
「や、名刺ならもう貰ってます」
 やんわりと受け取りを拒否すると、滝神の顔が僅かに曇った。
「……では、二枚目を」
 持ってるッつぅの、と心の中で唸り、要も顔を顰める。
 渡した方は忘れても、貰った方は覚えていた。
 『怪PR社』の現場に、妖怪社会人になって初めてやって来た時の事。
 挨拶は社訓なので、今より大きな声で、あの時は返事を期待して、感じの良さにも拘りつつ要は声をはり上げていた。
 応じてくれる人の少なさにがっかりしながら、しかし、こういうものなのだろうな、と一種不貞腐れた気持ちで納得し始めていた時だった。
 初めましての方ですね、とわざわざ足を止め、名刺をくれた社員がいた。
 それが滝神だ。
 じんと目に涙の膜が出来たが耐えて、貰ったその一枚の名刺のためだけに、要は名刺入れを購入した。
「滝神さんって、案外薄情?」
「え?」
 ぽろりと言ってしまった厭味に、滝神は不思議そうな顔をした。
「……俺、滝神さんに初めて名刺貰った日が初出勤日だったんすよね。
 誰も、挨拶に返事くれない中で、初めましてって名刺くれた滝神さんの優しさに、超感動したんだけど、渡した本人はその事覚えてないんだもんな」
 恐らく、何百枚も刷ってバラ撒く名刺について、一々誰に渡したかなんて覚えていないのが普通だろう。日々外部の業者と沢山の商談を重ねる滝神に、無茶な期待を掛けてしまっていた事に気がつくと、急に恥ずかしくなった。
 ……俺の事は特別に覚えているだろう、なんて思ってたのか俺は。
 自分の浅はかさに驚いて耳に熱が集まる。
「でも、僕は君の連絡先を知りません」
 滝神はぽつりとそう言って、立ち上がった。
 丁度、面談の相手が来たようだった。
 近頃、子どもが入院したとかで遅刻早退が増えている短髪の女怪が、走ってこちらに来るところだ。
「すみませんでした滝神さん、お待たせして」
 女怪は体育会系の素早さで滝神にサッと頭を下げた。
「お子さんの具合は如何ですか?」
 滝神の質問に、厳しげだが整った姉御フェイスを綻ばせ、短髪の女怪は経過を報告した。順調に回復しているらしい。中庭ランチをしていた女怪達の噂では、彼女はパートナーに女性を選んだため、子どもは土から作っている。妖怪は種が違うと男女でも子を為す事が難しく、土から新しい妖怪を作る。百年生きると本物の妖怪になるが、それまでは育てるのに苦労する。若い妖怪のほとんどは同じ種同士の男女で子を為すが、年を取った妖怪は、別種の妖怪と苦労して土から子を育てようとする。また男同士や女同士の子作りも同じ、土子からだ。
 しかし、要の両親も知人も大体が垢嘗種同士で普通に子作りをする。そのため、実際に土子を育てている妖怪に、要はたった今はじめて出会った。
 ひとくちに妖怪と呼んでも、その生き方は本当に様々だ。この場所で働いていると、日々それを実感する。

 午後六時、地下一層に設置された装置としての空が、下半分がレモン色と赤色に染まっていた。
 要の働く『あかなめ清掃』は夕方には大方の業務を終わらせる。
 大家族で同居している要は、家の手伝いを言い付けられており、今日は食事当番のためスーパーに寄って帰る。
 地中四層に続く巨大エレベーター型の交通機関、『アースポール』に乗り込み、自宅傍のエレベーターホールから出て来ると、四層の薄暗い世界と、オレンジの壁灯りに迎えられた。
 壁一面を覆うコケが淡い光を放つ年中オレンジのこの世界では、地上を照らす透明な陽光は、遠い世界の果てにある幻の自然現象だ。
 要はまだ生まれて百年に満たない若い妖怪で、幼い頃、一層で働きたいという夢を抱き、二層の大学に猛勉強をして入った。地中四層にある垢嘗の多い地域、垢嘗区の世界では『あかなめ清掃』に入社して一層世界で働くという事は大変なステータスである。
「お疲れ様です要さん!」
「要さんお疲れ様ですー!」
「先輩、お疲れ様です!」
 四層、要の家の傍に設置されている『アースポール』の駅は、コンサートホール程の大きさで、商業の中心地となっている。円形の建物を囲むように賑わっている商店街で、通りがかかった後輩達に声を掛けられた。
「ああ、お疲れ」
 スーパーの袋を手に持っているにも関わらず、後輩たちはキラキラした目で要を見てくる。
 石やごつごつした岩で出来た長屋の連なる住宅地。地元の清掃会社に就職した、現場帰りの後輩達がいる景色は癒しだ。
 後輩達は近くに寄って来て、今お帰りですか、早いんですね、と適当な事を口にした。
 中学の時に同じ部活で面倒を見てから、高校受験の際は家庭教師をしてやった後輩たち。そろそろ消えてしまう年齢だ。垢嘗の中でも弱い種は、妖怪に必要な栄養分の『肝』を取らずにいると、三十年そこらで消えてしまう。だから垢嘗種は中学を卒業してすぐに働くし、優秀でも親の寿命が短かければ、高卒を卒業してすぐに働く。
 『肝』は、人が喜んだり怒ったり哀しんだり、楽しんだりしている時、妖界に落ちるエネルギー玉で、人の魂の欠片だと言われている。妖怪は、それを食して命を永らえる。
 この『肝』は現在、加工されて一定額以上の通貨としても存在し、要の給料は円にして一万円程の『肝』十七粒で支払われていた。いざとなればこれを食らう事もできるが、食品として加工された『肝』の方が美味いので、普通は通貨としてのみ使う。この『肝』は、地下二層までしか流通していない。
 命には限りがある。その事を初めて知ったのは、要が一番可愛がっていた後輩がある日、急に消えたという知らせを受けた時。
 弱い妖怪は、持って生まれた妖力が尽きると消える。
 大妖怪は、肝を取らなくても百年二百年余裕で生きるし、肝を取り続ければ永久に生きるかもしれない。しかし、妖怪には大小がある。
 四層の妖怪は、大抵が肝を摂取する事を諦め、自然に消えるのを待って生活している。その意味では、人の暮らしにより近い周期で生きていた。五十年から百年、生きられれば良い。そういう考えで居るから、誰かが突然消えても、寿命だったと簡単に受け入れる。
 それでも、要は給料の一部を四層の住人が少しでも肝にありつけるようにと寄付している。垢嘗区は、肝の味を知らぬまま、持って生まれた妖力が尽きて五十年も生きずに消える者がほとんど。それを寂しく思うのは要だけだったとしても、要は多くの垢嘗に、長生きして欲しいと考えていた。
「あ~ぁ、俺も要さんみたいに一層に就職して、沢山肝を貰える生活、してみたかったなぁ」
 別に今からでも、勉強して一層か二層の大学に入り、地上か一層に職を探せば良い、と言う言葉は何度も口を酸っぱくして言って来たのでもう言う気が起きなくなっていた。
「要さん天才だもんなぁ」
「俺も要さんぐらい頭良かったらなぁ……」
「凄いよなぁ、一層で働いてるんだもんな」
「……お前らはいっつも、そう言うよな」
 後輩達の言葉を聞き流しながら、木製の家々が並ぶ狭い路地を進む。鼠の住処のように、でこぼこした岩の長屋が見えて来た。十四の兄弟と父母が暮らしているため、長屋を丸々要家で使っている。
「せっかくだ、上がってくか?」
 ホールから付いて来た後輩達に声を掛けると、やったぁーと歓声が上がった。
 一層のスーパーで買ったものを食えるのが嬉しいのだろう。肝入りの食品も多い。
「要さんのところでご馳走になると、寿命が延びます~」
「そーかそーか、じゃぁ俺に感謝して、俺の留守にはうちのチビどもを頼むな」
 末にはまだ十にも満たない兄妹が五人居る。
 その時、こっちだ! という声がしてドヤドヤと人の声や足音が近づいて来た。よく見ると、祭りの時のように興奮した様子で隣人達も窓からこちらの様子を伺っている。
「要さん、何すか、何かあったんすか?!」
 後輩達が不安気に聞いて来るので、要もまた不安になって来た。近所の者から見知らぬ別地区の妖怪まで、数十名がザワザワと何かを期待した顔で集まって来ていた。
 見物人の声に耳を澄ませる。「天狗だってよ」「品の良い狗賓でスウツを着込んでてよ、俺ぁ後尾けたんだから間違いねぇ、浩二の家んとこ曲がって行ったんだよ」「一層のもんが遊びに来るってんなら浩二んとこが一番ありえそうだしなぁ」「誰が来てるって?」「天狗!」「本物か?!」「この目で見た」「大妖怪じゃねぇか」
 四層では、一層の妖怪が来るというそれだけの事がこんな大騒ぎになる。無邪気な同郷の者達の声を聞きながら、要は頭が痛くなって来た。
 誰が来てるって?
 誰が……。
「要さん」
 家の中から、ひょっこりと滝神が顔を出した。見物人達の間に、どよめきが走る。
「滝神さん?! どうしてこんなとこに・・・!」
 要もまた、全身に鳥肌が立つ程驚いた。
「いえ、昼間、要さんと喧嘩をしてしまったでしょう? 謝ろうと思いまして」
「喧嘩ぁ?!」
 喧嘩なんかしただろうか。滝神に要が腹を立てた覚えはあるが、滝神と何か言い争うような事はしていなかったと思う。
 そこで、「よっ、垢嘗の星!」と見物人から野次が飛んだ。「天狗と喧嘩したんだってよ」「さすが要家の浩二は違うな」「スゲェよなぁ浩二は、普段から一層で天狗とか鬼とかと渡り合ってるんだもんなぁ」「狗賓に謝りにこさせるぐらいだから、結構、活躍してるんじゃねぇか」
 恥ずかしさで頬から耳まで、赤く染まって行く。好き勝手言いやがってと胸の内で恨む。
「あの、すみませんが、ちょっとこっちで話を!」
 家の中や近くには、落ち着いて会話出来る環境がない。ぼんやりしている滝神の手を取り、家の中から外へと誘い出した。まだ、きちんと革靴を履いているので滝神は家の玄関に腰を掛けて、要を待っていただけらしい。良かった、滝神に汚い家の中を見られていなくて。
「え、でも、要さん今日は夕飯係って……」
「そうですけど、貴方が来てしまったんだから仕方がないでしょう」
 エレーベーターホールの喫茶店に入ろう。そこは改札を通らないと一般の人間は入って来れないから安全だ。
「でしたら僕、待ちますから、先に夕飯のお支度を整えてください、末の弟さんがお腹が空いたと泣きそうにしていらっしゃったので」
「母さん、悪い、夕飯明日やるから、安栗に代わりに作らせといてくんないかな」
 突然押し掛けておいて、家の事情を一方的に知り、見当違いに気遣われても腹が立つばかりだ。家の奥から、安栗は今日は塾よーと母親の声がして、ついに泣き出した末の弟の愚図り声も、うえ、うえええ、ぐす、ぐす、と続いた。
 仕方がないので滝神に困り顔を向け、両手を合わせた。
「滝神さん、申し訳ないんですがちょっとホントに、待ってて貰えますか」
「はい、もちろんです」
 滝神は心なしかワクワクしているようで、悔しいかな、四層で見かけると恐ろしく身奇麗だった。
 朝、どこにでもいる類の忘れられがちな顔だと思っていた滝神の容姿は、良く見ると優雅で目に心地よくまとまっていた。
 しみじみと滝神の向けてくれた関心に、不思議な気持ちになる。一層の狗賓が、わざわざこの四層まで、自分との小さな諍いを気にかけて来てくれた。
 改めて、自分は大出世をしたのだと思う。
「どうせなら、食べて行きませんか? 一層のスーパーで買った食材なんで、そこまで口に合わないって事はないと思います」
 声を掛けると、滝神は照れたように笑って頷き、革靴を脱いで長屋の中に入って来た。後輩達がその後に、びくびくと続く。
 出戻りの姉や、学生の妹達が一斉に黄色い声を上げたので、みっともねぇと叱り、素っ裸で取っ組み合いをしていた弟達に服を着るように指示をする。
 夕食を囲んだ妖怪の数は二十にもなった。後輩達がちらちらと要に視線をくれるので、要は溜息をついて滝神に声を掛けた。
「あの、良かったら滝神さん……滝神さんの故郷とか、これまでの暮らしについて、話をしてくれませんか? 家族や後輩が知りたがっているので」
「要さんは?」
「あ、もちろん俺も」
 滝神があまり会話上手ではない事を知っているので、無茶ぶりかな、と心配になったが、滝神はこくんと頷いた。
「……僕は、今年で約八百五十歳になります」
 冒頭から世界が違い過ぎて、父親が上座を譲ろうと腰を浮かした。それを、滝神は笑って制し眉を下げた。
「こんなお爺ちゃんですが、要さんが好きです」
 啜ろうと口を付けていた味噌汁を、ぶっ、と噴射し、横に居た姉に思い切りどつかれる。
「若い妖怪は、男女の、それも同種で子どもを作るのが普通ですから、きっと僕は酷く異端に映るでしょう……けれど、僕は要さんと土の子どもを作りたい」
 何だ?! 何が起こった?! と味噌汁の具とこぼれた汁と、椀の底を順に見て行く。わけがわからない。
「はじめて見た時から、素敵な方だなと思っていましたし、会話をしたくて声を掛けると、こちらを楽しませようと凄く気を遣ってくださる、……根の優しい方なのだと思います。それから、僕は『怪PR社』という会社で管理部の部長職にあるのですが……」
 ぶ、と今度は母親が味噌汁を吹き出した。
「あの! あの一層の! い、一流の?! ……ええ!! 聞いたことありますわ」
 何が「ええ」なのか。
「ありがとうございます、……あの、弊社が一流かどうかはわかりませんが、……僕の……管理部の部長職は、他者の観察、心の機微を察知するのが仕事でして、……けれど、僕は他者の気持ちを理解できず、検討外れな対応をしてしまう事が多かった。
 例えば、ある有能な女性社員が辞めたいと言った時、僕は給料を上げようとか待遇を良くしようとか申し出たのです。仕事の悩みがあるのかもしれないと色々悩みました。……しかし実際は同じ部署の同僚と一晩を明かしてしまい、気まずかっただけだったそうで、少し部署を移動させるだけで済む話でした。これは要さんに教えて貰い、気がついたのです」
 そういえば、そんな事もあったな、と思い出す。要の担当階が変わる度、わざわざ滝神が挨拶に来たが、必ず何か悩みを抱えていた。
「僕は要さんの、気の優しいところや、人の困っている事にすぐ気付けるところが好きです。お父さん、お母さん、僕は今日、要さんに謝るのと一緒に、告白をしようと思っています。お許しを頂けますでしょうか」
 いつの時代の男だ、おまえは。と突っ込みを入れながら、自分のこれまで何とも思っていなかったところを、美点として上げてくれる滝神に、要は少しだけ興味を持った。
「わかりました滝神さん、一回、友達からはじめましょう」
 提案すると、母親が勢い良く立ちあがって、寝室を指差した。
「あの、よければどうかお泊りになって行ってください。浩二との事は、私どもにお断りする理由などございません。
 好きに……本当、こんなんで良ければ、どうぞ、貰ってやってください。一層の方に、それも大妖怪に貰われるんなら、手塩に掛けて育てた甲斐があります。手前味噌ですけど、この浩二は本当に良い子でして……っ、出来たら、し……、幸せにしてやってくださいね」
「あ、あの?! 母さん……一旦、待って貰っていいかな、俺もこれ初めて聞いた話だからさ? 滝神さんと俺、特別親しかったわけじゃないんだよ?! ぶっちゃけ」
 混乱する家庭内を、後輩に見られるという恥と、いきなり自分が若衆のような扱いになった違和感。そして滝神がじっとこちらを見てきている恐怖が重なり、要はご飯を零した。
 おわ、と声を漏らし、片付けようとした手を止められる。
「要さん、ここは自分が! ……要さんは、さぁ、どうぞ、天狗とお幸せに!」
 ささっとやって来た後輩に、とんでもない気遣いをされ、思わず「バカヤロウ違ぇ」と怒鳴っていた。生活の基盤が、めちゃくちゃに踏み荒らされ、混乱する。
「要さん……」
 滝神がぐっと身を乗り出して来たので、思わずきっと睨みつけた。
「好きです」
「今!! 言わないでくれますか!! 空気読んで!!」
 思わず怒鳴ると、困った顔で停止した滝神に、八百年も生きて来て、恋愛スキル低過ぎだろと心の中で突っ込んで席を立つ。
「何もかもが急すぎます、ちょっと考えさせてください」
 後ろで、「お母さん、あたしも二層の大学に入って一層で働く!」という妹の決意の声がした。「俺も」「私も」とわらわら下の兄妹達が手を上げるなか、何故か要は暗い気持ちになった。どんなに頑張って一番良いと言われてる道を辿っても、いくらでも上には上が居るんだぞ……。地上から遠すぎて、光が遠すぎて、何も見えていない家族が哀れに思えた。
 八百年って何だよ想像も出来ないよ、と呟いて玄関に蹲る。外には野次馬が大勢居て、要には自分の部屋が存在しない。一つしかないトイレを占拠したら家族が困るので、どこにも逃げ場所はなかった。
 追って来た滝神が心配そうに覗き込んで来るのを感じ、また耳に熱が集まる。
「要さんに名刺を渡した事、最初に渡した時の事、忘れてたわけじゃないんです。要さんから、メールが来ないので、捨てられてしまったのかと思ってました。だからまた渡そうとしたんです」
「メールなんかしないですよ、ただの挨拶で名刺くれた人に」
「……それでは、何をしたら僕は要さんの連絡先を頂けますか。精一杯、頑張りますので、教えてください」
「連絡先ぐらい、フツーに教えますよ!!」
「えっ……?! そんな簡単に! 良いんですか?!」
 滝神は少し興奮して、ぐいっと要に近寄った。滝神のすっきりした顎のラインや、意外と骨太でがっしりした体格がすぐ目の前に迫り、息を呑む。何か良い匂いが。……距離が近い!
「つーか、意味わかりません、……いきなり何なんですか、やめくださいよ、家族の前であんなこと……! うちの母さん単純なんで、すっかりその気ですよ?! ……その、俺たちの事」
「結構ですよ、今日はそのつもりを伝えに来たので」
 そのつもりって、どのつもりだよ。……結構って何が。
 ……いやいやいや。
「結構じゃねぇよ!! 男同士だぞ!!」
 相手が大妖怪だとか、大口取引先だとか、気にする余裕もなく怒鳴っていた。これで滝神が気を悪くして『あかなめ清掃』を切ってしまったら。
 考えると胸が苦しくなったが、今更、後に引けない。
 数秒の無音。要はもう謝りそうになっている口に、拳を当てて耐えた。謝ったら負けだ。
 そろりと、頭を撫でられて顔を上げる。困ったような顔の滝神が、気恥ずかしそうに笑っていた。
「男を好きになってはいけませんか?」
「……俺、は、……女が好きなので」
「それでは、僕は例外として扱って頂けるよう努力します」
 努力で何とかなる問題かよ。と心うちで突っ込みを入れつつ、要はやっと落ち着いて来た頭で、滝神への突っ込みと自分の考えをまとめた。
「滝神さん、……あの、失礼ですけど、……まず、……」
「はい」
 滝神の人柄を信じ、ここは正直に行こう。男同士がどうとか、そういう問題以前に……。
「……そもそも、俺と貴方は生きて来た世界が……、違い過ぎるというか、……つまり、その、貴方のアプローチ? の方法が俺には、……想定外過ぎるというか、ぎょっとする、というか……」
「はぁ……」
 曖昧な声色。ピンと来ていない顔だ。
「一応、俺はこれまで、女の子に対して……、その……。メールを送ったり、小まめにデートのお誘いをかけたり、ホテルの予約をしたりして……、仲良くなってから、というか、まず二人きりの状態で気持ちを確かめあって、……それから、はじめて家族に挨拶とかするような仲に……なってきた、というか……、まだ挨拶まで行った子はいないんですけど、……何て言うか、そういう段階を……」
 踏まえてから……。
「……わかりました、全てやりましょう」
 いや、違う! 要求じゃねぇ。喩えだ。
「なんで、そうなるんですか?!」
「僕は貴方のためになら、何でも出来ます……ずっと、焦がれていたんです」
 一瞬、意識が遠くに行ったのは現実逃避の他、真っ直ぐな滝神の言葉と声、視線が胸に迫ったから。
「ぁ、……ありがとうございます」
 思わず感謝してしまったのは、幸福だったから。要そのものを肯定する存在の、尊さに圧倒された。急に、滝神が要にとって大事な男のように思えて混乱した。
 あれ、何だろうこの流れ。
「あっぱれ!」
 と声がして玄関が勢い良く開いた。集まった人達の数は減るどころか増えていた。
「すげぇことになったぞ!! 要家の浩二は天狗と番になるってよ」「男同士なんて、大妖怪みたいだな!!」「こういうの何つぅんだっけ」「衆道」「そう、衆道だぁ!!」「念者が男役で若衆が女役で、……浩二はどっちだ?!」「若衆じゃねぇか?!」「天狗を抱くのはさすがの浩二にも荷が重いだろぉ」「そーだよなぁ、なんてったって、天狗だもんなぁ」「四層の生まれで天狗と契るたぁなぁ」「玉の輿だ」「いやぁ、めでてぇ」「良かったなぁ奥さん、苦労して育てた甲斐、あったなぁ」「お幸せになぁ」
 青ざめた要と嬉しそうな滝神と、あっけにとられている家族と、無遠慮に玄関から声援を送る近所の人々と、後に引けない状況。
 ち、……違う。違うんだ。
「お疲れ様です要さん」
 後輩達から、声の揃ったお疲れ様を貰うと、どっと疲れが増した。疲れ過ぎてわけがわからない。要はこの日、滝神とメル友になったと同時に、地元の有名人になった。


2016/7/20

『つちのこ』(不妊に悩む妖怪カップル、堅物×健気)

 今日の朝も産声を聞くことなく、気まずい思いで寝床を出た。
 大河童種の大賀九郎は、冷えた朝の寝室で服を身につけながら、大きな溜息を吐いた。白い息がシャツのボタンをかける自分の手に掛かる。
 どうして、と口の中で作った声を飲み込む。
「今日も出来んかったなぁ」
 後ろから、連れ合いの川男種、川魚和平の小さな呟きが聞こえ、九郎はいよいよ居た堪れなくなり寝室を後にした。

 二百年の時をかけ、川男種の川魚和平を口説き落とし婚姻したは良いものの、祝言を上げてから五年。まだ子に恵まれていなかった。焦るには早いとは思うが、悩みは年々深まっていく。 
 種の違う男女、または同性同士の妖怪は土から子を成し、土から出来た子を土子をつちのこという。この土子を授かるためには『宝箱』と呼ばれる土を詰めた箱の上に夫婦で眠る必要があった。
 二人の妖力が混ざりあい、土子が出来ると土から産声が聞こえて来る。
 九郎と和平はこの五年、宝箱の上で眠り続けている。

「いってらぁ」
 いってらっしゃい、を縮めて玄関の柱に寄りかかり、見送ってくれる和平の顔は穏やかだが、落ち込んでいるのは確かだった。
 昨晩は随分しつこく抱いたのだが、駄目だった。
 土子、出来るといいなぁと眠る前に呟いた和平の疲れた声を思い出す。妖怪と妖怪の間に子が生まれる原理は、妖力が混ざり合った現場に土があるという条件のみだ。これが揃えば、ただの土の上で強姦が起こっただけで子が出来る。滅多にない事ではあるが、下手をすると土の上で相性の良い妖怪が二匹寄り添って眠っていただけで子が出来る。何が良い悪いではなく、妖力が混ざり、それに土が反応するかどうか。
 しかし、溺れる者は藁にもすがる。九郎と和平は、特別な良い土を取り寄せて、その中に互いの体の一部を混ぜ合わせ、反応をしやすい土作りをきちんと行い、土を詰める『宝箱』だって職人に特注で作らせた。
 性交も頻繁に行っている。
 これだけやって、子に恵まれないのは何故なのか、どちらかに愛が足りない所為だろうか。互いに想い合っている事も、子作りにはプラスに働くとどこかで聞いた事がある。外堀を固め過ぎて、あとは内側、相手の心を疑うという局面に来てしまっていた。

「おはよう」
 住処である上野の、不忍池地下一層から地上に出て、人の世の交通網、東京メトロ銀座線を使い会社に向かう。毎朝、車両で顔を合わせる営業部の野平紀彦に声を掛けると、野平はアアと人好きのするの笑みを浮かべ、おはようございますと応じた。
 浅草の雷門にある飛穴を目指し、三駅。野平は赤坂見附から乗って来ており、いつも車両の中程に立っていた。混雑した社内では、知り合いと出くわしても挨拶を交わすのみになる。人だけじゃなく、妖怪も乗り込んでいる社内の空気に、毎朝の事だが息苦しさを覚える。
「もう年末だな」
 電車内、駅構内、街中の広告は師走の行事をあらゆる角度から盛り立てていた。地下鉄を降り、雷門に向かう道すがら、隣を歩く野平に向かい当たり障りのない事で声を掛けると、今年も早かったですねぇと当たり障りのない返事があった。
「昨年も早かった」
「はは」
「来年も、再来年も、きっとあっという間に終わる」
「一瞬でしょうね」
 あとまた五年経っても、九郎と和平の間に土子の恵みがなかったら。次の年は必ず、次の年は。と意気込みながらもう五年。
「焦るなぁ……」
 ぽろりと漏らした言葉に、野平はこちらをちらりと見た。
「お子さん?」
 さすが、察しが良い。
「努力はしているんだが……」
「こればっかりはご縁ですからね」
 誰もがその一言で片付けてしまう九郎の悩み、その一歩先の言葉が欲しくて、九郎は沈黙した。何と愚痴れば良いのか。どんな言葉を掛けて欲しいのか。結局、他人にはどうする事も出来ない問題だ。
 ふと、野平が空を見た。
「良い天気ですね」
 野平につられて上を向いたら、頭に、こーんと何かすっきりするものが通った。
「えぇ」
 冬のはっきりした青空が、ただただそこにあった。
「色々試して駄目なんでしたっけ」
「やれる事はやったと思う、一通り」
 何か、新しい答えを得られるような気がして、何時の間にか胸がどきどきしていた。
「話を聞いていて、前からひとつ心配してたんですけど、九郎さんも連れ合いの方も、疲れちゃってませんか?」
 野平はもう上を向いてはおらず、真っ直ぐ前を見て話をしていた。
「休憩してもばちなんか当たりませんから、一旦宝箱の上から降りて、普通にお休みする生活でもしてみたらいかがでしょう」
「それは……」
「結婚した二人が必ず土子を育てなきゃいけないっていう決まりがあるわけでもなし、物理的な努力をし過ぎて、今度は精神的な面というか、お互いの気持ちとか、疑い始めちゃったら良くないですから」
 まったくその通り。
「野平、おまえ」
 凄いな、と言おうとして雷門に着いてしまった。

 午前中は皆、情報の収集で席を外している。営業から降りてきた仕事のまとめ、リサーチ書類や上がって来た情報を分析した上で、提案書類の作成を行うのが九郎の所属する企画部である。
 企画と名はつくが、実際は書類作成部であるため、部内は基本的にシンとしている。
「おはようございます」
 朝の会議の時間になり、営業部から牛鬼が一番にやって来た。営業が取って来た仕事に必要な書類の作成、提案に必要な情報の共有を行うための会議が毎朝開かれている。おはよう、おはようございまぁす、と営業の人間が次々と入って来て、部内が急に活気づく。目に見える物を売る会社では、企画者や生産者が幅を利かすが、目に見えない物を売る会社では営業が幅を利かす。九郎が経験で知った会社の傾向に沿い、広告やイベントといった目に見えない物を売る、この『怪PR社』では営業部が一番の花形職種だ。
 営業部から、最近流されて来たばかりの部下、天狗種の玉天狗が、面白くなさそうに席を立つのが見えて不安を覚える。玉天狗は営業の内部事情を知っている分、営業の言う事を鵜呑みにしない。
 無駄な仕事をさせられなくて済むようになり、助かったという声もあるが、営業が求める情報や書類の作成に、いちいち反論する玉天狗がいると、会議が時間内に終わらず、話がまとまらない。
 利益を出す動きは、時間との闘いである。仕事を取って来るのは営業であり、仕事がなければ利益は出ないし、会社のためにならない。自分たちの仕事量が無駄に増えるのは避けたいが、あまりそれをやり過ぎると営業の足を引っ張る。
 企画から出た事のない九郎ではあるが、相手の状況を判断するだけの経験は積んで来ている。玉天狗には何時かのタイミングで忠告しなければならない。
「今日もお集まり頂いてありがとうございます。まずは進捗報告から入ります」
 ブラインドを半分まで下ろした窓から、朝の光が差し込む中会議室で、大型のイベント案件に向けた情報共有会議が始まった。九郎は企画部の新聞・雑誌広告チーム、チームリーダーをしている。
 営業部の取って来た大きなイベントの広告を、新聞・雑誌広告で出すか交通広告で出すかで荒れ、やっと先週、交通広告チームからもぎ取った仕事であり、やり甲斐のありそうな大型案件だった。
 玉天狗には、この案件についての会議では一切口を開くなと言ってある。幸い、担当の営業マンは元玉天狗の部下である第二営業部の牛鬼だ。玉天狗の我侭に免疫があり、簡単に気分を害したり、冷酷に仕事を打ち切ったりしない。少し不満そうな顔をしていた玉天狗が、九郎の言い付けを破り何か言っても、後で九郎がフォローを入れれば何とかなる。
「あ、それと今回、営業部の本部長が姫鬼さんから赤鬼さんになりまして、ちょっと方針転換というか、大型の案件会議には定期的に赤鬼さんが同席する事になりました」
 ヒヤリと背に汗が滲む。強面の鬼種、赤鬼は常から怒り狂っているような赤ら顔で、性格も短気でワンマン。こうと決めたら頑として動かないところがある。赤鬼が同席する日には、玉天狗には理由をつけて席を外していて貰おうか、などと考えていたら会議室に赤鬼が入って来た。
 何っ、という声が思わず口から出そうになり、きゅっと唇を引き結んだ。代わりに数人の女性社員が小さく、え、と呟いたり、嘘、という声を上げた。
 赤鬼はぎらついた眼光で会議室内を舐めるように見回すと、営業本部長の赤鬼だ、宜しく頼む、と地の底から響くような恐ろしげな声で簡単な挨拶をし、牛鬼の横に座った。
 その日の会議は、生きた心地がせず、分かり易い牛鬼の進捗報告も頭に入って来なかった。何も言うなよと始終玉天狗を睨んでいたために、禄に質問や提案も出来ず、午後の仕事も進みが悪かった。
 玉天狗を早く何とかしないと、計画半ばで切られる事もあり得る。昔、赤鬼がまだ第一営業部の一営業マンだった頃、九郎は今の玉天狗と同じように、余計な仕事は押し付けてくれるなと強い口調で赤鬼とぶつかった事がある。結果、赤鬼は計画の三分の一が進んでいた状態で、新聞・雑誌広告チームを見限った。しかも、新しく組んだネット広告チームで目覚しい業績を作り、ネット広告チームを三名だけの弱小チームから今後力を入れていくべき新鋭チームへと格上げさせ、自分も部長職に就任した。
 大型の案件をやり損ねた新聞・雑誌広告チームは、ただでさえ右肩下がりの成績をさらにがくんと下げる事になり予算を削られてしまった。

「元気ないねぇ」
 上から声を掛けられ、見上げると和平の柔らかい笑みがあった。和平は自宅で翻訳書類の仕事をしている。朝、仕事に行き、夜に帰って来る九郎と違い、和平の仕事にはハッキリした区切りがない。机に向かって書類を書いている時はハッキリと仕事中とわかるが、翻訳する対象の洋書を読んでいる時の和平は、仕事中なのか休憩中なのか判別しにくい。そんな和平に触りたい時、九郎は一応一声、今、仕事中?と声を掛ける。今日は悩み中、というどちらとも取れない返事を貰ったが、甘えたい気分だったため、風呂から出て乾かしたばかりの頭を、和平の太腿にさっさと乗せ、目を瞑った。
 仕事中だから、と追っ払われるのを畏れ、声を掛けずにいたら、頭を撫でられた。額にある河童種の皿は、犬の鼻のように常に湿っている状態が健康的なのだが、今日は乾いていたようだ。皿の乾きを見て、和平は心配そうな顔をした。
「顔でも洗って来たら?」
 顔を洗えば、額に水が掛かる。
 皿の乾いた河童が、自分に元気をつけるためにやる事は、顔を洗う事である。九郎は風呂から出たばかりであり、顔は洗ったばかりであり、水が皿に定着しなかったのは、気持ちが沈んでいたからだ。
「洗ってもどうせ湿らない」
「じゃぁ、濡れ布巾でも被せようか?」
 額の皿に、濡れた布巾を被せるという方法は、弱っている河童には一番利く体力回復の方法だ。
 しかし、それをお願いすると和平の腿は逃げて行く。一時でもこの腿と離れたくないという気持ちから、いらん、とぶっきらぼうに返事をしていた。
「弱ったら額に布巾を乗せるって、人間みたいだよねぇ、河童って」
 逆だ。人間が熱を出した時に額に布巾を乗せるのを見て、何を河童の真似事をしているのかと思った九郎にしてみたら、まったく逆転の発想である。
「そうだな」
 しかし、敢えて反論をするのもどうかと思い応じると、和平はくつくつと笑った。
「逆だ、って言いたげな顔してるねぇ」
「事実逆だ」
「うんうん、人間が河童の真似をしたんだよねぇ」
 和平はいつも、九郎が呑み込んだ言葉を探し出し、受け止めてくれる。それが嬉しくて心地よくて、和平のいる空間が常に傍に欲しくて和平に婚姻を迫った。
 和平との土子が欲しかったわけじゃない、和平を傍に置ける理由が欲しくて婚姻を迫ったのだ。
「俺達さぁ、お別れしようか」
 それなのに、どうしてこんな言葉を吐かれたのか。
「どうして」
「土子も、出来ないし」
 土子を作ろうなど、言わなければ良かった。誤解を生んでいる。
「土子なんかいらん」
 吠えるように叫ぶと額の皿に水が沁みた。少し痛いのは塩辛かったせい。和平の涙である。
「もう無理だ、俺ねぇ、あんたといるのが苦しくなっちまったんだ」
「和平……」
 起き上がろうとしたが体が動かない。どうしてだ、悪いところは全部治す、だから俺を捨ててくれるなと和平の肩を揺さぶってやりたいが、恐怖で息さえも止めてしまっている自分がいた。
「あんたがそばに居るだけで幸せって最初は思ってたんだけど、段々、……その、欲しくなって来て、土子……、そしたらどうしても手に入らない今の状況が、……辛くなって来ちまって」
 二兎を追うものは一兎をも得ず、とは良く言ったものだ。和平の辛い涙を吸った皿がじくじくと痛い。九郎は和平が居れば、これからもそれで良いと思っているが、和平は違うのである。
「欲しいものがさぁ、手に入んない状態ってのは、存外辛いんだねぇ」
 石になって、和平を見つめている九郎の頬や、肩を撫でながら和平は言葉を続けた。泣きながらである。愛しい和平に涙を零させている、という事実。和平の涙が落ちて来て、額や目の下に当たる度、九郎の胸は斧で叩かれたような衝撃で押し潰れ、ぺしゃんこになる。
 土子などと言い出さなければ、目一杯外堀を固めなければ、どこかに逃げ道を作っていれば、何か違っただろうか。例えば土はそこらへんの土にしておけば、土が悪いんだと土のせいに出来た。
 いや、そうしたらすぐにその土を良い土に変えるだろう。結局、あらゆる努力をしてしまう程、二人は土子が欲しかった。
「和平……」
 掠れた声が出た。
「俺が嫌いになったのか」
「違うよぉ、そんなわけないじゃないか、嫌いになれたら苦労しない、嫌いじゃないから困ってるんだ、あんたとの間の土子が、欲しくて欲しくて仕方がない程、あんたが好きだから辛いんだ」
 ぎゅっと目を瞑って、涙声を出す和平を、やっと起き上がって正面から抱きしめた。
「嫌いじゃないなら考えてくれ、俺を苦しめないでくれ、俺はおまえと別れたら不幸になる、頼むから傍に居てくれ、もう宝箱の上で寝るのはよそう、期待を裏切られ続けるのはやめにして、安らかに過ごそう、俺達には休息が必要だ」
 自分本意過ぎる説得だった。和平からの返事はなく、不安がぐんぐんと体の内側を埋め尽くす。欲しいものとは、和平が欲しいものは、本当に九郎との間の土子だろうか。そもそも和平は土子にどんな期待をしているのだろう。
「土子が出来たら、いつも家にいるおまえにばかり苦労をかける事になるし、安定させ損ねて死なせてしまったら俺達はもっと辛い思いをする」
「あんたは俺にばかり苦労させるような事はしない、あんたの事を信じているし、安定させ損ねて死なせるなんて、そんな事は絶対にないよう注意するよ、仕事は一回ストップして、土子につききりになったって良いんだ」
「おまえ、……そこまで」
 言ってしまってから、しまったと思う。何か悪い事を言ったつもりはない、ただ思いのほか和平が土子を欲しがっていた事に驚いただけだが、直感的に、今の言葉が失言だったと悟り唾を飲んだ。
「やっぱり、あんたの気持ちが入ってなかったんだな」
 和平の声は低かった。
「可笑しいと思ってたんだ、俺がこんなに欲しいと思ってるのに、あんたは俺と気持ちよくなれりゃ良くて、俺との間に土子が欲しいなんて、あんまり考えてなかったんだ、そうだろ」
 そんなわけないだろう、と言いたかったが、今は何を言っても無駄だろう。しかし、腹が立つ。
「少し頭を冷やせ」
 抱きしめていた和平を突き放すと、九郎は風呂から上がってから着込んだ寝巻きを脱いで、分厚い冬着の和装を身に付け、家を出た。
 愛しい和平からなじられる事に耐えられなくなったのと、和平の言葉によって生まれた怒りが思いの他強く、何かの間違いで、もし、和平に暴力を振るってしまったら嫌なので、和平から離れようと思ったのだ。
 少し頭を冷やせという命令は、実は自分に向けて言い放った事だった。

 地上に出ると夜の上野、不忍池ほとりは人間の恋人達で溢れている。足元に絡まる木枯らしに、転ばされるような気持ちになりつつ、街に出た。アメ横の居酒屋、その隅に腰を下ろすと妖怪店員がお通しを持って来た。
鬼ころしを……、それと、」
 酒を頼み、それからメニューの中から適当な、つまみになりそうなものを指差して、これをと注文して懐に財布を確認する。
「うっ!」
 財布がない。
「待て、財布がない、今のはなしだ、出直す」
「良いですよ旦那、常連さんが元気ないのをほっといちゃ店が廃る、今日はつけときます」
 店員がにっこりと微笑んで、親切を言うのに涙が出そうになった。
「うちの旨いもんで、心を取り戻してくださいね」
「……俺はそんなに沈んで見えるか?」
「お皿がからからで白くなってますよ」
 何、そんな恥ずかしい状態に? と思わず皿に手を当てると、少しは湿った感触があり、店員にからかわれたのだとわかった。
「おい」
 ばつが悪くなり、叱った声を出すと店員はククク、と声を上げて足取り軽く去って行った。
「九郎さん」
 その店員の向こうから、聞き覚えのある声がして、顔を上げると和平が、息を切らしてそこに居た。
「財布忘れてったろう」
 九郎が恥をかかぬよう、走って追って来てくれたのだ。
「和平」
「あんたは俺がいねぇと、どうしようもねぇな」
 実はつけでどうにかなりそうだったのだという言葉を飲み込む。
「助かった、今、注文してからねぇのに気がついて」
「うん」
 和平はにっこりと笑った。それから、九郎の向かいに座ると先程の店員にこの人と同じの、と声を掛け、息を整える。
「あのさ」
 和平は段々と、落ち着き始めた息を吐き出しながら、声を掛けて来た。何を言われるのかと少し身を堅くしていると、和平は苦笑した。
「さっきは悪かったよ、酷い事言った」
「いや、俺も、言葉が足りず……」
「その事はもう良いんだ。ぜんぶ俺の八つ当たりだったんだから、それで、ちっと頭冷やして気がついたよ、九郎さん、俺はね、寂しいだけだったんだよ、あんたの事を前より好きになったせいで、あんたと一緒にいる時間がもっと欲しくなった。だからあんたの血を引く土子をいつも傍に置ける環境が欲しかった。……あんたを失っちゃこの寂しさはもっと増す」
「……和平」
「それでさ、お願いがあるんだけど、俺、午前中は川越で仕事する事にしたよ、作業場借りてさ、それで昼飯を一緒に食って貰う」
「昼飯……」
「会える時間をちっと増やして貰う、そしたら、大丈夫んなる気がする」
「そうか」
「でさ、あんたが疲れてなければ、宝箱の上で励むのは、まだ続けとこうよ、だって、もしかしてって事はあるかもしれないだろ、確率の問題だ、いちいち期待しなけりゃ疲れないよ、な?」
 いいだろ、と軽やかに甘えた声を出す和平の頬を触る。涙の痕を拭うと、ぱちぱちと瞬きをして、和平は少し照れた顔になり、やたらと可愛かった。柳まゆの下にある、短くて細かい睫毛に縁どられた猫目が色っぽい。見つめていると引き込まれる。
「食べたら帰ってしよう」
「昨日したろ」
 週一ぐらいに、と決めていた性交についての取り決めに歯向かうと、和平は赤くなって反論した。

 土子の事で悩むのは一旦辞めよう。和平と過ごす時間を、大切にしよう。そして、玉天狗に悩まされている仕事の件については、家庭の件でお世話になった野平に、一度相談でもしてみよう。察する察してもらう、という動きにばかり、自分はこれまで頼りきりだった。こちらで思っていた事と、違う事を考えているのが他人である。

 明日、また朝の通勤で野平と出会うのが待ち遠しくなった。


2013/12/01

『夏の陰色』(正義感の強い人間+美しい妖)

 初客を取らされようとしている陰間が、戸にへばりついている。
 嫌だ、お父さんお母さん、嫌だ、嫌だよう。
 陰間の泣き叫ぶ声が耳に響き、明岐(あかき)は唇をぐっと口の中に挟み目を瞑った。今年元服したばかりの明岐の目には、客取りを嫌がる少年が友達のように映った。
 一方で、明岐の前にでんと座っている亀 長蔵(かめ ちょうぞう)という男は、陰間の悲鳴に一切動じず覚書をしげしげと眺めていた。時折、面白そうに口端を上げて明岐をちらりと見ると、傍に仕えさせている若い男に何事か耳打ちしてクツクツと笑う。何て居心地の悪い茶屋なのか。
 明岐はソワソワと胡座の足を組み直した。

 雨季に入ってから立て続けに陰間殺しが起き、芳町では、この陰間茶屋からだけ、まだ被害者が出ていない。各店、一番人気ばかりが襲われるので、茶屋同士の諍いという線を、明岐は疑っている。

 嫌だぁー、と少年のひときわ高い叫び声と共に、大人たちが戸にへばりつく少年を力づくで剥がすのに成功した。
 気がつくと軒先の雨が止んでおり、強い日差しと蝉の声があたりを覆っていた。戸に掴まる少年が見せたあの粘りに似た、長い梅雨がやっと夏に席を譲ったのだ。明岐は耳を澄まし、少年の悲鳴が廊下の奥に消えて行くのを見送った。
「あいつはまだ使えねぇな」
 ふいに、亀が口を開き、傍に居た男をゆるりと見た。
「客が可哀相だ、おまえ、代わってやれ」
「はい」
 よく見ると、亀の横に正座していた男は、小奇麗で華奢だった。
 そうか、こいつ陰間だったのかと気がついて、明岐は不躾な目を男に向けた。男は明岐の視線など気にも止めず、亀に切ない顔を向けていた。
「でも、私はもう二十年も前に卒業した身で……」
「祥(さち)、今日は予約が多くて他の奴ァ使えねぇ。おまえしか居ないんだ」
 亀が祥の言葉を遮るのと、明岐がぐっと眉間に皺を寄せるのは同時だった。二十年、とは。聞き間違いだろうか。祥と呼ばれた男は、あどけない顔つきや皺一つない目元や口元、咽喉など、まだ十代と言われても頷けるような井出達だ。男娼だから若々しく見えるとか、そういう域を超えている。二十年と、確かに言った、祥という男は今いくつなのか。
「おまえに相手して貰えるなんて、今日の客はついてるな」
「はい」
 亀にやんわりと圧力を掛けられた祥は、不満気に、じっと亀を見た。その手が亀の膝にそっと乗せられたのを見て、明岐は家に帰りたくなった。祥は悲しそうな顔で亀を睨んでいるが、亀は素知らぬ顔をして、祥と目を合わせようとしない。すると不意に、祥がポロポロと目から涙を零した。そこでやっと亀は祥の方を向き、祥の頭をそっと撫でた。
「祥……?」
 叱るようなあやすような、曖昧な声色。
「貴方は意地悪です、私が貴方に逆らえない事を知っていてっ」
 祥は、亀を愛しているようだ。
 確かに亀は押出の良い色男だが、本来、祥が愛を向けるべき対象は己の子を孕んでくれる女人だろうに。
「嫌なら俺が代わってやるぞ?」
「それはお客様が可哀想です」
 ふざけた亀の膝をパンと叩きながら祥が言うと、どっとその場に笑いが起こった。大柄で男らしい亀に相手をされては客が可哀相だと明岐も思った。
 部屋には明岐を含め、五人の男が座って居た。
 亀と祥、明らかに陰間ではない厳つい顔の壮年の男と、老人。壮年の方はこの陰間茶屋の主人で、老人は番頭、亀は仕込み屋と名乗ったが、実質この店を切り盛りしているのは亀であると、明岐は確信していた。
 老番頭と主人が、何か話をする度に一々亀に伺いを立てるためである。遜っている様子ではないが、まるで頼りにしている父に意見を確認するようだった。
 一体、この亀という男は何者なのか。
 と、そこで豆腐売りの声が外を通り過ぎ、明岐は時の経過に気がついた。
「ええい、おまえら、事件に関係のない話は後でしろ」
 冗談の飛んだ場は和んでいたが、明岐は御用の件で来訪したのである。
「ああ、そうでしたね旦那、申し訳ねぇ」
 店主の壮年男が口を開くと、フゥフゥと息を吐くように笑っていた老人もヘコリと頭を下げた。
「良ければ、お詫びに只今の売れ残り、亀を抱かせますが」
 冗談はまだ続いていたようである。老人の囁きに、亀がオイと突っ込みを入れた。改めて亀の顔を見ると、なかなかに整っている。体こそごつく男らしいが、なくはないのかもしれない。
 ふと想像して、ぞっとした。
「き、気色の悪い事を申すな!」
 慌ててその申し出を撥ね付けると、どっ、とその場にまた笑いが起こった。すっかりからかわれ、明岐は顔面に熱が溜まるのを感じた。
 不意に、赤くなった明岐の頬を、そよっと涼しいものが撫でた。
 風通しの良い土地のようだ。先程から夏のしめった室内を冷えた風がひっきり無しに裂いて行く。明岐は涼しい風に心地よさを覚え、天井を仰いだ。そしてぎょっとした。屋根裏からこちらを除く、白髪の美しい男が居た。男は明岐と目が合うと、ふっと姿を消した。追って、ずらされた天板の隙間が、すーっと音もなく閉じられた。
 あぁ、また見てしまった。と、明岐は苦々しく視線を戻した。明岐は幼少の頃より、人ならざる者を見つけやすい。
「さてねぇ明岐様、うちも陰間を扱う商売をしてるから、今度の事、他人事とは思えねぇ、しかし今日は祥のような古株まで駆り出される有り様で、もし何かありましたらすぐお知らせに上がります、それで、今日の所は」
 邪魔だから出て行け、と丁寧に言われたのだが、しかし明岐はここを動くわけには行かなかった。父の代から贔屓にしている岡っ引き、今年還暦を迎えるベテランの留吉と、隠居した父が言うには、この陰間殺しの下手人は亀なのである。亀から目を離すわけにはいかないのだ。
 さて、どうしたものかと眉間に皺を寄せた明岐の耳に、留吉の甲高くしわがれた声が蘇る。
『まちげぇねぇよ明岐の旦那、下手人はあの亀って野郎だァ、まずあの野郎の店からは死人が出てねぇし、野郎には黒い噂があるんで』
「時に亀、おまえ、神通力を使うそうだな?」
 試しに明岐は亀に揺さぶりを掛けるため、核心に迫る事柄を挙げてみた。
「あン?」
 亀に話しかけながら、留吉の言葉を反芻する。
『要は、奴が化物だって事が分かりゃ良いんです』
 陰間たちは皆、体から全て血を抜かれて死んでいたのである。
『旦那、一回しか言わねぇんでよぉく覚えておいてくださいよ、あの亀の野郎は、世にもおぞましい胸突きっつぅ技を遣うんでさ。これが、血抜きにどう関係してるかは知らねぇが、亀がそういう人間離れした技を使っている事実、これさえありゃこっちの勝ちでさァ。』
「胸突きと言ったか?骨を砕き肉を内側から捻る恐ろしい技だそうだな」
「ははァ、成程、怪談ですね、俺に似た誰かがそんな技を使って市井を騒がせているなんてなァ、怖いねぇ旦那、旦那もお気を付けくださいよ」
「亀、もう一度聞くが、おまえは……」
 質問の声を強くすると、亀と明岐の間に、老人の番頭が割って入った。明岐に対し、老人は両手をついて、深く頭を下げた。
「お役人様、お言葉ですが、うちの亀はただ喧嘩が強いだけでございます、負けた相手が誇張して言いふらしているんでしょう、そうに違いありません」
「なぁ明岐様」
 気がつくと、亀がすぐ横に立っていた。
「近頃、俺の周りを嗅ぎまわってた狗野郎に、何を言われたか知らねぇが、人の手じゃ俺を捕らえる事ぁ出来ねぇよ、俺ぁいつでも姿を消せるし好きな時に現れて商売が出来る、町役人に都合出来るレベルの坊主なんかにゃぁ手に負えねぇぐらいには歳も食ってる、悪い事ぁ言わねぇ、狗を変えな、真の下手人をとっ捕まえろ、……俺に喧嘩売って痛い目見るのはあんただぜ」
 老練な侍のような、澄んで力強い目をして、亀は明岐に、鋭い言葉の針を刺した。明岐は緊張して、唾を飲み込んだ。
「なぁ、あんたぁホントは立派な方だ、せっかく人生やってんだ、楽しんで過ごしたいだろう」
 いつの間にか、また軒先が雨に濡れていた。激しい通り雨に叩かれ、庭石がプツプツと鳴っている。見送りましょう、と有無を言わさぬ口調で言われ、明岐は嫌々腰を上げた。
 通されていた奥座敷から玄関に出る際、亀は飾り付けられたあの少年を見つけると、下げろという指示を出した。そして、脇に控えていた祥に目配せをする。祥が消えると、廊下を歩くのは亀と明岐の二人になった。店主と番頭は奥座敷に残っており、明岐を見送ったら亀もまたそこに戻り、今度の事について話し合うのだろう。
「……亀、おまえは人ではないのか?」
 玄関を出る際になってやっと、明岐は先程流してしまった事を拾った。しかし、亀が人で無かったとして、下手人であるとも思えなかった。亀は無実だ。先程のハッキリした忠告。己では無いと言い切る亀の目は、嘘を言っている者の目ではなかった。
「どうしてそう思いますんで?」
「先程、おまえが自分で言っていただろう」
「旦那には、隠していてもわかってしまうでしょう」
「何?」
『亀』
 そこでふいに、足元から声がして、見ると玄関の滑らかな踏み石がガラスのように透けて、その中にあの白髪の男が居た。男が水から上がるように、にゅっと踏み石から出ると、明岐はどっと全身に汗を掻いた。
「何だおまえは?!」
『ツル』
「鶴?」
『鶴種のツルだ、鶴と呼べ』
「おぉ、鶴、良い所に」
 異形の登場だというのに、亀は涼しい顔で鶴に声を掛けた。
『何が良い所だ、紹介しねぇで帰す気だったろう』
「そんな事ねぇよ、今紹介しようとしてたろう?」
 亀はどうやら、誰に対しても飄々としている男らしい。鶴はチッと舌打ちをしてから、明岐に向き直った。
『赤ノ旦那』
 明岐の真ん前に立った鶴は、はっと息をのむ程美しかった。こういう奴が相手なら、男も良いかもしれない、などとぼんやり考え始めた明岐に、鶴はさらに顔を寄せた。
『あんたに頼みがある』
「……頼み?」
 茶屋の裏口玄関は日陰で、真夏にも関わらず鳥肌が立つ程冷えている。隣接する長屋には人気がない。
『うちのガキが死にかけてるんだ、助けて欲しい』
 しっとりして柔らかそうな頬や、滑らかな額の曲線、ふわりと赤く膨らんだ唇がこちらの欲を掻き立てるような顔立ちをしている。白い睫毛は一本一本がすぅっと横に倒れていて、端で揃い目尻を長くしていた。
 明岐は鶴に知られぬよう、口の中に溜まった唾をこくりと飲んだ。見ていると、妙な気分になって来る。滑らかな肌は、首や胸元、着物の裾から覗く小さく形の良い手の甲など全て、輝くように白い。きっと手を触れてみたら絹のような、うっとりする感触なのだろう。まるで、細かく丁寧な職人仕事によって作られた人形が、目の前で動く不思議さである。
『俺だってせっかくお休み中の旦那に申し訳ねぇ気持ちはあるんだ、けど、青ノ旦那に勝てるのは、赤ノ旦那だけだ』
 ふいに、青という単語のみが明岐の胸に響いた。そして、何故だろう、二度とその言葉を聞きたくないと思う。
「おい、明岐様……、見惚れてねぇで、話をちゃんと聞いてやれ」
 どうやら、ぼぅっとなっていたらしい、亀にツンツンと腕をつつかれ、明岐はビクンと全身で震えた。目の前の鶴はきょとんとし、瞬きを繰り返した。しかし、数秒経つと怪訝な顔をし、厳しい声を出した。
『旦那、俺の話聞いてなかったのかィ?』
 くいっと頭を傾げる、その動作がまた愛らしく、明岐は鶴から目を逸した。
「いや、そんな事は!聞いていた!!つまり、子どもが死にかけているんだな?!良ければ、知り合いの医者を紹介するが・・・」
 記憶を遡って、どうにか言葉をつくる。
『けっ、人の医者なんかに見せて、妖が治るかィ』
 的外れな明岐の提案に、鶴は呆れた声を上げると、すいっと腕を上げ、二の腕の裏をチラ見せして、明岐の額にデコピンをした。
「うぐっ?!」
 思わず悲鳴を上げると、亀がクツクツと鼻に掛かった笑い声を上げた。
『こっちァ急を要してるンだよ、旦那、ちゃんと聞け!』
「な、何もデコを弾かんでも!痛いではないか!」
『俺の話、ちゃんと聞くか?』
 見るとデコピンの第二陣が控えている。
「あァ、その、すまなかった」
『いいかィ旦那、俺はチトリって妖怪を探してる、そいつがもしかすると、うちのガキを治してくれるかもしれねぇ』
『妖を治す妖が居るのか』
『治すっていうか、方法論だけど……』
「む?!」
『チトリは人や妖を、己の同種にする力を持つんだ、うちの死に掛けのガキは、死霊の魂を吸収する妖で、その性質ゆえに死に掛けてる、だからチトリに、うちのガキを同種に引き込んで貰って、妖としての性質を根本から覆す。そしたら、ガキは元気になれるんじゃねぇかって』
「果たしてそう上手く行くかねぇ」
 亀が横から茶々を入れ、明岐もそのように思ったが、鶴はそれをわかった上で可能性に縋っているようだった。鶴の瞳には決意の色が伺えた。
「それで、俺は何をすれば良いのだ?」
 明岐が先を促すと、鶴は明岐にぐっとまた近寄った。
『旦那には、そのチトリって奴を殺そうとしている青鬼って鬼の大将に、チトリを見逃すよう説いて欲しいんだ』
「青っ……?!何だと?!」
『どうやらチトリは、青ノ旦那に断りなく、青ノ旦那が気に入っていた女怪を同種にしてしまったらしい』
「……」
『しかも、その女怪を孕ませたとかで、青ノ旦那は大層お怒りで……、この辺りじゃ、青ノ旦那に意見出来るのはあんたぐれぇなんだ』
 何やらおかしな色恋沙汰が、妖世界にもあるようだ。明岐は感心し溜息をついたが、先程から胸が苦しく息がしづらい。
 鶴の頼みを聞いてやりたいのは山々だが、明岐には色にまつわる、奇怪な持病があった。青、という単語が出る度、目眩がして頬が強張り、体中がみしみしと痛くなる。明岐は幼少の頃より、青と名の付くもの、また青色自体が全て恐ろしく、嫌で仕方がないという性質を持っていた。青い着物でさえ、見かけると腹がむかむかして胸がつまり息苦しくなるのに、青い鬼など前にしたら卒倒してしまうだろう。
「悪いが、俺は坊主でも神主でもない、無理な頼みだ」
『そこを何とか!』
 鶴はすとんと膝を地べたに付き、両手を前に置いた。
「おい、よせ!」
『この通りだ、旦那、……ガキの命が掛かってんだ』
 髷の無い、垂れ流しの白い髪を地面に付けて、鶴は土下座していた。
「すまん、すまんが、俺には出来ん、顔を上げてくれ、すまん」
 このような全身全霊を掛けた頼みごとをされたのが初めてである明岐は、狼狽して自分もまた膝をついて、鶴の前に頭を下げた。
「青は無理だ、青は無理なんだ、わかってくれ」
『頼む』
「駄目だ!」
 思わず怒鳴っていて、明岐自身驚いた。
 鶴はそこでやっと顔を上げると、真っ直ぐ明岐を見た。鶴の望みを叶えてやりたい。気持ちはあるが、心が萎縮していた。青いものを、見ただけで具合が悪くなる明岐が、果たして青い鬼などを前にして役立つかどうか。
 鶴はぎゅぅっと唇を噛んで、額に汗を浮かべた。
『どうしてだっ……』
 鶴の呻きに、明岐は胸が痛んだ。
 すると、クツクツと亀の笑い声が響き、がっと頭を掴まれる。
「こりゃ良い、この方ァ随分真剣に人生をお楽しみ中だぜ?鶴ゥ!……目ぇ覚ました時には恨み事の一つ二つ、言ってやらなァな」
 笑っているが、呆れている。亀は鶴の側に立って、明岐に苛だっているようだった。
「すまん」
 明岐がまた謝りを口にすると、亀は明岐の頭から手を離した。明岐はそこでやっと我に帰り、体に不快を覚えた。膝をついた地面から、着物を伝って、ヌメった水が沁みてきている。
 鶴の着物も腿の方まで黒く汚れて湿っていた。
『……陰間でもやるか』
 はぁと溜息をついて、鶴が呟くと亀が舌打った。
「何言ってやがる」
『羽根で作った布団も効かねぇし、お百度参りも駄目だった』
 鶴は思いつめた、泣きそうな様子で言葉を続けた。
氏神には最初、こっちを勧められたんだ、俺には向いてるって』
「向いてるもんか」
 亀が唸ると、鶴は笑った。
『おまえに仕込んで貰えるなら、嫌なく覚えられるだろう』
「俺はごめんだぞ」
『どうしてだ?』
「もし、おまえを好いちまったらどうする?
 俺は……二百年来の友を失う事になるだろうが」
『は、俺達に限ってそんな事にはならない』
「わかんねぇだろう、……俺は危険は犯さない」
『亀……』
「駄目だ」
『頼む』
「駄目だ!」
 怒鳴った亀に気圧されて、鶴が黙ると、その場にジーッと蝉の声が割り込んだ。
 ジジジジジジ、ジクジクジクジクと鳴き始めた蝉に感謝。
「李帝の事は諦めろ、そういう運命だったんだろ、大陸じゃどんぐらい偉かったのか知ンねぇが、倭に来てそんな弱っちまうような妖怪は、大妖怪とは言えねぇよ」
 蝉に負けぬ音量、亀の語調は強かった。鶴は何も言い返せず、悲しそうに下を向いたまま。その鶴の、両肩を落とした無念そうな様子を、明岐は数日忘れられなかった。

 さて、明岐が鶴の頼みを無下に断ってから十日後、また陰間が全身の血を抜き取られて死んだ。
 父親と留吉が、早く下手人である亀を捕えなければ、といきり立ち、また明岐を亀の元に向かわせた。陰間茶屋の多くある町は、亀の店がある芳町をはじめ、葺屋町、芝神明と数箇所あるのだが、被害は芳町に集中している。このことからも、下手人は芳町の者であろうと推定された。
 空の晴れた雨降りの、不気味な午後の天気を窓から眺め、明岐はまた亀の居る陰間茶屋の奥座敷に座って居た。そして先客、鶴との間に気まずい沈黙を覚えていた。
「時に……あれから子どもの容態はどうなった?」
『てめぇにゃ関係ねぇだろ』
 鶴は胡座の膝に肘を立てて、姿勢悪く寛いでいた。室内で少し距離を置いて見ると、鶴は痩せぎすでみっともない体つきをしていた。しかし、顔は相変わらず異常に美しい。この鶴の頼みを、どうやったら明岐は叶えてやれるのだろう。死ぬ気でやってみるという手もある。どうなるかはわからんが、明岐の精一杯を示してやって慰める。何かしら力になってやる事が重要なのではないか。
「関係なくはない、あれから気になって夜も眠れん」
 正直な気持ちをぶつけたのだが、鶴は明岐の心を鼻で笑い聞き流した。
 暫くして、祥がしずしずと部屋に入って来た。
『おっ、何だ、亀は留守か?』
 祥一人が現れた事で、鶴がすぐに事情を察し質問を投げたので、祥は言い出し辛い事を言わずに済んだ、という微笑みを浮かべ頷いた。
 祥の後ろから老番頭も顔を覗かせ、あの方は、と祥に聞いた。恐らく老人には鶴が見えないのだろう。祥が鶴の方を手の平で指すと、老人は感慨深い顔をして頷き、実際に鶴が居る位置より少し上に向かい、深々と頭を下げた。
「では、亀はどこに出掛けたのだ?」
 今度は明岐の質問である。老人は明岐にもまた頭を下げると、祥を見た。
「すみません、今日は全部で三店舗廻る予定でして」
「三店舗? この店には、三店舗も姉妹店があるのか?」
「いいえ、別のお店です。あの人は腕が良いですからね、別の店の陰間についても、仕込みの仕事を頼まれる事が多くて。……多忙なのです」
 どこか投げやりな、突き放したような顔をして、祥は亀の事情を明岐に紹介した。一方で老人は鶴の位置に憧れの目を向けたまま惚けていた。過去に何かあったのだろうか。鶴という妖と、この店は一体どのような関係を持っているのか。亀と鶴はとても親しげで、長い付き合いのような雰囲気だったが。
『チッ、良いご身分だなァ。まだ日の高ぇ、こんな時分からよ』
 しかし鶴が、外見を裏切る下卑た発言をすると、明岐の心に宿った鶴への興味はぐんと萎んだ。
「仕方がない、出直そう」
 呟いて、明岐はすっくと立ち上がった。ずんずんと音を立てて廊下を進み、店を出た。
 恐らく、下手人は亀ではない。しかし頼りの父親と留吉は亀と決め付けているし、この二人に意見する程、明岐は己の直感に自信が無い。
 亀の他に怪しい者を見つけるにしても、まだ若く経験の浅い明岐には、留吉の他に頼れる岡引への伝手がない。同心仲間は殆どが父親と同年代で、明岐よりは父親と親しみがあり、相談相手に適さない。
『なぁ、あんた』
「うぉっ?!」
 気がつかなかったが、いつの間にか隣を鶴が歩いていた。
『さっきの話、本当か?』
「さっきの話?」
『俺に同情して、夜も眠れねぇって』
 むくれた顰め面の、瞳に期待の光を少し宿らせ、上目遣いに明岐を覗き込む鶴に、明岐はまた妙な胸の騒ぎを覚えた。
「本当だが、だからと言って俺がおまえの役に立つかどうかは別問題だぞ」
『チッ、思わせぶりな』
 不貞腐れた声色で毒づいて、鶴はそのまま明岐の後を付いて来た。明岐の家まで明岐を見送るとすぅっと消えてしまった。

 それからの朝、定廻りだが、非番の時は好きな場所に行ける明岐は今日、事件の起こった道々を巡ろうと考えて家を出た。すると、鶴がするりと物陰から現れた。
 鶴の姿を見た途端、ふわりとしたものが胸を包んだ。
「鶴……」
『お供するぜ、大将』
 名を呼ぶと、鶴はニヤリと笑って首を傾げた。

 この間の事件で、殺された陰間は四人にのぼる。その殺され方が薄気味悪い事からも、市井の人々から事件は注目を集めていた。
『妙だな』
 一人目の陰間が殺された道で鶴が呟いた。
「何が妙なんだ」
『確か、この道で殺された陰間ってのは、この道に入る直前に、竿売りに目撃されてたんだよな?』
「あぁ」
『この道ァ、夕暮れ……、あっちから来る豆腐売りと、こっちから来る竿売りが交わうから、下手人ももちろん目撃されてなきゃ可笑しい』
「んん?」
 その道は確かに、白塀が続く商人の大屋敷と大屋敷に挟まれて一本道で、そのあっちとこっちからそれぞれ物売りがやって来る。言われてみれば、この一件目の事件前後に下手人の目撃情報がないのは妙だ。
『殺された陰間の方は竿売りが見てたんだろ?』
「ああ……」
『じゃぁ、豆腐売りと竿売りが練り歩く時間帯で間違ぇねぇわけだ、だのに……』
「この日だけ、豆腐売りが休みだったという事は?」
『確かめたか?』
「いや」
『愚図が』
「……」
 可哀想に、育ちが良くなかったのだろう、鶴はその見掛けに反してとても口が悪い。
 もし明岐家に嫁入りとなったら、厳しい躾が待っているだろう。
 と、ここまで心配をしてから、明岐は慌ててその思考を止めた。
 一体、何の心配をしているのか。そもそも鶴は男で、その上妖なのだ。
『……こりゃぁ、人の手じゃ解決出来ねぇわなぁ』
 悶々する明岐を気にも止めず、鶴は呟いて、それから挑戦的な目で、ちらりと明岐を見た。
『うちのガキのために、あんたがひと働きしてくれるってんなら、俺もあんたの力になるんだが?』
「ぐっ……」
 個人的な頼まれ事ならば、断る余地があるのだが、お勤めに関わる事を握られてしまうと、明岐も役人の端くれである。強烈な迷いが生じた。父親や留吉に言われるがまま、自分は違うと思っている男を、下手人として捕らえるのと、青いものに立ち向かうなら、どちらの道を選ぶべきか。答えはもう出ている。あのがっかりした鶴の顔を、もう見たくないという気持ちもあった。明岐は一つ、頼むという言葉を吐き、覚悟を決めたのだった。
 
 それからたった三日後、下手人がわかったという鶴の知らせが、山神と名乗る喋るメジロによって届けられた。明岐は丁度、午後の鍛錬を終えて湯浴みを済ませ、着流しで縁側に寝そべっている所だった。明岐は家のものに友人宅に行くと告げ、山神の案内に応じた。
 それは一瞬の出来事であった。
 こちらにおいでください、と山神が言うので、とある芝居小屋の裏井戸に近づいた。山神はするりと井戸の中に入り、こちらにおいでください、とまた繰り返した。明岐が井戸を覗き込むと、いきなりにゅっと井戸から白い手が出て来て、明岐を井戸の中に引き摺り込んだ。

 気がついたら、江戸の街並から遠く離れた山の頂き近く、竹林の中にある小屋の前に居た。メジロは小屋の屋根にとまると、お客人、参りましたよ、と鳴いた。緑がかった今にも腐って潰れそうな小屋には朝顔の蔓が盛大に巻きついている。
『おぅ、来たか赤ノ旦那』
 戸口から出て来るかと思ったら、鶴は小屋の裏側から顔を出した。綺麗な白い顔に泥がついていて、何とも淫靡である。何をしていたのかと覗き込むと、小さな畑が見えた。
『丁度きゅうりが食べ頃だ、粥もあっためてあるぞ』
 軒先に置いてある駕籠に数本、貧相なきゅうりが積まれていた。
 鶴は明岐を夕餉に誘うつもりのようだ。
「土産が何も無いのだが」
『いやいや、あんたは良いもんをくれたよ』
 こん、と頭に何か小さくて硬い玉が当たり、上を見ると、メジロが口からポコンポコンと玉を吐き出している所だった。
『この人は随分、良い肝を出しますね』
『この間、俺が驚かしてやった時も上玉をゴロゴロ馳走してくれたぜ』
 聞くと、人は驚いたり恐怖したりすると、肝と呼ばれる玉を撒き散らすのだという。妖が人を驚かすのは、この、人の出す肝を喰らうためで、明岐もまた最初に鶴と出会った時、先程井戸に引き摺り込まれた時、大量に肝を出したそうだ。
「しかし、もう下手人がわかったとは。おまえ、本当なら今すぐ俺の岡引として雇いたい程の腕前だぞ」
『ふん、倭の人間風情が生意気な。俺は大陸じゃ李国の大妖、李帝直属、情報役だったんだからな』
「ほぉ……、これはまた、おまえは倭の外を知っておるのか」
『ああ』
「妖は長く生きるというからな、もしや俺よりも年上か?」
『年上も年上、俺ぁ今年で五百を越えるぞ』
 ふ、と思わず息を漏らし、明岐は大きく笑い声を上げた。何が可笑しい! と怒鳴る鶴に、明岐自身も何が可笑しいのかわからなかった。
 小屋の中はたった六間だけで終っており、隅に小さな布団が出しっぱなしになっている。鶴は切ったきゅうりと、粥と芋汁を明岐に振舞った。芋汁は少し苦かったが、塩の効いたきゅうりと粥が美味かった。
 明岐にはしっかりした飯を出しておいて、自分はきゅうりに、先程の玉をすりつぶした粉と塩を掛けてかぶりつくだけの鶴を、明岐は心配した。
 ちゃんと食えて居ないのではないか。心なしか、鶴の体はこの間よりさらに骨ばり頬も落ちて、やつれたように見える。
 妖は肝を食すが、肝が少量しかない時は、肝を潰した粉を掛けて人の食す食べ物も喰い、腹の足しにするという。粉にする肝もなければ、人の食すような、ただの食べ物をそのまま食うとも。しかし、ただの食べ物しか食べないで居ると、妖はすぐに消えてしまうという。そんな話をされた後で、肝の粉を掛けて人の飯を食う姿を見せられると、心配になってしまう。
 鶴が、畑で野菜を育てて居るという事実。妖の主食が肝であるのならば、野菜など育てる必要はない。鶴は妖の中では大分、悲しい暮らしをしているのではないか。
 もし鶴がひもじければ、明岐はいくらでも驚き、鶴に肝を分けてやるのだが。
『ところで』
「んん?」
『今回の件な』
「あ、ああ」
 鶴の生活が気になって、すっかり本題を忘れていた。
『下手人は亀んとこの、祥だ』
「さ、ち……? とは、あの……?」
『ああ』
「……」
『まったく、あんたぁ俺の頼みを断って正解だったよ。祥は俺が頼ろうとしてたチトリと協力して殺しを重ねてた。チトリってのはチトリ種の事を言うもんで、個体の名前じゃねぇんだが、引き続きチトリの事はチトリと呼ぶ。ああ、チトリ本体は昨晩、青ノ旦那に殺された。残念だが骸はない、妖は何か殻や皮を被ってる場合を除き、死ぬと霧散するもんなんだ』
「なっ?!……」
 それでは下手人の一人は消えてしまった事になるのではないか、と明岐は焦った。これでもし祥まで消えていたら、明岐は亀を捕えねばならなくなる。
「聞いてないぞ!!」
 身を乗り出して怒鳴ると、鶴は苦笑い、まぁまぁと手を上げた。
『焦るなよ、大将、……話は最後まで聞け。……チトリは今回、芳町に来てから、二匹の妖を同種に仕立てた。一匹はこの度、青ノ旦那がチトリを殺す原因になった美しい女怪、もう一匹は祥、祥は貉種だったんだが、今はチトリ種になって姿を眩ませてる。この貉種ってのは化けるのが得意で、人の皮も自ら手作り出来る種族だ。あぁ、妖は普通、長く人の世に紛れる時は人の皮ってのを被って人前に出るんだ。ちなみに、この皮は透明なのと、既に顔形が書いてあるものがある』
「ん? ……んん?!!」
 聞きなれない単語に、明岐は咽喉を詰まらせたような声を上げた。鶴はそんな明岐の反応に、ぷっと噴き出すと説明を補足した。
『亀や祥は万人に姿が見えるけど、俺はあんたみたいに霊感の強いもんにしか見えねぇ、……妖が万人に見えるためには、妖力を消費して姿を現すか、人の皮を被るかなんだ』
「……ふ、ふむ」
『チトリは祥の作った祥の姿に化けられる人の皮を被って、祥に成りすまし、青ノ旦那の追跡を逃れてた。同時に、祥はチトリが自分に成り代わっている間に自分の憎い相手の血を抜く殺しを続けた。
 こっからまた、あんたが混乱するような話をするが、妖の世界は地下深くまであってな、地下四層にまで行くと、人の世の事情なんか誰一人知らない。地下四層の妖は、一度も地上に出ず死ぬようなのばかりだからだ。したがって、おや? あんたは芳町で有名なあの陰間茶屋の祥さんじゃないか? なんて声を掛けて来る奴が、四層にはいない。祥はだから、地下に身を潜めながら、時々地上に来て殺しを行った』
「もしかしておまえ、その四層という場所まで、行ったのか?」
『ああ、大分骨が折れたぞ』
「……それは、……苦労を掛けた」
『チッ、それなのに鬼李を治す手立ては結局閉じられてよ』
 尤もな不満を口にした鶴に、明岐はとても申し訳なくなった。鶴が明岐に求めていた、青い鬼の説得は、結局要らぬ事になったのだ。それなのに、鶴は引き受けた仕事を投げ出さず、こなしてくれたのである。この鶴という妖は、どうやら非常に忠義者らしい。
 今度、何か美味いものでも食わせてやろうと心に決めながら、明岐は鶴に話の先を促した。
『まず、チトリ種ってのは、生き物の血を吸うことで、妖が肝を吸収するのと同じ効果を得られる妖だ。血を抜き取られて死んでいた陰間達は、間違いなくチトリ種の手に掛かっている。
 加えて、体が安定する迄、作られたチトリ種は作ったチトリ種に逆らえない。祥は陰間達を殺して奪った血を、チトリに分けに通っていたようだ。
 チトリはその血で、孕ませた女と女の腹の子を養おうとしてた。祥はつまり、チトリに利用されていたのさ。
 しかしチトリ種ってのは普通、少しずつ血を吸って終わりにするみたいでな。
 今回も、チトリは祥に大量の血を持って来るよう求めたが、相手を殺して来いとまでは言ってない。
 こりゃぁ俺の推測だが……、祥は、むしろ殺した陰間達の事を己の意思で前々から殺したいと思ってて、殺したんじゃねぇかな』
「どういう事だ?」
『……殺された陰間達は皆、亀の仕込んだ奴で、亀に一度でも愛され、胸に痛みを覚えた事のある奴だった』
 そこまで言ってから、鶴はきゅうりを齧った。きゅうりの折れるぱきんという音が部屋に響き、部屋の隅に敷きっぱなしであったふとんがもそりと動いた。
 どうやら明岐に姿は見えないが、そこにも何かが居るらしい。
「胸に、痛み?」
 湧いた疑問を口にすると、鶴は顔を顰め、齧りかけのきゅうりを皿に置いた。それから口元に手を添え、明岐に顔を近づけると、声を落とした。
『亀は生き物の命を奪う妖だ、普通に奪う時は、奪う相手やどれぐらい奪うかをコントロール出来る。だが、愛した相手については、理性が効かなくなるとかで、そのコントロールが出来なくなるそうだ。だから、亀に愛されたもんは必ず胸に、命を吸われる痛みを覚えるという。亀の愛が強いとそのまま吸い殺されちまう』
「……それは難儀な」
『あぁ、……しかし祥はそれでも、亀に愛されたかったんだろうな』
「だから、亀に愛される痛みを覚えた事のある陰間達を殺した?」
『陰間の悋気ってのぁ恐ろしいな』
「男と男で、何が悋気だ」
『はっはっは、そうだな、男と男は人の世じゃぁ、あんまりメジャーじゃないらしいからなぁ、まったくあんた人らしいな、……けど俺もなぁ、随分、祥には睨まれたもんだぞ、この通り見てくれは良い方だ、それで亀と仲良しとあっちゃなぁ……? それが、こないだ現れた祥はやたら愛想の良い優しい奴だった。あれを見て、俺はおやっと思ったね。この祥は本当の祥なのか』
「……ふむ」
『怖ぇぞぉ、この話、聞いた時にぞっとしたんだが……、祥は一人目を殺ったその日、四層に作った仮の住処に、酒屋で出会った見ず知らずの男を招いてもてなし、今日は祝いの日なんだと言って、陰間奉仕までしてやったそうだ。戦場でもねぇとこで殺しをやった後、そんだけ良い気分になれるなんてよ、完全に頭可笑しいだろ』
 そこまで言ってから、鶴は明岐から離れると、もそもそと膝を立て、そこに額を付けて黙った。
 明岐はついに嫌な気分になって箸を止めた。鶴も皿に置いたきゅうりに、もう手を伸ばそうとしなかった。
『そんでよ、青ノ旦那がチトリを捕らえた経緯だが……。
 一昨日の晩の事になる。祥は四層と地上を行ったり来たりする事で、妖力を使い過ぎてボロボロだった。そんな祥を見て、こいつはもう長くないと思ったんだな。だから、チトリは祥を見捨て、この土地を逃げ出そうと考えた。それで、祥の作った祥の姿を模した皮を脱いだ』
「な、……地下と地上の行き来というのは、そんなに体力を使うのか?」
『あぁ、大妖怪ならいざ知らず、四層の妖怪なら、地上に辿り着く前に死ぬ事だってある。だから普通はあまり、己の生まれた層を移動したりしない』
「……」
『まず、一人目がやられた現場で、下手人の姿を見ている人の目がなかった。それで、妖にまで聞き込みの範囲を広げたんだが、そしたら妖の目にも、下手人は映っていなかった。俺は、下手人が地下に潜った線を疑った』
「そんな発想は人からは出んな」
『……それで一層・二層と、あの場所の地下は湖だった。三層になると集落があったが、そこは河童種が集まった場所で、それ以外の種が来たらかなり目立つ。にも関わらず、目撃情報がなかったんで、四層まで行った』
「おまえ、まさか……、それでこんなやつれたのか?!」
『これは元からだ、鬼李に掛かり切って、肝取りする余裕がなくってな。まぁ、地層の移動についてはそう案じずとも、……俺は一応五百超えしてるから、大妖怪の域に入る。少し疲れるが死ぬ程の仕事じゃねぇ』
「……しかし、すまなかったなぁ本当に……、無理をさせて」
『だから別に無理じゃねぇ、俺ぁ、五百超えの……』
『五百を超えても鶴種じゃ辛かろう、そう妖質の良い種族ではないだろうに、何て忠義者なのか、愛い奴め』
『あ?!』
 咽喉奥から、低く野太い声が出て、明岐が驚くと、鶴もまた驚いた顔をして、明岐の事を見た。
『今?!』
「知らん、俺じゃない、俺じゃないぞ?!」
『鶴種の妖質が何つった? てめぇ?』
「だから俺じゃない!」
『おまえ以外に誰が居るんだよ?!』
 ぐいっと明岐の胸ぐらを掴み、挑んで来た鶴の肩を掴み、落ち着かせようとその肩を撫でる。やたらと細く頼りなくて、包んでやりたい衝動に襲われたが、ぐっと我慢して鶴を引き剥がした。
「ところでだ、鶴、今は姿をくらましてるという、祥の行方は検討つかんのか?
 俺は至急、祥を捕らえねばならん!」
 鶴の心を宥めるよう、はっきりした声で言うと、鶴はやっと明岐の胸ぐらから手を離した。
『多分、こっちに向かってる』
「何?!」
『おまえの罪を、亀にぶちまけてやると言ってある、……いや、まぁ、既にぶちまけてあるんだが、口封じか報復か、必ず俺のとこに来るはずだ。あいつは今、俺が憎くてしょうがねぇと思う』
「また無茶な! ……危険ではないか、そのような事をして!」
『亀の奴も一緒に呼んであるから、心配ねぇだろう』
「あの男、強いのか?」
『ああ、それに、あんたもいるしな』
「俺?」
 その時である、ひたりと何か小さな手が、明岐の耳を掴んだ。
「ぎゃっ?!!」
 明岐は大きな悲鳴を上げて飛び上がると、あたりを見たが、誰も居ない。
「何だ?! 何か、今、小さな手が耳に?!」
『……、鬼李か? ……起きたのか?どうした?どこに居る?』
 明岐の反応と、部屋の隅の布団が、誰か起き上がったようにぺろりと捲れているのを見て、推測した鶴が手探りに空を掻くと、明岐もまた目を凝らしてあたりを見た。しかし、やはり誰も居ない。
『今は透明で俺にも見えねぇが、恐らく今あんたの耳を掴んだのは鬼李だ、うちの可愛い悪ガキさ』
 ふいに後ろでペタペタと何か歩く音が聞こえ、振り返るとベシッと額を叩かれる。一体、明岐が何をしたというのか。こうも悪戯をされては、腹のうちがむかむかする。姿がない分、憎さが増す。
 鶴は先程から明岐の方を見もせずに、暗闇で物を探す人のように、腕を伸ばしてぱしぱしと空を掻いている。それからやっと、何かをぐるりと腕で閉じ込め己の膝に座らせた。
『起きたなら言え、今日は調子良いのか?』
 鶴の問いに、鶴の腕の中に居るらしい目に見えぬ子どもは何かぽそぽそと小声で発した。
『あぁ、この鬼ノ旦那? 大丈夫だ、今は人をやってて俺を取って食ったりはしねぇ、ありがとなぁ、その気持ちだけで嬉しいから、ほら、動くと体が辛いだろ? 休んでろ』
「鬼?」
『んー、そうだな、さっき自分でうっかり目ぇ覚ましてたし、俺の事恨まないで聞いてくれるんなら教えるが』
「恨むも恨まないも、意味がわからん」
『あぁ、まぁ、遠まわしに言うとだな。あんたは今、妖で居る事をお休みしてるんだよ』
「どういう事だ?」
『さっき教えた人の皮、あるだろ、あれを被って、あんたは人のふりをして生きてるんだ』
「何を言う、俺は、人から生まれた歴とした人だぞ」
『んー、まぁ、そう思わないと休みの意味がねぇし、それで良いと思うぜ』
 明岐の重大な秘密を、まるで天気の話のように口にしながら、鶴はくしゃくしゃと、透明な子どもの頭を掻いた。すると子どもは鶴の膝を離れたらしく、鶴の腕がそっと子どもを手放した。
『あいつもさ、あんな弱々しい透明なガキなんかになる前は、そりゃぁ立派な大妖怪だったんだが、倭に来てからは弱っちまって、あのガキにも、もう大妖怪であった頃の記憶がねぇ、あんたの気ままな人休みと違って、あいつの場合は生死の堺を彷徨ってる』
 鶴が悲愴な顔をして呟くと同時に、天井から、来客ですよという山神の声が聞こえた。
 鶴が席を立つのと、戸口にふらりと祥が姿を見せたのは同時だった。
 ゲッソリと痩せて、頬が落ち、所々抜けて薄くなった髪を振り乱し、両腕を何かに捕まろうとするかのように前に出しており、腕には無数、獣の毛が生えていた。
『もう姿を人形に保つのさえ、侭為らぬらしい』
 山神の呆れたような憐れむような声が、天井から響く。
『ひでぇ有様だ、どうしてこんなんなっちまった?』
『亀さんが愛してあげないからですよ』
 少し毒のある声色で、天井の山神が答えを出すと、鶴はふぅと息を吐いて、明岐の背後に蹴りを入れた。
「な?!」
 どうやら、祥は素早く動いて、明岐の背後に回っていたらしい。
『旦那は下がっててくれ、邪魔だ』
「おい?!」
 祥はとても素早く移動しているらしく、明岐の目には追えない。しかし鶴はスタスタと歩いて、また宙を蹴る。それから、ぐいっと腕と体を使って、しゃかしゃかと動くそれを押さえつけた。
『山神、亀だ、亀を呼んで来い』
『もう来てますよ』
 言葉の通り、小屋の戸口には押出の良い色男、亀が不機嫌な顔で立って居た。
「祥!」
 亀が呼ぶと、鶴の体の下で暴れていたものはぴたりと動きを止めて、祥になった。
「どうしてここに・・・?」
 亀の姿を見つけると、祥は目からボロボロと涙を溢した。
「俺がおまえだけは好きにならんと決めたのは、おまえの事を、長く傍に置きたいと思ったからだった。
 どうしてわかってくれなかった? おまえを可愛く思ってた。おまえがはじめて俺のとこに来たのは、たった三つの時だろう? 俺はおまえを育てながら、幸せになれと思った。だから、俺はおまえを好きにならんと決めて、……仕込みだって他の奴に任せた。好きになってはならんと思って!」
 亀は苛立った声で一気に捲し立てると、ぎゅっと眉間に皺を寄せた。
「どうしてこんな事になった?」
 亀の声は今にも崩れそうに、震えていた。
「貴方が私を愛してくれないから」
 祥の声もまた、掠れて痛々しい。
「俺はおまえが実の子のように愛しかったんだ」
「実の子! ああ! 私は貴方に親の愛など求めていませんでした。真の愛を受け取りたかった。殺される程、愛されたかった」
「俺は殺したくなかった!」
 亀が怒鳴り声を上げると、鶴の古い小屋に音が響き、天井から埃がパラパラと落ちた。
「チトリになれば、私は、貴方に命を吸われても生き延びられるようになります。チトリは、命を吸われても吸い返す事が出来る。貴方は私を殺す心配さえ無くなれば、私を愛する! 私がチトリになれば、貴方は安心して私を愛してくれる」
『ちょっと待て』
 ふいに、鶴が会話に割り込んだ。骸骨のような祥を、体術で捩じ伏せて押さえつけている鶴もまた痩せぎすで、組み合った二人の姿はどこか痛々しい。
『祥、おまえなぁ、亀がいつおまえにチトリになってくれって頼んだ? ……俺は亀の友で、おまえより亀の方が大切だから言っておくが、今回の件は、おまえが勝手に突っ走って、勝手に四人殺したんだ。亀や亀の性質のせいにすんじゃねぇ、自分の間違いだって言え、亀が誤解して責任感じちまったらどうすんだ?』
 追い込まれた人間に容赦のない事を、と感じた明岐と同様に亀もまた少し顔を顰めた。祥は鶴からの厳しい言葉に一度金切り声を上げると、グングンと身を振って悔しがった。
「いいえ、いいえ、事実、亀さんのせいです、あの人が私を愛してくれなかったから!」
 祥の怒鳴り声に、また小屋の天井から、埃がパラパラ落ちる。
 鶴はあまり、掃除が得意ではないのだろうか。
 今度、中間を呼んで掃除させてやろうか。小屋が綺麗になったら、鶴は喜んでくれるだろうか。ぼんやりと頭で、そんな事を考えていた明岐の目に、見逃せない動きが飛び込んで来た。
 暴れる祥を抑えるのに気を取られている鶴の足に、祥が噛み付こうとしている。
「おい、鶴!」
 亀の声が、鶴に危険を知らせたのと同時、明岐の方は素早く十手を抜き、鶴と祥の間に入ろうと動いていた。しかし遅かった。ぐ、という鶴の悲鳴が上がると同時、祥の口は鶴の足に噛み付いていて、がっちりと歯を立てて離れなくなっていた。
「祥、もうやめろ」
 亀の叫びを聞いても、祥の顎はぴくりとも緩まない。亀と明岐、大の男が二人して祥の顎を鶴の足から離そうと試みたが、しかし祥の顎は異様な力で鶴の足に噛み付いている。
『糞、油断した!』
 力なく呟いた鶴の顔は真っ青だ。祥が容赦なくズルズルと醜い音を立て、鶴から命を奪って行く。骸骨のようであった祥の姿が、みるみるとあの若々しく美しい若者に戻って行く。一方で鶴の方は、手や首、胸元の色が異様にま白くなったかと思うと表面を産毛のようなものが多い始めた。頬が痩けてげっそりし額に赤い痣のようなものが浮き上がり、まるで頭から血が滲み出しているような様子だ。
『無念だ、ここまでか』
「おい鶴、諦めるな!」
 亀が励ますと、鶴は力なく笑みを浮かべた。
『俺だって悔しいが……、こうなってしまってはどうしようもないだろ? 見ろ、手足が弱って動物化している。恨めしいぜ……まだ鬼李は病気をしてるってのに、死んでも死にきれねぇ、心残りだ。……この気持ち、わかってくれるなら、頼むよ亀、鬼ノ旦那、鬼李を俺の変わりに治してやってくれ』
「おい鶴、よせ、そんな弱気になるんじゃない……! 祥、やめてくれ、大切な友だ」
 遺言を残し始めた鶴に、亀と明岐は焦った。
 まさか、鶴が死ぬのか。今、明岐の目の前で殺されてしまうのか。
「嫌だ、死ぬな、死ぬんじゃない」
 必死の声を上げると、鶴はくすりと笑った。そして意識を手放した。
 あの、ふんわりした赤い唇は、カサついて真っ白くなっていた。こんな風になる前に、殴られても良いから吸っておけば良かった。などと不謹慎な事を考える。バサバサと耳元で音がして、あの喋るメジロが飛んで来た。メジロは祥の目を潰したが、その目はすぐに再生した。
 しかし、メジロは諦めず、また目を潰そうとして祥に近づき、祥の手に捕まるとバキンと背骨を折られた。
 万事休すと明岐の心も折れかけたその時、祥が異様に苦しみ始めた。
「あぁ゛、痛い、痛い痛い痛い、胸が溶ける」
 祥は鶴の足から口を離し喚くと、きっと亀を睨んだ。
「何をするのです、何をするのです、この痛みは愛じゃない、私を愛する痛みじゃない、処罰する痛み、殺意のある痛み、こんなのが欲しかったわけじゃない!」
「祥……、俺はおまえを愛しているぞ」
 優しげだが、抑揚のない亀の声に、明岐は何故か身震いした。
「嘘だ、こんな痛みを、どうして愛する者に味わわせるんです、もっと甘美な痛みなはず、これは愛の痛みじゃない、愛の痛みであるものか、貴方は私を愛していないっ」
 祥は泣きながら首を振ったが、亀は祥を苦しめる手を緩めなかった。
「祥、……祥、ほら、おまえの望み通り、俺の愛で以ておまえを殺してやろう」
 愛しい者を、殺す覚悟を持った男の恐ろしい覚悟が伝わって来た。亀が果たして、愛で祥を苦しめているのか罰で祥を苦しめているのか、明岐にはわからない。しかし祥は胸を抑え、足をばたつかせて、口から泡を噴き苦しんでいる。
「が……っ、ぁぁぁ、死ぬ、死んでしまう、死ぬのは嫌だ、嫌だっ」
 目から涙を溢しながら、祥は切ない声を上げた。
「皆、死ぬのは嫌さ、祥、おまえは俺に何を求めていた? 俺がおまえに与えられるのは、その苦しみしかないのに、どうして俺に愛されようとした? どうしてだ祥、どうして家族のように傍に居るやり方で、俺を愛してくれなかった?」
 祥はもはやビクビクと痛みで痙攣し、声を出せない様子だったが、亀はそんな祥の頭を撫で、背中を撫でた。
 すると、祥は急に眉間の皺を和らげ、安らかな顔になり目を瞑った。
「死んだのか?」
「ああ」
『可哀想にな』
 鶴はまだ顔が青く、首には白い産毛が生えていたが息を吹き返していた。
「また殺してしまった」
 亀が呆けた顔をして言うと、鶴はまた目を瞑った。
 その時、子どもが鶴に抱きついた。不思議と子どもは透明でなく、明岐の目に映った。
「あ」
 亀が子どもを指し、声を上げた所を見ると、亀の目にも見えているようだ。
『先程、殺された陰間の方々がやって来て、お礼にと魂の半分を置いて逝かれまして』
 死んだはずのメジロが、口を聞いた。ぎゃっ、と叫んだ明岐をからかうように、ブルブルと身体を震わせて折れた背をしゃんと伸ばす。そうして元通りになるとバサバサと飛んで、鶴の肩に止まった。
『成程な、死者に恩を売るとこんなお返しを貰える事もあるのか』
 感心する鶴に、明岐は少し期待した。死者に恩を売る、という行為は岡引業に通じる。岡引は死者のために働く事が多いのだ。

「では、俺は祥を持ち帰る。葬式を上げてやりたい」
 亀はそう言って、祥を抱き立ち上がった。
「墓に入れる前に、知らせに来てくれ」
 鶴の命が助かったのは良かったが、祥が死んでしまった事は明岐にとって痛かった。ただ、祥の発達した歯を見せれば、父親と留吉は納得してくれるだろう。納得してくれなければ、明岐は役人を辞める覚悟で亀を遠くに逃がしてやれば良い。
「それじゃぁな」
 亀は一同に別れを告げると、静かに小屋を出て行った。
 小屋に残された鶴と明岐は、暫く無言でいた。
 色のついた子どもは鶴に抱きついたまま、まだ泣いている。大きな下がり目を涙で濡らし、嗚咽を上げている。顔が整っているせいか、やたらと愛らしい。
「よしよし鬼李、大丈夫だ大丈夫。もう怖い事はない。俺がおまえを置いて死ぬわけないだろう、ほら泣きやめ、いい子だからな」
 鶴は面倒見の良い兄のように、片親の父のように優しく子どもを諭していたが、時々疲れた顔をして、自分も泣きそうになっていた。
「時におまえ、俺の元で働くつもりはないか?」
 嵐の去った静かな小屋の中で、明岐は意を決し申し出た。
 
 その後、人の同心明岐と妖の岡引鶴の組み合わせは非常に世の中に貢献した。鶴の調査力と明岐の正義感が、沢山の事件を解決した。
 透明な子どもは、色と元気を取り戻した。
 さらに六十年の時を経て、人の明岐が死んだ後、己の正体が赤い鬼の大将であった事や、己が人にまぎれて体を休める『人休み』を取っていた事に気がついてからも、今度は妖の同心と、妖の岡引の形で江戸の末期まで相棒の関係は続いたのだった。


2016/7/19

『こわいモノ』(執着攻め×強気受け)


 こわいモノの近くに居続ける事が難しそうだったので逃げた。逃げたら、こわいモノのこわさが増幅した。いよいよ逃げられないぐらいこわくなって、向き合ったら少し、そのこわさを軽減する事が出来た。

「鶴」
 呼んだのに、こちらを振り向きもせず何だよと応じた鶴の肩に手を乗せる。そのままグリリと肩甲拳筋を押したら、を゛ぁっと鈍い悲鳴が上がった。
「凝ってる」
 肩揉みが始まると、鶴は手を止めて鬼李の指の動きに集中した。鬼季と鶴が同居している家の居間は広く静かだ。
 マッサージが終わると、はぁと艶かしく鶴が息をついたので、むらむらスイッチが入る。
「鶴……」
 肩に置いた手で後ろに引っ張り、鶴を仰向けに倒すと、被さってキスをする。鶴は素直に、口内に侵入して来た鬼李の舌に舌を絡めたが、その先に進もうとした鬼李の胸を右手で軽く押した。
「おい」
「何」
「おまえもちったぁ作業しろ」
 昔は囲炉裏があった居間の中心には、巨大な加湿器が陣を取っており、天井のエアコンが送って来る乾いた暖かい風に湿気を交ぜている。過去、鬼が数十匹集まって決起集会を開いたこの部屋は、広いばかりで色気がなく、掛け軸も無ければ美麗な襖絵もない。
「作業って?」
「年賀状、返事を出せとまでは言わねぇ、せめて読め」
「面倒臭い」
「おい、挨拶だろうが」
 鶴は広い居間の隅に積み上げられたダンボール二十箱を見やった。過去、関わった人数の多い鬼李宛の年賀状は箱で届く。こちらからの返事など百枚もしないのだから、良い加減送りつけるのを辞めて欲しい。鶴が傍に居ると、どうしても見ろと言われ二割は最低でも目を通す事になるのだ。
「無理」
 居間の真ん中で、手足を投げ出して寝転がると、仰向けのままだった鶴が匍匐前進でやって来て、ぽてりと頭を胸に乗せて来た。
 ああもう。
「可愛い鶴」
 こうやって素直に甘えてくれる鶴から、幸せと同時に恐怖を得る。一度失いかけた事がある分、闇の記憶は骨の髄まで染みている。こわくて仕方がないものを、抱きしめるのにはいつも覚悟が居る。
「言っとくけどな、俺にだって七箱届くぞ」
 年賀状の話が、まだ続いていた。ちらりと鶴の側にあるダンボールの数を見ると、四箱しかない。
「まぁ、三箱は山神にやって貰うが」
 言い訳するような声色の付け足しに、はいはいと鶴の頭を撫でる。
 過去、岡引として名を馳せた鶴を慕う妖怪の数は多い。鶴は全てに目を通し、必要なら返事も出す。
「鶴は偉いよね」
 褒めてやると、鶴はぎゅぅっとこちらの服に捕まり重くなった。
 やっとその気になってくれたようだ。腰を撫でると、はぁ、と熱い息を吐く。腿を掴むと、ふわりと手に馴染む肉の感触がした。
 鶴は男のくせに、ふわふわしている。骨組は確かに男なのだが、体中。掴むと柔らかいのだ。昔はもう少し骨と皮だった気がする。
 長い陰間時代に、変化してしまったのだろうか。抱きやすい体だ。

 外ではしんしんと雪が降って居る。鬼李と鶴の住んでいる地下一層の天気は雪だ。過去と未来と現在が混ざってしまいそうな、剣呑な空気が屋敷に溢れていた。乱れ始めた鶴の息遣いだけを聞きながら、鬼李は駆け出したくなるような衝動を覚えた。鬼李も思い出したくないし、鶴も思い出したくない出来事が、頭を襲って来た。


 江戸の終わり、完全に力を取り戻した鬼李は用心棒として、日本妖怪同士の勢力争いに巻き込まれていた。一方で鶴は、それまで鬼李復活のために、岡っ引き業を営んでいたのを引退し、小さな長屋の差配人になっていた。山神と二人、長屋の住人の悩みの相談に乗りながら、老夫婦のような暮らしをしており、仕事の合間、骨休めとして時折二人の元に帰る鬼李を、まるで息子を迎えるように、受け入れてくれていた。
「鶴、山神、……帰ったよ」
 その日も、長屋から離れた差配人小屋の玄関に、ひょっこりと顔を覗かせ、二人を呼んだ。すぐに山神が満面の笑みで駆け寄って来た。
「親分、親分!鬼李のぼんが帰りましたよ」
 小屋は玄関を左端に、中央に居間、その奥に台所、右端に奥部屋があり、鶴はこの奥部屋の縁側にいつも寝転がっていた。
「鶴」
 奥部屋につくと、ぶすっと胡座を掻いている鶴の名を朗らかに呼んだ。鶴は鬼李と目を合わせず、庭を睨んでいる。
「チッ、どの面下げて帰って来やがった? ぷらぷら、ぷらぷら遊び歩きやがって……! 二年も音沙汰無かった癖によ、うちは宿屋じゃねぇんだぞ」
「ああ、ああ。駄目ですよ親分、憎まれ口叩いちゃ、せっかく鬼李が帰って来てくれたのに」
「こんな奴、帰って来ねー方がいいんだよ、遠くにでも行っちまえ、その方がいっそ清々すら」
「親分!」
 山神の叱り声に、鶴は少しばつの悪そうな顔をすると、ちらりとこちらを見た。目が合った瞬間に少し瞳を潤ませる。会いたかった癖に、と心の中で詰りながら、鬼李に傍に居て欲しいと言えない鶴の不器用に甘え、距離を置いている自分を恥じる。
 厳重に鍵を掛けた宝箱の中の、隠しておきたい財産を、目の前にした時の喜びと後ろめたさ。誰にも壊されたくない、取られなくない、大切なものを、どうやったら守り通す事が出来るのか。失う恐怖との闘いが、ここまで苦しいものだとは。
「鶴」
 傍に寄ってまた名を呼ぶと、鶴は今度は立ち上がって、縁側で草履をつけ、裏口から出て行ってしまった。
「どこ行くんですか? 親分……?!」
「どこだって良いだろうが、散歩だ」
 いつもの光景過ぎて、鬼李は笑った。鶴と山神の暮らしはいつも平和で暖かく、危険と言えば、鬼李の力を得ようとした妖怪によるちょっかいが掛かった時ぐらいだが、鶴はその手の危険をすぐに察知し、上手く立ち回れる力を持っていた。
 可笑しくなったのはどこからか、未だに鬼李は原因探しをやめられないでいる。
 最近、思い当たったのはこの頃の事。
 いつも散歩に出た鶴は数分で戻って来て、鬼李がまた家を出るまで、鬼李をずっと自分の隣に座らせ、鬼李の手柄話を聞きたがった。
 それが、この日は近所をうろついていた牛鬼を捕まえて帰って来た。
 牛鬼は鬼李について各地を廻り、見聞を広めたいと言った。それを鬼李が認めた。山神が、親分も連れて行ってくださいと助け舟を出し、鶴は不貞腐れた顔で、期待を隠せない瞳で、行っても良いと言った。この時素直に、連れて行けば良かったのだ。
 しかし鬼李は鶴を連れ歩くのがこわかった。傍に置きたい気持ちより、仕舞って置きたい気持ちが勝り、よりにもよって、足手纏いなどという言葉を使って鶴を拒絶した。

 それから二年後、鬼李が再び鶴と山神のもとに帰った時、鶴は赤鬼のもとでまた岡引をしていた。
 鶴は牛鬼と共に帰って来た鬼李に、意地の悪い顔でこう言った。大妖怪同士、似合いだねご両人、土子の顔が楽しみだ。妬く様子も、やはり自分も連れ歩いて欲しいと取縋る様子もなく、只、牛鬼と達者でやって行けよ、と鬼李を見放した態度を取る鶴に、鬼李は焦りを覚えた。
 鬼李は鶴に、まるで興味のない者に接するようにされる事に、慣れていなかった。だから、つれない鶴をまるで気まぐれな味見程度の様子で、力づくで抱いた。この態度は単純な照れ隠しだったのだが、鶴には通じなかった。鬼李は牛鬼との中を弁明するつもりだった。鶴は鬼李が自分を軽んじていると取った。二度と顔を見せるなと言われたのと、祖国から助けを求められていたのとが重なり、鬼李は鶴の前から姿を消した。
 鶴がどこかで健やかに生きていれば、それだけで良いと思った。その方が心が休まる事に気がついた。いつかの鶴が、いっそ遠くに居てくれた方が良いと言っていた事を思いだし、自分も同じ気持ちだったと気がついた。無事で居てくれれば十分だし、鶴なら大丈夫だという自信があった。
 鶴が安定して平和に生きて居る事に何の疑いも抱かなかった。

 だから、山神が青い顔をして、親分を救ってくださいと、訪ねて来た時には何を大げさなと気楽に構えて応じた。嫌な予感を覚えていた心を無視して、頭が気楽な想像ばかり働かせ、やっと寂しくなったのか馬鹿鶴、と心が踊った。

 それでも、焦りは正しく鬼李を急がせた。
 山神が鬼李に助けを求めてやって来た時、鬼李は故郷で再び国を治めており多忙だった。小さな国の皇帝は、国の奴隷と等しかった。己の時間など、一切とれぬ状況だったが、反対する臣下を力でねじ伏せ出国した。パリの前衛芸術家の個人展示場を客として訪れ、そこで地獄をみた。立場さえ無ければ、関係者と過去の来場者全てを皆殺しにしたかもしれない。鬼李は入口に立った時点で、両足から力が抜け、その場に膝をついた。
 入口には、三匹の悪魔に食われるように犯されている鶴の巨大絵があった。鶴と共に連れて来られた他の美しい妖怪の絵も、数多く飾られて居たが、作品数で言うと、鶴の絵が七割、そのうちの半数が無残な陵辱絵だった。
 例えば、人外の姿の悪魔と性交させ、嫌がっている様子を描いてみたり。物理的に入らない大きさの一物を差し込み、気絶させた様子を描いてみたり。興奮剤を打ち込んだ状態で、感覚器に激しい刺激を与え、快楽で身悶えている様を描いてみたり。その殆どが連続絵で、鶴がどんな顔で苦しんだのか、怯えたのか、逆上したのか、どの場面で快楽に支配され、痙攣し恍惚としたのかがわかる。
 中でも、真っ青な顔色と涙やよだれ、鼻水までが精巧に描かれた気絶絵は迫力があり、数人が足を止めていた。
 前衛というだけあり、展示会には様々な工夫があり、絵の他にも、色とりどりの毒々しい玩具が、それを秘部に挿入され、悶えている鶴の絵の前にぶら下がっており、実物を触って想像を膨らませられるような仕掛けなども施されていた。
 その中には、口に取り付ける猿轡のようなものがあり、触った瞬間に、鶴に口付けた時の舌の滑らかな感触や、唇の柔らかさが蘇った。
 可愛らしく照れたり、時には期限が悪くて嫌がったり、鬼李を相手にする時の鶴の正常な姿が思い出された。それと、目の前に描かれている鶴の、性拷問によってボロボロにされた、無残な姿との差を実感すると、涙が止まらなくなった。

 展示会では最後に、来場者が参加出来る、新しい絵の創作をするイベントがあった。
 両手足を鎖につながれ、体中にオイルを塗られた見世物としての鶴が、虚ろな目で展示場の中心、円台の上で幼子のようにぺたりと座り込み、ライトを浴びている。何か悪夢のような、現実とは違う出来事のように思えて、鬼李はその場に立ち尽くした。
 鶴は鬼李の目の前で、乳首を弄られたり、性器をしごかれたりして射精し、腿を掴まれて股を開かされると、にゅるりと秘部で細い棒状の玩具を受け入れた。鶴の秘部を棒状の玩具がちゅくんちゅくんと出入りし始めると、鶴は殆ど吐息のような声で鳴いた。
 鬼李は何度も、このままここで、ありったけの力を使い、暴れようか考えた。鶴を含め、この場の生命を全て消し潰し、体から全ての怨霊を吐き出して消えてしまおうか、迷った。
「っぁ」
 鶴の秘部に、今度は太い玩具が宛てがわれている。
「っ、ん、……ぅ、イッ……! ァァァ!」
 玩具の挿入に合わせ、鶴の嬌声が響くと、観衆が拍手をした。
「はぁ、ぁー……!ぁ、あッ、あッ」
 玩具の動きに合わせ、鶴が喘ぐ。こそこそと手洗いに走る者が現れ、じりじりと前に出る者が目立った。ふいに、円台がすーっと下がりだし、係の男が鶴を肩に乗せるような形で抱いた。
 係の男の前に、観衆が列を作る。始めは一人ずつ、玩具を動かしていたが、誰かが横入りで手を出したのと同時に、我も我もと複数の手が玩具に伸びた。力加減も、動く速さも不定期に体内を暴れる玩具に、鶴は腰をビクビクと震わせて鳴かされ、何度もかぶりを振った。
 下げられた円台が、今度は中心に男性器の張子が付いた馬模型がセットされ上がって来た。
 最初に鶴を抱きとめた男が、今度は馬模型の上に、鶴を被せた。鶴は太い玩具が抜かれた瞬間、ふとすっきりした顔をして、己が置かれた状況を認識した。これから張子の付いた馬の上に乗せられる事を理解した瞬間、ひっと短い悲鳴を上げ身を捩る。そんな鶴を、観衆が協力して、張子の上に乗せた。ずぶん、と張子を呑み込まされて、鶴の腰が痙攣する。
「ふ……ぁッ? あぁあ?!」
 鶴は力の入らない嬌声を上げて達し、ぽかんと口を空けた。
「や、……んぁ、ぁ、う、ぁ」
 与えられる快楽の大きさに、頭が付いて行かず、寝言を零すように喘いで、宙を眺めている鶴を、馬模型は容赦なく上下に揺すった。
「んんぐ、っふ、うぅ?! ぁッ」
 鶴は目を細め、腰から腿を、電流を流されたようにビクビクさせた。
「っぁ、あ、……っぁ、……ああ、あ」
 がくん、がくんと身を揺すり、粗相をするように達する鶴を、観衆達は興奮して眺めている。鶴の顔は涙と汗で蕩け、どろどろだ。
「鶴」
 やっと鶴の傍まできた。近くで眺めると、あまりにその姿はモノに近く、えげつなく卑猥だった。
「鶴……っ、降りておいで」
 鶴の腕を掴む。 
 鶴の顔が鬼李を向いた。
 鶴の脇に腕を通して、鶴を馬の上から降ろすと、観衆が何をするんだと大声を上げた。しかし鬼李の地位を知る観衆達に、鬼李の邪魔をする勇気はなかった。
 鶴を円台に乗せると、鶴は意識があるのかないのか、とろりとした目で、鬼李を見つめた。
「鶴」
 顔が強張って痛い。刺すように冷たい目をしてしまっている気がする。鶴が自分の顔を見て、何を感じるのかを想像する余裕がなく、責めるような顔で、また鶴を呼んだ。
「……、鶴……っ」
 鶴の目が鬼李をとらえ、数秒、瞳に光が戻った。
「鬼李……」
 掠れて小さな、息のような音で名を呼ばれた。
「どうしたの? 何があったの? 鶴?」
「鬼李」
 鶴はまた鬼李の名を呼ぶと、嬉しそうに笑った。ぽろぽろと涙をこぼし、鬼李に腕を伸ばす、身を近づけてやると、ぎゅっとしがみつかれた。
「会いたかった、鬼李、……会いたかった、おまえに会いたかった」
 裏返ったり、掠れたりする声で、素直に再会の喜びを表明する鶴に、鬼李は寒気がした。鶴の声には、幻聴のような遠さがあり、嫌な予感がしたのだ。
「李帝! 動かないでください!!」
 芸術家の声がして、全身に鳥肌が立った。腕の中にあった鶴の熱がなくなり、引き剥がされた鶴の顎を大量の血が流れていた。鶴は舌を噛んだらしかった。芸術家は慣れたように止血を行い、良くあるんです、と笑って弁明した。鶴に関しては、この時が始めての自殺騒動だったらしいが、攫って来たモデルに舌を噛まれる事は日常茶飯事だという。そんな男の手に鶴が堕ちてしまった事が信じられなかったし、防げなかった自分も信じられなかった。
 
 鬼李は二度、自分の帝国を持っており、日本の歴史に合わせると、元寇の頃と第二次世界大戦の頃。一つ目の国は道楽で作ったが、二つ目の国は故郷のために作った。悪魔と共生出来るような環境を故郷の妖怪たちに与えたかった。

 肌寒いその国は、山の上に構えた城を中心に、山岳地域に広がっており、大金を掛けて作った飛び穴のおかげで良く栄えていた。
 戦時中の他国に比べれば豊かで、その分、外敵に狙われやすく、絶対的な力を持つ帝の存在が、まだまだ欠かせない。
「鶴」
 数日ぶりに顔を合わせた鶴は、鬼李の部屋の隅に座り込んでいた。何かの書類を抱え、じっと鬼李を見上げている。部屋の中央や、窓辺にある椅子には目もくれず、床に直接座る鶴に胸が痛む。きっと何か、精神的な理由があるのだろう。しかし、その原因を探ってやる事が、今の鬼李には出来ない。
「山神を帰してしまって良かったの?連れてこようか?」
 回復に向けて、鶴を世話しているのは山神だ。本当は鬼李が、鶴の世話をつきっきりでしてやりたい。しかし今、国を捨てて鶴のもとに走ったら鶴は鬼李を許してくれないだろう。
「鶴?」
 優しい声で呼びかけて膝をつき、傍に寄ると、鶴はふわりと笑った。それから、そっと手にしていた書類を渡して来た。
 それは鬼李の国に住まう者達の戸籍をまとめたものだった。
 人口の変化が激しい国の動きを、いちいち追えずに居た鬼李としては非常にありがたい数字だが、これをどうして鶴が持っているのか。
「どうしたの? これ? 誰が……?」
 言い掛けて、はっとした鬼李の顔を鶴は楽しそうに眺めた。鶴は情報のプロだ。恐らく、山神に手を貸して貰いながら、苦労して作り上げたのだろう。満足げな鶴の顔に、喜びと同時に痛ましさを覚える。どうして、こんなに前向きに、生きようとするのだろう。
「ここから出れたの?」
 恐らく、中に居て指示をするようなやり方で集めたのだろうが、聞いてみる。鶴は急に顔を曇らせ、鬼李の腕を掴んだ。芸術家のアトリエ兼展示会場から、逃げ出そうとする度、酷い目に合わされた鶴は、屋内から出る事に恐怖を覚えてしまっている。この鶴の病状を、少しでも治せたら良い。
「外に出られるようになる事が回復の一歩だからね、誰も叱らないから、散歩だけでもすると良いよ、戸籍調査、ありがとう」
 そろそろ時間だ。
 立ち上がろうとする鬼李の腕を、鶴がまた掴んだ。
「ん?」
 もう少し良いだろう、今日の鶴は元気だ。何も言わない鶴の横に腰を降ろし、鬼李の腕を掴む鶴の手に、手を添えて鶴の声を待つ。
「牛鬼は?」
「あぁ、出掛けてるよ、地中海」
「寂しいな?」
「まぁ……」
 寂しい事は寂しいが、まるで鬼李と牛鬼が恋人同士かのように、気を遣う鶴の心の方が寂しい。鬼李は鶴のために、随分働いて居ると思うのだが、欠片も伝わっていない。
「もし溜まってたら、……俺みたいなので良ければ、相手する、おまえに、恩返しがしたい」
 一日でも早く、回復してくれるのが恩返しだと言いたいが、回復を強制するのは良くない事だと知っている。だから返す言葉を考える。
「病人が何言ってるの。……俺は大丈夫だよ。牛鬼ばかりが相手ってわけでもないし、鶴が心配する必要はないから」
 余り良い返事にならなかったな、と反省すると、鶴は下を向いた。
「おまえに世話を受けっぱなしなのが、癪なんだよ」
「ふーん?」
 癪、という言葉に少し嫌な気持ちになる。どうして鶴は、俺に甘えてくれないのだろう。赤鬼が好きだからだろうか。
「俺は、おまえの、役に立ちたい」
 顔を上げて鬼李を見つめ、熱っぽく語る鶴の頬を撫でる。随分、痩せている。今の鶴の、憔悴によって醸されるしっとりした色香が、ふいに視覚を襲って来た。すっと形よくまとまった鼻や、キラキラと光を含んだ黒目がちのつり目、小さくふわりと膨らんだ赤い唇に思わず指を当てた。そこから、気合を入れて指を離す。
「今の鶴とは、する気になれない」
「……」
「赤鬼の事が好きなんでしょ?」
 突き放すように言うと、鶴は少し考えてから、頷いた。
「でも、赤鬼は鶴の事なんて、どうでも良かったんだね」
 言いながら、腹が立つ。赤鬼は鶴を犠牲に生き延びておいて、鶴の行き先を欠片も案じなかった。鶴を誑かしておいて、守らなかった。
「駄目だよ、頼る妖怪は選ばないと、……俺ぐらい強ければこうして色々と、面倒見てあげられるけどさ」
 自立心が強い鶴が、落ち込むような言葉を選び、投げかける。鶴は少し青ざめて、宙を睨んだ。
「俺は別に、赤ノ旦那に、面倒を見て欲しかったわけじゃねぇ」
 鬼李が居ない間に、赤鬼に鞍替えした鶴の事を、鬼李はどうしても許せなかった。鬼李も牛鬼に手を出したけれど、本気ではなかった。鶴の場合は、本気で赤鬼に靡いた。それが許せない。
「利用されて捨てられて、馬鹿じゃないの」
 意地悪を言うと、するりと、腕に置かれていた鶴の手が落ちた。
「何をしたとか、して貰ったとか、……どうでも良いんだ。俺は鶴種だからな、してやる事が喜びなんだよ」
 ああ、わけがわからない。わからないのに、胸が熱い。
 早く国をどうにかして、鶴の傍に寄り添わなければ。
 
 鶴をこわいと思う気持ちが、底をついてやっと持ち上がって来た。こわい鶴から逃げる事は無意味なのだ。逃げたらその分、こわさが増してしまう。

 この先は、どんな事があっても、傍を離れないと誓った。


2016/7/15

『踊る赤鬼』(尽くし系強面×恋多き紳士)

 忘年会が近い。出し物をどうしようかという悩みが発生する時期である。昔はこうしたイベントごとは、先に立ってまとめていた青鬼だが、ここ数年、部長職についてからはマネージャーに指示を出すだけですべてが終わるので完全に油断していた。
「手抜きか」
 新しいマネージャーの野平が提案して来たのは、とあるPV作成である。人間界の大手ネット広告会社が傑作をネット配信してからというもの、後に続く団体が絶えない、アイドルグループのPVパロである。これを、『怪PR社』でもやろうというのだ。
 部長室で、凝ったパワーポイントの企画動画を見ながら、青鬼は唸った。こんな、猿真似の案など断固認めるわけにはいかない。第一、ダンスなど。
 運動神経は悪くない青鬼なのだが、舞踊の類は心底苦手なのである。
「俺は、自分がダンスが苦手だから反対しているわけじゃないぞ、他社の猿真似案などで満足するおまえの気概を嘆いているんだ」
「うんうん、言うと思った、あのね、続き見てくださいよ」
 部長室には、野平の他に牛鬼と飛頭が居る。忘年会実行委員に任命された三名である。
「この動画の最後に、おまけっていうのを付けるんです、これは人間界の人気動画サイトなどで流行っている動画娯楽テクニックなんですが、本編の後にメイキングとか裏話とか、……おまけをつけるんです。このおまけが結構、受けてる動画が多い、例はこの二作品」
 企画動画にスルリと、PV数やランキングの表示で凄さを誇張した動画作品が現れた。本編のコメント表示とおまけのコメント表示比較。それからおまけの優秀な動画が、いかに噂を呼び、PV数を伸ばしているかなどの立証データが現れた。呆気に取られている青鬼に、野平はキリリとして、ぐっと身を乗り出した。
「忘年会での目玉はこっちです! このダンス動画を撮った後に、メイキング映像でミニドラマを撮ります。おふざけでサスペンス風になって行き、愛憎劇が繰り広げられて、最終的に赤鬼本部長が殺されます。もちろんホントにじゃないですよ、ミニドラマの中で、です」
「ほう……」
「この犯人探しを、忘年会の席で皆さんがするんです。席替えをして、色々な聞き込みをして、全員自分の動機やアリバイ、自分の立場から知り得た情報だけは持っていますが、犯人が誰かは知りません。より多くの人と話をして、あのダンス撮影をした時に、誰がどの日時で、どんな面子で練習したか、何を目撃したかを情報交換するんです。それで、犯人を探して貰う。賞金は十万円です。ちなみに赤鬼部長が答えを知ってて、わかった人は赤鬼部長にお酌をしに行って伝えます」
「複雑そうだが……」
「ええ、でも盛り上がると思いますよ! このネタばらしは後でなので、皆さんにはミニドラマの台詞と役割と、ダンスを覚えて貰うだけ、犯人探しで賞金が出る事は伏せておきます」
「当日、盛り上がりそうだな」
「はい」
「……」
 面白そう。と思わず感じてしまった。その瞬間野平と目が合った。
「結構、時間と体力が要りそうだが」
「いつもの事じゃないですか」
 野平が何でもない事のように言い、牛鬼がええ、と同意する。飛頭が、無理はしませんから、と続けるので、青鬼はうっかり、首を縦にしたのだった。
「この、おまけのミニドラマの脚本は?」
「葉場さんが最近仕事でお世話になった駆け出しの脚本家が居るんですが、彼に頼みました。短いお話なんで二万円の謝礼で良いそうで……」
「随分安く引き受けてくれるんだな」
「駆け出しだからですかね、社内には色々な分野に顔の利く者がいるので宣伝にもなると、ご本人が挙手されました」
 葉場は第一営業部の映像広告担当者である。目は確かなので、きっと面白い話を書く脚本家だろう。
 頼もしい野平と、その背後に見渡せる、営業部のフロアを眺めて青鬼は楽しい気分になった。なかなかの企画である。情報を集めなければならないから、普段話す機会のない他部署の人間とも口を利くだろうし、肝心のミニドラマも、期待できそうな出来が想定される。
「映像の編集は?」
「技術の映編チームの皆さんがやってくださいます」
「丸投げにだけはするなよ」
「大丈夫です、スケジュールはもう組ませて貰ったので」
「監督は?」
「これも、葉場さんの伝手で駆け出しの映画監督に。こちらには八万円と交通費をお支払いします。あと、監修を鶴さんにお願いしました」
「鶴?」
「あの人、元凄腕の岡っ引きでしょ、プロの目から見て、ヒントをどう散りばめるかをチェックして貰わないと」
 パワーポイントの最後に来て、青鬼は思わず笑みが浮かんだ。犯人が見つからなかった場合、賞金は忘年会実行委員並びに協力者で山分けになっている。鶴を実行委員側に引っ張るのは、懸命な判断である。
「矢助とヤマネははどうするんだ、この二人も元岡っ引きだろう」
「彼らには倫理協力して貰います、映像と情報が全て揃ったら、ちゃんと犯人がわかるかどうか。彼らには逆に、忘年会会場の参加者が犯人を見つけられたら報奨が出ます」
「よく作りこんでる」
 文句なしだ。口のなかでそう呟き、青鬼は企画を後押しした。

 午後十時。『怪PR社』の総合案内フロアは広い。外が夜の闇で暗いため、窓は室内を鏡のように映している。受付の人間は帰宅し、併設されたカフェも閉店した。総合フロアには今、赤鬼と青鬼の二人しかいない。大きな窓と広い空間が使い放題である。窓際のソファを少しどかして、二人は忘年会用のダンスを練習していた。
「だから、青いノ、腕の回転が多い」
 赤鬼の怒鳴り声に、青鬼はびくりと身を揺すった。ダンス撮影はいよいよ三日後。おまけにあたるミニドラマの撮影が終わり、後は本編のダンス撮影。映るのは四十秒程だというのに、素材のために三分もダンスシーンが必要だという。
 赤鬼と共に、就業後の時間をダンス練習に当てて今日で二日目。たった三分のダンスが、どうして出来ないのかと己を責め、くっと声を漏らせば、赤鬼が鼻歌交じりにキレの良いダンスを横で披露し始めた。
「何故、おまえが出来て私が出来ないんだ?」
「知るか。簡単だろうに、こんな舞踊。ほら、♪ふふーふーん、と」
 腰ごと身を動かして、滑らかに回ってからすぐに次の振りを入れる。小気味の良いスナップで手振りのピストル打ちをする赤鬼はプロのダンサーのようである。
 しかし、がたいの良い大の男が、女アイドルの可愛らしい振り付けのダンスをキレ良く踊る光景に、青鬼は少し引いた。
「気持ち悪いぞ、赤いノ」
「そんな事を言ってるから踊れねぇんだよ」
 思えば赤鬼は、舞踊の類にやたらと良い感性を持っている。見た目によらず、芸達者なのである。
流鏑馬なら負けぬのだが」
「懐かしいな、流鏑馬! 俺もあれは得意だったが、おまえには叶わなかった」
 素直に流鏑馬の実力を褒められて照れる。そして、苦手分野を前に得意分野の話をした大人気ない自分に気づき恥じ入った。同時に、赤鬼の懐の深さに感じ入ってしまう。
 青鬼は赤鬼から「こいつにはどうあっても叶わない」と思われたい気持ちが常にあった。だから赤鬼に少しでも青鬼の勝っている部分を突きつけたいのだ。それが今は青鬼の弱味を晒け出しているような状態で、悔しくて地団駄を踏みそうだ。
「青いノ、もう一度初めからやるぞ、良く俺の動きを見ながら頑張れ」
「ああ」
 赤鬼の踊るのに合わせて、自分も懸命に腕と足を動かす。ちらりと窓に映る自分を見た。ぎこちなく、腕と足のリズムがバラバラでみっともない。
 赤鬼のように、生き生きとかっこよく踊れると良いのに、と思ってから、踊る赤鬼をかっこいいなどと思っていた自分に気がついて慌てる。そして、この終わりの見えないダンス練習がほとほと嫌になった。必要最低限、形だけ覚えられれば良いのではないか。
「なぁ赤いノ、思ったのだが、私達のシーンの中心はあの人形鶴だろう、彼は踊りがうまいし、あの顔だから……動画を見る者の9割は彼に目を奪われて、周りをそんなに見ないのでは?」
「あー、まぁ、そりゃぁな、……しかし、一人目立って下手なのは避けてぇだろ」
「め……、目立つ程下手か?!」
 思わず、冷や汗を掻いて聞いたら、赤鬼は視線をそらした。
 目立つ程下手なのか。俺は。
 絶望的な顔で赤鬼を見ると、赤鬼は片眉を上げた。
「まぁ、俺がついてる」
 心強いが、悔しい台詞だ。青鬼はうぅ、と唸った。こんな事で恩を売られるなんてという不愉快と、赤鬼は何て良い奴だろう、今後は少し優しくしようという感謝の気持ちが交じり心が微妙な温度になった。
「あと三日で身につくだろうか?」
「わからん」
 明日はこの総合フロアは、別のグループの練習に予約されている。
 よって、自宅に広い風呂場と鏡のある脱衣所が備わっている鶴の元を訪れなければならない。鶴は第一営業部の部長で、人形のように美しい顔だちをしている。男色の気がある青鬼は、そうした意味で鶴をそれなりに意識しているのだ。鶴の前で不格好な踊りを披露するのは避けたい。
「取り敢えず、今日のうちに少しでも仕上げておきたい、赤鬼、頼む、もう一度見本を見せてくれ」
 真剣な目を向けると、赤鬼は楽しげに笑った。
 何事にも真面目に取り組んでしまうのは性格だった。その日は深夜まで練習し、何とか、大きく外れた動きなどを封印する事が出来た。

 撮影二日前、鶴の家を午後九時に訪れた。その豪邸の前では鶴と同居人の小野森鬼李が赤鬼と青鬼を待ち構えていた。正確には、この小野森が鶴の家の持ち主である。家が豪邸過ぎて、税が払えぬ状態になっていた鶴を、資産家の小野森が助けたという格好だ。資産家の癖に、鶴の尻を追い掛けて会社勤めをしている小野森を、青鬼はあまり良い目で見ていなかった。
「青鬼、ダンス苦手って意外だね」
 一応、青鬼は小野森より上の役職だが、小野森はタメ口だ。
「誰しも一つや二つ、不得手があろう」
「はは、強がり」
「小野森、おまえ、青いノは一応第二の部長だ、敬語を使え」
 赤鬼が注意したが、小野森はふっと笑ったきりだ。
「気にするな赤いノ、年功序列という奴だ」
 小野森は赤鬼や青鬼、鶴より遥かに長い年月を生きている。
「大将、こいつクビにするなら今だぜ」
「俺の権限じゃかなわん」
 赤鬼と鶴が、阿吽の呼吸で憎まれ口を叩くと、小野森は少しむっとしたようだった。
「ちょっと、そこ、仲良くしないで」
 しかし、むっとするポイントがズレている。

 大鏡のある脱衣所に行くと、明るい照明に目が眩んだ。鏡の前に備わった台にノートパソコンを置き、音楽を掛ける。
 本番の撮影に合わせ、鶴を正面に、赤鬼と青鬼がサイドを固める構図だ。小野森は微笑しながら、一人悠々と腕を組んでその様子を眺めている。
「小野森、おまえは踊らないのか?」
「踊るけど、俺は第一のメンバーで踊るし、もう振りは覚えてるから」
 脱衣所に前奏が流れ出したタイミングで問うと、涼しい声で余裕発言をされた。
「青ノ旦那、昨日は頑張ったんだってな」
 赤鬼から、いかに青鬼が下手なのかを聞いていたのかもしれない、鶴は笑いを噛み殺していた。
 鏡台の中央にデジカメを仕掛けて、チェック体制も万全である。
 ダンスシーンが始まり、青鬼はあっという間に間違えた。
「はいストップー!」
 小野森が声を上げ、え、もうか?! と鶴が驚きの声を上げた。
「青鬼には可哀相だけど、赤鬼と鶴が上手すぎて実力差が酷い」
 小野森の冷静な報告に、青鬼はずんと背中に石を背負ったような気持ちになった。
「つまり、私は、やっと普通レベルになったというのに、今度は上手いレベルまで持って行かないと悪目立ちするという事だな」
「可哀相な青鬼」
 小野森は肩をすくめ、首を横に振った。最近まで日本の外に居た小野森は、西洋の仕草が随分染みてしまっている。
「まず見て、これ」
 デジカメの映像を、ノートパソコンで再生すると、赤鬼と鶴のキレのある動きの数秒後に動く青鬼の姿が浮き彫りになった。
「何という事だ・・・」
 確かにこれでは悪目立ちしてしまう。
「下手じゃないんだけど、鈍いっていうのかな、普通に踊れてるのに下手に見える」
「うーん……」
 小野森の指摘は尤もで、赤鬼が困ったように頭の後ろを掻き、鶴が腕組みをした。ああ、わかったよ、私がもう少し動きにキレを付ければいいのだろう、この完璧主義者どもが。
「青いノ、出来るか?」
「無理しねぇでいいんだぜ、青ノ旦那」
 赤鬼の問いと、鶴の気遣いに、青鬼はむすっとした。そして、1時間くれ、と呟いた。小野森が、お、えらいね、と高みからのコメントをし、赤鬼が付き合うぞ、と暖かい声を掛けてくれた。鶴が、それじゃぁ俺は向こうで待ってる、と身を引いてくれた事に救われた。

 こうして営業上層部三人組のダンスシーンだけ、やたらとグレードの高いPVが完成した。
 宴会場はホテルのホールである。『怪PR社』は百人規模の会社だが、忘年会出席者は関係者を含めて百五十人程。ダンスPVの時点で異様な盛り上がりを見せており、皆一応に練習で苦労したからこそ、PVが終わっても、もう一回見たいだのダウンロードしたいだのの要望が飛んだ。
 そして、野平の計画したおまけ映像の、コメディタッチのサスペンスに笑いが起こり、このサスペンスを使った探偵イベントに会場が湧いたのは言うまでもない。

 PV鑑賞と探偵ゲームという目玉イベントが無事終了し、歓談の時間に入ったタイミング。青鬼はホールの外に設置された喫煙スペースに居た。野平を始めとする実行委員達を、どうやって労おうか考えながら、五日間に渡る練習に付き合ってくれた赤鬼の姿を思い出していた。昔から芸能に長けた男だったが、最近の芸能にも順応するとは。
 がたいの良い赤鬼は、踊りがハッキリしていて格好良かった。
「惚れ直した、とでも言うべきか」
 呟くと、ホールから赤鬼がやって来るのが見えた。いつもは撫で付けて後ろに流しているハッキリした黒髪が、今日はラフに額や頬、耳に掛かっていて雰囲気が違う。思わず顔を背け、頬の火照りを手の甲で冷やす。
 今更、意識する相手でもないだろうに。
 喫煙スペースに入って来た赤鬼は、青鬼にすぐに話しかけなかった。少し離れた場所に留まり、黙っている。赤鬼の煙草が出す煙の匂いだけが、赤鬼の存在を主張する。何か話し掛けて来いと願ったが、赤鬼は静かなままだ。音のない空間が五分程続いた。長く感じたが、過ぎるとあっという間だった。赤鬼が出て行き、青鬼は焦った。赤鬼が声を掛けてくるのを待って二本目に火をつけたのに。
 気がついたら火をつけたばかりの煙草を捨て、赤鬼の後を追っていた。
 ホールに戻ってみたが、姿が見えず、赤鬼の行動パターンをよく知る鶴に声を掛けると、非常階段だろうと言われ、行ってみる。
「青いノ」
 居た。
「どうしてこんなところに」
 驚いた顔の赤鬼に、それはこっちの台詞だ、と応じながら近づいた。赤鬼は非常階段の端に座り込み、壁に寄りかかっていた。
「酔いを醒ましてる」
 そこに居た理由を簡単に述べて、赤鬼は目を瞑った。隣に座ると、眠そうな笑い声が、赤鬼から漏れた。
「その場所は危険だ、俺に襲われるぞ」
「覚悟の上だ、大事無い」
 ぐっと赤鬼の腕が肩を掴み、ごつい指が顎を掴んだ。それから唇を舐められて、少しの隙間から口内に舌を差し込まれる。荒々しいのは、酔っているせいだろう。
 舌と舌が絡まり、熱が溶け合い、赤鬼の匂いが鼻腔を満たすと夢心地になって思わず赤鬼の首に腕を回す。繋がりが止むと、欲を持った赤鬼の目にひたと捉えられ、青鬼はふっと笑った。
「どうした、そんながっついて」
 さすがにこの場所で最後までは出来ないという心から詰ると、赤鬼もはっとして、表情を緩めた。
 それから黙って数分、見つめて来たかと思うと、赤鬼は少し躊躇いがちに、青鬼の頭を撫でた。
「おまえが、久しぶりに一生懸命になっていて、その姿が何だか愛らしくてな、気持ちが盛り上がったというか、惚れ直したというか……、小さな事だが、苦手なものから逃げずに取り組めて、偉かった」
 褒められて、ここまで嬉しく感じたのは久しぶりだ。
 青鬼はきゅっと口を結び、頬の肉の裏を噛むと俯いた。反応の仕方が、わからなかった。
「出来たら、今日はうちに一緒に帰ってくれ」
 ああ、と掠れ声で返事をすると、赤鬼はまた青鬼の顎を掴んで、繋がりを求めて来た。耳にまだあの、アイドル曲の音楽が残っている。静かな非常階段に、響くような錯覚を覚えた。



2013/12/22 

『李帝の寵愛、鶴の忠誠』(大妖怪の皇帝×ボロキレ妖精)

 生まれ育った武蔵を離れ、駿河丹波、須磨を転々と暮らしてみた。出雲や長門を見聞し、筑前に着いた頃、鶴はその男に出会った。

 倭国の端にある土臭い港町に、まるで天上人のような一行が降りて居た。人間世界では、数万の兵を乗せた艦船が、まだ海の上で睨みを聞かせていたが、妖怪世界の侵略者達は既に港に降りていた。真っ先に闘いに身を投じ、撃たれた瀕死の鬼達がゴロゴロと転がっている恐ろしい港場で、小妖怪どもは息を顰め、事の成り行きを見守っていた。
 鶴はやっと百を過ぎ、安定したばかりの精霊で、もしあの天上人達に見つかったら、俺の命は無いだろうと直感していた。出来うる限り見聞を広め、逞しく育てという親の言葉に従って、各地を旅し、何か変わった事があればそれを知ろうと足を運び、ここまで生きてみたが、まさかこのような危険な現場に飛び込む事になろうとは。鶴を生んだ二匹の女鶴は、己の命を犠牲に鶴を育てた節があり、二匹のためにも何とか生き延びたい。しかし、背骨にビシビシと響いて来る嫌な予感は、紛れもない死の息遣いである。
 船着場のある入江は広く、港としていくつもの店が賑わっていたが、入江を囲う崖の上には青々とした緑が広がっていた。
 ただならぬ妖気に森の獣達は逃げていたが、精霊や小妖怪どもは、動けばそこに居ると気づかれ殺されるとわかっていた。
 現に数時間前、重圧に耐え切れず飛び去ろうとした飛頭蛮が、じゅわりと消し潰された。
 額から汗が落ち、ぽたんと手に沁みた。いつまでここでこうして、じっとしていればいいのだろう。
 天上人達は綺麗な珍しい柄の着物を来て、華やかに上陸したと思えば、襲いかかって来た鬼達を次次と瀕死にしてその場に茶会のような陣を作った。小高くなった見晴らしの良い場所である。そこに台のようなものを置いて腰を掛けると、物を食い酒を飲んで休み始めてしまった。
 天上人達が来るというから、慌てて茂みに隠れた鶴達小物の緊張など、まるで意に介さず、悠々としている。

 上陸から五時間経ち、鶴はじっとしている事に疲れて来た。足が震え、今にもガサリと音を立てて倒れそうである。木立の隙間から見える天上人達は、何か書物を手に話し合いを始めていた。
 その時、砂浜の端で、体の半分を消し飛ばされて転がっていた鬼が目を覚まし、首だけを飛ばして攻撃を仕掛けた。狙うは天上人の中心に居る、下がり目で整った顔だちの、背の高い指導者である。危ない、と思わず考えた鶴は発想が可笑しかった。鬼の首がこの指導者を倒せば、鶴達小物も解放されるのに。

 しかし鶴の思いが通じたのか否か、鬼の首はクシャッと音を立てて消された。妖力の差というのは、これ程まで闘いを一方的にするのかと鶴は目を瞑った。せめてこの指導者ではなく、別の物を狙えば、痛恨の一撃ぐらいは加えられたはずである。
 闘いの前にまず名乗りを上げるという不利な決まりごとにさえ従わなければ、鬼たちは侵略者達に決して負けていなかった。現に港には鬼の他、撃退された侵略者の負傷者も多く溢れていた。先の攻防では、空中で鬼に消し潰された侵略者達の姿もよく見えた。
 大陸の妖怪と、倭の妖怪との間にそこまで実力差はない。むしろ、数の少ない鬼種のみで、あの大量の大陸妖怪を良く蹴散らしたと思う。鬼種以外の倭の妖怪が、腰抜けだった事が非常に悔やまれる。
 勇ましい鬼種達の陰で、こそこそと一斉に茂みに隠れた倭の小さな妖怪達の嫌な側面を見せつけられ、鶴は少し気分を害していた。精霊である自分が歯痒く感じた程だ。
 どうして自分は妖怪でなく、精霊なのかとも思った。精霊は殺生を禁じられている。

 え゛あ゛ぁあぁと奇声を上げ、若い鬼種がまたあの指導者に向かい突撃した。首の鬼が消されたのを見ていなかったのか。
 距離が縮まるその前に、じゅっと消し潰される。大陸から来た大量の妖怪兵は恐ろしいが、この威圧感と絶望感はすべて、あの指導者が存在しているせいだ、と鶴は見抜いていた。
 倭国を旅して回り、沢山の強力な妖怪に出会ったが、あんな圧倒的な力を持つ妖怪は初めてである。興味深いが、近づくには恐怖が優り、動けない。自分がせめてもう少し、特の高い精霊か神か強い妖怪であればと悔しく思ったが、生まれ持った力量には従わなければならない。
 分不相応な望みを果たすには、時と場合を踏まえて、仕掛けなければ。
 そう堅く決意した矢先である、足が滑りガサガサと音がした。青くなった鶴の横には、もっと青くなった小妖怪が居た。同じような場所に隠れていた仲間と思っていたが、この小妖怪はわかっていた。鶴が音を立てた、この方向に妖圧が来る事を。そこら一帯を、じゅっとやられる。
 小妖怪は鶴を蹴って、己の助かる道を開いた。崖から、ぽんと身が放られて、宙に無防備に浮いた感触。死という概念と予感と、凡ゆる感覚が生の終わりを知らせて来た。

 鶴は生涯の最後に、育ってきた故郷の仲間に見捨てられ、あの指導者ならびに恐ろしい天上人達の目の前に落ちた。叫び声は出なかった。必死に崖を登ろうと、背から羽を出して羽ばたき、その羽をバサリと切り落とされると今度は走って森の方へ逃げた。前を塞ぐ大陸妖怪を蹴り飛ばし、突き飛ばし、道を開こうとするが後ろから押さえつけられる。
 転ばされた拍子に砂を掴んで投げつけ、腕をつかもうとして来た者を引っかき、後ろから羽交い絞めにしてきた者に噛み付いた。
 バキンと音がして、足の骨を折られた事がわかると、さすがに悲鳴が上がった。息が出来ず、目の前がチカチカする。痛みで涙と鼻水が出て、砂がそれにひっついて顔がベタベタになった。隠れている間にたっぷりと体中に掻いた汗にも砂がついて、とにかく気持ち悪い。
 あの指導者の元へと、ずるずる引きずられている間、折れた足から痛みの強い波が押し寄せて来て、小便が漏れそうになった。ふっ、ふっ、ふっ、と息が上がる、痛みに悲鳴を上げたいが、泣き叫んであの指導者の前に晒されるのは余りに惨めだと思い耐えた。
 ごしごしと顔を擦られ、大陸妖怪達の何か、からかうような声色がして、胸元を開かれた状態で固定され、顔を上げるとあの指導者が居た。下がり目には静かな知性があり、整った顔には慈愛がうかがえた。その見目の麗しさに懐かしさを覚えたのは、幼い鶴を取り巻いていた両親や育ての親たちが精霊で、美しい顔をしていたためだろう。
 指導者の周囲に居る、武人らしいごつい男達が、にやにやとこちらを見ているので、足の痛みにまた呻きそうになるのを目を瞑り歯を食いしばって耐えた。武人達の前で、ぎゃぁぎゃぁと喚く醜い弱者になるのは嫌だった。殺生は禁じられているが、武芸には興味があり、鶴は武人に憧れていた。骨のある奴だと思われたいなどと、処刑される前であるにも関わらず思っていた。今殺された奴、泣き叫ばなかったなと一言でも良いから評されたい。
 指導者は鶴を汚いものを見るような目で眺めており、それでいて決して目を逸らさない。何か嫌な風に殺そうと考えているのかもしれない。少し我慢強そうだから、より苦しいやり方で死なせて回りへの牽制に使う見世物にしようか、などと。思われていたら。
 自分の考えにぞっとしている鶴の身から、男達が服を剥ぎ取って行く。冬の薄着に、鶴はぶるりと身を震わせた。痛みのあまり、漏れそうになっている小便が、さらに漏れそうで、腿を震わせる。
 男の手が股間を弄り始め、鶴はぎょっとした。ごりごりと尿意を促そうとする。腰を捻り耐えたが足の骨の折れた場所をぐっと押され、急に来た痛みにシャァ、と下が濡れた。誇りを保とうとしていた心が折れて、ぼろぼろと涙が出た。尊厳を傷つけられ、これから命も奪われる。弱者の運命の残酷すぎる現実に、鶴は嗚咽を上げた。
 冷たい海風が、涙と鼻水を冷やす。武人たちの薄ら笑いが耳に届き、殺すなら早く殺して欲しいと思った。その数秒後、鶴の股間を弄って来て、骨の折れた場所を押したその男の首が、ごん、と目の前に落ちた。
 息の止まる思いでそれを見ると、首の中のごちゃごちゃした管や肉がわかって、吐き気がして目の前が真っ暗になった。
 頬を叩かれ、一瞬気を失った事がわかり、疲れきった頭が投げやりな心を作った。もう、どうにでもなれ。
 夕暮れで、海の向こうが赤く染まっており、入江の端の森が色づいて美しい。この景色を明日も明後日も見たいという欲求が起こり、涙が溢れた。
 指導者の男が、横に立つ背の低い男に何か囁いた。
「おまえ、名は」
 侵略者の陣営で、初めて聞いた倭語に、鶴は目をぱちぱちした。
「ツル」
 掠れて、聞き取るのも難しい音量だったが、背の低い男は指導者に耳打ちした。指導者は頷くと、何か言った。指導者の口から、ツルという単語が出た事に、妙な高揚を覚えた。俺の名を呼んだ。絶望していた心に、熱が入ったような、くらくらした感じがして鶴は呆けた。
「李帝はそなたに詫びている、そなたの誇りを汚した部下を恥じている、良く悲鳴を上げなかった、痛みに強い果敢な男だと」
 翻訳しているためか、言葉の順番に違和感を覚えたが、それより指導者が鶴の思いを汲み取り、評価してくれた事に、喜びを通り越して奇跡が起きたような、信じられない気持ちになる。
 夢を見ているのだろうか。無力な、しがない一精霊が鬼をも消し飛ばす大陸の大妖怪に名を呼ばれ、褒められた。
 指導者の優しげで厚みのある声が、鶴の耳をまた擽った。何を言っているのかはわからないが、指導者が鶴の名を口にする瞬間、ツルという音が指導者の口から出る度、体中に大量に汗を掻く。
「李帝はそなたの望みを一つ、叶えると言っている」
 翻訳家の言葉に、鶴ははっとした。
 もしかすると、命を見逃して貰えるかもしれない。取り乱して泣き叫び、命乞いをするのは醜いが、きちんと分を弁えて命乞いをするなら、それは立派な生きようとする者の手段として捉えて貰えるだろう。
「李帝様」
 指導者の名を呼んで、膝と額を地に擦り付けた。
「私は、百を少し過ぎたばかりの若輩でございます。分を弁えず御前に現れた無礼を許して頂けるのなら、恥じ入ってお願い申し上げます。……どうかこの命、見逃してくださいませ。苦労して私を育てた両親に免じて、切にお願い申し上げます」
 自分の漏らした小便の匂う中、額を土につけたまま、ぎゅっと目を瞑り判決を待った。李帝の声がまた耳に響く。また、ツルと鶴の名を口にしてくれた。それが嬉しくて、このぎりぎりの状態で妙に甘い気持ちになる。
 許されても許されなくても、李帝とはこれで最後である。死別となるか、見逃されて離別となるか。
 ふいに、李帝の傍にもう少し居る術はないかという考えが浮かんだ。恐れ多い事だと打ち消しても、李帝が普段はどんな生活をしていて、どのように生きているのかが気になった。そして、どんな者達と関わり、どんな顔をして、どんな考えを持って日々過ごしているのか。それが知りたくて知りたくて辛くなった。
 こんな短い間に、自分は李帝を好いたのだと気がついた。
 悲鳴をあげまいとして頑張っていた自分の心を見抜いてくれた時と同様に、この胸に沸き起こった好意を、また、李帝が見抜いてくれはしないかと願う。李帝の傍で生きてみたい。
 ツル、と李帝の声がした。
 尿の匂いを打ち消す、香の良い薫りが体を包んだ。上品で、位の高い美しい木が、そこに居るような錯覚に陥り、鶴は頬を赤くした。頭に、冷たくて少しだけ重い手の感触がして、顔を上げるとすぐ傍に李帝の顔があった。驚いてビクッと身を震わせると、その冷たくて少し重い手が、今度は頬を触った。分厚い男の手の、優しい肌触りに、とろりと眠気を誘われる。安心と一緒に体の奥が疼くような、妙な気持ちにさせられる触り方だ。
「ツル」
 李帝がまた、鶴のためだけに口を開いた。
 甘い顔が、穏やかに鶴を見つめている。初めて目にしたものを、その存在を確かめるために触って、その名を呼んでみる赤子のよう。李帝は鶴を触って、呼ぶと、満足したように鶴から身を離して行ってしまった。

 その後、李帝の望みで船に招かれた事を知ったのは、なかなか身の拘束が解けず、やはり殺されるのかと落ち込んでいた真夜中の事だった。翻訳家がやって来て、鶴の折れた足を治してくれながら鶴の今後の身の振り方を教えてくれた。
 体を洗い、大陸の服を着た鶴は、李帝の身辺の世話をする見た目の綺麗な男達の群れの中に放られた。男達はプライドが高く、鶴とは口を利かなかったが、鶴は男達の仕事を、見よう見真似で覚える事が出来たので、特に問題はなかった。
 李帝は特に鶴を気にかけるという風はなく、たまに通り掛かりに「ツル」とからかうように名を呼んでくれるぐらいだった。
 船での生活については順風満帆。鶴はこれまでの旅路で船酔いを克服していたので、船の上で具合を悪くして、床に伏せってしまった他の綺麗な男達を尻目に、せっせと李帝の世話に回れた。他の者より多く李帝の傍にいられることに浮かれ、始終にこにこしていたら、あの翻訳家に李帝への想いを見破られ、からかわれる始末だった。

 ある月の大きな日、李帝の酌係として、夜通し傍に侍る機会を得た。招かれていた武人達が去ると、李帝は鶴にも酒を勧めた。李帝と並ぶと、李帝の香の匂いが漂って来て、腰や尻の肉がむずむずした。命乞いをしたあの日のように、体のどこかに触れて欲しい。頭でも頬でも、どこでも良いから李帝に触って欲しくなった。その鶴の思いを察してくれたのか、李帝が不意に鶴の顎に指を触れた。それから額を撫で、長くしていた前髪を耳に掛ける。李帝の手は、今度は熱くて軽かった。
 触れる力が弱く、もっとぎゅっと、感触のわかるように触って欲しくて、鶴は李帝をじっと見つめた。
 この機会にしか、言えないだろうと息を吸い、翻訳家に頼んで教えてもらった大陸語で、「貴方を尊敬しています」と伝えてみると、李帝は少し困った顔をして、鶴に触れるのをやめた。

 李帝に酌をした夜の思い出は、その後数日、鶴を幸せにした。欲を言えばもっと触って欲しかったし、何か語りかけて欲しかった。しかしそれには、鶴は大陸語を知らなすぎる。どうにかして大陸語を学ぼうと、共に働く者達の会話に耳を傾け、自分に何か指示をする人間の表情から感情や意図を察する訓練をした。
 暇があれば翻訳家を引き止め、あれこれと学んだ事を確認し、書き言葉も誰かの仕事を手伝う事で、お礼として教えて貰った。
 しかしそこで、問題として浮上して来た事。
 船に乗っている人間が全て、同じ言葉で喋っているわけではない事がわかった。そして、鶴が必死で言葉を覚えようとしている事が、船の上では有名になっており、語族同士で、同じ言語の者を増やそうという気持ちから諍いが起こり始めていた。鶴がどこの語族の言葉を覚えるかで、喧嘩が勃発するようになり、李帝がそれに余り良い顔をしていないという噂が耳に入った。
 鶴は少し頭を冷やし、手当たり次第に覚える方法を諦め、大陸についてから李帝の膝下で、李帝の操る言葉のみを覚えようと的を絞る事に決めた。そして、それまでは武芸を極めようと、今度は日々与えられる飯や褒美に貰えた酒などを貯め込み、それを献上する事で、武人に稽古を付けて貰うようになった。
 一方で、李帝は少し倭語を覚えたらしく鶴を呼ぶときに「可愛いツル」と呼ぶようになった。この呼び方を初めて聞いた時、鶴は驚いて持っていたグラスを割ってしまい、李帝に声を上げて笑われた。恥ずかしさと嬉しさで、泣きそうになったが、その気持ちを何と表現して良いのかわからず、じっと黙っていた。

「李帝は?」
 鶴の問いはいつも、飽きもせず李帝の有無の確認である。翻訳家は苦笑して、私にはわからない、と応じた。
 大陸に着いてから数ヶ月、鶴は李帝の姿を見る事が出来なくなった。李帝の身は忙しく、鶴の身は不安定だった。あの翻訳家が、自宅に鶴を庇い入れてくれ、何とか宿の目処が立ったものの、翻訳家の妻は鶴に良い顔をしなかった。早くこの家を出なければという気持ちと、このまま李帝とは会えない暮らしの中に、身を投じるのかもしれないという気持ちが、鶴を焦らせた。
 翻訳家はそもそも城の者ではなく、倭との商いに関わっているだけの商人だった。だから鶴が、李帝は今どうしているのかとしつこく聞いて来ても答えようがなく、私の出かけ先は城ではない、とついに苛立って鶴に弁明した。
 そんなに李帝が気になるなら、私の家を出て城に入ると良い。
 翻訳家の放ったその言葉に、鶴は一言も言い返せなかった。
 今の鶴に、城に入る術などない。翻訳家はそれをわかっていて、少し落ち着けという意味で、鶴にそんな台詞を吐いた。翻訳家のその心をわからない鶴ではない。鶴はその日からしゅんとして、ただし手伝いにはきちんと精を出し暮らし始め、どこか地に足のついたような顔つきになった。自分は、李帝のような大妖怪の元に居られる身分ではなかった。そんな諦めの心に、頭を支配され始めた頃、翻訳家の家の前に李帝の豪奢な使いの輿が止まった。
 鶴は名指しされ、この輿に載せられると、さすがに数ヶ月ともに暮らして、少しは仲良くもなれた翻訳家の妻に心配されながら、城に連れて行かれた。
 李帝は鶴を数ヶ月放置していた事について、全くその意識がなかったらしく、昨日会った者に接するような調子で、鶴をじっと見つめるとまた「可愛いツル」と呼んだ。昨日姿が見えぬ事に気が付いて、慌てて探し出したのだという。
 鶴は顔を赤くしたり、青くしたりしながら李帝の真意を探ったが、李帝は単純に忙しく、鶴の事を忘れていたらしかった。
 その、余りに軽い立場が悔しく、小さな己の存在が腹立たしかった。恐らく、李帝は自分の側近、頼りにしている部下達の事は、数日でも姿を消したら訝るだろう。常に傍に置いている妻と思しき女が、数時間でも隠れたら、慌てて探すだろう。
 李帝にとって、なくてはならない存在になりたい。
 そのために、まず言葉を覚えた。これには翻訳家の元でやっていた勉強と合わせると丸半年掛かった。その代わり、何種かが混じっていた大陸語を数種類、覚える事が出来た。読み書きも出来れば、自分で詩を作れるようにまでなったので、鶴は李帝に向けて、時々詩を送った。
 返事は十篇に一度戻って来た。
 その後に李帝の周辺を探った。妻だと思っていた女は姉で、この姉が李帝以上の色好みであり、李帝の世話を焼く美男や美女の半分に手を付けていた。
 世話役から伝令役に身を移した鶴は、手を付けられずに済んだが、鶴とともに船に乗っていた数人は、この姉の手に落ち、姉を信奉している者が数居た。
 一方の李帝にも、もちろん色好みはあったが、それ以上に勢力の拡大を重視しているようで、人間世界の闘いに乗じ、妖怪世界で勢力を伸ばす事に注力しているらしかった。そのために各地から猛者を集めており、その猛者達を近衛と呼び、何かと言うとこの近衛達を傍に侍らせ、可愛がっているという。
 李帝が今、一番必要としてるのは、戦争の役に立つ人間だ。
 自分の身体条件を鑑みて、一番頼りになるような武人にはなれない事をわかっていた鶴は、情報戦略に長けた者になりたいと考えた。鶴は精霊故に、動物や草木の言う事がわかる。大陸語を覚えた今なら、それらの言う事を上手く使って、李帝に有益な情報を有む事が出来るだろう。伝令役の中で地位を確立し、情報役になるまでに一年掛かった。

 思えば船の中で、週に何度も李帝の傍に行けた日々が一番幸せで、恵まれていた。鶴は情報の運び屋として、李帝に有利な情報を届けたが、これは李帝に直接伝えられず、李帝の参謀に伝えるのが習わしだった。李帝は時々、鶴を見つけると「可愛いツル」と声を掛けてくれたが、時間のない李帝は数分と鶴の傍に留まってはくれなかった。
 李帝は武功を立てた武人の事しか見ておらず、気に入りはいつも武人の中から登場する。李帝の脇を固める近衛の武人たちは皆、鶴には逆立ちしても出来ないような武功を挙げており、こそこそと武芸を嗜んでいる鶴に、間接的に惨めな思いをさせた。
 城の中の、李帝の部屋に続く道に、伝令で近づくたび、決してその奥に居る李帝の元に行けない、近くて遠いその距離に、鶴はいつも涙が出そうになった。鶴が報告をしている最中、武人に囲まれた李帝が通る事もあり、その度に李帝は「可愛いツル」と声を掛けてくれたが、それだけである。まるで飼い慣らした珍しい鳥や獣を呼ぶように、李帝は鶴に声を掛ける。決してそこから先、信頼して傍に置くというところまで、鶴を近づけてくれない。

 三年が経ち、やっと鶴の武芸が花開き始めた。
 鶴は知略を駆使して、最小限の武力で武功を挙げる術を覚えた。今や情報役の顔である。情報役として、各地を回りながら不穏な種を潰す。この働きは李帝の心に響いた。
 鶴がただの情報役であった頃、決して入れて貰えなかった李帝の部屋に、他の武人に交じり、入室を許された時、鶴は胸が始終高鳴って苦しかった。見栄えの良い体格の、他の武人たちに比べ、鶴は貧相で頼りなかったが、力比べの席を設けられても、少しの力で大きな者を倒す術を持つ鶴は、決して負けっぱなしではなかった。天賦の才を持つ者には勝てずとも、腕力だけで物を言って来た中堅の近衛には勝利した。
 李帝はもう鶴を「可愛いツル」と呼ばず、信頼の目で、「ツルの意見が聞きたい」と言った。鶴は李帝のために働くのが嬉しく、武功を挙げるのが楽しく、自分が精霊である事が歯痒くなる程、血生臭い場所で生きる事に慣れた。敵を仕留める時は、部下にやらせなければならないのが面倒で、何度も自分で手を下そうとしたが、精霊の能力である動植物の言葉を失うのが怖かった。動植物の言葉を頼る以外にも、情報を得る方法を知っていた鶴だが、鶴にしかないこの能力を、李帝が褒めてくれるので、鶴は己の手が血で汚れないよう、常に気を配って生きていた。
 
 李帝の部屋に、出入りが許されるようになってから五年、一人だけ李帝の部屋に呼ばれた。李帝の部屋は広く、いくつもに分かれていて、そのうちの客間として普段使われている場所、柔らかい綿袋や絹が何十にもひかれた部屋に通された。
 李帝は寛いだ装いで、少し胸元の緩い姿だった。性的な匂いがして、照れている鶴に李帝は笑って手招きをした。
「俺の発音は可笑しくない?」
 耳を疑ったのは、李帝の口から出た言葉が、倭語であったため。
「どうして、その、発音は綺麗ですが」
 鶴は目を白黒させて、李帝を見つめた。
「ツルとツルの国の言葉で話がしたいと思った、・・・ツルが先にこちらの言葉を覚えてしまったから、悔しかったよ」
 李帝の声は優しく、気品に溢れていた。
 倭語に久しぶりに触れ、その懐かしさも胸に染みて、ぽろぽろと涙がこぼれた。
「もったいない事です」
 やっと絞り出せた言葉を、李帝はするりと受け流した。李帝の、今度はぬるく滑る手が鶴の長く伸ばした髪を梳いた。
「可愛いツル、ツルは頑張り屋だね、ここまで力を付けるなんて思わなかった。……俺はもう千年以上生きているけれど、こんなに胸を熱くさせられたのは、ツルが初めての相手なんだよ。だからこうして倭語を学んで、ツルの言葉でツルが好きだと伝えようと思った」
 顎を持ち上げられ、目の前に笑う李帝が居て、鶴は自分がもしかすると、李帝に性の対象として見られているのではないかと思った。その考えは浮かんでからぎゅぅっと鶴の胸を締め付け、その事が何か悪い事のような気持ちが起こった。もし、李帝に夜伽を求められたら、その時自分は李帝を満足させられるのだろうか。誰とも通じた事のない、初心者中の初心者である鶴の性技に、李帝は幻滅してしまうのでは。
 その恐怖が鶴の全身から力を抜き、鶴の身をくたりと床に溶けさせた。
「ツル?」
 心配する声で呼ばれ、鶴はまた泣いた。せっかく李帝から好意を得たのに、万全の準備のない自分が憎かった。
「まだ早いです、私にはまだ早い、……申し訳ありません」
「可愛いツル、俺が怖いの?」
 李帝の声は優しかった。頭を撫でられて、こくりと頷く。
「そう、それなら、怖くなくなったら教えてね」
 あっさりと、李帝は鶴の拒絶を受け入れて、鶴の前から姿を消した。おやすみ、と穏やかに言い捨てて、寝室に消えた李帝に、鶴は申し訳ないやらほっとしたやらで、何とも言えない感情を向けたまま放心してしまった。
 世話役の一人に追い立てられて、李帝の部屋から帰ってからも、放心は終わらなかった。
 李帝は鶴のために倭語を覚え、鶴を好きだという。
 朝の城は騒がしく白い陽光が降り注いで眩しい。鶴がこの先、己を犯した妖怪を手に掛けて動植物の言葉を失うまで、ずっと鶴の話し相手をしていた鳥がやって来て、放心した鶴の顔を可笑しいと笑った。この鳥は後々、鶴が言葉を失ってからも、鶴のために良く働いたが、この時程鶴の役に立った時はなかっただろう。
 鶴、李帝が部屋から見てるよ、変な顔はやめな。
 鶴は一瞬で顔を直し、李帝の部屋を振り返った。鶴を含む近衛が眠る寝所は、李帝の部屋の傍に揃っている。李帝が鶴に笑いかけるのが見えた。鶴は自分が、李帝の特別である事を意識した。
 次に学ぶ事は、性技である。これを覚えれば、鶴は他の武人たちよりずっと、李帝に気に入って貰えるだろう。



2016/07/13